今週の1枚(05.10.24)
ESSAY 230/オーストラリアの近況 〜労働法改正&反テロリズム法
写真は、ManlyのNorth Headから望遠で撮影した暮色のCity。ちなみに広角で撮影すると右のような感じになります。
ここのところちょっとシドニーやオーストラリアに関係ない話題が続いてきましたので、また話題を地元ネタに戻します。
今オーストラリア、シドニーで何が起こっているか?ですが、全体として言えば、天下泰平だと思いますよ。なんだかんだ言われながら景気は未だに良く、バブルも定着してるなって感じです。深刻な二極分化が起き、オーストラリア人口の10%は深刻な貧困層だと言われつつも、シドニーのメジャーなストリートでは高級車が普通に走ってます。今じゃ、僕らの目も慣れてきて、BMWやベンツくらいじゃ特に高級車だとは思わんです。物価もコンスタントに上がり、ショップやレストランもどんどんお洒落に、高額化しているでしょう。
僕が最初にオーストラリアにやってきた10年以上前は、日本人=金持ちだけど、今じゃそんなこと無いですよね。実態的に見ても、今ではオーストラリア人の方が日本人よりも金持ちでしょう。もちろん冷静に経済指標を見比べていってるのではなく、雑駁な感覚でしかないのですが、可処分所得というか、「金遣いの荒さ」でいえばそうでしょう。一人100ドルくらいのレストランが流行って、ガンガン席が埋まってますしね。
これから海外に来られる皆さんも、10年以上前の「日本人は金持ち」幻想から醒めておかれたらいいと思います。今じゃそれほど誰もそう思ってはくれていないし、「日本人は狙われています」というのも”僭越”だと思いますね。10年前の時点ですら自意識過剰じゃないの?と思ってましたが、いまどき「日本人は〜」なんて独立したカテゴリーで語られるほどの存在感もないです。注目されてません。金持ちかどうかで言えば、そのへんの中国人の方がよっぽど持ってます。平均的な日本人のワーホリさんの場合、その可処分所得額と見込み所得額(どれだけ稼ぎ出す力があるか)を、シドニー社会のヒエラルキーでいえば、下から数えて数%くらいの絶対的貧困層でしょう。社会の底辺といっていい。
それは別に悪いことでもなんでもないです。金持ちであることだけがキャラクターの全てだなんてカッコ悪いったらありゃしないし、ワーホリさんを含む社会階層であるバックパッカーは貧乏であることが誇りのようなものです。「私がオーストラリアにたどり着いたときには、財布の中には27セントしか入っていなかった」というは最近読んだ記事(Lonely Planetの創設者であり、未だに世界中を旅しているウィーラー夫妻についての記事)に書かれてましたが、まさにそんな感じでしょ。それでいいのだ。
日本の存在感がなくなっても別にいいんですよ。世界60億人中の1億だから、世界中の人々60人に一人だけ日本人が混じっていたとして、その日本人が周囲に発散する存在感なんか殆どないでしょ。世界の人口比率に従えば、世界のどこかで60人乗りの飛行機に乗り合わせて、乗客の13人が中国人で、10人がインド人で、3人がアメリカ人で、3−4人がヨーロピアンで、2人がインドネシア人で、2人がブラジル人で、あとバングラデッシュとパキスタン人に次いで、1人ちょっとが日本人、同じくらいナイジェリア人がいることになります。そういうメンツで飛行機に乗り合わせて、あなたは周囲にギンギンに存在感を出せますか?出せないでしょ、普通。生身の人間でそうだったら、国単位でもそうであっていい。その方が自然です。そんなに目立つのが好きじゃないんだから。
オーストラリアの話に戻りますが、最近の話題ですけど、連邦政府レベルで物議をかもしているのは、労働法の改正問題、それと反テロリスト法の問題でしょう。どちらも深く内容を読み込んでいるわけではないので、大雑把に言います。大雑把にしかいえないし。
労働法改正問題は、これはまずオーストラリアは、伝統的に労働組合の力が非常に強い国なのだという大前提を知ってください。
