今週の1枚(06.03.13)
ESSAY 250/「もう、これでいいや」病
写真は、電車内から撮影した Milsons Pt 駅のホーム。
「最近の若いもんは〜」というフレーズを前回やりました。
今週は、「最近の若くないもん」に焦点を合わせます。個人的には、むしろこちらの方を声を大にしていいたいです。
社会というものは、「若くないもん」によって基本的なフレームワークを作られ、「若くないもん」によって運営されています。古今東西、どの部族のどのカルチャーでも、一般に権力というものは年長者の方が持っています。「若くないもん」=ってイチイチ言うのはしつこい感じがするので、以下単に年長者など一般的な表現で言いますが、結局、なんだかんだいって社会の大勢を決めているのは年長者です。
もちろん若年者が先駆的にリーダーシップを握ってる領域はたくさんあります。スポーツ選手などは肉体の運動能力という身体的な限界があるので、どうしても若い年齢層の人たちがメインに活躍しますし、ロックなどのアーティステックな領域では若い人たちが前衛的な地平を切り開き、リーダーシップを握っていることも珍しくはない。また、ビジネスでも若い人たちがガンガン引っ張っていってる領域もあるでしょう。ITビジネスなど新しい分野は特にそうです。
しかし、それでも大勢は年長者が握っています。そして「体制」も握っています。オリンピックでもフィールドで活躍するのは若い選手達であろうとも、誰を代表選手として選考するかはJOCを仕切ってる年長者が決め、選手が日々練習する設備であるとか、資金や予算なども年長者が握っています。ロックスターだって、地元のライブハウスに出演するくらいまでは本人たちが自力でやれますけど、以後メジャーデビューして、数億円の予算をかけて広告を打つとか、ツアーに出るとか、メディアミックスをかますとか、そういった部分は大体年長者が仕切ります。そしてTV局の意向、スポンサーの意向によって右往左往させられますが、こういった巨大な権力を事実上握っているのは年長者です。体制、マネージメント、ダンドリ、お膳立て、仕組、なんと表現してもいいですけど、大きな部分はぜーんぶ年長者が強大な権力で作り上げ、あたかも池の鯉のように若いアーチストは泳がされている、売れなくなったらそれで終わり。
ビジネス世界であっても、若い人がガンガン台頭してきたことは、なにもホリエモンを例にあげるまでもなく、これまでも沢山いました。しかし、その業界で頂点に立ったとしても、さらに上に産業界、財界という巨大な仕切りがあり、さらにその上に政界や官界を含めて超巨大な日本の権力構造があります。そういった世界にまで切り込んでいかないと中々自分の思い通り動いていけない。あっちに気を使い、こっちにヘコへコしないとならない。それがイヤだったら上にあがれ、日本のエスタブリッシュメント(権力中枢集団)に食い込めってことです。明治維新以来の国策産業、旧財閥系、重厚長大産業。歴代政治家と濃厚な閨閥を持ち、ひいては皇室系とすら外戚関係を持つという真に日本の貴族階級に成り上がれってことですね。そこまでいかないとこの国ではマトモに息が出来ない。戦前の財閥系サロンであった「日本工業倶楽部」を前身母体とする経団連。財界の総本山といわれるこの組織の会長に、トヨタの豊田章一郎氏が第八代して就任するのは1994年まで待たねばならなかったし、そのときですら「あの成り上がりの新興企業が」と陰口を叩かれたとか。あのトヨタですらこの程度の扱いだったりするわけで、ホリエモンのライブドアなど彼ら権力中枢にいる連中からしたら、蚊トンボみたいなものなのでしょう。
ライブドア事件に先立つ18年ほど前、日本ではリクルート事件で揺れ動いてました。リクルートという会社は今も尚健在ですが、何をやってるのか今ひとつよく分からなかったライブドアに比べ、この会社は確かに日本の経済社会風土を前身させたと思うし、社員の平均年齢が異常に若く、その若さが故の柔軟性や創造性を充分に引き出した、いい会社だと僕は思ってます。実際、はっきり起業目的で入社する社員も多いし、この会社出身者で活躍している企業家も多いです。僕の友人もリクルートに勤務していて、そのコネで当時やってた異業種交流会で、「リクルート事件の渦中で、リクルート本社の社内バーで飲み会をやろう」というお馬鹿な企画をたてて実行したのはワタシです。その後何度かこの会社を訪れたことがありますし、「とらばーゆ」の編集長さんに講演をお願いしたりしましたが(非常に面白かったです)、ほんといい雰囲気でしたよ。たしかに社員が異様に若く、生き生きした社風というのは嘘じゃないなと思いましたが、同時に若さに付き物の傲慢さや無礼さが感じられなかったです。
