今週の1枚(06.03.04)
ESSAY 249/「最近の若いもんは〜」構文と洗濯機グルグル
写真は、Balmain。
「最近の若いもんは〜」というフレーズは、人類最愛のチェリッシュ・フレーズの一つでありましょう。古代エジプト時代からあったというのは有名な話ですが、これはもう「誰でも絶対いつかは言う」というくらいポピュラーな言い回しなのでしょう。
「最近の若いもんは〜」という”上の句”の対応する゛下の句”はまず大体ネガティブな内容です。最近の若いもんは→根性がない、礼儀がなってない、甘ったれている...etc。要するに自分よりも下の世代に対する批判です。今週はこのフレーズについて考えてみたいと思います。いや、そんな生産的な鋭い考察をするわけではなく、例によってあっちこっち色んな角度から突っつきまわして面白がりましょうというだけの話ですが。
「最近の若いもの」ということで、若い人ばかりが槍玉にあげられるけど、「最近の年寄りは」とか「最近のおばさんは」とか、上の世代に対してはあまり言われません。そういうケースが無いわけではないですけど、数としてはずっと少ない。なぜか?WHY?
すっごい簡単な理由でいえば、自分と同等ないし上の世代は比較が出来ないってことが挙げられると思います。「最近の若い者は〜」構文を、英語的に言えば比較構文でしょう。more than〜とかas....as 構文ですよね。つまり、AとBとを比較して論じる。「最近の若いもの」と「昔の若いもの」を比較して語っている。比較する以上、比較の対象になる二つがはっきり見えてないといけませんが、上の世代に関してはよく見えないので比較が出来ないってことでしょう。例えば70代の人々の行動様式を論評しようと思っても、自分が10歳のときの70代の人がどうやっていたか良く知らないし、それが自分が30歳代になったときの70代の人々の行動とどう違うか良く分からない。良く分からないことは論評できない。
ところが、自分が既に通り過ぎた年代に関して言えば、自分の経験という絶対的なモノサシがありますから比較は簡単だし、比較するなと言われてもつい比較してしまうでしょう。つまり「最近の若いもの」の「若い」というのは、「自分よりも若い」という意味なのでしょう。「若い」というのが純粋に客観的な意味、例えば18歳から25歳までの層を指すのであれば、小学生が自分よりもはるか年上の大学生を指して、「最近の若い者は辛抱が足りない」と言っていてもいいのですが、まあそんな話はおよそ聞いたことがないです。
ちなみに、教師や上司として、長年若年者の指導に携わってきた人たちは、いわばマーケティング用語でいうところの「定点観測」が出来ますから、これまた比較しやすい。高校教師をやっていた人が、10年前の高校生に比べて今の高校生はこういう特徴がある、というのは、これは言えると思います。同じ理由で、上の世代であっても定点観測が出来るものであれば、同じように比較できるはずです。例えば、病院や養老院に長年勤めてきたとか、介護士の経験豊富な人は、長いことお年寄りを定点観測してますから、「最近のお年よりは辛抱が足りない」と言えるでしょう。
しかし、上の世代に関してこんなに定点観測できるケースは、特殊な専門職にでも就いてない限りマレでしょう。歴代首相をはじめとする政治家や、財界の大物なんてのも、自分よりも年上である場合が多く、またメディアでの露出頻度も高いからいくらでも比較できそうだけど、普通の市民は「最近の政治家は〜」とはあまり言わない。政治に対する不満を述べる場合にこういう言い方をする人はいるだろうけど、純然たる比較論として言ってるというよりは、単なる現状に対する不満として言ってるだけでしょう。「いつの時代のどの政治家と比較して言ってるの?」「小泉首相は、吉田茂首相に比べてどうだというの?」と突っ込まれたらようわからんでしょう。政治評論家とか自身政界や大新聞の政治部に長年勤めているのであれば、こういう純粋比較論を展開できるでしょうけど、それはやっぱり専門的見識であって、一般人のものではない。
どうも、「上の世代からは下の世代はよく見えるけど、下の世代から上の世代についてはよく見えない」という法則性があるようです。それは、下の世代に対しては、「自分の経験」という絶対的な情報と比較基準を持ってるからという理由があるのでしょう。上の世代については、どうしても未知の領域だから、未知の領域同士を比べるのは、特殊専門的な立場にでも就いていない限り、やるにくいという部分があると思います。
