今週の1枚(05.05.02)
写真は、Sydenham駅付近
その昔、宇宙に果てはあるのか?という定番的な疑問をもって考え込んだり、はたまたSF小説などにハマって読んだりしたとき、よく出くわしたのは、「時空間を超越した」とかいうフレーズです。いわく、「そこには過去も未来も永遠に続いていた。ゆえに時間は存在しなかった。またその広がりは永遠であった。ゆえに空間も存在しなかった」とかね。その頃は、「おー、深遠じゃー」とかよく分からないまま、その分からなさ加減が新鮮で、他愛なく喜んでたりしました。まあ、よくある話ですね。
でも、最近、ちょっと分かるようになりました。
「限界がなければ、それは空間ではない」って部分です。もちろんそんな高度に哲学的な空間概念を悟ったわけではなく、「あ、そうかもねー」と何となく頷けるという程度のことなんですが。特に、空間を「自由」に置き換えてみるとわかりやすかったりします。
つまり、「制約のないところに自由はない」ってことです。ここまではやってもいいけど、ここから先はやってはダメよ、と言われてはじめて自由の意味がわかる。自由に進んできて、ある地点で壁に突き当たり、その壁のゴツゴツした手触りを感じて、「なるほどこれが限界であり、これが制約なのだな」とわかる。それが分からないと自由であるという実感もまた得られないんじゃないか。
僕らは今自由社会に生きていますから、結構何をやるのも自由です。戒厳令が敷かれているわけではないから、夜間に外出しても逮捕されたり射殺されたりすることはないです。身分制度もないから、身分の違いで結婚できないとか、極端な話身分の違う人間と一緒にいるところを見られただけで問答無用で片腕を切り落とされるなんてこともないです。そこまでいかなくても、昔の日本社会にあった制約も徐々に緩んできてますし、ちょっと変な格好をしたり、変な生き方をしてるだけで、町を歩いていたら知らない人からたしなめられたり、いきなり罵倒されるとかいうこともないです。
日本は窮屈だとか、なにをするにも不自由だというのはよく聞きますが、物理的なレベルでいえばかなり自由です。もう無秩序といってもいいくらい自由でしょう。なんせ、ニートとかひきこもりとかいうのが存在しうるくらいに自由です。
しかしこれだけ「自由」だと、そーゆーのって「自由」なの?って気もしてきます。なんか違うんじゃないかって。
あまりにも制約が無いと、なんか無重力空間に浮いてるみたいで、重心がわからなくなり、三半規管がおかしくなって船酔いみたいに気分が悪くなるのではないか。また、「のれんに腕押し」という言葉がありますが、どこまでいっても跳ね返されたりするリアクションがないと、自分で本当にやってるのかどうか分からなくなる、ひいては自分が存在してるどうかすらわからなくなる。
その昔、音響メーカーに勤める友人の好意で、開発セクションを見学させてもらいました。スピーカーの音響特性をテストするため、反響や残響がゼロという部屋にはいったのですが、あれは異様な空間でした。部屋そのものは、壁にウレタンなど断音材などを張り巡らした以外は普通の部屋なのですが、居心地がメチャクチャ悪いのです。普段僕らが喋ってる自分の声や、自分がたてる物音(足音とか、椅子のキシミ音とか)は、必ず周囲の壁や物にぶつかって反射してきます。普段気付かないけど実はそうなっていて、その反響音をキャッチすることによって僕らはリアルな実在としての「音」を感じ取ります。そのことをイヤと言うほど思い知らされます。だって、反響が一切なくなってしまうと、自分でなにか喋っても、喋る側から声が消えていくので、非常に異様な感じがするのです。確かに今自分は喋っているし、喋ってる声も聞こえるのだけど、それがなんか現実の出来事であるように思えないのですね。「本当に今俺は喋っているのか?」と疑わしくなるという。その友人は、「こんな部屋に一日閉じ込められたら、大概発狂するで」といってましたが、僕も発狂するかもしれないなと思いました。
自分という存在があり、その存在が周囲に何らかの影響をもたらし、そして周囲から何らかのリアクションが返ってきて、そして自分の存在を確認する、、、、ややこしいですけど、こんな複雑なことを僕らは当たり前のようにやっているのですね。コウモリは周囲に超音波を飛ばして、その反響の状況から周囲の状況を知覚するといいますが、僕らも似たようなことをやってるのだと思います。
例えば、古めかしい大学の図書館の大理石の廊下を歩くと、コツコツコツ、、、と自分の足音が高い天井に反響します。その反響音を聴くことで、今自分がどういうところに存在していて、何をしてるかを、自然にモニタリングできるでしょう。このように周囲のリアクションを知覚しながら、自分の存在を再認識するということを瞬間瞬間にやってるとしたら、そしてこのリアクションが一切なくなってしまったら、自己認識の感覚がかなり狂ってしまっても当然だと思います。ひいては自分の存在、実在についても怪しくなってきてしまうでしょう。「俺って、本当に居るの?」って。
