今週の1枚(01.10.08)
雑文/離陸の構造
オーストラリアでは、この11月に連邦総選挙が行われる事になりました。2期6年継続したリベラル・ナショナル・コーリション(自由党・国民党連立政権)のハワード政権から、これまで冷や飯(英語ではハンブル・パイ)を食わされてきたキム・ビーズリー率いるレイバー(労働党)が政権を奪うかどうかがポイントになってます。
これまでの情勢ではレイバーの圧倒的有利で、各補欠選挙などでもレイバーの連戦連勝だったのが、ここにきて変わってきてます。一旦地に落ちていたかのようなハワード首相の人気が再び復活してきてるからで、どうしてそうなるかというと、最近の二つの出来事からだと言われています。一つは、インドネシア方面から殆ど定期便のように続々とやってくる難民船の対処において「そう簡単に受け入れるわけにはいかない」と強硬な姿勢を打ち出してきたこと、もう一つは例のアメリカのテロ戦争に全面協力して軍隊もガンガン出しましょうという姿勢、要するにタカ派というかハード路線打ち出して、それが国民に受けているからだと言われています。
先日も地元のオージーと話してましたが、やたらハードで強気な政策を打ち出して、それで人気が出るというのは非常によくない事で、もしこんなことでリベラル続投にでもなったらもっと宜しくないだろう、と。
どこの国でも、ハードなタカ派の強硬路線は国民にウケがいいです。「断固たる」「毅然とした」とかいう、カッコいい雰囲気がありますから。これにくらべて、ハト派というか、人権やら福祉やらを重視する路線は、いかにも軟弱で、キレイゴトを言ってるだけの甘ちゃん集団に見えたりするから分が悪いという。
僕は、個人的な立ち居振舞いのレベルにおいては、結構タカ派の方かもしれません。「喧嘩上等」というか、言いにくいことでも割と言えちゃうタイプ。まあ、前の仕事が「喧嘩屋」みたいなものでしたから、慣れてるっちゃ慣れてるのでしょう。ヤクザと喧嘩し、警察と喧嘩し、裁判所と喧嘩し、大企業や国と喧嘩し、依頼者と喧嘩し、同じ弁護士仲間と喧嘩しというのが日常生活だったりするわけですし、腹がたってなくても職務上喧嘩しなきゃいけないという。まあ、もともと喧嘩上等系の人、普通よりも闘争心の強い人がそういう仕事をするという部分はあります。
しかし、というか、「だからこそ」国の政策や長期的なシステムにおいてはハト派になります。
だって喧嘩って大変だもん、イヤだもん。どれだけ弊害が出て、どれだけ人を傷つけるか。あんな大変なものを政策のメインに据えるべきじゃないですよ。まだ自分個人の処世としてやってる分にはいいんです。個人的なことだから融通もきくし、失敗しても自分がワリ食うだけだし、ある程度喧嘩してたらもう滅多な事では喧嘩したくなくなるし。でも、それと国家の政策とでは全然レベルが違う。大体国家なんぞを「毅然として〜」とか擬人化して考える時点でもう間違ってると思うし、「あ、失敗した」といったときにはもう何十万という単位の無辜の人々が迷惑を受けるし。
ふと思うのですが、国の政策において威勢のいい強気な事言う人の方が、裸の個人レベルでは実戦経験が少ないというか、実際に戦場に出してみたらあんまり働かないんじゃないかという。だって、タカ派的主張の方が向こう受けするし言う側としては楽でしょ?皆といっしょに「そうだ、そうだ、やっちゃえ」って言ってりゃいいんだから。逆にいわゆる人権派弁護士とか、言ってる事を聞いていると軟弱な優男のようなイメージがあるかもしれませんが、実際に会ってみたら個人的にはかなりハードな人が多い。もう一歩も引かないというか、闘ってることが生き甲斐の古武士みたいなタイプ。そうでないと、30年かかっても闘い続けるような冤罪裁判なんか出来ないですけど。
ちょっと話は違うけど、ネットの掲示板なんかでも、過激なことを書いたり喧嘩屋みたいな人に限って、会ってみたら大人しくて気が小さそうな人が多い。はるか昔にパソコン通信でフォーラムやってたときも、時々そういう「困った人」というか、ネット・テロリストという程ではないけど、無責任に議論をひっかきまわしたり、罵倒まじりの発言を好んでするような人がいたりするのですが、そういう連中の巣窟みたいになっちゃうと場は荒れますし、スサみます。なかにはフォーラム潰しを生き甲斐にしてるような人もいたりします。公開の場で主宰者を個人的に罵倒しまくり、ノイローゼにして入院させちゃうとか。結構ありがちな話。
