今週の1枚(05.08.01)
ESSAY 218/トシをとってからわかること(その4) 〜暗闇からの矢
写真は、North Bondiの高台からCity方面を望む
若年と老年の両方が見えるちょうど真中あたりの尾根道に立って、いろいろ思うことを書いてます。第四回目です。でも、こんなのいくらでも書けそう。
今回は、トホホな話を書きます。いわゆる”お達者話”で、トシをとるとこのように老化が進むという、書いててあまり楽しい話ではないのですが、いつまでも見ないふりをしてはいられないという話でもあります。
老化というのは、もう18歳くらいから始まるといいます。18歳あたりになるまでは、普通に生きてるだけで日々身体が増強していくという上り坂ですが、それを過ぎると日々落ちていくという下り坂になるようです。最初はあまりに微弱な老化だからあんまり気にしないし、多少老化しようが、なんといっても全体的にピキピキ若いですから気にもとめない。実際、18歳と20歳の差なんか知れてます。ほとんど無いといってもいいでしょうが、それでも部活の合宿のようなハードな運動をするときとか、新たに身体的技術を習得しようという場合の身体の学習能力の差はどうしようもなく落ちてきます。プロスポーツ選手、例えばお相撲さんとか、プロボクサーとかでも、18歳過ぎてゼロから始めようといっても、既に遅いといいますよね。
20代になると、そのうち無視できないくらい老化が進んできます。それでも、「もうトシだよ」と冗談めかして言うくらいの余裕はあります。まだまだ鍛えなおせば全然何とかなると思ってます。30代になると、いよいよ誤魔化せなくなってきます。それでも「くそお、まだまだ」と強がる程度の余裕はあります。しかし、40代、男性で言えば厄年(42歳プラスアルファ1年)になると、これはかなりシリアスな問題なのだということを思い知らされるようになります。
肉体の中には当然「頭脳」も入るわけで、18歳を過ぎるとまず記憶力が落ちてくるようです。記憶力はですね、僕の経験や周囲の同世代の証人達の話でいえば、しみじみ「落ちたなー」と思えるのは30代後半からですね。それまでも落ちているのだけど、まあ日常の仕事や生活に支障がないし、受験勉強のようなハードな暗記物をやる必要も無いからあまり気づかないのです。高校のとき百人一首全部を一晩で暗記したことがありましたが、あーゆーバカ暗記は大学生の時点でもう出来なくなってたと思いますね。
ちなみに記憶力が悪くなると、やっぱり頭も悪くなりますよね。記憶力がよければ頭が良いというものではない、という命題は正しいです。でも、まったく無関係でもない。学習能力というのは、チンパンジーやラットの実験などでもわかるように、過去に何度も失敗してそこで「学ぶ」わけですよね。そのときに過去の経験というデーターをきちんと記憶しておけなかったら、やっぱり効率は悪くなる道理です。要するにデーターが散逸したり腐ったりするのですから、いくらパターン解析能力、仮説定立能力、検証能力、批判能力、、、という頭の良さの本体的な能力が向上したとしても、基礎となるデーターが腐ってたらどうしようもないです。
多くの場合は、年齢が上昇するにつれて社会的な役割も変わり、より複雑な処理を要求されるようになるから、それが自然と頭の訓練になり、単なる記憶力ではない本当の「頭の良さ」を鍛えてくれます。批判能力、総合把握力、洞察力などは、アルツハイマーにでもかからない限り、年とともにあがっていき、死ぬまで伸びると思います。だから昔から長老が部族のリーダーになりえたのでしょう。的確に事態を把握できるだけの広い頭のフォーマットを持ち、あらゆる可能性をシュミレートでき、数十とある選択肢から総合的に比較考量してベストを選ぶ、、、こういう能力こそが頭の良さの本体であり、それは年とともにあがっていく。ただ、こうやって能力が上がるのも、年齢とともにどんどんタスクが難しくなり、鍛えられるからだと思います。課長よりも部長の方が考える難度は高くなるという。これらの頭の良さで、記憶力の低下を補っている、というのが実際のところだと思います。
