今週の1枚(01.10.15)
雑文/離陸の構造(その2)
一応前回からの続きです。
前回までは、現実を適度に体験しておかないと、物事の考え方や発想が異様に観念的に、シンプルになってしまうこと、それによって話はどんどん離陸していってアサッテの方向にぶっ飛んでいってしまうよ、それはちょっとヤバいんじゃないか、という話でした。
しかしですね、そうは言っても悲しいかな、僕も、皆さんも、そんなに現実に接する機会があるわけではない。生活忙しいですもんね。この世のことなら、地球の裏側も、政界やスターの内幕も全て分かってるような気になりがちだけど、実際に体験したことだけ勘定していけば、驚くほど少ない。有名人だってナマで見るのなんて数えるほどだし、ましてやサシで話したりする機会なんて限りなくゼロ。僕らはメディアやインターネットで何でも知ってる、知る事が出来ると思いあがってるけど、実体験でカウントしていけば、非常に狭い世界で生きてたりします。
なんでもそうですけど、話を聞くのと実際に見るのとでは大違いですし、見るのと実際にやってみることではこれまた大違いだったりしますもんね。
このホームページでもシドニーのことを色々書いてます。語学学校の紹介なんかでも、「これでもか」というくらい書き込んだりしてます。しかし、それでも百聞は一見に如かず。「こんな感じの学校」と百万言を費やして説明しても、実際に見たときの情報量の膨大さと正確さには遠く及ばない。また実際に入学して勉強してみたら、また違ってくるでしょう。
それは例えば、今あなたが働いておられる会社、その会社内で実際に自分が働いている毎日の実相、それとその会社を紹介している会社四季報、帝国データバンク、入社案内のパンフレットに描かれている会社のデーターとの「落差」でもあります。個人のレベルで日々体験する確かな手触りのある現実は、創業者やコンセプトやら、海外支店が幾つかあることやら、大株主が誰であるかとかいうことでは無かったりする筈です。それは、上司同僚との人間関係であり、お客さんや取引先の顔であり、さらに言えばエレベーターが中々やってこなくて空調がイマイチ調子の悪いビルであったり、昼休みに行く喫茶店の風景であったり、トイレの芳香剤の匂いであったり。「実際に体験している確かな現実」というのはそういうことでしょう。
僕が通っていた語学学校の現実は、休憩時間に一服する煙草であったり、休み時間に大声で飛び交う韓国語であったり、先生やクラスメートの顔であったり、行き帰りに見る風景であったりします。
海外の人が触れることができる日本のデーターや知識と、その日本で生まれて日々暮らす自分の現実との落差。僕らの知っている日本の現実は、地下鉄の連絡通路であったり、夜の町に煌々と輝く近所のコンビニの明かりであったり、カラオケボックスでトイレにはいったとき遠くで聞こえる下手クソな歌声であったりするわけで、それは決して富士山でも、ソニーでも、第二次大戦でも、自民党でもない。
それは自分が住んでいる高層マンションの一室での日々の暮らしと、そのマンションの中を走る鉄骨や建築構造との関係のようなもので、対外的に柱となるデーターの骨格と、そこに存在する人間の認識する現実との間にはメチャクチャ距離があったりします。
何千、何万という膨大な現実の断片/フラグメントが、珊瑚礁のように集積して、一つの巨大な現実を形作っているのでしょう。無数のミクロと巨大なマクロ。神様でもないかぎり、本当の意味で全ての現実を知り、さらに大きく統合してそれを理解できることなんか出来るわけがないのでしょう。
でも、そんな当たり前のことを、僕らはつい忘れてしまう。
そして忘れていることさえ気づかなくなってしまう。
情報を集めればこの世のことが分かると思ったり、未来が予知出来ると思ったりしてしまう。
知らないことすら気づかない、ミクロとマクロの間に横たわる巨大な空白のエリアを、まるっきり無視したり、自分の都合の良いように想像して決め付けてみたり。
それともう一つ、最近気になってることがあります。
