今週の1枚(06.05.29)
ESSAY 261/「何でも出来る人」と「何も出来ない人」
写真は、つい先日撮って来たGlebe。「秋深し」って感じです。これだけ見てると都会から離れた静かな村みたいだけど、実は都心まで直線距離で1−2キロしか離れていません。
以前誰かの講演を聞いているときに印象に残る言葉がありました。「世の中には3種類に人間がいる」と。
その3種類の人間とは何かというと、@何でも出来る人間、A一つのことだけ出来る人間、B何にも出来ない人間の3種だそうです。おお、なんて大胆で乱暴な分類だと聞いたときは思いましたが、同時に、ああ、これは言えてるかも知れないなとも思いました。それから時がたち、今思うに、益々「そうだよなあ」って感を深くしています。
思うのですが、@とBは程度の問題であり、実は同質。Aだけが異質なのでしょう。Aは天才的な画家とか音楽家など、その分野に関しては超絶的な能力を持っているけど、それ以外の日常的なことは殆ど出来ない。靴紐もろくすっぽ結べないし、お米の研ぎ方も知らないし、社交辞令一つ言えない。これは一種の能力的奇形であり、天才的な偏りなのでしょう。あまりにも持って生まれた才能が巨大すぎるので、他のことまで気がまわらないという。でも、こういう人は非常にマレです。僕らが日常的に接する99%以上の人、そして僕ら自身も基本的には@とBなのでしょう。
ではなぜ@とBという、超有能VS超無能という極端な差が生じるのか?
まず極端な差のように見えつつも、こんなのは基準をどこに置くかだけの話だと思います。非常に高いところに基準レベルを設定すれば、この世の殆どの人は超無能になり、一握りの人間だけが超有能になる。例えば、料理を作らせれば3つ星クラスの腕前で、絵を描かせたら歴史に残る名画を描きあげ、株式取引をやらせたら1年足らずの間に巨万の富を築き上げる、、、なんて基準でやれば、この世の殆どの人間は超無能でしょう。それこそレオナルド・ダ・ヴィンチから見てたら「お前ら、何やらせてもダメだな」ってことになる。逆にレベルを低く設定すれば、多くの人は「何でも出来る」ってことになります。料理はインスタントラーメンが作れればOK、スポーツは1キロ徒歩で歩けたらOK、英語はサンキューが言えたら合格、仕事は一ヶ月同じバイトが続いたらOK、、、なんて基準でやれば、誰でも超有能になれる。「すごーい、何でも出来るんだ!」ってことになります。褒められてもうれしくないだろうけど。
まあ、そこまで極端なレベル設定ではなく、ごくごく標準的な設定。といっても曖昧ですけど、同年代の日本人のうち上位10%なり5%なりをもって「よく出来る」ということにしましょう。何をやらせても上位10%以内には入る程度の人。これだったらいますよね。逆に、最下位10%なり5%を基準として、何をやらせてもドベ10%になってしまう人、これもいますよね。
でも、実際には、多くの人は上位10%以下〜下位10%以上という中間地帯にいるでしょう。だから、3類型ではなく、第4類型として「なんでもそこそこ出来て、そこそこ出来ない人」という類型があるのでしょう。しかし、この立論のミソは、その大多数の類型をぶっ潰して、強引に「出来る」「出来ない」に分けてしまうところにあります。そしてこの一見乱暴な立論が、実は現実社会では結構意味をもってきます。この講演は、ビジネス系の講演だったのですが、現実のビジネスシーンでは「仕事が出来るかどうか」という二分論でいくでしょう。「あいつは出来る、切れる」といわれるか、「ま、ナミだな」と凡百評価されちゃうかどうか。レベルが上になればなるほどそうでしょう。「なんでもソコソコ」なんてのは、「そこそこじゃ意味ないんだよ」とひっくるめてダメ評価されてしまいます。
サラリーマン世界の評価だけではなく、商売の世界でも同じでしょう。消費者が最終的に選ぶのは一軒だけです。普通同じモノを複数の店で買ったりはしない。寿司が食べたいと思えば、寿司屋のハシゴなんかしませんから、選ばれるのは一軒だけ。病気になっても通う病院はひとつ(セカンドオピニオンは別ですけど)。学校だって最終的に通うのは一つだけ。だから、商売をする側からしたら、消費者から最後の一つに選ばれなかったらゼロに等しい。一回戦で負けても決勝戦でも負けても、優勝しなければ同じことってことです。結婚だって最終的に結婚するのは一人だけだし、恋愛でも本気度が高ければ一人(まあ同率首位って事態もあるけど)。
