今週の1枚(06.04.10)
ESSAY 255/大学全入化問題を考える
写真は、今日(16日、イースターホリデーの中日の日曜日)にぶらっと寄ったBrays Bay Reserve。といっても知ってる人も少ないでしょうから、Concordにあります。オリンピックパークの近く。見えている水面はParramatta River。過密化が叫ばれるシドニーですが、まだまだこういうだだっ広い空間は至る所にあり、それが住んでて気持ちいいところです。
2007年問題とか2009年問題とかいう言葉が取り沙汰されているようです。2007年問題で有名なのは、皆さんもご存知だと思いますが、この年に(昭和22年生まれの)団塊の世代が大量に企業から退職するという話です。もうひとつ話題になっていることがあります。大学全入化です。志望者数と大学定員数がほぼ均衡して、希望すれば誰でもどこかの大学に入れるという状態を大学全入化と言うらしいです。もっとも正確にどの時点でそうなるかは、志望者がどの程度になるかの予想が難しいことから、2009年とも2007年とも言われています。つまり、早ければ来年からそうなると。
志望者数と大学の入学者数がトントンになるなら、昔みたいに少ないパイをめぐって競争しなくてもいいから良いではないか、メデタイ話ではないか?となどと言ってるおめでたい人はあんまり居ないわけで、やはりこれは(2007年)「問題」と表現されていることからして、困った事態なのでしょう。
誰がどう困るかというと、第一に大学当局です。「全員が入れる」といっても、受験生諸氏には志望なり好みはあるわけで、人気のある大学は相変わらず難関であり、人気のない大学は閑古鳥が鳴き、入学者数減少で経営破綻に陥るのではないかと懸念されているわけですし、実際、経営破綻に陥ってます。去年(2005年)の6月に、山口県の萩国際大学は負債37億円で民事再生法の申請をしました。つまり倒産しました。
日本私立学校振興・共済事業団によると、2004年度に入学定員割れになった私立大は533校のうち155校(約29%)、短大は400校のうち164校(約41%)に達するそうです。この数字は、年を追うごとに悪化するだろうと思われます。
これによって第二に困るのは受験生や大学生諸氏、さらにその親御さんなどです。なぜなら、やっとの思いで入った大学(そんなに「やっとの思い」ではなくなってるのかもしれないけど)が、在籍中に破綻して無くなってしまうリスクがあるからです。また、自分の卒業した学校が消滅してしまったりしたら、やっぱり悲しいものがあります。
そのあたりが「問題」として取りざたされているわけですが、結局、問題のポイントは、少子化で消費者数が減っているのに、大学というサプライが増えているので、需給バランスが崩れてオーバーサプライになるという点でしょう。つまり「全入」だから問題があるわけではなく、過剰供給→過当競争→経営破綻&淘汰という点が問題なのでしょう。全入状態でなくても問題は生じるわけだし、全入であっても入学者が均等に散らばってくれれば問題はないのでしょう。しかし現実には、人気のある学校とない学校とが生じ、人気のない学校は経営にしんどい思いをし、他の大学も明日はわが身で戦々恐々とする、という構図なのでしょう。
これの何が問題なの?民間企業だったらそのくらいの競争なんてあって当たり前ではないか。そんなもん角のラーメン屋さんだって、駅前のパチンコ屋さんだって誰もが体験している、資本主義社会における当然の競争ではないか?って声もあるでしょう。しかし、反面、大学や教育というエリアを一般的な資本と競争の原理だけで割り切っていいのか?という視点もあるわけで、そのあたりがこの問題を複雑にしているのでしょう。
この問題、難しいですよ。Aという悪党が、Bという可哀想な被害者を一方的に苛めているとかいうシンプルな構図ではなく、どこが正面で、どこが背中が分からないような構造をしているからです。僕も考えていて、「あれ?えっと、、、」とこんがらがってきてしまいました。そのあたり、整理を兼ねてちょっと書きだしてみます。
