今週の1枚(01.10.01)
雑文/解毒酵素
つい最近、村上春樹氏の「約束された場所で」という本を読みました。
ご存知の方も多いと思いますが、オウムのサリン事件の被害者の方々をインタビューしてまとめあげたのが「アンダーグラウンド」、逆にオウムの人達へのインタビュー集がこの「ポスト・アンダーグラウンド/約束された場所で」です。
非常に面白かったです。アンダーグラウンドも面白かったけど、こちらの方がもっと面白かった。
ここで「面白い」という言葉を使う事を不謹慎であるとも何とも思いません。なぜなら、単なる"fun"ではなく、知的な示唆に富む "interesting"という意味で面白かったからです。
巻末に河合隼雄氏との対談が載ってるのですが、これも又、脳細胞をピキピキ刺激するものでした。 いちいち引用するのはキリがないので止めますが、かいつまんでピックアップしてみると
・人間にはメチャクチャ冴えてて連戦連勝という時期があり、恐いくらいに何をやっても成功するときがあるが、そこで喜んだ奴は全部駄目になる
・善意で集まった集団というのは、その善意がピュアであればあるほど、膨大な善意エネルギーが求心力を持ち、そのバランスを支えるために集団の外側に強力な悪を持ってくる傾向がある。いい組織は、外側に悪をもってこなくてもいいように、内部に悪を抱えてバランスを取っている
・この混沌とした世界の中に小さな箱を作ってそのなかで生きていこうとすると、すべて一点の曇りもなくクリアになり、全てに論理的説明がつく、非常にわかりやすい世界になる。これはオウムだけではなく、例えば「戦争」という名の箱に社会が入ってしまえば、大量に人殺しをしても、それは全て「いいこと」として扱われ、説明がなされ、誰も悩まずに済む。
などなど、これらの論説に「ほほう、なるほど」と興味を持たれた方はどうぞ。
結局、その個人なり社会が、どれだけ「世界が本質的にもっている毒」を解毒する機能/酵素を、自前で持っているか、ということなのかな、と思います。
法学部なんぞにおりますと、「正義とは何か?」という浮世離れした議論があったりします。これは、もう、何千年も前から延々論じられていることで、本気でこの問題に取り付かれたら一生かかっても終わらないでしょう。それを、僕なりに極端にダイジェストにしていうと、要するに「説明がつくかどうか」「納得できるかどうか」ということだと思います。
正義には、「均衡的正義」とか「配分的正義」とか、いろいろあると言われますが、例えば、「Aさんは、何の落ち度ももないBさんを殺しました。でもAさんには何のオトガメも無く、その後の幸せに暮らしました」という話があると、僕らは落着かないわけです。なんでやねん?なんでAに何のオトガメもないんじゃ?これじゃBさんは全くの殺され損ではないか?と。そこで、Aさんに、Aさんがやったのと同じだけの「罰」が下されると、僕らはほっとするわけですし、納得もできるわけです。要するに帳尻が合うかどうかですし、この「帳尻の合う」という感じが正義といわれるものの核の一つであろうと。ハカリが一方に傾いたままで均衡しないから、均衡しなきゃだめでしょうという均衡的正義。
あるいは、神様は、Aさん、Bさん、Cさんにお金をあげました。Aさんには100万、Bさんにも100万、でもCさんには50万だけでした。という話で、説明がここで終わってしまったら、非常に不安定な感じを受けるわけです。なんでCさんは50万だけやねん?と。ここで、「Cさんは既にお金持ちだから」「Cさんは前に神様の悪口を言ったから」とかいう、なんでもいいからそれらしい理由や説明が出てきてくれたらほっとするのですが、何にもないと、非常に不公平な配分が行われた気がするし、これはおかしい、正義じゃないという気がします。配分的正義。
