今週の1枚(05.08.08)
ESSAY 219/トシをとってからわかること(その5) 〜コントロールされた不愉快
写真は、Maroubra Beach。なんてことない写真のようですが、つい一昨日(8月6日)撮ったものです。ウェットスーツも着ずに泳いでいる少年がいますね。季節が半年ズレるこちらでは、まだ冬です。日本でいえば2月6日。節分が終わったくらいです。いくらシドニーが温暖だ、既に春が訪れているといっても、水温はまだ冷たいままです。夜はストーブつけます。「寒さに強い西欧人」の証拠写真ですね。
このシリーズもまだ続いてます。なんかこういうテーマだと年寄り話というか、ジジ臭いというか、単にオヤジがクダまいて説教垂れてるだけみたいで、いかにもカッコ悪げな気がします。そこでビビって言わなくなったりする傾向ってあると思うのですが、それって良くないよと思いますね。だって、結局、それって”エエカッコしい”じゃん。「説教オヤジと思われたくない」とかさ、「嫌われたくない」とかさ、若い人に理解のある人間だと思われたいというスケベ根性がそうさせるわけで、僕としてはそのあたりの未練は断つべきだよなって思います。
冷静に自分の若い頃を振り返れば、確かに上の世代のお説教は鬱陶しかったようにも思いますが、ただそれを鬱陶しがったり、軽蔑したりしたのは、「説教」という行為それ自体が原因ではなく、あくまで言ってる内容がしょーもないと思えたからです。語られる内容が「なるほど」と思えたものは、全然鬱陶しくなかったし、それどころかすごいヘルプになったし、今でもありがたいと思ってます。ここで上の世代が妙にカッコつけて、「うーん、わかるよ」とか迎合されてたら僕はアホのまんまだったわけで、その意味で感謝してます。だから、自分が上になったらやっぱりカッコつけるべきではないだろう、というのが一つの理由。
もう一つの理由は、反発されたり、嫌われたりすることも必要なんだろうなってことです。
ずっとずっと前に雑記帳で「限りなく寒い風景」というタイトルで現地の中高生留学の寒い現状を書いたことがあり、なんで人はこんなにも甘ったれたダメ人間になるんだろう?と考えました。ちょっとつらいとすぐ逃げる、逃げてばっかりだから何事もなしえず、何者にもなれない。そこにフラストレーションを感じるのだけど、あくまで自分は可愛いから逆に他人のせいにする。自分を守るためだったらどんな卑劣な手段を使っても他人のせいにしようとする、、、どうしてこんな人間になっちゃうんだろう?というくだりで「過保護がなぜ悪いか」を考えました。
生きていく以上、不愉快な思いやイヤなことというのは絶対避けて通れないわけで、そこから逃げていたらこの世界の輪郭が見えない、どうやったら上手く物事が進むかという力学が分からない。力学が分からない人間は、これは何をやっても失敗するでしょう。”力学”ってのは、わかりやすくいうと、ニュートンの万有引力みたいなものです。高いところから飛び降りると落っこちるという法則です。そりゃ落ちたら痛いし、ヘタすれば足の一本も折るし、もっとヘタすれば死にます。僕らはそれを知ってます。このくらいの高さから飛び降りたらこのくらいのダメージを受けるというのを、子供の頃から色んな試みをして(よく段差から飛び降りる遊びをしました)、体感的に納得してきました。それが「この世の輪郭」ですね、世界観です。それが正しくインストールされてなかったら、ビルの屋上から飛び降りても大丈夫なんじゃないかとか妙な判断をして、そんで当然死ぬ。これは痛い思いをして覚えないとわからんです。
でも、階段からコケたり、どっかから落ちる度にいつも誰かが後ろから支えてふんわりと着地させてくれたら、そのあたりの感覚がつかめないでしょう。「なんだ、大丈夫なんだ」とか思うよね。それで目測誤って大失敗をする。だから、子供が遊んでコケて大泣きするのは大事なことなんだと思います。ああやって一つ一つ学んでいるわけだから。
