今週の1枚(01.11.05)
大人しい大人
ええと、今回は思い付きません。特に何もニュースもないですし。
というわけで、いつもなんとなく思ってるようなことを書きます。
オーストラリア人を見てますと、いい具合に「ワイルドさ」「子供っぽさ」が残っているように思います。動物的というか、原始的な部分というか。これは、オーストラリア文化の特徴なのか、西洋文化一般の傾向なのか、それとも人類というものは一般的にそうで、むしろ日本人の方が少数派なのか、よく分かりませんが、少なくとも日本とは違うなあと感じることがママあります。
これはカルチャーの問題として興味深いところです。これまでも折に触れ、形を変え言ってるところだと思いますが、文化による「洗練」というのは、野性的・本能的な人間の行動をいかに修正していくかということとも言えます。腹が減ったら、目の前にある食べ物をむさぼり食うのではなく、箸やフォークを使って、見苦しくない所作で食べましょうというのが文化の一つのありかただったりします。
また赤ちゃんのように、喜怒哀楽の感情に任せて泣き叫んだり、ゲラゲラ笑ったりするのも控えて、TPOを考えて、適宜適切に感情表現をしましょうというのも、カルチャーのありようなのでしょう。排泄でも、そこらへんでするのではなく、ちゃんとトイレでやりましょうとか、トイレでも男女で部屋を分けましょう、見えないように扉をつけましょう、消臭剤を置きましょう、ひいては水音を隠すために流しましょう、、、などなど、どんどん複雑に入り組んでいきます。セックスでも、気がむいたらそこらへんでやるのではなく、それなりのシキタリがあったりします。
文化というのは、野性的、本能的な人間の動物的な行動を、露骨にならないように、あるときは隠し、変形させ、段取りを踏ませ、セレモニー化したりします。要するに動物的な行動丸出しだったら、粗野、下品と言われたりするわけですね。
そこまでは分かるのですが、これもあんまり度が過ぎると、面白くなくなってきます。それが本来的に見苦しく、あたかも「無かった事にする」のが文化だったら、もう食事も、トイレも、セックスもやらなきゃいいわけですね。まあ、やらないと死んでしまうので、食事だったら錠剤で済ますとか。
しかし、日本語で「野趣あふれる」という言葉もあるように、むしろ野性をトリムしちゃわないで敢えて残したままにしておいた方がいいという文化もあります。
例えば、オニギリ。オニギリというのは、人が直接手でグチャッと握って、それを又直接手で食べるという食べ物で、粗野といえば粗野な食べ物です。だからといって、機械でゴハンを成形したオニギリや、それを又ナイフとフォークでほぐして食べたりするのは、やっぱり「それは違うだろう」って気分になる人も多いでしょう。僕もそう思う。あれは、ヤバンでいいのだ、と。人が握るから美味しい、手で食べるから美味しいのだ、と。ちなみに、僕は、握り寿司も、箸ではなく手で直接食べる派です。何でもそうですが、手で直接食べた方が一番美味しいと思います。手の触感も美味しさのうちですしね。オニギリも、持ったときの重量感がなんとも嬉しいんだし。
同じように、箸でオツに澄ましてチマチマ食べるのではなく、両手で持って、大口開けて、豪快にむしゃぶりつくからこそ美味しいという食べ物もあります。例えば、釣りにいって、河原で火をおこして、釣り上げた魚をあぶって食べるような場合は、もう棒切れに差したまま、かぶりつくような食べかたの方が合ってると思いますし、その方が美味しいでしょう。
でも実際、食事のマナーとかわからん部分もありますよね。これは手で直接食べていいのかとか、それはマナー違反なのかとか。鳥の骨付きなんか、もうナイフとフォークで苛々しながら食べるくらいだったら、かぶりついたり、しゃぶったりしたいですよね。このあたり、文化の限界周辺だと思いますが、行き過ぎると教条主義的になってきて、文化のための文化、キマリの為のキマリみたいになってくる部分もあるのでしょう。
