今週の1枚(05.05.30)
写真は、Potts Pointを背景に、Wooloomoolooに停泊するオーストラリア海軍の艦船。カンガルーマークがいかにもオーストラリアらしいです。
今日はひとつ肩のこらない話をしましょう。パズルの話です。
シドニーにも日本の書籍の古本屋さんが何軒かあったりして、重宝しております。紀伊国屋もシティのタウンホールにドーンとあるのですが、いかんせん新刊は高いです。輸入のための送料や手続費用を考えれば「そんなもんだろうなー」と納得せざるを得ないのですが、でもやっぱり「むむ、、」と思ってしまう。2倍から3倍。それでも、その昔に比べたら安くはなりましたよ。少年ジャンプが1000円近くしたりすると、「千円出してまで読む本じゃないかも、、、」って気になります。今はもう少し安くなって6-700円くらいでしょうか、それでも「むむ、、、」でしょう?
文庫本もちょっと厚いと千数百円くらいなってしまって、こうなるとやはりたじろぐものがあります。
ところで、文庫本、日本においても高くなってますよね。日本は何でもデフレで安くなってるのかなと思いきや、ここ十数年で文庫本はむしろ上がってるような気がします。300ページくらいの平均的な厚さの文庫本で、600円とか700円とかしますもんね。例えば、ちょっと前に読後感想文みたいな雑文を書いた村上春樹の「海辺のカフカ」の文庫本が出てますが、上巻740円、下巻780円ですよ。これ、文庫本の値段としては高くないですか?10年前だったら500円しないくらいじゃないですか?それは諸物価高騰の折、、とかいう事情はあると思うのですけどね、10年前に比べてラーメン一杯の値段やボールペン一本の値段が50%も上がってますかね?一杯600円のラーメンが900円になっているか。よくは分からないけど、「全然デフレじゃないじゃん」って不思議に思うのでした。そして、日本で購入してさえ高い本をこっちで買おうとしたら、まず無条件で二倍はするから1500円。上下巻で3000円くらい。文庫本で3000円というのは、「これは、ちょっと、、、」と思ってしまいますよね。
あと、セコい話なんですけど、高齢化日本ということもあって活字がどんどん大きくなってきていますよね。○号とか○ポイントとか専門的な指摘は出来ないのですが、僕が学生時代に買った本と最近の本とを比べてみると、へたすれば倍くらい活字が大きくなってます。新聞なんかでも同じ傾向がありますが、まあ活字が大きくなってお年寄りの方に読みやすくなるのはいいことなのだと思います。でも、その分全体の情報量はどうしても少なくなりますよね。これは文庫本など値段重視系の本でいえば、情報量に対する価格がいっそう高騰するってことになり、セコい僕は又ぞろ「むむ」と思ってしまう部分もあります。新聞や記事に関して言えば、「え、それだけ?」「もっと深く突っ込んでくれ」という欲求不満につながります。
ただ、これは日本の傾向なんですかね。なんでも簡単になって、頭を使うのを面倒くさがるという。数年前に帰国したときに雑誌の編集をやってる友人から聞きましたけど、「最近、みんな記事を読まない。ちょっと本格的に、しっかりした長い記事を書くと読んでくれないんだよ」って。皆、頭を使うのを面倒くさがってるんじゃないかって話になりましたけど、もしそうだとしたら、「ゆとり教育で学生がアホになってる」と一概に若い人ばかりを責めるべきではなく、大人だって同じくアホになってるのかもしれません。そんな中で、今書いてるエッセイは「存在自体がアウト」みたいにクソ長い文章だったりして、だから読むのが大変という人も多いでしょう。でもさ、この程度の難易度、この程度のボリュームなんか、普通思考する場合の1単位くらいでしかないと僕は思うぞ。これっぱかしがシンドイんだったら、それって頭のキャパシティが浅くなってるんじゃないですか?って逆に言いたいです。
話は逸れましたが、そこで古本屋さんが登場します。現地でリーズナブルな日本の書籍を購入するという話の続きね。
古本屋さんだと大体日本と同じくらいの値段で買えます。かなり重宝してます。