余談ですが、最近多くなっている派遣社員やフリーターのような仕事の場合、頭がよくなる機会をミスるというリスクがあるんじゃないかと僕は懸念します。もちろん一概には言えないのですが、正社員と派遣社員の違いというのは、仮に現場でやってる仕事内容が同じだとしても、なお正社員の方が考えねばならないアレコレが多いと思います。永住権をとるか、労働ビザで短期的に居るかの違いのようなもので、パーマネントに居る奴は、どうしても長期的な視野でものを考えるようになるし、考えることを要求される。目の前のタスクそれ自体は同じだとしても、そのタスクを導き出す過程、構造、それへの批判、深い洞察をします。例えば、現在与えられているタスクがしょーもなく、かつ楽チンだったとします。短期的に入ってるだけの人は、「お、楽じゃん、ラッキー」くらいでいいですが、長く居る奴は「こんなことやっててこの会社、大丈夫だろうか」も考えるだろうし、この種の下らないタスクは社内システムの欠点をあらわしているんじゃないかとか、社内派閥的などういう力学から発生しているのかとか、やっぱりそのへんのことも考えると思うのですよ。短期でやってる人は、そこまで心配する義理もないですし、考えたところで発言の場も与えられないし、自分の人生へ大きな影響を与えられるわけでもない。
また、伝統的な日本の会社の場合、正社員にはいわゆる”雑務”は多いし、本来の仕事からはかけ離れているような、仕事かどうかすら分からないようなアレコレに忙殺されます。仕事なんか与えられる/与えられないを問わず、自分の目に映るもの全てが原則として仕事であるくらいの感じになります。それこそ壁にかかってるカレンダーが曲がってたらまっすぐに直すとか、来客用の湯呑の縁が欠けていたら新しいものを買うとか、先輩の引越しの手伝いに駆り出されるとか。よく、「与えられた仕事はきっちりやるんだけど」という非難がましい言い方がされますが、与えられた仕事をやるだけだったらあんまり評価の対象になりません。与えられなくても自分で見つけてやっていくのが有能な人材と言われるわけですし、それは多分正しいのでしょう。今はそういった全人格的没入を要求されるような日本企業の伝統的ありかたの当否は問いません。が、考えるべきこと、同時処理すべきタスクが多くて複雑なほど、頭は鍛えられるということです。頭というのは、たくさん難しいことを考えないと、つまり量的にも質的も高いレベルで頭を働かしていないと良くならないですからね。
誤解してほしくないのは、別に派遣の人が頭悪くて、正社員は賢いとか、そんなアホな議論をしてるわけではないことです。まあ、そのくらい分かると思うけど、念のため。今この瞬間を切り取って言えば、派遣だろうが正社員であろうが頭の良さなどマチマチだと思います。ほんとに個人差があるだけで、それほど傾向的な差があるとも思えないです。ただ、同じ人間が、派遣だけやってるのと、正社員になってるとのでは、頭を鍛える機会は後者の方が多いんじゃないかってことです。「手足」としての役割しか期待されない人間と、将来的に「頭脳」になることを求められる人間との違いでしょう。だから派遣がダメとは言いません。別に頭を鍛える場は仕事や会社だけじゃないですし、探せば幾らでも機会はあるでしょう。実際、派遣の場合は、正社員のような生活保障が薄いだけに、個々の仕事を超えて常に自分自身の人生設計全体を考えなければならないという側面もあり、その意味では激しく頭を働かせているとも言えます。いずれにせよ、ボケ防止には、自覚的に鍛えておくといいよってことです。
それに、これは別にホワイトカラー職種に限ったものではないです。例えばお寿司屋さんの世界だって、最初は掃除とかゴミ出しから始まって、野菜の皮むきなどの簡単な下ごしらえになり、魚を捌かせてくれるのはかなりたってからでしょう。一人前になるまでに調理法から、鮮度の目利きなど覚えなければならないことは山ほどあるでしょう。後輩を指導するという仕事も入ってきます。さらに自分で店を持つようになれば、やれ店舗賃借の不動産交渉やら、内装工事、広告文案、仕入れ業者の選定、客の好みの見極め、カウンターでのお客さんとのやりとり、場合によってはみかじめ料をせびりに来る地元ヤクザとの交渉、人を雇えば求人広告、面接、税務処理、、、もう、やたらめったら同時並行で情報処理しなければならないことが増えます。こうやって考えることを増やし、難しくしていくのと、一生ジャガイモの皮むきだけやってるのとでは、そりゃ頭を鍛える機会も違ってくるとは思いませんか?
