今週の1枚(05.06.27)
写真は、休日のNewtown近くの公園
ネタ捜しに新聞サイトを見てましたら、少子化という文字がやたら目に付きました。2004年の日本の出生率は過去最低の1.29を記録したそうで、えらいこっちゃという話になってます。
このエライこっちゃの少子化傾向ですが、別に日本だけの話ではないというのはよく指摘されています。
実際のところどうなんだろと思って調べてみたら、内閣府政策統括官(共生社会政策担当)のホームページの少子化高齢化対策が比較的データーが揃っておりました。そのなかの「平成16年版少子化社会白書」国際比較の項目を見ると、一番新しいデーターでの出生率の世界平均は 2.69 でありました。個人的に思ってたより全然少ないです。日本は少子化か人口減少とかいってますが、地球規模では人口が爆発的に増えるのが大問題と言われてますから、出生率もガンガンに凄いのかと思ってましたが、2.7くらいだったら比較的おとなしい数字に感じます。
実際、戦後の1950-55年の世界平均の出生率は、5.02もありました。5以上の出生率がわずか半世紀で約半減しているのですから、少子化は地球規模での傾向であるといっていいと思います。
各国の出生率の数値ですが、これはずらっと一覧で載っている資料はありませんでしたので、あちこちのサイトからつまみ食い的に取り出してみます。統計年度も信憑性もバラバラなのですが、日本がまだ出生率1.35時代に、それより出生率の少ない西欧諸国は、ギリシア、イタリア、スペイン、ドイツという資料がありました。西欧諸国で2を超えているのはアメリカだけ。あとは軒並み2未満。その時点でのオーストラリアは1.75でした。別の出典によると、ヨーロッパの平均出生率は1.38。また日本が1.29の数値を記録した時点においても、イタリアはもっと低く、たしか1.17とかそのくらいの数値でした。一方、日本以外のアジア諸国ですが、これも出生率が高そうでいてそうではないです。香港が0.94、台湾が1.24、シンガポール1.25、韓国1.17とかいうことを書いてあるサイトがありました。
というわけで、少子化に関して言えば、We are not alone であり、We are one of them.です。日本だけではなく、世界的な傾向だということがわかります。
「そんなこと知ってるよ」という人も沢山いるでしょうが、本当にわかってるの?という気もします。別にイチャモンをつけたいわけではないのですが、日本での議論をみてると、なんか日本に特殊な現象のような感覚が漂ってるような印象を受けたのですね。主語がだいたい「日本は〜」で論じている。「日本の少子化傾向は」とか「世界は」という書き方ではない。もちろん、「日本は」と論じても、それはそれで間違ってないですよ。ただ、世界にある程度共通して生じている現象だという前提でモノを見るのと、日本だけの問題としてみるのとでは、問題に対する理解の仕方や、アプローチの仕方も変わってくるんじゃないかなと思うのですね。
つまり、どうして少子化は起こるのかとか、どうすればいいのかを論じる場合、日本独自の問題にあまりこだわり過ぎない方がいいとは思います。例えば、日本は子育て環境が良くないとか、日本の労働環境がどうとかその種の指摘があります。勿論そういった問題はあるだろうし、改善すべき点は多々あるとは思います。しかし、では、日本からみて良いとされている西欧的な家庭・職場環境になったら問題は解決するのかというと、あんまりそういう感じでもないですよね。だって本家のヨーロッパだって少子化は起きてるわけですから。エピュキュリアン(快楽主義者)的に生活を楽しむという、世界に名だたる”遊び人国家”のイタリアだって出生率は低い。逆に、日本以上に儒教文化が浸透し、長幼の礼とか家意識が強く、人によっては「淳風美俗」「古き良き日本」と感じられるであろう韓国においても出生率は低い。女性がバリバリ働けるようなイメージのある香港だって低い。ねえ、社会を右に動かそうが、左に動かそうが、似たり寄ったりじゃないですか?