まず大学においても競争は必要か?というと、ある程度は必要だと僕は思います。大学といえどもサービス産業としての側面はあるわけだし、ユーザー本意になって良質なサービスを提供すべきことは論を俟(ま)たない。そのサービス向上を促すために、適正な競争は望ましいともいえます。特に、大学というところは、象牙の塔の中に家元制度や徒弟制度みたいなものがはびこっていて、空気が淀み、魑魅魍魎が派閥争いをしているという批判もあるわけです。そのあたりの風通しを良くするために、民間競争のなダイナミズムを取り入れること、これは悪いことではないと思います。
ただ、モノには程度というものがあり、なんでもかんでも「儲かればそれでいいのだ」という風潮になってしまったら、知性とアカデミズムの牙城を失うわけで、それも問題だと思います。ここでアカデミズムなんかクソの役にも立たないと思うのは短絡的な発想であり、僕個人の意見としては、学問というのは本来あんまり役に立たないもの、浮き世離れしたものなのだと思います。例えば、何万年前の日本人のトイレはどういう様式だったかなんてことは、知ったところで、だから金が儲かるものでもないです。誰も知らない昆虫の誰も知らない生態を観察してたからといって、だからどうなるものでもない。でも、それでいいのだ。そもそも儲かればそれでいい、実社会に役に立ちさえいいのだったら、そもそも大学なんか要らないですよ。企業や軍部の研究所さえあればいいし、人類は勉強も研究もしなくていいです。だけど、浮世離れしたヒマ人が一生をかけて研究していったことの膨大の積み重ねの上に科学、技術、社会の進歩があったわけで、こういう側面を無視していたら、人類は未だにヤリ持って野原を駆け回っていたでしょう。また、長期的に役に立つとかいうのとは違うレベルで、浮世離れした研究をしている部分を社会の中にもっていること、それ自体が、その社会の余裕だと思います。なんでもかんでも実用一辺倒だったらギスギスして楽しくない社会になりそうです。
これは民営化を論じるときに常に出てくる問題ですが、資本の原理には馴染まない事柄や価値というものはこの世にあります。採算が合わないならとっとと廃止!というポリシーだけで進めてはいけない物事もある、ということです。社会全体において、経営効率や採算性が唯一無二の至上命題だったら環境や自然保護なんかどうでもいいし、赤字ローカル線はガンガン廃止、人口減少したエリアはどんどん切り捨てたらいい。自然保護なんかもそれで観光客を呼んでゼニが儲かるのではなかったら、サンゴ礁なんか埋め立てて産廃施設でもなんでも作ればいい。美しい街並みなんかも別に金になるわけじゃないし、綺麗な海岸や生態系も別にそれで儲かるわけじゃなかったらシカトしたらいいでしょってことになる。企業は、その本質において利潤極大化を目指すというDNAがある。金儲けの組織として企業というのは最初からある。しかし、社会は企業ではない。人間もまた企業ではない。ゼニカネは大事だけど全てではない。手段ではあるけど目的ではない。企業論理や民間競争をカンフル剤として利用するのはいいけど、それはあくまでカンフル剤に過ぎない。そこは履き違えてはならないと思います。
また、企業や経済活動においてすら、ゼニカネ一辺倒でいけばいいというものでもない。それを押し進めていくと、あまり儲からないかもしれないけど誠実な仕事をしている人々を切り捨てることにもなります。例えば、患者のことを真剣に考えている医師は、出来るだけ問診の時間を多く割いて、また出来るだけ不要な薬を出さず、その代わり口うるさいくらい日頃の養生の大切さを説いたりします(それが最大の健康法だもんね、結局)。ところが、そんなことやってても病院としての収入は診察料としての微々たる診療報酬だけです。ろくすっぽ患者と目もあわさず、高い検査ばっかり行い、高い薬を飲みきれないくらい出していた方が診療報酬的には何十倍もいいわけです。かくして、薬価基準が高いからといって最初から第四世代セフェム系の抗生物質ばっかり乱投与して、抗生物質がきかないMRSA=メチシリン耐性黄色ブドウ球菌という菌を生み出し、さらにその特効薬のバンコマイシンに対する耐性すら獲得したVRSAまで生み出し、院内感染をひきおこすという現実があるわけです。つまり、経営=金儲けに引っ張られて「なにやってんだか」みたいなグチャグチャなケースもでてくるわけです。