今の例は引力というわかりやすくドライな事例ですが、人間社会にもこういう力学はちゃんとあり、「こういう言い方をすると他人を傷つける」とか、「こういうことをしてると信用をなくす」という力学がちゃんとあります。でもって、クソ生意気なことを口にした瞬間、幻の右ストレートがはいってKOされるという分かりやすい経験を通じて、人は成長するのだと思います。このように他人からしっぺ返しを食らわないと、人間馬鹿だからだから学ばないのでしょう。で、しっぺ返しを食らうのは、とりあえず不愉快です。親に怒られるとか、先生に叱られるとか、先輩にブン殴られるとか、とにかく子供の時分は、年がら年中怒られてますよね。あっち行ってはドツかれ、こっち行ってはハジかれという感じで、まるでピンボールのように小突き回されるわけですが、それでいいんです。しっぺ返しは不愉快な体験だけど、不愉快な思いをしてもお釣りがくるくらい学ぶものはありますから。
ここで、ドツく役目の他人がエエカッコをしたり、ビビったりして正しくドツかなかったら、ドツかれなかった奴は「なあんだ、いけるじゃん」って誤解しますよね。やっぱり不愉快な思いをさせることも必要だし、本人が地獄に落ちるべきときは正しく地獄に落ちるべきなんでしょう。これって子供の頃から地獄馴れしてないと、大人になったときに苦労しますよね。なぜって、この種の人間社会の力学や法則性ってのは、異様に複雑で、異様に膨大な量がありますから、人間60歳になっても、70歳になってもまだまだ学ばねばならないことはあります。幼稚園の砂場で友達を作るところから始まって、思春期や青年期には異性との付き合い方を覚え、社会に出たらまるで動物園のように多様な人種との付き合い方を学び、さらに自分でビジネスを始めるともなれば借金の仕方、銀行との付き合い方、取引先との付き合い方、さらに長じれば義理の娘・息子との付き合い方、、、、覚えるべき法則性は山ほどあります。でも、ある程度打たれ強くないとこういうことって学べないです。学ぶにも体力(精神的な)が必要だということですが、子供の時分にここを鍛えておかないと、あとはオートマティックに失敗しますよね。だって学べないんだもん。ルールを知らないで賭博をしてるようなものですから、まあ、確率論的に言えば絶対といっていいくらい上手くいかないでしょう。
自分は、他人からみれば「他人」です。変な言い方だけど(^^*)、自分からみたら自分以外は全員他人であり、自分以外は全部「世間」なのですが、他人もまた同じように考えてるわけですね。僕からしたら、今これを読んでるあなたは「他人」であり、「世間」を構成する一要素です。この雑文を読んで、「くだらねーこと書いてるんじゃねえ、ボケが」というメールをあなたが僕にくれたとしたら、僕は「ああ、世間に受け入れられてないな」と思いますよね。でも、あなたから見たら、僕こそが他人であり、世間であり、僕が何か書けば、あなたは「ああ、世間ではそういう考えの人もいる」と思うでしょう。だから、自分もまた「世間の一部」なんだと自覚して、「それは違うやろ」って思える言動を他人がしたら、「何を言うとんじゃ、ドアホ」と正しくリアクション
して差し上げるべきなんだろうなって思うわけです。
おそらくこのあたりのメカニズムが、戦後日本の父権の喪失とか言われている問題と通底してるんじゃないかなって思ったりもします。父権といっても、別にお父さんや男性プロパーの問題ではなく、また大人世代だけの問題でもなく、全員そうだと思うのですが、あんまり他人との間で不愉快な思いをしたくないってメンタリティが強くなっているのでしょうね。怒るべきところ、叱るべきで叱らない、文句をいうべきところで言わないで済ますという。万人が万人に「話の分かる奴だと思われたい」とソフトにマイルドに事なかれで接していれば、誰もこれといった壁にぶつからず、世界とか人間とかについて正しい輪郭をつかめなくなるんじゃないかって。
