今週の1枚(05.09.11)
写真は、さる9月10日(日)、Chatswoodで行われたWilloughby Spring FestivalのStreetfair。自治体のやってる「春祭り」ですね。9月一杯までいろいろなイベントが行われます。今度の日曜日(9月18日)には、Willoughby public schoolの校庭で、Japan Cultural Festivalも行われます。詳しいことは、Willoughby Council のホームページで。
先週、ガソリンの価格がついにリッター129.9セントまで高騰したことに「いい加減にしてくれ」と書いた翌日、「いい加減にしてやらんもんね」とばかりに139.9セントまで上がりました。いきなり10セントも上がるか、しかし。
さて、今日は日本の衆議院総選挙の日です。
興味はもちろんあるし、なんか書きたいのですが、いまこれを書いている時点ではまだ投票もはじまってません。結果を見てから書き始めると間に合わなくなるので、また別の機会に書きたいと思います。今回の選挙に関していえば、自民が勝ったかどうかだけでは良く分からないですから。
つまり、今回の選挙に限って言えば、「自民 vs 民主」という対立構図ではなく、「自民から追い出された郵政法案反対勢力 vs 反対勢力を追い出してシェイプアップした自民 vs 民主」という構図であり、大雑把にいえば「日本の改革を進める派(シェイプアップ自民+民主)」と「なるべく温存したい派(追い出され勢力)」ということで、自民と民主の獲得議席だけを比較していても、なにがどうなったのかはよく見えないです。一方、本当にこんなに図式的に言えるのかどうか、「本当にシェイプアップしたの?」「郵政法案賛成イコール改革推進といっていいの?」という部分もあります。例えば、今回、自民党は郵政法案に反対した37人を公認しませんでした。その結果、公明党と合わせた与党の議員数は解散時の283から246に減ってます。しかし、改革に反対していたいわゆる「反対勢力」が、283人中37人、率で言えば13%しか居ないというのも解せないです。本当にその程度の少数でしかないのだったら、これまでもっとバキバキ改革が進んでいたんじゃないか。だから、さきの郵政法案には賛成して自民党から立候補してるけど、性根は守旧派という人だっているんじゃないかという疑問もあるわけですね。
というわけで、もうちょっと別の事を書きます。
ドーンとぶっ飛んで50年後の日本とか、50年後の世界はどうなってるか論です。結論的に言えば「わかるわけないじゃん」ってことですけど、それを言ってはミもフタもないので、ワイルド・ファンシーとして、とりとめもなく妄想してみましょうということです。
まず日本の将来ですが、これは本当にわからないです。というか、日本だけ考えていても分からない。陳腐な言い方ですが「世界のなかの日本」という視点で考えないとわからない。なぜなら地政学的にも、人口的にも、経済的にも、政治的にも、資源的にも、日本が世界をリードするってことはそんなに無いだろうと思われるからです。日本が最初に右に進み、後を追うように世界が右に行くってことは無いでしょうね。世界の方向性をリードするパワーがいくつかあって、そういった主役クラスの連中が、どういうゲームをやるのか決め、そしてしかるべきメインの席を占める。その後で、日本は手近にある空いている席に着席するという感じでしょう。
例えば第二次大戦後の状況ですが、それまでのヨーロッパ列国内部の闘争だったものがソ連とアメリカの対立になるという具合に世界の大物達がゲームの内容を決めました。そして地政学的に、日本はソ連や中国などの共産圏諸国に最も近い位置にあるので、アメリカが反共の防波堤にするために支援します。敗戦後ヘロヘロの日本に「共産勢力に対抗して戦え」といっても無理ですし、そもそも日本そのものが共産国にさせられる危険もあるので、軍備をはじめ何もかもアメリカが仕切ります。とりあえずのドンパチは、これまた地形的に最悪のところにたまたま存在してしまった朝鮮半島の中で行われ、結果として朝鮮半島は南北に分断させられた。その後、世界は米ソ(+中国)の陣地取りゲームになり、世界各地で代理戦争が行われた。