どの程度ワイルドのままにしておくのか、どの程度そのワイルドさを隠しておくのか、そのあたりのレシピーというのが、各民族各社会によって違うのでしょうし、それがまあカルチャーと呼ばれるものなのだと思います。
話はもとに戻ります。オーストラリア文化の方が、日本文化よりも手付かずでワイルドさを残してある領域が広いのではないかという話でした。
それは、例えば、感情表現の豊かさです。
よく西洋人はジェスチャー、身振り手振りが大袈裟であると言われたりします。実際にはそれほどマンガみたいに大袈裟なわけではないですが、確かに効果的な小技はいろいろありますよね。人差し指をちょっと立てて、"good quetion" "That's the point"、「そう、そこが重要なんだよ」と会話にメリハリをつけたり。手のひらを広げて下に向け、顔の高さにもってきて、ヒラヒラ軽く動かす "so so" 、「いやあ、あんまり良くないね」とか。
ただそんな表面的な会話補助的な手の動きよりも、何というのか、顔の表情、声の調子、発音の流れやアクセントの置き方、単語の選び方など総合的に、話にパワーがあるというか、「実感がこもってる」という感じがします。一つの情報を伝達するために注ぎ込む努力や工夫の量が違うというか、「伝える」ということにより真剣な感じがします。それは、子供がお母さんに、「お母さん、聞いて聞いて!さっき、こーんなに大きなネコがいたんだよ!」と一生懸命伝えようとする姿勢に通じるものがあるように思います。
「この前の週末に何をしていたのか?」という、オーストラリア人だったら一生の間に数万回は問われるような質問でも、日本人みたいに「いやあ、別にこれといって」とか「いやあ、まあ、家族サービスってやつですよ」で終わらせる場合もありますが、多くは「よくぞ聞いてくれました」的に、あれこれ語る。「海にいってきました」と言うだけでも、「ちょっと海に」で終わらせるのではなく、天気はどうだったか、どう素晴らしかったか、海の色がどーの、そこで何をして何が一番楽しかったか、多くのことを表現しようとする傾向があります。
その根底には、子供が「こーんなに大きなネコ」ともどかしげに伝えようとするときの情熱、面白かった体験を共有したい、共有することによってより楽しくなりたい、ひいては人と人とがコミュニケートすることの原始的で素朴な喜びがあるように思います。
こちらに来てすぐに感じるのは、こっちの皆さんはかなりいい笑顔をします。屈託がないというか、染み入るような笑顔をする人が多い。勿論常にそうだというわけではなく、無愛想な奴も失礼な奴もいますが、いい笑顔をくれる人は日本よりも多いように思う。なんというのか、笑顔が持ってる原始的パワー、赤ちゃんの笑顔を見てるとわけもなくこちらも顔がほころんでくるような、オーラというか、波動エネルギーというか、理屈抜きに動物的に感じるパワーがより多く入っています。
これは、日常的なマナーがどうのというよりも、人と向き合ったときに発せられる、人間単体としての原始パワーが違うんじゃないかと思わされます。日本人よりも基準パワーが高いから、表情や発生ひとつとっても、深いメリハリがついているという。
それは特にパワー増強のために何かをしてるというよりも、人間だったら誰でも持ってる、つまり子供のときは誰でも持っていたものを、大人になる過程であまり減殺させないでそのまま温存させているのではないか。文化的な洗練は、そのパワーを減らすことではなく、コントロールする部分に力点が置かれているのではないか。
もちろん生の感情をそのままぶちまけるのは野蛮な部分もあるので、それを抑制するという作業はするのだけど、それも選択的で、ネガティブな感情は抑制するけど、喜びや感動などのポジティブな感情はあまり抑制させずそのままぶっちゃけさせているように思います。だから、両手を大きく広げたり、抱き合ったり、ピョンピョン飛び跳ねたりという喜びの表現はそのまま子供の頃のまま残してある。