このようにすべての出来事に論理的な説明がビシッとつくと、人間というのは安心する生き物なわけで、だから法の世界では、堅苦しいほどの論理を重んじます。よく法律家というと、石部金吉のように何でもかんでも理屈ばかりで、人間的潤いにかけたロボットみたいなイメージを抱かれますが、これは多くの場合間違ってます。なんで理屈や論理を重んじるのかといえば、論理が最も多くの人々に開かれているからです。1+1は、王様がやろうが、乞食がやろうが2になるという、共通言語としての普遍性があるから、便宜的に論理をツールにしてるだけの話です。同時に、それを商売の道具にしてるだけあって、その限界やらいい加減さもある程度わきまえていたりします。個々人レベルにしたら、法律家、とくに弁護士という人種は、むしろ普通の人達よりも人間臭かったりもします。
ところで、この世界というのは、ご存知のように、なんでもかんでも説明がつくというものではない。というか、説明がつかないものの方が多い。マクロでは国際レベルでの不公平が平然とまかりとおるし、ミクロでは友人関係やら自分のココロのなかですら、説明の付かないおかしな現象がゴロゴロ転がっていたりします。ひらたくいえば、不正義、悪だらけです。
この「論理的に破綻しているメチャクチャな現象」を「悪」と呼べば、僕らは子供の頃から日々「悪」に出会って生きてきてます。悪に囲まれて育ってきたといってもいい。例えば、お母さんがなぜかイライラしていて、なんにもしてないのに怒られたりとか、近所の野良猫がやってきて花瓶を倒して割ったことでも、「あなたがやったんでしょう?」と問い詰められて無理矢理自白されて冤罪を食らうとか。それまで仲良く遊んでいた弟妹を、なんの理由もないけど、急にイジメだしてみたりとか。一日一善ならぬ一日一悪くらいの感じで、悪だらけでやってきます。そのうち、「そういうモンダ」で馴染んでいきます。
そんなこんなを過ぎてハタチにもなれば、自分の身体の中に解毒酵素が出来てますから、この世の大抵の悪については、身体の中で解毒してしまえるようになっているという。この解毒酵素をその社会の平均値くらい持っている人を、いわば「普通の人」とか「善良な市民」とか呼んでるのだと思います。
「約束された場所で」で登場してくるオウムの人々というのは、おしなべてこの解毒酵素が弱いという特徴を持っていると思います。つまり、この世のメチャクチャさを、「そういうもんだ」で通り過ぎていくことが出来なかった人で、逆にいえば、それだけ世間知らずではあるのけど、同時に正義感も倫理感も強い人であるという。
中学高校のとき、「この世はなんて出来損ないなんだ」「なんて腐ってるんだ」と、大抵の人は思うでしょう。この世の中をみて、ティーンエイジャーの時期に「これでいいのだ」なんて思えたら、そっちの方がおかしい。僕だって、強烈に「おかしいじゃん!」って思ったし、腹がたった。それまでは、子供時代からなんだかんだで大人達が保護してくれて、それなりに理屈の合う環境を人工的につくってきてくれて、ヌクヌクと育ってきたわけですな。で、そういった人間が、この世のむき出しの悪意に満ちた現実社会に触れていくという過程が、いわゆる思春期であり青少年期であるわけですから、これはもう強烈に反発して当たり前だと思います。そいつに人間力というか、生命力が強ければ強いほど、激しく反発すると思う。
この反発力は、まず多くの場合ロックなどの音楽やカルチャーに共振したりします。アーティストが紡ぎ出す激しい音と言葉に癒されるわけです。癒されるといってもヒーリング音楽のような静謐な音ではなく、神経を逆なでするようなギガギガした音なのですが、そういう音でこそ癒される。なぜなら、この現実を見て「なんだよ、ふざんけんじゃねえよっ!」と思ってる自分の中で鳴ってる音はまさにそれだし、他にも同じように思ってる奴がいること、そいつが自分よりも、「わかりやすく論理的に」世界を整理してみせてくれるわけですから、バランス失調に陥っていた人間にとっては大きな救いになったりもするわけですね。
