今週の1枚(05.10.10)
ESSAY 228/高橋和巳について
写真は、Glebe。St John's RdとGlebe Point Rdの交差点からCity方面を望む。
前回がマンガの話だったので、今回は小説の話をします。
高橋和巳という作家について書きます。検索すると、同姓同名の精神医学者の方もいらっしゃるようですが、そちらではなく、作家の高橋和巳です。既に故人になって相当経ちますが。
高橋和巳と聞いて、「おお、高橋和巳かあ!」と打てば響くように思う方は、僕よりもひとつ上の世代、いわゆる団塊の世代、日本中に吹き荒れた全共闘などの学生運動をリアルタイムに体験された方が多いでしょう。それも激しくその運動の渦中に身を投じた方。僕よりも下の世代になると、「誰、それ?」という人が多いでしょう。僕の世代だって、知ってる人は少ないでしょう。しかし、ある時代のある世代にとっては、高橋和巳はまぎれもなくカリスマであり、彼の思想、彼の著作はバイブルであったと言われています。「あしたのジョー」というマンガがそうであったように、、って言っても知らないか(^_^)。その昔、よど号事件といって、日本人がハイジャックを成功させた事件がありました。赤軍派がやったのですが、彼らの出発宣言で「われわれはあしたのジョーだ」とか言ったとか言わなかったとか。あるいは、学園紛争のバリケードのなかでバイブルのように読まれていたと言われています。
「あしたのジョー」がそういう支持のされ方をしていたからといって、別にこのマンガが左翼革命思想と直接関係しているわけではなく、また時代とともに消えていったわけでもありません。純然たるボクシングマンガであるこの作品は、そのストイックさや反骨精神が当時の時代精神を代弁するとまで言われたのですが、テーマは要するに「個人の人生の燃焼」ですよね。メチャクチャ普遍的です。普遍的だから、当時の連合赤軍のハイジャッカーもハマってしまったし、現在でも多くの人に感銘を与えているでしょう。「火の鳥」と並んで、日本のマンガ史上の最高傑作とまで言われるゆえんです。
それに比べれば、高橋和巳はその時代が過ぎてしまえば忘れられてしまうような、強い同時代性を持っていたのでしょう。実際テーマは左翼革命思想、階級闘争思想に強く関係していますし、時代設定も語られる内容もまた戦後日本の革命思想の消長だったりします。
しかし、高橋和巳が著作であらわしていることは、そういった革命思想そのものや日本の状況それ自体ではないです。それは「インテリゲンチャの苦悩」であり、ひいては人間が人間として存在することの絶対矛盾や絶望といった、人間存在そのものです。だから、今読み直してみても、目からウロコが落ちるような、脳天に踵落としを食らうような衝撃があります。ネリチャギ。
ただ、この人の作品は全然エンターティメントではないです。改行の乏しい紙面ビッシリに埋まった生硬な文体、難解な思想。「生硬な文体」といって、「”生硬”ってなあに?」と言ってるようなレベルではとても読みこなさそうな、「知能指数120以下の人には無理」ってな感じで激しく読者を選ぶような作品に見えます。しかし、これはあくまで印象で、実際によく読んでみると、驚くほどわかりやすく、丁寧に書かれています。また内容も万人に共感を呼ぶような普遍性に満ちています。しかしね、体裁がねー、ぱっと見た目がねー、とっつきにくいですよね。時代の勢いでもないと広くは読まれないでしょう。
僕は大学生の時分、それも司法試験の勉強をマジメにやり始めた頃に読み始めてハマってしまいました。あの頃はですね、やたら難しい本が読みたかったのです。止せばいいのにわざわざカントの「純粋理性批判」などを買ってきて取っ組み合って読んでました。25メートルプールの潜水みたいに、息を止めて集中して「むむむ」と数十行読んで、集中力が続かなくなって「ぷはーっ!!」って息継ぎに浮上するって感じでした。
その頃はすごくマジメだったとか、めちゃくちゃ勉学意欲に燃えていたとか、別にそういうことではないです。バイクにハマった少年がコーナリングにイノチかけてるようなものです。格闘技にハマった少年が、山にこもって修行したくなったりしてるようなものです。そういえば、高校のときにクラスメートに、「なー、学校なんかサボっちゃってさー、山こもんねーか、山」って誘われたことがあったのを思い出した。根性なしの僕らは誰も実行しなかったわけですが、それでも「お、いいな」と心が動いたのは事実です(^_^)。男の子だったら誰でもちょっとはそういうこと思うんじゃないの?