もう一点よくないのは、そうやって過ごすと、他人から面と向かって怒られたりする機会も少ないので打たれ弱くなるし、またフラストレーションの処理もヘタクソになります。そうなると、普通の穏やかな状態→やや気に障ってにこやかに接したくなくなる段階→はっきりとしかし理性的に苦情を言う段階→”おんどりゃ〜”で臨戦体勢、といくつかの段階があるのですが、ニコニコ→いきなりキレる、という白黒の二段階しかなくなってしまって、これもよくないなあって気もします。不愉快なの我慢して、見て見ぬふりしてニコニコしてたら、そりゃあストレスも溜まるでしょう。心も疲れるでしょう。でもって、あとは本ギレvs逆ギレですからね。殺伐とするわね、世の中。弱い人間というのは、大体が感情に支配されやすいし、ヒステリックになりがちだけど、皆して弱くなったら、キーキーした社会になるよね。ガラスに爪を立てたような世の中。
そうならないためには、「ちょっとした不愉快」「コントロールされた不愉快」をお互い交換していけばいいんじゃないかって思います。我慢、我慢、我慢、我慢、我慢、いきなり殺人といくのではなく、我慢の次に、「穏やかに注意」「厳しく注意、でも感情的にならない」という段階を作っていこうと。しかし、まあ、見知らぬ他人にいきなり「すいませんが」と注意しても、それこそ逆ギレされてしまって怖いかもしれませんよね。既にそうなってるという気もしますし、既に手遅れという気もしますが、まずは見知らぬ他人ではなく、知ってる人同士で、「あのさー、気を悪くしないでほしいんだけど」ってちょっとづつ言うようにしたらいいんじゃないかって思います。
言うのも難しいんですよねー。それなりに技術は必要です。冗談めかして言うとか、ギャグをいれて笑わせてしまうとか、レスペクトは崩さずに言うとか。でもって、言われ方、怒られ方も難しく、「あ、気づきませんで、すんませんでした!」って明るく返せばさわやかに終わるのを、どう対処していいのか分からず、恨みがましい目でジロリと睨んじゃんったりして、どんどん雰囲気が険悪になります。
こう書いていて思ったのですが、そもそも「見知らぬ他人に話し掛ける」という行為に、今の日本人が慣れてないですよね。これも良くないなって思います。オーストラリアでは、っていうか世界ではって言ったほうがいいのかもしれないけど、見知らぬ他人に気軽に声をかけます。それこそ、道歩いていてすれ違うだけでも、バスを一緒に待ってるだけでも、スーパーのレジの順番を一緒に待ってるだけでも。全部が全部ってことはないけど、日本人の感覚からしたら、かなり頻繁に声をかけてますし、軽い雑談をして楽しんでます。だから、パーティなんかも気楽に出来るし、知らない人ばっかりの集まりでも気楽に参加するし、職探しもボランティア探しも、気楽にその辺の店に入っていって話をします。それが普通。慣れればこんなにやりやすいことはないです。紹介状とか、アポとか、面倒くさいこといらないで、「とにかく行ってみよ」でどんどん社会に入っていけますからね。それに、そういう下地があるから、例えば車内暴力というのも、日本のように皆が見てみぬふりをするということはないし、誰かが不穏な言動をすればすかさずどっかから声がかかって制止させられる。その意味では他人がぞろぞろいたら安全なんだから、治安的にも楽です。また、車が壊れて立ち往生してたら、誰か寄ってきて助けてくれるし、道に迷っても気楽に聞けるし、ほんと楽です。そうそう、オーストラリア留学・ワーホリのサポートとかよく気にする人いるけど、いらんですよ、そんなもん。地元の連中、例えばシドニー在住の何百万人というオーストラリア人があなたのサポート要員だと思えばいいんですよ。実際そうだし、地元のことは地元民に聞け、ですよ。そう実感できるような過ごし方をしないで、日本人村に固まってたって意味ないっしょ。