この会社はもともと1960年に東京大学学生であった江副浩正氏によって「大学新聞広告社」として創業され、以後求人情報といえば新聞の求人欄しかなかった世の中を確実に変えていきます。「リクルート」という言葉もこの会社によって日本語に取り入れられたわけだし、それまでひたすらネガティブなイメージであった転職を(前の会社で不祥事を起こさない限り転職なんかしないという通念もあった)、「とらばーゆ」というポジティブなイメージに変えたのもこの会社。もっと言えば、江戸時代以来の丁稚奉公とか列車で集団就職とかそんな前時代的なイメージでしかなかった求人&就職を、「人材活用」「自己実現」という文脈で捉えなおし、日本社会に定着させたのはハッキリとこの会社の貢献でしょう。現在の「リクナビ」も活用されてますし、古くから親しまれている「住宅情報」「エイビーロード」「じゃらん」など、今の日本社会の柱になるようなものを作り上げてきたと思います。
この会社は有名なリクルート事件を引き起こし、社会から大糾弾を受け、その凄まじさは今のライブドアの比ではありません。今の若い人はリクルート事件すら歴史の教科書レベルかもしれないし、若くない人もよく覚えてないかもしれないけど、あれで内閣がぶっ潰れたんですからね。逮捕者だけでも、江副会長のほか、真藤恒NTT前会長、高石邦男前文部事務次官だし、刑事事件として起訴された政治家だけでも藤波孝生、安倍晋太郎(今の安倍幹事長のお父さんね)、渡辺美智雄、宮沢喜一(その後首相)だし、当時の総理大臣竹下登はこれで辞職しました。メールが偽造かどうかでチマチマ騒いでいる今のライブドア事件に比べて、どれだけ破格な事件だったかわかると思います。ただ、これだけ大騒動になって、政界を揺るがした会社でありながら、今日まで健在なのは(1992年にダイエー傘下に入るが、2000年離脱。現在の最大株主は社員持株会)、やっぱりやってる事業内容そのものが価値のあることだと評価されているからでしょう。
さて、なんの話をしてるかというと、リクルート事件とはなんだったのか?というと、若い人が権力の中枢に食い込もうとすると、この国ではああいう形になってしまうんだなあってことです。新興企業がその地歩を確実なものにするため政財界に食い込んでいくのは、どこの国でも同じなのです。正規のルートでやっていくと30年かかるところを、もう少し手っ取り早くやろうとしたらワイロって話になるのも、これも何処も同じ。時代劇で「越後屋、おぬしもワルよのお」「め、滅相もございません」なんてやってるのは時空間を超越して同じ。
しかし、なんでこんな違法行為をしなくてはならないのか、です。
それは、「仲間に入れてもらえないから」でしょう。社会に新しい価値やシステム、新しい側面を切り開き、それなりに実績を積んだのなら、それなりに発言権も権力も与えられてしかるべきでしょう。しかし、そうはならない。これはことリクルートやライブドアだけの問題ではないです。分かりやすい典型的な事件だけを例に取り上げただけで、程度の差こそあれ、似たような話は全国各地にいくらでも転がっているでしょう。あなたの周囲にも転がっているでしょうし、あなた自身その種の体験をされたこともあるでしょう。で、思うわけですよ、なんでやねん、って。
経験というのは両刃の剣だと思います。若い人は、経験不足がゆえに構造的に無能であることを宿命付けられています。これはもう、動物に本能的に「学習本能」が備わっている限り、絶対といっていいほどそうなる。なぜなら学習機会が多いほど沢山学べるし、学んだ個体の方が生存率が上がるからです。学んでも学ばなくても同じだったら、それは「学習」ではない。逆の言い方をしたら、生存に役に立つ知識やスキルを身に付ける能力を学習能力と呼ぶのでしょう。だから、学習機会が乏しい奴の方が構造的に無能で、生存率が低くなるのは当然過ぎるほど当然です。