この時期に、人々は、それぞれに自分なりの解毒回路を構築していくのだと思います。この世の悪への立ち向かいかた、対応の仕方を作っていく。その対応の仕方はマチマチですが、大きくわけて二つの方向があると思います。
現状肯定(無視)と現状否定です。現状肯定/無視は、そういう腹が立つことは見ない、聞かない、考えないでシカトしていく方向。「しょーがないじゃん」ということで、見ないふりをするという。多くの人はそうします。だって、「今こうしている間にもアフリカでは罪もない子供達が餓死してるんだぞ、それでいいのか?胸は痛まないのか」と言われたって、困っちゃうしね。あるいは、ペットが死んだら泣くくせに、平気で肉を食ってることの矛盾を糾弾されたら、「んなこといっても、おいしいもん」と呟くしかないという。
もう一つは現状否定(改革)派です。なんとかしてこの不正義を矯正してやると思う立場。これは鼻柱が強く、自分に自信がある人に多いと思いますが、なにを隠そう僕もそうでした。懐かしいなあ、高校時代(^^*)。あの頃、とりあえず強くなくちゃねで柔道部入ったりしてたけど、そんな一人一殺みたいなことやってても到底埒が明かないことが分かってきて、何が一番悪いのか、どうせ戦うなら一番根源的に悪いモノ相手に戦うべきで、一番の根元悪・巨悪鼻にか?と考えたわけで、僕なりの結論は、究極の悪はシステムの私物化であり、ようするに権力犯罪だったわけです。でもって折も折、ロッキード事件があって総理大臣が逮捕されたりしてるわけですから、「うわ、やれば出来るじゃん」と思ったわけですね。で、これはもう権力を殺すのはより強大な権力しかない、東京地検特捜部じゃということで、司法試験になったわけですね。余談ですが、ロッキード事件、あれ、多くの日本の若者を救ったと思いますよ。「ああいう正義は勝つ」みたいな、わかりやすい出来事が社会にあると、人々は希望を捨てないもんね。
この現状否定は別に司法の世界でなくても、もういくらでもあります。ボランティアやってもいいし、NGOでもいいし、個人的にベジタリアンやるのも一つの表現だし、戦いだと思います。悪があることを直視しつつ、それに何らかの形で改善にコミットしていくという。あるいは、これが最も究極の戦い方だと今の僕は思うけど、「個々の持場で誠意を尽くして仕事をすること」だと思います。例えば、面倒臭がらない、手を抜かない、嘘はつかない、思いやりを忘れないとか、他人の悪口を言わないとか、そういうクソ当たり前のことだと。そういうことでしか変わっていかないんじゃないかなと思ったりもします。難しいんだけどね。
そこでオウムの人達ですが、彼らもこの世はクソだと思ってたわけで、そこは全く僕と一緒。おそらくアナタと一緒。ただ違うのは、この悪に満ちた世の中に馴れ合うことが出来なかったし、かといって既存の解決方法では満足できなかった(というか不幸にして出会わなかった)。で、困った。そこに宗教という強力な「説明原理」が登場するわけで、しかもオウムという最も論理的に明晰で鮮明(という具合に写ったようです)なものが現れたのでヤラレちゃったという。
雑記帳なんかでも過去書いたことありますが、宗教というものの万能薬的解毒作用というのは、絶大なものがあると思います。例えば、先ほどのAさんBさんの事例でも、誰かがワリを食ったら、「それはカルマだ、前世の因縁でそうなってるのだ」「ここでワリを食うほどに功徳を積んで幸福になれるのだ」という説明をつけちゃうという。そりゃあ簡単ですよ、楽ですよ。でも、反則じゃん?って僕は思うのですが。