オーストラリア社会には伝統的特徴として反骨精神、反権力精神や、イーガリタリアリズム(egalitarianism)=平等主義、トール・ポピー・シンドローム(tall poppy syndrome)=出る杭は打てというメンタリティが色濃くあると言われています。平等とか出る杭は打てなんて日本人みたいだけど、日本人のように裏で陰口叩いて足を引っ張ってという陰湿な感じがなく、もっと陽性でアグレッシブです。「俺たちゃみーんな平等だ、おー!スカしてんじゃねーぞ、おー!」という感じ。ある意味大阪人のメンタリティに近い部分がありますな。「平等」といっても、右見て左見て列を乱さぬように、人と違うことしないように汲々とする感じではなく、「人間みーんなアホやねん、それでええねん。ええカッコしとったらアカンぞ、こら」という感じね。
このような反権威主義、平等意識の高さは、労働運動と親近性を持ちます。「会社じゃ、雇用主じゃゆーてエラそうにしとったらアカンぞ、こら、なあ、皆?」「おー!」という感じ。したがって、現在のオーストラリアの労働法は、労働者に対する保護が厚いし、労組の影響力が強い。Awardという最低賃金が労組との間で取り交わされ、それ以上の給与を支給するように縛られています。
余談ですが、"award"は本来「○○賞」という意味ですが、「あうぉーど」と読みます。ついローマ字読みをしてしまう僕らはよく「アワード」と言ってしまいますが、"ar"のときは「うぉ」と発音するのが英語的には普通です。戦争/warは「うぉー」でしょ。「わー」じゃないでしょ。逆に、"or"は「うぉ」ではなく「あー」と発音する場合が多い。word=わーど(うぉーどではない)、work=わーく(うぉーくではない)。よく港町の観光施設にFisherman's Wharfというのが日本でもあります。もともとはサンフランシスコの魚河岸でシーフードレストランの並ぶエリアのことらしいのですが、この"wharf"も「わーふ」ではなく「うぉーふ」です。シドニーのマンリーのフェリー発着所であるManly Wharfもマンリーウォーフです。
余談の余談ですが、日本でもこのフィッシャーマンズ”ワー”フと名付けられたエリアがあるのですが、どのくらいのあるのかちょっと検索してみたら、あるわあるわ、釧路フィッシャーマンズワーフ、氷見フィッシャーマンズワーフ、若狭フィッシャーマンズ・ワーフ、瀬戸大橋フィッシャーマンズワーフ、七尾フィッシャーマンズワーフ、脇田海岸フィッシャーマンズワーフ、やいづフィッシャーマンズワーフ、下関フィッシャーマンズワーフ、みすみフィッシャーマンズワーフ、、、もうこのくらいでいいか。あるもんですね。ちなみに「ウォーフ」と綴られていたのは沖縄読谷にある洋食屋さんでした。しかしここまで日本全国で「ワーフ」と名付けられたら、これはもう英語じゃなくて日本語ですね。「モバイル」と一緒ですね。"mobile"の英語の発音は日本人の耳では「ムーバル」に聞こえます(正確には「もう」と二重母音でここにアクセントがくる)。携帯電話は「ムーバルフォーン」。なんで「もばいる」なんてモッサい言い方が日本で定着しているのかわかりませんが、まだ「モービル」「モビル」の方が原音に近いです。ガンダムではちゃんと「モビルスーツ」と言いながら、なんで携帯だけ「もばいる」なんだろう。誰が命名したのだろう。もししてmoveから「可動性の」という意味で"movail"とか思ったのかも知れないけど、そんな単語ないです。可動性だったら"movable"、「むーヴぁぶる」。
さて、この強い労働者保護がオーストラリアの経済発展を損なっているということで、連邦政府はこの5月に労使関係の抜本的改革案を発表しました。これが評判悪いのですね。連邦与党の自由党連立政権は、野党労働党が文字通り労働者サイドをベースにする政党なのに対して、財界寄りの支持基盤を持つ政権ですから、オーストラリアの伝統的に強い、というか彼らから見たら”強すぎる”労働者保護や労働組合の力を減少させようと考えるのは、まあある意味自然なことです。ただ、今回の改革は、かなりドラスティックなもので、主唱者であるハワード首相自身が「レボリューション」というくらいのものです。現在のジョン・ハワード首相の20年来の悲願と言われており、長期政権になった自分の政策の最後の総仕上げのように気合が入っています。小泉首相の郵政民営化みたいなものです。
