今週の1枚(06.04.03)
ESSAY 253/海外でJAPANについて説明しよう〜宗教編
写真は、Brighton-Le-Sandsの風景。ギリシャ系の人が多いエリアです。
昨日(4月2日)の午前2時をもってサマータイムが終了しました。これによってシドニーと日本の時差は2時間から1時間に縮まります。例年、サマータイム(正確には daylight saving system)は3月の最終日曜に終わるのですが、今年はコモンウェルス大会という英連邦のオリンピックのような大会がメルボルンで開かれていた関係で終了を一週間延期していました。
しかし、コンピューターなどの時刻設定が自動的に3月にサマータイムが終了するにようになっており、これを変更しなかった場合、ちょっとしたY2K類似の問題になりますし、現になりました。僕は自分のPCの時刻設定を直していたのですが、直していないサーバーもあったようで、そのサーバーにはログインできないという現象が生じました。サーバーの基準時と自分のPCの時刻が30分以上ズレていた場合アクセスできなくなるということもあるようです。時刻設定を戻したら難なくアクセスできました。こんなこともあるんですね。
さて、前回に引き続き、「海外で説明する日本」シリーズです。留学やワーホリなどで渡豪し、オーストラリア人をはじめ世界中の人から日本のことを聞かれた場合、「あうあう」と絶句しないように、ちょっとは考えておきましょうねってことです。
第二弾は宗教です。「あなたは神を信じますか?」です。
世界の人は信心深いです。統計はいろいろあるようですが、世界の人々のうち約35%がキリスト教、約20%がイスラム教、14%がヒンドゥー教、6%が仏教信者であると言われています。メジャー系宗教で4分の3ほどを占め、その他ユダヤ教、シーク教、ジャイナ教、儒教などが続き、さらに多種多様な新興宗教があるのでしょう。要するに殆どの人が(程度の差こそあれ)神を信じているのであり、そのなかで日本は珍しいくらい無神論者が多い国だといわれます。
もっとも、これも統計の取り方一つという気もします。ある調査では、日本人のうち神道信者が1億600万人、仏教徒が9600万人、あわせて2億を越えるとされてます。人口1億2600万の日本に2億人も宗教信者がいるということで、見方によっては日本はマレにみる熱烈な宗教王国だと言えないこともないわけです。もちろん別な見方をすれば、A教でもあるけどB教でもあるなんてふざけた回答をすること自体真面目に宗教を信仰していない証拠であるともいえるでしょう。なにをもって「信者」としてカウントするのか?クリスマスを祝えば全員キリスト教徒なのか、七五三に出かけたら神道信者になるのかってことでしょう。ですので、統計に対してはある程度クールに見る必要があるのでしょう。
とはいえ、やっぱり温度差というのはあるのであり、平均的な日本人の宗教に対する想いの温度は、そんなに熱くはなさそうです。北アイルランド問題の構造はカトリックとプロテスタントという宗教の違いによるものであるし、アメリカでもキリスト教的道義感から多くの人々が街頭に出て
中絶反対を訴えたり、イラクをはじめイスラム社会でスンニ派とシーア派が時として戦争状態になってるのを見ると、「おお、熱いのね」という温度差を感じます。また、イスラムVSキリスト教で、何度も大汗かいて十字軍を派遣したり、宗教戦争があったり、延々魔女狩りをやり続けたりという歴史を見ても、「おお、熱いのね」とまた思ってしまいます。なにも戦争のようなトラブルだけではなく、日曜日に礼拝にいったり、洗礼をさずかったりということをやってる日常風景は、やはりそれなりの温度を感じさせてくれます。平均的な日本人からしたら、「ああ、俺より温度が高そうだ」と思うでしょう。
だから困るんですよね、宗教のことを聞かれると。
「あなたの宗教は?」とか、「日本人は何教を信じているのですか?」とか。「え?」って虚を突かれ、「いやあー、別に、、、これといって、、」とモゴモゴ状態になってしまうという。