高橋和巳やカントもその口で、なんかメチャクチャ難しいことをやってみたくなっただけです。そーゆー時期ってあるでしょう?「おっとー、ちくしょー、難しーぜ!」みたいな。それに法学なんぞをやり始めると、覚えたばかりの難解な用語を使ってカッコつけてみたくなるわけです。また、人類にとって「法」とはなにか?なぜ人を殺すのは悪いことなのか?とか、トリップ度の高い話題に事欠かないわけで、そんなことを友達の下宿に転がり込んで分かりもせんクセに議論したりして、「おお、カッコいいじゃん、俺」みたいに自己陶酔したいわけです。まあ、ファッションです。
しかし、そんなトリップ系、修行系のキッカケに関わらず、高橋和巳にはハマりました。真剣に腰を据えて読んでいくと、やたら面白いんですね。この人の著作を読むにはコツがあって、ストーリー展開をあまり追いかけないこと。ストーリー的には簡単で、主人公はほぼ全員破滅するのですね。皆が皆、自壊し、滅んでいく。その過程に意外性もなければ、起伏にとんだストーリーがあるわけでもない。テンポも恐ろしくゆっくりだし。だからストーリーそのものはどうでもよくて、延々何ページもわたってつづられる登場人物の会話や想念がいいのですね。長編小説で異様に冗長なセリフが延々続き、それこそが読みどころというのは、ドストエフスキーに似てます。会話形態で書かれた哲学書みたいな感じ。
ただ、その会話や思考が、生半可ではなく論理的なのです。ゾーリンゲンのナイフのように鋭く研ぎ澄まされ、これでもかと畳み掛けるようなレトリック。それに意外と語られてないけど、この人の文章ってリズム感がいいのですね。もうそれだけで生理的に気持ちいいです。ここがポイントなんだけど、それが生理的に気持ち良い人でないと読んでも面白くないでしょう。「なーにをグダグダ言ってるんだ」となる人には詰まらんでしょう。
僕もレベルの低いグダグダは退屈に思うし、やたら難解なだけでリズム感もなければ、レトリックもショボい文章は好きではないのですが、高橋和巳の文体は、半端じゃないですからね。僕らが日ごろ目をそむけ、無かったことにして誤魔化そうとしている自分自身の醜さ、卑小さ、社会の醜悪さ、ひいては人間そのものの愚劣さを、鮮やかな論理と言葉でビシビシと打ち込み、どこにも逃げ場がないくらい明らかにしていきます。それも激烈で大袈裟な言い方ではなく、すみずみまで抑制された表現でやるわけです。まるで名人の包丁技を見とれるようなものです。無駄な動きがなく、的確に、地味だけどシャープに。おっそろしく言ってる内容の質の高いヒップ・ホップみたいなもんです。あるいは異様に言葉数が多く、饒舌なのだけど、その全てが明晰であり、その明晰さが気持ちいいという点では、尾崎豊に相通じるところもあります。ここまでやってくれると、自分の使っていない脳味噌がピキピキ賦活していくのがわかります。脳味噌の隅々まで、正確にアイロンがあてられていくように。自分の知性が無限に広がっていくように。度があったコンタクトレンズをつけたとき、ぼんやりとしか見えてなかったものが、この上もなくクッキリと明瞭に見えてくるように。
それに加えて、なんとも言えない格調の高さ、折り目の正しさ。これって、ゆるみっぱなしの、ダメダメとほほの平成日本のスロッピー・カルチャーに慣れてしまっていると、カルチャーショック並に気持ちいいです。
そして、最後に「正しい」のですね。どの作品にも背後から忍び寄ってくる破滅と絶望の想念は、僕の好むところではないのだけど、語られる一つ一つの事柄、わずか一句半句の文章であっても、「はっ」と胸を突かれる人生と人間の真実のようなものがあります。あるいは、長々と饒舌に語られる事柄も、「ああ、言ってることはすごく良くわかる」と思わせてくれます。
だから、この作家の著作は、実は全く難解でもなんでもないと思います。むしろ物凄くわかりやすく、丁寧に丁寧に根気強く書いてくれています。とても親切。文章も、特に難解に仕立て上げようという意向はまるでなく、言おうとする内容が入り組んでいるから、仕方なくその限度で入り組んでしまうという程度のものに過ぎない。本当に難解なのは、舌足らずで独りよがりの飛躍のある文章とか、「理解するのではない、感じるんだよ」みたいな感性一発の文章とか(感性がズレたら全く了解不能)、「行間を読め」みたいな文章です。理解するために必要な情報量を、出し惜しみすることなく、きちんと出してくれている高橋和巳の文章は、だから明快であり、親切であり、難しくないです。
抽象的に書いてても読んだこと無いに人には何のこっちゃでしょうから、適当に原文を紹介しましょう。
まずはとっつきやすいところから。例えば、長々例をあげて饒舌に語ってることでも、「ああ、それはよく分かる」ということとしては、
「おれはあの当時から徹底的に堕落していた。しかし、冬の夜、金もなしに雪の降る町を歩いていて、例えば蒔田や岡屋敷と一緒に疎水端に並んで水の流れに向かって小便をする。そして何やらわけの解らん歎声を発して顔を見合わせて笑いあう。そんなものは友人関係ではないと言うのだろうか。おれは昔、予科練に行っていたが、誰かいま仮に同じ特攻隊員だった者が目の前に現れても、それだけではおそらく友情を感じないと思う。同じ定められた運命の中におり、同じ桜の枝に咲いた花同士であっても、どうしても気に喰わぬ奴もおれば、死地に赴く飛行機の編隊編成にも、その男と組み、あるいはその男と翼を並べて死にたいと理由もなく思う関係というものはあるんだぜ。剽軽な男は死にに行く朝に大便をしそこね、便所に行きたいなあと言いながら飛行機に乗って、見送り人を笑わせる。おお、おれが貴様の大便はしておいてやるぞと笑える一瞬の友情の高潮というものもまたあるんだ。誰かが誰かに向かって、君はもはや我が友ではない、などと軽々しく言えると思うこと自体、その人はあまりにも驕慢だとおれは思う」(「憂鬱なる党派」下巻51頁)
