今週の1枚(05.12.19)
ESSAY 238/歳末閑談
この種の写真に撮影場所はあんまり関係ないと思うけど、一応書いておくとNewtownで撮りました。
師走も後半になり、日本では皆さん慌しい年の瀬で駆けずり回っておられることでしょう。
こちらは夏です。一応時期的な対照でいえば、こちらの12月は日本の6月に相当しますから、まだ「初夏」なんでしょうけど、気分は全然夏です。上の写真は、つい昨日(12月17日土曜日)に撮ったばかりですが、入道雲モクモクで、いかにも「夏」って感じでしょう。
こちらにきて11年、この「夏の年の瀬」という珍妙なスチュエーションにもいい加減慣れるかと思ってたのに、全く慣れません。何年経っても変なもんは変です。クリスマスツリーのイルミネーションがチカチカ光ってる横で、ズズズと素麺を啜っているのも変です。強烈な陽射しと獰猛な緑と、妙にシンと鎮まった夏の庭を見ながら、「慌しい年の瀬」だと思えというのも無理があります。クリスマス前はクリスマス商戦で町も賑わってるし、それなりに歳末感も感じられないことは無いですが、これがクリスマスを過ぎてしまったら、お盆休みの官庁街のようにゴーストタウン化しますからね。灼熱の陽射しに照らされる無人の住宅街にたたずみながら、大晦日だとか正月とかいっても、ピンときません。体験したことのない日本の皆さんに伝えようと思ったら、そうですね、「8月16日あたりに正月をやってる感じ」と想像してもらえればわかるでしょうか?わからんか(^_^)。
まあ、こんなことは毎年感じ、毎年書いているわけですけど、この種の違和感は薄らぐことがないです。10年以上やって薄らがないのであれば、もう一生薄らがないでしょうね。でも、よく考えてみたら、この違和感は絶対に無くなることはないのでしょう。これはもう論理必然というか、慣れるとかそういう問題ではないのでしょう。なぜなら「寒い日本の年の瀬」と「暑いオーストラリアのクリスマス」という全然違うものを比較して、同じように感じろというのが無理だからです。ミカンとリンゴを10年間見つづけていれば、しまいには同じように見えてくる、、わけないのと一緒。猫も10年見つづけていれば、しまいには犬に見えてくるわけがないと一緒。10年たっても、100年たっても、猫は猫、犬は犬です。
ですので、これはもう「身に染み付いた母国文化はそれだけ強固である」とかいうレベルの話だけではないのでしょう。「違うものは違う」というだけのことでしょう。たまたまカレンダーが同じだからといっても、違うものは違う。
でも違うから拒否するかというとそうではないです。違うんだけど受け入れてます。最初の1−2年は「違う」というショックが強烈ですし、その違いの面白さに興味関心がいきがちなので、違う感じ=違和感が支配します。しかし、段々と「それはそれでそーゆーもんだ」という認識も出来上がってきます。この、違うけど受け入れていく過程を「慣れる」ということだとすれば、もう全然慣れました。この暑くて、シンと静まり返って、ガランとしたオーストラリアがさらにガランとする年末年始も、「そーゆーもんだ」と思ってます。受け入れてしまえば、これはこれでイイモンです。
だからいつか日本に戻って、寒くて慌しい年の瀬を過ごしていたら、あのガランとして何もない、太陽だけが暴力的に照らしているオーストラリアの年末年始を、すごく懐かしく思い出すだろうと思いますね。「あれはあれでイイモンだよ」って。
ヒマにまかせて与太話を続けます。
年末年始の理想的なありかたとか、何が正しいとかいうことはないのでしょう。そもそも、「季節の変化」なんてものがあるのも、地球でいえば中高緯度地帯の話であり、赤道周辺の低緯度エリアだったら季節の変化なんか殆どないから、「暑い季節」とか「寒い季節」とかいう概念そのものがないでしょう。オーストラリアでもケアンズとかダーウィンとかになれば平均気温は一年中変化しないで、ただ雨季/乾季があるだけでしょう。だから、正月を何月にもってきても暑いことに変わりはない。
そういう意味では日本は四季の変化に恵まれている国だと思います。同じように、北アメリカやヨーロッパもそうでしょう。四季という天然カレンダーが厳然としてある。オーストラリアは日本に比べると季節感が乏しいです。四季ではなく、春と秋の二季しかないという人もいるくらいです。また、地元の樹木がユーカリなどの常緑樹が多いので、いつ見ても青々していて風景が同じ。昔撮った写真などを眺めていても、これは冬なのか春なのかよくわからなかったりします。だから、記憶も季節にリンクしません。日本だったら、○○さんと最初に会ったのはやたら寒い時期だったなとか、季節が記憶にリンクしやすいですから、記憶の整理もしやすい。でもこちらでは、年中似たような風景だし、こっちも似たような服着てるしで、「あれ、いつだっけな?」とリンクしないから、全ての記憶がフワフワ浮いてる気がします。