日本ももうちょいキーキー、ギスギスせんと、やわらかい社会になっていいかと思いますが、そのための先兵要員として、僕ら以上のオッサン・オバハン世代がいるんじゃないかって気もしますね。自分もそうでしたけど、若い人はまだまだシャイですし、なにをするのも恥ずかしいですよね。だから「声をかけよう」とかいっても難しいでしょ。それに、若い人が妙に声をかえるとナンパとかに間違われたりしてやりにくいでしょう。その点、オッサン、オバハンになればその種の難点はないしね。友人にマーケティング会社やってる奴がいて、市場調査を実行するのだけど、ストリートの現場に立つのは殆ど全員おばちゃんらしいです。おばちゃんがベストらしい。話し掛けても怪しまれないし、誰もがリラックスして応対できるから。キャッチセールスやりたいんじゃないくて、ちゃんとマトモなリサーチをしたいわけだから、皆が素直に本音を言ってくれる調査員が最高で、それって誰かというとオバハンらしいです。分かるような気もしますよね。だから、日本の、おっちゃん、おばはん、特にオバハンの方ね、日本をよくするボランティアとして、町に出たら、見知らぬ人に「暑いですねえ」と一言、ニコリと笑ってきてください。ニコリですよ。「ニヤリ」とか「ニンマリ」とかいうのはダメですよ(^^*)。それと、「オバサン」と聞いて「あ、あたしじゃないわ」と思った方、でも年下の男性をつかまえて「あのコ」と普通に呼ぶようになったらあなたも立派なオバハンですからね、実際の暦数年齢はともかくメンタリティはそうですよね、少なくとも「乙女」じゃないね、マドモアゼルじゃないね、観念しなはれ。
話を戻します。カッコつけないで、また多少の不愉快を与えたとしても、おっちゃんはおっちゃんを語るべしってことでした。なんか前フリだけで終わってしまいそうやね。どうせだったら、この前フリだけで一本ふくらませたろって思います。
育児とか、人事とか、「人の育て方」系の本がやたら刊行されていると思います。
僕自身、子供も部下も居ないから気楽な立場なんだけど、気楽な立場でのんびり自由に考えると、結局あれですね、3つの要件に絞られると思います。@まず他人や人間を信じるという人間肯定的になること、Aそのためには自分が立派な人間になること、Bその自分が自然に接すること、に尽きるのではないかと。
よく「誉めて育てよう」とか「まず受容しよう」とかいう言説がありますが、あれもそれなりに研究や経験を踏まえての含蓄ある言葉だと思うのですが、盲目的にそうするのもどうかなあって思う部分もあります。これって一歩間違えるとただの過保護になるし、冒頭の部分に書いた「世の中の壁」を教えてあげずにミスリードする危険もあると思うのですよ。もちろん、この種の論理の中には、単なる過保護や盲愛と一線を画すべきモノがあるとは思うのだけど、「教え」というのは部分的に一人歩きするので、そこが危ういなあって。
他人に対して言ってはいけないヒドイ言葉を吐いたガキは、やっぱり正しくサンクション(制裁)を受けるべきだと思います。他人のものを盗んだガキもしかり。そこを、いくら「誉めて育てよう」といっても、「よくぞ言った!よく盗んだ、えらいっ」とは言わんでしょう。そこで叱るべきなんでしょうけど、そのとき問答無用にぶっ飛ばすのではなく、「お前みたいなしっかりした人間が、そういうことしていいと思うんか?」って、本人の自力更生能力を発動させるように促すのが「誉めて育てる」ってことなんだろうなって思います。つまり、相手の人間性の核心部分にあるものへのリスペクトは失わず、「真実のあなたは立派な人間である」ということを常に大前提にしつつ、あなたの本質に反するでしょ、自分自身を汚しているでしょ、貶めているでしょ、自分を壊しているでしょ、それでいいの?ってことなのでしょう。その本質部分へのリスペクトが「誉める」ってことだと思うのですね、僕なりに理解すると。
