今週の1枚(01.10.22)
雑文/離陸の構造(その3)
前回、前々回から続くともなく続いています。
何の話をしてたかというと、えーと、何だっけな、そうそう、現実体験が少ないと世界がシンプルに見えてしまうこと、シンプルにみえるから話はどんどんシンプルに極端に離陸していってしまう危険があることでした。で、「現実体験」といっても、平和な国の平和な時代、それも高度に分業化された社会に生きていると、自分とちょっと違った人間に出くわす確率も減ってきて、だんだん世の中の現実の起伏が実感としてはわからなくなってるんじゃないかという話でした。
そこで、話は、精神障害者の人の犯罪が責任無能力で無罪でなってしまうことに釈然としない風潮に進んだのでした。なんで釈然としないのか?なんでそんな釈然としないものが昔から大原則として西欧近代社会で受け継がれてきたのか?あれは単なるキレイゴトなのか?
「責任なければ刑罰なし」という近代刑法の責任主義の大原則ってのがあります。思想史的には個人の尊厳に最大の価値を置く近代思想に基づくのですが、この責任主義がまがりなりにも継承され、変更されてきていないのはそれなりの理由があるのだと思います。それは、いわゆる理想論からではなく、それなりに感覚的に納得できるものがあったのではないかと思われます。そしてそれが感覚的に納得できるかどうかですが、おそらく昔の人は、結構日常的に精神に障害がある人を見慣れていたのだと思います。見慣れているから、「これはもう別のルールでやってくしかないべ」ということがすぐに分かったのではないか。
前回と重複しますが、精神に障害のある人々と僕らはそんなに日常的に接しているわけではないです。精神障害といっても、もちろん千差万別の症例があり、僕らも軽度の鬱状態くらいだったらまだしも見当がつきますが、心神喪失に至るまでの人と日常的に接しているのは、家族の人とプロフェッショナルな人々くらいでしょう。見たこともないから、それがどれだけ危険か(逆に言えば安全か)、あるいは刑罰を課するということがどういうことなのかも、想像の域を出ないでしょう。そこを全く無経験のまま考えていると狂ってくるものもあるのでしょう。知らないから、なんとなく自分と同じうなものだろうと、ちょっと酒に酔ってる状態に毛が生えた程度のものだろうくらいのメチャクチャな認識で物を考えてしまっている危険はないか?
日常の社会でも、同じく人に迷惑をかける行為をしても、あるものは厳しく咎められ、あるものは咎められないということはよくあります。例えば、二日酔いでフラフラして仕事でミスをしたら叱られますが、40度の熱を出していてミスをした場合は、許されるというか、早く帰って養生しなさいということになる。
つまりこれが責任主義の原形だと思うわけです。責任の本質は「非難可能性」、相手を非難することが出来るベースがある場合は責任があるとされ、そうでなければ「仕方がない」「不可抗力」として許容される。二日酔いだったら、そもそも二日酔いになるまで飲んだという部分で非難されるけど、病気だったら仕方がないよねと同情される。同じ人を車ではねるにしても、過失でやるのと故意で殺人をやるのでは違う。万引やイタズラをしても、子供がやる場合と、大の大人がやる場合とでは違う。
何が違うかといえば、「それをやらない」という選択が出来るだけの環境、判断能力、実行能力があったかどうか。それが責任能力というもので、これに感覚的に異論のある人は少ないと思います。満員電車で間違えて足を踏まれた場合と、わざと踏まれた場合とでは、やられたときの感情も全然違うでしょう。また誤まって踏まれた場合であっても、明らかに不注意で踏んだ場合と、電車が急停車して止む無く踏んでしまった場合とでは又違うでしょう。結果は一緒であっても、それがどれだけ非難できるかどうかによって湧き起こってくる感情も違ってくる。だから責任主義それ自体については、誰も異議は唱えないと思います。
じゃあなんで精神障害者の殺人事件などで釈然としないのでしょう?真実、是非弁識能力を欠いている人を責めるのは、足を骨折している人に対して走るのが遅いと責めるようなものなんだけど、そういう気分になれないのはなぜか。殺された遺族の悲しみ云々というのは、「結果」です。結果だけに着目して非難するのは、踏まれた足があまりにも痛かったから、急停車して踏まれた場合も、わざと踏んだ場合と同じように扱えといってるのと同じことでしょ。
理屈はそうだが、まだ感情的に納得できなかったりするでしょう。