僕の仕事の関連で言えば、留学やワーホリで来る人に対して、自分の可能性を信じて、自分を鍛えるといいよ、そのためには手伝ってあげるよ、でも甘ったれてたら自分のためにならんよ、と半ば趣味的なことやってたら儲からないわけです。海外は恐いですよ、何かあったらどうするつもりですか?誰も助けてくれませんよ、こんなヒドイ目にあった人もいますよ、転ばぬ先の杖ですよと散々脅かして、サポート料を一人50万円くらいぼったくった方が、はるかに伝わりやすいし、金儲けでいえばずっと簡単で効率的です。でも、そんなことはやりたくないし、いくら儲かるからといって、他人の人生の可能性を減らすような方向でやるべきでもないと思います(他人の可能性の潰し方のうち、”甘やかして潰す”という潰し方が一番リカバーしにくいから、タチが良くないと思う)。
それと同じ文脈で、大学なんかも、別に人気があろうがなかろうが、それが金儲けに直結しなくても、風変わりな研究をしている人たち、風変わりなことに興味を持ってる師弟が楽しく日々を過ごせるような空間が、この日本にあってもいいと思うのですね。日本のGDPには殆ど貢献してないだろうけど、そーゆーことじゃないのよ、という。社会というのは、こういう生産性には何の役にも立たない部分を抱えきってナンボだと思うのですね。
ゆえに、競争原理は結構なのですが、ゼニカネ主義オンリーになってしまったら、それは日本という社会を痩せ衰えさせることになり、ひいては国家百年の計を誤ると思います。大学や学問は、無駄であるからこそ尊いという視点をどれだけマジメに持っているかは、その社会が、文化というものにどれだけの価値を見出しているかのバロメータだとも思う。商売は上手いかもしれないけど、人間的にはまるで薄っぺらで魅力が無い奴ばっかりの国になってもイヤでしょうが。大学特有の象牙の塔的な閉塞性を打破し、風通しをよくし、もっとダイナミックに展開すべきでしょうし、努力した人が正しく報われるという限度で、民間的な競争は必要だと思います。しかし、同時に、「角を矯めて牛を殺す」といいますか、なんのためにそれをやってるのか本来の目的を見失ってはいけないだろうということです。
まあ、このように抽象的には言うのは簡単だし、誰も反対しないでしょうが、実際の現場では、往々にしてこの両価値観は鋭く対立すことがあるでしょう。受講生が少ない講座をリストラするのはある程度はしょうがないと思いますが、かといって受講生に媚びて、朝から晩まで就職対策みたいな講座ばっかりやってたら、それって大学なの?って気もしますよね。その線引きが難しいところなのでしょう。
これらとは全く違った視点で、より根本的に、日本の大学って何なのよ?って問題があると思います。これを言い出したら、「それを言っちゃおしめえよ」とばかりに話が終わってしまうかもしれないし、あけてはいけないパンドラの箱なのかもしれないけど、避けて通るわけにはいかないでしょう。
そもそも、皆さん大学に真面目に勉強しに行ってないじゃないですか。もちろん真剣にやってる人も沢山いるとは思いますが、大多数は遊びにいってるようなものでしょ。こういう決め付けるような言い方は良くないのかもしれないけど、でも卒業生である社会人が、専攻の専門的見識や造詣をもってるか?といえば持ってないでしょ。比較的キツいと言われる法学部でさえ、真剣に司法試験をやってる人なんか平均すれば100人に数人、合格者は100人に一人いるかいないかでしょう。法学部卒の一般社会人に、「あなたは結果無価値論?それとも行為無価値論?」(※刑法総論の違法性の本質論で、このどちらをとるかでその人の世界観や人格がある程度見える)と聞いてもマトモな返事なんか返ってこないです。英文科卒のOLさんとか沢山いるだろうけど、英語喋れないじゃん。喋ったとしても、関係代名詞の制限用法と従属用法を意識しながら使い分けて喋ってるというレベルじゃない。経営学部出たといっても、「今アメリカで一番新しいと言われている経営理論は」「日本式経営の将来像はどうなると思う?」と聞いても、、(以下同文)。これ、世界的にいえば「お前、大学で何やっとんたんじゃ?」と呆れられても文句は言えないレベルでしょう。