そんな中、日本は奇妙な真空地帯になっていたと思います。おそらくアメリカとしては、極東の反共陣地としての日本をまともに国として育て上げようとしたんじゃないか。あれだけボコボコにされた敗戦国、つまり原爆も二発落とされ、東京大阪という二大都市が焦土になり、働き盛りの成年男子の数が激減したような国、つまり今のイランの何十倍も悲惨な状況に陥った国がその後どうなるか?というと、普通に世界史的に考えたら、そのまま国として成立しなくなってしまって四分五裂して無くなっちゃうか、今のソマリアのように国として成り立たなくなり治外法権のアナーキーな「紛争地帯」になるか、大きく二つに分断されるか、完全に無気力になって細々と部族的に生きていくか、、、くらいの選択肢しかないでしょう。でも、社会が乱れたら、それはソ連側としては付け入る隙ですから、反政府ゲリラに武器を輸出したりして内戦をあおるでしょう。また、社会が乱れ、貧富の格差が激しくなってきたら、それは共産思想を植え付けるのにはもってこいの環境になるでしょう。だから、アメリカとしては、日本がベトナム化しないように、とりあえず生きていくのに不安がない程度にはマトモな国に仕上げないとならないと考えたのではないか。
戦後のアジア諸国をみてみると、どこもえらいこっちゃ状態になってます。韓国は北朝鮮と分断されたままだし、中国は独自の共産党が天下を握り蒋介石の国民党は台湾に渡り、中台関係は今も準戦時状況です。下ってベトナムは、北ベトナムが共産化し、ベトナム戦争が起こります。カンボジアは、ポル・ポトをはじめ1950年代に青春時代をフランスの大学で過ごしてきたエリート青年達が極端な共産思想を掲げクメールルージュとして政権をとり、以後とんでもないことになりました。つまり近代最大規模の自国民虐殺。説は330万人から70万人までわかれてますが、人口700万人中150万人くらいが犠牲になったと言われています。これを日本に置きかえてみると、日本のとある政党が政権をとり、国民の殆どすべての財産を没収し、田舎の農場に移動させ、親子は引き裂き、あるいは殺し、なんだかんだで1億2000万人中2500万人くらい殺されたことになります。首都圏ほぼ皆殺しって感じです。これがカンボジア。ビルマ(ミャンマー)は未だにアウンサン・スー・チー女史のニュースで有名ですが軍事政権が握っています。マレーシア、タイ、インドネシアは話が長くなるので割愛(面白そうなんですけど)。
こういう「ご近所さん」の動向を見れば、太平洋戦争を主導して負けた日本なんかグッチャグチャの粉微塵にされてたって全然おかしくないです。それが殆ど無傷、それどころか援助に次ぐ援助、自らは絶対出来なかったであろう革命に近い社会改革(農地解放、財閥解体)、軍備はまるっぽアメリカ丸がかえという、まるで至れり尽せりのゆりかごのなかでスクスクと育てられたといって言い過ぎではないでしょう。超々々ラッキーというべきでしょう。ラッキーは、単にラッキーだったのではなく、アメリカが直接占領してたからソ連や中国などの干渉を撥ね付けられたこと、地形的に反共の砦に育て上げねばならなかったこと、そのためには不満分子が少なく、社会的に安定した「そこそこ豊かな国」にしなければならなかったこと、加えて言えば共産主義革命の火種となりそうな農地制度や財閥をとっととアメリカが解体しちゃったこと(実質的にアメリカが共産革命をやったようなもの)などの事情があり、これら諸事情から合理的な選択としてそうなったのでしょう。
ここで押さえておくべきは、敗戦当時の日本はまったくの無力であり、日本の将来を決めるのは日本ではなかった。それは、世界はどういうゲームを始めていて、そのメインプレーヤーはどういう戦略を取っていたか、です。それによって自動的に日本の未来は決まったということです。以後、他の諸国に比べれば「殆ど無風地帯」という温室のような環境で、日本はぬくぬくと成長を遂げます。軍事や国際関係は殆どアメリカが代わりにやってくれるという恵まれた環境で、金食い虫の軍備にそれほど金を使わずに済み、またそれゆえ軍事クーデータも起きようもないまま、ひたすら経済発展だけを目指した。それがいわゆる「世界史の奇跡」といわれる戦後日本の復興なのですが、やっぱりこれ「奇跡」ですよね。当時の日本って、今のイラクから石油資源を無くしたような存在、ほとんどゼロに近い存在であり、それがわずか30-50年かそこらでトップクラスの経済大国になってるんだから。今から30年後イラクが世界の経済大国になって、「車はやっぱりイラク製だよね」「なんといっても家電はイラク製」と日本人が争ってイラク製の乗用車を買ってるようなものです。これまた普通に世界史的に言えば、戦後日本がいくら頑張ろうが、せいぜい今のフィリピンとかマレーシアくらいの経済規模どまりだったとしても不思議ではないです。それがこんなになっちゃったもんで、アメリカとしても「え?」てなもんだったと思います。
2005年現在、事情はあんまり変わってないでしょう。つまりは日本は未だにメインプレーヤーにはなっていない。というか、なる意思もない。となると他のメインプレーヤーであるアメリカ、そして中国の動向によってゲームの内容と方向性が決められ、残り物の席に座るという基本的な図式にそれほど変わりがあるわけではない。だから、日本独自の将来を考えてもあんまり意味がなくて、世界の動きをまず予測し、そのなかで日本が座れそうな席はどんな感じになるのかなと考えていかないと、よく読めないのでしょう。
