今週の1枚(05.12.05)
ESSAY 236/”ピュアな豆腐”を守るために学べ
写真は、South Head近くの住宅街の断崖&景観。正確な場所を言えば、VaucluseのDiamond Bay。”Danger”という墜落キケンの標識の絵がなんともいえないですね。
「今、あなたの目の前に神様がドロロンと出現して、、」というのは、以前にどこかに書いた例え話だと思いますし、僕が学校の説明をするときに好んで用いる例え話でもあります。こう続きます。
神様が現われて、「おまえはこれまでにイケナイことをしたので罰を与えなければならない」といきなり言い出します。思い当たるところアリアリですので、「げ」と思っていると、「お前の中学高校時代の記憶を全て消去する。しかし、全て消去するのは可哀想なので、半分だけ消去する。つまり、学生時代に得た勉強知識の全てを消去するか、あるいは中高時代の勉強以外の記憶を消去するか、どちらか選べい!」と宣言されます。ここで、質問です、どっちがいいですか?
多くの人は前者を選ぶと思うのですよ。後者、つまり中学高校のときのクラスメートの記憶、一緒に遊んだり馬鹿やったりした記憶、初恋とかラブレターをどうしたという記憶、体育祭とか文化祭での記憶、さらにその時期に接した音楽、マンガ、映画、小説の記憶は、やっぱり大事だから消去されたくないんじゃないか。しかし、中高時代の勉強の知識は、別にどうでもいいとは言わないまでも、そんなに今残ってないでしょう?日本史の年号とか、物理の等速直線運動とか、生物のランゲルハウス島とか、古文の形容詞の活用表とか、残ってますか?消去されても知れてるんじゃないでしょうか?
このお話で何を言いたいかというと、一つは、「学校」というのは何なのか?です。「知識を得て勉強をする場所」なのか?と。僕の場合は、そして多分あなたの場合もそうだと思うのだけど、学校というのは勉強をする場所ではなかったし、学生時代は勉強をする時期ではなかった。そういう時空間ではなかった。では何だったのか?といえば、カッコよくいえば「人格形成」をする場所だったと思います。あの時期に知り合った友達、くだらないことでバカ騒ぎして、部活でヒーヒーしごかれて、一人前に色気づいて下駄箱にラブレターが入ってたの、バレンタインデーがどうので一喜一憂する。生まれて初めて音楽を聞いて鳥肌がたったり、マンガにハマったり。そういうことをするための時間だったのではないか。そして、それらが今の自分の血肉になっているのではないか。客観的事実としてはそうだったのではないか。
もし、これらの勉強以外のパーソナルな体験や記憶が全て消されてしまったら、いったい自分はどうなってしまうのだろうかって恐怖はあります。恋愛やら、友情やら、裏切りやら、哲学っぽい思いつめやら、反抗やら、達成感やら、屈辱感やら、、、これらがあったからこそ今の自分が出来ている。今の自分の物の考え方、人の見方、異性への接し方、人生の生き方が出来ている。まさに自分の人格の骨格が形作られた時期であり、魂のゴハンをむさぼっていた時期である。
一方、勉強知識に関しては、別になくなってもいいもんねってものが多い。なくなるも何も、最初から入ってない、既に忘れてしまったってことも多いでしょう。期末試験で一夜漬けをしたり、大学入試で必死にやったというのは、大事な記憶かもしれないけど、それは「必死に頑張った」とか「頑張りきれないで挫折した」というかパーソナルな体験や記憶が大事なのであって、そこで何を覚えたの?というとそれは忘れてしまってるでしょ。
ということで、この比喩の意味するところはもう一つ、自分の人格はいつどうやって作られたのか、自分が自分であるために必要な栄養素はいつ摂取されたのか、ってことです。もっと言えば、それがどうして自分の骨格を作るのか、栄養素とかいうけどそれがどうして栄養になるのか、そもそも自分ってのは何なのよ?何で出来てるのよ?ってことです。