なんで感情的に納得できないのか。足を踏まれるケースだったら感情的に納得できるのに、なんでこの場合は納得できないのか。
それは感情が湧き起こってくる前提となる現実認識が甘いからではないか。
つまり、この世には、不幸な出来事に逢着してしまうような精神に障害を負った不幸な方々もいるのだ、本当に実在するのだということを、皮膚感覚としてわかっていないこと。それゆえ、この世界は、どこまでいっても予測不可能な出来事が起きるものであり、完璧な安全などありえないのだ、明日自分がマジに死ぬことも厳然としてありうるのだ、ということ。その認識が足りないから、何かの拍子に現実世界のむき出しの残酷な諸相を見せつけられたとき、「そんなことがあって良いハズはない」と激しく拒否反応を示してしまうのではないか。この理不尽な現実を認めなくないのではないか。
そして、ここで大きな価値判断の分岐点に差し掛かることになると思います。
人間が一定数いたら、一定の割合で精神や身体に不具合のある人が生じるという厳然たる事実があります。これはもう確率論です。ある人は生まれながらに目が見えなかったりするし、身体が癒着して内臓をシェアするというシャム双生児も生まれてくるし、非常に珍しい血液型で生まれてくる人もいる。生まれてから一生ベッドの上から出られない運命の人もいるし、精神作用に変調を来たしている人もいる。
これらの人達を、いわゆる健常者(と自分で思ってる人)が構成している社会がどう扱うか、です。
一つは、これらの人達の多くは、一般社会において生産人口になり得なず扶養人口になるのだから選別排除してしまいましょうという方向。早い話が「役立たずのお荷物は殺してしまえ」ということです。いかに美辞麗句を連ねようが究極的にはそういうことでしょう。もう一つの方向は、人として生まれた以上は基本的に同等に取り扱いましょう−−それは彼らのせいではなく、また我々もいつそうなるか分からない、自分の子孫がそうなるかも分からない、人である以上等しくレスぺクトされるべきだという考え方。
どっちを取るか?です。
これは究極においては中間はないです。
なぜなら、これはギリギリ詰めていけば、役に立つ奴、強い奴だけが生きる権利があるという機能主義的な立場と、命が存在するということそのこと自体に価値があるのだという存在主義的な立場に立つかという二者択一なのですから。一番ズルいのは、自分に迷惑がかからない限りヒューマニスティックに振る舞い、ひとたび自分に危害が及ぶとなったら一転して排除してしまえという態度でしょう。これは価値判断から逃げてるだけです。
僕個人としては後者に立ちます。これはキレイゴトではなく、素朴な感情として。
もちろん、ビジネスやら受験やらスポーツやらの世界だったら、徹底して優勝劣敗でいいと思います。ダメな奴はダメ、無能な奴は無能。経営破綻したら倒産するのがスジ。だって、これらは所詮ゲームだもん。それと人間が存在する事、生きていくこととは比較にならない。人間(あるいは生命)が存在する根元のレベルにおいて、人が人を選別する権利なんか絶対無いと思います。そういった優生主義的思想は実は僕らのなかに根強くあったりするのだけど(結婚のとき家柄がどうのとか、ペットの血統書がどうのとか)、そういった発想に対しては生理的にムカつきを覚えますから。
これは自分の中にもそういうイヤらしい部分があると思うから、近親憎悪、自己憎悪的な要素もあります。いい大学、いい会社、いわゆるエリートと呼ばれるエリアに入った人間には、このヤらしい優生思想、「自分らと愚民どもとは元々人間の出来が違うのだ」という発想に汚染される危険に絶えず晒されています。一段高いところに立って人を見下す愚かな習性に陥る危険があります。弁護士や裁判官などの法曹エリートの中にもそれはあるでしょうし、医者や高級官僚のなかにも、大企業のバリバリのビジネスマンのなかにもあるでしょう。海外にいれば、コーカソイド(白人)連中が、チラと垣間見せる抜きさしがたい白人優越意識に触れてしまってヤな思いをすることもあるでしょう。