最近の日本の若い人は、やれパラサイトだのなんだの言われてますが、これは西欧諸国でも同じようですね。いい年して両親と同居し、「ママといっしょ」という若者が増えているというのは、イギリス、イタリア、スペイン、ドイツでも似たり寄ったりって感じです出典はここです。
その一方で高出生率を誇ってる国々はどこかというと、たとえばソマリア(7.25)、アンゴラ(7.20)、エチオピア(6.14)だったりします。しかし同じアフリカをみても、アルジェリア(2.80)、モロッコ(2.75)、南アフリカ共和国(2.61)などは比較的低い数値です。
これらの傾向を乱暴な表現で一言でいってしまえば、高出生率の国々には失礼ながら、「貧乏人の子沢山」というのが共通の傾向としてうかがえると思います。有名な「人口転換理論」です。人類の歴史上、最初は多産多死という時代が続き、産業革命や経済発達に伴い他産少子になり、さらには少産少子になるという普遍的傾向があるという理屈です。豊かになるに連れて出生率が下がっていくという。これは自然界ではもっと顕著ですよね、魚なんか何千万、時として億単位の産卵をします。マンボウだっけな、1回に2−3億産卵するとか。すごいですよね、出生率3億ですもんね。1.29とか小数点以下2桁の数値を深刻に議論してる人類からしたら豪儀なものです。でも、逆に、2億生んだら、1億9999万9999匹の個体は成長するまでに死ぬということです。生存率2億分の1。
まあ、マンボウと比較出来るわけないのですが(^^*)、なんで少子化が起きているかというと、「豊かだからだ」ということになるでしょう。なんで豊かだと子供が増えないのか?このあたりは社会学というよりは生物学的に面白そうです。面白がってる場合ではないのでしょうが。
生存環境がハードであればあるほど、生物は子作りに励むようになる。それは種族保存本能からすれば、きわめて合理的な行動です。沢山産んでおかないと、どんどん個体数が減少して絶滅してしまうからです。じゃあ、生存環境が向上したら子作りに励まなくなるのか?といえば、ここ数十年地球規模で起きている現象はそうですよね。なぜか?種族保存にそんなに必死にならなくていいからなのでしょう。
とまあ、理屈は通っているようなのですが、「ほんまかいな」という気もちょっとしますな。大自然という「神の掌」の上で人間が遊ばされているのは認めるにしても、そんなにメカニカルに「大自然の意思」が発動し、実行されているって言われてもね、なんかねー、ちょっとねー、「おはなし」としては分かるけど、具体的にどういうメカニズムでそうなるのかよう分からんです。たしかに自然のやることはメチャクチャ巧妙で、レミングの自殺行進もそうですし、個体数が増えた蝗(イナゴ)は、長距離飛翔型の飛蝗に身体が変わっていくといいます。あと、なんだったかな、なんかの昆虫だったか魚だったか、オスばかりあるいはメスばかり集めて飼っているとその半数がオスからメスに自然に性転換しちゃうとか。ある状況が長く続いてそれで遺伝子に変化を及ぼし、進化するとかいう長期レベルの話ではなく、数ヶ月レベルの短い期間で変身してしまうというのは、最初からそういう特殊機能が身体の中に埋め込んであるってことなのでしょう。
人類が豊かになりだしたのは、たかだかここ数百年のことであり、また出世率の顕著な現象はここ50年ほどの話です。せいぜい1−2世代の短期間で、そんなに遺伝子的になにかが変わるわけはないから、もう最初から人間の身体の中にはそういうメカニズムが埋め込まれていたということでしょう。つまり人間が増え、豊かになってくるにつれてあんまり子供を産まなくなるというメカニズムがある、と。
OK、それはわかったとして、次に疑問になるのは、それはどういうメカニズムでそうなるのか、そしてそれを実行してる人間にはどういう具合に感じられるのか、です。メカニズムというのは、例えば、例えばですよ、環境がハードで種族保存が危ぶまれるような状況を示すものとして幼児の死亡率が高いという事態があるとします。そして幼児の死亡率が高くなると子作りに励みたくなるように人間の身体には初期設定が埋め込まれているのかもしれません。そのメカニズムは、例えば、幼児の死体からのみ発せられる特殊の化学物質があって、それを吸引摂取した繁殖可能な人類の成体は性腺刺激ホルモンだかどこだかを刺激され、発情する、、、とかね。いや、僕自身そうは思ってないですけど、なんかしらそういうメカニズムがあるはずでしょう?なにかをすると脳内麻薬のエンドルフィンを分泌させ、なんたら中枢やら、なんたらホルモンを刺激し、、、、とかよく言うじゃないですか。生物反応というのは、煎じ詰めれば生化学反応というケミカルなものでしょ。もし、自然のメカニズムとして、ナチュラルに産児制限が起きるのであれば、それなりのメカニズムはあるでしょうってことです。このあたりの複雑な話は、生物学者、生化学学者さんの研究にお任せしますが、でも、なんかある筈ですよ。