じゃあ世界はどういう具合に動いていくの?といえば、これが分かれば誰も苦労はしません。
ただ考えるとっかかりとしては、@今人類はどういうゲームをやっているのか、Aそのなかでのメインプレーヤーは誰か、を考えていけば何となく見えてくるのではないかということです。
どういうゲームをやっているか?ですが、もっとも主流なのは自由主義的な経済ゲームでしょう。一番儲かった奴が一番エラいというゲームです。これはあまりに当たり前すぎてピンとこないかもしれませんが、この地球で皆さんは何に必死こいて頑張っているかというと一番多いパターンが経済的成功/成長だということです。もっと事業を大きくしたい、給料のいい会社に入りたいで皆頑張っている。国家レベルで同じで、国家や国民をどんどん豊かにしていきたいと思う。別に、これ、四六時中お金のことばっかり考えているって意味じゃないですよ。そういう人もいるかもしれないけど、多くの人は違う。恋人のことや家族のことや、レジャーや趣味も考える。しかし、そういったこともお金があって初めて成り立つって部分が大きいから、最低限の豊かさを確保するのは至上命題といってもいいでしょう。
個人レベルで経済的に成功しなかったら、借金だらけになってサラ金に追いまわされたり、破産したり、ある人は自殺したり、ホームレスになったりする。そういうことを「楽しいなあ」って思う人はマレでしょう。そこまで破綻しなくても、欲しいものが買えない、子供の教育費もママならない、老後も心配、住居も不快だし、仕事してても大して面白くないってことになりがち。だから、ちゃんと就職できて、事業も成長して、適度にお金も入ってきて欲しいと思う、それがすなわち「経済的成功/成長」です。企業レベルでも同様で、熾烈な企業間競争に負けたら倒産ですから、頑張って新商品を開発し、全国全世界に売込みをする。零細個人商店は新聞の折り込みチラシの文案を考え、アップル社は i ポッドの日本発売を企画する。国家レベルではどうかというと、国家が破産すると、自国領内で大量の失業者が発生し、いきおい治安も悪くなり、税収も少なくなるから福祉もままならず弱者はそのまま死ねという世の中になる。絶対的に食えないとなると、国民相互で激しい争奪戦が繰り広げられ、法も秩序も無視され、社会はどんどんアナーキーになる。だから、誰でも合法的にきちんとお金を得たいと思い、それは現在の資本主義的経済の下ではイチにもニにも「商売」です。
どうも書いていてもどかしいというか、今の日本の状況でモノを考えると妙に話が見えにくくなりますよね。あなたがどっか南太平洋の小国に生まれたり、そこの大統領をやっていると考えた方がわかりやすいでしょう。南海の孤島の国家で、海は綺麗だし、自然は豊富。だけど食べ物といえばバナナとタロイモくらいしかない。資源もない。もしかしたら領海200海里内に海底油田があるのかもしれないけど、掘削する技術も機械もない。昔どおりに波打ち際でバナナ食って死んでいくような生き方だったら別にこれで問題ないのだけど、世界から情報は入ってくるし、欲望は刺激される。もっと色んなものが食べたいと思うだろうし、医療機関も発達させて赤ん坊の3人に1人は死ぬみたいな状況をなんとかしたいと思う。「じゃあ、どうすんの?」といえば、「先立つもの」が必要です。お金です。でも国民は全然お金持ってない。税率100%にして絞りあげてもたかが知れている。
あなたが大統領だったらどうします?現在の世界のルールにのっとって「うまくやっていこう」と思うでしょう。そして、「うまくやっていく」のはどういうことかというと、適法に稼ぐということです。小国の統治というのは中小企業の経営に似ていて、まず儲かりそうなビジネスプランを考えて、資本を集める。国民金融公庫や信用保証協会を尋ねて融資を仰ぐ。実行する。小国でも、世界銀行に融資をお願いしたり、大国から援助を仰ぐ(ODAなど)ことをします。大統領や財務大臣は、世界各国を托鉢僧のごとく行脚してお金を集めます。そして事業。バナナだけだったら話にならないので、なんかもっと高く売れる作物はないかと農業試験場を設置して、国民のうちで出来が良さそうなのを税金で世界の有名大学に留学させる。それで有効な作物、儲かりそうな農産物が出来ればいいです。そうすれば貿易が起きます。念願の”外貨獲得”が出来ます。外貨が獲得できれば、電気を起こすための石油も買える、大きな加工工場も作れる。はたまた、綺麗な海をモトデにして観光業を起こす。南海のリゾートにして、世界各国に売り込む。世界のホテルチェーンのオーナーたちにアポを取り、「ウチにきて開発しませんか?税金もオマケしまっせ」と説得する。同時に、近隣諸国の航空会社に、「ウチまで飛行機を飛ばしませんか」と話をもっていき、航路を確保し、アクセスを良くする。インドネシアのバリ島、タイのプーケット、セイシェル諸島、具体的には知りませんが、それら世界的に有名なリゾート地には、地元の人達の涙ぐましいような努力があったのかもしれません。しかし、見てるだけで陰鬱な気分になるような海と死の世界のような火山灰しかない国はどうするか?それはそれで「秘境ツアー」を企画するとか、とにかくなんか考えて売り込む。あるいは、珍しい切手を乱発して、世界の切手コレクターに買ってもらうようにする。ブータンなんかそうですね。