とりあえずの対症療法というか、モゴモゴ言いたくなかったらこう答えておけというのは、「仏教徒です」って答えでしょうね。アイ・アム・ア・ブディストと。いや、あなたがれっきとしたキリスト教徒であったり、ヒンズー教徒であるなら別にそのように答えればいいですよ。ここでは、宗教なんて改まって考えたこともないような、数から言えば最も多かろうと思われる日本人について書いてます。
や、別に神道でもいいですよ。初詣するでしょうしねー、御神籤もひくでしょうしねー、神道信者といって間違いでもないです(もっとも寺でもオミクジはあるが=御仏籤と書く)。ただ、ここでは「いかにモゴモゴしないで済むか」というプラクティカルな観点で言ってるわけで、そういう意味では仏教の方がベターであろうと。なぜなら、仏教は世界的にメジャーだからです。西欧社会にもよく知られてます。映画でもキアヌ・リーブスが釈迦を演じたりしましたし、ダライ・ラマも有名だし。でも神道は知られてません。"Shinto? What?"とか言われて、さらに神道について説明しないといけなくなったりします。また、仏教というのはそんなに何処の宗教とも敵対関係にない穏健な宗教とみなされてるように思いますから、まずまず無難であろう、とまあ、その程度のことです。
日本人全体が仏教徒が多いのか、神道が多いのかどっちなのだ?と突っ込まれても、まあ仏教徒だって答えておけばいいんじゃないかと思います。実際、仏壇がある家と、神棚がある家とを比べてみたら仏壇の方が多いんじゃないですか?あとこれもハッキリした資料があって言うわけじゃないのですが、日本全国で、寺と神社ではどっちが多いか?ってなったら、寺の方が多いんじゃなかろうか。また、仏教の方は、浄土宗、浄土真宗、日蓮宗、曹洞宗、臨済宗など多宗派ありますし、皆も知ってますが、神道の中でこのような流派の違いって知らないでしょ?お盆なんかは仏教的な儀式だと思いますが、国民の祝日でもないにも関わらず「お盆休み」「お墓参り」という習俗が確固として根付いていることからも仏教は強いような気がします。
しかし、これは通り一遍な、「ワケ分からんながらも、とりあえず無難に」という処世術的な答え方に過ぎません。本当のところはどうなの?というのは、また別途ちゃんと考えておいた方がいいでしょう。エクスチェンジかなんかやる相手は、かなり日本のことに詳しかったりして、こんな平板な「なんとかクリア」みたいな答え方では満足しないかもしれません。「でも、日本人、結婚式は神式でやりますね。家建てるとき地鎮祭しますね。七五三もしますね。柏手(かしわで)打ちますね。初詣しますね。靖国神社ありますね。神道たくさんありますね。なぜですか?」とか突っ込まれたら、またモグモグしちゃいますよね。そういうときは、上記のような子供だまし的な回答ではなく、「むむ、こやつ、できる」と唇の片端を歪めて、本気で答えないといけません。でも、本気って言われてもねえ、、、ということで、また考えてみましょう。
まず、日本において仏教と神道がごちゃ混ぜになってる点ですが、これはもう最初っからゴチャ混ぜになってますから当然といえば当然です。ゴチャ混ぜにした張本人は、これは過去のエッセイで何度か触れてますが、聖徳太子です。
これはもう日本史の最初の方の話ですが、卑弥呼という女帝が日本を仕切っていた頃、これは神道でした。神道と呼ぶほど体系化されてもいなかったのでしょうから、いわば原始神道。超自然的なというか、大自然そのものを神として崇めるという、世界中どこでもやっていることを日本もやってました。卑弥呼はシャーマン、大巫女で、大自然の神々と意思交換できる超常能力を持っているということで皆に崇められ、それが政治的権力にまで高まっていたわけですね。あの頃は農業生産性も低く、天候次第で餓死者が大量に出るという厳しい時代でしたから、天候=大自然=神と考えるのは普通の発想でしょう。雷が鳴れば、「あれは神様が叫んでいるのだ」とまあ、何も知らなかったらそう思うよね。大気中における放電現象が、、なんて思わない。その大自然の神々と意思を通じ、「ひとつよろしく」とお願いし、出来るだけ豊作をもたらしてくれること以上に大事なことなどこの世になかったのでしょう。だから、最もその能力のあるとされる卑弥呼が女帝として崇められたのでしょう。この頃は、自然=神というアミニズムの世界であり、それこそが神道の原型です。