オウムに限らず、すべての宗教、さらに宗教に限らず通念的な解毒酵素というのものは、どっかしら反則的な誤魔化しはあるように思います。それを「誤魔化し」と言ったら怒られるんだろうけど。僕が今一つ宗教的なものに馴染めないのは、この前世とか死後とか超越的存在とかもってくれば何でも帳尻は合っちゃう安易さなんですね。ちょうど将棋をやっていて、盤面上いよいよ王が追いつめられて「詰み」というところで、将棋盤の外にまた桝目をスラスラ書いて、「ほら、こっちにいけば逃げられるよ」みたいな反則的な感じを受けちゃうからです。
といって、否定しているわけでもないですし、それなりにリスペクトは持ってます。ただ、今の自分にはそれは必要ではない。まだ盤面で自分の王は詰んでないから。まだまだ盤面で戦いを展開できるだろうと思っているから。逆にいえば、これまで生きていて、「詰んだ」というほど、大きな不幸なり悪なりに出会ってないのでしょうね。もっと巨大な辻褄の合わない物事に遭遇して、且つ自分の心を鈍磨させて見てみないふりをするほどに腐ってなかったとしたら、より大きな説明原理を求めちゃう可能性は高いとおもいます。
オウムという集団は、頂点のいる人々はともかく、下級信者の場合、最初は皆さん善意で出家して集まってるようです。これはどうもそのようです。「いつかオウムが天下をとったら地位や名誉は思いのままだぞ」という現世利益につられて入信したというケースは非常に少ない、というか皆無に近いようです。その意味で、そこらへんの大企業に就職する方がよっぽど現世利益バリバリ、邪念バリバリだったりするわけですよね。まあ、それでいいのだと思いますけど。で、オウムの場合、その善意エネルギーが凝集して、魔界みたいに磁場を持ってしまって、一気にそれがネガポジで反転して、強烈な悪として放出されてしまったというような気もします。まあサリンを撒くよということを知っていたのはごく一握りの人達だったようですけど。
これは巻末の対談でも出てきましたが、悪意で悪い事をするケースは意外に少なく、善意に基づいて悪いことをやっちゃうと、ケタ違いのスケールでやっちゃうという。まあ、戦争なんかがいい例ですが、戦争ってやってる側は常に「聖戦」だと思ってますから。「イイコトやってるんだから、多少の犠牲はやむを得ない」みたいに思っちゃうという。カンボジアのポルポトだって、非常に優秀なインテリだった彼が理想社会を建設するんだつって大虐殺しちゃってるわけだし。
まあ、それはそれとして、より一歩突っ込んで考えると、オウム事件に対する日本社会の反応の方が心配だったりします。サリン事件という強烈な「悪」があったわけですが、この悪を解毒する酵素がまだ無いんじゃないかと。サリン事件があってから程なくして僕はオーストラリアに永住権取って来ちゃったわけで、その後日本の事件についてはあまりリアルタイムに皮膚感覚でわからないのですが、それでも「オウムもびっくり」みたいな、ワケわからん事件が続発しているようです。でもって、この悪=「論理的に説明できないメチャクチャな現象」に対する解毒酵素は、開発されないまま現在にいたっているような気がします。
この場合の「解毒」というのは、そういう出来事に対して、「まあ、そういうこともあるかもね」「現実ってそうーゆーものでしょ」ということで、自分の中の世界観は特にupsetせずに、揺らがないということ、それを踏まえて「じゃあ、どうしたらいいか」をポジティブにクールにやっていけるだけの浄化作用だと思うのですが、なんかまだアップセットしてるなあって感じもします。
なんというのか、こういうショッキングな事件が起きるにしたがって、むしろ解毒作用が弱まってるかのような気もします。日本の社会が、そしてそれを構成する個人が、非論理的でメチャクチャな出来事に慣れてないというか、全ては明るく奇麗に説明できちゃう社会であるかのように錯覚してるというか。うーん、これは、僕が時々言う、日本の人の、いき過ぎてヒヨワになっちゃった安全・安心嗜好と通底してると思うのですが。