それは、狭い個々人の体験の範囲が、実は昔よりも狭くなっているのではないか?と。
確かに昔に比べれば、交通機関も発達してるし、豊かになってるから、色々な所に旅行したり見聞を広める機会は増えています。その意味では昔の人よりも物知りになってるかもしれない。
でも、いろんな人間実在のありようというか、いろんな局面に接する機会が、どんどん少なくなってるようにも思います。つまり、実際に自分が、怒ったり、殴り合ったり、笑ったり、泣き叫んだり、さらに人が殺されたり、殺された死体を見たり、愛し合ったり、裏切られたり、騙されたり、破産したり、離婚したり、ひいては戦争やったりとか。
戦中戦後を体験された方だったら、身近で人が死ぬこと、家族や知人が殺されること、昨日まで住んでた街が一夜にして消滅したりすること、絶対的にひもじいこと、そこでサヴァイブしていくこと等々を、大なり小なり身体で知っておられると思います。もちろん、こういった悲惨な出来事は起こってはならないことですし、知らなければそれは幸福なことでもあります。ただ、こういった体験を経て、その人の世界観や現実感覚は確かに深まる部分はあると思います。
そして、こういった、時としてあまり愉快ではない出来事を、ちょこちょこ身近で体験して、「現実ってこんな感じ」というのをわかってないと、どうしても話は観念的に離陸していくような気がします。結局、テレビや映画みたいな、「よく似てるけど全然違う、むしろ妙に似てるからかえって間違える」情報ばかりに囲まれていると、何かすごい大事なデッサンが狂ってくるような危うさがあるように思います。
これは社会の分業化に関連するのか、日々生活しているなかでのダイナミックレンジがどんどん狭まってるような気がします。「生きてりゃ、いろいろあるよ」と言いますが、その「いろいろ」の品揃えが減ってきているような。そんなに、「いろいろ」無いんじゃない?という。
よく語られるのですが、現実がもっているニュアンスとか厚みがなくなってきて、単に記号にしかならなくなったら、回線がショートして行動が飛躍しちゃうという。自宅にひきこもって、ゲームばっかりやってる奴がいきなり人を殺したりとか。なんでそんなに簡単に人を殺せるのか不思議な部分もあるのですが、人が死んだり傷ついたりすることを漠然とでもいいから想像するためのモトとなる原体験が無いと、ブレーキがきかなくなるのでしょうか。
どうして自分は殺さないのかなと思ったら、やっぱり過去の体験が大きな歯止めになったりします。それは子供の頃の殴り合いの喧嘩ですけど、やっぱり人を殴るのって気分悪いです。殴ったときの手の感触とか未だに覚えてますもんね。「ああ、ヤなことしちゃったなあ」という。それに自分が怪我したときにどれだけ大変かとか。そういった殺人のはるか手前の小さな体験が積み重なって、人を殺すということが途方も無いことであること、傷を負うことの大変さがなんとなく分かったりします。それが分かるから、とてもじゃないけど、そんなことしたくないとブレーキになってると思います。
と同時に、取っ組み合いの喧嘩をした相手と、意外と簡単に仲直りできたりすること、「ごめん」と切り出すタイミングやら、緊張が解けたときのなんとも言えないほっとした感じであったり、いいことも沢山体験しますよね。数多くの現実体験が、人間の本来持ってるポテンシャルエネルギーを実感させてくれ、その実感が確信になり、自分がハードな状況に置かれたときの支えになるという。
現実体験が少ないと、そのあたりがすっ飛ばされて薄っぺらな記号論になってしまう、その怖さはあります。ちょっと人と言い争ったり気まずくなっただけで、もうその人とは付き合わないとか、だからなるべく当たり障りのない付き合いに留めておこうとか、気に食わないから殺してしまいましょうとか。話が極端な方向にぶっ飛んでしまうのは、人間存在やら人間同士の関係が、ものすごく強靭で弾力のあるものであり、どのようにでも変化しうるものなのだということを体感的に知らないのではないか。