ただ同時に、経験や学習は、その個体に新たな行動パターンや発想を刻み込むだけに、それに縛られ、発想や行動が限定されて危機を招くというデメリットもあります。動物の餌付けや罠なんかもそうでしょう。何度も無償で餌を撒く。何度も繰り返すことによって、最初は罠かと思ってる動物の警戒心を解く。「これだけ大丈夫だったら今後も大丈夫だろう」という「理性的な」学習をするわけです。で、ある日突然罠にかかるという。株取引なんかも、最初はおっかびっくりやる。儲かる。まあ半信半疑なんだけど、もう一回やってみる。また儲かった。だんだん病み付きです。経験も深くなるにつれ、読みもできるようになり、それがまたハマリ度を加速させます。でもって、その昔のブラックマンデーのようにある日突然大暴落をして、地獄に叩き落される。
経験があることは、同種同例のパターンへの適切な対処法というスキルを身に付けてくれますが、同時に批判精神が鈍くなり、経験とスキルにあぐらをかいて死を招く恐れもあります。経験が無い人は、無いゆえの発想や行動の自由さという強みを持つ代わりに、1の対処で済む瑣末なことにもパニックになり、10も20も無駄な手数を費やし、その挙句自滅するという弱点があります。
もう一つ。学習経験というものは、すればするほどチャレンジ精神を減退させるということです。ムチャなことはしなくなる。僕は自然教の信者みたいなもので、大自然の摂理、カラッカラに乾いたドライな自然の合理性というものを発想の根底においてますが、生物というものは「努力」がキライなのだと思います。努力に価値を求めるのは人間に特殊な精神性によるのであって、努力の好きな犬とか、根性のあるミジンコとかいうものはあんまりいないじゃないか。つまり合理的に生存に必要なことはやるけど、生存に必要でないと思われることは極力やらないで体力を温存させる。野生のライオンが年がら年中寝てるようなもんです。それが個体保存本能なのでしょう。何を言ってるかというと、大体のことが分かってしまって、それで適当に日々こなせるようになったら、人間というのはほぼ必ず「これでいいや」と思ってしまい、そこから向上しなくなるということです。
何も分かってない時点では、とにかく生きていくことに必死ですから、なんでもかんでもやってみる。チャレンジ精神旺盛というか、チャレンジするしか他にやることがないわけで、チャレンジこそが生存のための唯一の道です。子犬でも人間の子供でもやたら遊びたがる、何にでも興味を示し、何でも触ったり、かじったりするのは、生存のためのトライアル本能のなせるワザなのでしょう。ところが、ひととおりのことが分かってきて、そこまで必死にチャレンジしなくても生きていけるようになったら、そこから面倒くさい努力はしなくなる。チャレンジを恐がるようになる。本能的に守りに入るのでしょう。
しかし、この「これでいいや」とチャレンジを止めてしまった時点からもう向上しなくなります。技術やスキルのUPDATEもしなくなります。これがどれだけ恐いことかは、このHPでも局面をかえて散々言い募っております。英語も、適当に喋れてしまってからが本当の正念場であり、「これでいいや」と思った瞬間から伸びがピタリと止まります。ワーホリさんのチャレンジ精神も、せいぜい現地到着一週間くらいの賞味期限しかなく、この一週間で波に乗れなかったら(新たなチャレンジがシステマティックにやってくるような環境に設定しないと)、日本人環境で息がつけるようになり、「これでいいや」と思ってしまい、そこからチャレンジするのが恐くなってくる。ことは別に海外生活だけじゃないですよ。どんな仕事でも「これでいいや」というポイントはあるし、自動車の運転だって多くの人は何十年も運転しててもそんなに運転技術は向上しないです。昨日よりも今日、今日より明日、より理想的なドライビング技術を身に付けようと思って走ってないでしょう?安全確認の方法に新工夫を考案するとか、カーブや加速のときの荷重移動を出来るだけスムースにするアクセルワークとか、「頭文字D」(というマンガがある)みたいに考えて突き詰めてないでしょう?