人間が集まって社会を作ってたら、どうしたって一定比率で変な人も出てくるし、変な出来事も起きる。日本という「小さな箱」に入ってたら、その中の説明原理では説明できなくても、箱を外してしまえば、つまり世界レベルでみたり、世界史レベルで見れば、ワケわからん狂気や惨事はいくらでもある。僕にしたら、サリン事件よりも神戸事件よりも、戦時中に石井部隊がやったといわれる生体実験の方がもっとショッキングだし、ヨーロッパの魔女狩りだって理解の域を越えてます。泣き叫ぶ女性を皆で笑いながら取り囲んで生きたまま火あぶりにするなんて、どういう神経したらできるんだ?って気がしますもんね。そんな狂気の殺戮を、延々100年もやり続け、何人でしたっけ、300万人?そのくらい殺してるわけでしょ?そっちの方がよっぽど信じられないし、魂が凍るような気がします。
人間という存在自体が、非論理的でメチャクチャなものであって、すぐにぶっ壊れてしまう繊細なメカであり、これはもうどうしようもないのだ、ということ。一定の湿度と温度があったら、どこからともなくカビが生えてくるのと同じように、一定の条件が揃ったら、平気で狂ってメチャクチャなことをしでかしてしまう存在であるということ。
もう、これは根底で受け入れなければならないと思います。そーゆーもんなんだと、自分もその一人なんだと。
だから社会の一定割合の人が、精神的に困っていたり、困ったあげく迷惑なことをするというのも、至極当然のことなのだと。
ところで、精神障害者の犯罪行為をどうしたらいいのか?論とかあります。心神喪失で責任無能者として無罪にするのは納得が行かないという人も多いでしょう(刑法的には無罪だけど、措置入院で拘束されることに変わりは無いのだけど)。池田の事件でも、またぞろ保安処分とか議論になりそうだし。でも、そーゆー納得のいかない出来事は、もう日常茶飯事に起きるのが現実社会であるということ。殺された人は殺され損。それだけ。要するに「運」でしかない。飛行機が落ちるかどうか、交通事故に遭うかどうかみたいなもの。
ちなみに精神障害者の犯罪については、刑法的に昔から議論があって、いわゆる社会防衛論という立場からは、そういう人ほど刑罰の対象になるのであって、責任無能力であればあるほど「危ない」から社会から隔離というポリシーになります。そこでの刑罰は、「刑罰」ではなく「教育」であり「治療」である。ねえ、なんか「それでいいじゃん?」という気がするでしょ?でも、この考えははるか昔に廃れています。
なんでか?というと、この考えを推し進めると、実際に犯罪を犯してからでは遅いわけだから、「起こしそうな奴」を手当たり次第にとっつかまえて病院に叩き込めという話になります。論理的には一直線にはならなくても、実際問題そういう流れになっちゃう確率が非常に高いし、実際にそうなりがち。で、どうなるかというと、「将来危険な奴」というのは誰が判断するのよ?という話になって、これを悪用するケースがまた非常に増えてきた。要するに、権力側が気に食わない奴にどんどんレッテル貼って社会から隔離してこっそり「始末」したりするわけですな。それに民衆が悪ノリしたりして、ますますスサんだ社会になっていくという。
こーゆーことが頻繁に起こった。事柄が精神疾患であるかどうかに限らず、権力サイドにそういう事実上無制限に近いような力を与えたときに社会が被る損害というのは、もう精神障害者がアレコレやってることとの何十倍何百倍という規模で起きてしまうという。ここで、「まあ、そういうこともあるだろうけど、全部が全部そうなったわけじゃ」と思うでしょうけど、これ、ほっとんど全部が全部そうなっちゃったりするといってもいいと思います。