言うまでもなく日本人の年末年始、歳末、正月感覚というのは、季節感と強烈にリンクしてます。寒くなければ正月ではない、と。でも僕らがそう思うこと自体、地理的な気象条件に規定されているのでしょう。年中行事と季節感(暑さ/寒さ)が渾然一体になっているというのは、ま、中高緯度エリアの住人の勝手な思い込みなのでしょうね。
エジプト文明とか、古代メソポタミアとか、ペルシャ文明とかはどうだったんでしょうね。あのへんは低緯度エリアだから、四季の差なんかあんまりありそうもないです。少なくとも日本ほど鮮烈な変化はなさそうです。イラク戦争の映像を見てても、「ああ夏だな、冬だな」という具合には分からない。普通に生活してたら暑いばっかりの彼の土地では、だからこそ逆に天体観測や天文学が発達したのかもしれません。星を見て決めるという。日本にも陰陽師とか暦法はありますけど、あれももともとは中国からのインポートしてきたものです。これだけ四季の変化がハッキリしてたら、必死になって星をみて計算しなくても良かったのかもしれません。
日本人の僕らは、「一年の計は元旦にあり」というコンセプトをけっこう強烈に抱いています。
しかし、オーストラリアで「何もなーい正月」を過ごしつつ考えてみると、これって嘘ですよね。まあ、「嘘」といったら言いすぎかもしれないけど、別にそんなに「一年の計」を正月にやってないですよ。だって、卒業/入学/入社などの重要な節目は3月や4月です。僕らの生活の節目やリセットタイミングの感覚としては、3月31日が大晦日で4月1日が元旦だっていいです。経済的には会計年度というのがあり、これは12月末にシメて3月に確定申告という所得税なんかもありますが、日本国の会計(事業)年度は4月1日〜3月末です。だから3月になると予算消費のために無駄な工事が全国各地で繰り広げられ、これが道路渋滞を招いているわけです。各企業の会計年度は各会社が勝手に決めていいですが、日本の大企業の場合は、国の年度に合わせたり、また出来るだけ株主総会時期を6月末にカチ合わせて総会屋を排除しようとします。あと、年齢という個人の大事な起算点は、「数え年」というカウント方法をやめている現在、それぞれの誕生日です。
だから、一年の計は4月1日にありといった方が実態には合致しているでしょう。大体、「一年の計」とかいって、元旦とか正月になにをするのかといえば、今年こそ日記をつけようとか、自分のブログを作ろうとか、そういったささやかで微笑ましいものが多いでしょう?「一年の計」とかいっても、これも「言ってるだけ」でしょ。仕事が始まって忙しくなったら忘れちゃうのが普通でしょ。
ちなみに、オーストラリアの学校は2月始まりであり、オーストラリアの会計年度は7月1日始まりです。1月に何かが動くことって少ないです。まあ、値上げなどの「新年度料金」くらいでしょうね。
だから、新年だ、New Yearだと盛り上がっても、それは殆どが心情的なものであり、別に現実的に何かの起点になったりするようなものでもないです。逆の見方をすれば、別に何もないからいいんでしょうね。本当に4月1日を元旦にしたら、忙しくて正月なんかやってるヒマないですよ。年度末と年度始めに、民族大移動で帰省してたら、動くものも動かなくなる。正月は、ゆえに、ヒマだからいい、ヒマな時期にやるべきだということでもあります。もっといえば、正月の「新規」性は、あくまで精神的なもの、スピリチャルなものに限られるのでしょう。その意味では、ある程度おごそかにやりたいわけで、今の真冬の時期というのはそれに合っているのでしょう。やっぱり寒いとビシッとした緊迫感がありますから。これが、暑くて暑くて蝉がミンミン汗がダラダラだったら、なんかダレますよね。
ああー、だからオーストラリアの暑い正月の違和感というのは、この正月独特のおごそかで、スピリチャルな、ちょっとオカルティックな感じが欠落してる点に由来するのかもしれません。オカルティックというのは、たとえば「ゆく年くる年」で放映される、深夜の山奥での除夜の鐘という儀式的なものとかです。ビーチサイドで、"Yeh ! Happy New Year!"とかやってたら、おごそかもクソもないです。
次に、なんで正月になるとそんなに「おごそか」だったりスピリチャルだったり、リチュラル(儀式的)だったりしなきゃいけないのか?です。「なんとなく」ってのが正直なところですけど、一応由来はあるのでしょう。調べてみますと、元旦になると「年神様」というのがやってこられるわけで、その年神様をお迎えする重要な宗教的儀式として正月があるらしいです。
しかし、まあ、年神?WHO?って感じですよね。誰、それ?