さて、このように僕らは学習本能、体力温存本能などの大自然の摂理に規定されています。だからこそ、年長者と年少者は相互補完の関係に立つ、立たねばならないと思うわけです。
メタボリズム=新陳代謝の上手く廻っている社会や組織というのは、その相互補完がうまくいっているのでしょう。年長者は年少者にこれまでの学習経験のエッセンスを手取り足取り教えてあげ、年少者は年長者の発想の盲点をついたり、自由な発想で新しい企画を立ち上げる。一方、チャレンジを鬱陶しがって現状維持にしがみつきたがる年長者のお尻を、チャレンジ精神しかない年少者が叩く。エンジンは年少者のチャレンジ精神であり、ハンドルとブレーキは年長者の経験とカンという具合にね。
しかし、日本社会はこの新陳代謝がそんなに上手く廻っているわけではないと思います。
これはもう伝統的にそうで、日本に限らずアジアの家族主義、長老主義に基づくものなのでしょう。人間集団を持って一つの家族集団のように捉え、その調和を旨とする。そこでは活発で旺盛な新陳代謝や、革新的な合理的な改革よりも、構成メンバーの心の平穏を大事にし、そしてその手厚さは年長になればなるほど厚くなる。権力とか実権という生々しいもの、合理的なものよりも、「権威」という正体不明なものをありがたがる精神構造。どんな社会、どんな集団にも、革命的な飛躍期があるのですが、それは結構殺伐した下克上によってなされます。年少者が年長者を事実上殺すような形で新地平を切り開くのですが、そういうことをあんまり好まない。でも、合理性とか技術とか説明のつくレベルでは抑え切れないから、「権威」という正体不明なパワーをもってくる。正体不明だから反撃不能なんですな。
そういったメンタリティが日本的な風土で結晶化したのが、たとえば家元制度です。あんなの純粋経済的に言えばフランチャイズシステムであり、もっといえばネズミ講と紙一重って気もしますよ。家元とか宗匠は、それなりに技量卓越しており、人格的にも円満な人が多いでしょうが、そのベースにあるものは、アメリカ大統領のように「現時点で能力&人格において我々の中で最高レベルに達した人」というドライで機能的な互選ではないないです。血筋です。家柄です。つまりは「権威」です。この家元制度が、例えば白い巨塔の医師会にはびこり、音楽界や画壇にもはびこり、ついにはTV局のタレントなんかにもはびこってる。僕が日本を出る12年前に活躍してた明石屋さんまとか和田アキ子とか未だにやってるし、全然世代交代してないし、番組における能力よりも、その世界に隠然とした勢力を形成し、そのメガネにかなわなかったら出演させてもらえないという、そんなのまんま白い巨塔じゃんって感じじゃないんですかね。
紀子様御懐妊とかで騒がれてますが、僕自身は天皇制そのものについて反対、というか、反対という強いものではなく、あんまり理解できないんですよ。僕個人の精神的傾向としてあんまりアジア的じゃないんでしょうけど、前述の「自然教」の教えからいけば、自然界における合理性がないものは、あんまり生理的に理解できない。だって、日本だろうがイギリスだろうが、どこの皇室、どこのロイヤルであっても、同じ人間の個体じゃないですか。これがアリや蜂のように女王蜂とか、明らかに他の個体と違うし、違う役割が与えられているんだったら、差異的取り扱いをしてもいいでしょうけど、全く同じ個体じゃん。全く同じものを違ったように扱うってところがよく分からん。そんなことして楽しいの?って。僕は全然楽しくないし、日本に天皇制があろうがなかろうが、別に関係ないですよ。関係ある人なんかどれだけいるの?まあ、それは趣味としてもですね、実益という面から考えても、ダイアナ妃にせよ、雅子さん、ひいては美智子さんの頃から、あの特殊な世界に入らざるを得なかった人々(特に女性達)に人生的悲劇をもたらしているだけじゃないかって。それがなんであれ、人に幸福をもたらさないものであれば、批判検証すべきじゃないか。人間が幸福になること以上に大事なことが人間社会にあるのか?って気もします。
でも、まあ、こんな素朴な疑問をもってしまうあたり、あんまりアジア的ではないのでしょう。それは僕の個性だからしょうがないですけど、多くの日本人が天皇制をもって「何となくあった方がいいよね」って思ってるのは客観的な事実だと思います。それは個々人の好みの問題だから僕はとやかく言わないけど、合理性原理、自然原理とは異なる権威原理みたいなものに親和性がある社会なのねってことは言えると思います。「やっぱり血筋よねー」「そうよねー」という社会。
