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今週の1枚(06.03.27)



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ESSAY 252/海外でJAPANについて説明しよう〜ゲイシャ編



 写真は、先週のカポエラと同じ日、同じダーリングハーバーで行われたインドネシア・フェスティバルの様子。右端の二人がインドネシア語で司会してて全然分からなかったけど。ちなみに昨日は同じ場所でギリシャ・フェスティバルがあったのですが、見逃してしまいました。




 留学やワーホリなどで渡豪される方の準備に関するFAQのページで、世界中の人から日本のことをよく聞かれるし、あなたは日本のスポークスマンたる役割を期待されるから、日本に関することを勉強しておいたり、簡単なアンチョコなどを持っていくといいよと書きました。でも、なかなかそこまで手が廻らないのが実情でしょう。かくいう僕も、「じゃあ、お前はそんなに日本のことに精通してんのかよ?」と言われると、キビシイものがあります。「なかなか自分の国のことってよく分からないよね、あはは」と笑って誤魔化したりするのですが、聞いた相手は全然笑ってなかったりして焦ったりします。

 「なかなかキビシイよね」「そうだよね」と傷をなめ合ってないで、少しでも勉強しましょう。「勉強」というとなんか重たいので、いかに僕らは日本のことを知らないのかということで、ちょっとづつでも調べてみましょう。





ゲイシャとはなにか?

 「ゲイシャ」は既にGEISHAという英語になってます。英語になっている日本語は数多くありますが、ゲイシャはその中でもかなり有名な部類に入るでしょう。近時またゲイシャの映画がありましたし。

 しかし、芸者さんといっても、僕らの日常生活ではそんなに馴染みがあるわけではないです。特に留学やワーホリをする若い世代の人は、芸者さんに会ったことすらない人も沢山いるでしょう。ましてや、敷居が高いといわれる京都祇園で遊んだことある人なんか、ごく一握りでありましょう。何を隠そう僕も無いです。あってたまるかって感じ。まあ、銀行とか企業に勤めると、若い人でもカバン持ちくらいの役目で同席することはあるでしょうが、自らの甲斐性で芸者さんを呼んでご接待なんてのは、百年早いって感じですよね。だから、一般人にとって、ゲイシャさんというのは、非常に有名だけど実際に自分で見たことはないという意味で、ネッシーみたいなものかもしれない(まあすれ違うことくらいはあるだろうけど)。

 でも、あなたが知らないものを、目の前のコロンビア人がもっと知ってるわけはないので、一応説明しなきゃいけない立場に追い込まれるでしょう。さあ、困った。何を言おう?



 そもそも「芸者」とはなにか?
 字面を見れば、「芸をする人」であり、アーティストであります。それだけだったら広すぎるので、舞踊や音楽で宴席に潤いを与え、客をもてなす女性のことでしょう。はい、ここで、重要な成立要件(大袈裟な)が4つ登場しましたね。@踊りや音曲を披露すること。ジャパニーズ・トラディショナル・ダンス&ミュージックをする、A宴席でプレイすること、B客をもてなすこと、C女性であること、です。ぶっちゃけて言ってしまえば、「歌って踊れる出張コンパニオン」ということになるでしょうか。

 ところで「芸者」とは関東風の呼び方であり、本来はひろく芸妓(げいぎ)と呼ばれ、関東地方では芸者、関西地方では芸子と呼び、それぞれ見習い期間の人のことを半玉(はんぎょく)、あるいは舞妓と呼ぶそうです。

 現在でももちろん芸者さんのシステムは生きており、また有名な京都祇園に限らず、全国津々浦々で芸者さん達は頑張っておられます。




 さて、芸者さんを呼ぶときにどうすればいいか?宅配ピザのように自分の2DKのマンションに呼ぶなんてことは、出来そうもないです。そのシステムですが、芸妓さんがコンパニオン&タレントだとしたら、プロダクションに相当する存在があります。それが置屋(おきや)と呼ばれる存在です。この芸妓志望の女性は、この置屋に入門し、そこでビシバシ伝統芸能を仕込まれるとともに、立ち居振舞い、言葉遣い、気配りなどについて徹底的にトレーニングします。