自分らでフォーラムやったり、あるいはHPやったりする場合、そういう連中への対策みたいなものも当然必要になってくるのですが、まずは「打たれ強い性格」であることが第一。公共の場で、自分のことを「馬鹿丸出しの最低野郎」とか罵倒されまくっていても、メールが来ても、それをサカナに「へへへ」と笑いながらビール飲めるくらいのタフな性格。もう一つは、行動力。こういう手合いに、匿名的なネット世界で応対しててもラチが開きませんから、もう個人的にダイレクトに電話しちゃう。自宅でも職場でも電話してしまう。それか会いに行っちゃう。こういう人達って、「画面の中の絶対安心なヴァーチャル空間」だと誤解してて、普通では出来ないような乱暴な振る舞いに出たりするわけで、だからその世界そのものを剥ぎ取っちゃう。自分の発言には、それなりに自分の社会的立場において責任を取っていただく。当たり前の世間のルール、すなわち「現実」を確認していただくわけですね。これはかなり効き目があります。で、まあ、会ってみたらかなり温厚というか、影の薄いというか、大人しい人達だったりする場合が多いです。ヴァーチャルでないと強気になれないのかな。
何を言いたいかというと、日頃から喧嘩慣れしてなくて大人しい人の方が、対外的には強硬なタカ派的なことを唱える傾向があるんじゃないかということで、それにはそれなりの構造というか理由があるんじゃないかと思うのですね。(じゃあ、日頃から喧嘩してるヤクザがなんで右翼やってるのかというと、あれはもうビジネスとしてやってるわけですから話は違うでしょう)。
端的にいって現実感覚が薄いこと。
遠く離れたところから観念的に物考えてるだけだから、物事のニュアンスがわからず、ものすごく単純化されて白か黒かの世界になり、話は極端な方向に流れがち。それともう一つ、その主張についても、自分がその現場に立って処理する事なんか絶対にありえない、どこかの誰かにやってもらおうという「あなた任せ」の意識があることです。
例えば、日本国内おける「中国韓国にペコペコするな」という人達、中国韓国内における「日本の悪逆を忘れるな」という人達、そしてアメリカ国内で今「テロリストは皆殺しにしろ、これを匿う奴も同罪だ」という人達、オーストラリア国内で「オーストラリアは、福祉目当てにやってくる寄生虫のような難民とアジア人に乗っ取られてしまう」と叫ぶ人達。
こういうナショナリズム的な−−こんな disgraceful な言説が「愛国」的だとは全く思わないし、むしろその逆に「面汚し」だと思うけど、言ってる本人達はそれを「愛国」的だと思ってる---傾向というのは、その国の奥深くに入れば入るほど高まるという共通傾向があると思います。つまり国境線から遠ざかって絶対安全な後方にいけばいくほど、ボーダーの現場から離れれば離れるほど、 そういった自称愛国的な発言は強まるという。
僕から見てたら、そんな安全な所で安心する仲間にヌクヌクと囲まれて、それで何を言っても全然説得力もないし、こーゆー人種が一番弱っちいんじゃないかと思う。日本人ばかりの中で、「韓国人が嫌いだ」とか言ってたって意味ないでしょ。どうせ言うなら韓国にいって、韓国人に囲まれながらそれを言わなきゃ相手には届かないでしょ。相手に届かないのを前提にモノを言うなら、それはすなわち「陰口」じゃないの。国辱外交とか「日本政府はもっと毅然と」とかエラそうな事いうけど、それにしたって、実際にメンチ切って喧嘩に行くのは誰か他の人でしょ、自分じゃないでしょ。要するに自分は絶対傷つかない場所で、誰かにやってもらうという。逆にいえば、だから無責任なことが言えたりもするのでしょう。
じゃあ、逆に現場で、自分の手で処理しなきゃいけない人達、すなわち海外に出ている人達はどうかというと、これがニュアンスが変わるのですね。こちらの語学学校に入ったら、日本人と韓国人が一番仲良しだったりする。一つには海外に出た方がよく物が見えるというのはあります。でも、もっと本質的には、現場に出るから現実を知るということが大きい。
それまで「海外」「アジアの人々」なんか一括りにして観念的に考えていたのが、目の前にいるんだわ。同じクラスメートだったりするから、一緒に授業も受けるし、ランチも食べるし、パブに行くし、パーティもする。でもって、目の前でビール片手に嬉しそうに喋ってる、ちょっと気は短いけど、根は純情でイイ奴なこの兄ちゃんを、なんで嫌わなならんのよ?という気がするわけですよね。向こうだって話は同じで、本国にいるときは、日本人はどーのという教育を受けたりしてるわけだけど、実際に目の前に居られてしまうと、「なんだ、いい奴じゃん、こいつ」ということになる。同時に、本国でギャンギャン吠えてる連中が鬱陶しくなってくる。