その系譜は卑弥呼以後も続き、自然の神々への大司祭たる地位は天皇家が継ぎます。ところが、大陸から仏教がやってきました。全く新しいカルチャーです。しかもこの新文化は皆がぶっ飛ぶくらいのハイテクの権化でありました。それまで天皇家といえども掘っ立て小屋みたいなところに住んでいるのが関の山だった当時、壮麗な五重塔などを建築する技術、数々の工芸品、極東の島国の寒村に過ぎなかった当時の日本人には「なんじゃ、こりゃあ!」ってショックだったと思います。そして、仏教教義の異様な緻密さ。神道というのは、現在に至るまでもそうですが、儀式宗教であって、これといった精密な教義があるわけではないです。
そうなると仏教ブームが沸き起こります。このブームに乗じて権力を増大させようというニューウェイブと、そうはさせじとする守旧派が対立します。日本史に詳しい人ならご存知でしょうが、かつて朝廷において崇仏派と排仏派の対立というのがありました。蘇我氏と物部氏の対立です。日本で唯一の宗教戦争といわれるものです。天皇家は、「仏教を国として認めるか否か」という厳しい問いを突きつけられます。ブーム的には仏教です。しかし仏教を認めるということは、神道の親玉たる天皇家にとっては自殺行為でもあります。だから困った。歴代困ってます。困ったまま用命天皇(聖徳太子のお父さん)は死去します。蘇我氏の後押しを得た崇峻天皇は、即位後蘇我氏と険悪な関係になったため蘇我馬子に暗殺されてしまいます。天皇の命など軽かったのですな。天皇家絶体絶命のときに立太子として事実上政務に着いたのが弱冠20歳の聖徳太子でした。
ここから先が聖徳太子が日本史上最大の天才と言われるゆえんですが、バーンと仏教を認めてしまいます。それじゃ天皇家はどうなるの?というと、すごいレトリックをカマすわけですね。天皇家は最も神々に近い眷属であり、その天皇家だからこそ最もよく仏のことも分かるのだと。仏教を認めようが認めまいが神々がおわすことは当然のことであり、これを崇めるのも当然のことである。そしてまた仏もまた崇めるべきであり、両者どちらか一方だけという種類のものではない。「なんでもアリ」宣言をしちゃったわけです。そして、超秀才だった聖徳太子以上に仏教や伝来文化を理解できる人間はいなかったため、「誰よりも神に近い」「誰よりも仏教を知っている」という相乗効果で、仏教を天皇家の専売特許にしてしまったわけです。政治的アクロバットです。以後、日本人は、和魂洋才といいますか、本来相容れないものを全く葛藤なし、節操なしに、合理的にいいとこ取りする思考水路ができたといわれ、今日なお僕らの頭の発想法の基礎部分は聖徳太子によって規定されているのだと言ってもいいと思います。
これは何度も書いたのでもう読み飽きた人もいるでしょうが(ごめん)、ここで大事なのは、一番最初っから「どっちもアリ」ってところからスタートしてるってことです。こういうスタートで始まれば、1400年以上経過しても、僕らのなかで違和感なく、仏教と神道がゴチャゴチャになっていても当然過ぎるくらい当然だと思います。1000年以上これでやってたんだもんね。唯一の例外は、明治維新のあとの廃仏毀釈くらいでしょう。あれで国宝級の仏像などが幾つもぶっ壊されましたし、ひどいケースだと風呂の炊き付けに仏像を使ったとか。もっとも明治4年にはこの政策もあっさり挫折してますから、千年以上の歴史のうちのわずか2−3年に過ぎません。
このように日本では古来、神道と仏教はゴチャ混ぜになっていました。「ゴチャ混ぜ」というのをもっともらしく表現する言葉として「神仏習合」というのがあります。お寺の中に鳥居があったりしますもんね。敷地の中になくても、寺と神社が隣り合わせってケースも多々あるでしょう。京都だって知恩院の隣に八坂神社があるし、奈良だって興福寺の隣に春日大社があるし。神社の神様のことを「八幡大菩薩」とか呼んだりします。菩薩って仏教上のキャラクターでしょうに。「神宮寺」という仏教なんだか神道なんだか存在自体が形容矛盾という存在もあります。神を仏一族(菩薩など)が守るということで、神社の境内のなかに神宮寺や本地堂が建てられてます。