言わんとする意味はよくわかります。友達でも、持続的な関係性で、最終的には考え方が違うとか価値観が違うとか、そういうことで「こいつは本当は友達なんかじゃない」って思ってしまうことはよくあります。でも、そんな理路整然とした合う/合わないではなく、ほんの一瞬なんだけど「いいなあ」と思えるときはある。そんなものは一瞬しか発生しないのだから単なる気の迷いだとか、永続的な関係を築き上げるには無意味だとか、そういう考えも分かります。でも、その一瞬が人の人生において何物にも替えがたい貴重さとして心に残ることもまた事実でしょう。そして、友達というのは、くだらないことを一緒になってやっているその瞬間の高まり、波長の共鳴みたいなみたいなところにエッセンスがあるんじゃないか。人は昔の良き友人を思い出すときに、「よく一緒になってバカやったよなあ」と目を細めますが、まさにその「バカ」であること、その瞬間最大風速のような「高潮」の瞬間をものの見事に捉えて、「一瞬の友情の高潮」と絶妙な表現をしてくれています。
そして、このくだりは、作品の本筋からはそれほど関係もなく、またそれほど重要なテーマでもない部分に出てきます。いわば無くても構わない、それほど気合を入れて書き込む場面でもないのだけど、それでこの水準ですからね。いかに隅々までテンションの高い文章で埋め尽くされているか、です。スキというものが全くない。
「しかし成功しない者もいた。努力もし励みもしながらなぜか大成しえぬ者がいた。だがそれは仕方がないのだ。成功しなかったとき、払った犠牲の大きさが、とりもどせない人生の一回性の重みを加えて眼前に拡大され、その人を怨嗟的人間にする。多くの失敗者が憎悪のかたまりになっていったのを私はみている」(悲の器、245ページ)
たった数行なのですが、人生の底知れない恐怖と残酷さを的確に言い表しています。この「とりもどせない人生の一回性」「怨嗟的人間」というフレーズが限りなく重いです。
しかし、自ら試み失敗して怨嗟的になるならまだしも救われると思わされるのは、宿命的に怨嗟的にならざるを得ない、より残酷な人の世の断面があるからです。以下の文章に描かれているように。
「丁度そのとき、その男は委員会の控室で黒っぽいオーバーの襟を立ててうなだれていたが、チラッと目を見交わしたとき、三十年来の下積生活の憎悪、学歴のないことの劣等感、自分を追い抜いてゆく者への羨望と嫉妬が、藤堂の体にねばりつくのが感じらたものだ。自分の劣等感を解消してくれる思想に触れる機会もなく、それゆえに、生涯、使命感などというものを感じる機会もなく、謙虚そうな表情の裏に、執拗な憎悪を秘めつづけてきた五十男。(中略)藤堂はその男に対してインテリ風を吹かせた覚えは一度もなかったが、一瞬、目を見交わしたときの男の視線は、藤堂の憐憫の瞳すらも黒く塗りつぶす憎悪の視線だった」(憂鬱なる党派、下巻166頁)
さらにどんどん話は救いがなくなります。まったく惨めで無意味に終わった人生を自ら閉じるところまで筆が伸びます。
「この女は遠からず自殺するだろうと私は予感した。一歩ごとに階段のきしむ安アパートの四畳半の部屋で、人生に何かはりがあるように思わせる家具や調度もなく、米山みきは夜更けに独り、梁に腰紐をとおし、塵箱に背伸びして立って、首をくくるだろう。(中略) おそらく、あの梁で首をくくるだろう。それを阻止することはおそらく出来まい。なぜなら、かつて仕えた米山大尉をうしない、二人の子供を発疹チフスで死なせ、さらに正木典膳にも見捨てられた彼女は、結局、この世に生きて何もしなかったことになるからだ。」(悲の器、515頁)
「あなたに娼婦生活をやめよと、などという世間知らずな甘ったるいことは私は言わない。私にはわかっている。あなたは生涯娼婦でありつづけるだろうし、自殺でもせぬ限り、このスラムから抜け出せないでしょう。」(憂鬱なる党派、下巻340頁)
「結局、この世に生きて何もしなかったことになる」「自殺でもせぬ限り、このスラムから抜け出せない」という死刑宣告に等しい絶望の断定は、激昂的に語られるのではなく、甘ったれた自暴自棄で語られるのでもなく、科学者のような冷徹な視線のもと「残念ながらそれが事実なのだから、そうとしか言いようがない」という淡々とした口調で語られます。「癒し」とか、安っぽい希望を吹き飛ばすようなこのフレーズは、現在の日本では表現それ自体が爆弾みたいな殺傷力を持ちます。「他人にそんなこと言っていいの?」と。
次の文章は、この世の悲惨を見つづけてきて感覚が麻痺したかのような主人公が、それでも「いくらなんでも人間がここまで悲惨であっていいのか」と、温厚な羊の仮面を脱ぎ捨ててキレてしまう、作品の白眉の部分の一つです。
「むしろ暴力団とのいさかいは一種のゆきがかりに過ぎず、彼は覚醒剤中毒に最後の良心を滅ぼしてしまった長谷川の息子の存在が我慢ならなかっただけだった。あの弱い心、あの卑屈なずるさを、矯正するのではなく、圧殺したい衝動に駆られたに過ぎなかった。洗剤が泡になって吹き出ている路地の溝(どぶ)板の上に立ち、上目遣いに、幼い妹が三千円とひきかえに暴力団員に連れ去られてゆくのをじっと見守っていた長谷川の息子を見たとき、彼は衝動的に長谷川の息子を殴ろうとしたに過ぎない。あの賤(いや)しい精神、麻薬代ほしさに、まだ小学生にすぎぬ妹を街娼にさせようと思いつく、あの精神 - いや精神などではない、ただ、あのてらてら光る鼻、濡れたような目付が我慢ならなかった。いや、それだけではない。それだけなら、おびただしいこの世の悲惨の一つとして、彼は傍観していたかもしれない。彼が前後の見境もなく暴力団員に手向かっていったのは、悲しげに目を瞬きながら、西村の方に手を差し伸べた、あの幼い娘の目に、自分がどうなり、何のためにそうなるのかをはっきり知っており、しかも老婆のように諦めて自分の運命に従おうとする者の悲哀の色を見てとったからだった。暴力ではなく、あの、おぞましい諦念が、むかむかときたのだ。彼は一瞬、たしかに殺意のようなものを感じたが、それは、あのみじめな兄妹に対してであって、暴力団員に対してではなかったのだ。(中略)あんな奴は、あんな精神はむしろこの世から抹殺すべきだ。」(憂鬱なる党派、下巻145頁)