先日のアメリカテロでも、海外生活が長いアメリカ人ジャーナリストが寄稿してました。アメリカの外で暮らせば暮らすほど、世界の中のアメリカというものがよく見えてくるし、なんでああいうテロが起きるのかという事情も、皮膚感覚で理解できるようになってくる。でも、多くの同胞アメリカ人は、アメリカにひきこもっているから、そのあたりがまるで理解できてない。世界がまるで見えてないから、天空からいきなり悪魔が出現したとしか思えない。これはとても不幸なことで、地に足のついた現実認識なくして政策を語っても誤るだけだと。
オーストラリアでも、アジア人排斥を言う人ほどアジア人の友達が居なかったりするし、その先鋒であるポーリンハンソン自身がこれまでアジア人と会ったのは二人だけだとか。
先日、"American History X"という映画を借りてきて観ました。アメリカの白人絶対主義のネオナチ君の話ですが、ヒットラーを崇拝し、黒人やアジア人、ヒスパニックはアメリカ社会のダニだから撲滅しろと怒鳴り、韓国人が経営するスーパーを襲って店を破壊したりするわけです。で、完全に洗脳された主人公(胸にハーケンクロイツの刺青までしている)は、黒人二人を虐殺して刑務所に行き、その刑務所の中で更生するという話です。人種差別はなぜ起きるのか、なにがそれを助長するのか、何がそれを矯正するのか非常に考えさせられる映画でした。
この映画の場合、まず父親世代のもっている黒人への偏見がそれとなく受け継がれ(日常の食卓での会話などで印象深く語られる)、次に主人公が抱えきれないほど悲劇なりストレスがあり(父親が強盗にあって殺された)、そのストレスを支えるために極端にシンプルな世界観を構築し(黒人が全部悪いんだ、あいつらがガンだ)、それを吹き込み助長する黒幕のような思想的指導者の大人がいて、それに集まる若者のネオナチカルチャーがあり(スキンヘッドだったり、ヒットラーのコスプレやったり)、そこでは黒人や有色人種をイジメればイジメるほど英雄になれるという構造がある。主人公なんか二人も殺してるから、"Hey, you're fucking god !"なんて崇拝されるという。
次にどうしてそれが立ち直るのかというと、これは刑務所内での非常に個人的な出来事だったりします。刑務所内では白人比率が逆転し、「ここではお前ら白人がニガーなんだよ」と言われる。少数派の白人のネオナチ仲間と徒党を組んでサバイブするわけですが、白人仲間といさかいを起こして距離を置いたら、今度は仲間の白人にリンチに合う。庇護する白人グループがなくなったので、今度は黒人連中からリンチで殺されるのは必至のような状態になるが、なぜか何も起こらず刑期を終える。そのとき気づくのだが、それまで刑務作業を一緒にやっていて、いつしか友達のようになった黒人がいて、そいつが黒人仲間を説得して守ってくれていたのだと。その黒人の友達は何食わぬ顔して陽気な冗談ばかり言って、おくびにも出さないけど、主人公には「お前が守ってくれたのか」というのが分かる。それまで観念的に白だの黒だの言ってたのが、はじめて地に足のついた人間同士のコミュニケーションに触れるわけで、それが大きなきっかけになるわけですな。
出所した主人公は、自分の不在中にネオナチに染まってた弟を、"I'm done, I'm through, It's over, It was wrong" と説得してネオナチから足ぬけさせようと努力し、キチンとネクタイ締めて就職活動をし、母親にも妹にも優しく接して、一家の支柱として頑張ろうとするわけですね。この「失われた大事なものを取り戻さなくちゃ」という健気な演技は、淡々と描かれているんだけど、なかなかジンときます。
長々引用したのは、間違っていくパターン、出直すパターンがよく似てるのですね。
化学方程式みたいなもので、現実体験の貧しさ(A)があり、それに個人的な不幸やストレス(B)があり、それが異様にシンプルで攻撃的排斥的な思想(C)につながっていく。A×B=Cみたいなもんです。