大雑把にいえば、日本古来の稲の神様(穀霊)と、祖先霊の合体版らしいです。なんかよく分からんけど、分からんでもいいのでしょう。日本人の宗教観というのは、原始時代のアミニズムからそんなに変わってないと思いますから。アミニズムというのは、山の神とか海の神とか、大自然の森羅万象に神々が宿るという発想です。大自然の精霊達ですね。その精霊とコミュニケートできる人をシャーマンと呼び、卑弥呼のようなシャーマニズムにつながります。
思うのですけど、僕らの土着宗教観というのは、確かにアミニズムだと思うし、素朴な自然崇拝は悪いことではないでしょう。環境問題という新しいレベルにもリンクするし。ただ、これって「宗教」なんかな?って気もしますね。水木しげるの妖怪の世界と、アミニズムでいう神々って実質的には同じものなのでしょう。カマドにはカマドの神様がいて、相撲の土俵には神様がいて、土地には土地の神様がいるから建物を建てるときは地鎮祭をして、お裁縫の針にも神様みたいなものが宿って針供養をして、無駄遣いばっかりしてると「もったいないオバケ」が出るぞというのは、発想としては似たり寄ったりだと思います。
農耕生活をしていた古代人にとって最重要な死活問題は、稲が実ることだから、稲魂やら穀霊が祭られる。いまだに天皇家で行われている新嘗祭は、早い話が収穫祭です。五穀豊穣ってやつですね。神様、豊かな恵みをありがとうと感謝すると共に、「いやー、良かった良かった」と収穫を喜び合うわけです。大体この時期農耕民族はどこでも似たような祭りをやってるでしょう。アメリカのサンクス・ギビング(11月第4木曜)なんて「与えてくれてありがとうデー」だから、そのまんまですね。新嘗祭は11月の23日で、戦前は新嘗祭をやってましたけど、戦後は国家神道が否定されたので勤労感謝の日になってます。やっぱりサンクスデーであることにかわりはない。
農耕にとってもう一つの重要な要素は天候ですから、太陽とか天体気象が神様になります。日本だったらアマテラス。天皇家がなんでエライのかといえば、稲の神様とコミュニケートするシャーマンであり、太陽神アマテラスの末裔(天孫降臨)だからでしょう。社会の根幹を司っていたわけですね。米が取れないと死ぬわけだし、昔は気象原理もよくわかってないから、天皇というシャーマンにやってもらうしかなかったのでしょう。これが神道というものの原点だと思います。ただ、こういう理屈は大体後付けのもので、そもそもなんであの血族が支配的地位につけたのかといえば、最初は単純に一番喧嘩が強かったからでしょう。武力軍事力で勝ってたから大和朝廷という中央集権国家を作れたし、それが出来たら今度は形式的に神話を作るわけで、アマテラスがどうしたとか、ヤマトタケルとか神武天皇の東征がどうしたという話になるわけです。
誰だって自然は恐いし、大自然には人を畏怖させるサムシングがあります。それは夜の山なんかにいるとヒシヒシと感じたりします。「やっぱ、これ、”なんか”居るわ」って。そういう自然に対するナチュラルな畏怖心を、権力者に都合の良いように体系化したのが日本の神道だともいえるでしょう。しかし、この程度のレベル、つまりエラい根拠が薄弱というか、「なんとなく」レベルの曖昧な権威ですから、農耕技術や産業、食糧保存術が発達して、それほど天候に左右されなくなってくると、見向きもされなくなってくる。天皇家が実質的に権力者であったのは、いつ頃まででしょうね。平安時代になると藤原氏とか強くなってきてお飾り的性格が出てくるし、源平〜鎌倉時代以降は完全に武力の時代になります。シャーマン的権威には誰もひれ伏さない。戦国時代には、天皇がいるってことを知らない日本人の方が圧倒的に多かったといいます。江戸時代もお飾り的性格はそのまま。幕末に王政復古だとか騒いでいても実権は薩長、明治時代に西欧の帝国主義を真似て天皇を祭り上げ、さらに昭和の大戦にいたるまで、お飾りとして祭り上げ、その権威の陰で真の権力者がいるという二重構造が続きます。今の日本の右翼的な国家神道的な発想というのは、明治時代に薩長閥が、そして昭和初期に軍部が、自分の隠れ蓑として使った騙しのレトリックをそのまま承継しているわけで、大和朝廷以来千数百年続いたヤマト民族の本来のあり方からしたら、かなり特殊で一過性のものだと思います。