この種のゴチャマゼをなんとか理論的に説明しようと(もともと無理があるんだけど)、本地垂迹説=神は本地である仏が、日本に垂迹身(迹を垂れた身)として降臨したものという説明なんかも開発されました。仏=神で、呼び名が違うだけだよという。タイガーマスク=伊達直人みたいな(古い)、見た目は違うけど実は同じという、かなりスゴイ説明です。また、「仏が権に(仮に、臨時に)現われた」ということから、「権現」という言葉が生まれたりします。権現とはつまり、「変身」のことですね。仮面ライダーみたいに(古いってば)。
このように、日本人は昔っから仏教と神道をそんなに区別してなかった。もっと言えば積極的に同一視していたとさえいえます。だから、ナチュラルな日本人の感覚でいえば、仏教と神道を分けて論じること自体がそもそもヘンだったりするわけです。だから除夜の鐘(仏教)を聞いたあとに、ぞろぞろと神社に初詣に行くのは、きわめて正しい日本人的行動だったりするのだと、僕は思います。
さらに言えば、日本人がゴチャマゼにしてるのは仏教と神道だけではないです。もっと別のものも混ぜています。カクテル状態です。
例えば、儒教。僕らは祖先の霊を敬い、墓参りをし、精霊流しをしますが、仏教の本来の教義からすれば、人は死んで輪廻転生するのですから、祖先の霊がいつまでも存在してるわけないです。そもそも霊的な存在はグルグルとメリーゴーランドのように廻ってるのだから、誰が祖先ってこともない筈です。要は悟りを開いて解脱するかどうかです。だから祖先霊の崇拝やそのシキタリ儀式は、基本的に儒教礼法でしょう。儒教というのは、人間の自然な感情や日常の行動を、「礼」という、まるでヘビメタの曲のように高度に様式化したパターンに織り込んで形となし、形を守ることで実質を守ろうとしたものだと僕は理解してます。長幼の礼とか師弟の礼とか。祖先礼拝もその重要な一つでしょう。ただ、カマドに神様がおわしますとかいうあたりになると、日本古来の八百万の神々的なアミニズムともリンクしてきます。だからもうゴチャゴチャ。
また、仏教自体もゴチャ混ぜで、仏教に登場する仏でも、四天王とか韋駄天などのキャラは、本来バラモン教の登場人物だったりします。北斗の拳のマンガの中にいきなりピッコロ大魔王やラーメンマンが登場するようなもので、無茶苦茶といえばかなり無茶苦茶です。でも、この場外乱闘キャラは多く、調べてみたらいるわいるわ、四天王、梵天、帝釈天、毘沙門天、弁才天(弁財天)、大黒天、吉祥天、韋駄天、摩利支天、歓喜天、金剛力士、鬼子母神(訶梨帝母)、十二神将、十二天、八部衆、二十八部衆、、、すごいもんです。馴染み深い七福神なんかも、「あれって仏教なの?」って言われると、「むむ、、」って思いますよね。
このように古来日本では仏教と神道は意図的に一緒くたにされてきた歴史があります。日本人の素朴な感覚からすれば、「仏教も信じるけど神道も信じる」という二股かけたような態度ではなく、仏教と神道(さらにプラスアルファ)が合わさった日本独自の混合宗教みたいなものがあり、それを信仰してきたと言った方が実体に合致してるように思います。
なお、日本人が信じていたものは、仏教とか神道とかいう宗教の形を取っているものだけではないです。いわゆる陰陽五行説のような、「陰陽師」の世界もまたプラクティカルに実践されておりました。「方違え(かたたがえ)」とか平安貴族の風習だけではなく、現在でも家を建てるときに鬼門の方角を気にするとか、墓相とか言いますよね。これは宗教のようでいて宗教ではないです。当時の人々の感覚でいえば、あれはサイエンスでしょう。陰陽師や陰陽博士などは、今でいえば気象庁とか科学技術庁長官みたいなものだったと思います。今、マンションの耐震強度がどうのって騒いでいるような感覚で、この建物は方角が悪いとか語られていたのでしょう。こういった方位学や六曜星がどうしたという切り口は、今もなお占いという形で残ってます。ただ、これらは仏教でも神道でもないです。それは西洋の占星術がキリスト教でもイスラム教でもないのと同じ事なのでしょう。
さて、以上の事情をつらつら考えますに、だから日本人が真面目に信仰をしていないとか、神様という存在に真正面から向かい合ってないかというと、半分YESで半分NOだと思います。