余談ですが、よその世界は知りませんが、弁護士の世界のなかではエリート臭バリバリの人は意外と少ないように思います。これは、象牙の塔にこもるには、あまりにも日常の仕事が泥臭く、世間にもみくちゃにされているからかもしれません。聞いた話ですが、とある事務所では、入所したての新米弁護士を大阪の日本橋という電気屋街に連れていって、「値切ってこい」とやらせていたとか。当然そこらへんのオバちゃんがガンガン値切るのに比べたらそんなに上手く値切れないわけで、そこで、「ほら、お前は司法試験合格したエリートだと思ってるかもしれないが、実際にはそこらへんのオバチャンにすら劣る交渉能力しかないのだ」ということを徹底的にわからせるという。僕もそれに類する体験はイヤというほどさせられました。荒々しい現場に出たら、ちょっと法律を知ってるとか頭がいいとかいうくらいでは屁の役にも立たない、いかに世間の人々が凄いか思い知らされるわけですね。エリート意識なんか粉々に砕けるのですが、まあ、全員が全員そうではないでしょうし、喉元過ぎたら熱さを忘れたりもしますし、人間弱いから高いところに座らせておいたら自然とまた自分はエライと勘違いもするのでしょう。これは余談。
さて、社会の根本的なオキテでいえば、この「存在するがゆえに尊い」という立場で、ギチギチに縛ってシステムも構築しておいて欲しいです。ちょっとやそっとでは変更できないように、その場の気分で左右されないように。なぜなら、今はこんな美しいことを僕も言ってますけど、実際に自分の身に不利益が降りかかってきたら、例えば身内が寝たきりになったりとか、ものすごく迷惑に思えるような出来事が生じたら、「役立たずは死ね」的なエゴイスティックな言動に走らないとも限りません。人の道を踏み外す可能性もあるし、自分も弱い人間だからおそらくヒドイことをやってしまうかもしれない。一番卑怯なことをやってしまいそうです。だから、自分自身に対する制御として、その基本原則だけはガチガチにロックしておかねばと思うわけです。これは別の言葉でいうと、「近代憲法における人権思想」ということなのでしょう。人間の醜い弱さに対する洞察と、それに対するセーフティ・ロック。
自分達の中で、どうしたって一定比率でなにかにハンデを負う人達が生じる。それは将来の自分かもしれないし、自分の子供かもしれない。その人だけ見てたら役立たずなんだけど、そんなこと言わんで、皆で少しづつ負担しあってお世話したらなアカンということです。それは一方的にホドコシを与えるという傲慢なものではなく、ハードな局面にある人はお互い様だから助け合いましょうという互助精神だと思います。職場で病気の人がいたら、仕事をフォローしあって、その人を休ませてあげるのと同じ。
それは別に精神身体にハンデがあるということだけではなく、失業して職がないことであったり、思わず交通事故を起こしてしまったり、他人の連帯保証人になって家屋敷を全部取られて路頭に迷ったり、仕事でノイローゼになってみたり、育児に疲れてみたり、フラれたり、、、、なんでも同じことだと思います。人の一生の間には誰だって、それぞれにラッキー・アンラッキーはある。ツイてないときはとことんツイてないし。誰もが平等に運不運に翻弄されるとしたならば、そのときラッキーな人がちょっとづつカンパして、アンラッキーな人をヘルプしましょうってことでしょう。
社会って何のためにあるのかといえば、そーゆーことをするためにあるのでしょう。それしなかったら社会なんかやってる意味ないと思います。互助精神とそれに基づくシステムを持たない社会は社会じゃない。というか社会である必要などない。弱肉強食のままでいい。強さこそが正義。強姦も殺人も、ヤラれた弱者こそが悪いと。もっとも歴史的に言えば、そういう社会の方がずっと多かったとおもいます。戦国時代のように、国家はすなわち軍事・暴力集団であり、村はすなわち自警団であるという。人間というのは自然の状態では、まず対外的な「強さ」を求めて集団を形成するのでしょう。暴力団でも、暴走族でも、国家でも。最初は自警のために、次第に他者を傷つけても自分の欲望を充足するためにその強さを使う。
ただ、まあ、そうはいっても、精神障害者の殺人事件みたいにショッキングなことがあると−−なぜか健常者の殺人事件よりもショッキングで、許し難い論調で扱われたりする時点で、スデに根深い歪みがあるような気がするが、それはさておき−−、こんな一般論を積み上げても納得できない人も多いでしょう。
なんたって、僕らが実際に推測可能な現実といえば被害者的立場くらいなんですから、どうしたってそこから物事を見てしまう。「被害者はそれでは納得出来ない」と。そりゃあ納得できないでしょう。被害者は当事者なんだから、総合的に物をみて国家百年の計で政策を考える義務なんかないです。無理ですわ、そんなの。僕だって、自分が被害者だったら、取り乱しますわ。やった奴を殺してやりたいと思うでしょう。