どうも国際経済、経済成長とかいうと、世界に冠たるコングロマリットとか、ハガタカファンドとか、ソロモンブラザースとか、マイクロソフトとか、マクドナルドとか、そのあたりのメジャーな役者を想像し、「あ、俺らとは関係ないもんね」と思ってしまいがちですが、やってるゲームは一緒です。あなたが、地元の商店街でタコ焼き屋さんの屋台を始めたとしても、あなたは近所にあるマクドナルドのライバルであり、局地的ではあるが世界チェーンのマクドナルドと競争しているわけです。ゲームのルールは同じ。あなたのタコ焼きを買おうとしていたお客さんが、「あ、今度ブータンの切手を買わないといけないんだった、節約しなきゃ」で立ち去ってしまったら、あなたはブータンに負けたことになります。同じゲームをやってるんです。
世界史的には全然違うゲームをやっていたという局面もあります。というよりも、資本主義、経済主義(商売主義)というゲームが主流に出てきたのは人類史においてごく最近に過ぎません。数え方やエリアによっても違うけど、たかだか200年かそこらじゃないかしら。それまでは何をやってたかというと、「マッチョゲーム」ともいうべき「力のゲーム」です。要するに「強い奴がエラい」という原理です。「強い」というのは、国家レベルにおいては「軍事的に強大である」ということですが、早い話が「暴力」です。暴力的に強い連中が、弱い連中を襲って、収奪して、奴隷にして、、、ということを、延々やってきたわけです。暴走族や暴力団の勢力争いをスケールを大きくしてやってるわけです。
まあ、人類のやることなんか決まっていて、要するに「金」か「暴力」です。世界史なんか言ってしまえばそれだけかもしれない。金の原理と暴力原理は同時存在することも可能で、シルクロードという商業主義的なイトナミが行われていた反面、古来国や王朝の勃興盛衰は軍事的な勝利と敗北=ケンカの勝ち負けで決まっています。
明治政府のスローガンは「富国強兵」ですが、これって別に明治日本の専売特許ではなく、およそ人間集団の基本ポリシーというのは、富国強兵でしょう。食うに心配なく、出来れば贅沢できるくらいお金が欲しく、他の連中にケンカで負けないだけの強さを持つこと、です。これってヤクザの原理とまったく一緒じゃないかと思うのですが、原理的には同じだと思いますよ。ただし、暴力団は秩序に反する違法集団であるところに意味があり、国家軍隊はその秩序そのものを作る一桁強大な存在だという点で違います。ただ、それは方法論とかスケールとかの問題で、人間行動の原理、欲望原理としては同じでしょう。それはまた、我々のようなイチ市民においても同じです。「ワタシは金も暴力も縁がないよ」と言う人は多いでしょうが、金とか暴力とかナマナマしい形では出てこないですが、もっとソフィスティケートされた、洗練された形で出てきます。金はすなわち「豊かな暮らし」というであり、暴力は「安全な暮らし」です。英語でいえばファイナンシャルプランとセキュリティですね。そして、それが現代日本人の二大原理である「安心」と「安全」という形になっているのだと思います。
ただ、世界史の流れで言えば、暴力原理よりも商業原理が前面に出てきているといっていいでしょう。19世紀から20世紀初頭の西欧列強の植民地政策とその利害争奪戦である世界大戦までは、なんだかんだいっても暴力原理がメインだったと思います。有利な商取引をするためであっても、そのための利権を獲得するためには暴力(軍事力)という背景が必要だった。だからムキ出しの形でケンカ(戦争)をドンパチやっていた。大戦後、世界はヨーロッパ列強の利害争奪戦から、アメリカvsソ連の二大軍事勢力のにらみ合いになった。そして先に書いたように、世界中を盤面にした陣地取りゲームが行われた。対立してるなら一気にタイマン張ってカタをつけたら良さそうなものなんだけど、あまりに巨大になりすぎ、また核兵器も出来ちゃったから、逆に大事(おおごと)すぎて当事者自身がビビってしまった。