話は逸れましたが、日本人の心にある”神様”意識というのは、古代人の素朴な心情とそれほど大差ないと思います。それはもうキリスト教にせよ、回教にせよ、宗教意識が濃い社会にいるとよく分かるというか、彼らのいうような意味での宗教心は日本人は持ってない。世界でも珍しい無神論の国なのですが、じゃあ徹底的に無神論かというとそうでもない。漠然と超人間的な世界を感じています。死者の魂はどこに行くのかにしても、神学的に精密な理解があるわけでもない。キリスト教的には死者は天国か地獄にいくわけですが、日本の場合どこにいるかというと「草葉の陰」だったりします。草葉の陰って、あなた、死んだらずーっと草木の後ろに立ってないとイケナイわけ?というとそうでもないし、まあ、あんまり深いこと考えてないんですよね。この「大自然のどっか」くらいの感じでしょ。
というわけで、岩崎ちひろの絵本のように淡いパステトーンで僕らの宗教心、信仰心は彩られているわけです。だから、新年になると、「年神様」という、なんだかよく分からないけどエラくてありがたい神様がいらっしゃるのだといえば、「ほー、そうなんだ」くらいで納得しちゃう。深くは問わない。年神様のために、すっかり清められた新年を迎え、「あけましておめでとうございます」と年神様に挨拶をする(僕ら相互の挨拶ではないらしい)。年神様へのお供えとして鏡餅を飾り、門松を立て、年神様からいただいた新年パワーを皆に分配するのがお年玉なのだそうです。でも、まあ、このくらい理屈が入ってくると、もうマジに信じてないですよね。まあ、「なんとなく正月なんだから厳粛に」くらいの感じでしょうし、それで充分なのでしょう。
でも、このあるんだか無いんだかわからないのような僕らの信仰心があるから、やっぱり正月はビシッとしてなきゃって感じが抜けないのでしょうね。だから、ダラダラとクソ暑い夏だったら雰囲気でないのでしょうねー。
ところで、これもいつか書いた記憶があるけど、日本人はヴァージニティ(処女性)をすごく尊重します。といっても女性の処女性ではなく、「初めて」という部分に、他の民族以上に価値をおく。新品と中古品とでこれほどまでに価格差がある経済社会は世界でも珍しいでしょう。中古品といっても実質的には新品と変わらないものもありますし、改良やヴァージョンアップなどで新品以上になってる場合もあるけど、とにかく他人が一回使ったら、その事実だけで「気持ち悪い」のが日本人でしょう。「新古車」などという英訳不可能な概念まであります。
なんなんでしょうねー、この新品願望は。ご祝儀のお札も、ピン札でないとダメだとか。そんなの誰が決めたのよ?って誰も決めてないし、もちろん法律になってるわけでもない。ただなんとなく心情的にはそうだという。僕らの新品願望、初物願望は、感じでいえば、雪が降り積もった庭で、まだ誰も歩いてない、足跡ひとつついていない状況を、とても清らかで貴重なものに感じる感覚なのでしょう。その処女雪に一番最初に足跡をつけるのは俺だ、という。他人が歩いて足跡をつけてしまったら、「あーあ」と思う。
誰かがどっかで指摘してましたけど、この新品願望は、神道の基本コンセプト、ケガレ(汚れ)=キヨメ(清め)の発想に通じていると。日本人の世界観は、穢れているか、清められているかという、白黒オンオフのデジタル発想なのかもしれないです。一つでもなにかミスがあったり、ミスでなくても何かの作用が働くと、それはもう初物ではなく汚れてしまう。ゆえに、汚れたものはボツであるか、あるいは清めてFIXしなければならない。だもんで、とにかく清める。神道の祝詞(のりと)は、「はらい(祓い)たまえ、清めたまえ」だし、合言葉は「六根清浄」。これは、今日にいたるまで、日本人の世界にも類をみない清潔好きにつながっています。