というわけで、「最近の○○」で叩かれるのは常に若い世代である、もう構造的にそうなることに決まっている、ということが分かると思います。
ならば、自分と同等の世代も、あるいは自分よりも上の世代においても、等しく批判と検証の場に晒されなければ不公平なのですが、批判者にはその能力がないから免除されちゃうわけです。「最近の若い奴は」と言われて、若い人がムッとするのも、この批判の不公平さに幾分かは起因しているのかもしれません。
ところで、上にみたように、結局「若さ」なんか相対的なものでしかないのでしょう。実際、「最近の若い奴」ってのは小学生だって言いますからね。小学6年生が小学3年生に対して、「なんだ、あいつら、3年にもなって親の送り迎えつきかよ」「最近の若い連中は甘やかされてるからさ」とか、あなただって似たようなことを言ってたりしませんか。これが高校とか大学のクラブ活動とかになったら、はっきり顕著になって、「何だよ今年の新入生は」「口ばっかりで根性ねーんだよなー」とか全国各地で言われていると思います。はたまた、養老院の長老的立場にある80代の人が、新参の75歳の人に向かって「最近の若いのは」って、これも言ってそうな気がしますな。
また、「最近の」という「最近」というのは、平成何年から何年までの現象を言うのか?という厳密な定義があるわけでもないです。語り手によって、その「最近」のレンジはマチマチでしょう。ある人は直近数年の変化を論じてるのかもしれないし、ある人はバブル以降のことを述べ、またある人は第二次大戦後のことをひっくるめて言ってるのかもしれない。
このように、「若さ」も相対的なものに過ぎず、また「最近の」という期間設定も曖昧なものならば、「最近の若いもん」って一体誰なのよ?って気もしますな。まあ、文脈によって適宜判断せよってことなのでしょうけど、このくらい批判対象があやふやな物言いもないかもしれない。金曜日に会社で「最近の若い者は」と先輩から散々怒られた人が、翌日土曜日にOBとして出身大学の古巣のサークルに顔を出して「最近の若い者は」と説教をしていたりしてね。充分にありうるスチュエーションでしょう。
どうも近頃では、「最近の若いものは」というとなにやらオヤジの証明というか、こういうこと言い出したらもうオヤジみたいな感じでタブー視されてたりすると思うけど、別に構うことはないんじゃないの、ガンガン言えばいいんじゃないの?って気もします。年が上とか下とかと関係なく、また経験の浅深に関係なく、他人の欠点はよく見えるというのは当たり前の話だと思うし、その指摘が本人にとって有効なアドバイスになることだって沢山あるからです。特にまだ社会経験が浅い若い人が、この複雑な現在社会、それに数え切れないくらい「暗黙の法律」が支配する日本社会で生きていこうと思ったら、ドツかれ、小突き回されて覚えていかねばならないことは山盛りあるでしょう。「最近の若い者は」という定型フレーズを使うかどうかは別として、他人の正すべき欠点が見えたときは、言ってあげるのが本当の親切ってものでしょう。
でも、まあ、ヘタに指摘すると逆ギレして恐ろしいとか、「もっと優しく言ってください」ってスネたり泣いたりするとか、「そんなこと教えてもらってません」と逆に食って掛かるとか、そのくせプライドだけはお高かったりして、そのあまりにも幼稚園児的なトホホ度の高さに、文句言う気も尽き果てたという人もあろうかと思います。最近そういう話はちょくちょく聞きます。
しかし、ちょっと引いて考えると、この種の「馬鹿」は江戸時代からいたと思います。だから昔からある方法論で対処するしかないんでしょうねえ。例えば「馬鹿は死ななきゃなおらない」とか。ちなみにこの言い回しは英語でもあります。過去のエッセイで紹介したけど覚えてるかな(わけないか)。"Some poeple will never learn."です。考えることは西欧でも一緒なのですね。
言っても分からない奴はほっておくしかないです。他にどうしようもないもんね。ただ、上司という立場上ほっておけない、人員の制約上仕事を任さないわけにはいかないってつらい立場に立たされている人も沢山おられるでしょう。衷心よりご同情申し上げます。僕としても何とかして差し上げたいのは山々なんですけど、同情するくらいしかないです。実際、馬鹿ほど始末に終えないものはないですからね。まあ、こう書いてる僕自身、他の人から見たら「始末に負えない馬鹿」に映っていたりもするんでしょうけど。「人のふり見て我がふりなおせ」ですけど。