話がそれましたが、年齢があがると一般にタスクも高難度になり、年齢とともに下がる記憶力を補強して余りあるほど賢くなる、ということです。逆に言えば年齢があがってもタスクが高難度にならず、また別に頭を鍛えるようなイトナミもしてなかった場合、単純に記憶力減退というマイナスだけが目だし、年々赤字になり、ひたすらアホになるという恐ろしいことになります。大体、体力/筋力は年とともに素直に落ちていきますから、年をとってもやっていこうと思うなら、また下の世代に舐められないようにしようと思うのならば、頭が良くなるしかないんですな。それが一番無理がなくて、簡単な方法です。でも、そこでコケてたら、これは結構つらいと思います。
さて、記憶力減退ですが、はっきりそう気づきだすのは、つまり日常生活に支障がでてくるのは30代後半くらいかなって気がします。40過ぎると顕著になってきますね。まず、固有名詞が覚えられなくなる。地名とか、本のタイトルとかですが、端的には人の名前ですね。ビジュアル記憶はわりと減退しないので、顔は忘れないのですよ。見覚えがある。それどころかよく知ってる。しかし、名前を忘れる。つまり「顔を覚えているけど、名前が出てこない」という状況ですね。これが年々増えてくるのですね。20代でもそういう現象は起きているのだけど、頻度が少ないから、「ド忘れ」として”例外処理
”することができたのですが、30代後半から40代にかけて、あまりにも頻繁に忘れるから、もうド忘れといって誤魔化してはいられなくなります。
もう少し細かく言うと、顔も見たら覚えてるし、名前も聞けば覚えてます。どっちも覚えているのですね。しかし、顔だけ見て名前が出てこないとか、名前だけ聞いても顔が思い出せないわけで、要するにビジュアル記憶と固有名詞記憶のリンクが弱くなってくるのですね。「リンク切れ」ですね。この「リンク切れ」現象は、詳しくはしりませんが、なにもビジュアルとか固有名詞に限ったものではないのでしょうね。なんであれ、情報と情報を結びつける鎖が弱くなってくるのでしょう。ただし、この種のリンク切れは、片方はわかるけどもう片方が立ち上がってこないということでイライラしますし、それだけに自覚しやすいです。リンクではない単純記憶情報も薄くなっているのでしょうが、これは分かりにくいです。なんせ、「忘れた」ということ自体忘れてしまいます。英単語を覚えるときなどそうですが、すっかり忘れてしまって、もうその単語を覚えようとしたということ自体忘れてしまうという。「あー、くそ、昨日やったのにな」と若いうちはいえるのだけど、だんだん「昨日やった」ということ自体を忘れる。「砂地に水がしみ込むように」というのは理解や記憶の早さを誉めた言い回しですが、こうなると「砂地に文字を書いたように」というべきか、波がきたら痕跡なく消滅してしまうという。悲しいですよね。
これに伴って記憶の陥没という事態も生じるようになります。ある部分がポッカリ記憶から脱落するということで、お酒を飲んだ翌日なんかによく経験するアレです。僕の場合、お酒を飲んでも記憶が無くなることはまずなく、ほぼ全て覚えてました。それこそ一次会から三次会までの経路、参加メンバー、割り勘の金額、帰りのタクシーの値段までもキッチリ覚えてます。が、それでも年とともに「あれ?」と思うことが増えてくるのですね、恐ろしいことに。それもゴッソリ脱落するのではなく、ある小さな一点だけ覚えていない。ブラックホールのような。
これが怖いんですよね。飲み会の顛末なんかどうでもいいのですが、このブラックホールが仕事のダンドリに関係していたりすると、まずいことになります。信じられないようなポカにつながります。例えばスケジュールが変更になったとして、その変更になったという部分の記憶がブラックホールになると、変更がないものとして動いたりするわけですよ。
また、記憶とは別に、頭を働かせるのが億劫になるという傾向も出てきます。
これまでは適当にやってても無意識のうちにビシッと思考を検証したのが、いい加減になったりします。例えば、「○○という駅は○○線にある」ということでも、変な勘違いとか思い込みをしてしまって、別の路線に乗ってしまうとか。以前はこういう勝手な思い込みをした場合、無意識的に「本当にそうか?」という頭の検証システムが働いてチェックしてたのですね。それを面倒くさがってやらなくなるという。年をとると頑固になるといいますが、頑固というと聞こえはいいけど、あれってもしかして「本当にそうか」という検証をするのを、面倒くさがるようになっているのかもしれません。