とまあ、こんな調子の文章が、これでもかという感じで、延々何百何千ページと続きます。
これのどこが「気持ちいい」のかと思われるでしょうが、まあ、確かに言ってる内容は爽やかではないです。さわやかさの「さ」の字もない。でも、カメラのレンズのように残酷な正確さが気持ちいいのですよ。甘ったるいオブラートでくるんで、ボヤかして、なかったかのように振舞う卑劣さがないだけ、気持ちいいですよ。みじめな生、どうしようもない悲惨はこの世に確かにあるし、誰でも知ってる。だけど、そんなことばかり考えていたら憂鬱になって仕方ないから、日常では僕らはなかったことにしてます。あんまり食卓にふさわしくない話題だから、触れない。でも、食卓だけでなく、いつしか考えるべきときにも考えなくなる、忘れてしまう。しまいにはそもそも知らないってふざけた奴まで出てくる。無かったことにして忘れていたものを、目の前に突きつけられること、見えなかった現実がちゃんと見えるようになること、それは一種の快感です。
ただし、必要以上にグロテスクに誇張したりするのは僕は嫌いですし、ゴス系メタルみたいにおどろおどろしくお化け屋敷みたいにするのも好みじゃないです。また、こんなに悲惨、こんなにミジメというだけで、人間の汚濁水のなかを単にのたくっているだけのものも大嫌いです。高橋和巳の世界には、この世の悲惨を何とかしようと思ってる人々が出てくるわけです。それが例えば学生運動の連中だったりするわけですが、思想の右左はどうでもよく、この世の中を自分たちで何とかできるんじゃないかという思い、それはとんでもなく尊大に思い上がった、鼻持ちならない甘ったれたエリート意識なんだろけど、そのくらい自惚れても当然というくらい、我が国最高レベルの頭脳の持ち主であり、理想のためには死んでも良いと平気で思える精神の強靭さをもってる連中なわけです。その強靭さがまた気持ちいいんですよ。その硬質な精神が、これだけ悲惨な現実をリアルに書き綴ろうとも、どろどろべたべたした触感にならない理由だと思いますし、
「憂鬱なる党派」という長い物語は、おそらく京大だろうと思われる大学で、戦後の学生運動の先駆的役割を果した学生達、その中でも群を抜いて優秀だった連中のその後を綴った話です。みな、滅びます。あまりにも真摯でありすぎて滅んでいく。主人公の西村という男は、卒業後女学校の教師として赴任し、妻と子供二人に恵まれ平穏に暮らしていたのが、突如壊れます。自らも原爆被災者であり、アメリカの意向で原爆被害の出版が弾圧されていた当時、原爆被害者を訪ね歩き36人の手記を編纂し、世に出そうとします。しかし、大阪に出てきて出版者に打診するもうまくいかず、生活費が途切れ、大阪のスラムに身を埋めます。そこでなおも出版の努力をするのだけど、日に日に荒み、労務者の暴動に巻き込まれ、最後には白血病で死にます。この西村のほか、彼の学友だった色々な友人たちのその後が同時並行的に語られるのだけど、誰もが無傷では済んでいない。最も要領よく世渡りをして、TV局に勤めている者、世界的に認められた心理学者としてアメリカに招かれる者であっても、その心は救いがたく壊れてしまっています。
「悲の器」は、東京大学と思われる大学の法学部長という、日本の最高権威者ともいっていい人物が、身辺のスキャンダルで失脚していく話です。いずれにしても、とんでもなく優秀な頭脳の持ち主達だし、日本における最強のエリート達だといっていいでしょう。それが何故自壊していくのか。「良心」をもっていたからです。そしてプライドをもっていたからでしょう。良心もプライドも、こすっからい現実社会では持つだけで最高級の贅沢品ですが、その贅沢をすることを許されるくらいの明晰な頭脳に恵まれた人々です。彼らほどの力があれば(東大京大のトップクラス)、この日本で出来ないことはない。要領よく人生を渡っていけば、何でもできる。でも、しない。なぜか、そんなことは自分に自信のない二流の人間がやることだからでしょう。出世も権力も財力も、彼らのプライドの前には何の価値もなかった。そんなものを欲しがるほど自分は低級ではないという自負があった。彼らが欲しかったのは、人類の歴史で最高レベルの社会を自らの手で作り上げることです。おそらく、戦後の学生運動の原点にあったのは、そういう心情であったろうし、それゆえにそこまで贅沢なプライドを持つことができた人々のいる大学、すなわち東大や京大でこそ、その闘争は最も過激だったのでしょう。そしてそれに真摯であればあるほど、魂として高潔なものをもっていた人物ほど、その後の挫折に耐え切れず、場末に散り、埋もれていったのでしょう。
ところで時代背景ですが、ここに描かれている学生運動は、70年安保ではなく、60年安保、そしてそれよりもさらに前の世代、だから団塊の世代よりももう一つ上の世代ですが、実際にこういう現実はあったのでしょう。日本の戦後10年というのは、1945年終戦→アメリカ軍の理想主義的な占領政策、戦後民主主義→50年朝鮮戦争、米軍の占領政策の転換、日本の再軍備化、労働運動弾圧、反共政策と続くわけで、日本社会そのものが右へ左へ思いっきり振られます。この時代というのは、日本の戦後史でも案外と語られることの少ない期間なのですが、相当に荒っぽい時代だったようです。下山事件とか松川事件とか、かなり戦後史の闇の部分がありますし、高橋和巳の「日本の悪霊」などでもこのあたりの巨大な権力犯罪に触れています。