心理学の本で読んだことあるのですが、明治時代あたりに立派な仕事を成し遂げたいわゆる立派な人を調べてみると、その人が武士階級の家の出だった場合、子供の頃から「お前は武士の子です」といわれて育ち、それが生涯のバックボーンになったらしい。「武士の子です」という、やや差別的ではあるけど、相手の人間の本質を規定する部分こそがレスペクトなんでしょうね。ただ、レスペクトはあるとはいえ、教育そのものは凄まじいほどに厳しく、半死半生に打ち据えられたり、母親から短刀を手渡され「自害しなさい」と迫られるという。今の基準でいえばかなり無茶苦茶なんだけど、それを救うのは、「お前は武士の子だ」という、メッチャクチャ高いところにある自己規定なのでしょう。当時の武士の子が、「武士の子」と規定されてどれくらいのプライドと責任感を持つのか、今の僕には想像つきませんが、源義経も織田信長もみな武士なわけで、「あのレベルの人間であれ」と言われているくらいには思ったかもしれません。あなただって子供の頃から、あのレベルの人間であれ、それに至らなかったときは恥を知り潔く死ね、と親に言われ続けてたら、やっぱり生き方は変わったと思いませんか。
だから思うのですが、人というのは、自分の核心にあるものさえ認めてもらえたら、大抵のことは我慢できるんじゃないか。どんなにこっぴどく叩かれようが、痛烈に罵倒されようが、自分の奥の奥にある”ほんとうの自分”は絶対に認めてもらっているという確信があるときは、結構耐えられるし、見た目ほど辛くはないのかもしれません。
その逆、つまりいくら表面的にやさしくされようが、甘やかされようが、自分のコアの部分を認めてもらってないときは、あるいは自分のコアの部分にまで踏み込んできてもらっていないときは、ココロが荒むんだろうなって気もします。内心、「このガキは、もうどうしようもないな、ろくな人間にならないな」って思いながら、「そんなことしちゃダメですよ」と優しく言い聞かせても、やっぱりダメなんだろうなって。
しかし、他人の奥にあるコアな人間性を認めるというのは大変なことだと思います。
一人一人の人間について、そこまで眼光紙背に徹するかのように洞察することは、プロの教育者でも難しいことじゃないかと推測します。まあ、それが出来るからこそプロなんだろうとも思いますが、でも生半可な作業じゃないよね。そこまで他人に関心を持てということ自体がまず難しい。
おそらくは個々の人間がどうのって問題じゃないのかもしれません。およそ人間一般を信じるか、人間って素晴らしいものだと心底思ってるかどうか、今はダメでも素晴らしくなりうる可能性はどんな人でも持っていると信じているかどうか、なのでしょう。そういった一般的な人間観、人間の可塑性(粘土のようにどのようにでも形を変えていける可能性)が大きな役割を果しているような気がします。あなたはどうですか、そこまで人間というものを信じていますか。
そこが信じられなかったら、やっぱり他人の核心部分を信じろ、認めろといってもツライもんがあると思いますね。
自分の子供「だけ」が可愛いのは、あれは自己愛の延長、延長自我へのナルシズムと言えなくもない。自分の子供”だから”可愛いというのは、素朴で素直な心情であり美しくもあるのですが、他人のコアな人格を認める行為とはちょっと違うと思います。そもそも「他人」だと思ってないんだし、そのあたりは難しいところでしょうね。