こうなってくると、やっぱり仕事や日常生活のやり方も変えざるを得ません。メモをつけるとか、スケジュール表に書き込むとかいう作業が必要になってきます。そんなの当たり前じゃないかと思われるかもしれませんが、僕はあんまりそういうことコマメにやらないタイプでした。別に書かなくたって自然に覚えてましたし。弁護士は、黒くて分厚い訟廷日誌という手帳を持ち、これがスケジュールのリソースになっているわけで、僕も持ってました。もう数ヶ月先まで予定を書き込むわけです。また、大事な予定ですので、本体記録にも予定を書き込む欄があり、スタッフにも告げ、、、という二重三重にセーフティをかけます。でも、いちいち確認しなくても、数十から百前後の単位の予定だったら、自然と覚えてましたし、まず間違えなかった。でも、もうそこまで自分の頭を信じちゃダメですよね。コマメに「指差し確認」みたいなチェックを意識的にやらないとダメになります。
人の名前も、以前は事件関係者で1000人前後くらいだったら苦労しないで覚えられたけど、今は無理でしょう。また、今の仕事の性質から、毎週毎週同じパターンでクライアントと接するから、覚えにくいというのもあります。同じように空港に迎えに行って、同じように説明をして、同じように学校見学してれば、誰が誰だか分からなくなるのも無理ないです。50人とか100人くらいだったら覚えられるけど、700人とか800人になってくると、「うう、名前に見覚えはあるが、どういう人だっけ?」という話になってきます。なんか特徴的なことをすると覚えているのですけどね。着いた早々電子手帳を落としたといって、一緒に草むらを探した、、なんて特徴的な記憶があれば今でも覚えてますけど(^^*)。
総じて言えば、若いときは大雑把にやっていてもなんとかなっていたのが、段々そうは行かなくなっていきますから、徐々に仕事その他のダンドリを綿密にしていく必要があるということです。そして、自分の頭の働きを常に自己チェックしておくといいです。これはもう20代後半になったらやるべきだよなって思いますよ。早期発見早期治療じゃないけど、人間の身体というのは、機械と同じで、メンテナンスをキッチリやってるとかなり長持ちするのでしょう。「昨日の晩飯はなんだった?」ということは誰でもふと忘れたりしますが、そういうときに早々にギブアップしないで必死になって思い出す作業をするとかやってます。バスや電車に揺られてヒマなときなんかでも、「先週は○○さんで、その前は、、」とこの種の思い出し作業をするとかね。
18歳過ぎたら日々が老化との戦いですから、「忘れちゃったー」「わからん」とかいって投げ出さないで、忘れたら悔しがるとか、分からないと腹が立つとか、意識をキープアップしておかないといけないんじゃないかなと思う次第です。
次、問題のフィジカルな老化です。これは問題は多いですよ。
最初にいっておきますが、僕は、一般的に思い悩むポピュラーな老化面では遺伝子的にわりと恵まれている方でして、まずハゲない。これは鬱陶しいくらい髪の毛の量が多いし、良く伸びます。白髪が増えたくらいの変化はありますが、それもここ数年そんなに増えてないです。どうもこの調子ではロマンスグレーにはならんみたいですね。あと、お肌とか皮膚ですが、これも人一倍丈夫な方だと思います。
また、成人病とかその種のこともとりあえず問題ないようです。まあ、あんまり真面目に健康診断受けてないのですが、血圧が高くなるとか、糖尿の気があるとか、そういうことはないみたいです。まあ、オーストラリアで生活環境いいですし、気楽な自営で(そんなに気楽でもないけど)ストレスも比較的少ないって健康的な要因はあるでしょう。日本で働いていた最後の段階は、かなりガンマGDP数値がどうしたとか、胃がキリキリすることも多くなってきてヤバかったのですが、そういうのは無くなりましたね。オーストラリア来てから「胃が痛い」ことってあったかな?と考え込まなくてはならないくらいですから(上記のように記憶力が怪しくなってますから(^^*))、まあ、恵まれている方でしょう。
じゃあ、何が問題なのよというと、もっとゼネラルな部分です。
