今週の1枚(06.05.22)
ESSAY 260/「ダヴィンチ・コード」と男性原理
写真は、昼下がりのStanmore駅の風景。
たいへん遅ればせながら、最近、「ダヴィンチ・コード」を読みました。最近封切りされた映画を見たのではなく、本を読んだだけです。日本語訳版。
読後の感想ですが、面白かったか面白くなかったかといわれたら面白かったです。また、よく出来ているとも思います。なんか奥歯に物が挟まったような言い方になるのは、ここまで世界的に大人気になるほど傑出して良かったか?と問われると、よく分からないからです。この種の歴史の謎解きミステリーは「ダヴィンチ・コード」に限らず山ほど出版されてますし、大して話題になっていないけど秀逸な作品も沢山あります。そのどれをも凌駕して素晴らしいか?って言われると、「いやあ、別に、、」って気もするんですよね。
モヤモヤした言い方になってしまう理由の一つは、無学な僕には、どこからが著者のオリジナルな業績でどこまでが従来言われていたことなのかの区分が良く分からんからです。これを書いたのはダン・ブラウンという作家ですが、レオナルド・ダ・ヴィンチの宗教画の謎掛けであるとか、キリストの聖杯伝説とか、テンプル騎士団がどうのとかいうのは、別にダン・ブラウンがゼロから創造したわけではなく、世界的に有名な話だったりするわけですよね。でも、例えば「最後の晩餐」の絵の中央の人物が実は女性に見えるとか、これがキリストの妻のマグダラのマリアだとかいうのは、彼自身の着眼によるオリジナルな発想なのかもしれない。また誰もが知ってるような伝説諸説の結びつけ方が独創的なかも知れない。でも、どこまでがそうなのかが分からない。作品として評価するなら、作者がどれだけオリジナルで斬新な着眼と絵解きをしたかという観点でやるべきなのでしょうが、でも何処から何処までという「正味の部分」がよく分からないから、評価も曖昧モゴモゴになってしまうってことです。
日本史でも、この種の謎やロマンは多いです。超有名なのは邪馬台国が何処にあったか論ですが、他にも、源義経は奥州で殺されたのではなく、北海道に逃れ、やがて大陸にわたってジンギス・カンになったという義経伝説があります。本能寺の変を起こした明智光秀は実は秀吉に敗れたあとも生き延び、後日天海僧正になって徳川家康の知恵袋となったという話もあります。これらをベースにした作品も幾つかあったように記憶してますが、いずれにせよ義経伝説等の諸説はこれらの作者のオリジナルではないわけです。著名な義経伝説をベースにしつつ、あっと驚く新解釈やドラマを説得的に展開したかどうかでしょう。なんらオリジナリテイを付加できなければ、謎解きやミステリー度はゼロであり、下手をすればこれまでの諸説の解説本としての価値しかないです。
「ダヴィンチ・コード」が面白いのは、この解説本としての性格ではないかと思われます。僕は(おそらく多くの日本人もそうでしょうが)、著者のオリジナルでもなんでもない、知ってる人には常識レベルの有名な基礎知識すら知らないので、「へー、そんな団体あったのか」「ほお、そうだったのか」という、「知らなかった世界に誘ってくれる」という部分に知的好奇心を刺激されてしまうのですね。「キリスト教の謎解きロマンを手際よく紹介」って部分だけでも十分面白いわけです。それが作品として優秀かどうかとは関係なく、単なる解説本、レポート本だとしても、面白いという。
だいたい普通の日本人だったら、「オプス・デイ」なんてキリスト教団体があることだって知らないし、テンプル騎士団やら、シオン修道会なんて知らないでしょう。また、絵画と暗喩と謎解きも、一般論としては知っていても、具体的にどの絵がどうということはあまり知らない。ローマ帝国でコンスタンティヌス帝がキリスト教を国教にしたとかいうのも、世界史でやったような気がする程度であり、それがどういう意味なのかもピンとはきません。聖書の編纂過程とか、死海文書がどうしたとかいうのも、単語レベルで知ってるだけ。