ところで、ここで僕が「馬鹿はほっとくしかないと」と結構淡々と突き放してしまうのは、多分オーストラリアに長いこと住んでるからかもしれません。こちらの社会は多民族国家ですし、もともとベースになってる西欧社会そのものが階級社会です。「世の中にはいろんな人がいる」という認識の深さと凄味が、単一文化の日本社会とはケタ違いなんです。あなたもこちらに住んだらいつかお分かりになると思いますが、本当に信じられないくらいの馬鹿っていますよ。日本にいるとき大抵の人間類型は見てきたという人でも度肝を抜かれるくらいの馬鹿が。その馬鹿が、普通に就職して普通に仕事してるってのがまた信じられなかったりします。お店で「これ幾ら?」と聞いたら「知らない」という投げやりなお返事で、それきり。調べようともしない。普通の四則計算が出来ない。チェックした用紙と未チェックの用紙をその場の気分であちこちに置いてるから、結局チェックしたのかどうか分からなくなってまた最初からやりなおす。それも長蛇の客の列を前にして悠然とやっている。確信をもって嘘を教える。ザラです。その代わり、こんなに頭のいい人間、日本で見たことないわって人も沢山います。人間のバラエティが無茶苦茶沢山あるのですね。だから、自分にも出来るんだからこの人にも出来るはずとは思わない。上流階級の人間が下層階級の人間を、もう人間として全然違うんだ、接点なんか無いんだと思ったりするのも分かりますよ。日本でもそういう店員さんとか増えてきたとか聞きますけど、こっちはありきたりの日常風景で話題にもならないです。
これに加えて、マルチカルチャル社会です。自分の部下が職場で突然地べたにひれ伏してアラーの神にお祈りを捧げようとも、ラマダンで断食しようとも、その民族の暦で「正月休み」をとろうとも、それもありふれたことです。ちなみに、日本は太陽暦と太陰暦(旧暦)くらいしか知られてませんが、世界のカレンダーは無数にあり、主立つものだけでも十幾つあるそうです。例えばユダヤ暦では、今年は5767年ですし、新年(ローシュ・ハシャナ)は今年は9月23-24日にあたるようです。
こういう社会に住んでおりますとですね、馬鹿もまたその人の個性なんだろうなって気がしてきます。何とかしてやろうとか、あんまり思わなくなる。それに「馬鹿」とか気楽に言ってますけど、それも僕らの価値観からしての話で、相手からみたらそっちの方がマトモなのかもしれないし。まあ、「そういう個性の人」なんだろうなって思うしかないって部分はありますよね。だからあんまり腹も立たなくなります(それでも立つけど)。この種の人々への対応方法は、「できるだけ接触を少なくする」ということですね。言って分かるんだったら言うし、こっちは議論大好き、ディベート得意な国柄だけど、それが成り立たなかったらどうしようもないもん。
でも、「すげえな」って思うのは、その種の人々でも、結構幸せそうに生きていることです。この種の「馬鹿」を優遇したり甘やかしたりもしない代わりに、虐待したり迫害したりもしない。馬鹿ゆえの無能さによって職務の遂行が出来ないと認められたらあっさりクビにしますが、馬鹿を馬鹿にしたりはしない。そら全くしないってことは無いだろうけど、日本の社会における馬鹿に対する接し方って、甘やかすか馬鹿にするか両極端じゃないですか。客がどんなに馬鹿なこと言っても、こっちみたいに「それはお前が間違ってる」ってビシャッと言わない。馬鹿でもお金になるとか、ヘタに揉めるとややこしいことになると思うと、幾らでも甘やかす。反面、そういうバックや見返りのない馬鹿は、とことん馬鹿にするって傾向があるでしょう。そこは違うと思います。
だからというわけでもないんでしょうけど、「最近の若い者は」的な言い方は、こちらでは日本ほど見かけないような気がします。それどころか、上の世代も下の世代も、「自分らと同じ」という同一性認識が高いように思われます。そりゃ、ジェネレーションXとか、世代の断絶みたいな論説は沢山ありますよ。でもねー、日本ほど「全然違う!」って隔絶感というか、絶望感はないような気がします。親が子供の頃にやってたことを、子供もまたやるという健全素朴な世代循環。これは、やってる内容が、キャンプであるとかヨットであるとか、安い中古車を個人売買で買って自宅で修理するとか、日曜大工で家を修繕するとか、芝刈りとか、時代が変わってもあんまり変わらないものが多いからかもしれません。それに親子の接触機会が多いとか、教会とか、コミュニティとか、世代の違う人間が接触する機会が日本よりも多いってことも一因かもしれません。