日本人に生まれて日本人ばかりとつきあってると、当たり前なんだろうけど、ちょっと引いてみたら、結構異常だよね、これ。民族的潔癖症というか。それに、この思想、つまり汚れも清めることができるという発想は、ドロドロした怨恨を文字通り「水に流す」という健全な新陳代謝をもたらす美点もあるけど、自分が加害者になったときに勝手に清めてそれでいいと思う独り善がりなものに通じるデメリットもあります。戦争中の日本軍の問題を周辺諸国からあれこれ言われると、「いつまで過去のことをこだわっているのだ」と思いがちだけど、そんなに水に流れるものじゃないです。それって、汚職議員が辞職したあと、次の選挙でまた当選して「ミソギは済んだ」といってる独り善がり性に通じる部分があります。
日本人のこの「清浄マニア」性はどこからくるのか?というと、これも誰かが指摘してましたが、おそらくは気候のせいでしょう。日本は温帯湿潤気候で、四季の変化は鮮烈なれどマイルドでいいのですが、雨が多い。湿度が高い。古代においてこの湿気の多さは、疫病の温床になります。疾病から身を守るためには、常に清潔にする必要があった。ジトジトした地面から離して高床式の建築をし、土足では家に上がらないようにし、障子やフスマなど可動式パーテーションを多用して通風性をキープする。それが生きていくための生活の知恵だったのでしょう。「汚れは清める」というのが、日本人の生活様式の原点にきたとしても不思議ではないです。
でも、他の国だって、汚れたら清めることに変わりは無かろうと思うのですが、やっぱり事情が違うのでしょうね。カラッカラに乾いた砂漠の民の場合、湿度なんかないですから、断湿性が生活の根幹にくることはなかったでしょう。湿度の低い西欧でも事情は似てます。イタリアとかフランスとか古くからの街並みって、ビッシリ煉瓦造りの建物が建ち並んでて通風性なんか全くなさそうだけど、別にそれでよかったのでしょうね。日本であれやったら、よっぽどエアコンその他で換気しないとカビが生えてどうしようもないでしょう。熱帯の国々、東南アジアとか、インドとか、アマゾンとかだったら、湿気を遮断するというのは不可能ですし、通風を多少よくしたくらいでどうにかなるレベルではないです。彼の国では、食糧保存のために必ず火を通し、減菌・滅菌のためにスパイス文化が発達したのでしょう。また発汗作用を促すとか、スパイスには漢方薬同様の薬理作用があるから、これが健康に貢献していたのでしょう。
つまり、日本の場合、「ほっといたら不衛生だけど、頑張れば清潔にできる」という程度の気候状況にあったということですね。だから、清浄第一にして、きれいにきれいに掃き清めて、そして生魚を食べるという文化になったのでしょう。でも熱帯エリアの場合、日本のように生ぬるい対症療法では健康が保てないゆえに、全く別のアプローチをしていったのだと思われます。
実際世界の文化がひしめきあってるこっちに住んでいますと、日本料理の一種の偏りをよく感じます。ある面では(特に魚介類の食べ方)では世界でも突出して巧みで深いのだけど、ことスパイスやハーブ類になるとゴソッと欠落しています。日本の場合、ワサビとかカラシ、生姜その他の薬味レベルです。生姜は確かに、刺身の血生臭さを消す(特にカツオやアジなどの赤味魚)作用が活用されてますし、また発汗作用があるので風邪の時にいいとか薬理作用も知られていますが、そのくらいでしょ?ヨーロッパのハーブ文化、例えばローズマリーがラム肉の臭みを消すとかいう使い方についてはそれほど浸透してないし、熱帯の国の数十種類あるスパイスを自由自在に使いこなすほど何を知ってるわけでもない。そもそもどんなスパイスがあるのか知らない。こちらでは、インドネシアのミゴレンの安くて美味しいインスタント焼きそばが売られていて、僕は大ファンなのですが、安いときに買えば1袋29セントという値段もさることながら、調味料だけで5袋入っているというスパイスのオーケストレーションがすごいのですね。味に深みがあって、すごく美味しい。これを食べると、日本のソース焼きそばのソース味一色という文化レベルの貧しさを感じざるをえません。まあ、あれはあれで好きなんですけど。あと、日本料理に関して言えば、肉料理が後発食材(明治以後)なだけに、殆ど開発されてません。すき焼きは甘辛なだけだし、しゃぶしゃぶは旨味が逃げちゃうし。でも、気合の入ったトンカツとか、日本独特の焼きブタは世界に通用すると思いますけど。