はたまた、アナグラムなどの言葉を使った知的パズル、アトバシュというヘブライ語による暗号解読法の基礎、自然界を覆う不思議な数字である「黄金率」などが登場します。そうかと思うと、ルーブル美術館やウェストミンスター寺院など、フランスとイギリスの観光名所が、舞台としてディープにかかわってきます。またこの描写が魅力的なんですよね。ルーブル美術館の寄木造りの床とか、途方もない広さとか。行きたくなっちゃいます。
いずれにせよ、「なんとなくボンヤリ知ってるような気がする」程度の淡い淡い知識、遠い世界が、いきなり眼前に鮮烈な形でバーンと登場してきますし、これでもかというくらいディープに掘り下げられていきます。知識が増える、世界が広がる、よく見えるようになる、そういう知的興奮といいますか、知的な喜びみたいなものは十分味わえると思います。
半面、こういった知識や知的興味はおいておいて、純粋に小説としての出来はどうか?と言われると、決して下手ではないけども、傑出してはいないと思います。アメリカ的といいますか、ハリウッド的というか、劇画チックというか、登場人物も多くないし、筋立てもシンプル。なんせ、全編通じて1〜2日くらいの時間的経過しかない。殺人事件があって、カーチェイスがあってという、スピーディで分かりやすい展開。読んでて、「これは映画にしやすいわ」と思いましたね。背景知識は膨大に複雑なくせに、展開そのものはいたってシンプルだし、アクションもそこそこ織り込まれているし、お約束のどんでん返しもあるし、何よりもどのシーンをとっても「絵になりやすい」です。そりゃルーブル美術館とか、古式ゆかしい教会とか、名画がオンパレードに出てきますから、絵になりやすいです。映画にしなければ嘘ってなもんでしょう。
それだけに重厚感に欠けるというか、多少薄っぺらな感じはしますね。まあ、謎解きがメインであり、人生の深い苦悩を描くのが目的ではないので、それはそれでいいのでしょうが、人物造形なんかも結構ステレオタイプというか、分かりやすいです。キリスト聖杯伝説に関する新説の「語り手」というのが役どころですからね、あんまり複雑な個性を出したらまずいのかもしれません。
ディープなヨーロピアン世界を読んでいて、ふと連想したのは、高村薫の「リヴィエラを撃て」でした。こちらは同じミステリーでも、政治スパイ小説ですから、全然比較にならないのですが、人物造形の深みと書き込みは比較にならないほど深いし、ズシっとくる人生の重みがあります。ジャック・モーガンにせよ、ノーマン・シンクレアにせよ、「伝書鳩」にせよ、読んでるうちに古くから知ってる友達みたいに生き生きした存在感があり、これらの登場人物が死ぬくだりには、古くからの友人を失ったかのような喪失感を覚えます。また、アイルランドの憂鬱な曇り空や森の緑が心を染めあげてくれます。「ダヴィンチ・コード」は、この種の本格小説に比べると、全然薄い気がします。
「ダヴィンチ・コード 」で一番人物造形が良く出来ていたのはシラスでしょうか。田舎の教会に助けられ、司教に出会い、それまでの暴力的な半生と決別して、敬虔な信者として生まれ変わるくだりは感動的です。また、深い祈りを捧げる姿は、胸を打ちます。実際、この本を読み終えて個人的に何が一番心に残ったかというと、謎解きとかミステリーではなく、敬虔なクリスチャンのありようであり、ああ、人はこのようにしてキリスト教に救われていくのかという部分でした。
しかし、こうしてツラツラ思うに、この物語って、最初にマーケティングありきだったんじゃないかなって気がします。ダン・ブラウンという無名の著者の作品が発表され、ジワジワと人気が出て、ベストセラーになり、それがまた大きな論争を呼び、映画化もされるという経過を辿ったのではなく、最初からそういうつもりで、つまり「プロジェクト・ダヴィンチコード」というのがあり、それにふさわしい小説を書き、メディアミックスを通じて盛り上げ、社会現象にし、予定の行動として映画化がなされるという。