半分YESというのは、例えば、他国の敬虔な信者達のように「神」という超越的な存在を心の底から信じてるか?といえば、多くの日本人はそんなに信じていないでしょう。勿論、日本人でも信じている人はおられるでしょうが、大多数においてはそうでもない。傍証としては、日本語においては、英語の表現のように"Oh, my God!"とか日常的な神に関する表現が少ない。英語では、びっくりしたとき、罵るときに、ジーザス・クライスト!とかホーリー・シット!とか言うし、アメリカ大統領の演説で"God bless you"などの表現をします。日本語の場合、「神も仏もあるものか」「仏の顔も三度」とか神仏に関する常套句はあるけど、妙にクールですよね。「苦しいときの神頼み」みたいに皮肉な言い方もある。少なくとも総理大臣が国会で演説をするときに、「神が日本国民とともにありますように」とは言わない。およそ考えられないでしょう。
またイスラム教、ユダヤ教やヒンドゥー教などのように、日常生活に関する戒律も、日本の場合はそれほど厳しくないです。牛はダメとか、断食をするとか、コーシャーフード、ハラルフードのように一定の宗教的儀式を経ていない食物は口に入れてはならないというオキテは、日本の場合にはないです。好きなものを食べて、好きなように生きればいいでしょう。あなたに「宗教上の理由があるから、それは出来ない」って事柄がありますか?さらに、異教徒に対して敵対的な人々もいますが、日本人の場合、物珍しいという感覚は抱くけど、「邪教だ」とかいう敵愾心は持たない。オウムなどの新興宗教系に反発や猜疑心を抱く人もいるだろうけど、それはもっぱら秩序的な理由によるもので、自分の信じる神の原理に違うからという理由ではないでしょう。
そういう意味では、敬虔やキリスト教徒やイスラム教徒の人々が実践している宗教の「型」に、日本人の日常生活や精神構造はハマっていないと言えるでしょう。「あなたは神を信じるのか、無心論者なのか?」とキリキリ問い詰められたら、僕もおそらくは無神論と答えるかもしれないし、そう答える人は多いと思います。
半分NOというのは、「そもそも、宗教ってなによ?」ってところに基づきます。なにか明確な教義があって、具体的にだれか教祖様がいて、それを日常レベルで実践するいろいろな儀式や戒律があって、それを実行する組織があるのが「宗教」なのか?そうでないと宗教ではないのか?と。そんな「わかりやすい」形になってるものだけを宗教と呼ぶのであれば、多くの日本人は特にこれといった宗教を持ってない、無宗教な人々でしょう。でも、本当にそうなのか、そんなの宗教の属性であって本質ではないのではないか。
宗教の定義はたくさんあるようですが、僕が思うに、超自然的なもの(神とか精霊とか)に対する信仰や尊崇の念が中核にくるのでしょう。「信じる」というのは、現代の科学では解明できていないことや、合理的説明/証明はなされていない物事について(例えば死後の世界とか)、事実→証明という手続きをスキップして、直感的に「それは正しい」と思うかどうかであり、論理的証明プロセスをぴょ〜んとジャンプするかどうか、このジャンプ性にあるのだと思います。親しい友人が犯人として疑われているとき、「いや、僕は彼を信じる」と言いますが、彼が無実であることが証明できてはいないのだけど、その過程をジャンプして一気に「彼は無実」という結論にいっちゃうときに「信じる」という言葉が使われます。科学は、これに対して、この種のジャンプを嫌います。もう徹底的に嫌う。万人が「絶対間違いない」と認めざるをえないガチガチの事実を積み重ねていくことが科学という方法論です。超自然的なもの、例えば霊魂であるとか神であるとかを「科学的に」アプローチすることも十分可能ですし、実際に行われています。いろんな測定機械を持ち込んだり、実験したりします。でもそれは宗教ではない。なぜなら面倒くさい「証明」という手続きを経ずして一歩も先に進めないからです。信仰は進める。ジャンプできる。そして、単に信じるだけではなく、それを「尊崇する」、レスペクトするという心情が加わって、はじめて「信仰」(信じつつ仰ぎみる)になるのでしょう。この崇拝するという心情がエッセンスになるのは、そうでないと「いや、僕は彼を信じる」というような場合に「宗教」になってしまうからです。