僕がこういった自然の身体メカみたいなものを想定するのは、結婚するとかしないとか、子供を作る作らないというのは、個々人の意思のレベルの話ではないと思うからです。個人の意思ももちろん要素としてあるでしょうが、それだけではないし、そもそもその個人の意思をメカニカルに操っているカラクリがあるだろうと。「女性が安心して子供を産んで育てられるような社会にすること」が少子化対策になってますが、これ自体に異論はないし、それに対して努力も税金も惜しむべきではないと思います。しかし、安心できるようになったから、さあ結婚しましょ、セックスしましょってもんでもないんじゃないかなあって思うのですよ。
だってさ、「安心して子供を生めるような社会」なんか、はっきりってこの人類の長い歴史において、ただの一度も無かったんじゃないかって気もするのですよ。また現在の地球での高い出生率を記録している国々が「安心して子供を生める国」かというと、別にそんなことないです。ソマリアの内戦なんか激烈で、事実上この10年以上国家政府は無いに等しいです。1991年にバーレ政権が崩壊したあと、「ソマリア」という公式国名はなくなり、現在も公式な国名はないままです。国名すら決められないくらいドンパチが激しいのです。近時の状況だけでも、人口800万人のうち、50万人が餓死し、100万人が難民として周辺諸国に逃げてます。ある意味、この地球でもっとも「安心して子供を産めない社会」かもしれない。そのソマリアで出生率が7.25と高いのは何を意味しているのか。
それはレベルが違う、話が違う、状況が違うと言われるかもしれません。乱暴な議論であることは認めますが、でも、ここでほぼ確実に言えることは、ソマリアの女性たちは、安心できなくても子供を産んでるということです。勿論、避妊技術や用具の不足、戦時中における強姦、性交渉や出産への拒否権が女性にないということも出生率を押し上げる原因になってはいるでしょう。でもね、そればっかりってことは無いはずですよ。出生率7.25のうち半分まではそうだとしても後の半分はナチュラルな出産じゃないですかね。それが仮に8:2の割合だとしても尚も日本の出生率よりは高いでしょう。
ソマリアまで例を求めなくても、昔の日本だって今以上に安心なんか出来なかったと思いますよ。戦争中は言うまでもないですが、戦後の経済成長とかいっても、その時点その時点でいえば危機の連続だったでしょう。やれドルショックがあるわ、オイルショックがあるわ、森永ミルク事件はあるわ、子供の連続誘拐はあるわ、公害被害はものすごいわ、受験戦争だわ、交通戦争だわ、、、安心なんてとても出来なかったでしょう。逆に言えば、生活とか人生に「安心」なんて単語を持ち込んで使い始めたのが、せいぜいここ10年か20年の傾向だと思います。「安心?けっ」って感じで、僕自身はすごい違和感のある言葉でしたので、「やたら誰も彼もが言うようになったな」「くだらん幻想がはびこってきたな」という記憶があります。
生物学的なメカニズムや大自然の法則でいっても、人類の歴史をみても、さらに今この瞬間の地球の現実からいっても、安心できなくても子供は生まれるし、安心できない方が沢山生まれるといっていいと思いますよ。
だからといって、出生率をあげるためには、もう餓死者が続出するくらいどんどん社会を乱して、安心できないように仕向ければいんだなんて言ってるわけでないです(^_^)。また、女性が安心して子供を生める社会にするためのあれこれの政策や努力が無駄だとか逆効果だとか言うつもりも全然ないです。それらはガンガンやるべきだと思います。ただ、安心できるかどうかは、子供が生まれてくるための主たる原動力ではないんだろうなってことです。人が、「肌を重ねたい」「ずっとこの人と一緒にいたい」「子供が欲しい」「この人の子供がほしい」と思う原動力というのは、「おながが空いた」「眠たい」というのと同じような、もっと強力な身体感情、身体現象なんだろうと思うわけです。「周辺状況の整備がととのったようですので、では、ひとつ」という感じでセックスするわけじゃないんだろうな、そんな駅前再開発計画みたいに粛々とやってるわけじゃないんだろうなってことです。