なんというのかな、10代の頃は、道に穴が空いてたり段差があったりしても、ほとんど無意識のうちにかわして、軽々と走っていけるとします。それが20代になると、不注意によってつまずいて転ぶようなことが出てきます。その頻度が増えてきて、30代になるとかなり注意してないと転ぶようになります。そして40代になると、これが恐ろしいことに、穴が空いてなくても、段差がなくても、何もなくても転ぶようになります。30代までは転ぶにしてもまだ「原因」があるのですね。40過ぎると原因がなくなる。これ、怖いですよー。
何を言ってるかというと、10代はかなり無茶をしても風邪をひいたり体調を崩したりしないです。土砂降りの冷たい雨に1時間以上打たれて歩いて帰ったって平気だったりします。それが20代になってくると、やっぱり風邪ひくようになります。それも3回濡れて1回風邪ひくのが2回になり、、と頻度が増えてきます。30代になるとまず風邪を引くのは当たり前になり、それもびしょ濡れになって身体を冷やすという超分かりやい原因でなくても、バスがこなくて30分くらい夜風の中で待ったとか、コタツでうたたねをしたという程度のことでひくようになってきます。だから無理がきかなくなってきます。徹夜もできるけど、したあとが大変という。そして40代になると、なんにも悪いことしてなくても体調を崩すようになります。風邪というほど明確なものではなく、「体調を崩す」という感じなのですが、ほんと原因もなく、病気でもないのだけど、体調不良になるという現象が生じてきます。
これは30代くらいからポツポツ生じはじめ、最初は「嘘?なんでや?」と思いますよね。
別に咳が出るわけでもないのに、別に熱が出るわけでもないのに、なんでこんなに身体がダルいの?なんでこんなに頭が痛いの?なんでこんなに気力が出ないの?と、なんか騙されているというか、馬鹿にされているというか、とりあえず腹がたちます(^^*)。「くそおお、なんでじゃあ」って。しかし、それも回数が重なるにつれて、そういうもんだと受け入れざるを得なくなります。
そんでもって、いろいろ法則性を研究したりするわけですけど、これがまたよう分からんのですよ。法則性がわかれば対策も立てられるのだけど、わからんから、ある日ある時天から降ってくるようなものです。法則性も、最近になると、「どうも晴れてると良くて、雨が続くとダメらしい」とか、「ほんとか?」みたいな法則性に至ったりしています(^^*)。
結局、なんというのか、身体全体のアイドリングというか、エンジンの回転数というか、基礎代謝というか、、、が落ちているのでしょうね。僕らの身体は毎日毎秒沢山の病原体を吸い込んでますし、それを白血球とか免疫システムとかが頑張って撲滅してくれているのでしょうが、そのシステム自体が緩んでくるのでしょう。詳しい話はわからんけど、自律神経なんかの調節もときどきおかしくなっていくのでしょう。なんというか、パソコンが老朽化したとか、不正終了を繰り返したOSが段々ファイルが壊れてきて妙な動きをし始めるとか、内部派閥とかゴタゴタがあって組織が組織として機能しにくくなるとか、腐敗してきて職員のモラールが落ちてくるとか、その種のゼネラルなことなのでしょう。ゼネラルなだけに対策が立てにくいのですね。パソコンだったら、もうこの際新しいのを買おうかという対策もあるけど、身体ですからねー。もう一回死んで生まれ変わろうかってわけにはいかんですよね。
やっぱり健康的な生活をして、よく食べて、よく動いて、エクササイズもやって、、という一般的な話になります。が、エクササイズは確かに効果あるのですけど、腹が立つことに(なんか腹立ててばっかりですね)、ちょっとオーバーワークになると、それが原因でまた体調を崩すという話になります。そのオーバーワークの境目が、年々さがってるわけですね。いきなり汗びっしょりやるともうだめみたいな。その見極めがまた面倒くさいという。もう、徐々に徐々に身体を立ち上がらせていかないとならないのだけど、そこまで綿密に考えてやってらんないって話もあります。それなりに忙しいですからねー。
おそらくですね、若いときから身体のあちこちにデコボコはあったと思うのですよ。ちょっとここが過剰だとか、ここが足りないとか、完璧にフィットしてたわけではないのでしょう。でも、全体に生命力が強いから、多少のギクシャクは表に出ないでやれたのでしょう。しかし、全体の生命力が下がってくると、どうしようもなく露呈してくるのでしょうね。例えば、姿勢が悪いとか、足の長さが左右で違うとか、下顎の噛み合わせが悪いとかいうのは、身体のバランスを悪くするので肩凝りを生じさせますが、若いときは血管筋肉も柔軟だし、十分な血流を維持できた、だから肩が異様に凝るということもないです。でも、血管の筋肉あるいは肩周辺の筋肉が老化してくると血流阻害が起き、それが肩凝りを生じさせるようになると。そして、凝った肩をかばうために、ますます不自然な姿勢になり、それがまた身体の別の部分に過大な負荷をかけ、それが原因で、、、と、どんどん波及していくのでしょう。肩凝りなんかまだフィジカルにわかりやすいのですが、セロトニンの分泌がどうのとか、内分泌系になるともう何がどういう因果関係でどうなるのか、全然わからんですよね。