ただ、この親和性が、ときとして、というか殆ど常に、健康なメタボリズム(新陳代謝)阻害してるって面はあると思います。大体、日本がガラッと改革されたときというのは、これは誰もが指摘しますけど、黒船がきたとか、戦争でボロ負けしたとか、外的な要因があったときであり、内部的自発的な改革というのは、生理的にできないようになってるんだなあって思ったりします。これが、伝統的な面。それはそれでカルチャーだし、文化的遺伝子だし、それによってもたらされる福音も多々あろうから一律に非難はしません。
ただ、それ以上に「マズイんじゃないの?」と思われるここ20年ほどの傾向があります。
それは、若い人のチャレンジ精神の減退と、年長者の「これでいいや」病の蔓延であり、それは再生産サイクル化していることです。これは別に誰が悪いわけでもなく、自然の摂理としてそうなっているのだろうなって思います。つまり、国民の寿命が延びて高齢化し、同時に高度経済成長が終われば、日本のように大改革を嫌う家族的平穏社会においては、必然的にそうなっていくだろうなってことです。
その最も中核にある原因は、30代から60代くらいまでの中心世代の学習経験不足&チャレンジ精神不足なのだと思います。寿命が延びるはいいことなんですけど、新陳代謝機能が乏しい日本社会では、いつまでたっても上の世代が引退しないことを意味します。戦後のドサクサ時期、当時の30代の連中がやっていたことを、今は60代になってもやらせてもらえないです。上がつかえているから。またその上にしても、経験年数が長くなれば長くなるほど思考や発想の固定化は一層ひどくなるでしょう。昔はそんなになる前に適当に寿命がきて自然退場、自然交代ができたけど、今はそうではない。しかし、学習経験の浅深に関わりなく時間というのは流れます。同じ環境で10年も20年もやってくれば、そこから離れられなくなる。「そういうもんだ」という人生観や世界観が確立しちゃうだろうし、反面これまで長い時間我慢して積み上げてきたものを手放せなくなる。つまりは保守的になる。大して学んでもこなかった奴がひたすら保守的になるというのは、これは改革という面からいえば巨大なブレーキになるでしょう。以前のエッセイで、「真の抵抗勢力というのは僕らの心の中にある」と書きましたが、そういうことです。
これがアメリカのように、50代にはもう引退して悠々自適に過ごすという文化が最初からあり、且つ転職転業が活発な流動性の高い社会で、さらに株式会社が純粋に投資の問題として捉えられており、加えて言うなら二大政党制で定期的に政権が変わり政策もガラリと変わる社会では、日本のような固着的なネットワークは形成しにくい。もちろんアメリカ社会にも支配階級のWASP、さらにその奥の院にエスタブリッシュメントはあります。あるけど、そこでも世代交代は激しく奨励されているというし、年長者が年少者に対して帝王学を厳しく叩き込むという伝統があります。そして、その一部の者だけで支配できるほど小さな国ではないので、激しい流動性とパワーのぶつかりあいがあります。激しく戦い、その戦いによって再生していくというシステムが社会のなかに組み込まれています。そして人生観的にそれを基礎付けるのは、いわゆる「いい仕事」というのは、体力、気力、経験の全ての面でマックスポイントになる40代50代の人間がやるべきことで、それを過ぎたらもうそういう時期は終わりにしてあとはハッピーリタイヤメント。伝統的にアメリカのCEO達の夢は田舎で農場をやることだったりします。長靴履いて、牛糞を片付けて、自分の農場でビールをつくって、楽しく健康に暮らす。これが人間の人生だよという。だから、年寄り連中がいつまでも根を生やして院政を敷いたりしない。もちろん死ぬまで権力を手放さない人もいるけど、それをしようと思ってもやりにくい体制になってるんですね。なんせ若い連中からの突き上げは常に激しいし、世界中から異常に鼻っ柱の強い移民が集まってるし、いくら政財界と緊密なコネを築いていても政権は常に変わるし、提携している他の企業の世代も常に変わるし、買収されちゃうし。