60年安保の頃にデモに参加していた田原総一郎にせよ、江田五月にせよ、筑柴哲也にせよ、榊原英資にせよ、全学連委員長として旗を振っていた西部邁にせよ、皆さんその後それなりに地位をキープしてやっています。しかし「憂鬱なる党派」は、60年安保よりもさらに前の時代、1952年の血のメーデー事件のあたりです。70年代安保くらいになると、ヒッピームーブメントとか団塊の世代の一種のファッション的な部分が世界的にもあったのですが、1950年あたりになると、戦後間もなく、皆が戦争体験を共有してたし、小説にも出てくる特攻隊帰りなんかゴロゴロいた。米ソの対立は、後に冷戦になりますが、まだ「冷」たくなく沸騰期にあったでしょうし、左翼革命も保守反動も単なる掛け声ではなく物凄くリアリティのある時代だったのでしょう。実際、歴史の歯車が違ったら、日本がソ連指導下の共産国になっていたかもしれない。
その後、学生運動や思想闘争のようなものは、より全国に広がり大々的になりますが、同時に準戦時下のような緊迫感とリアリティは逆に薄らいでいったでしょう。アメリカの反戦運動やヒッピーも、「反戦」であって、アメリカを共産主義国にしようという左翼革命ではなかったし、日本においても真剣に左翼革命を志す団体は赤軍派のようにマイノリティになり、ゆえに軍団→ゲリラ→テロリストと軍事力が落ちていきます。左翼とは社会改革論者くらいの意味に薄められ、僕が大学に入った頃(70年代末)には学生運動そのものも既に古典芸能みたいに形骸化していました。50年代の学生運動や労働組合、左翼活動は、戦後日本の主導権争いや五分の権力闘争というリアリティがあったのですが、60-70年代になると体制への異議申し立て、民主主義維持、反戦平和になり、さらにいわゆるリベラルな革新系を意味する程度になり、今では「サヨク」とカタカナで書かれるくらい「甘っちょろい理想主義者」くらいの扱われ方をしています。
というわけで、現代の日本から、1950年あたりの日本を想像しろというのが難しく、その時代背景を知らなければこの小説が直接に扱っているストーリー展開がなかなか理解できないでしょう。
しかし、時代背景は違おうとも、人間を描いているわけですから、本質的にはさほどの差異はなく、充分に了解可能です。だからこそ面白く読めるのですが。
民衆よりも優れた知性に恵まれた者は、その優秀な才能を私事に使うことは許されず、民衆に還元しなければならないという考え方があります。エリートたるものはそうでない者よりもより高度な義務を負うという、ノブリス・オブリージェに近い考え方ですが、この発想に馴染める人は、高橋和巳の最もストレートな読者になれるのだと思います。それが「インテリゲンチャの苦悩」と呼ばれる面倒臭いコンセプトのベースにあるのだと思いますが、高橋和巳の著作には、もうこれが常に鳴っています。この発想は、最近ではもう無くなっちゃったのかも知れませんねー。どうなんだろ。
でも昔は厳然としてあったと思います。それは大学にいける人間が極端に少なく、村一番の秀才が、村民や一族郎党に見送られて駅のホームを出発するような情景が日本全国いたるところで見受けられた時代には、ごく自然に発想できたのでしょう。だって、自分が大学に行くために、両親が必死で溜めた貯金を使い、兄弟姉妹が年季奉公をした金を使うのですから。甲子園に出場する以上の切迫感はあったろうし、「皆の犠牲の上に自分は大学にいっているのだ」という意識も濃厚だったでしょう。だからこそ、その恩返しとして、社会還元しなければと思うのは人情として自然でしょう。大体自分が頭がよく生まれついたのは、自分の努力の結果でもなんでもなく、単なる偶然、ラッキーに過ぎないわけです。それをラッキーといって私利私欲にだけ使ったら人間的に外道だという発想は、その人間が聡明であればあるほど、またその人間の育ちが良く、古風な礼節の観念を教育されているほど、自然に持ったと思います。でもって、実際、日本のエリート達は、私利私欲のためではなく天下国家に働いたとは思います。批判すればキリはないし、批判を怠るべきではないけど、世界中を見渡した場合、信じられないくらい腐敗しきってる国は幾らでもありますからね。警官が難癖つけて露骨に賄賂を要求して、哀れな犠牲者である市民がお金を持ってなかったら、面倒くさいからその場で射殺しちゃえって社会だって、現実にはあるわけです。日本はそこまで腐敗してないです。
でも、段々その「高貴な使命感」という風潮も薄れ、誰も彼もが大学にいくようになり、天下国家のために働けと誰も言わなくなり、「老後に年金生活が出来るから」「天下りが出来るから」と言う理由でいい大学に行けと親や周囲が説得するようになってしまえば、ノブリス・オブリージェも、インテリゲンチャの苦悩ももう恐竜並に前世紀の遺物になってるのかもしれませんね。
ところで、自分自身を省みても、こういった意識は、実際に弁護士やってるときにはありましたよ。周囲にもそういう意識を持ってる弁護士は沢山いました。誰もがなれる職業ではなく、きわめて少数の人間だけに独占が許されているからこそ、他の人々に対して奉仕する義務があるという考え方。そういうのがなければ、種々の弁護団にせよ、委員会活動にせよ、手弁当でやってられるもんじゃないです。何度も書きますが、実際に弁護士の手持ち事件の3分の1は経済収支からすれば完全な赤字、ボランティアでやってるようなもんです。医師においても、この意識はあるでしょう。家の近くで大事故があったら、夜に寝てようがなんだろうが医師は起き上がってカバンをもって現場に駆けつけたりします。特権階級、エリートであるからこそ、重い義務を持つのだというのは、ある意味健康な発想だと思います。