 個人的に思うのですが、本来は極東の島国のホステス業に過ぎない芸妓がここまで世界的に有名になったのは、おそらくこの立居振舞いや気配り=「洗練されたもてなし」であり、英語でいえばホスピタリティですが、このホスピタリティのクォリティが世界最高水準だったからではないかと。ずっと前、オーストラリアの国営テレビのSBSで日本のゲイシャの特集をやってましたが、そこでニヤけた日本の旦那衆が「なぜゲイシャ遊びをするのか」という問いに口を揃えて答えていたのが、この点でした。つまり、「究極の接待技術」であると。

 セックスするだけだったらいくらでも風俗はありますし、セクシーな女性と酒池肉林なんてのも大金持ちの旦那衆だったら別に難しくもないでしょう。それが、なんでお座敷にやってきて、お行儀よくチョコンと座って、子供の遊戯みたいなジャンケンまがいのことをやってキャッキャ喜んでるだけで満足できるのでしょうか?そこなんでしょうね、ホスピタリティ・インダストリーの奥深さは。

 座るだけで数十万円といわれる銀座や新地の超高級クラブがありますが、なぜそこに人々は通うのか。
 可愛い女の子と他愛もなく喋るだけなら、別にもっと安くても幾らでもあるし、キャバクラなんかもある。濃厚なサービスを求めるなら風俗もある。どこにこの料金差があり、消費者はどこに納得にして目の玉が飛び出るような高額の料金を払うのか?つまりはホスピタリティの魔術と技術だと思います。

 高級クラブで働こうと思ったら馬鹿には出来ないといわれてます。一流のホステスさんともなると、毎日、経済新聞全てに目を通し、経済、文化、政治、芸能あらゆることに精通してるといいます。なんせ通ってくるのは日本経済を動かしているような連中ですし、そういう人と話をするにはそのくらい知ってないと勤まらない。誰でもそうだと思いますが、全く他愛のない話もいいかもしれないけど、適当に話の内容の濃い方が喋ってて楽しいでしょう。オシボリで顔をぬぐいながら「いやー、また日銀がいい加減なこと言うんで参っちゃうよ」と語りだした○○会長に対して、「ニチギンってなーに?」とか答えてたら会長もズッコケるでしょう。そこを「日銀って、今回の利上げ容認発言をして、小泉首相に逆らって意地を見せたって評判じゃない?」と返すと、「いやいや、あんなのはポーズなんだよ。出来レース」「へえ、そうなんですか?」「そうなんだよね、そこが連中のイヤらしいところでさ」と会話が弾むわけです。賢いホステスさんになると、100点知ってるけどわざと90点の答えをして、あとの10点を相手に答えさせて「さすがねー」と相手の優越感を満足させたりすると。深い世界です。

 しかし、そういったホステスさんでさえ、このような技術や知識は、天性の頭の回転のよさと、日々の自学自習によるもので、システマティックに養成されるものではないです。

 ところが芸妓さんの場合、大体中学を卒業してから置屋に入り、住まいもそこに移し、生活費からお小遣いまで全て置屋の丸がかえのもと、1日24時間徹底的なトレーニングを何年にもわたってやるわけです。ハンパな根性では出来ないですし、そこで叩き込まれる技芸の奥深さ、気配り・立居振舞いなどの仕付の厳しさは想像に余りあります。まさに、ホスピタリティの「虎の穴」のようなものです。

 しかも、セックスや性は売り物にせず(「芸は売るけど、身体は売らない」)、ひたすらお座敷で相手をもてなすという一点に絞り込まれているわけです。一挙手一投足、どこからみても美しくみえるように振る舞い、相手に合わせた会話の押し引き、カンドコロ。そのくせ人工的な雰囲気を少しでも感じさせたらダメなわけで、あくまで自然に見え、自然の生き生きした美しさをメインにもってくる。ある意味、日本の美意識の一つの結晶でしょう。生け花がそうであるように、花を素材にした造形をするのではなく、花が本来持っている自然の生命力をいかにナチュラルに引き出すか。だから「芸」なんだと思います。ゲイシャさんの「芸」は、「芸術」の「芸」であり、「アート」なのでしょう。もともと細かいところに気が廻り、相手の心を慮る度合に関しては世界最高の日本民族が、その数百年にもわたる伝統と叡智を注ぎ込んでクリスタライズ(結晶化)したのが芸妓だと。そりゃ世界最強でしょう。