これに対して日本カルチャーの場合は、そのパワーを減殺させていく部分にむしろ力点があるのではなかろうか。子供の頃、うれしかったら、わーっ!と奇声を発してそこらへん走り回ってたのが、段々そうしなくなる。子供らしい直情的な感情表現をしない静かな子供、あんまり子供らしくない子供、大人からみて手がかからなくて楽な子供を、「おとなしい子」と、日本語で言いますよね。「おとなしい」は「大人しい」と書き、子供→大人の成長の方向が、より静かになること、逆にいえば感情表現を抑制していくことをそれとなく示しているような気がします。そして「おとなしい子=子供らしい感情表現に乏しい子」を、どちらかといえば、「○○ちゃんは、おとなしいねえ」と肯定的に評価する大人たちの姿勢があります。
子供の頃の記憶、最も古い頃の記憶を手繰り寄せてみると、自分がワー、キャーって言わなくなった過程というのは、やっぱり「うるさい!」とか怒られて結構抑制されてたような気がします。自意識が芽生えてきて、最初にやるのは周囲と自分の調整というか、周囲の状況を正確に観測して、そのなかで自分のなすべき役割を判断し、それを演じるということ、そんなことを物心ついてから叩き込まれてきたような気がします。こうして、3才くらいから日本人としての教育を受けてたのでしょう。
その挙げ句、成長した日本人はどうなるかというと、喜びの感情表現が苦手な人種になったりします。ロス五輪のときでしたっけ?閉会式だったか開会式だったかで、それまできちんと整列してた選手たちが、列を乱して他国の選手と抱き合ったり、踊りだしたり、楽しくやってるなか、最後までそれに参加せず、列を乱さず整列しつづけた二つの国がありました。一つは韓国、もうひとつは日本。あれ、異様でしたよね。背筋が寒くなったというか、世界の連中から見て、いかにこの二カ国だけが、非人間的でロボットみたいに見えたか。
僕も長いことこちらに暮らしてますが、三つ子の魂百までで、そんなにオージーのように直截な感情表現、とくに喜びの表現はできません。やっても不自然なのよね。「そうした方がいいからやる」という妙に理性的回路を経てからそれやってるから、ナチュラルではない。そう、まるで、日本のロックコンサートのように、「イエー」とか「ベイベー」とか、まず日常生活では100%絶対に使用しない外来語で盛り上がるという。というか、「ああいうフレーズを使って、こういう動作をして盛り上がるのが、ここではマナーです」みたいな、まるで小笠原式礼法みたいな教典があって、それにのっとって盛り上がってるという不自然さがあります。
だからパーティでごく自然に体を動かしてダンスとか、街頭で恋人同士がキスしたりとか、とにかくサマにならない。「そうした方が良さそうだから、カッコいいから」とかいう妙な理性的な意識、これはもうハッキリ「邪念」といっていいと思いますが、邪念がぬけきれないから、動物的なピュアーなパワーが発散されない。その「汚れ」みたいなものは、人間は敏感に感知できますから、形だけ真似ても、なんか「にごってる」感じがしてしまうという。
これはですね、もう催眠療法でもやって除去して貰うしかないというか、心のかなり奥の方にロックがかけられている気がしますね。こちらに来て、外側のロックは大分外れてきましたが、奥の方にはまだまだロックがかかっていたりします。これはもう一生無理だとおもいますし、別にそれはそれでいいかなと思ってます。ただ、できるだけ素ッピンな自分であろうとするだけですね。
なんでこういうカルチャーの違いが起きてきたのか考えるのは興味深いことです。
オーストラリア人、西欧人の場合、カルチャー的な特徴は二面あって、@動物的なパワーはなるべく残す、Aその代わりそれをコントロールする個々人の倫理と論理と判断能力を養う、のだと思います。パワーは大きいけど、同時にハンドルやブレーキも高性能にするという。