でも司法試験改革とやらでやたら合格者の数を増やして、今では弁護士もなかなか食えないでしょう。10年以上前の僕のときでも結構大変だったし、東京などの大都市ではなおさら。僕らの頃でも、「最近の若い弁護士は、ドライなんだか、遠慮なく高額の報酬を請求するなあ」と言われてましたが、最近はそれに輪をかけているでしょう。弁護士も医者も、それが特権階級である以上、人数増やしても競争が激化して安くなったりするようなことはないです。逆に一人当りのパイが小さくなるから高額化するでしょう。特権階級性を認める以上、一般的な市場原理では物事は動かない。むしろおだててエリート意識をくすぐって、特権階級なんだよということを常に言ってあげた方が無償奉仕活動をするもんです。鼻持ちならないエリート意識だけもって、私利私欲にしか興味がないってカスもいるにはいるでしょうね。でも、そういったカスに照準を合わせて議論しても何も始まらんです。
ただ、インテリ知識人階級が、恵まれた知性で習得した知識を社会に還元するだけだったらめでたしめでたしで、そこには「苦悩」なんかないのだけど、なにゆえ「苦悩」になるかといえば、「民衆」のために良かれと思って、善意で活動するのだけどあんまり報われないからです。医者や弁護士が身に付けたスキルで個々の依頼者にニーズに応じるだけだったら良いのですが、この社会のシステム自体が根本的に狂っている、本質的に不正義だということに、なまじ頭が良いだけに気づいちゃうのですね。そうなると、まずモトから矯正しないとダメじゃないかって話になるのだけど、これを呼びかけても話が難しいから通じない、理解されない。それに民衆というのは、自分のことを民衆と呼ばれるのを嫌いますし、インテリ階層を本能的に憎んだりもします。実際インテリ階級の中でも世俗権力に迎合して立身出世していこうって奴が沢山いますし、実際には圧倒的大多数がそうだといってもいいです。それだけに良心的なインテリは四面楚歌になって、真摯に良心的に行動しようとすればするほど、憎悪され、疎んじられ、おちょくられ、しまいにはこの社会そのものから弾き出されてしまうわけです。
この皮肉な構造=支配階級の人間が良心的に、人間的に振舞おうとすればするほど組織や社会から弾き飛ばされる構造、そして人類の悲惨には終わりがないという構造は、手を変え品を変えいつの時代にも出てきます。人気小説シリーズの「新宿鮫」なんかまさにそうですよね。エリートコースのキャリア警察官であった鮫島警部は、本来警視や警視正になってもいいのだけど、人間的な、まっとーな警察官になりたいという素朴な理想とプライドを捨てなかったから、警部止まり、所轄勤務の冷や飯を食わされる。ノンキャリの刑事達をそれを歓迎するかというと、胡散臭げに疎外するという。
このインテリゲンチャの苦悩が、「憂鬱なる党派」では、珍しく宗教問答の形で出てきます。
「原罪という考え方、つまりですね、人間が神さまと知恵を争うことによって罪がこの世にもたらされたという考え方には豊かな暗示はあると思いますよ。しかし私たちの国の祖先はそうは考えなかったんだな。(中略)クリスト教が日本に伝導されてからも、日本人はだから、その教義を自分たちに納得できるように変化させました。原罪ってなんやろ?わけがわからんやないか、と思ったのは何もあなただけじゃないんです。九州の熊本県に天草というところがあるでしょう。徳川時代の始め、宗教的な農民一揆のあったところです。(中略)原罪というのは人祖のアダムとイブが神の教えにそむいて知恵の木の実を食ったためにエホバの怒りをかい、そのことによって罪と死がこの世に持ち込まれたのだとは、人々は考えてないんですよね。(中略)天草の人々は、マタイ伝に出てくる、クリストが生まれたとき、ヘロデ王が地上に自分以上の権威の生ずるのを恐れて、救世主生誕の地と予言されたベツレムとその近郊の2歳以下の子供を全部殺してしまった記事を、、、、原罪だと考えたんです。クリストの身代わりに何百何千何万の無辜の子らが殺された。それが、クリストが生まれたときから背負わされていた血ぬられた運命であり、それゆえに、彼は十字架に磔になる迫害を甘受したのだと考えたんですね。名もない民衆の屍の上に生まれたものは、名もない民衆の罵倒と投石の中に磔にならねばならぬ。これはクリスト教の正統的な教義学からいえば、全くの異端ですけど、私にはこちらの考え方の方がよくわかります。
なぜかというと、例えば原爆のためにケロイドができ、いまも原爆症に悩んでいたり、子供を産めずに苦しんでいる人々と向かい合っていると、この人は同じ国、同じ町に住んでおりながら、偶然被災を免れた自分の代わりに苦しんでいるのかもしれないと言う気がするからです。原爆だけに限りません。戦争というものが起れば、必ずその矢面に立たされ死んでいく無辜の人々が出ます。外国の軍隊が進駐してくればまた、たまたまその上陸地や進駐地の近くにいて、家が貧しかったり愚かだったりするために、兵士たちの性欲処理にいけにえにされる女たちが出てきます。そうした人々をみるとき、やはりそれも一種の身代わりであり、死んだり犯されたりせずに済んだ人々の「原罪」だと感じるのは自然なことだからです。(中略)
いいですか、わかりますか。現代の地獄が恐ろしいのは、ただその地獄の規模がむやみに膨れ上がり、その呵責が限りなく残酷になっているということではないんです。恐ろしいのは、そのことではなくて因果応報の原理が、事実においても観念においても崩れてしまっていることなんです。(中略)目には目を、人を殺せし者は殺されるべし。これが私たちの道徳と秩序の一番根本に横たわってる偽らざる命題なんです。わかりますか?だが、私のみた地獄は、そういうものではありませんでした。その法則にさえ従っておれば、どんな悲惨にも人間は耐えられますし、精神そのもが崩壊するということはないのです。だが、現代の地獄は応報の観念からははみだしています。なぜ罰せられたのか?罰せられたからだ。これが現代の地獄の原理なのです。」 (憂鬱なる党派 下巻156頁)
