今週の1枚(05.10.03)
ESSAY 227/マンガの話 〜「20世紀少年」
写真は、ブルーマウンテン。ユーロカ・クリアリングというところに朝早く行くと、奈良公園の鹿のようにカンガルーがくつろいでます。
今週は趣味の話です。マンガの話をします。
子供の頃からマンガが好きでよく読みました。小学校の頃は、クラスで流行ったということもあり、自分でもGペンを握り、開明墨汁をつけ、カリカリとマンガを描いたこともあります。マンガ家になる夢は早々に挫折しましたが、マンガは中学、高校、大学になっても、司法試験受験中も、弁護士になったあとも読みつづけました。日本を離れて11年、なにをミスするか(=miss、失って懐かしく、恋しく思うこと)というと、思う存分日本のマンガを読めないことです。同じようにミスしてるのは日本のロックです。ロックも中学生の頃からガビーンとなって聴き始め、必死になってギターの練習をし、ギタリストになる夢は早々に潰えましたが、以後も聴きつづけています。ロックとマンガは、多くの人がそうであるように、僕の趣味の双璧であり、それは趣味の域を越えて自分の血肉になっているようにも思います。
なかなか海外にいると日本の音楽やマンガ、カルチャーの状況が良く分からず、歯がゆい思いをしています。
でも、これは単に「今なにが流行ってるの?」というしょーもない上っ面の情報レベルの話ではないです。そんなものだったら、インターネット全盛の昨今、いくらでもゲットできます。読んだり買ったりするだけだったら、シドニーにも売ってるところはあるし、アマゾンその他で購入することも出来ます。でも、そうじゃない。僕がミスしてるのは、大海のような新刊/旧刊、新譜/旧譜を片端から漁って、「これじゃああ!!」というものを発掘する作業です。砂金取りみたいなものです。
マンガもロックもお手軽なカルチャーなだけに、世に出ているもののうち圧倒的多数は凡作であり、その一部は箸にも棒にもかからない駄作と言ってもいいでしょう。ロック(ないしポップスや軽音楽系)やマンガ(+小説)の世界というのは、経済的に言えば、消費マーケットが巨大なだけに比較的低レベルでもプロになれる領域だと思います。同じ音楽でも伝統芸能やクラシック、ジャズは、消費マーケットが小さいからちょっとやそっとではプロになれませんし、プロのレベルの高さはロックなどとは比べ物にならない。
もっとも、だからといってクラシックなどの古典モノの方がいわゆる芸術としてレベルが高いか、素晴らしいかというと、必ずしもそういうわけでもないのが面白いところです。既に確立され磨きぬかれた芸事として、技術レベルは高いけど、いかに創造性が高いか、いかに他人の人生にガビーンという影響を及ぼすエネルギーがあるかというと、それはおのずと別問題。
今でこそ古典として尊重され、海外に日本芸術の典型として紹介されている歌舞伎にせよ、浮世絵にせよ、出てきた当時(江戸時代)には、今のマンガやロックと似たような扱い、つまりはイロモノ扱いをされていました。当時、「お芸術」とされていたものは、鎌倉時代から続く水墨画、戦国時代に興ってきた狩野派の屏風画、室町時代から続いていた能などでしょう。歌舞伎役者やそれを描いた浮世絵などは、今でいえば風俗産業やエロ本やマンガ扱いであり、それに関係する人々は士農工商以下の河原者だったりします。少なくとも「お芸術」ではなかったことは確かです。事実ビシバシ弾圧されています。初期は性風俗を乱すという理由で、後期は反権力思想だからという理由で。セックス&ロックンロールの世界だったわけです。しかし、時代が過ぎてみれば、当時における文化遺産と呼ぶべき高度な芸術表現は、結局、歌舞伎や浮世絵になってしまうのですね。当時「お芸術」として尊重されていた狩野派はどうかというと、戦国時代の開祖的役割を果す狩野永徳、その孫であり幕府の御用絵師になった狩野探幽あたりまでは名前が知られてますが、それ以降はそんなにパッとしません。狩野秀頼、膳野、吉信あたりになると知らないでしょ?一方ほとんどエロマンガ扱いだった浮世絵は、写楽にせよ、北斎にせよ、またゴッホやピカソみたいに西欧世界でも親しまれているウタマロにせよ("Utamaro"で検索してみるといいです)、皆さんも知ってるし、作品の図版の一枚や二枚はすぐに浮かぶでしょう。