では、人を子作りに向かわせる強烈な「身体現象」ってなんだろう?どういうメカニズムでこの現象が増大したり減少したりするんだろうなってのが次の興味です。
なんとなく仮説はあるんですね。
それは、ある程度ハードな環境でないと、人間に備わってる動物的・野性的なメカを使わなくなるから、そのあたりがナマってきて、生命現象みたいなものが希薄になっていくんじゃないかってことです。
スポーツをやってる人はお分かりかと思いますが、身体を激しく動かし、身体機能を使うと、健康に疲れ、健康にお腹がすいて、健康に眠れるようになるでしょう。常にそうなるとは言いませんが、そうなる傾向は厳然としてある。同じように、人間が生きていくためには、ある程度のハードシップがあることが前提になっている。原始時代だったら、とりあえず食糧を確保できなければすぐに餓死するわけだし、天変地異や気象の変化にもろくもやられてしまうし、疫病にも無力だし、野生動物に殺され、他の部族に殺される。ほんと、生きているのがめっけもんみたいな過酷な環境にいるわけです。でもって、今も昔も野生動物はそういう環境にいるわけですし、「自然」というものは本来そういうものなのでしょう。人間には、そういった状況で戦って生きていけるだけのメカが本来的に装備されているのでしょう。装備されていなかったらとっくに絶滅してますしね。キリスト教のお祈りで、晩御飯に皆で「今日も家族全員に生き長らえ、無事にゴハンを食べられることを主に感謝します、アーメン」と言ってますけど、昔はメチャクチャ実感のこもった言葉だったと思います。明日誰が死んでも不思議ではないって感じだったのでしょう。
ところが生活環境が向上し、その種のハードさがなくなってきたら、そういった生存のためのメカニズムも使わなくなるし、さび付いてくるのでしょう。それにともなって、人間の動物的な側面、あるいは「生き物としての活き活きした生命感」みたいなものが減ってくるのだろうなって気がします。そして、その生命感の衰退が、性欲や、異性とのナチュラルな接触欲求を減退させるのかもしれない。
化学のメカ的にどうなるかはわかりません。が、そういう現象が生じている当の人間にどう感じられるかといえば、これは分かります。「あんまりそんなにしたいとは思わない」「別に、必要ないって感じ」という無関心/無感動になって現れてくるのでしょう。それはお腹が猛烈に減ってるときにゴハンの話をするのと、お腹が減ってないときにゴハンの話をするのとの違いみたいなもので、足りていたらナチュラルに無関心になるってことだと思います。だから、結婚しない人とか、子供を産まない人に、「なんでじゃ?」と責めてみても始まらないと思います。あなたがお腹が空いてないときに、「なんでお腹が空かないんだ?」と責められても、答えようがないのと一緒です。
あと、やたら sober/素面、シラフになるというか、頭でっかちになる、頭でモノを考えすぎるという現象になってあらわれると思います。結婚をするべきか、子供を産むべきかとか、それってそんなに理性的な判断でやるもんじゃないと思うのですね。生命力というのはある種狂気をはらみますから、恋愛も人生も、熱ければ熱いほど人はアホアホになります。正常な判断能力なんかなくなりますよね。極度に空腹になって、お腹が空いてどうしようもなくなれば、カロリー計算とか面倒なこと考えません。皿に顔をぶつけるようにしてガツガツ食うことしか考えないでしょう。逆に言えば、正常な判断能力を保ってる間はダメなんでしょうね。生涯年収とか、将来の家計とかをしれっと計算してたら恋愛もヘチマも出来ないと思います。明日死刑を執行される死刑囚に恋してしまうみたいに、どう考えても絶対破滅的なんだけど、それでもやっちゃうというのが「正しい」恋愛であり、自然にそうならないならしなくてもいいんだろうなって思います。
ここでふと思いつくのは、古い言葉ですがリゾラバってあるでしょう?スキー場や南の島などのリゾート地にいくとやたら異性が魅力的に見え、恋が芽生えるのだけど、都会に戻ってきてから会ってみると、「なんだ、こんな奴だったのか」と色褪せて見えるという。これはリゾート環境がもたらす錯覚、単なる心理現象だけじゃないんじゃないか?と。もしかしたら、日常生活よりも自然環境が豊かなところで過ごしていると、人間の中にある本能的な動物性が起動してくるのではないか。人間も、本来の姿に戻れば、外野でやいやいけしかけるまでもなく、勝手に男女がひっついて、すぐに子作りに励んでたりするのでしょう。それが自然の姿なのでしょう。