その証拠に、この本はアメリカで2003年3月に刊行されたのですが、第一週目からベストセラー1位(以後一年以上1位)という点です。それまで無名な作家が本を出版して、その発売第一週目からベストセラーになんかなるものだろうか?よほど前評判が高く、話題性に溢れてないとそうならないんじゃないか。村上春樹のように既に膨大な数のファンを抱え、有名な作者だったら、「ついに新作登場!」でいきなり一位になるでしょう。しかし、昨日まで無名な作家についてそういう現象はありえない。ひっそりと本が出て、気まぐれに買った人があまりの面白さにガビーンとなって口コミで伝わり、、という繰り返しでベストセラーになっていくでしょう。ピークに達するまで1年くらいかかっても不思議ではない。
もともと書物のベストセラーにせよ、音楽のベストテンにせよ、出版社やプロダクション、もっといえばそれらを仕切っている広告代理店の政治的思惑で決まるという性格がありますから、アテにならないっちゃアテになりません。情報操作や世論操作は昔からあるやり方ですし、珍しいことでもなんでもないです。ただ、それに向けて小説のプロットまで綿密に組み立てられたり、ここまで大当たりするというのは珍しいかもしれないです。
「あ、これ、売るために作ったな」と直感的に最初に思ったのは、ネーミングです。「ダヴィンチ・コード」なんて、上手だなあ、よく考えたなあって思いますし、「ダヴィンチ・コード」って名前だけで売れてるような部分もかなりあると思います。これが「失われた聖杯伝説」とか普通のネーミングだったら、こんなに売れないと思う。ダ・ヴィンチだもんね、コードだもんね、いかにもルネサンスの知的クラシカルな感じと、ミッション・インポッシブル的なポップでシャープな訴求力があります。小説家が考えた名前というよりは、広告代理店が考えた名前のような感じです。でもさ、この物語、「ダヴィンチ・コード」ってタイトルである必然性ってあんまり無いと思うのだけど。そりゃ、ダヴィンチも出てくるし、重要なキーポイントでもあるのだけど、別に全面的にダヴィンチばっかりじゃないし、数ある背景の一つじゃないのか?と。だから、語感がいいとか、斬新な感じがするという要素でつけたような気がしますね。ちなみに、この作者の他の作品は「天使と悪魔 (Angels and Demons)」とか「デセプション・ポイント(Deception Point)」とかだったりして、あんまり印象に残らないネーミングですよね。おそらく今読んで、ちょっとトイレにいって帰ってきたら忘れているような名前です。でも、「ダヴィンチ・コード」は強力ですよ。一発で覚えましたもん、僕も。ちなみにダン・ブラウンの最新作は「パズル・パレス」というらしいのですが、カンドコロがわかったのか、訴求力のあるネーミングですよね。
でもって、上述のようにシンプルで撮影しやすいストーリー展開、頭が切れて行動力のある男女がペアで主人公になる設定、名画と名建築のオンパレードという舞台装置で、映画のためのシナリオみたいな小説です。また、一般的に知られていない歴史や宗教の謎をフィーチャーして知的好奇心を喚起させる一方、おそらくは既存の宗教権威との間で物議を醸し、それがまた絶好のパブリシティになるというところまで周到に読んでいるような気がします。これだけの規模のメディアミックス戦略を仕掛けられレベルの広告代理店だったら、そのくらい考えていても不思議ではないでしょう。
でも、そんな仕組まれたマーケティングだったとしても、別にだからといって悪いことだとは思ってません。それが何か特定の政治的意図のもとになされるなら問題だけど、この種の知的娯楽巨編としてだったら問題はないと思います。まあ、キリスト教関係者、とくに結構カルト的に描かれてしまったオプス・ディ関係者には大問題だと思いますし、お気の毒ではありますが、僕ら宗教意識の薄い日本人にとっては、だからどうってことはないです。