また、タイミング的にも絶好ということもあるのでしょう。現在、連立与党は下院も上院も過半数を制していますから、ゴリ押しすれば法案を通せないことはない。また、14年連続で好景気が続き、失業率も歴史的に低いくオーストラリアでは、国民もけっこう給料のいい仕事についてますし、労働組合加入率もまた低い。ですので、「通すならば今だ」ということでブチ上げたのでしょう。
だけど評判悪いですね。かなり悪いですね。いろんな世論調査があるのですが、過半数の国民が改革賛成といってる調査はないように思います。支持率40%以下というのはまだいい方で、わずか2割しか支持しないなんて結果もあるようです。
わりと従順にサービス残業をやり、有給休暇も気兼ねしてなかなか取れない日本人のメンタリティからしたら、労働諸法というのはあってなきが如しというか、「労働者の権利」なんてフレーズが日常用語で出てくることはマレでしょう。出てくるときはリストラその他で簡単には譲れないようなトラブル、つまりは「事件」と呼ぶような事態になってからでしょう。だから、オーストラリアで労使関係の法改正がこうもドンパチ大騒ぎになるのか,実感的にピンと来ない部分もあると思います。
しかしオーストラリアにおいては非常にビビットな問題になるわけです。ユニオン(労働組合)が頑張って最低賃金基準(award)を引き上げ、労働者保護の諸規定を堅固なものにし、納得いかなかったらすぐにストライキを打つ。学校の先生もストライキを打ちますし、バスや電車の労働者もストライキを打ち、警察官ですら団結して「おー!」と言ってる風土です。先日、ハワード首相がウーロンゴンというところに行ったときも、500人からなる看護婦、消防士、教師、警察官が集まって反対のプラカードを掲げて「おー!」とやってたそうです。
具体的に何処がどうと指摘できるほど僕はこの国の労働法に詳しくはないのですが(自分も自営業者だし)、労働者はよく保護されているなって感じます。逆に、この国で人を雇うのは大変だろうなーとも思います。個々の労働法上の権利それ自体については、日本の労働法もそれなりに整備されいます。ただ、同じ権利があるとしても、日本人はそれをそんなに行使しないのに対し、オーストラリア人は遠慮なく行使します。法律のコトワザに「権利の上に眠る者は法の保護に値しない」というのがありますが、オーストラリア人は権利の上に眠らない。残業があったらキッチリ残業手当を要求するし、有給休暇があったらキッチリ消費する。それで会社や周囲の同僚が迷惑するとしても、それは会社のマネージメントが下手糞だからいけないのであって労働者のせいではない。全く罪の意識がないし、そもそもそれは罪ではない。で、納得いかないと戦う。この個々人の戦闘能力の高さというのは、ヨーロピアンだなあって思います。
以前大好きなインドネシア料理屋に食べに行ったら、店の前に労働者の皆さんが頑張ってピケを張っていて、ビラを配って、レストランに入ろうとする客を説得してボイコットさせようとしてました。ビラを詳しく読んでみたら、このレストランの経営者がシドニーの他の場所で建築工事を依頼したのはいいのだけど、工事代金を払わない。何度交渉しようとしても雲隠れして会おうとしない。業を煮やした請負業者達、というか被害にあった業者さんは大人しそうな韓国系の業者さんだったのですが、同じ業界の仲間たちが集まって、「そっちがバックレるなら、こっちにも考えがある」とばかりに、このレストランの前に陣取り、経営妨害を始めたわけです。これが大人しくビラを配ったりするだけではなく、もう連日連夜泊り込みでやっている。新聞にも記事になったくらいですが、歩道に簡易テントを張ったりして泊り込み、ギターを持ってきて歌をうたい、にぎやかにやってる。なんといっても開拓民の末裔であり、バーベキューとアウトドアライフはお手の物のオージーですから、こういうことしててもあんまり苦にならないのでしょう。それに楽しくやっちゃう。あんまり楽しそうにやってるから、僕も最初見かけたときは路上パーティーやなんかのアトラクションかと思ったくらいです。その顛末がどうなったのかは知りませんが、しばらくしてからまたそのレストランを訪れたら、キッチリ潰れてました。
とまあ、こういう人達なわけですね。あなたが経営者サイドにたったら頭痛そうでしょう?