「一つだけが選ばれ、あとは全部ダメ」という、考えてみれば非常に厳しい基準で、実は世の中廻っているのでしょう。全てにわたってソコソコだったらダメなわけです。一回に一つしか選べないという局面が実は世の中に多く、それゆえ選ばれる側としてはその一つに入らないとならない。そして仮に複数選択の機会があっても、やっぱり同じところを選ぶのではないでしょうか。あなたが病気になったとして、近所の病院の全ての経営を考慮して、この間はA病院だったから、こんどはB病院を儲けさせてあげようとは思わないでしょう。子供の学校だって、長男はA小学校に行かせ、平等のために次男はB小学校、三男はC小学校なんて、小学校側の経営を斟酌して行動しないでしょう。いつだって選ぶのは、その局面局面でのベストです。その昔の学校の授業のように、「今日は17日だから、出席番号17番。田村、この問題やってみろ」なんて決め方はしない。
だから、ビジネスシーンをはじめ、この世の多くの局面では、「出来る」というのはベストとして選ばれることを意味するのでしょう。「なんでも出来る人」というのは、何をやらせてもある程度傑出した能力と成果を上げられる人材って意味だと思います。
なお、ここで注釈。そんなにベストだけが生き残るんだったら、この世の寿司屋は一軒だけ、病院も学校もひとつだけ、あとは全部倒産してないとおかしいじゃないか?と思われる方もいるかもしれません。なぜそうなっていないのか?というと、それは実際に完璧な選択なんか出来ないからです。日本全国全ての寿司屋を食べ比べた人なんかいるわけないし、全ての病院に入院した人もいない。また、地理的な条件もあるし、値段の問題や実現可能性の問題もある。手持ちの情報だって各人バラバラ。要するに消費者は不完全な選択をしているわけです。結婚相手だって、地球上の全ての異性が対象になってるわけではないです。理屈の上ではそうだし、「星の数ほど女はいる」とか文学的に表現されたりするけど、実際問題「半径3メートル以内にたまたまいた人」って制約がかかってたりするでしょう。それに「完璧な選択って何よ?」って問題もあります。好みや嗜好という千差万別の変数Xが入ってきますから、Aさんにとっては甲がベストでも、Bさんにとっては乙がベストということになる。ゆえに、常に常に消費者はベストを追い求めるけど、その前提条件が全然違うし、選考基準も人によってまちまちだってことです。だから、多くの寿司屋さんや病院が今日も経営してられるわけです。ただ、そのように限られた条件、不完全な情報、偏った基準でありながらも、それでもその条件でベストに入らなかったら、あなたのお店は選ばれないってことです。a winner takes all (ただ一人勝者のみが全てを得る)という原則はなおも健在であると。
というわけで常に「ベスト」のみが選ばれるといいながらも、「ベスト」というのは実は星の数ほどあるので、あなたにも僕にもそのチャンスは十分にあるということです。良かったですね(^_^)。でも、これだけは言えるんですよ。「なんでもソコソコ」だったらやっぱり厳しいだろうと。周囲にあわせて中庸を選ぶのは、日本人の誇るべきバランス感覚でもありますし、孔子的には美徳ですらありますが、こと能力面に関して言えば、周囲と同じじゃダメです。なにか傑出しなければ、いくら選択範囲が狭かろうが、やっぱり選ばれませんからね。少なくとも、周囲と同じになろうとか、周囲と同じだから安心とか思ったらダメだと思います。
さて、何でも出来る人は、どうして何でも出来るのだろう?という謎があります。人間の能力なんか、大学受験の理系文系のようにナチュラルに偏りがあって当たり前であり、そんなに「何でも出来る」なんて現象なんかそうそう滅多に起きないんじゃないか。また、「何にも出来ない」なんてことも、あんまり起こらないような気がします。でも、現実は、勉強は出来るわ、スポーツも出来るわ、趣味も多彩だわ、性格も陽気で快活だわってスーパーマンみたいな奴がいます。それも日本全国レベルでみたら掃いて捨てるほどいます。