まあ、このへんの定義は万人がそれぞれの言い方で表現すればいいのですが、言いたいのは、教祖やら教典やら組織やら建物やら戒律やらがなくても、十分に宗教たりうるんじゃないの?ってことです。キリスト教とかイスラム教の典型的な信者のありようというのは、宗教のあまたあるあり方のほんの一部に過ぎず、そういう形をとってないから即無宗教っていうのもヘンな話だと思うのですね。
日本人の生活には、この意味でいえば山ほど「宗教的な」行いがあります。上にも述べた、仏壇、神棚、初詣、除夜の鐘、地鎮祭のほか、受験ともなれば天満宮に絵馬を奉納したり、縁結びの神様の所にはカップルが訪れ、縁日ともなれば破魔矢を購入し、商売繁盛の熊手を買う。お賽銭でも、一万円札を投げ込む人もいる。心のどっかで何かを信じてないと、こうはしないでしょう。完全無欠の無神論者、宗教心ゼロだったら、こんなにも年がら年中なんかやってないですよ。純粋合理的に考えたら、天満宮までいって絵馬を奉納してるヒマがあったら受験勉強してた方が合格率は高くなる筈でしょう。商売繁盛の熊手を数万円、ときには10万以上払って買うくらいだったら、その分を仕入れや従業員の給料に廻した方がビジネスは上手くいくでしょう。
そもそも墓を作ること自体宗教的といえなくもないです。死ねば全てが終わるのだ、霊魂なんか絶対無いのだと100%確信してたら、死体などさっさと廃棄処理してもいい筈だし、わざわざ死体を埋葬してその土地に目印を置いてあとで又来れるようにする必要なんかない筈です。もちろん、故人となった愛しい人を偲ぶ気持ちは宗教に関係なく誰でもありますから、それなりにメモリアルな儀式を行ったり、形見の品や生前の写真を大切にすることはあるでしょう。しかし、メモリアルだけだったら、生前の故人の部屋をそのままにしておくとかいう方がはるかにメモリアルになるでしょうし、一度も行ったことのないような見知らぬ土地に、灰となった骨片を埋めて大きな石を置いておくという作業は要らないでしょう。何故そういうことをするかというと、やっぱりなんか釈然としないのでしょうね。心のどこかには故人の霊のような存在があり、その場所が待ち合わせのポイントになるようにって思うのかもしれない。あるいは、死者を粗末に扱うことにタブーを感じる。墓参りなんかもそうです。お盆に、数十キロにも及ぶ大渋滞の高速道路を抜けて大汗かいて墓参りをするのは何故なのか?
かといって熱烈に信じてるわけでもないし、面と向かって「本気で信じてるの?」って言われたら「いやあ、別に」と答えるだろうけど、全く信じていないわけでもないんですな。それは淡い淡い心情なのかもしれないけど、全く無色ってわけではないでしょう。単なる儀式だ、習慣だ、習俗だ、ライフサイクルや年中の節目としてのペースメーカー機能とか、世間体やつきあい、家族再会の機会、、などなど、合理的な説明はありますよ。殆どそれらの要素だと言ってもいい。しかし、それらで全ての説明がし尽くせるか?って言ったら、そういうものでもないように思います。
日本人の宗教心は、淡い色調のパステルトーンではあるのだけど、無いわけではないと思います。
そしてその信仰の対象は何かというと、これも淡くて、あんまりよく分からない。だから、神道も、仏教も、儒教も、陰陽道も、道教も、その他民間信仰も、みなまぜこぜになっている。逆に言えば、一つの体系だった教義に、自分の精神や人生の全てを預けようとは思っていない。僕の推測に過ぎませんが、日本人というのは、一つの教義や神学体系でこの世の全ての説明がつくとは思ってないし、説明がつくと思わせてくれるような体系に出会ってないのかもしれません。
僕自身、無宗教な人間ですが、反宗教的な人間ではないと思ってます。神がいるとは信じてないですけど、絶対いないとも思わない。死者の霊についても同じです。要するに「わからない」ということです。ひるがえって言えば、この巨大と形容するのも愚かしいくらい超絶的に巨大な大自然や、大宇宙からみれば、自分なんか卑小な存在であるし、自分の知覚認識能力なんか非常に限定された貧しいものです。犬やコウモリに聞こえる音(超音波)は聞こえないし、赤外線や紫外線は見ることが出来ないという肉体器官の限界がまずあり、150億年の地球の歴史に対してたかだか100年未満という超短期の観察経験期間しかもっていない人間が、いったい何をどれだけ知ることが出来るというのだ?