だからといって僕は、ロックが凄くてクラシックがクソだと言ってるわけでもないんですよ。ジャンルはなんであろうが凄いものは凄いし、ダメなものはダメなんだけど、置かれている状況や構造が違うということです。勃興期のカルチャーは、凄まじいエネルギーと圧倒的な大衆的な支持を受けるから盛り上がり、商業的にも成功しやすいです。商業的に成り立ちうるから、クソもミソもごっちゃに大量のデビューし、ゴミみたいな作品が大量に出回ります。浮世絵だって名作中の名作だけが現代に残っているだけで、当時はゴミみたいな作品もその数十倍出回っていたと思われます。だからこれら勃興期のカルチャーからいいものを探そうと思ったら、砂金取りのように、ゴミ溜めからダイヤモンドを探すような作業が必要なわけです。
既に確立してしまったジャンルは、それはそれで大変だと思います。こっちの方が大変かもしれない。
先人達の文化遺産で超絶的な高さでレベルが設定されているから最低限度の技術を習得するだけで10年以上かかるし、それでメシを食っていこうとしても、マーケットが小さいからプロになるのは至難のワザ。クラシック音楽でも、ピアノとかバイオリンあたりだったらまだポップスとの相互乗り入れもきくし、単品でも売れるし、教室を開いてもまだ人は来ます。しかし、ティンパニーとか、コントラバスとか、チューバとかになってくると単品で活躍する場面も少なく、結局どっかの交響楽団に入るしかない。N響(NHK交響楽団)に入る、レギュラーになるというだけで想像を絶するような競争率だと思われます。プロ野球のオールスターで選ばれるようなものでしょう。絵画にしたって、古典的な日本画や油絵だけで食べていくのは大変です。彼らからしたら、売れているロックミュージシャンやマンガ家の演奏力、画力、技術力なんか素人同然の低レベルなのだけど、でも収入はあっちの方が数百倍ですからね、腹も立つんじゃなかろうか。報われない世界です。また、狭き門、狭き社会であるだけに、閉鎖的な徒弟制度や家元的文化が覆い、やれ教授の覚えがよくないと日展で賞を取れないとか、鬱陶しいこともあるでしょう。また、その熾烈な競争を打ち勝つ真のエリートが出現して、燃えるような芸術欲求とエネルギーに満ちていたとしても、それを表現するのは大変だし、またそれを商業的に成り立たせるシステムも未整備でしょう。それに比べれば、ゴミ溜めなんだけど、基本的に自由競争である勃興期カルチャーの方が楽は楽です。
というわけで、ロックでもマンガでも、いいものに出会うなら、それなり時間と金を使ってゴミ溜め漁りの砂金取り作業をしなければならないよということでした。そして、僕がミスしてるのは、日本を離れてしまっているから、それが十分に出来ないということです。
特に音楽なんか、売れてるかどうかなんか全然アテにならない。というか全くアテにならない。アテならないどころか、逆にマイナス要因になります。すごく優秀な音楽センスと創造性をもったバンドが、売れるための”事務所の意向”でいわゆる売れセン狙いの曲を出して、狙いどおり売れるとそれがヒットチャートに出ます。しかし、その曲はそのバンドを本質的には代表してないです。その曲だけ聴いてそのバンドを判断するのは誤りだったりします。ヒットしてる曲を聴いて「お、いいじゃん」と思ってアルバムを買ってみたら、その曲以外は駄作ばっかりだったということもあります。というか、そっちの方が多い。
しかし、それはまだ良い方で、本当に怖いのは、売れてる曲だけ聴いて「なんや、しょーもな」と思って切り捨ててしまうことです。実はヒットしてない他の曲群が滅茶苦茶良かったりすることもあるわけです。
例えば、その昔(今もか)、甲斐バンドというバンドがあり、僕は凄く好きだったのですが、このバンドのヒット曲というのが、「HERO」とか「安奈」とか売れセン狙いの曲で、これが僕は全然好きじゃなかった。「タッチ」なんか完全に「HERO」の二番煎じだし「舐めとんのか」と思った。本当に「いいわあ」と思うのはもっとマイナーな曲で、ファンでもそんなに知らないだろう「光と影」「くだけたネオンサイン」とか「絵日記」です。そりゃ「LADY」「きんぽうげ」「テレホンノイローゼ」「東京の一夜」「らせん階段」「バランタインの日々」も好きですけど、フェバリットではない。「くだけたネオンサイン」なんか、今この場でギターで弾いて歌えといわれたら歌えます。歌詞の一番と二番のフレーズが殆ど同じで、ただ現在形と過去形にするだけ、「いる」を「いた」に替えてるだけ。