それに、日本人の感覚でいえば、おっそろしく無能な労働者というのはいます。「なんでこれが分からないのだ?」というくらいボケたこと言って来ることあるし、間違えるし、仕事はすっぽかすし。カミさんも取引先と年中キリキリしてますが、僕もやいやい督促しないとお金払ってくれないから大変です。確かに、こういう連中を雇って、権利保護バリバリで、ヘタに首にしたらあとが面倒だとか(まあ、日本ほど情緒的なものがないので首にすること自体は日本よりも楽だと思いますけど)になったら、そりゃ経営効率悪かろうってのは分かります。だから、もうちょっと何とかならんか?とハワード首相が悲願のように思うのも、働きアリ社会日本から来た身としては分からないわけでもないです。
そうはいっても、今回の「改革」(国民の大多数からすれば「改悪」)は、かなりドラスティックのようです。
基本的な枠組みというか、考え方ですが、オーストラリアの労働関係は大きく二つの種類があります。一つは、awardなどに拘束される包括的な労使関係。最低賃金や労働者の権利がガチガチに決められています。もう一つは、これらの取り決めに縛られない個人契約、individual contractsとかindividual agreementとか呼ばれる領域があり、これらの領域では労使が自由に話し合って労働条件を個別的に取り決めます。ハワード改革は、この個人契約の領域を今よりもぐっと増やそうということです。ちなみに「労使関係」というのは、インダストリアル・リレーションズ/industrial relations、あるいは頭文字でIRと呼ばれたりします。
この改革案のことを、ハワード政権は WorkChoicesと呼び、個人契約のことを Australian Workplace Agreements (AWA)と称しています。これまでのガチガチに硬直的な一括パッケージ契約ではなく、よりフレキシブルで、より公平で、より選択肢の広い労使環境を構築するのだというのが売り文句になってます。そして、ガンガンに新聞全面広告は打つわ(→右の写真)、TVのCMは流すわで、国民の啓蒙に勤めているわけです。が、これがまた評判が悪く、国民の税金使って何をするんだ?と。
でも、まあ、オーストラリア人が反対するのも分かります。「自由な契約」「フレキシブル」とかいっても、それは力の強い側においての話であって、1対1の交渉になってしまえば、労働者側はより不利な項目を押し付けら、より不自由に、より選択の余地が狭まるリスクがあるのは見えてます。引く手あまたの敏腕マネージャーだったら、好きなように対等に交渉できるでしょうけど、多くの一般労働者はそうではないでしょう。
それにここのところ景気がいいのはいいのだけど、オーストラリア人の労働時間は目に見えて長くなっていると思います。それは夕方のラッシュの時間帯が長くなっているという日常的なレベルでも分かりますし、皆も結構イライラしてきているし、車を運転していてもクラクション鳴らしたりってケースが年々増えてます。「なんか、どんどん日本みたいになっていってるなあ」というのは10年前から思ってますけど、その流れは変わってないです。今ですらそうなんだから、これ以上労使関係を自由に(=労働者側に不利に)していいものか?ってのはあります。
確かに経営効率とか国際競争力を高めるという観点からは、企業の人材活用にもう少しフリーハンドの余地を与えてもいいかもしれない。しかし、オーストラリア以上に労働者の権利が実質的に弱い日本から来た観点でいえば、労使関係がどうということと、日本の企業が国際競争力を持つかどうかは必ずしもパラレルではないです。ある意味、全然関係ないかもしれません。ガンガンリストラやりまくって、働く人々を萎縮させ、コキ使って、さてその会社の業績は本当に上がったのか?って疑問もあるわけです。むしろアホな経営幹部にお手軽な利潤上昇の方法(搾取)を与えただけって場合も多いのではないかって気もしますね。従業員をコキ使って(下請をイジメて)名目上の収益をUPさせてもそれは本当の意味でその企業が成長しているとは思いません。そりゃ無駄な贅肉は落とすべきでしょうけど、真に競争力ある企業を作りたいんだったらイチにもニにも「売れる商品を作る」ことじゃないかと思うわけです。
というわけで、ハワード政権の労働法改革ですが、これからもニュースでちょこちょこ報道されると思います。
次に、連邦政府は、新しい反テロリズム
法、new anti-terrorism lawsを起案し、これを法制化しようとしていますが、これまた評判悪いです。これも、かなり悪いですね(^_^)。
僕も詳しく法案を調べたわけではないのですが、新聞記事や各界のコメントを読んだ断片的な知識でいえば、これはけっこうヒドイというか、受け入れにくいものだと思います。批判点は二つありまして、@拙速である、A内容がヒドイということです。