そうなってきますとですね、なんだか分からんけど地引網的に「トータルに健康的な生活」って感じでやってかないと対策のたてようがないです。そうなった時点で、もう無茶が出来なくなる。「気合とパワーで一気に解決」という若いときからのお得意のパターンが封印されてしまったりして、動きにくくなります。なんでもそうなんですけど、どんなに緻密に計画をたてても、現実にそれを実行すると、細かいところで破綻が出てきます。そして、その破綻を補修するためには、「えいっ」とかいって亀裂を飛び越えるように、強引になんとかしていく必要があります。無理やりパワーのジャンプ力ですね。これが結構大事なんですよね。ところが、「えいっ」とかいって飛ぼうとしたときにギックリ腰になったりしてたら目も当てられないわけです。そうなると、さらに緻密に計画を立てることになってきます。ここで前半に書いた部分とリンクするのですが、身体能力が落ちる分だけ頭が賢くならないとやっていけないってことですね。
しかし、「トータルに健康的」と言われてもねえ、、って部分もありますよね。
で、今にして分かるのですが、なんでそんなにロイヤルゼリーとかクソ高いお金を払って皆さん買うのかとか、なんたら健康法とかいうのが流行るのかと。「そうかー、そういうことだったのか」って(^^*)。まあ、僕は今でもロイヤルゼリーなんか買いませんし、○○健康法なんかも特にやってはいないですけど、気持ちはわかるようになりましたね。
それと同時に、若いときから病弱な人とか、身体の弱い人の気持ちもわかるようになりました。よく体育の授業で見学してる人です。昔も「気の毒に」とは思ってましたけど、実感的にはわかってなかったですね。兼好法師の「徒然草」に、「友達にしちゃいけないタイプ」という話がありまして、そのなかに「やたら健康な人」というのがありました。やたら健康な人は、健康でない人の気持ちがわからないから、友達には向かないという。いまさらながら「なるほどー」ですね。
この話、まだ続きますが、今回の分をまとめておきます。
これは特に20代くらいの若い世代の人にお伝えしたいのですが、僕がそのくらいの年にはあんまり教えてもらえなかったことですが、老化現象というのは、世間で一般に言われているようなポピュラーな花形役者ばかりではないということです。やれ髪の毛が薄くなるとか、皺が増えるとか、糖尿で食餌制限をするとか、肝臓が弱ったので酒が飲めなくなるとか、、、そういうことばっかりではない。もっと日常的に、鬱陶しい現象が起きてくるということです。イッコイッコはたいしたことないのですが、それだけに面倒くさい。
それは何かというと、これまで信じて、アテにしていた自分自身の性能が落ちてくるということです。
まったく自覚もないまま、頭の中のある部分の記憶データーが消滅することであり、まったく前兆もないままある時バッタリ倒れるように体調が悪くなるということです。そして、これらの現象が、ほとんどランダムに発生するということです。もちろん、生体のメカニズムを精密に観察すれば、そこには必ず因果関係はあるのでしょうが、あまりにゼネラルであるがゆえに、あまりに広範囲で複雑な因果関係らしく、原因も対策もわからないから、事実上ランダムと同じということです。あるとき、どこからともなく暗闇から矢が飛んでくるようなものです。
それは防ぐには、まあ完全に防ぐの不可能にしても、減少させるためには、常日頃のメンテナンス&チェックだと思います。健康診断を受けろということではなく、忘れる度合いが増えてるかどうか意識的になるとか、このくらい無茶をするとこのくらい体調が悪くなるという関係をちょっと自覚的に検証しているとか、そういうことです。「あー、もー、俺もトシだよな」とか雑駁な感想で終わらせないで。
文責:田村
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