ただそれだけで、ドラマ性と喪失感を出している佳曲。でも、「HERO」が流行ってるからといって聴いただけだったら、絶対ここまで聴きこんでないし、好きになることもなかったでしょう。同じように、「たま」というバンドがいましたが、これの代表曲は「さよなら人類」あたりでカラオケにも入ってます。でも、僕が好きなのは「海に映る月」です。あの懐かしくも独創的なメロディー、静謐な空間の広がりを感じさせるシンプルな音構成、そして子供の頃に読んだ絵本の情景が立ち上ってくるような圧倒的な叙情性と文学性。隠れた名曲。「へ?」といううちに終わってしまうけど、上善如水ですね。酒は良くなれば良くなるほど水のようになるという。
だからヒットチャートはクセモノなんですね。アテにならないだけならまだしも、混乱要因になるのです。邪魔っけ。
じゃあ、なんでヒットチャートのようなものがあるのかというと、ゴミ溜めのような供給は、ゴミ溜めのような需要があるからでしょう。つまり圧倒的大多数のリスナーはゴミみたいなもんって言ったら語弊があるけど、そこまで真剣に音楽聴いてないもん。そこまで自分の好みや、自分の世界を成り立たせることに勤勉じゃないもん。突き詰めていけば、自分というものを徹底的にこだわり、自分が「いい」と思うことを徹底的に追求すれば、他人が作った作品なんかじゃ満足できなくなります。で、「誰も作らないなら俺が作る」って具合になるでしょう。人の好みは人の個性であり、本来的には千差万別。他人が作ったものにはどっかに必ずズレがありますから。でも、普通、そこまでやらないです。だから、半端なリスナーに半端な音楽が提供される。マーケティングだけで曲を作っても売れるわけです。
もっとも、半端なリスナーがアホとかカスとか言うつもりはないです。自分の好みや世界にこだわるのは、何も音楽だけの話じゃないです。それどころか、真剣に考えれば考えるほど、音楽のような現実逃避の仮想空間ではなく、本物の現実に自分の国を作ろうとするでしょう。仕事でムキになり、恋愛関係で途方に暮れたり。だから音楽なんてBGMや暇つぶしに鳴ってればええわい、適当に耳障りがよかったらそれでええわいって人も沢山居ると思います。それはそれで当然な話でしょう。
ただ、快楽なんて麻薬みたいなもので、一度音楽でガビーンとくる経験をしてしまうと、そんな「お子ちゃまジュース」みたいな甘ったるい曲では満足できない身体になってしまうわけです。なんかボイルシャルルの法則みたいなのがあるのでしょうか。つまり、浅い快楽で良いならそこに至るツボの面積は広いのですが、深い快楽を求めれば求めるほどそこに至るツボの面積は狭くなるという法則。
というわけで、「いいもの」を探すにはそれ相応の努力がいる、より深い快楽を求めれば求めるほど、巷に氾濫している雑誌やマスコミ情報なんか殆ど何の役にも立たないよって話です。前述の甲斐バンドだって、どうして知ったかというと、同じ下宿の友達がテープを貸してくれたからです。あるいは他人の部屋に転がり込んでいるときにたまたま鳴ってた曲で、「誰、これ?」と聴くとか。そういう”幸福な出会い”が必要です。犬も歩けば棒にあたるように、居酒屋の有線にも常にちょっと耳を傾け、深夜のMTVを延々見続けるなどアンテナ感度を良くしておけばそのうち当ります。ただし、棒に当りたい犬は歩かねばならない。でも海外にいるとそうそう歩けない。それがミスする最大の要因です。おそらくこの十年、フォローしきれず取りこぼした名曲が沢山あるんだろうなあ、それを知らずに死んでいくんだろうなーとか思うと切ないですな(^^*)。「これを聴け!」って曲、ありますか?
で、マンガの話ですが、この10年で「ううむ、これはスゴイ」と思ったマンガは、「バガボンド」と「20世紀少年」ですね。ゴミ溜め漁りをしてないから、実はもっともっとスゴイ、自分の好みに合ったマンガが埋もれているとは思うのだけど、めちゃくちゃ売れていて、超有名なこの二作は、うわさに違わず名作でした。
ところで、音楽の方は巷の評判は全くといっていいほどアテになりませんが、マンガはわりとアテになります。TV番組はアテになることもある程度あり、小説や映画はボチボチくらいですね。ヒットしてるかどうかが参考になる度数は、最低が音楽<小説、映画<TV番組<マンガが最高って感じでしょうか。こう考えてみると面白いですね、なんでだろ?