人間と言うものをそこまで素晴らしいものだと思える、それも頭でそう思うのではなく、心底そう思うというのは、よっぽどちゃんと成長しないと難しいでしょう。そりゃ人間って汚いですもんね。いざとなったら信じられないくらい残虐なこともするし、親友だろうが家族だろうが平気で裏切る卑劣なところもあるし、腹の底で何に考えているのか分からないし、裏で何やってるんだかわかったもんじゃないです。「あー、もー、人間、キライ!」って思ってしまう体験なんて、子供の頃から山ほどあるでしょう。それが普通でしょう。でも、そんなダメダメな人間なんだけど、こんなに素晴らしく、こんなに美しい一面もあるよってことで救われるのだと思いますが、本当にそう思えるような体験をどれだけしてきたか、ですよね。そう思わせてくれるような素敵な人にどれだけ出会ってきたかです。「物心ついた頃から周囲は皆カスばかり」という環境で育てば、人間に希望を持てといっても無理な相談だと思います。
「そういうお前はどうなんよ?」って聞かれたら、僕は結構信じてる方なんじゃないかって思います。これは前にも書いたことがありますが、高校くらいのときまではかなり人間キライでしたよね。なんて醜く自分勝手な生き物で、核戦争でもおきて絶滅すりゃあいいんだって思ってたし、電車乗っても「お前ら皆死ね」みたいな目でいたと思います。それが段々変わってきたんですよね。「よーし、そんなに醜悪な世の中だったら、一番醜悪なところを徹底的に見てきてやる」と思って弁護士になって、思惑通りたくさんイヤなものを見ました。ヤクザ、倒産、離婚、犯罪、大企業や官僚組織のイヤらしさ、まあ”地獄ツアー”みたな仕事ですから、よく見ましたし、”参加”もします。でも思ったのは、「人間、そんなに捨てたもんじゃないな」ってことだし、「人間って、いいな」ってことです。やっぱねー、素晴らしい人ってのはこの世に実在します。それも結構いますわ。一種の極限状況みたいなところも見るから、割と信じやすい部分もあって、「この状況でこういう態度を取れるのだったら、これはもう偽善じゃない」ってのも分かります。いや、ほんと、今も同じように「こんな世の中イヤ、人間キライ」って思ってる人がいると思うけど、「もっと徹底的に見るといいよ」って言いたいです。それも生きるか死ぬかの修羅場を見てくるといいですよ。結構、人間ってイイモンですよ。
ずっとずっと前に読んだロック雑誌のインタビューで、SOPHIAの松岡氏の話がありました。彼がデビューしてしばらくの頃で、なんかイヤなこと沢山させられて、気持ちもスサんで、飲んだくれて、公園で夜明かししてたときに、早朝の公園のベンチでホームレスのおっちゃんが鳩に餌をあげてたのかな? で、松岡氏も興味をもって、鳩の心配より自分の心配した方がええんちゃうみたいなこといって、そのおっちゃんと話をしたら、そのおっちゃんの半生たるや凄まじく、本人は大して悪くないけど、他人の保証人になったり、騙されたりで、「人はこんなにも不運で、不幸になっていいものか?」と信じられないくらい悲惨な人生だったと。「俺がそんなメにあったらとっくに自殺してる。もう何回も死んでる」って思えるくらい大変なメにあってるホームレスのおっちゃんが、貴重な自分の食べ物から鳩に餌をあげているわけで、「おっちゃん、なんでやねん、何でそんな鳩にエサなんてあげらてられるんや?」って聞いても、おっちゃんは「さあ、なんでやろな」ってニコニコしてる。そのおっちゃんの姿というか、存在そのものに彼はガビーンとなって、本人がどういう言葉で表現したかは忘れましたが、とにかく彼の中でなにかが変わった。それがすごく大きな経験だったと。
彼の言ってる意味、ドンピシャではないかもしれないけど、分かります。僕も似たような経験してますもん。「うわ、人間って、すごいんや」って素直に思えてしまうような体験。これだけ目の前で見せ付けられたら、もう信じないわけにはいかないよねって。