僕らは毎日生きて、毎日なにかを学んでます。別に学生時代じゃなくても、70歳になっても、90歳になってもおそらく毎日何かを学んでいるんだと思う。女の子にモテたい一心であの手この手を使っても、全然効果なーし!って屈辱と絶望にまみれながら、「もしかして、そーゆーことじゃないのかも」ということを学びます。自分では些細なことででも、他人にとっても物凄い大事なことだったりして、それで人の心を致命的に傷つけてしまうという恐ろしさなんかも学びます。昨日まで笑ってた友達に翌日に自殺なんかされた日には、人間ってなんなの、友達ってなんなの、「わかんねー!」パニックが襲います。そうかと思えば、ブツクサいいながら反復練習を延々させられて、ある日気が付いたらそれまで絶対出来なかったことが楽勝に出来るようになってたりして、「出来るようになる」というのはこういうことなのか、と学びます。インスタントラーメンを3分茹でているとき、ある日、「あ、そーか、茹であがってからドンブリ探してたらその間に麺がのびてしまうから、茹でてる間にドンブリは出しておかないとだめなんだ」なんてことも学びます。
このように毎日なにかを学んでるわけですが、じゃあ、「学ぶ」って何よ?「学ぶ」ということの本質は何なのよ?ってさらに突っ込みたくなります。「学ぶ」となんかイイコトあるのかよ?ってことも気になります。
でも、わかりきっているんでしょね。学んだ方が絶対いいって。絶対イイコトあるって。
それは、道徳とか精神論とかいうのではなく、カラッカラに乾いたドライな認識からそう思います。ドライな見方ってのは、人間なんか要するにマシンみたいなもんだという認識です。人間の意識や人格というのは、一種の情報体系であり、進化するデーターベースであり、性格とかいうものは情報体系の一種の偏向やクセみたいなものだと。いまこうして下らないエッセイを書いている僕自身がいるわけですけど、今こうしてモノを考えている自分って何なの?と、解剖医がメスで切り刻むようにグサグサ腑分けしていけば、結局は情報です。だって脳味噌というのは情報しか扱えないんだから。
大脳生理学とか心理学とか、そういう専門的な知識は僕にはないけど、考えてみればわかるように、脳がやることといえば、記憶することと、演繹(推測)することがメインの作業でしょう。まず外界のことを知る。自分を知る。外界の変化と自分の変化の相関関係を知る。
僕らは生れ落ちたその日から、外界からの情報の奔流に晒され、それを経験し、そして記憶する。ひらたく言えば「いろんなことを知る」。それを重力と呼ぶかどうかは別として、モノは地面に落ちることを目撃し、実験し、経験し、知る。高いところから手を離すと下に落ちる。自分の身体も空には浮かない。さらに進んで、落とす位置が高ければ高いほど着地したときの衝撃は激しくなるということを知る。自分で動き回れるようなった赤ちゃんが手当たり次第にモノを握り、噛みつき、ほおり投げるのは、外界のことを知りたいという本能的なものでしょう。
自分のことを知るのは、例えば自分の腕力はこのくらいしかないとか、このくらい早く走れるとか、こういう状況になると腹が立つとか、結構飽きっぽいとか、意外と根性があるとか、そーゆーことですね。外界の変動と自分の変化の相関関係というと、このくらいの速さのボールだったら打てるとか、人から期待されると萎縮してしまうとか、このテのタイプの人は苦手だとかです。
メチャクチャ大雑把に言ってますけど、要するに外の世界のデーターを集め、自分に関する情報を集め、あらゆる事態の変化に自分を対応させていこうとするわけですね。その外界認識が「世界観」と呼ばれるものであり、自己情報が「自我」認識であり、事態への対応のパターンをも含めて統合したものが僕らが思っている「自分」そのもの、自分の「人格」というものなのでしょう。
これらのデーターの収集、検証、精密化の作業こそが「学ぶ」ということなのでしょう。
学んでない人は、それだけ不正確な情報で世の中を見るし、自己認識も誤るし、その当然の結果として、事態に対する対応が不適切になる。データーが足りなかったり、間違ってたり、腐ってたりしたら=つまり学ばなかったら=それらのデータによって立つ人格もまた腐る。平たく言えば、「世間知らずの自惚れ屋さんはよく失敗する」ということですな(^_^)。まあ、そういうパターンに限らないけど、わかりやすく言えばそうです。
だとすれば「学ぶ」ことがイイコトなのは明らかで、学べば学ぶほど世界が正確に見えるし、自分もクリアにわかるし、その結果、あらゆる事態への対処能力が向上する。つまりは、自分の「性能」が上がる。
この単純な仮説の例は幾らでも思いつくことが出来ます。というよりも、僕らが生きて生活している時間の全てがそうだといっても言いすぎではないでしょう。