 前述のSBSの番組でも、ゲイシャさんのことを、「究極のホスピタリティロボット」と評してしたように思います。
 まあ西洋人の目からみたら、伝統社会のあまりにも重いオキテで縦横に縛られ、人間業とは思えない超絶的なテクニックを身に付けながらも、素顔は、しかし、まだあどけない少女達という、この物凄いギャップにある種の痛々しさの伴った感動を抱くのでしょう。それは、なにか、中国の纏足や、体操王国ルーマニアの少女達が食べたいものも食べられず超人修行をしている、凄いんだけど痛々しいという感じに似てるのかもしれません。



   さて、芸妓さんのプロダクションが置屋ならば、よく聞く「お茶屋」というのは何かというと、貸し座敷業者です。レンタルスペース、パーティ会場屋さん。待合とも、待合茶屋とも言います。赤穂浪士の大石蔵之助がボンクラを装うためにドンチャン騒ぎをしたというので有名な祇園の一力(いちりき)茶屋なんかもそうです。ちなみに一力茶屋はまだ現存してバリバリやってます(昔と場所は変わったそうだけど)。このお茶屋さんは単なるスペースを貸すだけではなく、トータルコーディネーターになります。お茶屋さんにあがって、女将さんにお座敷を作ってもらい、芸妓さんを呼んでもらい、さらに仕出しなどの料理を取り寄せてもらうわけです。これが普通のスナックとかクラブだと、場所を提供するクラブが、ホステスさんも抱え、自分の厨房で料理を作ったりするわけですけど、お茶屋さんの場合は完全にアウトソーシング。料理は仕出し屋さんに、ホステスは置屋さんにお願いするわけですね。

 いろいろなシキタリのある京都の場合、さらに厳しい制約があるようで、例えば京都で悪名高い「一見さんお断り」の風習であったり、一つの花町に贔屓の茶屋は一つしかもてない(二つ以上利用したら”ほうきのかみ”と言われて相手にされなくなる)とかいろいろあるようです。一つの町といっても、同じ京都でも、祇園と先斗町(ぽんとちょう)は別エリアとされているようですね。あと料金がよう分からんという不明朗さもあります。

 京都祇園のシステムをわかりやすく解説してくれているサイトがありました。京都・祇園へ行っちゃいましょうよ というページで、「へえー、そうだったんだ」というタメになって、読んで面白いサイトです。詳しく知りたい人はどうぞ。


 別に芸妓、芸者さんが祇園の専売特許ではありません。日本全国にいらっしゃいます。東京だって、新橋芸者、深川芸者、辰巳芸者という有名どころはありました。日本には全国各地に温泉があります。温泉あるところに宴席あり、宴席あるところに芸者さんありということです。大体、昔はCDもレコードも有線もないんだから、BGMは自分らで演奏しなきゃいけないわけだし、宴席のプロだったら三味のひとつも弾けなければ嘘だったのでしょう。そして、祇園のシステムが全国共通のシステムというわけでもありません。祇園というのは、京都独特のカルチャー、なんと言うのか、敢えて閉鎖的になることによって純度を高めるシステムとでもいいますか、によってやや特殊な趣があります。他のエリアでは、もっと「派遣コンパニオン業務」としてシンプルで分かりやすくしているところもあります。例えば、静岡県の清水市では、清水置屋協同組合がわかりやすいホームページを作って、そのシステムを丁寧に解説してくれています。料金なんかも、一座敷(2時間)芸妓ひとりあたり1万6800円(車代別)と明朗です。