古本を新刊本と同じ値段で買うのは釈然としないという向きもあろうかと思いますが、僕は釈然とします。古本だろうがなんだろうが、書いてある情報に差はないですから。多少装丁が汚れているとかいっても知れてますし、どうせ僕の場合は、新刊買ってもすぐにコーヒーこぼしたりして汚しますからね。そういう意味で古本屋さんはいいのですが、問題は、やっぱり品数に限りがあるということです。だから目指す本を買いに行くというよりは、ぶらっと入って面白そうな本を物色するという感じですね。目指す本は気長に待つと。別にそんなにどうしても読みたい本というのがあるわけでもないですからね。
そこで、先日、夢枕獏氏の「風果つる街」という本をなにげに買いました。これが将棋の本なんですね。プロの棋士の本。といっても、いわゆる表のプロではなく、裏のプロ。町の将棋会所や縁日などで賭け将棋をやって暮らしているという、「真剣師」という人の話です。真剣師なんて職業(?)聞いたことなかったし、今では絶滅してしまったそうですが、その昔は結構いたようですね。
4編くらいの連作集で、年老いた場末の真剣師のエピソードが綴られているのですが、これが面白いんですよね。夢枕氏というと、マンガ&映画にもなって有名な「陰陽師」の原作者で、どっちかというと怪奇系の話がお得意なのですが、短切な文体と、滑らかなストーリーテリング、サービス度の高い波状的な描写で、なかなか楽しく読ませてくれます。エベレスト登山に取りつかれた男を描いた長編、「神々の山嶺(いただき)」も、何度読んでも感動してしまう名作でしたが、この作家は異常な情況を書くのが上手なのでしょうね。何か(例えば山、例えば悪霊)に憑かれて、普通の生活スタイルや常識から外れていってしまうという「異常」な情況を、淡々と書いていき、徐々に温度を上げて臨界点にもっていく手法が上手だと思います。人間世界の極限、この世の果てのような世界にすっと連れて行ってくれます。この「風果つる街」も、この異常性の描写が活き活きしていて、引き込まれるのですね。
「詰め将棋には、一種独特の勘と、天才的な閃きが必要である。普通、新聞に載るような問題なら、プロ棋士のA級の者なら、早ければ一秒、遅くとも十数秒とかからず詰ませてしまう。
ひと目盤面に視線を走らせるだけで、瞬間的に解答が浮かぶのである。十歳になるかならぬ頃から、既に神童と呼ばれ、天才と呼ばれてきた者たちが、その歳の頃からただひたすらに将棋に打ち込んできて、さらにその中からわずか数人がプロ棋士になれるのである。A級ともなれば、もはやいずれも超がつく天才である。」
「将棋の名人は詰め将棋を詰ますのがうまい。しかし、詰め将棋を造るということになると、名人には平手戦でまるでかなわないような棋士が、名人が造るものよりも遥かに難解な詰め将棋を造ったりする。
在野のアマチュア棋士の中には、それがずっと極端な人間もいる。将棋の腕は駄目でも、プロ顔負けの詰め将棋を造る人間がいるのである。
何年もかけて、商売をやめ、妻にも逃げられ、八百手以上にもなる詰め将棋を考える人間もいる。学生ながら、千五百十九手詰めを造った人間すらいるのである。」
ね、「異常」でしょ?人間世界の極限ですよね。でも、こういう世界、僕は、嫌いじゃないです。わくわくしますね。
というわけでこんな本を読んでしまった僕は、全然強くないのにもかかわらず無性に詰将棋をやりたくなってきたのでした。将棋なんか、もう、ここ十年以上やってないです。そんでもって、また古本屋で探したら折りよく詰将棋の本があったりしたので、速攻で買ってきて、ベッドに寝転がって、うんうん唸って楽しんでいます。それも7級くらいの問題で他愛なく苦しんでます。解答を見たい欲望を押さえつつ、15分以上思考を集中してると、今度は眠くなってきたりして、そんでもってまた他愛なく寝入ったりしています。ああ、天下泰平。
こちらの古本屋に置いてある日本の本というのは、お店が日本からドーンとコンテナかなんかで入荷するケースもあろうけど、多くは現地滞在の日本人の間で転々流通していたりする場合が多いでしょう。僕の買ったお店の本は、もっぱら現地流通本だと思われるところ、詰め将棋の本が置いてあるということは、詰め将棋の本をわざわざ日本から持ってこられた人がいたってことでしょうね。もしかしたら紀伊国屋さんあたりで買ったのかもしれませんけど。想像すると楽しいですよね。普通、渡豪するときに荷物を準備したりしますけど、詰め将棋の本なんか持っていきますかね?まあ、持ってこられたんでしょうねえ。それか、こちらに住んでたら、僕と同じように無性に詰め将棋がやりたくなって、日本から送ってもらったり、あるいは紀伊国屋さんにいって高いのを承知で買ったりされたのでしょうか。