そういえばウチのお向いの家には高校生の兄弟が住んでいて、身長195くらいのハンサムガイだったりしますが、普段は大人しいのですが、時々友人連中を招いてパーティーをします。これがまた異様にうるさい。深夜の3時過ぎまで爆音で音楽かけてはしゃいでいます。ウチの近所はいわゆる閑静な住宅街で、最大の騒音といえば鳥の鳴き声か芝刈り機の音くらいですから、こんなドンチャン騒ぎをやられたらストリート中に響き渡るわけです。でも、誰もあんまり文句は言わない。こっちは日本みたいに遠慮しないから、言うときはビシバシ言います。でも言わない。また、ある日郵便ポストに紙片が入っていて、「今度の土曜日に21歳パーティをやるのでうるさくするのでよろしくね、もし病気療養など静穏な環境が必要な人は申し出てください」と書いてありました。こちらでは21歳になったときのパーティーで底抜けドンチャン騒ぎをするのですね。なんで皆「最近の若い者は」と文句を言わないかというと、それはもうこの国の伝統行事みたいなもので、誰もが皆同じようなことをやって育ってるからでしょう。日本でいえば、地域の子供お祭り(京都の地蔵盆とか)の音がうるさいと誰も文句を言わないのに似てます。親子でやってることが同じだったらあんまり腹もたたないのでしょう。
理想的なのは、若い世代は上の世代の経験の深さと技術の高さをレスペクトし、上の世代は若い世代の将来性と自分らにはない新しい感性と可能性をレスペクトするという、相互レスペクト&補完の関係なのでしょう。日本でもこんな感じに上手く廻ってる職場や家庭というのは山ほどあると思います。特に、漁業など、親子でやってることが同じようなエリア。時代の進展と共に漁法も変わるし、経済環境も変わるでしょうけど、でも、「板子一枚下は地獄」という本質に変わりはないし、上の世代の知識は死なないためのサバイバルの必須スキルですから、上の世代が自分らが教わったような荒っぽいやり方で下の世代を教えても、わりと受け入れられやすいような気もします。
こう考えてくると、「最近の若い者は」という定型文句も、日本には日本独特のフレーバーがついているんだろうなってことが薄らぼんやり見えてきます。
まず第一に、日本の場合、上の世代と下の世代あるいは親子でやってることが違いすぎる、置かれている環境が違いすぎるってことです。日本というのは、戦争中の軍国主義体制が敗戦で180度転換し、高度経済成長になってモーレツ社員になったのが、またバブル以後新しいパラダイムになってます。ざっと考えても社会や個々人の根本的な価値観が、わずか半世紀に3回も変わってます。これに比べてオーストラリアの場合、戦勝国だから、終戦によって殆ど何も考え方に変化はありません。戦時中の英雄は今でも英雄。また、日本みたいに「焦土からの奇跡の復興」という、はた見てたら国民総発狂のような急激な経済成長と社会変化も体験していません。バブル破裂の後始末は半年くらいでチャッチャと済ませ、あとは記録的な好景気が続いているし、グローバリゼーションや人材の流動化といっても西欧圏、特に英語圏では昔ながらのカルチャーでもあります。オーストラリアで最も大きな変化といえば、戦後大量の移民を受け入れ、それとともに白豪主義をやめてマルチカルチャル社会に転換していったという部分程度でしょう。日本のように、短期間に何度もドッタンバッタン根底から覆ってたら、世代が変わればはもう異民族みたいに価値観もライフスタイルも違ってみえるのも当然だという気がします。
実際、このエッセイでも何度も触れてますが、僕ら日本人が日本独自のカルチャーなんだと当然のように思ってることって、実は意外と戦後成長期のテンポラリーな現象に過ぎないってことは多々あります。終身雇用なんて発想が出てきたのも戦後の話ですし、転職は戦前の方が今よりもはるかに盛んだった。職業横転率(職種は同じで会社を変える)というのは、包丁一本サラシに巻いて板場を流れ歩いていた頃から盛んでした。平成12年度国民生活白書(経済企画庁)にも、「1930年代の日本は、工場労働者の勤続年数が短く、労働力の横転率(同じ職種で会社を変る率)の高い社会であった。ところが、戦後の改革と高度成長がすべてを変えた。中でも重要なのは、終身雇用と年功賃金体系の定着である。」と書いてあります。日本なんて昔から転職社会であり、別につい最近とんでもなく新しいことが始まってるわけでもないです。モトに戻っただけと言えなくもない。ほかにも、マイホーム願望や住宅ローンなんてのが登場したのは全部戦後でしょう。いい大学いい会社なんて発想も、受験戦争も戦後。それまでは村一番の秀才でないと大学なんかいけなかったですから。