小説と映画がアテにならないのは、ファンションという要素が入るからだと思います。「最近話題の〜」というものを読んでないとバスに乗り遅れるという心理が働くのでしょう。ずっと前にポスト構造主義の「構造と力」がベストセラーになりましたけど、あんなクソ難解な哲学書がベストセラーになるわけないのだけど、皆さん見栄で買ってたのだと思いますね。理解したかどうか疑わしいというか、理解できた人なんか100人に一人もいないでしょう。僕も分からん。「芥川賞受賞作」というタイトルなんかも同じ効用があります。芥川賞とってモノになった作家も少ないとは思いますが、歴代芥川賞作家を眺めてみても、初期の頃はさすがに粒が揃ってるんですね。石川達三(第一回)、井上靖(第22回)、安部公房(25回)、松本清張(28)、遠藤周作(33)、大江健三郎(39)、北杜夫(43)、宇能鴻一郎(実は!46回)、田辺聖子(51)くらいまではコンスタントに大物が来ますが、あとは75回(76年)に村上龍、79回に高橋三千綱くらいでしょうか。特にここ10年〜20年の芥川賞作家ってどれだけ言えますか?柳美里(116回、96年)くらいかな。芥川賞も今年で133回を数えるのですけど。ちなみに村上春樹は芥川賞とってないです(受賞したのは群像新人文学賞)。ファッション的要素が入るのは映画も同じですね。「いまどきこのくらい見ておかないと」というプレッシャーがあるでしょう。
あと、映画と音楽は、背景になる資本力が桁違いですからメディアミックス戦略をガンガン打って、マーケティングで売れてしまうって部分があります。売り出したいタレントやアーチストの曲を人気番組の主題歌にするとか、話題の映画にちょい役で出演させるとか、なにもなかったらスキャンダルとか芸能ネタを提供して話題をさらうとか。ミーハー人気も大きい。ただ映画と小説は、好きな人はメッチャクチャ好きだし、そのファン層が厚いので、彼らの口コミ情報はかなり頼りになります。メジャーメディアの情報は、広告と一緒だから、専門誌以外は参考にならないですね。
TV番組になると、もう作品というよりも、それ自体が他のメディアの「広告」みたいなものになったりもします。しかし、TV番組は他と構造が違います。なにかというと、TV番組というのは放映を受信するだけだったら無料ですし、収入はスポンサーの広告料です。しかも一回ポッキリ放映で、連続して製作していきます。評価は視聴率という形で瞬時に現れます。成り立ちが他のメディアと全然違う。ですので、他よりも「作品」という一個のまとまった芸術表現という感じではなく、その場限りのエンターテイメント的な要素が強い。そうなると作る方も見る方も、そんなに力を込めてやるというよりは、ややいい加減に作るだろうし、いい加減に見るでしょう。この「しょせん娯楽でしょ」という力の入って無さが、逆にいい具合に作用することもあるわけです。視聴者は詰まらなかったら即チャンネルを替えるから、本当に面白いなって思わないと見ない、話題にならない。現場もあれこれ鬱陶しい制約が逆に少なかったりすることもあるし、制約なんかあって当たり前だから慣れている。別に芸術をしようと思ってないから、その適当な感じが、自由な発想を呼び込み、軽く実行しちゃう行動力になって現れたりもします。だからひょんなところから面白い名作が生まれたりもするし、また面白くないと視聴者もそんなに話題にしないから比較的アテになると。まあ、韓流ブームとか見てると、マーケティングで売れるという要素も多々あるなとは思いますけどね。
でもって、マンガです。マンガというメディアは、こういった余計なノイズが入ってきにくい構造になっているように思います。
マンガを読んでるからといって全然ファッショナブルでもないし、カッコいいわけでもない。蔵書に飾ってあるから他人に尊敬されるというものでもない。どっちかというと馬鹿にされる(^^*)。また、膨大な資本をかけてメディアミックスを仕掛けるということもない。製作コストは、原稿料と出版代くらいだから、驚くほど安い。大作映画の1000の1くらいの予算で出来てしまうのではなかろうか。だから本当に面白くないと話題にならない、なりにくい。また、音楽やTVにおけるミーハー人気というものが少ない。特に男性マンガの場合、作者のルックスが良いかどうかなんてことは、売れ行きに0.1%も影響しない。このあたりの事情が、巷の評判の確度を高めていくのかなとも思います。まあ、思い付きですけど。