おわかりかと思いますが、この「原罪意識」は、インテリゲンチャの苦悩やノブリスオブリージェの発想とつながっていると思います。なぜか自分だけが恵まれてしまったことへの後ろめたさ、罪の意識のようなものでしょう。そして、これは、インテリだけではなく、すべての人の善意の行動の原動力にもなると思うのですよ。生まれながらに身体の不自由な人と会った時、それもそういう人達に取り囲まれたとき、自分だけが五体満足に生まれてきたことをラッキーに思うでしょう。でも、「ラッキー!」とVサインをする気分になれません。「なぜこの人達は、、」と思うでしょう。なぜこの人達が不自由な思いをしなければならないのかというと、その理由はないのですね。運が悪かっただけ。それだけ。それで納得できるかというと、納得しにくいものもあります。そこに納得しにくいギャップがあれば、なんとかそのギャップを縮めようと思うでしょう。あるいは、第三世界で何分かに一人餓死しているという悲惨な現状のフィルムとか延々見てしまったら、たまたま自分が豊かな日本に生まれてラッキーと喜ぶ気になれないです。そういう悲惨さがこの世にあるのが何となく許せないし、自分が不当に得をしてるような気にもなります。そういった気持ちが、ボランティアなどの原点にあるんだと思います。
出典は忘れましたが、「この世に一人でも不幸な人がいるなら、意地でも自分は幸福にならない、なってたまるかというインテリゲンチャの意地のようなもの」というくだりを良く覚えています。そのへんね、なんか、意地っぱりになるのですね。体力盛んな高校の頃とか、バスや電車で座席がガラガラになってても敢えて座らないで立っているとか、一人でも立ってる人がいたら意地になって自分も座らないとか、なんかそういう気分になったことありませんか?なんなんでしょうね、これ。
今回読み返していて気づいたのですが、上に引用した宗教問答に、因果応報の無さこそが現代の地獄の本質であるというくだりがあるでしょう。僕は、この応報関係の乏しさというのはなにも現代に限ったことではないとは思いますが、それこそが本当のこの世の恐怖、人の世の恐怖なんだろうなとは思います。そして、それって村上春樹の小説に良く出てくるわけのわからん「邪悪な存在」と、言ってることは近いんじゃないなかと。
「ねじまき鳥クロニクル」にも「海辺のカフカ」にも、あるいは「羊をめぐる冒険」にも、その他の小説にもよく登場してくるモチーフとして、人智を超えた邪悪な存在、あるいはこの世界とは全く別の世界があり、それらが我々の日常や、人の人生を決定的に狂わせるという。これも出典は忘れましたが、「なにかの悪い冗談のように」と表現されてましたが、ある日突然、とんでもない不幸が僕らを襲う。一家団欒で夕食を囲んでいたら、いきなりダンプカーが突っ込んできて全員事故死するとか、ごく平凡に道を歩いていただけなのに次の瞬間にはもう死んでいるみたいに、本当に「悪い冗談」のように人が死に、不幸に叩き落される。なぜそうなったのかの説明はない。どうしたら防げるかという対策も全くたてようがない。それがこの世界であり、それが生きていくということなのだと。
それは小説の世界だけの話でもないし、おとぎ話でもない。通り魔の被害にあった人、我が子を誘拐/拉致されて殺された人、あるいはマンションで普通に暮らしてたらいきなり電車が突っ込んできて死んでしまった人、、、細かなことまで数え上げれば、ほぼ毎日といっていいくらい、誰かが、こういった不条理な不幸に襲われています。それが今日まで自分の上に生じてなかったのは、単に運が良かっただけに過ぎない。それを防ぐために慎重に振舞ったり、賢く対策をたてたから免れたわけではなく、単にラッキーだったから。だから、明日、いや今この瞬間にも、なにかの悪い冗談のように自分が死んでしまったりしても不思議ではないのです。理由なし。原因なし。ただひたすら死ぬだけ。
これは恐怖です。だけで、その恐怖と戦っていかねばならない。それが生きるということなのだと、村上春樹の小説では繰り返し語られます。ほんと、彼の小説は終始一貫それがモチーフになっているような気がします。だから、彼の小説は、上品で柔らかな肌触りにもかかわらず、ファイティング小説なのでしょう。そして、高橋和巳もまた、同じく戦う小説なのでしょう。そこに滅びが待ってるにせよ、でも戦う。村上春樹が寓話的に表現するところを、高橋和巳は徹底的にリアルに且つ思弁的に表現するだけの違いで。僕は、その戦っていく力強さが好きです。精神の強靭さが好きです。高橋和巳の小説で、みじめな生がいかにリアルに描かれようとも、それはファイティングストーリーで「敵キャラが強ければ強いほど燃える原則」と同じで、その惨めさ故に小説全体が惨めになることはない。
ところで高橋和巳というのは、雲のなかに頭を突っ込んでるような知的巨人として見上げてましたが、今回略歴を調べてみてびっくりしたのは、わずか39歳で亡くなっているのですね。いまの自分よりも全然年下だったりします。著作活動はわずか10年足らずであり、「悲の器」など20代の終わりか30歳そこそこで書いてることになります。いまだったら未だワーホリいけるくらいの年齢じゃないか。「むむ」と思ってしまいますが、そう思うと、戦後確かに日本人は痴呆化してるのかもしれません。僕の代でも既にしっかり痴呆化してるんじゃないかと。いかんですね。
痴呆化といえば、憂鬱なる党派の登場人物たちが何故に滅んでいくかといえば、社会の痴呆化なんですよね。なまじ優秀な頭脳と誠実な魂をもって生まれてしまったがゆえに、真摯に現実と取り組んでいるうちに、すっかり時代から取り残されてしまうのですね。小説の中で、特攻隊帰りの藤堂というキャラが述懐するのですが、完全に自分は死ぬもんだと思い込んでいたところで唐突に戦争が終わってしまった。死刑台に上らされて、最後の瞬間に許され、そのあまりに過酷な体験ゆえに精神が破壊され、無限に寛大な「白痴」になったというドストエフスキーの「白痴」を例にとり、これだけ過酷な状況変化があれば普通の人間の精神は破壊されるんじゃないかと。あの時、日本中で多くの人々、子供に至るまで自殺兵器の練習をさせられていた。アクアラングに爆弾を持って艦船を爆破するとか、塹壕をほって上を戦車が通った瞬間自爆するとか、そんな練習を日本全国でやらされていた。それが急になくなって、誰も精神に変調を来たさないのだろうか?実際、藤堂の精神は微妙に破壊され、以後徹底的に虚無的な、しかし思いやりの深い無頼になり、最後は会社の金を使い込んで刑務所で自殺未遂をするところまで壊れていきます。主人公の西村は、原爆体験が心に焼きつき、あの地獄の光景から立ち去れないまま、ある日平穏な生活を徹底的に破壊して滅んでいきます。