 芸者さんと聞くと、「幼い少女を売りはらって」という人身売買的な暗い陰がつきまとったり、なんだかんだいって結局売春をやってるのではないかとか、結局どっかの金持ちオヤジが高いお金を払って芸者を落籍(ひか)せて、二号さんとして囲ってるんじゃないかとか、そういうイメージもあるでしょう。

 歌舞音曲は芸妓さんであり、その人々のエリアは花柳界やら花町と呼ぶ。閨(ねや、ベッドルーム)のことは遊女であり、その女王的トップクラスが花魁(おいらん)で、住んでるところは遊郭ということになるわけで、この両者は一応別です。「一応」と歯切れが悪いのは、その昔むかしの源流は、白拍子(しらびょうし)と呼ばれる、歌舞音曲もするけど売春もする人達でした。「売春」とか言っちゃうとナマナマしいので、雅(みやび)やかに古式ゆかしい日本語で「色をひさぐ」とでも言うべきでしょうか。


静御前〜ティーエイジャーまま逝った義経の恋人〜あまりにも凄絶で、悲惨で、カッコ良すぎる伝説

 ところで、白拍子って、源義経の恋人の静御前(しずかごぜん)もそうですね。
 静御前って、そういえばずっと昔にクーラーの名前になっていたなあ、くらいの感想しかもたない無知のワタシでありますが、

しつやしつしつのをたまきくり返し 昔を今になすよしもかな

という彼女が即興で詠んだ歌の解説を読んで、ぶっ飛びました。

 静御前は恋人の義経とはぐれたところを捕まり、鎌倉の頼朝のもとに送られます。そして、恋人を殺した憎き仇の前で舞うように命じられます。そのとき舞いながら歌ったのが「しつやしつ、、」なのですが、「しづ」というのは日本古代の織物です。今はないですけど平安時代までの日本人はこの布を服にしていたようです。平安時代は濁音がなかったので「しつ」と発音してたそうです。この「しつ」を毛糸玉のように丸めたのが「おだまき(苧環)」。機を織るときに、このオダマキから「しつ」が限りなく繰り出されるわけで、ここから「しつのおだまき」というのは、「繰りかえす」という動詞を飾る言葉になった。ただ、静御前が信じられないくらい破格に頭がいいと思ったのは、これってトリプル・ミーニングだからです。

 まず、「しつのおだまき」という一般用法のほか、静御前の「しず」がひっかけられてます。「しつやしつ」というのは、愛しい義経が自分を呼んでくれているとき音でもあるわけです。「静、静、しずはおらぬか」とおそらくは義経は優しい声で呼んだのでしょう。さらに「賎(しず)」という意味もひっかけられてます。「身分の卑しい」という意味で、貴族ではなく一般庶民を意味します。田舎で女が機織をしているような土着的な風景を歌ってるわけです。そして静御前その人も白拍子という下賎な階層の出身です。

 「しつ」を三連発することによって、織物の「しつ」、自分の名前、庶民性の三つを絡ませながら、おだまき(糸巻き)が繰り返すように「過ぎ去った昔の日々を取り戻すことができたらいいのに」(=昔を今になすよしもかな)と一気に下の句に畳みかけていくわけで、そのリズム感といい、込められた情念の重さと炎のような激しさといい、すげえ歌だな、これ、と思ってしまったわけです。

 この解説は司馬遼太郎氏の「街道をいく 27巻 因幡/伯耆のみち」の128頁以降に出てきますが、考えれば考えるほどスゴイ話なんですわ。だって、このとき静御前って、まだ17歳か18歳かそこらですよ。天下の舞の名手として知られた彼女は、日本のトップクラスの歌手みたいなものです。と同時に目の前に座っている頼朝は、今まさに権力を握ったばかりの大首領であり、今でいうなら総理大臣と山口組組長を合体させたような超強力な存在です。また、背後で楽器を奏でているのも、錚々たる大名連中です。