例えば、自分が周囲の人々よりも多少賢かったり、腕力が強かったり、あるいは全ての面で秀でている人がいたりします。それが物心ついた頃からそうだったとしたら、「世間はチョロイ」「俺様はスゴイ」って思うでしょう。まあ、そう思うようになっても不思議ではないよね。客観的にちょっと広い世界の尺度でみたら、全然大したことなかったりするんだけど、とりあえず本人がこれまで得てきた経験と情報からしたらそういう結論が出るから、そう思い込む。しかし、このような不完全で腐ったデータをもとにどういう世界観と人格が出来上がるかというと、容易に想像できると思うけど、かなり「寒い」ものになります。周囲の連中は自分よりもバカで弱い奴ばっかりであり、我こそは帝王であるという寒い認識になる。世間と自分との交渉パターンは、もう勝負、支配でしかない。
こういう人間が、自分よりもケタ違いに優れた人間に出会ったり、あるいはそんな連中ばっかりいるところに放り込まれたりすると、人格崩壊を起こすでしょう。「出来る自分」という自画像しか持ってないから、全然外界に対応できない。普通はこういう経験を積んで、一回り大きな人格を形成していくものなんだけど、その変化があまりに急激だとしたら修正では追いつかず、崩壊してしまう。そして再構築された人格は、強烈な反動を伴って、必要以上に卑屈なものになってしまったりもします。あるいは周囲から受けた屈辱を、もっと弱い人間に当り散らしていじめることで発散させようという人間になるかもしれない。腐ったデーターに基づく、腐った情報処理体系、つまりは腐った人格の出来上がりです。
それでもまだガビーンとなった時点で再構築の機会が与えられるだけラッキーなのかもしれない。広い世間に出ても、なおも常勝街道を爆走してしまったら、それこそ修正の機会もない。結果、世の中、勝った負けたでしか物事見れなくなる。より巨大な視点からしたら、そんな微細なことで勝ったとか負けたとか言ってても、「それがどうした?」ってことでもあるわけです。勝てばそれでいいの?優れてればそれでOKなの?と。赤ちゃんの笑顔は、別に勝ってもいないし、優れてもいないけど、人のハートをダイレクトに鷲づかみにする。この論理無用の反則のような巨大なパワー。そういう世界、そういう価値観もあるわけです。そんなことこの世に掃いて捨てるほどある。だけど、なまじ人より優秀だったがために、それに気付くことがない。だから、有能なんだけど人徳がないという、これまた偏った人格になる。この世の全てを手に入れたようでいて、本当の意味では何一つゲットできていないという。
全く逆の話もあります。生まれたこの方人に勝ったことがない。何をやっても人に劣る。コンプレックスこそが自分の自画像という人もいるわけです。これも、鏡に写したように同じパターンで、世の中勝った負けたでしか見れなくなり、全然別次元の価値や世界を知ることもなく、いじけた人格のまま終わってしまう。それだけで終わればまだマシで、いじけの解消として、人をうらやみ、妬み、どんな姑息な手段を使っても他人を不幸に陥れることだけが、自分と外世界とのコネクションになるという。その結果、愉快犯みたいな人が出てくる。
ここまで極端ではないけど、僕らだって似たような部分はあります。僕らの外界認識は正確なものとは到底いえないし、自画像もかなりデタラメでしょう。だから人格もまたそれなりに腐ってたりするでしょうし、世間や他者と誤った対応をしているでしょう。ゆえに、不正確なデーターは補足しなければならない、新しい外界との交渉のパターンを編み出さないとならない。つまりは学ばねばならない。
学生時代の記憶で、いわゆるお勉強によって得た学問知識よりも、友人や恋人や趣味や体験で得た知識の方がはるかに大事に思えるのは、当然のことでしょう。その過程で、僕らは無数のことを学び、より広く、より正確なデーターを収集し、構築し、そして自分の人格を作り上げていったからです。ハッキリ言って、教室で学ぶ勉強の個々の内容なんか、かなりの程度どうでもいいです。実際、あなただって殆ど忘れてしまっているでしょうし、忘れてしまったからといって別に日常に支障は無いでしょう。
ところで、日本人として日本で暮らすなら「せめてこのくらい知っておけ」という最低レベルってどのくらいでしょうね?四則計算くらいは出来ないとマズいでしょう。当用漢字くらいは読めないとマズイでしょう。日本の首都が東京だということくらいは知っておいた方がいいですかね。長崎県が九州と呼ばれるところにあるくらいも知っててもいい。TVの時代劇を見て、あれは昔の日本の話なのだということくらいも知ってていいかな。新撰組と水戸黄門だったらどっちが時代的に先かは、知らん大人もたくさんいるでしょう。だから、まあ、小学校3年生くらいまでの知識を高校を出るまでに押さえておけばいいんじゃないんですか?だって、小学校高学年になると、「球の体積の求め方」とか出てくるけど、あなた言えますか?”4/3×円周率×半径の3乗”ってすぐに言えますか?言えなくて日常生活困ってますか?困りませんよね。阿武隈山地って何県にまたがってますか?まあ、知らなくてもいいよね。