「メイティング」という言葉があります。”mating”です。動物が、交配や交尾のために互いにひきつけ合おう、一緒になろうとする行動をいいます。ようするにナンパして、イチャイチャして、セックスする一連の行動ですね。メイトというのは、mateで、シェアメイト、クラスメートのメイトで、仲間とか、友達とか、結婚する、交尾するという意味があります。オーストラリア式発音では「エイ」が「アイ」になるから、メイトが「マイト」になり、有名な「グッダイ、マイト/ Good day, mate」になります。オーストラリアにおける mate という単語はかなり一般的で、黒人英語でいうブラザー、bro, みたいなものであり、関西弁でいう「連れ」みたいなものだと思います。
友達も、単なる知り合いも、そして恋人もひっくるめて同じ単語で間に合わせてしまうのは、なんだか大雑把過ぎるような気もしますが、でも、意外とそれが本質的なのかなって気もします。「自分にとっての親しい人」「自分に関係している人」というのは、動物が生きていくにあたり、かなり重要な要素なのでしょう。そしてメイティングですが、人間なんかほっておいたらメィティングするのでしょう。メィティングというのは、なにも直接的にセックスやその前提としてのナンパだけを指すのではなく、さらにその前提、異性の前でいいところを見せたいという意識や行動、さらに異性の視線を意識してしまうということもメィティングなのでしょう。さらに広げれば、見知らぬ人間同士が、なんとはなしにひきつけあって、上手くやっていくということもそうなのでしょう。
そしてリゾート地に行ったら、この自然なメイティングをやるようになるのでしょう。
動物園で、繁殖のために、雄と雌を同じ檻に入れて見守るとか、今年はうまくいかなかったとか言いますが、あれと同じなのでしょう。環境が整わないと動物だって「その気」にならないし、それは人間だって同じなのでしょう。
ということで、ポーンと結論につなげてしまえば、少子化というのはなぜ起こるのかといえば、メィティングのための自然環境が整ってないからであり、どうすればいいのかといえば自然環境を整えればいいってことなのでしょう。言葉にしちゃえば簡単なのですが、じゃあ「自然環境」って具体的に何よ、どうしたらそれが整うのよ?というと、また分からなくなっちゃうので、これは回答というよりも、問いを別の表現で言い直しただけなのでしょうけど。
さて、少子化というのはそもそもそんなに問題なのか?というと、どうなんでしょうね。自然が本来もっている抑制メカニズムが作動してるだけって考えたら、それは正しく少子化してるわけで、自然的にはめでたい話なのでしょう。ただ、そういう大きな話だけで終わるわけにはいかないのが現実です。とりあえず子供が少なくなる、若年人口が絶対的にも相対的にも減るということは、労働生産人口、もっと直接的にいえば納税人口が減るということで、これまでの年金をはじめとする社会保障システムは、その前提となる人口構成を失うから崩壊します。まずもってこれが一番の問題です。次に労働人口が減少するから国の生産性が落ちる。これは国際競争力の低下をも招き、結局日本の経済的現状というものが崩壊する。第三に、子供が少なくなると子供社会というものが希薄になり、成長に過程における社会性の欠落、ひいては人間性の欠落につながるという危険。このあたりが危惧されているところでしょう。でも、まあ、もっぱら第一の点、社会保障の崩壊というのが一番大きいのでしょうね。
社会保障の点でいえば、将来的に無限に減りつづけるのか、それともどっかで減り止るのかという見通しの違いがあります。もしどっかで減り止るのであれば、減り止ってからは、若年人口も老齢人口もトントン比率になるでしょうし、そこから先はOKになるわけですよね。だから、生じる問題は全て過渡的な問題であり、この先50年くらい一時的にシンドイ思いをするだろうけど、それだけってことになります。まあ、「それだけ」って言うけど、これを読んでるくらいの年齢層の人の年金や老後がメチャクチャになるってことですね。当事者にとってみればドエライことだと思いますが、大局的に見ればワリを食う世代層が”一時的に”いるというだけでもあります。