前回までのエッセイで、戦後日本があそこまで経済成長できたのは、国民の生活や考え方を一つのパターンにまとめあげる最適化工業社会というパラダイムがあったからだということを見てきました。それが終焉を迎えた今、ナチュラルに「人それぞれ」に「原状回復」していっているのだと考えることも可能でしょう。これを身近な現象として言うと、「話が全然通じない日本人」というものが周囲に増えてくるってことです。
この点が第二の特徴に関連するのですが、単一文化社会をさらに極限まで均一化しようとした前時代の名残りで、僕らは他の日本人の発想や行動が全て了解可能なものであり、了解不可能な人間が目の前に登場してくるとパニックになるという精神的脆さを抱えてしまっているんじゃないかってことです。他の日本人に対して「当然こうしてくれるだろう」という期待値が高いから、それが満たされなかったときのフラストレーションもまた高くなる。ちなみに多くの日本人が英語のなかでもスピーキングが苦手と自己分析してるのは、この点に関連しているのだと思います。英語技術論でいえば、スピーキングなんか言語四大スキルのうち最も易しい技術であり(赤ちゃんはスピーキングから覚える)、スピーキングだけが苦手なんてことは人間の脳味噌の構造からいって普通ありえない。そんなのは口を怪我してちゃんと喋れないようなケースくらいでしょう。その簡単なことが苦手に感じられるのは、英語が問題なのではなく、了解不可能な人間(外人)とコミュニケートすることに不慣れであり、未経験ゆえに軽度のパニックに陥るからだと思われます。つまりは英語の問題というよりは人間力や精神力、経験力の問題。だから対処法は場数を踏んで現場度胸をつけろってことです。
しかし他人が自分と同じであるなんてことがそもそも幻想なんだから、幻想破れるべしですよ。「そういう奴もいる」という現実を受け入れる必要があるのでしょう。といって、何も批判するなとか、賛美せよとか、諦めよとか言ってるのではないですよ。批判は批判、提言は提言としてガンガンやればよろしい。ただ、目の前の現実を否定することは許されないってことです。「いろんな奴が居る」ということを前提に、新しく社会の倫理なり秩序なり、処世術なり、礼節なりを考案していかねばならない。これが老いも若きも全ての日本人に共通に課せられた宿題だと思います。今後100年、200年と続くであろうボーダーレスやらグローバリゼーションやらの世界潮流において、了解不能な外人と立ち交わる機会は今よりも増えるでしょうし、増えなかったら日本そのものが経済的に危うくなる。大量の外国人が、部下として、上司として、同僚として、取引先として、日本の職場に入ってくるでしょう。また日本人もより良い職を求めてどんどん海外に出て行くいくでしょう。
もともと日本社会というのは、ここまで均一社会じゃなかったですよ。だって士農工商とかあったくらいだし、ついちょっと前までは「身分が違う」というフレーズを大真面目に皆言ってたんだから。全然自分と違う人間がこの世にいるのだってことを昔の日本人は当然にわきまえてきたし、それでもうまく付き合っていくスキルや秩序もまた持っていたわけです。まあ、当時の秩序というのは封建制であり身分秩序だったわけで、それを今の世の中で復活させるのは無理だし、正しくもないですが、それに代わる秩序や倫理やスキルです。それは何か?それこそが次の時代の根幹スキルになるだろうと思い、それを知りたくて、12年前に僕はオーストラリアに来たわけですけど、あっさり分かりました。あなただってこっちに来たらすぐに分かると思いますよ。
では、日本の若い世代は、これら新しい環境でどんどん新しいパースペクティブと、新しい感性&スキルを磨いてバリバリやってるか?というと、これが結構心モトなかったりします。ミュータントのような新人類が輩出して、日本の上の世代の連中とは波長が合わないけど、世界の連中とは仲良くやっていけるようになっているのか?と。あーんまり、そんな気もしないです。感性も価値観も半分以上オージー化しつつある僕らの目から見てると、いっくら世代が若返っても「日本人は日本人だなあ」「要するに同じね」という感想が一番にきます。