「おお、天は二物を与えているではないか、ズルイ!」ってお嘆きに貴兄に朗報。多分そーゆーことじゃないんだと思います。勿論、持って生まれた才能というのもあると思いますよ。だけど、そんな才能よりも、単純にコツというか、スキルの問題なのでしょう。だから、やり方一つではあなただってスーパーマンみたいになれるでしょう。偶然そういう「何でも出来る」ルートに乗っかってしまった人とか、たまたま「出来るコツ」みたいなものを体得してしまったラッキーな人がいるだけなのでしょう。
先天的になにか物理的なハンディキャップを背負ってない限り、上位10%程度だったら誰でもいけます。十人に一人くらいでしょ?ちょろいですよ。本当に「才能」とかそういう領域になるのは、上位0.001%とかそんなレベルですよ。100万人に一人の才能だって、日本では126人いる計算になるんですからね。十人に一人レベルだったら、才能なんか関係ないです。単純にやるか/やらないかですよ。100人に一人、1000人に一人レベルでも同じことだと思います。
「やる」って何をやるのか?といえば、「ほんのちょっと本気度を高める」ってことです。
どんな技芸、どんなスキルでも、人間の学習曲線というのは似たり寄ったりでしょう。つまり、初心者からある程度のところまではグングン伸びるけど、一定限度のところで伸びが止まる。いわゆる「壁」です。スキルというのはどうも数学的・等差級数的になだらかに伸びるものではなく、階段式になっているようで、定期的に壁がくるみたいです。壁がきたら、やることは一つ。一定量の試行錯誤です。部屋に迷い込んだ小鳥や虫が、開いてる窓を見つけるまで、あっちにぶつかったり、こっちにぶつかったりするようなジタバタ運動です。ジタバタトライアルを一定量続けていると、あとは確率の問題で、解決に達する。解決に達すれば、「あ、なるほど!」と分かる。壁を越えられる。これは初めて自転車に乗れたときのことを思い出してもらえれば分かりやすいでしょう。何度やってもコケる。もう泣きそうになるんだけど、それでもやってるとある瞬間にふっと乗れるんですよね。バランスの取り方を身体が発見するのです。それまではジタバタ試行錯誤をしなければなりません。
というわけで、壁がきたらジタバタ・トライアルを根性据えてやる。やってりゃそのうち何とかなります。少なくとも第一や第二の壁くらいだったら、それほど難易度高くないから、それでいける。壁を一つ越えたら、もうそれだけで十人に一人ですよ。次にやってくるもう一つの壁を越えたら100人に一人レベルになれる。
第一の壁くらいだったら、実労働量なんか知れてますよ。モノによりますけど、早ければ1日、長くかかっても数ヶ月でしょう。その期間、「ああ、もうヤダ。もうやめた!」と言わずに黙々とジタバタし続けられるかどうか、です。そのためには本気でその物事に取り組むという心構えが必要であり、「本気度の高さ」が求められるわけです。「ほんのちょっと本気度を高める」というのはそういうことです。
「なんでも出来る人」というのは、この壁を超える原理を知ってる人です。過去に壁を乗り越えた体験を持っている。だからやり方を知っている。そして何よりも、壁を越えたときの喜び、世界が一気に広がる開放感を体験してます。また、ジタバタ苦しい思いをした肉体的精神的労力を投下資本だとしたら、壁を越えてから得られる利便性と実益、収益率リターンですが、物凄く巨大なものであるということも知っています。100円投下して1万円返ってくるくらい割のいい話だということも知っている。例えば、自転車だって、乗りこなすまで3日間泣きながら特訓したとしても、その後自転車が乗れるようになって得られるベネフィットは計り知れないでしょう?一生の間に自転車に乗ってる機会の全てを頑張って走ってると考えたら、どれだけ労力が節約されるか。自転車に乗れないが故にどれだけのチャンスを逸してしまうか。
それが分かってしまえば、やらないテはないですよね。だから、当ると幸い自分が直面した技芸全てについて、「ほんのちょっと本気度を高めて」たちまち習得してしまう。結果としてなんでも出来るようになる。また、出来る領域が広くなればなるほど、技術が上達するためのパターンのストックも増えてきます。同じスキル上昇といっても、「突如開眼型」とか「ジリジリ向上型」とか「三歩進んで二歩戻る式」とか、いろんなパターンがあることがわかり、まったく新たな挑戦をしても、「ははあ、これは○○系だな」とアタリがつく。これまでの実績によって絶対自分に出来るはずという確信があるから、伸びが停まっても迷わないし、精神的にもそんなに苦しくない。