ただ、過去のエッセイでも書いたように、このような日本の大学のパッパラ状況は、僕は必ずしも悪いことだとは思ってないです。「オトナになる前のロンパールーム」でいいとすら思ってます。これだけまとまって遊べる時間は、失業とかニートにでもならん限り、もうリタイアするまでないでしょうし、遊びを通じて学ぶものも大きいでしょう。というか、今の人達ってあんまり子供の頃に原っぱで遊ばせてもらってないから、どっかでまとめて遊ばせてやらないと人間としてバランス失調になるかもしれないし、もうなってるかもしれない(だからコミュニケーション技術本がやたら流行ったりするのでしょう。あんなの幼稚園の砂場の陣取り合戦で自然に覚えるべきだと思うのだけど)。
ただ、しかし、遊べばいいだけだったら、別にどの大学だっていいじゃないかって気もしますね。なにも浪人してまで頑張らなくても、選り好みしないで、適当に入学すればいいじゃんって気もします。が、皆さんそうしない。勉強する気はそんなにないけど、「良い大学=有名、偏差値高い、見栄が張れる大学」を選ぶ。企業だって、別に学生の専門知識がそんなに欲しいわけじゃないでしょう。特殊理系の分野ならまだ専門学識は求められるけど、経営学部を出たからといってその学生の経営学の知識なんかアテにしないでしょう。企業が欲しいのは「素材」であり、地頭(じあたま)の良さと、素直さと常識性でしょうし、それを図るための入試難易度でしょう。
となると、結局、日本の大学というのは、ユーザー(学生、親、企業)サイドからしたら、遊興施設+時間機能、見栄張り機能、知能&性格試験機能くらいのニーズしかないことになります。理屈はそうなるはずだし、現実もまたそうでしょう。だとしたら、日本の大学というのは、ものすごく下世話で、卑小で、下らないことしかユーザーから期待されてないってことにもなるでしょう。まあ、どう思うかはあなたの価値観次第だけど、どれをとってもそんなに胸を張っていえるようなものでもないし、本来の最高学府の教育機関としての機能(専門学芸伝授機能)なんか誰も期待していないことになります。
根底にそういう結構トホホな現状があるから、上にのっかる議論も、イマイチ嘘臭くなるというか、「なんだかなあ」って感じがつきまといます。「それを言っちゃおしめえよ」というのは、そういうわけです。
カミさんの知り合いの人が、頼まれて某大学で教えていたそうですが、全然授業にも出てこない学生などが沢山おり、試験もほとんどゼロ回答レベル。「舐めとんのか」と不可をつけたら、その不可になった学生が「なんで私に単位をくれないのか」と烈火のように怒りだし、抗議しまくり。「おんどれがマジメにやっとらんのがアカンのだろうが」と一蹴しようとしたら、大学当局の人から「ま、ま、先生。ここは一つ、穏便に」となだめられたとか。なんせウチは単位が楽に取れるということで入学してもらっているので、あまりそれを裏切るわけにはいかないと。又聞きの伝聞だから、真偽やニュアンスはよう分からんところもありますが、大学当局も苦しいのでしょう。もう、学生様は消費者で神様で、「入っていただく」という感じなのでしょう。
そんな話を聞きますとですね、こんなボケが大学行ってる社会的意味なんかあるんかい?こんなボケに大学当局が媚びねばならないという状況自体、なにかおかしくないか?という気もします。しかし、程度の差こそあれ、これが日本の大学でしょ。本気で一生をその研究に捧げようと思ってる教授陣からしたら、「おどれ、舐めとるんか?」という学生ばかりでしょう。あなただって、在学中の各試験で教授を唸らせるような名答案ばかり書いてきたわけじゃないでしょ?それどころか「カレーの作り方」みたいなところでお情けで単位をもらってきたかもしれない。五十歩百歩。本当に世界の大学水準でマジメに試験の採点をしたら、日本の大学の卒業率なんか1%を切るかもしれないですよ。
こんなバカの巣窟のような大学に入るために、親は学資保険に入り、幼児の頃からお受験に走り、塾や予備校に行かせ、ゆとり教育がだめだからといって私立に通わせ、親子揃って入試を頑張りましたなんてやってる。なにをそんなに勉強してるのだろう?って、かなり真剣に疑問だったりします。だってさ、僕は仕事柄若い人と接しますけど、かなり有名な大学を出てる人でも、「げ、そんなことも知らんのか?」というレベルに無知だったりする経験が結構あります。中国の天安門事件を知らなかったりさ、知っていても名前だけでどういうことが起きたのか知らないとか。大学入試に良く出るようなレベルですら、知らない。自慢じゃないけど、僕の大学入試の勉強なんか年明けからだから実質1−2ヶ月ですよ、予備校も塾も一度も行ったことないよ、それも20年以上の昔よ、しかも選択していなかった科目、どっちかといえば苦手な科目よ、その僕ですら知ってるようなことを知らない。というか、中学校の理科レベルですらしんどい。これ、非難してるとかいうのではなく、真剣に不思議なんですよ。一体子供の頃から塾で何を教わっているのだろうか?と。そして、「はー、この程度でこの大学に入れちゃうんだ」という。