ただ基本的には傍観者に過ぎない我々が被害者に共感し同情するに留まらず、一緒になって取り乱し、全体が見えないまま感情的に走ってしまうのは知的怠慢だと思います
ましてやそれで精神にハンデを負ってる人に対する偏見なり差別を助長するような言動に走るにいたっては(例えば近所に精神病院をつくるのに反対するとか)、それこそ犯罪的だと思う。そういう人って、社会が大きな互助組織であることを忘れていて、自分だけ安心だったらそれで他の人がどうなってもいいと思ってる(というか考えない)のでしょう。だったら、もうその時点で互助組織から抜けてるようなもので、互助組織から抜けるんだったら、その人が失業しようが失業保険を出さなくてもいいし、極端な話、そいつを殺しても殺人にならなくてもいいくらいですわ。極端に理屈でいえば、だけど。
しかし、僕としても、あれはあれでしょーがないのよ、無罪で一件落着なのよ、これでいいのだとというつもりはないです。亡くなった方は帰ってこないけど、やることは沢山あります。
一つは、日本の精神医療における物的インフラがあまりに貧しすぎること。僕はこの分野について詳しく知るものではないですが、例えば変調を起こした家族や身内を専門的にケアしてくれる公的機関が非常に少ないように思います。既存の施設もオーバーワークではなかろうか。事前にいつか何かしでかすんじゃないかとわかっていても、家族も疲労の極に達しているし、どうしようもないというケースは現在もまだ多々あると思います。要するに、そっち方面にあんまり金使ってないんじゃないか。税金で銀行やゼネコンを救済するくらいだったら、そっちに金を使えって気はします。
第二に、刑事事件で責任能力なしで無罪を受けた場合、その受け皿は精神衛生法の措置入院になるわけだけど(有罪になって刑務所に入れられても医療刑務所だろうから、最終的に「檻のある病院」に収容されるという意味では思ったほど実際上の差はなかったりする)、その種のシステムの整備がまだまだ足りない。これは精神病院内で無茶苦茶な取り扱いが行われていたりすることを防ぐ意味もあり、第三者機関によって入退院決定を審査できるとか、病院内運営が健全かどうかをチェックするシステムを整備すべきだと思います。システム的インフラ。
第三に、情報インフラというか、知的インフラというか、精神障害者に対する偏見、偏見すらにも辿り着かない無理解。例えば、オウムのサリンガス事件のあと、PTSDなどで頭痛に悩まされたり苦しんでる人は沢山いると聞きますが、それに対する会社内部の無理解。その無理解を助長するかのような、熾烈な企業競争社会。これは「グローバリゼーションこそが諸悪の根元」論みたいな感じになるけど、そーゆー部分はあるよね。また、偏見が増えれば増えるほど、自分自身が精神科にかかることを極端に避けたり、身内がかかってることをひた隠しにしたりするから、ますます状況は悪化する。リラクゼーションとかヒーリングとか、部屋に観葉植物を増やしてどうなるもんでもないケースも多いと思います。社会防衛という意味でいえばこれら1〜3を充実させるのが最も効果的だと思います。刑罰の抑止力なんかある意味幻想なんだし、本質的な解決にならないのだから。
第四に、被害者の救済。これはお金を払って済む問題ではないけど、そのお金のレベルの問題で困窮しているケースが多いし、それが故に一家離散とか二次災害が起きているケースもある。犯罪被害者給付金支給法があるけど、その予算たるや微々たるものだと聞きます。これも上記と同じく、銀行を救済するんだったら、、、という話。同じく被害者の救済で言えば、そもそもマスコミによる過剰報道をやめること、興味本位に事件を語る事を止める事。被害者の顔写真が載ってる新聞は、もうそれだけで購読を中止するとかさ。あんな写真、悲嘆に暮れてる遺族が積極的に提供してるわけでもないし(多くは無理矢理奪い取ってるような感じだろうし)、プライバシーに関する同意も健常な精神状態でしてるわけではなかろうし。だいたい被害者に対する最大の思いやりは、第一にそっとしておくこと、第二に同情するなら金を出せですから。
第五に、これは本文にかかわるけど、精神障害の発生が増えているのではないかと。昔のように器質的に生じるようなものというよりも、普通の人が狂っちゃうという感じで潜在的に増えていないか。遺伝子レベルとか染色体がどーのとかいうのは、組み合わせにおいて起きる一定の確率論だけど、環境変化によって生じるものは、これはもう比較にならないくらい大量に生じるかもしれない。つまり工場で一定の確率で不良品が生じるケースと、最初から工場機械のコンピューターにバグあって設計指示それ自体がおかしいから不良品が生じるケースとでは、後者の方がはるかに深刻。