子供の躾でも、子供パワーを抑制する必要がある場合、その理由をイチイチ言う傾向があります。「なぜ、今は騒いではイケナイのか」。「あなたがたの騒ぐ声がうるさくて私達が静かに会話ができないから、あなたがたは私達の会話を邪魔してるから、人の邪魔をするようなことは慎みなさい」という具合に。「お母さんが恥ずかしいから」という理由はあんまり使わない。WHYとBECAUSEが、物心ついてから日常的に頭に叩き込まれていく。それによって、自分自身で、ON/OFFを判断させようとする。この判断能力が正確になればなるほど、mature(成熟した)な一人前の人間として認められるようになっていくという。
日本人はこれをやってこないですよね。この世のシステム全てにWHY?をぶつけて、全てに理由があるのだ、ひいてはその理由がおかしかったら矯正すべきであるという発想はあまり養われてこない。今更、日本人が躾をもう少し考えましょうといっても、僕ら大人の世代自身がそういうことに慣れてないです。慣れてないというよりも、そもそもそういう生き方をしていない。
逆にいえば、日本社会は、特に個々人が頑張って頭ひねって判断しなくても、周囲の流れに乗ってたら、そうそう間違いない社会だったりするのでしょう。それは、世界にも珍しいホモジニアス(同一の)の民族社会である点もあるでしょう。地平線まで自分と同種族ばっかりいるから、皆家族みたいなもので、以心伝心で大体わかる。社会が求めるハーモニーの要求レベルが非常に高い。話合って理解しあって解決というよりは、話し合う前から大体の落とし所が見えていて、状況を皆が共通に理解した時点で、共通の結論が出てしまうという社会。メチャクチャ強いサッカーのチームや、ベテランのバンドみたいなもので、メンバーの誰が何をしようとしているか、もう言わなくてもわかってしまい、常に全体にとってベストが皆の共通認識になるという、「息のあった」社会なのでしょう。
だから日本人が集団でなにかに取り組んだときは、比類なき強さを発揮するのでしょう。集団としてのパワーを最大限発揮させるためには、個々人はスポイルさせておいた方がいいです。まとまりがつかないですから。その最たるものは軍隊でしょう。軍隊では、「兵士が1万人いても頭脳は一つ」が望ましい社会ですから、大将が自殺的な作戦を立てて命令を下せば、兵士は死ぬとわかっていてもそれを粛々と遂行するというのが望ましい。そういうのが強い軍隊だったりします。西欧でも、軍隊においては感情表現は極力抑制させられますし(on dutyのときだけだけど)、個々人の判断は許されないです。
日本の歴史を見てても、江戸時代はとかく個々人の能力や表現をスポイルさせる政策をとってました。「新規な発明は禁止」とか「お笑いは禁止」とか、やってましたもんね。武士道なんかでも、戦国の頃までは、軍団といっても「よく統制のとれた暴力団」みたいなもので結構野卑なものだったと思いますし、日常的に人殺しをやってるわけですから気性も荒く、粗野になっていたでしょう。もう大口を開けてゲタゲタ笑ってたのでしょう。それが江戸時代になって実際の戦闘が無くなると、葉隠れみたいにスタイリッシュなものになり、「武士は笑わない。笑うにしても片頬をちょっとあげて、"片腹いたい"と呟くのみ」みたいな、ニヒルでハードボイルドなスタイルがメインになっていく。
徳川時代260年で、日本人の自発性、自立性や感情表現はかなり抑圧されたと思います。「女三界に家なし」なんてのも、「キミは、ぜーーーったい自立なんか出来ないんだからね、そこをよーーく弁えなさいよ」ということですしね。
そのあとの明治維新、そして戦争、焦土のあとからの戦後復興。日本人にとってラッキー(?)だったのは、日本社会全体が豊かに向上することによって個々人も幸せになるという方法論で良かったことでしょう。全員参加の一致団結プロジェクトが立て続けに起こった。これは日本人は得意ですよね。