もちろん、そんな受験知識や一般的な教養知識を知ってるかどうかと、その人が人間的に尊いかどうかは全然別問題ですよ。なーんも知らんでも、思いやりがあるとか、決断力があるとかの方がよっぽど大事なことだと思ってます。だから非難するつもりはそんなに無いのですよ。しつこいようだが、あれだけ大量な時間をつかって摂取したモノは何処に行ってしまったのだろうか?なんか、身体の中にブラックホールみたいなものでもあるんか?という。それに、ゆとり教育で学力低下とか言ってるけど、学力低下してるのは大人も同じじゃないかな?小中高大12年やってきた学識知識、そのうちいったい何%があなたの中に残ってますか?やっぱりブラックホールがあるんじゃない?でも、この話は、別の方向に発展していっちゃうから、このくらいにしておきます。
こういう現状からするとですね、大学改革とか、魅力あるキャンパス作りとか、コースプログラミングとか、いろいろ大学関係者の方々は頭を絞って努力されているとは思うのですが、実はムナしいんじゃないかな?と密かに同情したりします。そーゆー大学本来の価値を高める営みは大いに素晴らしいとは思うのだけど、でも、ユーザー(学生、親、企業、つまりは日本人ほぼ全員だわ)はそういう「大学本来の価値」というものを求めていないんだもん。
聞いた話ですが、日本のゲイの皆さんの出会いの場、「ハッテン場」というらしいのですが、その筋の人々には有名な映画館とかがあるそうです。そこの深夜映画の上映時間などに行くと、そこかしこで自由恋愛の出会いがあり、愛を育んだりしておられるようです。いきなり何の話かというと、今の大学改革って、その映画館で上映されている映画の製作みたいな悲哀を感じるのですね。誰も見ていない、誰も求めてないという。映画館は映画を見るところなんだけど、皆さん映画を見ずに出会いを求める。大学は専門学芸を研究伝授する機関なんだけど、誰もそんなこと求めていないという。そこで、「魅力あるキャンパス」とかいっても、そこでいう「魅力」ってなんなの?ってことになりますよね。
大学当局もご苦労なことで、少しでも優秀な人材を求めようと青田刈りをしているとか。学生の入学、引き止め、慰留にあの手この手だとか。就職活動のサポートも、手取り足取りだったりして。そういえば、AERAで「面倒見のいい大学」特集なんかやってましたね。
なんか、これ、デジャ・ヴュっぽいなと思ったら、バブル華やかなりし頃のリクルート状況に似てますな。あの頃も、リクルーターは不眠不休で、母校の後輩を接待し、大盤振る舞いをし、引止めに躍起になってました。「カツ丼事件」なんて都市伝説まがいの話もありましたね。歴史がもし繰り返すのだとしたら、あの頃採用された「バブル採用世代」のその後の悲しい展開、つまり社内で「これだからバブル入社は使えねえんだよな」と大っぴらにバカにされ、いじめ倒され、リストラ対象にされるという展開がまた繰り返されるのかもしれません。「ああ、全入世代の連中だろ?」と上にも下にも馬鹿にされながら一生を過ごすという。それも可哀想な話ですな。本人達に罪はないぜよ。
しかしですね、この「全入問題」について思わず考え込んでしまうのは、そもそも僕ら日本人は学問とか文化というものをどう思ってんの?という根幹部分です。学問とか大学ってのは、他人に自慢するためのアクセサリーなのかよ?という。それに、大学名で採用を決めてる企業も情けないっちゃ情けないですよ。自分の人材判断能力に自信があるなら、別に学歴なんかどうでもいいでしょう。それに自信がないから、出身大学というサプリメントを利用してるだけじゃないの?また学閥なんかも、いい年こいて仲良しクラブを作りたがってる幼児性の現われと言えなくもないです。これって、学問をなんだと思ってるのか?というよりも、もっと遡って、仕事をなんだと思ってるのだろう?クラブ活動みたいに思ってないか?