日本はそうではない。そうではないところが日本のいいところだけど、しかしそれが裏目に出てるなあって思います。僕自身にしてもそうですが、そんなに社会全体を大局的に仕切るという経験がないから、下の世代に教えようといっても、いいとこ中級マネジメントレベルしか教えられない。もっとチャレンジングになろうとしても、上がガチガチに固められてしまってるから、そんなこと思うだけでも苦痛だ、出来もしないことを夢想してても虚しいだけだってメンタリティに陥る人も多かろう。もともと、30代になるにつれ「もうこれでいいや」病が発病してきますが、「これでいいや」もクソもまだろくすっぽ何もやってないうちに、「人生なんかこんなもんでしょ」「仕事ってこんなもんでしょ」と妙に達観してしまう。そういう連中に育てられた下の世代は、また輪をかけて「そういうもんでしょ」って思う。
1960年代生まれの僕らの世代はまだラッキーですよ。年上のお兄さんお姉さんたち、つまり団塊の世代が全共闘で戦ってるところをライブで見てますからね。東大行動に警官隊がなだれ込んで、放水するとか。集団で殴り合ってるとか。あれを見てると、「そうか、人生ってのはああやって戦っていくものなんだな」って気になりますよ。自分も背が伸びて、力がついてきたら、精一杯生意気になって、突っ張って、背伸びして、上の連中に喧嘩を売って歩くようになるんだなって。ある意味、それが若い世代の「仕事」みたいなものだと思うのですよ。いくら未熟であろうが、内容がスカタンであろうが、そういうチャレンジングなパワーをぶつけることによって社会の新陳代謝を促すという。それともう一つ、大事な役割は、その次の世代に戦うことを教えるということです。これは社会の健康な新陳代謝をキープするために大事なことだとおもいます。ホリエモン氏もいろいろ言われてますし、批判しようと思えば幾らでもできるだろうけど、でも、戦う姿を下の世代に見せたという一点において、僕は評価します。
ところが「ま、こんなもんでしょ」「もうこれでいいや」という年長者が多くなってくると、社会の新陳代謝は阻害されるわ、その次の世代は戦うことを知らないで育つわ、社会がどんどん衰弱していくと思うのですよ。若い人がチャレンジングなのは、それが生理的に気持ちいいからだと思うのですが、その気持ち良さを次の世代に伝えていない。だから、その結果として、チャレンジングじゃない次の世代が生まれる。「安全」「安心」教の信者になり、不測な事態を異様に恐がる、それを防ぐための「情報」教の信者になる。「うっひょー」というとんでもない事態をそんなに楽しまなくなる。そもそも、楽しみ方を知らない。
というわけで今週の提言です。今の30代、40代だったら、戦後日本でいえばまだ20代くらいの地位にしか立たせてもらってないし、その程度の学習経験しかさせてもらってないし、逆に昔の20代くらいの身体的健康さを維持しています。だって昔の30歳っていったらかなりオッサンだったもんね。今は40代でも結構若々しい人は多いし、健康だってかなり保てているはずです。だから、僕と同世代、プラス前後の世代、つまり30-50代にいいたいのですが、「もうこれでいいや」と思うな、と。まだまだ20代くらいの、クソ生意気で、鼻っ柱が強くて、チンピラみたいに喧嘩上等で、青臭くも理想にこだわり、「安心なんかクソ食らえ」「太く短く」とかまだ言ってようぜってことです。「畜生、今にみてろ」という気持ちを忘れるなと。邪魔する奴は叩き殺してでも実権を奪取するのだと。どうせあと30年もすれば俺らの世代が長老になるわけで、そのときにしょーもないヘナチョコ社会になっていたとしたら、それは誰のせいでもない、俺らの責任だということです。
平均年齢80歳以上の今の日本で、真に戦う局面は50歳過ぎてからともいえるわけだし、それまでに生活に疲れちゃってたらダメよ、ってことですね。反面、若い世代についていえば、普通にやってたら大した事やらせてもらえないし、経験を積む機会もない、学習経験機会を掴むのは個人の甲斐性って時代だと思いますから、あっちこっち行って、あんなことやったり、こんなことやったりして自分を育ててやるしかないと思います。どれだけ自分で思いついて、工夫して、呼ばれてもいないのに飛び出して、どれだけ自分をプロデュースできたかが、その後の人生を決めると思いますけど、違いますか?
文責:田村
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