また、話が逸れました。というか、本題なんか別に無いんですけど。
で、ですね、この清浄マニアで、ちょっとやればすぐ清浄されてリセットできると軽く考えていて、初物大好きの日本人が、一番燃えるのはいつかといえば、やっぱり正月なんでしょう。なんといっても一番の「リセット」場面だし、また「初」のオンパレードですからね。初詣にいき、書初めをし、仕事始めに、初荷の車が通り行くという。そして、リセット作業のために年末はイヤでも忙しくなる、と。
このようにツラツラ考えていくと、日本人である僕が、この「暑い年末年始」に違和感を覚えても不思議ではないです。なんせ厳粛さはないし、リセット初物感覚は無いし。年末年始を貫く重要なコンセプトがそっくり消失しているのですから、「変だ」と思っても無理ないですよね。
じゃあ、オーストラリアの人、というか文化的にはヨーロピアンですが、彼らはこの時期をどういうコンセプトでやっているのかというと、思うに、日本人とは全く違うアプローチをしているのだと思います。
薄々感じるのですが、オーストラリア人、ひいては西欧人の生活原理というか、基本コンセプトは、「個人が幸福であること」であり、「それも家族を基点にすること」なのでしょう。日本人だって幸福になりたくないわけではないのですが、そのための手段として、清潔を守る、キチンと清浄する、なんでもビシッと細かいところまできれいになっているという部分に重きを置いているわけですが、重きを置きすぎて手段の目的化が生じてるように思います。「清潔のための清潔」「キチンとするためにキチンとする」というか、個人が多少泣こうが全体にキチンとしている方を優先すると。
日本人はともかく、西欧系オーストラリア人の場合、この時期はなんといってもクリスマスがメインです。個人の幸福を最高価値と信じている人々が、最高に幸福になるために盛り上がるのがこのクリスマスです。「クリスマス・スピリッツ」という日本人には耳慣れない言葉が飛び交うのもこの時期です。「クリスマスの精神」、「クリスマス魂」?なんじゃそりゃ?って思うのですが、よく出てきますよ、このフレーズ。嘘だと思うならこの言葉でグーグル検索してみたらいいです(日本語で解説してあるものは皆無に近いけど)。僕もよくは分からないのですが、要するに、世界中のひとりひとりが本当に幸福になれるようにってことだと思います。教会系のチャリティ団体が、募金活動に精を出すのもこの時期で、不幸にして恵まれない境遇にある子供たちに楽しいクリスマスが送れるようにという呼びかけをします。
もともとサンタクロースのサンタはセイント/Saint=聖人です。セイントというのは、キリストの愛の教えに従って献身的に奉仕し、しかもその生き様や功績がズバ抜けている人のことで、マザーテレサみたいな人のこというのでしょう。伝説上の聖人達がセイントで、この名前にちなんで多くの地名や名称がつけられています。二重母音をおろそかにする日本人英語の悲しさで、セイントはみな「セント」になってますが、セント・ルイスとか、セント・バーバードとか、セント・アンドリュースとか、セント・ヘレナとか、セントがつく名前は山ほどあります。なんでも今でも教会の本部では「セイント認定委員会」みたいなものがあるらしく、世界各地で頑張ってきた人々のうち、「これは」と思う人をセイントとして認定しているようです。サンタクロースは、説がいろいろあるようですが、セイント・ニコラウスという人のようです(ニコラウスがなまってクロースになった)。貧しき子供たちに尽くした生き様が、「サンタさんがプレゼントをもってくる」という形で伝承されているようです。サンタ(イタリア語、スペイン語)がセイント(英語)になるのも言語上の違いで、サンタのままで有名になっているのは、サンタ・マリアとか、サンタ・ルチアなんかがあります。