また、積極的に評価すべき点もあります。それはヨーロッパの歴史や宗教や芸術について人々の関心を誘うという啓蒙的な面も確かにありますし、キリスト教についてもう一回よく考えてみようというチャンスを提供したという点です。この「チャンス」は、教会関係者にとってはド迷惑以外の何物でもないのでしょうが、でも、物語で書かれている主張は一考に価すると思います。特に聖女伝説の部分。なぜ宗教において、セックスや女性は排斥されているのか、という。ここから先は、この小説から離れて、僕個人の意見です。
たしかにキリスト教に限らず、既存の宗教はかなり男性社会です。男尊女卑とまでは言わないまでも、それに近いくらい男性優先の組織&教理だったりします。キリスト教でも、仏教でも「尼さん」の存在は勿論ありますし、尊敬されてはいます。だけど、組織中枢の権力機構に女性が登用される機会は極端に少ない。マザーテレサやジャンヌダルクのように敬虔な女性信者が深い尊敬を集めていることはありますが、ローマ法皇に女性が就くなんてことはありそうもないし、世界各地の枢機卿レベルの重役に女性がついてるということもそんなに聞いたことないです。仏教でも、イスラム教でも、ユダヤ教でも、女性指導者というのは非常に少ない。それどころか、女人禁制みたいな風習も数多い。なぜか?
一方、原始宗教、紀元前とかそのあたりの人類の宗教は女性中心だったりしますよね。日本の神話でも、最高神はアマテラスという女神ですし、ギリシャ神話、エジプト神話などにも女神は沢山登場してきます。「原始女性は太陽だった」と述べたのは平塚らいてうでしたけど、当時の原始共産的社会では、新たな生命を宿す女性は、豊穣なる生命の根源として、大地や太陽のように崇拝されたでしょう。今でも「母なる大地」という言い方が残ってます。大自然をそのまま神の摂理として捉え、ストレートに信仰すれば、女性こそが宗教の中心にあるべきであり、またその司祭も女性であるべきだったりするでしょう。古代日本の卑弥呼のように。
また、古代においては、セックスも子孫を繁栄させ、聖なる女性と結合する神聖な営みとして礼賛されることはあっても、忌み嫌われることは少なかったと思われます。だって、素朴に考えれば、生物の第一目的は個体維持であり、死が避けられない以上第二目的として生殖が重要視されます。「生きる」というのはそういうことでしょう。それをストレートに見れば見るほど、セックスは聖なるものであり、それを嫌う方がおかしいと言えなくもない。実際、緻密な神学体系が編纂される以前の、素朴な民族土着宗教では、セックス関連のものが崇拝の対象になっているでしょう。日本だって、男性器や女性器を形どった巨石が信仰の対象になってたりする地方は山ほどあるでしょう。
ところが農業技術が発達し、全員が働かなくても食べていけるようになった(一部の者が働けば全員分の食糧が生産できるようになった)後に、王侯貴族や武士階級という非生産階級が生じ、宗教もまた素朴なレベルから、それ専門に考える専従職員・プロフェッショナル=僧侶、聖職者が登場します。このあたりから、人類の歴史は、生産と豊穣と祈りの女性原理から、政治と戦闘と理屈という男性原理に変わっていったのでしょう。早い話が、「ケンカっぱやくて、頭でっかち」な世の中になり、それは今でも続いています。頭でっかちだから、「赤ちゃんは可愛い」「自然は偉大だ」という素朴なレベルでは満足できなくて、あれこれ理屈をこねくり回し始めます。
そうなると宗教は、こういったオタク的なツイストがかかって、どんどん複雑に精密になり、とてもじゃないがセックスなんかやってる場合じゃないわみたいな感じになっていくのかもしれません。コンセプトも「ダイナミックな生の躍動」から「知的に透徹した高次の世界」に重きがおかれるようになるのでしょう。色でいえば、赤だったものが青になるような感じ。そうなると、セックスも、また女性の魅力的な肉体も、「心を乱す雑音」であり、「煩悩」だということで避けられていくのでしょう。また、古来、性を象徴するものとみなされていた髪の毛もまた除去って話になりがちで、仏教などでは聖職者はスキンヘッドになったりするのでしょうし、キリスト教でもザビエルのカッパ頭のヘアスタイルみたいなものが出てくるのでしょう。