「本に歴史あり」じゃないですけど、日本語で書かれた本なんか、こちらでは普通には存在しません。それは日本でヘブライ語で書かれた本がそんなに存在していないのと同じです。それがあるということは、誰かが何か思うところがあって持ってきたということでしょう。それも「ビジネス英会話」とか話題の新刊本じゃないくて詰め将棋というところが、いいですよね。日本に、なぜかヘブライ語で書かれた「園芸入門」という本が存在しているようなもので、「一体誰が、、、」とか思っちゃいますよね。海外にいて、日本の詰め将棋の本を買えてしまうという情況が、ちょっと可笑しかったりします。
さて、詰め将棋の次は数独です。
日本の数独パズルが世界的に人気になり、先週からオーストラリアにも上陸しているという、今一番ホットな(笑)話題です。別に全然ホットではないですけど、先週の地元の新聞にちょっとした特集記事が載り(5月21日号)、それから毎日のパズル欄に、クロスワードなどと並んで、数独パズルが登場し始めたというのは本当です。
数独パズルというのは、ご存知の方も多いかと思いますが、右の新聞記事の写真に実物が載ってます。一種の魔法陣なみたいなもので9×9のマス目に1から9までの数字を入れていくわけですが、タテヨコいずれの列においても、また9つに区切られている小さな正方形のエリアにおいても、全て完璧に1から9までの数字が満遍なく入れていかなければなりません。ある列やエリアで6がダブったりしたらアウト。足し算引き算などの計算は一切やりません。ただひたすら論理的に詰めていき、消去法的に「これしかない」という部分をみつけ、埋めていきます。なかなか手ごわいですよ。
パズル本は日本でも沢山出てますし、ニコリ社が有名です。詳しくは、ニコリ社の数独を解説したページへ。
カミさんがパズルのファンで、日本に帰るたびにパズル本を買い込んできています。特に数独がフェバリットらしいのですが(実際やらせると、これが熟練工のように鬼のように早く解いてしまう)、「SUDOKU」という「そのまんま」の名前で、こちらの新聞に紹介されているこの記事を発見したときは、「おお、これから毎日新しい問題が出来る」と狂喜しておりました。僕はどちらかというと、漢字パズルの方が得意なのですが、ただ純粋なパズルとしての完成度でいえば、数独のほうが凄いなとは思います。漢字パズルやクロスワードは、知ってるか知らないかという部分が大きな要素を占め、それが興趣の一部でもあるのですが、数独は100%完全論理ですし、また数字は使っているものの、計算などの算数論理は一切入りません。
ところでこの記事を読んでいくと、「ふーん、そうだったのか」という興味深い内容がかかれてます。よくまあこんなに調べるものだね、って感心しますが、幾つかご紹介しましょう。
数独は、半年前にイギリスに紹介されてから、これにハマったイギリス人が続出し、いまでは殆どメジャーな新聞紙ではパズル欄に数独を入れているといいます。ザ・タイムズ紙で刊行した数独の本はこれまで12万部を売り、デイリーテレグラフ紙も同じように数独本で当て、インディペンデント紙では全英数独チャンピオンシップを企画してるとかしてないとか。デイリーミラー紙に至っては、「数独は、アルツハイマー病の進行を遅らせる」などと大胆なことを書いてたりもします。デイリーミラー紙は、「ウチが一番早く数独を(イギリスに)紹介した」と自慢しているが、タイムズ紙の方が3日早いとかなんとか。
このようにイギリスでは新聞社相互で数独でめぐってホットな争いが展開されているのですが、「なぜ?」というと、まあ、結局これといったニュースがないので、数独は営業的にはヒットだったということらしいですな。
この仕掛人というか、数独を西欧社会に持ち込んだのは誰かというと、Wayne Gouldというリタイアした裁判官だったりします。ゴールド元判事は、自ら、http://www.sudoku.com/というサイトを立ち上げて、毎日1万アクセスをゲットしているだけでなく、自分で数独の問題を作るコンピュタープラグラムを組み上げ、このソフトをイギリスのほか、アメリカ、クロアチア、グルジアなどの新聞社に売っているそうです。すごい元判事さんもいたもんです。右の記事の写真、左側の写真の人です。