 こういったVIP連中に囲まれながら、17-18歳の小娘が、恋人の仇である頼朝にバシッとメンチ切って、頼朝が殺した義経を慕う歌を堂々と歌う。「取り戻すことが出来ればいいのに」という歌ですけど、本意は敵意バリバリで、「お前が殺したんだ!!」と指を突きつけて糾弾するかのようなものでしょう。その証拠に、「この無礼な女が」と頼朝は激怒したそうですが、頼朝も頭が上がらないカアちゃんの北条政子に「私が逆の立場だったらきっと同じ事をするよ。あの子いい根性してるよ、許してやんなよ」といさめられたとか。

 このとき静御前は義経の子をみごもってました。後日、男児を産み落とした静御前ですが、赤ちゃんは幕府の手で由比ケ浜で沈められて殺されてしまいます。むごたらしいことをすると思うけど、そういう時代なんでしょう。傷心の静御前はひとり京に戻りますが、翌年心労で病死します。享年わずか19歳。ティーンエイジャーのままこの世を去った静御前ですが、まあその恋人である義経の物語がその後の日本人を惹きつけてやまないというのもわかる気がしますね。日本史のなかのカッコいい女性のベスト10を挙げれば静御前は入るでしょう。同じ時代の巴御前(木曾義仲の奥さん、女虎のように猛々しく美しいと言われる)もカッコいいんだけど。

 話が逸れました(-_-;)。



   芸妓も遊女も元をただせば白拍子というミュージシャン&ダンサーでもあり、風俗でもあったという存在に源流をもちます。それがまあ段々別れていったのでしょう。もっとも、そんなに厳密に分かれていたわけでもないし、昔の日本では幼い子供の人身売買なんか普通にありました。人身売買の仲介業者である女衒(ぜげん)なんて商売があったくらいです。戦後になって世の中が豊かになるにつれ、そういう人身売買も減り、ひいては芸妓さんの売春的側面もなくなってきます。要するに、置屋さんや遊郭においては、高いお金をだして少女を買うわけで(仕入れるというべきか)、それにさらに費用をつかって飯を食わせ、技芸を教え込むわけです。もともとが背骨が折れるくらいの重たい借金を背負わされ、一種の債務奴隷状態になってるわけですから、投下資本を回収するために売春行為を強制させるとか、半玉/舞妓の処女を高値で売りつける「水揚げ」という非人権的伝統的儀式もあったりするわけです。

 でも、今はそんなことないですよ。今は舞妓さんって、女の子の間でも人気だもん(もっとも務まる人はマレらしいが)。わざわざ違法な人身売買なんかに手を染めなくたって、なり手は沢山居ます。また、そんなことしても成り立っていかないでしょう。今の人身売買は、サラ金→マチ金→ソープランドという経路であり、そのソープランドですら、殆どは女性の自由意志でやってたりしますもんね。以前岐阜で司法修習(検察修習)やってたときに、金津園の手入れがあり、僕もひとりソープレディさんの調べをしたことありますが、皆さんそれなりに事情はあるだろうけど、「自分のお店が欲しい」とか結構ポジティブな理由が多かったです。大体やね、女子高生が自主的に売春やってる昨今、風俗系はむしろ供給過剰だといえます。そんなときに、発覚したら警察の手入れが入って手が後ろに廻るようなリスクを犯しつつ、さらに何年もかかるような悠長な舞妓修行なんかさせるわけないでしょ。実際、旦那がついて落籍(ひ)かされた=芸妓を辞めたという例はまだありますけど、ちゃんと結婚してたりします。つまりは自由恋愛だったりするわけで。

 もっとも、等しく「芸者」という呼び方をしたとしても、祇園や高級料亭などで活躍する芸者さんと、かなり売春もアリというムードで頑張ってる芸者さんもいるでしょうから、一概には言えないとは思います。どこでどう線引きするのかというと、そんな線引きなんか出来ないんじゃないかって気もします。クラブのホステスさんにせよ、キャバクラにせよ、お客さんとエッチすることを前提にしているような、していないような微妙なところがあるじゃないですか。もちろん通えば当然セックスできるってものでは全然ないです。でも、100年通っても絶対ダメか?というとそういうものでもない。客だってある程度は下心があるだろうし、それがあるから通い詰めるんだろうし。どこからが自由恋愛で、どこからがビジネスライクなのか、これは微妙なところだと思いますよ。