で、思うのですが、いわゆる「立派な人」というのは、こういう経験を沢山してきてるんだろうなって。メチャクチャ変な例えなんだけど、汚染された魚ばっかり食べてると、魚の中の有機水銀やらの毒物が身体の中に蓄積されて病気になるとか言うでしょう?あれと似たような話で(方向はまるで逆だけど)、素晴らしい体験や、素敵な人に接する機会があるたびに、心の中に、なんだかよくわからんけど「立派なもの」が溜まっていくのでしょうね。「感化される」って上品な表現も出来るけど、もう否応なく「身体に蓄積される」ってドライな表現な方がしっくりくるような気がする。また綺麗な言葉でいえば「薫陶」ですけど、薫陶というほど特定個人からの影響じゃないくて、もっと雑多な感じ。その蓄積されたもので、その人の立派さが決まるというか、蓄積された立派さが、ことあるごとにその人のモノの見方や、考え方、行動に影響を与えていくんじゃないかなって。
そうやって成長して、自分がそれなりに立派になっていかないと、そうそう他人のコアにある人格なんて無条件で肯定できないんじゃないかしら。ギリギリのところで「や、それでも俺は人間を信じるよ」って思える人、それは単に世間知らずとか、甘ちゃんだとか、ナイーブとかいうのではなしに、酸いも甘いも噛み分けて、しっかり塩辛いものの見方ができるようになったにも関わらず、「や、それでも」っていう部分ね。
話を戻しますが、「人を育てる」とか人によい影響を与えるためには、まず他者の人間性を根本のところで信じられないと話が始まらない、そしてそのためには自分自身が立派な人になるというのが前提条件なんだと思います。まあ、単純な話、立派でない人にあれこれ「立派になれ」と言われてもとりあえず説得力ないもんね。それで、最後の要件の「自然に振舞う」というのは、あんまり小手先の技術に走らず、腹が立ったら怒る、えらいと思ったら誉めるという、普通の人間の自然な感情の動きのままにリアクションをしてたらいいのだろうなってことです。というか、その人が立派だったら、もう小手先の技術なんか要らないんだろうな。多分、存在や立ち居振舞いだけで十分に人を感化させられるんだろうなって思います。
子供や部下など、自分が指導すべき人間が悪いことをした場合、上に立つ人間がよく「不徳のいたすところで」とか言いますよね。あれって単なる慣用句や社交辞令的に言ってるのかと思いきや(まあ、そういう場合が殆どかもしれないけど)、深く意味を考えていくと、なるほど確かに「不徳」なのでしょう。自分に人徳が足りなかったから、十分に下の者を感化させられることができませんでしたって意味ですから。
一方では、立派な人の子供だから立派ってもんでもないですよね。いわゆる不肖の息子/娘ってのはいますし、どうしてこんな立派な人が手塩にかけて育てたのに、こんな出来損ないになっちゃうんかなってこともあります。先天的に持って生まれた器量や能力みたいなものは、やっぱり否定はできないのでしょう。あんまり周囲がエラすぎてしまうと、先天的なものに恵まれない人は居心地が悪いというか、いたたまれなくもなるでしょう。
親や兄弟、親戚一同みな揃いも揃って東大だの学者だののエリート家系に、それほどの能力もなく生まれた人が、周囲の家族から「お前は出来損ないだ」と冷たい視線を浴びて育ったがゆえにグレた、というケースがありますが、これは分かりやすいですよね。つまり周囲の連中は、社会的には立派かもしれないけど、人間的には全然立派じゃなかったというだけのことです。社会的地位=人間の上下という愚劣な考えに凝り固まってる愚劣な連中に囲まれれば、誰だってイヤになるでしょう。
でも、同じような環境で、しかも周囲が人間的にも立派で、別に出来なくたって怒ったり幻滅したりしない、見捨てたりしない人達ばっかりだったらいいかというと、それでも尚かつグレる人はいます。ここが人間心理の難しいところなのでしょう。確かに周囲から迫害されたり、冷たい仕打ちは受けないのだけど、そもそもそういった客観的ギャップ自体がイヤでしょう。なんで俺だけ穴ぼこに落ちてるみたいに一人で陥没してなきゃならんのだ、って。それはやっぱり居心地よくないし、とりあえずの第一次責任は自分の無能力に起因するから、まず自分が嫌いになるし、日々自己嫌悪を感じさせられる環境というのは、やっぱり良くないのでしょう。