これは多くの人が指摘してるところだと思うけど、これは別に子供たちだけに限った事ではなく、我々大人だって同じことだと思います。
かつて弁護士やってて一番良かったなと思うのは、そのあたりの体験の幅を広げてもらったことです。
例えば、殺人事件とか気楽に皆さん言うし、僕も言ってたけど、やっぱり司法解剖で死体が解剖されていくのを目の前で見てたら、殺人ということの意味も全然変わってきます。目の前で内臓から脳味噌から全部解剖されるので、それは気持ち悪いのですが、実際には気持ち悪いって気はしなかったです(人によるけど)。なんか、もっと違う感じ。圧倒的な感じ。もっと、厳かで、悲しい、「人が死ぬってこういうことなのか」という。強烈に鼻をつく死臭、筋肉にへばりつく真黄色な脂肪とか、魂が物体になってしまった悲しさみたいな、あ〜、上手く言えないわ。
人を殺してしまった人とも、息子が人を殺してしまったお母さんとも、子供を殺されたお母さんとも、精神分裂病の人とも、実際に1対1でお会いしてお話したこともあります。警察も、刑務所も、拘置所も、少年院も見させていただきました。殺人現場も、凶器も。それまで映画や小説の世界でしかなかった物事も、実際に目の前で見ちゃって、自分がその一端を携わるようになると、やっぱり感覚も全然違ってきます。といっても、僕などは所詮は傍観者、当事者ではないです。だから「分かった」なんておこがましいことは口が裂けても言えませんが、それでも以前よりは前の方の席でよく見ることが出来たと思います。
それまでは、まあ、悪い事をした奴は処罰される、それでいいのだ、チャンチャン!みたいな感じだったのですが、目の前に死体があって、それに至るまでの複雑な経緯を知ってしまうと、もうあんまり「それでいいのだ」なんて思えない。そんな簡単なモノではない。それで正義が回復しました、みたいなスッキリ感なんか全然ない。あるのは、「なんでこんなことが起きてしまったのか」という巨大な哀しさ、というと又違うのだけど、これにフィットする日本語って無いわ。なんというか、実在する、手で触ることが出来そうな虚無みたいな、でもそれと全然関係なく世の中はは廻ってる感じとか。
ただ、こんなことは昔だったら別にこんな仕事してなくても、皆さん共通にある程度体験してたのでしょう。人が死ぬという事も身近に起きてたでしょうし、それがどういうことかも皮膚感覚でわかってたのでしょう。また、弁護士に限らず、皆さんがやっておられる日々の仕事の中で、それぞれに貴重な現実の断片を得ておられることと思います。海幸彦・山幸彦ではありませんが、海や山で生きておられる方は、海や山のことを、僕なんかよりも遥かに深く深く理解しておられるでしょう。その美しさ、その懐の深さ、その恐ろしさ。
それに関連して思うのですが、精神障害者の犯罪には刑罰を課すべきかという問題です。
最近いろいろ事件が起きてますから、精神障害者であろうがなんだろうが罪を犯したら刑罰を課せという人が多いです。それもかなり物のわかってるシャープな人でもそう言う傾向があります。
だけど、そんなこと言う人のうちのどれだけが、実際に人を殺すほどに病んでる精神障害者に会ったり話したりした経験があるのだろうか?会話が全く成立しない、意味の共通性が全くない、だから刑罰を課してもその意味がまったく成立しないということの、もう暴力的なまでの虚しさみたいなものを経験したことがあるのだろうか。
僕らの体感できる現実、半径5メール以内の現実というのは、案外と同質な社会だったりします。人は皆五体満足で、一定の知能レベルと知識水準を備えています。特に年が進むに連れて、自分と同質な連中が自分を包みます。中学から高校に進学すれば周囲は同じような受験レベルと富裕度の連中になり、大学に行けばその大学に通いうる連中になり、会社にはいれば、、、、という具合に、どんどん分岐していきます。自分が大学行ってると皆も当然大学くらい行ってるものだという誤解をしがちですが、四年制の大学に行く人は、僕のときで3人に一人、今だって半分にも達してないでしょう。つまり行ってない人の方が全然多い。そんな当たり前のことすら忘れてしまう。ほら、もう社会のデッサンが狂ってくる。デッサンが狂ったまま、それを矯正する機会がないまま年食っていくと、ものすごいイビツな社会認識のまま大の大人になってしまう、それで子供を育ててしまうという。