このように大学がその本来の機能を周囲から正しく期待されていないトホホな状況は何故生じるか?といえば、それはすなわち僕らの責任だと思います。僕らが、学問とか、研究とか文化というものをちゃんと評価してないから、見栄とかそういう卑屈な視点でものを見るようになっているのでしょう。偏差値なんかとどのつまりは見栄でしょう?やたら他人と比べたがる奴は、概ね自分に自信がない奴だとすれば、偏差値とか難易度で一喜一憂している我々は、おしなべて自分に自信がないのでしょう。それに、僕もそうだし、あなたもそうかもしれないけど、総じて学問が乏しいです。「本格的な知の価値」というものを身に付けてない。あなたは身に付けていますか?そして、自分に学問が乏しいことを、我々オトナはもうちょっと恥ずべきじゃないかって気もします。書店のお手軽な平積み本をチョコチョコと読んで間に合わせようなんてせこい事を考えずに、堂々と正攻法で人類の知の遺産を承継してもいいんでない?って。「この程度の国民にこの程度の政府」という言葉がありますが、大学も同じ。「この程度の国民に、この程度の大学」ってことでしょうか。
というわけで、大学を取り巻く日本社会の意識と状況が、けっこうトホホだったりする部分もあるから、それだけに大学当局の苦悩も深いだろうと思われます。大学の原点に立ち返り、しっかり教えて、しっかり考査するというスタンスでいけばいいかというと、「あそこはキツいからやめよう」と敬遠され、入学者が減って破綻するという。そんなことするくらいだったら、豪華なコンドミニアムみたいな学生寮を作ったりとか、あるいは出席しなくても単位は絶対差し上げますという「サービス」を徹底するとか、大学人としては「なんでこんなことを」と忸怩たる部分もあるでしょうね。これが結局、大学全入問題の本質なのかもしれません。だとしたら問題の元凶は、第一次的には我々にあるのではないでしょうか。その皺寄せが大学にいっているという。
あと、問題というほどではないのですが、気のついたこと2−3。一つは、知らない間に大学が増えたのね、ということです。冒頭に引用したように、短大400校はまだ分かるとしても、私立大学553校?!総務省統計局の学校教育概況によると、平成16年の日本の大学総数は709校、短大508校だそうです。日本に700以上も大学があるというのは、ちょっと驚きでした。そりゃあ全入化もするよなと思いますよね。だって、同じ統計で日本の高校総数は5429ですよ。高校7−8校に一つ大学がある勘定になります。Wikipediaのこのページで、日本の全ての大学が50音順に並んでますが、「はー」と感動します。こんなにあるのね、と。
しかし、素朴に思うのですが、なんでこんなに作ったの?と。少子化なんか十数年前から分かっていたことだし、競争が激化することも分かっていたと思います。だから近未来に経営的に厳しいことになることも、十分に予想しえたと思うのですが、こういう具合に論評するのって結果論なのでしょうか?創設する当時は上手くいくと思って作られたと思いますし、地元自治体や住民の悲願とか、自らの教育理念の実現という想いもあったのでしょう。だから責めるつもりはないのですけど、しかしね、、、。まあ、バブルの頃のリゾート開発やテーマパークが軒並みポシャッていきましたが、それと同じようなものなのでしょうか?いずれ淘汰の時代が来ると思いつつも、ブームとなれば乗ってしまうのでしょうか。インターネットをパラパラと見廻った限りでは、「なんでこんなに作ったの?」という素朴な疑問と回答は見つかりませんでした。全国に累積しているオーバードクターの雇用対策とか?知ってたら教えてください。ちなみに、数が多いという点では、アメリカは全土に4000も大学があるそうです。これもすごいですね。経営難とかないのだろうか。
第二に、これだけ沢山大学があるのですけど、前述の大学のユーザー的な機能=見栄張り機能、就職機能からしたら、使い勝手のある大学なんてほんの一部じゃないでしょうか?旧帝大系とか、東京六大学とか、関関同立とか、まあ、名前をいえば誰でも知ってるような大学でないと見栄も張りにくいし、就職に本当に役に立つ(学歴や出身大学で採用を決める企業において)とは言いにくいと思います。そういった機能からしたら、あんまり役に立ちそうもない大学に、なぜ行く人がいるのだろうか?と。いや、行く人が少ないからこそ問題になってるんじゃないかと言われるかもしれないけど、それで問題になるならもっともっと問題になっててもいいんじゃないかって気もします。