@拙速であるというのは、今度の10月31日に国会に審議にあげ、上院がこれに対する意見をまとめる期間はわずか1週間という、殆ど考える時間を与えずに可決してしまおうという政府の姿勢にあります。また、各州政府にも一週間しか考える時間を与えず、法曹界その他の関係団体や識者に対しても事前にろくすっぽ情報を渡さない。ほとんど何も知らせないうちにチャッチャと決めてしまおうといわんばかりの態度で、これはちょっと受け入れられないでしょう。Australian Law Council's president(オーストラリアの弁護士会会長)のJohn North氏が、ラジオのインタビューで言ったように ”The states and territories have been given one week [to examine the bill], the Senate have been given one week and they will have estimates committee hearings on during that. No-one else is being given proper consultation."という法案の通し方は、”This is a great, great shame when laws of this importance are being brought in."であると。グレイト、グレイト、シェイムですからね。かなり怒ってますね。
A内容的にもちょっとヒドい。ある日突然警察がやってきてあなたを拘束し、しかも何の疑いで拘束してるかも教えない、それを家族に伝えることも許さない、というのは厳し過ぎるのではないか。法律が厳格・過酷なことをドラコニアン(draconian)といいますが、ドラコニアン過ぎると僕も思います。
そりゃ、テロ防止という大義名分は分かるし、そのくらい徹底しないとテロ防止が出来ないという現場の声もあるのでしょう。それに対して理解を惜しむものではないけど、でもね、連邦警察が、テロ活動に関与していると疑ったら、 preventative detention orders(予防検束とでも訳しましょうか)しても良い、身柄拘束時点で容疑理由を説明しなくてもいいし、弁護士選任する機会を与えなくても良い。しかも身柄を拘束された人間は拘束されたことを自分の家族や知人のうちの一人だけにしか伝えることが出来ない、その一人に対しても何処に拘束されているかという場所は教えてはならない、さらに伝えられた一人はそのことを他人に告げてはならない、もし伝えたら5年以下の懲役ってのは行きすぎでしょう。これだと例えば自分の子供がある日家に帰ってこなくて(密かに警察に拘束されて)も、拘束された子供とコンタクトを取れるのは両親のうち一人だけです。その一人はまだ子供が無事であることが分かるからいいようなものの、もう一人の親(父母のうちどちらか)に伝えることが許されないので、片方の親は「子供が行方不明になった」と半狂乱になるでしょう。それでも自分の配偶者に「実は」と告げる事ができない。もし告げたら5年以下の懲役というのは、実際問題実行不可能に近いと思います。
また自宅軟禁の場合の期間は1年までとか、拘束中の弁護士との接見も完全にモニターされるとか、憲法や刑事訴訟法で認められている基本的人権がかなり剥奪されています。そして、そもそも「テロの容疑」というのは何かというと、政府転覆を企てるテロリストを助けるとかいうのはまだしも、敵として戦う人(someone who fight for enemy)をエンカレッジ(勇気付ける)する、”ill will”や平和に脅威を与えるような異なるグループ間の敵意をプロモートする、とかいうのも抽象的過ぎます。サッカー観戦中の応援団同士が乱闘騒ぎになるのを無責任に煽ったりするのも、「平和に脅威を与えるような異なるグループ間の敵意をプロモート」といえなくもない。
警察国家になる、全体主義なると批判されてますが、本当にオーストラリアがそうなるかどうかは別として(全体主義に陥りやすい民族性では比較的ないけど)、形の上ではバリバリそうなります。悪名高い日本の戦前の治安維持法や特高警察の頃の規定とそんなに変わらないもん。というかもっとヒドイかも。本当に警察がその気になって乱用・悪用しようと思ったら幾らでも出来ます。
まあ、法案全体を読んだ訳でもないし、紹介されている新聞記事の記述が常に正確かどうかもわからないし、センセーショナルな断片を針小棒大に報道している可能性もあるとは思います。また、連邦政府も、別にオーストラリアを警察国家にしたくて立案しているわけでもないでしょうし、そんな下心は毛頭ないからこそあそこまで立案できたって部分もあると思います。それに、あのインドネシアレストランの前の路上で楽しげにプロテストしてた国民性を考えればそんなに簡単にこの国が全体主義になるものでもないでしょう。だからある程度は割り引いて考えるべきだとは思います。