それと、マンガというのは実質本位で本当に面白くないと売れない。そのくせ参入は簡単なんですよ。自宅でカリカリ書いて原稿を持ち込めばいいんだから。また、消費者も、僕のようにマンガ読みつづけて数十年、「あしたのジョー」もリアルタイムに読んでましたという、うるさい読者層が多い。つまり膨大な数の作者が膨大な量の作品を発表し、それを膨大な数の読者が読み、厳しく淘汰していくから、本当に底力がないと生き残れない。それゆえ、ここ20-30年ほど、マンガ以上に前衛的で斬新な表現方法はないと思ってます。ほかのエリアだったら、前衛的過ぎてとても商業的に成立しなさそうなぶっ飛んだギャグ手法、異様にマニアックな領域のドラマ、ストーリー展開の新しい技法がマンガにおいて展開されています。もともと原作はマンガだというドラマは多いです。最近では「ドラゴン桜」なんかもそうでしょう。マンガが引っ張って、他のメディアがそれを追いかけるという構図が出来ているように思います。
ただし、膨大な量の作品が出版されるため、何度もいうけど駄作も大量も混じります。マーケティングだけで描いてる(描かされてる)マンガも多いし、一発どこかが当れば、似たり寄ったりの亜流が出てくるのも同じです。だから、全出版点数を母数として平均値をとれば、他のどのジャンルよりもレベルが低いのもマンガだと思います。だからマンガを嫌いな人、マンガを馬鹿にしてる人が、そのへんの週刊誌をパラパラと読んだだけだったら、「なんだ、やっぱり下らないじゃん」とますます確信を深めることになるでしょうね。そーゆー根性の無いアクセスの仕方をしてたってダメなメディアなんですな。そして、突出した孤高の作品が登場するのもまたマンガなんですよね。砂金が出てくる確率は低いのだけど、当ればデカい。またヒットしてるかどうかという他人の情報は比較的参考になるエリアなんだと思います。
で、先般、「20世紀少年」というマンガ、全19巻を読む機会がありました。「ヘンなタイトル」って思ってたし、ちょくちょく聞くからどんなもんかな?って興味はありましたが、まさかあそこまで面白いマンガだったとは。
大体、「20世紀少年」というタイトルを聞いた時点で、T-REXの"20th Century Boy"を思いつくべきだったよなあ。「そうだったのかあ」って感じですよね、はっはっは。って一人で喜んでないで、もう少し分かりやすく書きます。
まず、これ、作品としてよく出来ているのと同時に、僕と同じ世代(1960年前後に生まれた)だったら、そしてキミが男の子だったら、まずハマると思います。大阪万博をリアルタイムに体験し、「そのとき僕は小学生で夏休みでした」って思い起こせる世代の人。「俺のために描かれたマンガじゃ」って思うのではなかろうか。
作者の浦沢直樹氏は僕と同じ1960年生まれです。学年はイッコ上だけど。
余談ですが、この「学年はイッコ上」って言い方って、もしかしたら日本人独特なのかな。今の小学生も同じような表現をしてるのかな。たまたま日本の学校システムが4月始まりであるから、形式的な暦数生年と事実上の教育年齢がズレているところか生じる表現です。もっとも世界的にもドンピシャに1月始まりってことは少ないでしょう。オーストラリアは2月始まり、アメリカは9月始まりですから、似たような表現はあるでしょう。でも日本のように「学年イッコ違ったら住む世界が違う」ってくらい年齢の輪切り断絶感覚があるのかな?って気もします。兄も弟もひっくるめて「ブラザー」と呼び、長幼の区別を日本ほど重んじないあの文化が、です。おそらく韓国人は日本人と同じ感覚だろうから「学年はイッコ上」という言い方があるとは思いますが、それ以外ではどうかなー?そういう表現はあったとしても、日本人の僕らが思うような「同じなんだけど別世界なんだよ」って懸隔感はないかもしれませんね。
でもって、この「年は同じだけど学年はイッコ上」という表現に漂う独特なテイスト、同じ文化、同じ時代を共有したものだけに問答無用で通じる独特なテイストが、このマンガには満ち満ちています。単なるレトロとか情報やデータの羅列に留まらず、その時代の空気みたいなものが良く描けてます。半端じゃなくよく描けてます。「アーメン、ソーメン、ヒヤソーメン」とかね。よく覚えてるよなあ。それだけで読む価値あります。なんだか回想シーンはいつも夏なんですよね。その頃の時代の夏が持っている、光に満ちた、うだるような、埃っぽい、そして妙にうらびれた空気感が出ています。