これはどういう現象なのかというと、大学と名がついたらどこでもいいやって人が実は結構いるというのが一つ。でもそういう人ばっかりだったら、大学の経営破綻も起きないでしょう。だから、見栄とかそういうことじゃなくて、ちゃんと大学を実質で決めている人がいるという可能性です。例えば、魅力的な講座をやっているとか、プログラムがいいとか。これは素晴らしいことだと思いますね。かつて、「お城の中に学校があるのがカッコいい」という理由だけで、東京から金沢大学にいった奴がいましたが、そういう決め方でもいいかなって思いますよ。見栄とか偏差値だけで決めるよりも気が利いてます。今回、失礼ながら今まで知らなかったような大学のサイトをちょこちょこ見てみましたけど、結構面白そうな講座とかやってるのですね。
実際、真剣に一定レベルの専門学識を学びたいというなら、別に殆どの大学・学部でいいと思いますよ。世界最高レベル、最前線レベルまでいきたい、又自分がそこまでいけるだけの自信と実力があるって人なら選ぶ必要はあると思うけど、専門家として成り立つ程度でいいんだったら、どこでもいいんじゃなかろうか。「どこでもいい」というと語弊はあるけど、かなりストライクゾーンは広くなっていくと思います。だって、日本から海外の大学に留学するときってそういう選び方をするでしょう?そりゃ、ケンブリッジ、ハーバード、MITなどにいけば見栄は晴れますよ。でも、世界中から俊英が集まるから、おっそろしくレベルは高いし、生半可なことではついていけない。「ここで無ければ学べない」というニーズを持った人が行けばいいだけです。また、専門知識だけではなく、「人間的に豊かな4年間が過ごせそう」ということも大事なことだと思います。
漠然と推測するのだけど、だんだん昔ほど大学ブランドを皆が気にしなくなってきてるのかな?って気もします。終身雇用も官僚神話も終わったしね。いい大学出たからといって昔ほど神通力もご利益もないし。それはいいことだと思いますよ。学力低下問題もあるんだろうけど、多少モノを知らないことよりも、見栄と大学とをゴッチャにするような卑屈な自我の方が、人間的には問題は多いと思いますからね。それが少しでも是正されるなら、それはイイコトなのでしょう。
あと、全入化で大学がオーバーサプライしている反面、ショートサプライで問題になっている領域も多々あります。例えば託児所。例えば養老院。一方、2007年には少子化で入学者が少なくなりますが、同時に大量にヒマになる人たちもいます。2007年以降に定年退職する団塊の世代です。もともと2007年問題というのはそういう問題だったわけだし。あっちとこっちをつなぎあわせるお手軽なプランですけど、もうガキンチョは少ないんだし、どうせマジメに勉強する気なんかないんだから、定年を迎えた人々よりも上の世代を大学が取り込んだらどうかと思います。といっても、既にこの試みは行われていますが、もっともっと大々的に社会人入学を認めるべきでしょう。もう社会経験のない奴は入学させないとか。
それと、西欧の教育カリキュラム体系を貫く、ディグリー制度、サーティフケイト4からディプロマ、バチャロー、マスター、ドクターと連なる互換性がバリバリある制度は、日本でも導入してもらいたいです。日本にない制度なので理解しにくいですけど、マージャンの役から連想すると理解しやすいかもしれない。一定の科目の単位をそろえると「役」がつき、それを重ねていくと段々位の高い役になるという。ディプロマで満ガン、アドバンスト・ディプロマでハネ満、バチャローで役満みたいな感じ。これをやると、専門学校で取った単位は、どの大学にいっても重複してたら免除されるから、4年の通学が3年なり、2年になるし、転部、転校、学士入学もかなり楽にになります。
あと、最後に、自分としては大学にいってどう思ったか?ですが、ああ、もう300行を超えてしまった。なんぼなんでも長すぎるので、また書きます。
文責:田村
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