もし下げ止まらないで延々減り続けるのだとしたら、理論的には日本人という存在が消滅するわけですが、こういう先細りの場合、社会福祉構造は根本的に変えないといけないでしょうね。「後の世代のサポートは絶対に無い」という前提で計算しないといけませんから。ただ、延々と減りつづけて最後には誰も居なくなっちゃうとは思いません。ある程度減ったら、また自然のメカニズムが作動すると思いますし、その過程で非常に生活環境がハードになるでしょうから、そうなればまた人間の動物性を促すスィッチが入ると思います。
だから過渡期のガタガタですよね、対処すべきは。
でもって、とりあえず「諦めてもらう」というのが一番簡単な解決(?)方法ですよね。今の50歳から下の世代はまず絶対に年金なんかゲットできないよと諦めてもらう。でも、そうすれば上の世代を養うのも馬鹿馬鹿しいから益々皆も年金払わなくなるから、年金システムは事実上崩壊するでしょう。でも年金が崩壊したらしたで、今度は税金で払うことになるわけだから、物凄い高税率になる。しかしあまりに税金が高いと企業も個人もヘタって益々納税額が減るから、自ずと搾り取れるギリギリというリミットは出てくると思います。徳川幕府に「百姓は生かさぬよう、殺さぬように」と言葉がありましたが、あれは統治の基礎テクニックなのでしょう。だから生かさぬように、殺さぬようギリギリまで生き血を搾り取られるでしょうね。それでもおそらく年金支払額には満たないと思いますから、そこから先は高齢者にも諦めてもらうと。だってこういうシステムを作ったのは上の世代なんだし、年金制度が衰退するというのは30年以上前から言われていたことだし、それまで抜本的な手を打ってこなかった自業自得ってもんでしょう。
だけど、これは改めて僕が言うまでもなく、皆さんもう覚悟してるでしょ?日本人の群を抜いて高い貯蓄率というのは、裏返せば生活防衛は結局は自分でやらねばならないという覚悟の現れだと思うし、それだけ民主主義が浸透していないこと、国家政府を自分の思いのままコントロールできないという自信の無さの現れだとも思います。
過渡期のゴタゴタを除外して考えたら、日本程度の国土であれば、人口が半減したって別にいいんじゃないかって思いますよ。人口2000万人で日本の国土の22倍の広さの国に住んで日本を見てると、「別にそんなに要らないんじゃない?」って気がします。前回までシドニーの人口急増問題を取り上げましたが、人口が増えすぎて困ってるといっても日本の首都圏からしたら屁みたいな人口密度です。それでこれだけ困るのだから、日本だったらもう5分の1くらいまで減っても大丈夫という気はしますよ。その分納税額も国家予算も減るわけだけど、オーストラリアの国家予算は東京都の予算と同じらしいですからね。東京都の予算分のお金があれば、日本の22倍の国土を治め、失業保険は一生支給され、年金は掛け金方式ではなく税金から出て(年金掛金をおさめなくても支給してもらえる)、しかも陸海空の三軍を装備して、、、というくらいの国家社会は作れます。そんなにお金も人も必要ないです。要は「やり方一つ」だと思いますよ。
だから、低予算高能率という、燃費のいい国家政府を作れるかどうかだと思います。そのためには、イチにもニにも民主主義の浸透でしょうね、必要なのは。これはタテマエで言ってるのではなく、本気で。民主主義というは「治者と被治者の同一性を担保する政治形態」といいますが、要するに「キミは政府の人間、支配する人。ボクは庶民、支配される人」というニ分割メンタリティを徹底的に壊すことだと思います。「日本国は、俺が仕切る!」と一人一人が普通に思えるかどうかですよね。そして国家社会がダメダメになったら「ああ、俺のせいだ」と思えるかどうか。これって中々思えないですから、やっぱり痛い思いをするしかないんでしょうね。こんなろくでもない政府官僚機構を作ってしまったから、こんなろくでもないことをやられてしまって、その挙句に自分が情けない老後を送ると、それで「ちっくしょー」と腹の底から思わないとダメなんじゃないかな。「安心して子供を産めないから産まない」というのも本来的にいえばスジが違う話で、子供を産むのは既定事項であり、だから「安心して子供を産めるような社会に自分たちがする」「子供たちの幸せのためにいい社会にして手渡してあげる」というのがスジなのでしょう。