しかし、これは作品を作るにあたって危険な賭けですよ。そんなのねー、単なるオヤジの懐古趣味じゃんって言ってしまえばそれまでですからねー。他の世代にソッポ向かれますわね。また、めっちゃくちゃリアルに1970年前後の日本の風景や品物が描き出されているのですが、それだけだったら「三丁目の夕陽」路線で、今更レトロブームもないだろうってことだと思うのですね。つまり発想として完全にアウトな作品になるはずです。
それがここまで人気を博し、それどこか賞もバンバン受けていたりするわけです。第6回文化庁メディア芸術祭優秀賞、第48回小学館漫画賞、第25回講談社漫画賞など多数の賞を受賞し、あまつさえヨーロッパ最大の漫画賞といわれるアングレーム国際漫画祭の最優秀長編賞受賞を2003年に受賞しています。宮崎駿みたい。
本来局部的に受けるトリビアになっていてもおかしくないこのマンガが何故にこう広範に支持されるかというと、@実はテーマはもっともっと世代や民族を超えた普遍的なものであること、A現代→近未来社会の要素が織り込まれ、ビビットな同時代性を有していること、Bミステリーとして抜群に上手なステーリーテリングだと思います。
ストーリーを簡単に言うと、万博の頃に小学生だった子供達がいます。原っぱに秘密基地を作って喜んでる普通の子供達です。その子供達の周囲に屈折したプライドが邪魔して仲間に入りたくても入れず屈辱感を抱いている子がいます。それから30年、子供達はそれぞれの人生を歩み、それぞれ生活に疲れたいい大人になっています。当時屈折していた子は、その後新興宗教の教祖になり、”ともだち”の名でカリスマになり、子供じみた世界制覇をやりはじめます。そのシナリオは、秘密基地にたむろしていた子供達がいたずら心で書いた未来の予言の書を忠実に模倣しています。あまりの偶然の符合に気づき始めた当時の子供達は、昔の仲間を集め、「昔の俺たちの中の一人がとんでもないことをはじめようとしている」として阻止するために立ち上がります。
あんまり書いてしまうと興ざめだからこのくらいにしておきますが、描かれる時代は、1970年、1997-2000年、2015年(+2018年)の3つであり、これが激しく交錯します。ただのレトロではないのだ。主人公達の年齢でいえば、10歳、40歳、55歳です。そこで出てくるモチーフは、子供の頃の思い、それはトラウマであったり、夢であったりさまざまですが、それを大人になってもどれだけ引きずって生きていくのかってことです。ある者はそのトラウマを一生の原動力にします。ある者は、挫折し、くたびれた中年オヤジになりかかったところを救われます。いわゆる「少年のような心」をいつまでもち続けていられるかって、言葉にしてしまうとダサいんだけど、それがダサくなく描かれているのですね。
そして「いつも少年の心をもち続けていよう」という単純な教訓話にならないのは、「少年の心」には物凄い毒があり、その毒が一生を破滅させることも、それどころか全人類を破滅させることもありうるという部分にも触れているからでしょう。ダークサイド。また、「少年の心を持ちつづけよう」ではなく、否応なく持ってしまうのだ、人というのは成長しているようで全然成長しないのだ、いつだってあの頃のままの自分をひきずって、同じようなことばっかりやってるだけなのだというカラカラに乾いた視線もあります。結局、小学生だった自分以上の自分にはなれないよってことです。でも、それでいいじゃん、いや、それでいいんだよ、せめて小学校の頃の自分くらいは保っておこうぜ、という部分も又あるわけです。沢山の登場人物について、それぞれ少年期、青年期のエピソードがやたら沢山出てきます。その頃のエピソードが今の自分の行動を決めたりします。「あのとき僕は彼を裏切った。だからもう二度と裏切らない」とかね。
少年期、中年期、そして老いが見えてきた各時代を通観して等身大に描かれているのは、トホホに情けなくも愛すべき自分の人生そのものです。ね、これは万人に当てはまる普遍的なテーマです。「子供の頃の自分と今の自分、いったいどれだけ違うって言うのさ?」というのは万人に突き刺さる問いかけだと思う。
そして、時代が進むに連れ、その熱い思い=子供っぽい「正義の味方になる」という思いは、下の世代に継承されていきます。「松明は引き継がれた」ってやつです。老年期を迎えつつある子供達が伝えていくという。そしてまた次の世代に伝えていく。この「伝承」は、ある種の感動を呼び起こします。