数独が日本のものというのは、一応は認識されているようです。それは、カラテやカラオケのように、「SUDOKU」というベタな名前で
用いられていることからも分かります。しかし、世界で最初にこのゲームを考え出したのは日本人ではなく、Leonhard Eulerという18世紀のスイスの数学者だそうです。記事の右側の肖像画の人、一瞬小泉首相みたいな人が、ユーラー先生です。
これがどうして日本に?というと、1980年代に、日本人の出版人がニューヨークでこのパズルを発見したようです。これは面白いということで日本に持ち帰り、「数独」という名前のもとに日本で広がったと。ところでなんで「数独」なのかというと、「数字は独身に限る」という(1−9までの数字しか使わない)ゲーム名の略だそうです。変な名前っちゃ変な名前ですな。本家本元のユーラー先生は、"Magic Square"、つまり魔方陣と呼んでいたようです(通例、魔方陣というと、タテヨコ斜めの和が等しいことをいうけど)。
さて、ニュージーランド生まれのゴールド元判事は、1997年のある晩、東京の本屋さんを冷やかして歩いていたときに、この数独本をみつけ、「おおお、面白いじゃん」とハマり、さらにアマチュアプログラマーでもある彼は、数独生成プログラムを作り、世界各国に売り、それがロンドンで発火し、そしてオーストラリアに飛び火したというわけですね。しかし、元気で多趣味な判事さんです。日本の法曹界も、このくらい多趣味で行動的であるべきだよな、と元法曹界の僕は励まされたりします。
ゴールドさんはイギリス統治時代の香港の裁判官だったそうです。だから1997年なんですよね。香港がイギリスから中国に返還される年。そこでゴールドさんは退官し、これからの余生の過ごし方を考えて、ぶらぶらと東京の町を歩いていたのでしょう。ふと入った本屋のパズルコーナーで数独と出合った。それから6年かけてプログラムを完成させ、そしてこのソフトをひっさげてイギリスにとび、タイムズ社のドアを叩いたそうです。うーむ、やっぱり元気で行動的な退職者です。日本の定年後の皆さんもこのくらい元気で行動的になりましょう。もっとも、彼も自信満々で持ち込んだのではなく、「電話してあからさまにイヤそうな対応を受けるのが恐いから、もうアポなしで直接持ち込んだんだよ」ということでした。タイムズ社の編集者、応対に出たハーヴェイ氏は、最初メチャメチャうざったそうだったのですが(with great reluctance)、数独の問題を見るや、その場で契約を決めたそうです。即断即決ですね。
というわけで、シドニーの地元新聞、シドニー・モーニング・ヘラルドでは、5月23日月曜日版から毎日パズルコーナーに数独の問題が掲載されるようになっています。ご興味にある人はどうぞ!
しかし、数独はいいですよね、数字という普遍的なゲームで。だからこそ、スイス→NY→日本→イギリス→オーストラリアと転々と広がっていったのでしょう。これが詰め将棋になるとですね、地元新聞のパズル欄に掲載されるまで、あと100年くらいかかるかしら、それとも永遠に無理かしら。おそらくは将棋よりも国際的になっているのは囲碁ですよね。あれは白黒オンリーですし、ルールも数学的ですから。将棋は、とにかく駒に漢字が書いてあるのがネックですよね。僕らは読めるけど、知らない人はチンプンカンプンでしょう。あれにアラブ文字とかタイ文字とかが書いてあると思えば、そのとっつきにくさは何となく想像できますね。
えーと、それから、、、って、今回はこのくらいにしておきましょうかね。このくらいライトな方がいいでしょう。あんまり長いと読んでもらえないかもしれないし(^_^)。
ちゃっちゃとエッセイは終わらせて、また寝転がって詰め将棋でも解くとします。
しかし、なんでオーストラリアくんだりまでやって来て詰め将棋やってなきゃならんのよ?という気もしますな。しかし、梅雨をひかえてそろそろネクタイが汗ばみ始める頃、重たいカバンを抱えてJRや京阪電車に乗ってた自分が十数年前にいるわけですけど、まさか将来自分がオーストラリアに渡って詰め将棋をやってるなんて想像もしませんでしたね。人生、おもしろいです。あなただって、そうなるかもよ。
文責:田村
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