だから、18歳になるまでにこの程度のことを知っておけばいいです。そんな必死こいて塾とか予備校とかに行かせる必要は、こと大人になったあとの必要知識という観点からは、ない。よく受験生が、「受験勉強なんか社会に出てから役に立つのか?!」とボヤきますが、はい、必要ないです、特にその分野に進むのでなければ。僕らも知らんもん、実際。じゃあなんで学校なんか行く必要あるのか、なんで勉強しなきゃいけないのか?それは個々の知識が大事なのではなく、そーゆーイトナミをやることで「学ぶ」ことがあるからでしょう。
じゃあ何を学んでいるのかっていうと、まあ一番実用性がある「学び」は、「イヤなことでも毎日やらないと生きていけない」「世の中そんなに甘くないよ」ってことかもしれませんね。朝起きるのが面倒くさいとか、授業がかったるいとか、じっと教室に座っていなきゃいけないのが苦痛だとか、そんなん誰だってそうです。でも、そんなレベルで挫折してたら、何一つ満足に出来ないでしょう。身体が虚弱であるとか、度はずれた理不尽なイジメにあっているとかいうなら話は別ですが、ある程度「もう死にたいよお」という程度の苦痛には慣れておかないとならない。この先生きていけば、何度も何度も
そういう時期はきますからね。その度に逃げてたら、ほんと何一つ出来ない。
一言でいえば、「ストレス耐性」です。小中高12年とりあえず毎日通えと。その程度のストレスには耐えろと。会社入ったらもっとキツい環境で定年までの35年はこれをやるんだから。それだって今の時代、定年まで仕事があり、通ってさえいればOKみたいな夢のように甘っちょろい職場なんかないでしょう。だから、半分遊んでるみたいな小中高の12年程度クリアできないでどうする、と。毎日通うところに意味があり、毎日詰まらん授業を聞くところに意味があるんだから、ある意味授業内容なんかどうでもいいっちゃどうでもいいです。ストレス的観点からは、あんまり面白かったらストレス訓練にならんから(^_^)。
入試とか受験勉強は、これは以前にも書きましたけど、「手頃な試練」として意味があるでしょう。人間なんか、二重三重に壁のめぐらされた盆地みたなところに生まれ、外に行きたい、自由が欲しいと思えば、山なり壁なりを乗り越えないとならない。360度何処へ逃げても絶対カベはある。まずこの単純な原理を知ること。その上で、カベを乗り越えるためのチャレンジをし、どの程度頑張るとどの程度の結果がでるかということを全身で理解すること。結果が挫折であろうが、成功であろうが、多くを学ぶでしょう。
その意味では、一芸入試なんか理にかなってる部分はありますよね。どんなことでもある程度のレベルを極めた人間は、それなりにカベを越えることを学んで来ているはずですから。ただ大学がそれを積極的に認めるのはどうなんかな?って部分もあります。それは大学が全人格教育を目指すか、職人芸的アカデミズムを目指すかの考えの違いでしょうが。
あと、個々の勉強の内容ですが、全く知らなくてもいいってことはないでしょう。別に大人になったあと覚えておかなくてもいいけど、人類の「知」の広がりというのは、かなり広いんだよってことを薄ぼんやりとでも理解してればいいんじゃないか。あとは、個々の進路を選択するにあたっての予告編というか、適性テストみたいな部分もあるでしょう。国語は全然ダメだけど、数学だけはやたら面白く感じるとか、歴史が好きとか。大学以降のアカデミズムのショーケース的な役割はあるとおもいます。
そして、もう一方で大きな役割としては「人と上手くやっていく能力」でしょう。人間関係処理能力です。
これは日本みたいに、どこにいっても人ばっかり、人以外に殆ど資源のない社会だったら尚更です。他人との関係をうまく構築し、うまくやっていくのは必須スキルといってもいい。それは「愛と正義を知り、高潔な人格を陶冶し」なんて高尚なレベルではなく、とにかく今日一日の食糧を手にいれるため、最低限生存な必要なカロリーを摂取するため、最もベーシックな生きる能力としての「他人とうまくやっていく」能力です。これが荒野のアウトローで一匹狼で生きていくなら、別にこんな能力もそんなに要らないかもしれないけど、日本社会で普通にそんな生き方は出来ない。それに、一匹狼の場合だって、周囲は敵ばかりだったりして、一目見ただけでその人間が敵か味方か判別する超人的な人間洞察力がないとすぐにヤラれてしまうから、より強力な対人能力が必要なのかもしれません。