明治維新も、戦後復興も、世界レベルでいえば奇跡としか言いようがないわけで、多くの国の場合は、国全体が貧しくなると、その貧しい中でも貧富の格差が起きる。貧しければ貧しいほど逆にそういう現象が起き、社会全体を底上げして皆で豊かになろうというよりは、自分だけが豊かになろうとするから、警察や官僚は汚職が日常化し、闇社会が横行し、グループ間の利害の衝突が起こり、さらに内乱内戦に発展し、報復が報復を呼んで泥沼化するというのが、まあ、地球レベルでは普通のパターンだったりすると思います。
そんななか、ほぼ全員がまとまって力を合わせて復興させるというのは、なかなか出来そうで出来ないです。そんな悠長なことやってるよりは、隣のドン臭そうな奴のゴハンをかっぱらった方が遥かに手っ取り早いですからね。でも、そういう珍しいことが出来る民族なんでしょうね、日本人は。
その伝統は今でも続いているとおもいます。会社でもどこでも、「縁の下の力持ち」という存在が認知され、華々しい功績はなくても、そういう人はキチンとレスペクトされますし。10年、20年かけての長期的な信用の構築というものを当たり前のこととして受け入れ、日常的に努力しますし。そういう意味では、メチャクチャすごいと思いますし、素晴らしいと思います。
しかし、国家社会レベルで見た場合、そこまで一致団結できたのは、オイルショック後の復興くらいまでだと思います。それ以後、バブル期も含めて一致団結して難局を乗り切るというような状況がない。今だって、不況だなんだとかいっても、餓死者がゴロゴロでているわけでもないし、そこそこ食べられますしね。オーストラリアの平均的な可処分所得を考えたら、日本人はまだまだ裕福ですし。なんか、こう、「全員失業しました」みたいな非常に「わかりやすい」状況にならないと、なかなかその本領が発揮されないという。心が一つにならんよね。
ただ、まあ、「エマージェンシーにならないとイキイキしてこない」というのも、お家芸としてはちょっと大変すぎる気もします。本領発揮するために、イチイチ自宅を全焼させてたら、そりゃ大変ですわ。
今は日本でも、個々人の創意工夫の時代とか言われていると思います。小泉=痛みを伴う=改革でも、個々人が創意工夫をして活躍するために邪魔になってる古いシステムを破壊しましょうというだけのことで、いわば成功のための前提作りです。その後は個々人で頑張れ、ですから。なんか、この先の世界の展開をみても、日本くらいの経済レベルになってしまったら、泥臭く一致団結してどうのってフィールドにならないように思います。とてつもない天変地異でも起きて食料がいきなり半減とかでもならん限り、つまり絶対的にヤバいというくらいの緊急事態にはそうそうならんでしょう。
でもって、個々人をもってこられると、ツライ部分もありますよね。
まず心の奥底に留め金が懸かってるのを外さなければならないし、社会自体も、集団ではなく個人のパワーを尊重する様式に変えていかないとならない。これを変えるのは、うーん、案外10年くらいでコロッと変わるかもしれないけど、冷静に考えると100年くらいかかるかもしれません。
個人の動物的パワーを取り戻し、同時に個人の判断能力を研ぎ澄ませていくというのは、口でいうのは簡単ですけど、なかなか難しいです。なんたって、森羅万象の物の見方から変えていかねばならないし、社会的共通認識みたいなものに寄りかかって判断することを控え、何をするときにも周囲を窺うクセをやめるということ。気がついたら自分一人だけが浮いてたりしても、それを何とも思わないくらいにならんと。
例えば、アパートを借りるときに保証人が必要とか、公務員だったら安泰だから貸しやすいとかいうのもペケだったりすると思います。こっちのアパートの賃貸借には保証人という制度はないです。民族が250くらいあって、借り手が住民なのか観光で来てるだけなのか分からんという状況なんだけど、だから日本人の感覚でいえば非常に恐い状況なんだけど、それでも保証人という制度はない。逆に人種国籍などで差別することは法律で禁止されている。家賃が取れなかったら、出向いていって追い出すだけだし、追い出すための個人レベルでのパワーと、それを支援するシステムが整ってないと、なかなかそうはいかない。