このように、空間感覚というか、自分の周囲の空間や場所の認知というのは、人間にとってとても大事なことなのでしょう。それは人間のみならず生き物にとって生存に関わる重要事項なのだと思います。目が醒めたら全然知らない所に一人ぼっちでいて、それが日本なのか外国なのかもわからず、また自分がなぜそこにいるのかも分からないという状況が延々続いたら気がおかしくなるでしょう。とりあえず呼吸が出来る、酸素があるという空気の確認に始まり、寒くないか暑すぎないかの気温の確認をするでしょう。これらは肌を刺すような冷気や、じっとり汗ばむ熱気という「外界からのレスポンス」によって知覚できます。さらに、建物の中に居るのであれば、誰のどういう種類の建物なのかを知り、ドアが閉まっていたら開けてみてロックされていないかどうか、閉じ込められていないかどうか確認するでしょう。さらに、周囲はどういう地形になっているか、都会なのか、荒野なのかなどを知ろうとするでしょう。とにかく外界を知ろうとし、五感の作用でそれに触れてみて確認する。
動物においても同じで、自分の周囲のテリトリーを知るということは、彼らの生存において非常に重要な要素なのでしょう。引越しに猫を連れてくると、全く新しい環境の下で、猫達は勤勉に周囲を探検しまわります。ある程度周囲の状況が把握できて、やがて日常が始まっても、猫は日々自分の縄張りを歩いて変わったことがないかを常にテリトリーの確認しています。極端な話、数時間単位で変わるような変化、つまりどこの窓が半開きになっているとか、どの椅子の上に荷物がおいてあるとか等にについても、あの小さな頭脳のなかにキチンに折りたたまれているようです。ウチにも猫がいますが、僕に叱られてピューっと逃げるときでも、彼らは常に的確に逃げ道を把握しています。
今は「音」や「空間」について書きましたが、社会的にも同じ原理が働くように思います。
自分がなにをしようが、周囲から100%許されて、なんの制約も受けなかったら、次第に自己認識や存在感覚がおかしくなってくるでしょう。「許される」という部分を「無視される」と置き換えると、このことは一層分かるでしょう。あなたが町に出て、そこらを歩いている人に誰彼なく話し掛けても100%完全に無視されたらどういう気持がしますか?話し掛けるどころか、ぶん殴ろうが、足をひっかけて転ばそうが、駐車してる車をボコボコに壊そうが、ショーウインドウを叩き割ろうが、周囲の人から完璧に無視されたら、あなたは多分発狂に近い状況になると思います。「俺って居るの?」って気分になるでしょう。
子犬や子猫、いや人間の子供だってそうですが、ありとあらゆる悪さやイタズラを試みて、一日中叱られてます。あれはどこまでだったらOKで、どこから先は許されないのかを確認する作業なのでしょう。自分はどれだけ自由なのか、自分はどれだけ周囲から許され、愛され、憎まれているのか、四方八方に探査ソナーを発し、そのレスポンスをもって把握する。それは、どうやって生きていけばいいか、どうやっていれば安全なのかという、生存においてエッセンシャルな事項の確認なのでしょう。
考えてみれば、成長していく過程で常にこの「コール&レスポンス」みたいな確認作業があったように思います。自分が成長するとともに徐々に活動範囲が広がります。自転車を買ってもらえば遠くに遊びにいき、夜遅く帰ってきたらブン殴られたり、勉強しないでサボってると怒られたり、成績が悪いと怒られたり、ゴハンをこぼしたり残したりすると怒られたり、、、なんか怒られてばっかりみたいですが、それは正しいことだと思います。子供は怒られるのが仕事、親や周囲の大人は怒るのが仕事なのでしょう。怒られること、そしてその強度によって、なにがどれだけ許されるかを知る。自分の自由の範囲を知り、自分の力の範囲を知り、そして自分自身の社会的な存在を知る。
長じてからでもこの種のレスポンスによる教育は続きます。好きな異性(人によっては同性)が出来て、つきあいが始まると、それは新たなコール&レスポンスの応酬です。どういうことが許され、どういうことが許されないのか、これまでの自分とは全く違う原理で生きている種族と接触するのですから、いちいち勝手が違いますし、ある意味毎日が戦闘状態みたいになります。かなり面倒臭いですね。でも、ここをしっかりやっておかないと、あとあと禍根を残します。勝手な思い込みや幻想は、若いうちに徹底的に破壊されておいた方がいいでしょう。さもないと、いつまでたっても「男心・女心のわからないコドモ」のままであり、もっと面倒くさいことになるでしょう。「女(男)はそれが許せない、それが嬉しい」という心理の機微をわきまえずに進むと、年相応の包容力なんか望むべくもないでしょう。