さらに、男性原理においては、政治や戦闘が大好きだから、宗教も権力や権威を求めるようになり、政治勢力と結合するような動きになっていきます。また、宗教専従者も、簡単には素人が入り込めないような象牙の塔を作り始めます。複雑精緻な教理体系、素人が聞いても何を言ってるんだから全然意味がわからないお経とかね。わけがわからん、とても理解できないからありがたいって方向に持っていき、こういう難しいことは「専門家」でないと不可能であるとする。また、神様の一手独占販売を行うようになり、カトリックのように、教会こそが神と人々とを結ぶ唯一の接点であるとして絶大な権力を振るうようになる。王様ですら神様には逆らえず、ゆえに教会に逆らえず、カノッサの屈辱のような出来事も起きる。
「ダヴィンチ・コード」では、これらの女性排斥が自然な流れでなったというよりは、徹底的に意図的なもの、陰謀に基づくものという視点にたっているようですが、本当に完全に意図的なのかどうかは別として、女性やセックスなど大らかで素朴な古代の感性は疎まれていったことは間違いないような気がします。ヨーロッパ中世を席巻した狂気の魔女狩りなんかもそうですが、「どうして魔女なの?女だけなの?」と考えてみたら、ヘンですよね。男女同数で犠牲になってたっておかしくないのに。魔女はいるけど、魔男に相当する存在はない。悪魔はあるけど、ちょっと違うでしょう。
そして、思うのですけど、男性原理社会ももうそろそろ行き止まりじゃないかって気がしますね。以前、物財中心主義は1970年代に終わっていると書きましたが、大体世紀の変わり目である2000年あたりから、世の中のモードが変わってきたような気がします。この本でも書かれているように、2000年間の魚座が終わって水瓶座の時代になるのと符合してるのかどうか知りませんけど、「強きゃいいんだ、勝ちゃいいんだ、理屈が通ってればいいんだ」って世の中じゃあなくなっていってるように思いませんか。
前世紀の遺物的なマッチョ路線をひた走るアメリカ・ブッシュ政権がイラクでドンパチやっても、世界は歓声をあげて支持するというよりは、冷ややかですよね。強いことがそんなにエライことだとは、あんまり誰も思わなくなった。逆に日に日に浸透していくのは、例えば環境問題であったり、自然志向(有機栽培とか、自然治癒とか)であったりします。「母なる自然」路線です。やたら高い超近代的な、ガラス張りの高層建築がもてはやされなくなり、むしろ「自然の息吹のする家」が望まれるようになった。
「ダヴィンチ・コード」が広告代理店的な発想で営まれていたとしたら、おそらくはそこまで考えていたでしょう。世相の洞察は、広告代理店のイノチですからね。キリスト教世界における女性の復権というのは、今だからこそすんなりと受入られやすいですが、30年前だったら話も違ってきたと思います。「今ならいける」と思ったと思う。
でも、まあ、「女性原理」とかそういう言葉で考えるかどうかは別として、大きな時代の流れとして、ちょっと立ち止まって考えてみる問題だとは思いますよね。
最後に、「ダヴィンチ・コード」を読んだことない人にオススメするかどうかですが、まあ、「読んで損した!」とは思わないんじゃないかな。料金分くらいは十分に楽しめます。展開も小気味いいし、いろいろ世界が垣間見れます。批判的な意見もあるようですけど、それも「これだけ全世界的に流行ってるわりには」という条件付の意見だと思います。もし、この本が全く無名で、古本屋で気まぐれにこの本を買って読んだとしたら、「うわ、結構アタリだったかも」と思うんじゃないかしら。
文責:田村
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