戦前の思想警察やら、現在も世界のアチコチで行われている内乱、内戦、反政府ゲリラがどうしたという一連のドンパチを見てたら、「ヤバそうな奴はとりあえずタイホしちゃえ」的路線にいっちゃうのですね。前述の魔女狩りだって、そんな何百万人も魔女やら社会的に危険な女性がいる筈もなく、「ちょっと変な奴」「仲間外れのヤツ」が魔女にされ、おそらくは嫉妬などの個人的恨みに基づくチクリで無辜の人々が魔女にされて殺されていったりしたのでしょう。
だから人間なんかそんなもんだと思います。今だって、オウムの元信者というだけで、その人がどういう人なのかを詳しく考える事もなく、腫れ物扱いにして、社会が拒否してしまう傾向があるし。その種の非理性的な排除は、今にいたるまで連綿と続いている。アメリカでも、中東的ルックスをしてるというだけでブン殴られたりしてるわけで、とかく人間社会の判断能力というのは、僕らがなんとなく思っている以上に愚劣だったりします。「仲間外れゲーム、集団イジメゲーム」は人類の大のお気に入りだから、「将来の恐れ」みたいな曖昧なツールを投げ与えてはいけない。それは結果として、イジメに大義名分を与えるだけになってしまう。だから、誰かに不利益な処分を課するためには、クッキリとした明々白々な基準が必要で、それを防波堤にする必要がある。
もう一つ、この種の社会防衛論の致命的な欠点としては、「こいつは将来犯罪を犯す」なんてことが精神医学的に予測することは無理だということです。その昔、今よりも科学万能的風潮が強かった時代があって、科学を進化させればいずれは100%予知可能なんて言ってた人々もいるらしいのですが、実際には研究が進めば進むほど謎は深まるという。それに、「将来犯罪」をいうなら、健常者による犯罪の方が何十倍も多いわけで、それはどうするのよ?という気もするし。今のところ最も「将来犯罪を起こす可能性が高い人達」としていうなら、まずもって暴力団の人達がそうでしょ、政治家の人達がそうでしょ?要するに「犯罪を犯した」と聞いて、「ああ、やっぱり」と特に関心も湧かないような、新聞記事にすらならないような、そういう人達の方がはるかに「将来の危険」は高いわけで、社会防衛のスジでいうなら、危険性の高いところから順にやってきゃいいじゃんって気もします。
それに、こういう議論をするときに、精神障害者の迷惑な行為にだけ着目している人は、無意識的に、それを取り締まる当局は誤謬のない優秀な機関であるとして考えているわけですけど、それこそ夢物語でしょ。警察や官僚は絶対腐敗しないとお思いですか?警察のダメさ加減を報道してるときは(冤罪事件とか、事件の揉み消し、証拠の捏造等など)、警察悪しのように報道され、見てる方もそう思い、一方で別の犯罪のときはその警察が正義の味方としてキッチリ機能するという、まるでチャンネルを切り替えたように思っちゃう傾向があるけど、現実にそんなことあるわけない。現実には、どーしよーもない犯罪者がいて、どーしーよーもない警察がこれを取り締まって、どーしよーもない僕らが傍観しているという構図でしょ。誰一人アテに出来ないわけです。それを前提にして、さあ、どうしようというところから議論が始まるべきだと思うわけだし、実際に現場の連中はそれをやってるのでしょう。
そして本当のところは、圧倒的大多数の精神障害者も、警察の人も、そして僕らも、まあ、まだまだマトモなわけだと思います。そんなすべての警察官が腐敗してるわけではないし、多くは誠実でマジメなお巡りさんです。もちろん100%完璧ではないですけど、その駄目なところは、僕らからして理解も共感もできるところだと思います。精神障害者が危ないとかいっても、実際の比率でいえば、微々たるものでしょ。もし本当に日々犯罪を繰り返しているのだったら、毎日何十件という事件が起きてないとおかしいもん。