彼らは真摯過ぎたのでしょうか。あまりにも現実に真剣に向き合うからこそ、その状況の変化に心を破られる。45年の終戦で心が壊れ、そしてその後の数年、民主主義の高まりが日本に満ちたとき再び理想に燃えたのだけど、それもまた潰える。数年スパンで二度大きく翻弄されるわけです。でも、それは別に彼らに限ったことではなく、当時の日本人はすべてそうだったのに、なぜに彼らが崩壊するのか。結局、僕が思うに、世間の人は、彼らほど真摯に現実に向き合っていたわけでもなく、あるいはより「大人」な世間知に長けていたから、そこまで状況にズッポリはまりこむこともなかった。社会がこれほどまでに激動するときに、いちいち真面目につきあっていては精神が持たない。だから、精神の平衡を保つには、アホアホになるしかなかった。彼らが必死に守ろうとした理想は、しかし、戦後の太陽族などのアホアホの台頭で時代遅れのものになり、風化していきます。
まあ、うがった見方をすれば、戦後の日本人は無意識的にせよ痴呆化することによって精神の平衡を保とうとしたのかもしれません。また、アホにでもならなければ、昨日まで鬼畜米英といってたのが、手のひらを返すように「アメリカ万歳」なんてやってられないですよ。激しい世の中の矛盾や悲惨も、考えていると壊れるだけだから、見ないことにして、楽しければいいじゃんってノリで解消しようとする。現在にいたるまで、その流れは続いてますよね。戦後日本の痴呆化の先鞭をつけたのは、いまの東京都知事ですわ。石原慎太郎の「太陽の季節」でしょう。「憂鬱なる党派」の登場人物が今も生きていたら、日本アホアホ教の教祖のような人物が首都の知事をやっているという現在の日本をどう思うのでしょうか。力なく笑うだけでしょうか。
ところで、高橋和巳の著作は、今回あげた2作のほか、「我が心は石にあらず」「日本の悪霊」「邪宗門」を読みました。一番「さわやか」なのは、今回あげた「憂鬱なる党派」だと思います。これで、です(^_^)。だって、なんだかんだいって青春小説だもん、これ。この小説を、時代を30年ほどズラして、抽象的寓話的にしたら、「羊をめぐる冒険」になると思いますよ。
「悲の器」も、学問世界の戦闘性が激しく描かれたファイティング小説で、好きです。大体これまで、大学とか、大学教授とか、学問とかが小説に描かれたとしても、「白い巨塔」のようなアプローチだったり、あるいは筒井康隆の「文学部唯野教授」のように茶化したものが多く、それらはそれらで価値ある著作なんですけど、もっと学問世界を真正面から活写した小説があるとかというと、殆ど無いです。それだけに、真剣に学問をするということはどういうことか、人類の知の遺産に貢献するということはどれだけ血みどろの努力を要求されるのかということが分かって意義深いと思います。
最後にもっとも高橋和巳らしいというか、ファイティングな部分の引用でしめます。
「あなた方は深刻ぶって一体何をしているのかと私は思った。愚昧な雁首を玩具のようにならべて、なにを証明しようというのか。一人の男が一人の女と床をともにしたかしなかったか、もし前者なら幾らの慰謝料、後者なら幾ら、、、、、はははは。滑稽だとは思わないのか。恥ずかしいとは思わないのか。時間を無駄にしているとは感じないのか。あなたたちにとって生きているということはいったいどういう意味を持っているのか。あなたたちが、いま私の振り上げる斧によって頭をぶちわられたとしても、それが一匹の蝿が殺されたことと価値的に相違することを明証する根拠があるか、あれば百万言を費やしてでもいってみろ。」(悲の器、513ページ)
「一体学問を何だと思ってるんだ。君は地道な学者を馬鹿にし、大向こうを唸らせる演説にあこがれ、目に見えぬ科学の進歩と精進には触れぬままに、人を命令する快楽を夢みた。何かを確かめる前に、何者かになろうとして焦り、そして何者にもなれなかった。それは誰が悪いわけでもない。自分が悪いんだ。今からでも遅くはない。くやしくとも自分自身の能力の限界を知り、その限界の中で最大限の誠実を尽くすことだ。そうすれば、例えば語学の学びがそうであるように、ふいに自分が辞書なくして原書を読めるようになっており、それと同時に毎日毎日、藻にからまれたようにもがいていた自分の視界が豁然と開けているのを見出す悦びに触れることもあるだろう。それは小さな悦び過ぎないが、変わりばえのしない日常性の殻を破り、存在論的なニヒリズムに耐える武器にはなる。巨大なことを考えようとすれば幾らでも妄想できるだろうし、妄想のエーテルの中では宇宙すらも部分に過ぎない。だが、たとえ百・千・万・億の数も、すべて一を単位に数えるより数えようがない。一杯のモッコの砂であろうと、それを積み上げれば、直ちには山にはならないにしても、それは確かに積み上げたのであり、積み上げなければ、どんなに夢想が純粋であろうとも、それは積み上げなかったのだ。」(憂鬱なる党派、下巻59頁)
注:出典の頁数は、新潮文庫版のものの頁ですが、昭和55年版と古いので、おそらく現在刊行されているものよりも活字が小さく、したがって頁数も変わっているだろうと思われます。まあ、目安程度にお考えください。
文責:田村
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