だって、社会に出てから、必要でしょ、対人能力。群を抜いた天才だったら奇人変人で通るかもしれないけど、99.9999%の僕らは凡人ですからね、そんなにワガママ爆発状態でやっていけるほど世の中甘くないです。会社内だって、出る杭は打たれるし、イジメはあるしね。これが取引先とかお客様だったら、もう絶対服従的にやってないと売れるものも売れないでしょ。起業してやっていこうしたら、尚のこと、同業他社、関係者、銀行関係、お客様相手に「気配りの鬼」と化さねばならない。上層のボス連中に何度も煮え湯を飲まされるし、痛くも無い腹をさぐられる。上にのぼれば登るほど風当たりはキツくなり、事実無根の中傷や怪文書が出回り、足を引っ張る連中が何ダースもおり、後ろから刺されたり、信頼していた腹心に横領されたりします。大変ですねー。程度の差こそあれ、僕らは毎日それをやってるわけでしょ。
だから学校時代に、クラスルームの中の人間関係を知る。人間というのはいろんなタイプがあるんだということを知り、人間というのは派閥を作りたがるものだということを知る。なんだか知らないけど馬が合う奴と合わない奴がいることを知り、冷たい関係、温かい関係を知る。多くの人々の中で、自分の”立ち位置”、ポジショニングみたいなものを知る。やたら媚びるわけでもなく、やたら反発するわけでもなく、自分の個性を殺さずに、みんなの中で自然な距離感というものを掴む。大事なスキルだと思いますよ。
これらの観点から考えていけば、就職採用現場で個々の日本企業が何を考えているか、どういう基準で選んでいるかも、おのずと納得できる面もあります。学歴偏重とか有名大学重視とか、ようするに偏差値の高い大学出身者を優遇するというのも、単なるブランド志向ではないです。ブランド趣味に耽っていてやっていけるほどビジネス社会は甘くないでしょう。なぜ有名大学、難しい大学を出てるといいかといえば、まあそれだけ高いカベを乗り越えてきたのだから最低限度の根性はあるだろうということでもあるし、仮に根性がなくても、それなりに要領がいいとか、頭がいいってことになります。根性、要領、頭脳の全てに欠けてたら入れませんからね。あと、大事なことは、「権威に対して従順である」ということでしょう。なんだかんだ口先ではいえますけど、結局は有名大学に進学してるんだから、この世間の権威というものに従ってるわけで、そういう従順な性格と、世間一般と同じ価値観というのは、優秀な企業戦士の資質でもあります。またその権威にすがって生きていく生き方を選択したのだから、ちょっとやそっとでは辞めないだろうと。これが、東大に軽く入れる実力を持ちながら、ボランティアでアフガニスタンゲリラに参加してしまうような人材だったら、とてもじゃないけど日本企業の組織の論理には従わないでしょう。「使いにくい人材」になってしまう。
「学生時代なにをやってましたか?」なんて質問も同じです。こいつ、どれだけ何を学んできたのかな?ってのを知りたいわけです。で、それは個々の答えの内容ではなく、答え方とか、言葉の選び方とか、呼吸とか、オーラとか、そういうので結構わかっちゃう部分があります。僕も、日本にいるとき、自分の働いている法律事務所で、事務員さんの採用試験や面接をやったのでわかりますが、「おう、この人はいい」というのは、わりと衆目が一致します。別に法律なんか全然知らなくてもいいし、法学部卒なんか殆ど考慮しません。そういうことではなく、視野や人格が安定してるかどうか、どこまで広く見えるか、どれだけ精密に見えているか、どれだけ冷静になれるかみたいなことで、それってオーラみたいなもので分かるところはあります。こういうとなにか名人が人格洞察してるみたいだけど、こんなの誰だってわかるよ。一人だけ見てどうか?といわれたら分からないけど、並べて比較してみればわりと一目瞭然って感じです。
いずれにせよ、特殊専門領域は別として(開発部門とか)、一般的な採用の場合は、人格試験でしょう。具体的に勉強してきた知識ではなく、どれだけ「学んで」きたか、です。
さて、とりとめなく書いてますが、ここからさらに話は3つの方向に分岐します。