神様はいるのかもしれないけど、そんなことは僕にはわからない。霊魂も死後の世界も、僕は丹波哲郎ではないので、よく分からない。わからないものは、「わからない」としておくのが最も正しいのだろうと僕は思います。だから、神と子と聖霊が三位一体とか、天国・煉獄・地獄があってとか、アラーの神がどうしたとか、この世の生命は全て輪廻転生するとか、天界のヒエラルキーはこうなってるとか聞いても、僕の答えは常にひとつ。僕にはわからない、と。むしろ「なんでそんなことがアナタに分かるのか?」と真剣に疑問なんです。普通に考えたら人間ごときにそんなものが手にとるように分かるわけがないだろうと。それにもしキリスト教が100%正しかったとしたら、イスラム教とか仏教というのは100%間違ってることになるけど、それもなんか釈然としないのですね。まあ、そんな理屈めいた話はともかく、どんな宗教のどんな神学体系を聞いても、僕が生身の肉体で直感的に抱いている世界のありようとは、「なんか違うんじゃないか?」って気がするのですよ。「本当かあ?」って、なんかハマらない気がする。
ただ、神的なもの、霊的なものがあっても不思議ではないと思ってますし、それがなんであれ「なんかあるんだろうねえ」とは思ってます。ただ、それ以上は突き詰めて考えません。そして、「なんかあるんだろうね」と思うときの自分が、そんなに嫌いではないです。100%無いと言い切るときって、どっかしたら心で無理をしてるというか、テンパッてるというか、あーんまり平静で安らかな心情ではなく、どちらかといえばトゲトゲしく、突っ張ってる感じがします。超絶的な存在なり原理なりがあるんだって思うとき、人は、なにやら身の丈に合った「優しい謙抑性」というか、「安らかな情知」を抱くことが出来るような気がします。故人となった友の霊が存在しないと思うよりは、いると仮定し、その友と語り合うような心情になるとき、不思議と冷静なんだけど、ゆったり優しい気分になるでしょう?本能的になんかしら感応してるのかなって気もするし、それが説明のつきにくい本能的なものなだけに、なんかあるのかもねって気もします。
でも、それ以上突き詰めて考えようとは思いません。そういう気分になれただけで十分なんじゃないのか?と。人がゆったりと優しい気持ちになれること以上に、宗教が果す役割なんか無いようにも思うのですよ。それ以上の神学的説明とか教義とか戒律ってのが、僕には有り難いというよりは、むしろうざったいんですよ。失礼な言い方であることは承知してますけど。でも、あなたが遠い異郷に離れている恋人のことを思うとき、安らいだ温かい気持ちになれるでしょう。そして、それで十分でしょう。それ以上に、それはエディプスコンプレックスの超越欲求がとか、脳内のドーパミンが分泌されとか余計な注釈をして欲しくはないでしょう。「だー、うるさい!」って思うでしょう。それに似てます。
よくは分からんのですけど、多くの日本人の心情というのは、僕と似たり寄ったりなのかもしれないです。死んだ家族や友が魂となって見守ってくれているって部分、そう思うことによって「ああ、ちゃんと生きなければな」って思う部分が大事なのであって、その友を極楽浄土から迎えに来るのが大日如来であろうが、阿弥陀如来であろうが、It doesn't matter、そんなこたあどっちでもいいです。仏教だろうが神道だろうが、「やさしい気持ち」になれれば別になんだっていいんじゃないかって。説明そのものに大した意味はないのだって。
ミもフタもない言い方をしますと、宗教というのは、人が自分をもっとも良質な状態、良心的で優しい自分であるように誘導し、キープしていくための一種の技法だと思います。そうなるためには、全人生的な献身という作業を必要とする人もいるだろうし、時折、なにやらほっと思い出すという程度で十分な人間もいるんだということでしょう。そして、日本人は後者のパターンが比較的多いんじゃないかと。
そして、宗教というのものが、面倒な論理的証明というダンドリを抜きにして、超絶的な存在をもとに「やさしい自分」を導き出してくれる技法であるとすれば、日本人は十分に宗教的な民族であると思います。しかし、宗教というものが、教義や教典、戒律、組織という形式性に意味があるとするのであれば、全然宗教的ではないです。僕らにはそんなスタイルなんか要らないのでしょう。
というわけで、突っ込んだ形で「日本の宗教は?」と突っ込まれたときは、「宗教って何よ?」という逆突っ込みが有用ではないかと思ったりします。でも、まあ、これまで述べてきたことを英語で表現するだけでも大変だとは思いますけど(^^*)。
(補注) 宗教の問題はやたら範囲が膨大で且つ根が深く、触れられなかった点も多々あります。最後にちょこっと書き出しておきます。