2番目の現代=近未来の要素というのは、たとえば精神の歪みです。子供の頃の思いを引きずって本気で世界人類を滅亡させようと実行するなんて、やっぱり精神異常でしょう。その平衡感覚を失った精神に社会全体がシンクロしていく、なんともいえない不気味さです。防毒マスクをしてスーツを着たセールスマンが世界各地にアタッシュケースを運び、猛毒の細菌を噴霧させ、数十億の人間を殺していくのは、スケールを巨大にしたオウムのサリン事件であり、その後の世界は「成功したオウム」の世界です。あるいは、破壊される町をモニター画面で見て、ゲラゲラ大笑いして喜んでいる信者達。しかも「いい感じで炎があがりましたよー!」「僕らのカメラの方が全然アングルいいですよね」というオタクのノリ。人間としての何かが決定的に欠けている、吐き気がするような精神の失調がそこにあり、そしてそれは現代から近未来社会に重なるのですね。70年代がリアルに描けているように、2000年もまたリアルだったりするわけです。
それと幼少期のトラウマとその開放というのは、アダルトチルドレンなど今日的なテーマでもあります。世界制覇だ人類滅亡だ正義の味方だという陳腐極まりない荒唐無稽の筋書きを、荒唐無稽にさせないのは、人の精神というものがメインになってるからです。だから、「本当にこんなんで世界制覇なんか出来るんかよ?」「それで人類滅亡はないだろう」というツッコミは幾らでも入れられるのだけど、あんまり入れる気にならない。実際、そのあたりは驚くほどさらっと描かれています。人類の滅亡(ほんとに滅亡はしないんだけど)なんか2−3ページだけです。だから、そーゆー話ではないんでしょうね。
しかし、荒唐無稽でありつつも、荒唐無稽と笑えないだけの「人の心の恐さ」というのものを、21世紀の日本人はこれまでにもうさんざん学んできています。オウム事件が起きれば「なぜだ?」とわけがわからなくなり、酒鬼薔薇事件が起きればまた「なぜだ?」と混乱し、さらに17歳が、14歳が、、とやっていくうちに、学んだはずです。心の闇の薄気味悪さを。それがあるから、このマンガも「バッカくせー」と一笑に付せない。そーゆーことって、本当にあるかも、、って、薄気味悪いリアリティがあるのですね。それが、「現代・近未来的な要素を含む」という意味です。このマンガ、1970年に発表されたら全然受けなかったと思います。理解もされないでしょう。というか作者もそんな話を思いつかないでしょう。「世界はちょっと精神の平衡を失ってるんじゃないか」という誰もが薄々感じている不気味さがベース音として鳴っているから、それを共有できるから、この作品は成立するのでしょう。
その不気味さは、カリスマである”ともだち”が現在も顔を隠し、少年期の思い出も常にお面をかぶっていて顔が明かされないビジュアル的な部分でも増幅されます。実際、背広姿で忍者ハットリ君のお面をかぶって突っ立ってる男の図ってかなりコワイですよ。
3番目のミステリーとしてのストーリーテリングの上手さですが、これは上手いです。ほんと。最新刊である19巻になっても、まーだ引っ張りますもん。まだ本当のところが見えてこないのですね。少しづつ、少しづつ全貌が見えてきそうなのだけど、見えたと思ったらどんでん返し、見えたと思ったらまたどんでん返しで、飽きさせません。しかも、「実は○○だったのでしたー」のご都合主義的どんでん返しじゃなくて、ちゃんときれいに伏線を貼っているところが憎いです。言われてみればかなりミエミエの伏線なんだけど、指摘されるまで気が付かない。で、「あ、そうかあ!」となる。一本取られます。
実際のところ、読んでいる段階では、このストーリーテリングに引っ張られて「ふんふん、そんで」って読んでたようなものです。上に述べたテーマだの薄気味悪さだのといった要素は、最初に読んでる時点ではそんなに意識してないです。ただ単純にストーリーが面白く、ストーリーを生かすだけの充分が画力があるというのが大きいです。
ミステリーだからあんまり書くとネタバレになってしまって良くないのでこのくらいにしておきます。
ただ、19巻が終わった時点で、「おいおい、これどうなっちゃうんだよ?」と続きが読みたいですね。かなり切実に読みたいですね(^^*)。そういう気分にさせてくれるマンガ(小説でも映画でも)が、いいマンガなんだと思います。