この社会は分業社会だから、サラリーマンの周囲にはサラリーマン、ヤクザの周囲にはヤクザがいます。ある意味では公立の小学校の方が遥かに異質社会で、同じクラスに将来ヤクザになる卵も総理大臣になる卵も一緒にいるんですからね。だから素晴らしいと僕は思いますが。でも、それを大人はつい忘れてしまう。よく、学校のイジメで「毅然と対処して〜」とか大人は言いますけど、イジメられてる子供の状況を大人に置き換えてみれば、あなたの職場の半数が暴力団員だったりするようなもんでしょう?あなた、毎日毎日ヤクザに取り囲まれてイジメられていて耐えられますか?まあ、ある意味、分業化して同質社会になっていくほどに、つまり大人になっていくほどに、僕らは世間知らずになっていくのかもしれません。これは余談ですが。
話は逸れましたが、半径5メートルは非常に同質社会だったりするということでした。半径5メールとは同質でも、半径1キロにしたらかなり異質社会になります。同じ時代に生きている同じ日本人であるとは信じられないような異質の人も入ってきます。これはもう、ある程度人と付き合う仕事をされた方なら、イヤというほどご存知だとおもいます。世の中いろんな人がいますわ、確かに。
で、精神障害者の話に戻りますが、同質社会に包まれていると、精神に障害がある人というのは実際にどういう感じなのかというのが分からなくなる傾向があると思います。昔は、もっと大らかというか、一つの町に2〜3人は変わった人がいたし、その人達と日常的に付き合ったりしてたから、それがどういうものなのかがなんとなく分かっていたのでしょう。
僕の体験した範囲でいえば、精神に障害がある方々というのは、普通の人よりも全然無害だったりします。ボケ老人のように時々突拍子のない行動にでて周囲は迷惑ってことはあるかもしれませんが、少なくとも犯罪を犯す確率でいえば、僕ら「健常者」の方が高いでしょう。これは手元に確かな統計あっての話ではなくうろ覚えですが、そうだったと思います。だって、まあ、暴力団は全員健常者ですからね。暴力団なんかに入る奴は、その時点でもう健常者ではないのだというのも一つの見解でしょうが、だったら暴力団の犯罪は全て無罪になってる筈ですもんね。少なくとも精神鑑定で無罪がでるような暴力団員は皆無に等しいんじゃなかろうか。
精神分裂病とか、「自傷他害の恐れ」があるレベルまでに達して且つほぼ治癒不可能くらいになってしまった人達、これは僕も直接体験したケースは少ないですけど、専門書の文献とか写真をみるだけでも、かなりインパクトがあります。こういう言い方は失礼なのは承知の上ですが、なんか、「人間ってこんな風になっちゃうんだ、、」というくらいの衝撃がありました。なんというのか、「あ、これはもう、自分らと同じルールでやっていこうってのがそもそも無理だよな」と感覚的にすぐ納得できちゃうような感じ。刑罰とかそういった僕らの世界の意味を押し付けてみても、圧倒的に虚しいというか、天災みたいなもので、今度の台風で3人死んだから台風を処罰しましょうとかいってるよな感じ。全く別の例でいえば、赤ちゃんが何にも分からないで大事な書類を破っちゃったりしても、だからといってその赤ちゃんを責めようとは思えない感じ。「分からない人」を罰することの虚しさというか、無意味さというか。
まだまだ続くのですが、全部載せたらこの倍くらいの量になっちゃいます。
あまりに長すぎるので、今週はここまで。ブツッと切ります。
挿し絵化しつつ写真のほうですが、Hurstvilleのショッピングセンターの駐車場屋上にて。
写真・文/田村
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