宗教の実際の働きをみていると、人々の日常生活の規律や発想をあれこれ規定するという側面があります。例えば日曜日は安息日だから働いたらダメとか。イスラム教徒かユダヤ教などは特にこれが強いと思います。日常生活のあらゆる点に宗教上の理由があり、「だから守りなさい」という。でも日本人の場合、宗教的な理由をもってこなくても、この種のルールとかパターンというのは結構皆が守るのですね。このように特に神様を持ち出してこなくても、それなりに調和の取れた社会が出来てしまう日本においては、それほど宗教の必要性は強くなかったのかもしれません。
また、「和の精神」というか、何に強制されなくても自発的にバランスを取ろうとする日本の場合、それこそが宗教と言えなくもないです。逆に言えば宗教の力を借りずして文化が出来てしまうという。宗教にせよ、法と秩序にせよ、いずれも人間のケダモノ性を「調教」するところに意味があるのでしょう。戒律を破ると神様に怒られるとか、法律を破ると罰せられるとか、強烈な反対動機を形成させて社会のルールを維持するという。でも、根が温厚で、相互におもんばかる「察しの文化」と、和と「なあなあ」の社会である日本においては、そんなに仰々しいものを持ち出さなくても、別に社会は機嫌よく廻っていった、だから他国のように全面的に宗教が支配するという具合にはならなかったとも言えるでしょう。同じように法治国家や民主主義が根付いているようであんまり根付いていないのも似たような構造に基づくのかもしれません。つまり外部的な力によって強制的に規律されるまでもなく勝手に自分達でうまいことやっていける民族だから、政治なんてのも単なる利害調整の場としてしか見てないのかもしれないです。
また日本が無宗教の国といいつも、宗教宗派の数はやたら沢山あります。特に戦後、「神々のラッシュアワー」と呼ばれるくらい無数の新興宗教団体が設立されていますし、その流れは今日なおも続いています。Wikipediaで「新宗教」でひくと山ほどでてきますが、以下、主立つものだけでいったいどれだけあるのか、単純羅列してみます。
教派神道系 黒住教 神道大教 出雲大社教 金光教
山嶽信仰系 丸山教 御嶽教
想念憑依系 円応教 神理教
大本系 大本 (大本教)
生長の家系 生長の家 白光真宏会
世界救世教系 世界救世教 いずのめ教団 東方の光教団 主之光教団 神慈秀明会
真光系 世界真光文明教団 崇教真光 神幽現救世真光文明教団 陽光子友乃会 真光正法之會 ス光光波世界神団
独立系その他 松録神道大和山 祖神道 ひがしくに教 神霊教 霊波之光教団 大山祇命神示教会 ワールドメイト(コスモメイト) 皇道治教
仏教系の新宗教
法華宗系
日蓮宗系 釈尊会 国柱会 日蓮宗葵講
霊友会系 霊友会 立正佼成会 佛所護念会教団(佛所護念会) 妙智会教団(妙智会) 思親会 妙道会教団(妙道会) 法師会 在家仏教こころの会
日蓮正宗系 冨士大石寺顕正会(日蓮正宗から破門されている) 正信会 創価学会(日蓮正宗から破門されている)
天台宗系 念法真教 孝道教団(霊友会系に分類することも多い)
浄土真宗系 浄土真宗親鸞会(歎異抄研究会もしくは高森親鸞会と表現する文献有り)
真言密教系 阿含宗 真如苑
その他の仏教系 弁天宗 ひがしくに教 圓佛教(韓国系) ホアハオ教(ベトナム系) 解脱会 如来教 一尊教団 三宝教団
インド系の新宗教 ブラフマ・サマージ プラールタナー・サマージ アーリヤ・サマージ ラーマクリシュナ・ミッション シュリー・ナーラーヤナ法普及協会 オウム真理教(アーレフの前身)
キリスト教系の新宗教 セブンスデー・アドベンチスト教会 エホバの証人 キリストの幕屋(原始福音) 世界基督教統一神霊協会(統一協会もしくは統一教会と表記する場合有り) 聖神中央教会 心の集い ニューソート クリスチャン・サイエンス ユニティ派
イスラム系の新宗教 バハーイー教 (バハイ教) ネーション・オブ・イスラム (ブラック・ムスリム)
GLA(ゴッド・ライト・アソシエーション)系 国際正法協会 偕和會 千乃正法
精神修養団体・心霊研究団体 修養団 倫理研究所 実践倫理宏正会 ライフスペース 日本心霊科学協会 神智学協会 人智学協会 モラロジー研究所
その他の新宗教 天理教 世界心道教 パーフェクト・リバティー教団(PL教団) 幸福の科学 法の華三法行(2001年解散) カオダイ教 ウィッカ 法輪功 サイエントロジーTM ラエリアン・ムーブメント 日本平和神軍
ね、やたら沢山あるでしょう?聞いたことのある団体も、5つや10個くらいあるでしょう。これだけ見てると、「日本人は宗教に比較的無関心」という大前提がガラガラと崩れていきそうな気がしますね(^_^)。「人それぞれ」と言ってしまえばそれまでだけど、一方で宗教についての淡いパステルトーンの社会があり、他方でこれだけの新宗教が乱立している日本ってなんなんだろう?って思ってしまいます。考え出したらキリがないので、問題提起だけしておきますね。
文責:田村
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