それは、まあ、一種の革命みたいなものですが、それが起きるかどうかですね。全然そうならないかもしれないですよね。この国はかつてそうなったことがないですからね。百姓一揆はちょくちょく起きたけど、それが全国的な倒幕運動につながることはなかったです。明治維新を成し遂げたのは、黒船がやってきて、国際的危機を直感した下級武士階級ですし、それは自分たちの生活向上を願ってやったわけでもない。だからフランス革命みたいに市民闘争、生活闘争ではなく、一種の政権闘争、クーデターだったのでしょう。今後も、日本の国際競争力が地に落ち、逆に経済発展を遂げた中国のおこぼれをもらい、中国人の奴隷のようになって日本人が生きていくようになったら、同じように憂国的パワーが炸裂して、「馬鹿野郎、ナメんじゃねえ」って盛り返すかもしれませんね。そっちの可能性の方が高いかもしれない。
あと、話は変わるのですが、あんまり自然環境が整っていない状況、つまりナチュラルに人恋しくなり、ナチュラルに人懐こくなる環境が整ってないのに、やたら子供を増やすべきでもないって気もします。なぜなら、あまり動物的、人間的でない環境で子供を育てると、親も動物・人間的じゃないから変な育て方をするだろうな、そうなると益々人間的でない、感情の乏しい、無表情で、精神を病みやすい子供(やがては成人)が増えてくるだろうし、そんなのばっかり増やしたってしょうがないだろうって思うのですよ。元気に前向きに働いてくれて、社会を支えてくれるかというと、逆にお荷物になるだけじゃないか、犯罪とかろくでもないことをして却って面倒な事態になるんじゃないかって気もするわけです。
先ほど、自然環境が整ってないと、やたらSober(シラフ)になるといいましたが、狂気のような恋愛を経て、子供や孫に誇らしげに語れるレジェンド(伝説)を持ってるカップルに育てられるからこそ、その子は正しく動物的に、人間的になるのではなかろうか。とりあえず、今出来る対策としては、皆さんあんまり小ざかしくならないようにするってことでしょうか。これからの時代、生き抜いていくには、ナイフのように鋭い現状分析と洞察力、それを実行していける鉄の意思が必要だとは思います。ハガネのような理性の力です。でも、それと同時に、それだけ強靭な理性を一瞬にして殺せるくらいの”狂気”を自分の中に飼っておくこともそれ以上に必要だと思います。
「狂気」というと犯罪的な禍々しい響きがありますが、古い日本語でいえば「物狂おしさ」ですね。あれほど理性的で有能だった人が、ある日全てを捨てて駆け落ちするとかいう、炎のような情念です。だって、それがなかったら生きてたって面白くないでしょ。一生事務作業みたいなことをやって死んでいってどうする?と。連日連夜徹夜の勉強をして、日々必死に働いて、やっと築き上げたキャリアというのは、なんのためにあるかというと、僕個人の美学では、壊すためにあると思います。ドミノ倒しみたいに、必死になって作り上げて最後に壊す。壊すために作る。あれだけ長年かけて作ってきた地位もキャリアも、ひとりの異性のために、あるいは世間的には愚にもつかない情熱のために(UFOの基地を捜すとか)、あっさりぶっ壊すんですわ。壊すキャリアは高ければ高いほどいいです。それが、まあ、カッコイイよねって僕は思うのですが、あなたはそう思わんですか。思わんかもしれんな、。。
ほんでも、身内褒めになって恐縮ですが、僕の両親は、駆け落ち同然に結婚してます。バッキャロー的なイキオイで家をおん出て、年末も押し迫って結婚式場がヒマなシーズンに強引に結婚式を挙げたといいます。そのレジェンドは、やっぱり自分の血や魂の中に流れますよね。僕はそれを誇りに思いますし、ある意味それが支えになってる部分もあります。
というわけで少子化とかメイティングは一定の環境変数によって出てきた結果であり、それをなんとかしようと思ったら、環境自体を変える必要がある。でも、一朝一夕にそんなもん変えられないから、まず今日から出来ることでいえば、皆さん一人一人が、映画の主人公みたいにドラマチックに激しく生きること、生きようと思うことです。そしたら、「いつもよりたくさんフェロモンが出ております」みたいな感じで、メィティングも自然になるのかなって気もします。問題は、まあ、どうやってドラマチックに生きられるかってことだとは思うのですが。
文責:田村
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