換言すれば、地に足のついた現実からどんどん離陸していってしまう、「観念病」みたいなものにかかるわけですね。
この症例は、「○○人は」とか異常にシンプルに人々を一括りにしたがること、そのシンプルな観念のシンプルさゆえに全てが説明できたような気がする事。人は不幸になればなるほど、その不幸の構造とか意味を知りたがるようになるし、説明欲求は高まる。その説明欲求に答えるには、理屈はシンプルであればあるほど望ましい。つまりは不幸によって大量に生産された心のゴミみたいなエネルギーがあるわけで、その鬱屈したエネルギーの「排出ダクト」のようなものを探すわけですから、その排出ダクトは、ぶっとくて真っ直ぐな方が好ましいという。
戦前の日本だって、無茶苦茶な窮乏生活を強いられ、赤紙一枚で遠方に駆り出され殺されるというとんでもないストレス1000%みたいな社会だったわけですが、その膨大なストレスエネルギーを排出するために、「米英は鬼畜で絶対的に悪い」「日本は神の国で絶対的に正しい」という超シンプルな排出ダクトが用意されたりしたのでしょう。観念病も亢進すると、「B29爆撃機に対抗するために竹槍を作る」というところまでいっちゃう。
大体どこの国のどこの政府もそうですが、支持率が下がってくると(つまり国民の生活ストレスが高まってくると)、その排出ダクトとして、ガス抜き用に対外の敵国を作ったりするわけですね。中国や韓国政府が、時々日本をやたら非難して支持率をあげようとしたり、またそれに乗っちゃう国民が結構いたり。まあ、政権延命のモルヒネみたいなものだとも言えます。でもって、悲しいことにこのモルヒネが効くんですね。人類は愚かだなあとしか言いようがないけど。今も、オーストラリアで、なんで難民に強硬な仕打ちをしたり、アメリカに忠誠を誓って「何でもやりまっせ」と軍隊ボンボン出したら支持率が上がるんだろう。オーストラリア人も、「この程度の国民」ということなのか。
で、この方向を矯正するのは、第一には目の前の揺るぎ無い事実、それも個人的に体験した事実です。第二に、生活ストレスそのものを減少すること。AもBも低くなれば、生産物であるCも低くなるということです。
日本だって、あれだけ鬼畜米英とかいってたのが、一夜明けたらアメリカ大好きになってるわけでしょ?僕は現場に居合わせなかったから実感ないけど、歴史を振り返ってみたら「何なのよ、それ?」って思いますよ。なんでそんな昨日までブチ殺せ!と言ってた連中を好きになれるのか?です。
でもこれって魔法でもなんでもなくて、至極当たり前のことだもと思うのですね。例えば、戦争が終わって、逆に生活ストレスは大幅に軽減した。戦争してる時の方がやっぱりストレスは高かったとおもいます。戦争体験のある方の話を聞いても「終わってホッとした」というのが正直のところのようです。次に目の前の現実。乗り込んできたアメリカ軍が、意外と鬼畜ではなく(まあ気楽にそこらへんで強姦しまくったりしてたから鬼畜である面も確かにあったが)、嘘みたいに豊富な物量を持ってきたり、実はチョコレートくれたりとかいう現実でしょう。「豊か」という目の前のどーしよーもない「現実」を見せつけられたら、神風日本みたいな思想は雲散霧消するという。それに、そもそも、八紘一宇だの鬼畜米英だのといった理屈を最初から誰も理解もしてなかったし、信じてもいなかったのではないか。要するに排出ダクトとして機能すればそれでいいだけで、なんでも良かったのでしょう。国民一人ひとり、真剣に思索にふけり、人生を賭けた価値観の決断として「そうだ、日本は神州なのだ」という結論に達したわけでもなんでもない。雰囲気に流されて、流行ってるから唱和してただけなのでしょう。
だもんで、異常にシンプルで分かりやすい理論ほど、目の前に違う現実をゴロンと転がされたら、180度パタンと変わってしまう可能性が高いのではなかろうか。で、現実慣れしてない人ほど、それにヤラれちゃう率が高い。つまりはシンプルな子供だましの理論にヤラれ、また現実ひとつでガラッと転ぶという。
あの〜、こんな例を持ち出していいのかどうか知りませんが、今まで異性とマトモに付き合ったことがない人が、ろくに話もしたことない人を憧れの人、女神様とまで崇めたりすることがあるでしょう。でも、そこそこ恋愛沙汰もあり、酸いも甘いも、美しいところも醜いところもひととおり経験したら、そこまで一直線に崇めたりはしないと思います。でもって、崇め奉ってる人に限って、ふと「鼻クソほじってる姿を見てしまった」とかいう些細な現実に触れて、「百年の恋も一気に醒め」たりするのではないか。これが海千山千の奴だったら、そのくらいではビクともしない。熱くて甘い一夜を過ごして朝を迎えたら、横に口を半開きにした素っピンの女が寝てて、前夜との落差40%(当社比)くらいあったとしても、そのくらいは織り込みですから、別に何とも思わない。