ちなみに僕が思うに、もっともありふれた壁の越え方のパターンは、「誤魔化さないこと」でしょう。ギターでもピアノでも難しいフレーズ、早いフレーズって、誤魔化して弾くことが出来るのですよね。6連符で第4音だけ実はちゃんと弾けてないとか。でも勢いでバーっと弾いてしまえばわからない。誤魔化せる。そこを誤魔化さないで、まったく同じ音量、同じ間隔で弾けるように練習する。3連符だったら「タ・タ・タ」と弾くべきところを、「タタータ」「タータタ」にならない、一音だけ大きくなったりしない。英語の発音でも、thも歯で舌を噛んで発音しますが、ちゃんとそれで発音できるように立ち止まって繰り返し練習する。「儀式のように舌を噛む」かのような発音で自己満足しない。「やったことにしよう」「これでいいことにしよう」とは思わず、誤魔化さないようにすると結構早く壁を越えられるような気がします。
「一点突破の全面展開」と言いますが、一つ何事かのコツを体得したら、あとはその適用と応用という同種反復になります。だから、これまで「何もできなかった人」であっても、一点突破で、まるでオセロの黒がバタバタバタと一気に白に変わるように、「なんでも出来る人」になるのだと思います。
小学校の頃「オール5」のスーパーマン子供がいますが、よく考えてみれば、小学校レベルの授業内容なんて大人になったら誰でも出来るようなことばっかりでしょう。大人になったら、どんなアホでも「二桁の足し算」くらい出来るでしょう?漢字の書き取りくらいすぐに覚えるでしょう?仮にあなたが小学校の頃にオール1だったとしても、今の自分がそのクラスに編入すればオール5をとるくらい、それほど難しくは無いでしょう?要するに、健全に発育していけば出来るようなことばっかりです。小学校段階の成績の差なんてのは、要するに発育の差でしかないです。
ただ、恐いのはその成績によってセルフエスティーム、自己認識が決まってしまうことです。たまたま発育がよければ「俺はなんでも出来る人間だ」って思うだろうし、発育が遅ければ「俺は何もできないダメな人間だ」と思ってしまうでしょう。でも、それって嘘。全部幻想。単なる偶然。だけどこれが大きいんですよね。最初に「俺は出来る」と思ってしまった子供は、何についても「出来るはず」でやるからそれなりに順調に行く。また両親共に教師だったりして、「下手な成績は残せない」というプレッシャーがある子はやっぱりちょっと頑張るから成績もいいでしょう。要するにそういう自己暗示だけのことだと思いますよ。
なんでこんなに確信ありげに話すのかというと、僕自身そうだったからです。僕は逆パターンで、小学校1、2年生の頃担任の先生と折り合いが悪かったらしく(まあ、虫の好かない子供だったんでしょうねえ。分かるような気もしますねえ)、やたら目の敵にされ、成績もほとんどオール1レベルでした。もう何をやってもダメ。図工もダメ、体育もダメ、算数も国語もダメ。それを「本当にそうかあ?」で全部ひっくり返してきたのが、自分の10代〜20代だったと思います。絵は小学校の頃からマンガ描いてりして、先生には褒められないけど、友達には褒められて自信回復。体育は柔道部に入ってとりあえず黒帯までいって一応リベンジ。音楽はギター弾いてバンドやったりして、これも回復。最後に勉強で、25歳のときに司法試験に合格して自信奪回。法務省の中庭の合格発表に自分の名前が書かれているのを見て、「よし、リベンジ完了!」って思ったのを今でも覚えてます。その昔、カッコつけて、これらの経緯をレコンキスタとか「自己奪回の闘争」とか言ってましたけど(^_^)、まあそういうことです。
何が言いたいかっていうと、自己評価なんかアテにならんよってことです。この世には、何でも出来る人と何にも出来ない人がいると書きましたが、もっと正確に言いますと、この世には「何でも出来ると思ってる人」と「何にも出来ないと思ってる人」がいるだけなんだと思います。
もっともっと言えば、人は誰であれ何でも出来るように最初から作られているのですね。それに気づいてる人間と、まだ気づいていない人間がいるだけのことだと思います。”How to use 自分”を知ってるかどうかでしょ。