以前、殺人事件の関係で、高名な精神科医の先生に話を聞きにいったことがありますが、そのとき雑談で兄弟殺しのケースを話してもらいました。よくあるパターンは、良く出来た弟がダメな兄貴を援助しつづけてきたところ、その兄貴が弟を殺してしまうという無茶苦茶なケースです。弟は非の打ち所のないくらいいい人で、借金をせびりにきた兄貴に、イヤな顔を見せずに温かく貸しつづけた。でも、貸したお金をその兄貴はすぐ浪費してしまう。ここで、浪費するのは、それなりの心理的理由があるということです。兄貴にすれば、弟から借金をしている自分自身がイヤでたまらない。情けない自分が嫌いであり、その借金のお金というのは自己嫌悪を誘発する象徴だったりするから、無意識的には早く遣ってしまいたい、それも出来るだけゴミのように扱ってくだらなく浪費させてしまいたいんじゃないか。そもそも、弟が人間的に立派な態度に出れば出るほど、対照的に自分のダメさ加減を否応なく認識させられ、それが物凄いストレスになる。だから、最終的には、恩を仇で返すような痛ましい事件に発展する、、と。
難しいですよね。いくら人間的に完璧に振舞ったとしても、その高尚な態度それ自体が相手にとっては凶器になりうるのですから。高貴な人間性も温かい善意も、ある種の人間を追い詰めてしまうのですね。「ある種の人間」ってどういう人かというと、結局あれですね、「自分自身に絶望した人間」なんだと思います。自分が絶対ダメだ、もうこれ以上自分がよくなることなんかありえないと思い込んでしまって、その思いが精神を角質化させて、どうにもならなくなってしまった人は、他人から優しくされればされるほど改善されっこない自分のダメさ加減を思い知らされることになり、いたたまれなくなるのでしょう。
ということは、人を育てる究極の一点は、自分を信じさせること、自分自身に絶望させないことなのかもしれませんね。それこそ核心の核心、もっともコアにある部分で、「や、俺も捨てたもんじゃないぞ」と1ミクロンでいいから思っているかどうか、思わせることができるかどうか、です。ここが真黒に塗りつぶされてしまった人は、これはもう教育とか日常生活のレベルでどうにかするようなものではなく、それこそ精神科医レベルの話になるのかもしれませんね。
そうなると話はさらに、どうしたら人間はこういった絶望的な自己否定に走るのか、どういう原因とメカニズムでそうなるのかってことになります。ここまでくると、「単なる前振り話をふくらます」という範囲から逸脱して暴走してしまうから、このくらいにしておきます。キリがないよね。
というわけで、冒頭の一行目に戻って、年寄り話も臆せずどんどんやりましょうってことです、、、って、わはは、全然マトメになってないよね。
究極的な人間の深淵まで覗き込めば話はどうしようもなく混沌としてくるのですが、でも、ま、日常生活においては、そこまで深刻に考えなくてもいいのでしょう。とりあえず日々のレベルであれば、もう少し他人に踏み込んで、コントロールされた不愉快さのキャッチボールをやったらいいんじゃないかってことです。それによって多少の摩擦も起きるかもしれないけど、事態が改善されることもあろうし、ヘルプフルな情報が伝わることもあるでしょう。少なくとも我慢、我慢でストレス溜めて、いつかは噴火するかもしれないというのもイヤでしょう。そんな皆して地震多発地帯みたいになってたって物事解決するもんじゃないと思うんですけど、どんなもんスか?What do you say?
文責:田村
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