全体ベースでマスゲームのように一糸乱れずにやっていたのが、個人ベースになると、個人のレベルはマチマチだから、ナチュラルに全体もマチマチになります。キチンとしてる人もいれば、駄目な人もいるわけで、それだけ予測不可能な事が生じる比率が増えてきます。海外いったら誰でも思うでしょうが、電車の時刻表なんて時刻"予想=努力目標"表に過ぎないし。現に僕の住んでるエリアの電車も、月に一回くらいは週末になるとメンテのために運行が全休します。日本では、そんなこと考えられないもんね。日本みたいに100点ベースでやってたら、もうストレス溜まって死んじゃうとおもいます。まあ、70点でいいかという具合に、自分の生活スケジュールからなにから組み直す必要があるとおもいます。だから、まあ、家賃も70%取れたらいいというか、多少のギクシャクは当然あるものとして最初から織り込んでいるんだろうなという気がします。
コミュニケーションでも、相手の「年齢を聞かない」「結婚してるかどうかを聞かない」「仕事での役職なんかも聞かない」まま、一緒に飲みに行ったりという付き合いを何年も続けられるか、です。つまり「社会全体おける相互のポジションを認識し、それにもとづいて付き合う」という付き合い方をやめる、それを止めて、もっと子供の頃の砂場の付き合いのような付き合い方を復活させるということが出来るか、それを楽しいと感じるかということです。
しかしですね、こーゆーのって子供の頃からやってないと中々やろうと思っても出来ませんよね。だから、本当にそういう方向に対応しようとするならば、今の5才から上の世代は駄目だって気もします。でも、駄目なりに努力しつつ、世代が下るにしたがってナチュラルに変わっていくのだろうなと思います。だから100年くらいかかるかも。
でも、そこまで日本をウェスタナイズする必要もないと思います。
よく練れたサッカーチームのような一致団結パワーは、あれはあれで貴重ですし、失うべきでもないと思います。ただ、江戸時代からこっち400年以上そればっかでやってたので、世界的に見ても、多少偏りはあるよなという気もしますね。それが個性っちゃ個性なんだけど、もうちょい街頭でキスしてる姿が、ナチュラルにカッコ良くてもいいよなって気もします。
そのためには、もう少し自分の動物的な部分、野性的な部分を大事にしてやることでしょうし、それと同時に、「自分自身のオキテ」のようなものをモトに、自分をベースとした自律と自立を構築すること、他人のそれをレスペクトすることだと思います。
そう抽象的にいってもわかりにくいですけど、この抽象的なものをどうやって個人レベルでカスタマイズするかは、それこそ個々人の工夫に任されてるわけですけど、例えば一つ言えば、「他人の噂話をしないこと」ってのもあると思います。まあ、ナチュラルに噂話はしちゃうものですけど、「一週間に一回に留める」とか、半分に減らすくらいだったら出来るとおもいます。日本全体で、他人の噂話が半分に減ったら、結構住みやすくなるような気もします。他人がそれほど自分を気にしてないとわかってきたら、他人の目を気にする度合いも減りますし、また他人の噂をしなくなったら、相対的に自分のことをもっと気にするようになりますし、自分のことが気になってくれば、なんか又考えるようになると思いますから。
上の写真は、サーキュラーキーの大道芸のシーン。
パフォーマーは一人だけで、あとは観客を連れてきて振り付けを教えてやらせているシーン。
写真・文/田村
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