次に、「○○が苦手」「不得意」というジャンルがあります。「どうもメカは苦手で」「パソコンがダメ」「英語は苦手」「地図が読めない」「料理はちょっと」などなど、誰にでもそういう分野はあるでしょう。しかし、これも嘘、これも幻想だと思います。
単に苦手だと本人が思い込んでるだけでしょう。なにも別にその道の一流のプロになれって言ってるんじゃないんですよ。上位10%はおろか上位50%とか、90%に入れといってるだけです。このレベルだったら才能とか、特に向き不向きの問題じゃないです。もう完全にやるか/やらないか、だけの問題でしょう。
段々分かってきたのですが、「○○が苦手」って人は、大体においてその分野をナメてますよね。努力不足とかいう以前に、トライしようとすらしない。頭からダメだと決め込んでいる。その方が楽だからです。「苦手と言ってればイヤなことをしなくて済む」からそう宣言してるだけという。清水義範の小説におばあちゃんにビデオの留守録を依頼して説明しているうちに爆発してしまう爆笑物語がありますが、あれと同じ。「おばあちゃん、いい?8時になったら、このリモコンの赤いボタンをTVに向けておしてくれる?」「あたしゃ、そんな難しいこと出来ないよ」「出来るってば!このリモコンの赤いボタン、、、今からマジックで塗っておいてあげるから、このボタンね、ね?わかる?このボタンを」「ボタンって一杯あるじゃないか、そんなの分からないよ」「だから今マジックで塗ってるでしょ?見えるでしょ?このボタンね。これを8時になったら押すと」「いや、そんな難しいことはできないわ、わたしには」「なにが難しいのよ?ボタン押すだけだってば」「だからそれが難しいって、、」とまあ、こんな調子だったりするわけですが、これと同じでしょ、あなたの苦手意識は。
このおばあちゃんのように、頭から難しいと思って受け付けないのですね。もう見ようとも、触ろうともしない。苦手なもの、キライもの(上手に出来ないものは大体嫌いですけど)は、もう触るのもイヤ、考えるのもイヤ。あたかも指先でウンチに触るかのように、おずおずと手を伸ばして1ミリだけ触って「きゃっ」といって手をひっこめてしまう。人間心理からしたら、イヤなものには出来るだけ接触したくない、まともに考えたくもないってのは分かります。でも、どうして嫌いなの?っていえば、「下手だから」「わからないから」「難しいから」だったりします。そりゃやらなければ誰だって下手だし、わからないでしょうよ。分からないからイヤ→イヤだから触りたくない→触りたくないからいつまでたっても分からないまま→分からないから益々イヤ、、という悪循環。阿呆ちゃうかって、あなただって思うでしょう。そうなんですよ、人間なんか阿呆のカタマリなんでしょうね。僕もあなたもアホやねん。
メカにせよ、料理にせよ、英語にせよ、普通の人の普通のレベル程度だったら誰でもいけます。特になにか病気にかかって脳神経のどこかに致命的な障害を負ってるとかではない限り、どれもこれも人間が考えて、人間が使いやすいように工夫して、誰にでもわかるように説明書を作ってるものです。諦めて、ちょっと本腰入れて取り組めば、少なくともこのエッセイの日本語が読める程度の知能を持ってたら誰にだって出来るはずです。出来るように最初から作ってあるんだってば。
だから多くの苦手意識の対象は、本当のことを言えば、「苦手」とか「不得意」「向いてない」とか言うのもおこがましいわけで、そんなレベルにすら達していないのでしょう。お化け屋敷に入るのがイヤだとゴネてる子供のようなものです。いや、まだこの子供のほうが合理的に行動してるな。ちょっと比喩が思いつかないくらい、低レベルというか勝手な思い込みで、「わしゃ、好かん!やらん!」と宣言してるだけです。子供だったら「僕は今日から一切歯磨きはしない!」と宣言しても、親に「バカ言ってんじゃねーよ」とパシッとやられて終わりですが、大人の特権でワガママ言いたい放題。いつまでたっても電子メールのやり方がわからない人とかさ、両面コピーのやり方が分からない人とかさ、いるでしょ?多くの苦手は、苦手なんじゃないよ、やろうとしないだけ、苦痛がイヤなだけ、やらずに済むなら出来るだけ逃げ回っていたいと言ってるだけです。