 ただ、芸者さんに関していえば、いわゆる「格」が上がれば上がるほど、風俗的側面は退行し、技芸的側面が強くなるというのは言えるでしょう。お座敷で、「金払ってるんだからいいんだ」とばかりに露骨に卑猥な振る舞いにでたらレッドカードを食らうでしょうし、思いっきり馬鹿にされるでしょう。金を払っているのに何もしないなんて勿体ない、なんて貧乏臭い男の来るところではないってことですね。そういうゲームなのでしょう。「俺はそんな卑しい男ではないぞ」「粋に遊ぶ」という男のプライドで成り立ってるところがあって、高いお金を払ってお遊戯まがいのことをやるのがイイわけです。これは銀座や新地の高級クラブなんかにも通じるものがあると思います。

 京都の花町や料亭などで「一見さんお断り」とするのも、高度な信頼関係を維持し、それなりにいい雰囲気をキープするためでしょう。金さえ出せば誰でもいいってわけではない。それをやると独特なワールドが壊れるのでしょう。また、自分の馴染みのお茶屋さんに知人を紹介する場合も、ヘタな人間を紹介したら自分の株が下がるので、それなりに慎重にならざるを得ない。それに、料金体系が今ひとつよく分からないのも、ベースに信頼関係があるからであり、やたらめったら不明朗なわけでもないそうです。非常に敷居が高いというか、僕らには近寄りがたい世界なのですが、近寄りがたい世界でいいのだとも思います。実際、幾らになるのか見当もつかないお座敷で、大して興味も鑑賞眼もないのに日本舞踊や三味線を聞いて、「おひとつ、いかがどすか?」とお酌をしてもらって、他愛のないお話とお遊戯をして「楽しいか?」といわれたら、楽しくないですよ。相当遊びこんでこないと、そこまで枯れないです。だから、それを理解できる人だけのサークルということなのでしょう。「敢えて閉鎖的になることによって純度を高める」ってのはそういうことです。

 その昔、祇園に付き合いで行ってた人が語ってました。「あんなもん、なにが面白いんやって最初は誰でも思うんや」と。「でもな」と続きます。「馬鹿馬鹿しいと内心思いながらも、お遊戯みたいなことをしてるとこれが妙に面白いんや」と。なんとなく分かる気はします。童心に帰るというか、妙に癒されるというか、あれは結局、大人のロンパールームみたいなものかもしれない。ちなみに男性だけが通って楽しいというものではなく、女性も結構ハマるらしいです。夫婦でいったら奥さんのほうがハマってしまったという例もあるとか。だから神業的なホスピタリティなのでしょうね。でも、いい年して馬鹿馬鹿しいお遊戯をするってのは結構イイですよ。別に祇園に行かなくても、こっちの語学学校に入って、それもレベルの下の方のクラスに入ると、お遊戯みたいなゲームが多いですからね。「けっ」とか思ってるうちに、気が付いたら自分も夢中になってたりするもんです。多分、子供がやって楽しいことは、大人がやっても楽しいんでしょうね。



 というわけで、ガイジンさんに「ゲイシャってなーに?」と聞かれたら、上記のようなことを答えたら良いのでしょう、って長過ぎるか。
 まあ、トラディショナルなジャパニーズのミュージックとダンスをプレイしつつ、プロフェッショナルなホスピタリティのエキスパートであるパーティコンパニオンみたいなものとでも答えておきましょうか。加えて言えば、非常にユニーク且つトラディショナルなトレーニングシステムとマネージングシステムのもとに、究極のスタイルを持っているのだと。アルティメイト・スタイル(ultimate style)。

 でも、日本人でもゲイシャ遊びをした人なんか滅多にいないというのに、なんでこの単語が世界的に有名になっているのでしょうね?まあ、外国にいったら誰でもその国のエスニックなものに目がいきますよね。僕らだって、タイにいったら、極彩色の仏教世界とかムエタイに目が行き、タイ語のヒップホップなんか別にそんなに聞きたくはないでしょう。それと同じなのかもしれません。




文責:田村



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