そんなこんなで意地を張ってる間に、着々と日本が経済成長したわけですね。戦後日本の50年の平和は、これだけ長期間暴力原理から自由になった珍しい例ですが、結局、ケンカなんかしないで地道に勉強してた方が結局得という例でもあります。日本が(無意識的にせよ)世界史や人類の進歩に貢献したとしたら、「ケンカなんか関わらない方が結局トクだよ」という実例を示した部分にあるように思います。学園ドラマに例えていえば、腕っ節が強くて勉強も出来る二人の巨頭が学園を仕切っていて、一触即発で対立している。直接ケンカしたらお互い失うものが大きすぎてうかつ動けず、そこらへんの生徒をつかまえて「てめー、どっちの味方だ」で勢力争いをしていた。そういったケンカには直接タッチしないで、地道に授業を聞いて、真面目に予習復習をやってる目立たない生徒だったら日本が、気がついたらいつのまにか校内トップクラスの実力を身につけ、有名大学に進学し、いい就職先をゲットし、高給貰って楽しくやっている。かたや二大巨頭は意地の張り合いに疲れてきて、気が付けば成績は落ちて、受験に失敗して浪人。片方のソ連君は力尽きて脱落して、結局腕っ節の強さだけでキャバレーの用心棒をやっているという。
今書いてて思ったのですが、偶然とはいえ、日本の繁栄の方法論というのは、いわばコロンブスの卵みたいなもので、世界的にも「え、そーゆーのってアリなの?」って思ったのではないか。それまでは、とにかくケンカに強くないと始まらないと思ってたわけでしょ。だから空手部に入ったり、バーベル上げたりしてたわけなんだけど、そういうマッチョなことを一切やらないで、ひたすら勉強(商品開発/販売)をやってた方が効率がいいし、むしろ手っ取り早いという。「平和が一番トク」みたいな。
実際、戦後日本の奇跡的な成長は、滅多に名前が出てこないような世界の国々を勇気付けています。別にケンカが強くなくてもいいんだ、成功できるんだって。と同時に、マッチョな国にも影響を与えてると思います。中国だって、ケ小平以降の開放経済も、「馬鹿野郎、意地張ってる場合じゃねーんだ、ケンカよりも金だよ金」みたいな路線転換をするわけですが、やっぱり日本を見てて羨ましかったとか悔しかったという部分はあったんじゃなかろうか。アメリカ君はさすがに理解も決断も早く、経済的に日本に負けて対日赤字が膨大になった頃から、軍事力よりも商業主義、それも新商業主義という未来のIT産業にジャカスカ投資したのでしょう。クリントン時代ですよね。「情報スーパーハイウェイ構想」を推進し、IT産業の育成と、IT化による生産性向上(ニューエコノミー)を実行したわけです。この時代に、インターネットが世界的に広がり、今こうして僕も皆さんもインターネットでやりとりが出来るようになっているわけです。
さあ、こういったこれまでの流れが今後50年どうなるかですが、金と暴力の二大ファクターのレシピーは、基本的にそう変わりはしないと思います。自由主義的商業原理がメインに出てきて、軍事的勢力争いはそれよりも劣後するという関係です。理由はいろいろあります。理由のその1は、純粋に軍事的な優劣だけでいえば、アメリカが突出してしまって、基本的にケンカにならない。将来的に中国が経済成長を遂げ、ハイテク軍備を備え、アメリカに対抗しうるだけの軍事力を身に付けることは可能性としてはあります。が、そうなったところで米ソ冷戦の再現のようになり、雌雄を決するような第三次世界大戦的なドンパチにはなりにくいでしょう。
理由その2は、これだけ情報が発達し、民主主義や人権などの理念が普及してしまえば、いまさら昔のアレキサンダー大王のように「征服してぶん取る」というシンプルなやり方は通用しない。アメリカにしても大義名分としてそういうことは出来ないでしょう。やるとしても、中東など資源を持ってる国の紛争に介入して傀儡政権を樹立して、資源やら利権やらを独り占めにしたいという程度のものでしょう。ちょうど今のイラク戦争のようなものです。ただし、いまのイラク戦争がそうであるように、それすらそんなに上手くいってるとは言いがたい。まあ、マイケルムーアの指摘のように、ブッシュ一族の石油会社とサウジ王家がツルんでたとして、現在の原油価格の高騰を招来して大儲けしているかもしれません。が、それとても「儲ける」という商業的狙いが先行している事に変わりはないし、ブッシュ一族やネオコン派が儲けたとしてもアメリカという国家そのものが潤うのとはちょっと違う。
理由のその3は、軍事力では大して物事が解決しないというということです。ベトナム戦争もそうでしたが、アフガン侵攻、イラク戦争にせよ、アメリカが強大な軍事力で一気に制圧!って感じにはなってないです。ゲリラとかテロとか微細な局地戦に分散してしまって、収集がつかなくなっている。思えば、日露戦争のときのようにバルチック艦隊と日本海岸が対馬沖で雌雄を決するとか、第二次大戦のD−DAYがどうしたとかいう、派手な軍事行動でケリがついたのは昔の話で、今はテロとかゲリラ対策がメインになりつつあります。バズーカ砲は強大な武器ですが、バズーカ砲では蚊の退治は出来ないのと同じようなものでしょう。