女性の方で、方向音痴とか、地図を読むのが苦手という方がよく来ますが、ほぼ全員直りますよね。そりゃそうですよ。シェア探しとかやってて、頼りになるのは地図一枚しかないんですから。「わからない」といっても誰も助けてくれない。外国のどっかの町で、こっちは夜は暗いですから、暗がりの町で迷子になるだけです。そうなれば誰でも必死で地図を見ますし、必死で見れば、そして右と左の区別がつく程度の知能があれば誰だってわかる。高速で移動する車の中で、刻々と変わる複雑な道路を地図を逆さにみながら正確に指示せよとかそんなのじゃなくて、時速4キロの徒歩スピードで、しかも分からなくなったら幾らでも立ち止まっていればいいという状況だったら、誰にだってわかる。留守録ボタンみたいなものです。「やるしかない」という状況になったら誰でもやるし、出来る。「あ、出来ちゃった」ってことになる。もちろん勘違いして幾つも失敗するでしょうが、失敗は全部「無駄な苦労」という形で自分に跳ね返ってきますから、イヤでも学習します。
いずれにせよ、「何でも出来る人」にせよ、何も出来ない人にせよ、何かが苦手な人にせよ、どれもこれもぜーんぶ本人の思い込み一つだと思います。どうせ思い込むんだったら、いい風に思い込んだらいいでしょうって話です。
尚、最後にまた注釈。そんなに何かが出来るのがエライことなのか、能力があるのが素晴らしいことなのか?って疑問に思う人もおられるでしょうが、別にエライなんて一言もいってません。能力的な面と、その人間の価値は全然別問題でしょう。仮にあなたが何にもできなくたって、あなたの価値は1ミクロンも損なわれることはないです。これは甘ったるいヒューマニズムとか理想論で言ってるんじゃないですよ。3秒で立証してあげましょうか?この世で最も無能な人間は誰ですか?赤ちゃんでしょ。赤ちゃん、何にもできないもんね。地図も読めないし、料理もできないし、メカにも弱い。じゃあ、赤ちゃんはこの世でもっとも無価値な存在ですか?違うでしょ。むしろ、この世で最も価値ある存在だといってもいい。だから、能力云々とその人間の価値は関係ないっす。人間の価値の本質は「存在」でしょ。
だったら、なぜ長々と物事が出来るようになるマジックを書いているのか?そりゃ無能よりは有能であった方がいいですもん。沢山の技術を身に付け、豊富な知識を持ってるほうが、生き残る確率も高いだろうし、生計も得やすいでしょう。しかし、単純にそんな損得勘定以上に大事なものがあります。それは、無能だと(思っていると)、その人間の精神に悪影響を与えるリスクがあるからです。有能な人、成功した人をうらやむし、嫉妬するようになり、さらに嵩じて卑劣なテを使ったりもする。悪口に始まって、イタズラや苛め、愉快犯のようなことをするかもしれない。また、無能であるという現状を動かしがたいものだと思い込み、そこから全ての発想が始まり、性格形成がなされるから、日々楽しくないし、なんでも他人のせい、社会のせいにしようとしたりもする。これは、「俺は一生女にモテない」と思い込んでる男が、「じゃあその代わりに」とばかりに、ストーカーに走ったり、覗きをやってみたりするようなケースを考えてみたら分かるでしょう。本人にとっても不幸でもあるし、他人にとっても迷惑なんだわ。
このようにいじけた精神が生まれ、いじけた精神をもってる人間が社会のシステムで小権力を持ってしまったときに、その下にいる人間の悲劇が始まります。心の底で「どーせ、俺なんか」と思ってる人間が、あなたの教師になったり、上司になったりしたらイヤでしょ?ウサ晴らしに苛められたり、ネチネチと嫌味を言われたりしたら、学校も職場も地獄になるでしょ?ましてや、それが警官とか役人とかだったら、嫌がらせのネタには事欠きませんからね。
留守録のボタンが押せないくらいどってことないですけど、それが嵩じて精神まで歪曲され、汚れてしまったら、それは問題でしょう。また、どんなに小さくても何らかの権力を持ってる人間が無能であることは犯罪同様に罪深いと思います。エコヒイキが激しい教師、運転技術が未熟なドライバー、医療知識が乏しい医師、政策決定ができない政治家などなど。だから有能であれ、と思います。少なくとも、単なる思い込みの呪縛をハラリと解けば何とかなる程度のことであったら、呪縛は解いておいた方がいいよってことです。あなたのために、そしてあなたの周囲の人間のために。
文責:田村
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