現実を沢山知ってきたら、そんなにシンプルに物事を決め付けることが出来なくなる。それまでの現実知識が、シンプルな理屈に走るのを留めてくれるし、その理屈が子供だましであることを見抜けるとおもいます。
200以上の民族が、喧嘩もせずに皆して適当にのんびり住んでいるシドニーでいると、世界平和なんか意外と簡単なんじゃないかな?という気にもなってきます。別に普通に暮らしてたら、人間なんかもともと社会的な生き物だから、適当に友達作ってやっていくんじゃないかと。個人レベルでストレスが少ないと、そんなに喧嘩なんか起きないようにも思います。特に個々人をバラして単体にしちゃえば、そーんなにいがみあうことも少ない。
それを、止せばいいのにグルーピングして、国家とか民族とか「派閥」をつくって、その派閥を擬人化させていくなかで、ヴァーチャルな人格同士を競わせたりするから話が面倒臭くなるのではないか。それぞれの集団内部で、ろくすっぽ他集団も知らないような奴らによって手前勝手なストーリーが作られ、それを次の世代に伝え、盛り上がっている。それを、政権延命のモルヒネとして利用する政府があったり。
そういった馬鹿げた営みがありながらも、とにもかくにもやってこれているのは、シドニーの語学学校の教室でたまたま隣合わせに座った日本人と韓国人が仲良くなったりするような、個々人レベルでの親交があるからだとも言えるでしょう。逆にいえば、現場で一つづつ積み重ねられていく親交を、ろくすっぽ現場に出たこともないような本国のアホンダラがせっせとブチ壊してると言ったら言い過ぎでしょうかね?これは日本に限らず、です。
だってさ、「戦後民主主義によって去勢された日本人は〜」とか、まだ20代の人が言ってたりすると、何だかなあって思っちゃうわけです。生まれてないじゃん、自分?キミの「現実」って一体何よ?小林よしのりあたりを読んでその気になってるだけじゃん。「戦後民主主義」なんて、今年41歳になる俺だって知らんわ、実感ないですよ、そんなもん。
どこの国、どこの社会にもそーゆーアホンダラはいるわけで、そーゆー部分だけ面白おかしくマスコミに載ったりする。マスコミのニュースだけ見てるとバランス感覚狂うと思う。だって、ニュースというのはその性格上「異常事態」を取り上げて報道するわけで、それだけ見てたら異常と正常がネガポジみたいに狂ってくる。その狂いを矯正するのは、圧倒的大多数を占める「平凡な現実」を実体験することなんだけど、それが足りないと本当に狂ってきちゃう。
僕はそーゆーアホンダラを日本人の代表だと思って欲しくはないし、他の国のアホンダラをその国の代表であるとも思わない。オーストラリアにポーリンハンソンというアホンダラがいるけど、べつに彼女がオーストラリア人の代表ではないわけだし、現に前の選挙でもしっかり落選してるわけだし、ポーリンハンソン現象を報道するなら、(これも前にどっかで述べたけど)シドニーのそこらへんのオーストラリア人家庭の玄関先に、彼女の似顔絵を描いた足拭きマットがあったり、昔の話だけど彼女の集会に支持者1000人集まったら、その倍のオーストラリア人が反対のために半ば暴徒と化しつつ集結してることも報道すべきでしょう。
−−−−さて、最近ちょっとハードなことを書いてますが、こういうネタの方が評判がいいみたいです、どうも。まあ、別に書く分にはいいのですし、どっちかというとこういうネタの方が楽なんですけど、問題が一つ。一体どんな写真を「一枚」にして飾っておくか、です。こんな抽象的なネタにドンピシャな写真なんかないですよ。
ねえ、こうなってくると全然「今週の一枚」じゃないですよね。どうしたもんかな。
なんか段々、写真なんか単なる飾り以下の、なんか抽象的な挿し絵みたいになってきちゃうのですが、それでもいいですかね?
えと、まだあと書いたのだけど、もう長くなりすぎるから次回に廻します。
写真・文/田村
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