今書いていて思いついたのですが、子供時代の話というのはなんでこんなに感動的なんでしょうね。「すべての原点は10歳のときの僕達にあった」という発想で出来あがってるドラマというのは類例が多いです。日本の作品には少ないかもしれないけど、洋画に多いでしょうか。スティーブン・キングなんかそうですね。「IT(”イット”=鬼ごっこの鬼のこと、アイティーではない)」なんかもかなりテイストが似てますし、「ドリームキャッチャー」なんかも近いものがあります。少年時代の人間関係が、人生全体の人間関係の核を決めるという点では、「スリーパーズ」なんかとも通じます。
「少年時代」というエッセンスが入ってくるだけで、どうしてこんなに妙に爽やかになってしまうのでしょう。人が本来もっているノスタルジーをかきたてられるからでしょうか。ノスタルジーの爽やかな風と、近未来の狂った薄気味悪さと、リアルタイムのトホホな現実、この三者が常に絡み合い、交互にフラッシュバックしながら、全人類の滅亡すら巻き込んだ壮大な謎解き物語が延々19巻続いてなおも終わらないのが、この「20世紀少年」です。
作者の浦沢直樹氏の作品は、他にも「YAWARA」とかヒット作が多数ありますが、「YAWARA」に出てくるような芯が強くてまっすぐな女の子キャラは、「20世紀少年」にも遠藤カンナという形で出てきます。しかし、YAWARAがそのキャラの魅力だけで物語を引っ張っていったようには、この20世紀少年は進んでいきません。カンナも充分に魅力的な造形なんだけど、それ以上にケンヂとか、オイチョなどのスーパーキャラが登場し、さらに”ともだち”という正体不明の謎キャラが出てくるから、相対的にカンナは霞んでしまってます。
最後に「絵」ですが、この作者、池上遼一のようにバカテク的に絵が上手なわけではないですが、充分な画力はあります。それは、人物に描き分けに現れてます。絵の上手さの発展段階でいえば、まず一番ヘタクソな段階だと美男美女しか描けない。美男美女は顔が整ってるし最も描きやすいのですね。でもそれだけだったらノートの余白のラクガキレベル。次に、あんまり美男美女ではない別キャラを何人描けるかになります。ドン臭い奴、意地悪そうな奴、控えめな奴、それらの登場人物をどれだけ描けるか。さらに、子供や中年、老人を描けるか、外人を描けるか、描けるしてもワンパターンにならないかどうか。早い話が、黒人の子供や老人の顔を30種類以上描き分けられるか、それぞれにちゃんと個性を付与できるか、さらに喜怒哀楽最低でも数十パターンの表情を描き分けられるか、です。浦沢直樹氏にはその画力があります。「すごいな」と思うのは、子供だろうが、老人だろうが、外人だろうが、ビシッとリアルに描き分けられ、且つ、ここが次に大事なことなんですが、ムラがない。美男美女だけ突出して描けていて、あとは「その他大勢」みたいなムラがないのですね。同じレベルに揃えられるという。この物語には、普通の日本の子供から、ローマ法王から、歌舞伎町のタイマフィアまで登場するので、そのくらい描けないとはじまらないのでしょうが。
しかし、まあ、こうしてみるとプロは上手ですねー。なにを今更ですが、いや、ほんとそう思います。先ほど、ロックやマンガは低レベルのゴミが多いと書きましたが、僕なんかそのゴミにすら到達しなかったもんね。ゴミ以下。マンガ家志望を断念したのは早々に小学生の頃でしたが、話は簡単、隣のクラスにもっと上手な奴がいたということです。ギターもそうですね。それが単に上手なだけじゃないんですよ。「あ、もう、全然違うわ、根本的に次元が違うわ、一生努力してもこら無理だわ」と問答無用に、どーしよーもなくわかってしまうレベルの差、才能の差というのがこの世にはあるのですね。これだけハッキリしてたら悔しいもヘチマもないです。で、才能の無い奴は弁護士でもやるかでやってたわけですが、あのくらいだったら努力でなんとかなるから、まだ楽なんです。でも、早い時期に「才能」というとんでもないモノがこの世にあるというのを知ったのは収穫だったと思います。才能の壁の高さを知ってしまったら、それ以外のことは努力でどうにでもなります。努力でなんとかなることは基本的にチョロイもんだという気になります。
だから---、その才能の壁のところで戦ってる人達、それはマンガであろうが、ロックであろうが、映画であろうが、小説であろうが、歌舞伎であろうがなんだろうが、尊敬しますよ、僕は。頑張ってくださいって言いたいです。
文責:田村
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