キリがないのでこのくらいにしておきますが、なにか特別なファクターでも入ってこない限り、軍事によりも商業の方が優先するという傾向は50年後においてもそう変わりはないだろうと思われます。
金と暴力、商業と軍事以外の別のゲームはないのか?というと、あります。例えば、宗教と民族であり、これに基づく国家運営のシステムや信条です。現在世界を席巻しているのは、個人主義を基調とした近代民主主義原理に基づいて国や社会は成り立つべきだという西欧発のコンセプトでしょう
。いわゆる先進国になればなるほどそうです。国民の選挙によって代表者を選び国家運営を託し、国家は国民の福利のために運営されるべきだという発想です。日本もこのコンセプトに基づいていますので、それが当たり前の感覚になってますが、そうではない国や社会も沢山あります。人間集団というのは、そのマジョリティが納得している原理であれば、どんな原理によってもまとまるものです。だから、イスラム原理主義を基調とした社会のまとまり方もアリなわけですし、チベット仏教のように仏教的秩序を核にして社会がなりたっていてもそれもアリです。
どんな神を信じようが、どんな民族的習慣を持とうが、生身の人間である限り、お腹も減れば、欲望もあり、ケンカもある。だから、民族意識や宗教を核にした社会であっても、武力原理や商業原理からは自由ではないです。しかし、自分が正しいと思ってることを他人から真っ向から否定されたら、人間は怒ります。かなり腹が立つ。ましてやそれを理由に生活や自由を圧迫されたら、その恨みは骨髄に達することもある。イスラム原理主義者がアメリカを悪魔と呼び、西欧的価値観を悪魔の思想といって罵り、特攻隊のような自爆テロを敢行するのは、アメリカや西欧的価値観によって自分たちは虐げられてきたという意識があるからでしょう。これは共産主義か自由主義かという冷戦下のイデオロギーほど明確に体系化されているわけではなく、より原始的情動的なだけに、より強力なのでしょう。
逆に言えば、金と暴力の原理だけで人間社会の全てが解決するわけではないということです。人間には信条や感情というものがあり、それが激しく燃え上がるときは、豊かで平和な暮らしをも投げ捨てるだろうし、強大な暴力を振るわれても屈服しない。その強烈な反発感情と現実のパワーが巨大になれば戦争になるし、局地的であれば内戦になるし、勢力的に微弱であるが広範囲になれば世界テロになるし、もっと微細なものになれば犯罪という形になる。これが今後の不安定要因として残るだろうし、それがどれだけの影響力をもちうるかが一つの焦点になると思います。テロの時代とその展望です。
もう一つ、全然ちがった要素としては、世界規模の資源問題、気候の変化などがあります。温暖化や異常気象が今以上に頻繁に発生したり、あるいは石油資源の減少などが将来的にもっと露呈してきたら、これはこれで不安定要因になるでしょう。特に原油が決定的に足りなくなるということが見えてきたとき(あるいは資源としての石油はあるにはあるけど、生産が追いつかない、どうやっても足りないということがハッキリしてきたら)、原油価格の高騰は現在とはけた違いになるかもしれない。そうなったとき、世界の産業構造や社会構造は抜本的に変わるかもしれない。
さらに、別の観点でいうと、極度に洗練管理された資本主義社会における人間の心の問題があると思います。
商業主義が進展するのは、軍事的ドンパチをやってる社会よりはまだ好ましいです。しかし、発展しすぎるのもよしあしでしょう。ずっと昔に書きましたが、このまま高度資本主義が進展して、グローバリゼーションが進めば、巨大企業の統合によって超巨大コングロマリット帝国みたいなものが出来てきて、世界人類総サラリーマン化していってしまうのではないかというという問題です。巨大スーパーチェーンが地元の商店街を潰し、コンビニチェーンのフランチャイズになったり、マクドナルドの出店になるくらいしか生き残る道がなくなってきたら、人間の生き方のバリエーションが減ってきます。一握りの人間が超巨大企業の中枢エリートになり、多くはその末端に隷属し、さもなくばホームレスになるという。現在も激しく行われているメディアミックスと大衆操作、高度消費社会がさらにエスカレートしたら、巨大企業という金魚鉢の金魚みたいにして生きていかねばならなくなります。あんまり楽しそうな人生じゃないです。