一つは、今の日本の教育は(学校教育だけではなく、職場教育、家庭、地域教育全て) は、本当の意味での「学び」を実現しているかどうか。例えば学校のクラスでも、ひねこびたコスっからいガキだらけの殺伐とした場だったら、そこでまともな人間関係を学ぶなんてのは難しいでしょう。誰かがイジメられていたら、あとで自分にイジメの矛先が廻ってこないように、一緒になってイジメた方が得だとか、そんな保身とか永田町の政治みたいなことを学んでてもしょうがないです。あと、親や大人が子供に対して、あるいは後輩に対して、「腐った情報」を与えてないか。「世の中しょせんカネだ」みたいな幼稚な世界観を押し付けてないかとか。
二つ目は、海外に出たときに、これまでどれだけ学んできたかはイヤになるくらいシビアに試されます。全然言葉が通じないような人から愛されるような魅力的な人間になってきたかどうか、何がなんだか分からない社会システムの中でトラブルにあったときの問題解決能力とか現場処理能力、自分なりの成功パターンを確立してきたか、またそれを絶えず進化させようとしているか、社会の一断面/一風景を見てもそこから背景構造が透けて見えるような洞察力を得てきたか。今まで適当にパターンやマニュアルや惰性で誤魔化してきたことの一切が試されるわけです。そして、こういう環境をメチャクチャ面白い!と思えるか、恐くてたまらないから引きこもってしまうか。一瞬一瞬に試され、それと同時に膨大なものを新たに学ぶことが出来ます。逆に言えば、人間とは、社会とは、国とは、コミュニケーションとはという基本的な部分で、情報の収集と洗練が行われますから、より情報が浄化され、それがひいては人格や性能を上昇させます。まあ、平たく言えば、人間が好きになり、生きていくのが楽しくなるってことです。うまくやれば、の話ですが。
三つ目は、最初にカラカラに乾いたドライな認識で、人間なんか所詮マシンだ、人格=性能だとみたいなことを書きました。全編通じて、マシンのチューンアップの原理みたいなことを書いてきたわけです。最後に、そんなにまでして、何故、性能をあげないとならないのか?なんでそんなに優秀な人格でないとならないのか?その理由です。
その理由は簡単で、大事なものを守るためです。大事なものというのは、例えば、美しいものをみたら素直に美しいと思え、素直に人のことを好きになり、素直に尊敬でき、素直に感動できるという、ストレートでナチュラルな、ピュア度100%の感性です。この感性は性能じゃないし、マシンでもない。衒学趣味に走るわけではないけど、カントがいったア・プリオリな感性、先験的感性というのは確かにあると思います。誰に教わったわけではなくても、キレイな花をみたらキレイだなと思う。なんで思うの?なんでそんなキレイとか美しいとかいう感覚を持ってるの?誰からも、どこからも学ばなくても、これらは人間だったら持っているでしょ。だから先験的、経験して覚えて学んで知るのではなく、経験に先立ってもうはじめから知ってること。愛とか、感動とか、言葉にして書くだけでもこっ恥かしいようなことが、でも結局は一番大事じゃないですか。
しかし、自分の人格やスキルや性能が劣ってたら、この感覚がストレートでナチュラルにならないで汚れてしまうし、歪んでしまう。物凄いコンプレックスや、鬱屈した怒りばかりを内向させていたら、キレイな花を見てもキレイだとは思わない、「なんだ、こんなもの、美しいものは俺の敵だ」みたいに歪んでしまう。守るべきピュアな感性というのは、豆腐のように壊れやすい。その壊れやすい豆腐を、世間の荒波という凸凹道を、自分という車で運んでいるわけです。自分という車の性能が悪かったら、例えばハンドルがダメだったり、サスペンションがヘタってたりしたら、ガタガタいって豆腐は壊れてしまう。ストレス耐性が甘いから、ちょっと失敗しただけでグレまくって貴重な時間を無駄にするとか、下らない犯罪をおかしてしまって一生刑務所とか。豆腐が、つまりピュアな感性が壊れてしまったら、あんまりハッピーな人生にならないでしょ。幸福ってのは、要するにこのピュアな感性がどれだけ感動するかによって決まると思うのですよ。違いますかね?その幸福のモトとなる豆腐が壊れてしまったら、幸福になれるわけないじゃん。だから、この豆腐を守るためにも、自分というマシンはチューンアップを怠ってはならないんだと思うのですよ。それが理由。簡単でしょ。
文責:田村
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