そういう意味では、すごい逆説的なんですけど、最近の若いもんは別に何にも変わっていないって気もします。
ちょっと前に日本で流行ったフレーズで「ありえなーい」ってのがあるでしょう?牽強付会なんかもしれないけど、あれも頭の固いオヤジ度の高い物言いだよなあって思います。だって、自分の視野や想定領域が狭いから、「ありえない」と思うわけでしょ。でも現実として存在してるなら、まずはしなやかな感覚でそれを認めるべきでしょ。それを想定できなかった自分の視界が狭くてボンクラだったってことなんだからさ。それを「ありえない」から却下!というのは、頑固親父が「俺はそんなもん絶対認めんぞ!」と首をブンブン振ってるのと同じじゃないですか。頭が硬直して新しいもの、違ったものを受入らない老年性硬化性痴呆症みたいなものじゃないですか。「結局、一緒なのよね」って思ってしまうのは、例えばそういうところとかです。もしかして、まだ20代かそこらそこまで思考硬化現象が進行しているなら、状況は一層深刻だって気もしますね。
でも、ま、いいんですよ。「そーゆー人もいるべ」ということで。そのへんは結構突き放しちゃったりします。そういう人がいても、別に怒ったり、嘆いたりする気もないし、逆に甘やかしたり救ったりする気もないです。「ああ、事態想定能力という点では無能なのね」と思うだけです。別に悪いことでもないし、それが無能だからといって、その人の人間としての自然価値が下がるものでもないし(労働市場での交換価値は下がるでしょうけど)。
そうそう、定点観測と言う点では僕もまた似たような地点にいるので、ここ10年ばかりの変化を見ることが出来ますが、一言でいえば年々人間力の練度が低くなってるような気もします。でもこうハッキリ気軽に言えちゃうというのは、それがそんなに大した問題だとは思ってないからです。ここ10年で教育環境としての日本社会を考えてみた場合、良くなってるというよりは悪くなってると思います。職場にしたって派遣が増えましたしね。イチからビシバシ教えてくれる環境そのものが減ってると思います。その割には大量の外国人と日々切磋琢磨するという感じでもないし。だから、学ぶ機会が少なくなっているのでしょう。社会に出たとき、大体誰だって、「ありえない!」とムンクの叫びのように絶叫したくなる出来事に取り囲まれ、あたかも洗濯機にブチ込まれてグルグル廻されるような経験をして、世界の質感というものを学習していくわけで、その機会がなければ誰だって未熟なままでしょう。で、そのグルグル度が低くなってるかなって。でも、僕だって上の世代からしたらガキ同然のグルグル度だと思いますよ。まあ、poorな教育環境で育てばpoorな結果になるというのは当然だと思います。
でも、いいんですよ(こればっか)。こっちで半年や一年、洗濯機にブチ込まれまてグルグルしますから。マトモにやってりゃそれなりに強くなって帰っていくでしょうし、その結果にそんなに差があるとは思いません。洗濯機前が多少違っていても、洗濯機後は同じだから、いいんじゃないの?と。でも、まあ、洗濯機そのものにビビって入りたがらないって人も増えてるかもしれないし、それこそが問題なのかもしれませんね。最近よく聞く「海外ひきこもり」とか「ワーホリニート」ってやつですか。それもこれもひっくるめて本人の選択だし、本人の個性なのでしょう。ただ、毛虫から蝶になる前にサナギという段階があるように、誰だってこもりたくなるときはあるとは思います。鳥のヒナは必死の力で卵の殻を叩き破って生まれてくるそうですが、誰しも殻やサナギの中で戦ったりするのでしょう。鳥のヒナも力のないヒナは卵が破れずそのまま死んでしまうとかいう話を聞いたことがありますが、昔はほっといても外側からガンガン殻を叩き割って外に引っ張り出されていたものが、今は自力で叩き壊さないとならないだけ残酷だなって気もします。いつか殻から脱出して洗濯機グルグルをやってもらいたいなって思います。グルグルすればいいってものなのか?って言えば、いいってものなんですよ。グルグルは、若鳥が飛ぶ訓練をするようなものですから。鳥と生まれたからには飛びたかろうし、飛べたら楽しいよって思うんですけど、このレベルで異論があるなら、もう話をしてもしょうがないから、「ふーん、そういう人もいるんだ」って思うことにしますけど。
文責:田村
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