それゆえ「癒し」が求められる。ゴツゴツした確かな人生の手触りみたいなものが失われ、マニュアルによって仕事をし、カタログによって消費をし、それで人生おしまいだったら、人間というのは発狂しかねない。精神の平衡を失うだろうし、少なくとも得体の知れないストレスを抱えることになる。これが神経症的な社会を生み出すファクターになるでしょう。また、ゴツゴツした手触りを失ったまま育てば、弾力ある精神性を失い、人間だったら当然出来ることが出来なくなる。例えば失敗や挫折を繰り返して人間的に成長することが出来なくなる。自分が成長しないから子育ても出来なくなる。他者に不寛容になるからコミュニケーションがうまくいかない。大きな戦乱や破綻はないけど、内部で陰湿なイジメが進行する、、などなど。
さてさて、いろんな要素や観点がありますが、これらをもとに、メインプレーヤーは誰になるのか、その傾向を突き詰めるとどうなるのか、そして日本はどうなるのか、簡単にスケッチしてみましょう。
商業主義的な世界でのメインプレーヤーは伝統的な欧米の企業群、新興してきたアジアの企業群でしょう。前者の欧米勢力は、植民地時代からの伝統がありますから、世界規模の戦略を考えるにしても皮膚感覚でやってのけるだけの視野の広さとシステムをデフォルトとしてもっています。アメリの巨大企業は、そのトップが必ずしもアメリカ人でなくてもいい、有能な人材であれば誰でもいいという透明な互換システムをもっているため、世界中の有能な人材をそのまま吸収できる強さがあります。片や新興アジア諸国は、成長の喜びというパワーと勢いがあります。また、中国、インドという巨大プレーヤーは、自国内に10億人規模の膨大なマーケットを抱えており、貿易をしなくても青天井で伸びられるという強さがあります。これらメインプレーヤーに伍してこれまでのようにやっていこうと思ったら、日本にもそれなりの努力が要求されるでしょう。
民族やテロにおいては、相変わらず中東が火種になっているでしょう。テロが活発化するにつれ、テロ防止のための国家治安体制が進んでいくでしょう。アメリカ入国のための要件がどんどん厳しくなっていくように、しまいにはDNA鑑定をしないと入国できないとかそういう話になるかもしれません。テロ対策の名目のものと、国家による国民情報の管理がますます激しくなる可能性もあります。国民総背番号制とデーターベース、サーベイランスシステムの構築により、あなたの個人データーは指紋や声紋はおろかDNAから持病から治療歴から銀行や資産の詳細、ひいてはインターネットのログイン時間、もしかしたら個々のメールの内容、いつどこで誰とラブホテルに入ったかまでも国が把握管理しかねなくなります。
世界テロが日本に飛び火し、東京の地下鉄で自爆テロが起こった場合の日本社会のパニックと、当局の対応を想定すると、プライバシーもヘチマもない国家による国民情報の管理はさらに進展するでしょう。それでもテロが防げたらいいですが、大体において日本の政府官僚のやることは、国民総背番号制度や住基ネットの実施でもわかるように国民にその恩典がもたらされるのはマレです。また、災害時の対応のトロさからしても、おそらくテロはそうそう効果的に防げないかもしれない。そうなると、セキュリティの名の下での情報管理が進行するという副産物ばかりが肥大化しかねない。これは、歳入欠陥に苦しむ国としても、今も銀行や証券会社の「名寄せ」でやってるように個人情報を集約して、税金のとりっぱぐれがないようにトコトン収奪しようとするでしょう。なんというのか、腕に止まった蚊を潰そうとしてピシャッと叩くけど、蚊は取り逃がして、腕だけが痛いだけということになりかねない。一言でいえば、軍事国家にはならないかもしれないけど、警察国家にはなるかもしれないということです。これは、現在のオーストラリアでも指摘されており、新聞の投書欄レベルでも議論されています。
そのときその社会が試されるのは、「テロ防止」という錦の御旗にどれだけNOといえるのか、です。オーストラリアなり西欧諸国は、個人主義やプライバシーの意識が遺伝子のように伝えられていますから、ある程度まで警察国家化が進んだら、「これ以上プライバシーを侵害されるくらいなら、テロで多少の人が死のうがやむをえない」という意思表示をするだろうと思います。が、日本の場合、その点は望みが薄いです。錦の御旗に弱いですからねー。「テロで人が死んでもいいというのか、この非国民め」みたいなリアクションがあるんじゃないんですか。だから、テロ社会における本当のメインプレーヤーは、各国の国家と国民でしょう。
わあ、大風呂敷を広げたら全然終わらなくなってしまったぞ。
つらつら考えていくに、あんまり分かりやすそうな世の中になりそうもないなってことです。戦争とか巨大で分かりやすい出来事が起きて、それで世の中こうなりましたって感じではなく、徐々に事態が進展していって、それをどう再調整していくかの戦いというか。他人にブン殴られて鼻血が出るとか、車に轢かれて片足切断とかいうメジャーな「外傷」ではなく、長年の不摂生で肝硬変になるとかいう「病気」みたいな感じです。