これは今までルル述べてきたように、ストレスは増える反面、世間も現実範囲も狭くなるから、現実対処能力が乏しくなり、どんどん観念的に遊離していって、一直線にポキッと壊れてしまうようなこと。気に食わない奴がいたら、まず口喧嘩をして罵倒して、それで手が出て殴りあいになって、それがふとしたハズミで死んでしまった、、、、という三段スライド方式ではなくて、気に食わない→じゃあ殺しちゃいましょうってワープしちゃったり。
ここまで来ると、もう「最良の刑事政策は最良の社会政策」という古い諺の世界になっちゃうのだけど、犯罪などの悲劇はいわば社会のカビみたいなもので、風通しが悪いとカビが繁殖し、風通しをよくしておくとカビが減るのと同じく、社会自体をなんとかしないとこういうことは減らないという。結局、どの問題をやってても、最終的にそこに行き着くのですね。政治経済の構造から手当てしていかないとイタチごっこになるだけであると。でもって、投票率は50%だと。もう「やる気あんのか?」って気もしますが、あんまり無いんでしょうね。そんな面倒なことやってるくらいだったら、犯罪犯した精神障害者を死刑にしてた方がずっと楽ですもんね。取りあえずスッとするし、それで解決した気になれるもんね。
ちなみに、裁判所が責任無能力で無罪を認めるケースというのは非常に少ないです。多重人格をなどを理由に責任能力を争うケースは多いですが、それが最終的に認められるってのは微々たる比率でしかないし、実際には裁判官の判断においても、かなり直感的に「これは処罰するしかない」という判断が先行している感じがします。3回鑑定やって3回とも完全責任能力なしと出たけど、判決では責任能力ありにしたケースもありますし。
幼女連続誘拐殺人事件、いわゆる宮崎事件でも、一審'、控訴審とも死刑判決でした。宮崎事件といえば、最近まとまった文献(佐木隆三著、宮崎勤裁判)を読んだのですけど、少なくとも裁判時においてはかなり症状が進行してるし、それこそ「人間ってこんな風になっちゃうんだ」と慄然とする思いにとらわれます。
あの事件も、あれだけ大騒ぎした割には、時とともに風化しています。で、結構誤解されたまま定着してる部分も多いでしょうね。
例えば、同著中巻124頁以降に大塚証人の証人尋問の様子が書かれています。それによると、押収されたビデオテープが5793本あるわけですけど、そのうち性的なもの残虐なものはわずか1%しかなく、殆どがTV番組の刑事ドラマとかCMとかプロレスだったりすることとか。当局がロリコンポルノとして挙げたものも、実は難病の少女が病気と闘う感動的な映画だったりすることとか。しかし、1%というのは凄いですね。僕も日本にいる20代のときは、1%以上エロビデオ持ってましたよ。10本あったら3本くらいそうだったのではないか。だから30%。健康な野郎だったらそんなもんちゃう?だもんで、1%というのは、むしろあの年頃の男だったら人並外れて少ない、少なすぎるからそれが異常とすら言えるくらい。でも、6000本の1%で60本ですから、「沢山持っていた」と報道もされるでしょうし、それがいつしか「そればっかり見ていた」になってしまったのでしょう。すごい基本的な部分で思いっきり誤解してることって、他にも沢山あるようです。
じゃあなんでそんなにビデオを集めるわけ?じゃあなんで幼女なわけ?という疑問になるのですが、だから分からないんです。本人に聞いても、「ネズミ人間がたくさんでてきたから」「95%縮小した自分が一歩前を歩いていた」「おじいさんの復活のため」と全く要領を得ない。刑事裁判の責任能力は「犯行当時」ですから、現在いくらおかしくなってても判断に影響はないのですが、しかしここまで症状が進行してしまった人に何をどう聞いても、真実なんでこんなことになったのかは藪の中です。
人の精神世界なんか結局のところ分からないのでしょう。パソコンがウィルスにやられてズタズタになっただけで、もうどうしようもなくどこがどう壊れているのかさっぱり見当もつかないんですから、パソコン何万台といわれる人間の脳の複雑な回路のなかで、どこがどう壊れたのか、どう正常なのかなんて、本当は全然分からないんだろうなって思います。
写真・文/田村
★→APLaCのトップに戻る