この世というのは結構救いがないもんです。殺された奴は殺され損みたいなところが厳然としてあります。ひでえ世の中ですわ、いつの時代も。でもって、じゃあ、どうすんねん?と対策をたてようとしても、廻りを見渡せば、自分も含めて、誰も彼も頼りない奴ばっかりだという。でも、それでもやっていかなきゃいけない。ここが、まあ、出発点だとおもいます。そんなことでメゲていてはいけないという。もうこの世の悪、説明つかない不条理でメチャクチャな悲劇を、腹に飲み込んで、強靭な胃袋で分解していくしかないのでしょう。
何がなんでも安心したい人には絶望的な結論だけど、100%の安心なんか絶対できない。どんな対策も完璧ではない。安心したいがゆえに、パニックになって急場シノギの対策をしてみても、今度はその対策がもらたす弊害が遅効性の毒のように社会を蝕む。
じゃあどうしたらいいの?というと、とりあえず二つ。一つは、そもそも絶対安心なんていう「無い物ねだり」をしないこと。今日誰が死ぬかなんて誰にもわからない。明日になれば自分も死んでるかもしれない。それがこの世のオキテであり、それでいいのだ。というか、良いも悪いもなく、そーゆーものなのだということ。そして、それは決して絶望的なことでも何でもない。それを前提にしつつも、幾らでも心の平穏は保たれる。それは、仏教的な一期一会のような心のありようでもあるでしょう。僕なんかは、大体生まれてきただけでも丸儲けなんだから(生まれてくるために何の努力も根回しもしてないもんね)、いつ終わらされても文句は言えんだろうと思ってます。そりゃ、死ぬはヤだけど、死なないようにだけ考えて生きてるというのも無駄臭い気がしますもんね。
もう一つは、これが正しい「社会防衛」だと思うけど、個々の人間が出来損ないであることを前提に、いかにして被害を最小限に食い止めるか、頭を振り絞って、ありとあらゆる場合を想定において、可能な限り有効なシステムを作るしかないだろうということ。針の先のような絶妙なバランスを取り続けていくしかないだろうということです。
ところで、いきなり話は飛びますが、テロに対するアメリカの一連の態度というのも、ちょっと離れてみたら変に見えるでしょ?もう、テロリストが「絶対悪」であり、これは「絶対悪」と「絶対善」の戦いだ言い切ってしまうこの構図。
その昔、「東京の人が一番日本を知らない/見えてない」と書いたことありますけど、そのヴァージョンで言えば、アメリカの人が一番世間知らずのように思える。「ここまで自分らを憎んでいる連中が世界には居るのだ」という現実が見えてない。アメリカという「小さな箱」に入ってる。
テロという「悪」に対して、「そら、まあ、そういうこともあるわな」で解毒出来てない。別に解毒といっても、諦めて泣き寝入りせよといってるのではないですよ、言うまでもないけど。クールに対処できずに、動転してしまって(でも、トップ連中は絶対クールだと思うけど)、もうこの「絶対悪」を叩き潰すには何をしてもいいんだ状態になってしまっているという。非常にオウム的ですよね。自分らの純粋性を無邪気に信ずれば信ずるほど、それが反転して外界に放射されるとき、敵となる存在はクッキリ真黒に描かれるという。
なんによらず、自分は真っ白で相手は真っ黒だと思えてしまったときは、どっかしら自分は狂ってると思った方がいいのかもしれませんな。
「解毒酵素」なんて難しく言ってますが、煎じ詰めて具体的にいうと、僕の場合、耳元で、ゆっくり喋った生ぬるい大阪弁が聞こえてきます。
まあ、世の中、色んな人がおって、色んな事も起きる、、、ってこっちゃな。
上の大きな写真見てると、本当に、世の中いろんな奴がおるなという気がしますな。
この落書、気味悪いっちゃ気味悪いけど、妙にしょーもなくてユーモラスで失笑してしまったりします。もしかしたら、「うふっ」って笑えてしまえたアナタは解毒酵素を十分に持ってるのかもしれません。
写真・文/田村
★→APLaCのトップに戻る