経済面では巨大な企業の網の目のなかで生きていき、軍事面ではテロという目に見えない病原体みたいなものと戦い、右を向いても左を見ても、つかまるフチがないような無重力空間みたいな感じになり、そのなかで管理だけが進展していくという。そんななかで、一人一人の人生の再構築、人が生きていく喜びみたいなものをどう得られるかがキーポイントになっていくでしょう。量的な増大ではなく、質的な向上。
健やかな精神性をいかにキープするか、いかに創造するか、これが多分今後50年のファクターになろうかと思います。
精神失調に陥ると神経症的な犯罪も増えるし、またマッチョで右翼的な傾向にかぶれる若者が増えるでしょう。それが警察国家的なものと結びついて新たな世情不安につながらないとも限らない。不況→鬱憤晴らしの国家主義→ヒットラーの台頭につながったドイツのパターンは、ドイツだけの問題ではないです。
量から質へというのは、昔から掛け声のように言われてきたのですが、言うは易しですよね。でも、やっぱりこれしかないんじゃないかな。経済的にいっても、日本が生き残るのはやっぱり高品質化しかないわけだし、新しい「質」の地平を切り開いていくしかない。それは、なんでもゴージャスやデラックスにするのではなく、敢えてローテクにする、敢えて質素にするという方向性もあると思います。金力も権力にも事欠かない戦国大名が、わざわざ2畳程度の小屋のなかで古ぼけた茶碗でお茶を飲む茶道を好んだように、敢えて質素に、自然の肌触りを残すからこそ、ナチュラルで豊かな精神的充足があるという。この方向性は豊かな国の日本人だったら分かると思うのですよ。ゴージャスなコンドミニアムでジャグジーで遊ぶのもいいかもしれないけど、質素だけど清潔な畳と縁側と簡素な日本庭園しかないような古くからの日本旅館の風情により大きな価値を見出すように。
そこに新たなビジネスチャンスがあるようにも思いますし、不安神経症のようになっていく世界に対する一つの回答になるんじゃないかって気もします。無重力状態で不安だったら重力を生めばいい。そして重力は、自分で作るという発想です。洗練された重力、すなわち価値観を一人ひとりが作り上げ、作り上げていく喜びを得ること、その喜びを得るための環境を整備すること、です。
少ないエネルギーで最大の精神的充足を得る方法論は資源問題に対する一つの答えにもなりうるだろうし、インディビュジュアルであることにこだわることで巨大資本のスケールメリットに対抗し、フレキシブルな精神性を獲得することでテロや世情不安に抵抗力を生み、幸福なる為のコストを自然に押さえることで生活苦にキーキー言わなくても済む。「わび/さび」という「ボロなんだけどゴージャス」という精神性を伝統遺産としてもっている日本人こそが、この方向性を開発する資質をもってるともいえます。また、人類的には珍しい無神論者の集団である日本人は、幸福になるために宗教を必要としない、神というドラッグを必要としない珍しい民族でもあります。
結局、領土が小さくて、マッチョさにも資源にも欠ける日本がやっていこうと思ったら、まだ世界の誰もが気づいていない「新しいやり方」を見つけるしかないのだと思います。
さて、つらつら与太話を書き綴っていたら、日本の総選挙の結果も出たようですね。自民圧勝だそうで。
内容面でいえば、今まで民主党に投票していた都市部無党派層が自民を支持した点にあるでしょう。そのココロは、郵政民営化をやってくれっていう意思表示でしょう。今回は、小泉改革派と自民守旧派の対立というのが第一次的な軸だっただけに、民主党がワリを食うのもうなづけます。最初からメインプレーヤーになってなかったということでしょうね。ただ、郵政民営化支持といっても、そんなに皆さん郵政民営化の具体的内容を知ってるわけでもないし、郵政さえ民営化されたら自分らの暮らしがよくなるとも思ってないでしょう。あれは象徴でしょう。「とにかくもっと動いて欲しい、風通しをよくしてほしい」ってことだと思います。
これだけ分かりやすい国民の請託を受けた以上、小泉内閣としてもやらないわけにはいかないでしょう。また、「反対勢力が邪魔するんです」という言い訳も今後はきかなくなる。今度の選挙のユニークなところは、選挙それ自体ではなく、むしろ選挙が終わった後のことを国民が注目している点にあると思います。「で、ちゃんとやってくれるんだろうな?」という。その意味で、日本の選挙にしては非常にまっとーな選挙だったように思います。こういう分かりやすい展開になってくれると、政治というのは本来の面白さを取り戻すのでしょう。
文責:田村
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