まあ、日本でいえば、市井の片隅で献身的奉仕をした良寛さんみたいな存在でしょう。セイントという称号は、エラいお坊さんのことを「○○上人」とか「○○大師」と呼んだりするのと似てるのでしょう。
ともあれ、ともあれクリスマスというのは、一人ひとりが幸福になること、社会の中に幸福でない人がいたら一緒に幸福になれるようにサポートすることなのでしょう。それがクリスマスというものであり、キリストの愛の教えを皆で体現することであり、この精神こそがクリスマス・スピリットと呼ばれるものなんじゃないかなあって思います。だから、この時期に、例えば山火事の被害にあって家が燃えてしまったような人がいたら、皆でサポートすることがクリスマス・スピリットなのでしょう。同時に、単なる商戦とかチャラチャラしたファッションになってしまったクリスマスは、過度にコマーシャライズされた「堕落」したクリスマスであり、クリスマススピッツに反すると、誰かが眉間に皺を寄せて発言したりするわけです。
このようなコンテクストでいえば、この時期人々は何をなすべきかといえば、素晴らしいクリスマスを過ごすことであり、個々人が最大限ハッピーになることであり、全てはその準備と実行であったりします。ゆえにクリスマス当日25日になると、町はゴーストタウンと化し、人々は家々で家族とともに幸福な時間を過ごします。そんなに全員が全員幸福ってことはないでしょうけど、最大限そのために努力すると。クリスマスプレゼントも、本当に喜んでもらうために、かなり気合が入ります。
このように日本の場合は、正しい魂は正しいカタチに宿るという発想(それはそれで正しいと思う)から、あくまでも形式を整えることがイノチですし、その形式の最たるものである正月が全ての焦点になります。大晦日まで、掃き清め、清浄作業に徹し、完璧にリセットして、「新年」という初物をいただくわけです。これに対して西欧では、クリスマスに全ての焦点が集まります。カタチを整えるというよりは、いかに実質的に幸福になるか、それをエンジョイするかが大事なことになるわけです。
というわけで、時期は一緒なんだけど、やってることはぜーんぜん別物です。だから、このクリスマス主義の社会のなかで、正月主義の日本人のメンタリティを納得させたり、シンクロさせようというのが最初から無理な相談なわけで、違和感があっても当然、違和感が無い方がおかしいです。
もっとも、お正月が形骸化しているように、クリスマスもまた形骸化してます。
バレンタインデーの義理チョコみたいなもので、クリスマスプレゼントにしても家族など本命プレゼントと、パーティーに招かれたりした場合の義理プレゼントもまた沢山あるわけです。クリスマスカードも、また、お義理のものが多い。それは、「一年の感謝の気持ちをこめて」贈るべきお歳暮が、「まあ、出しておかないとマズイだろうなー」「5000円くらいでいいんじゃないの」という感じで義務的になったりしてるのと同じことです。クリスマスパーティーも実質的には日本の職場の忘年会と同じだったりするケースも多い。また、クリスマスカードも、日本の年賀状と同じように、義理的ビジネス的に出したりしてます。
日本を離れて、やれやれこれでもう年賀状とかお歳暮とか面倒くさいことをしないでいいやと思ったら、こっちはこっちでクリスマスカードがあったりするわけですね。やってることは一緒だったりします。年賀状って、まだ多少遅れても許されるけど、クリスマスカードはあんまり遅れることが許されないし、なんせ締め切りが1週間も早くなるので、日本以上に慌しい部分もあります。唯一いいのは、干支がないから去年のクリスマスカードでも使える点ですね。でも、切手がねー、よせばいいのに郵便局も毎年デザインが違うクリスマス切手をだすもんだから、去年の切手を貼るのは多少気が引けますね。まあ、勿体無いから貼るけど(^_^)。
文責:田村
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