しかし、そこまでやる必要があるのか?って気がするのですね。同時に、それをやったからといって効率的にテロが防止できるものなのかどうか、それも疑問なんです。例えば、拘束された人間が真実テロを計画しているテロリストだったとしても、また家族との通信すら遮断したとしても、その人間が拘束されて日常生活の場から居なくなったこと、テロ仲間から連絡を取ろうとしても取れないとか、定時連絡がないとかいうことで、「なにかあったな」とテロ組織はピンとくるでしょう。というか、それでピンとこないくらいドン臭いテロ組織だったら、大したこともできないのではないか。いずれにせよ「拘束された」「連絡が遮断された」という事実が何よりも雄弁に語る場合はあるでしょう。それなのに家族に言うこともできないとか、妻が知っても夫にいえないとか、そんなことをしても意味が薄いような気もします。
テロ集団というのは、純粋軍事的な観点でいえば、微々たる兵力しか持ってないです。武力的には話にならないほど圧倒的に無力な存在です。話になるくらい武力を持ってたら、堂々と戦争をするなり、対峙して睨み合ったりします。兵力に相当の格差がついてきた場合、負けそうな側がやるのがゲリラ戦です。パルチザンとかレジスタンスとかです。それすら出来ないくらい制圧されてしまった場合に出てくる戦略がテロです。テロでも、要人暗殺のようなワンヒットが大きなダメージを与える場合もありますが、バスや地下鉄を幾ら爆破しようが、ホワイトハウスを爆破しようが、だからといって戦争に勝てるというものではない。テロの本質は、誰もが言うことですが、恐怖をバラまくことです。だから「テロ(恐怖)」と名付けられているわけですけど。
敵国社会に恐怖というウィルスをバラまいて、疑心暗鬼に陥れ、内部自壊を図るところに戦略的な意味があるのでしょう。こういう観点から考えると、提案されている反テロ法は、思いっきりその戦略に乗っているんじゃないの?って気もします。
もちろんこの程度のことは当局も先刻ご承知でしょうから、それでも尚もやる必要があると思っているのでしょう。治安維持の責任を持つ部局は、それが彼らの目標だから、全力で任務を遂行したいでしょう。できることなら万能の権限を法的に承認してもらって、ビシバシやりたいでしょうよ。でも、それは彼らにとってはそうだというだけであって、社会全体にとってそうかどうかは分からんです。ここがバランス感覚なのですが、僕らは別にテロのことだけ考えて一日中暮らしているわけではない。テロが未然に防げるのはめでたいことだけど、そうしたからといって僕ら個々人の借金が消えてなくなるわけでもないし、働かなくてもよくなるわけでもない。そんなに全てを投げ打ってテロ対策に人生を捧げるわけにもいかんです。
これは、特殊専門的な分野で頑張っておられる方に共通してみられる一種の視野狭窄、優先順位の不整合現象だと思うのですが、人間どうしても自分が頑張ってる分野を世の中の中心にもってきがちです。反原発で頑張ってる人は、原発がドカンときたらテロなんかの比じゃないくらい大災害になるのだ、テロなんか相手にしてる暇があったら代替エネルギー開発をしろというかもしれない。地球の温暖化問題に関わってる人は、全地球規模の災厄から考えたら所詮は局所的な原発などたいしたことではない、テロなんかただのミクロの点に過ぎないというでしょう。経済活動にいそしんでる人は、そんなあるんだか無いんだか分からんオトギ話みたいなことに大の大人が夢中になるのはナンセンスで、とりあえず今日明日の生計をどう立てていくかが万人にとって最も緊急に必要なことだと言うでしょう。
だからテロ対策を専従でやってる方々が、火の見櫓に登って半鐘をガンガン鳴らすのはいいでしょう。だけど、全ての人々の全ての意向とのバランスを取らねばならない中央政府までが、一緒になってガンガン鳴らすことはないだろうと思うのですね。ちょっとバランスを失してないか、と。うがった見方をすれば、アメリカ追随第一主義のハワード政権が、反テロ法にいても、「ウチも気張ってやってまっせ!」とアメリカ追随姿勢を打ち出したいだけじゃないの?って気もします。だって、これだけの法案についての上院や州政府の審議期間をわずか1週間に限定してるんだもん。そんな見方をされても仕方ないとは思います。
この法案も、10月末、11月からいよいよ国会の審議に入ります。これだけの前提知識をもって、これからオーストラリアの新聞を読まれるとなかなか面白いと思いますよ。
それと先日書いたシティのクロス・シティ・トンネルですが、これも面白いことになってます。長くなるので今回は止めますが、来週の月曜日、これをUPした当日ですね、その日から3週間無料で通行できるみたいですね。詳しくはこちらのニュースをどうぞ。いやー、竣工したのはいいけど、誰も利用しないのですね。いつもガラガラ。また、有料トンネルを避けて皆さん近隣住宅地を抜けるものだから(rat-run)、住民から苦情がくるとか。そこで、近隣住民の一時的な救済と、「無料お試しコース」ということで、3週間無料で使えるようになるそうです。車をお持ちの方、この機会にどうですか?10月24日の午前0時01分から11月13日の夜の11時59分まで無料とのことです(どうでもいいけど午前0時00分はダメなんだろうか?もう過ぎちゃったけど)。
文責:田村
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