結婚したらしたで新たなラウンドの始まりです。それまで問題にならなかった、より動物的な部分や、より哲学的な部分がクローズアップされてきます。動物的な部分というのは、イビキがうるさいとか、トイレが長いとか、寝起きが悪いとかいうことです。哲学的な部分というのは、例えば老後の設計やどこの墓に入るのかなどの話題で死生観が問われ、どちらの実家にどれだけ帰るかで家族観、家族制度観が問われ、子供の教育になれば教育観や人間間が問われます。ありとあらゆる局面が戦場となり、異なる価値観同士で戦線が展開され、強烈なレスポンスを立て続けに受けながら、「そうか、こいつはこーゆー奴なんだ」というデテールをイヤというほど思い知らされ、「こーゆー人間と一生連れ添って死んでいくのが私なのだ」という自己のおかれている状況を認識します。
仕事をするようになれば、また新たなレスポンス(叱責と怒号)の嵐です。
口のききかた、お辞儀の仕方にはじまって、この日本社会で生きていくためのシキタリが叩き込まれます。上座下座の区別、お酌の仕方、カラオケの勧め方なんて酒席や接待のイロハも教えられます。そしてビジネス案件への切り出し方、商談の進め方、押しかた引き方、貸し借り勘定、スジの通し方といった具合に上級レベルに進みます。上司との付き合い方なんてのは初級レベルでいいのですが、難しいのは部下との付き合い方だったりします。さらに高次のレベルになると、マスメディアとの付き合い方、ヤクザ連中との付き合い方(避け方)、議員先生との付き合い方、銀行、消費者団体、ワケのわからない団体、、、との付き合い方を覚えます。大企業の部長クラスになれば、このあたりは一通りマスターしているでしょう。
もちろんこういった日本のシキタリの中には、Bullshitなものも多々あるでしょうし、いい加減改めた方がいいものもあるでしょう。それがイヤで海外に出てくる人もいるでしょう。
ちょっと余談になりますが、僕もそんなに好きではないですが、でも拒否するにせよ、スキルはスキルとして完璧に近いくらいにマスターしたおいた方がいいと思います。それは、批判するなら、批判対象を完璧に理解把握すべきだというのが一点。誤解や理解不完全に基づく批判は、批判として全く効果がないだけではなく、批判者のアホさ加減を浮き彫りにするだけであり、それはひいてはあなたの将来の発言力を減殺します。早い話が、何を言ってもわめいても、誰も馬鹿にして聞いてくれない、少なくとも現状を変更できる力をもってる人間に聞いてもらえないってことです。それじゃあ現実は変わらないし、明るい明日はやってこない。
第二に、一見くだらなく見えるシキタリの中には、舌を巻くような人間の叡智が詰め込まれている場合が多く、シキタリに盲従する必要はないまでも、その叡智部分はしっかり戴いておいた方がいいってことです。そのシキタリのなかに埋没して、自分の個性も価値観も喪失してしまうという愚は犯さないにしても、エッセンスの部分は賢くパクれ、学べってことですね。具体例を挙げた方がわかりやすいとは思うけど、話が横道に逸れすぎるので割愛します。これまでのエッセイでも色々書いてますし。
第三に、もしあなたが海外で働く気があるのでしたら、日本社会のリアリティはきっちり把握してきたほうがいいです。これには二つの意味があります。一つは海外に出た日本人の労働力としての価値は、往々にして日本を知ってること、日本語が出来ることだったりします。いわば日本のエキスパートしての役割が期待されます。日本人顧客を持つ企業、日本市場への展開を狙ってる企業などですね。逆に英語が出来ることなんか、英語圏だったらその価値はゼロに近い。だって誰だって出来るんだもん。周囲はネィティブ、一生頑張っても追いつけないレベルの連中が周囲の99%であり、多くの場合はあなたは最下位1%に位置するでしょう。だから英語が出来るのは武器ではなく、英語が出来ないというマイナスをどれだけ減らせるかという点に意味があります。完璧に出来て当たり前。同じ給料払うんだったら、一回で意味が通じる部下の方が、何度も同じことを言わねばならない部下よりもいいですよ。だから、日本文化に精通していること、日本人を喜ばせ、日本人との商談の進め方、日本のシキタリに精通しているのが、労働市場におけるあなたの特殊価値になる場合が多い。もう一つの意味は、自分の母国社会のリアリティやシキタリすら把握できない程度の洞察力と理解力だったら、異国社会のシキタリやリアリティを洞察することもまた困難だからです。自分が置かれている状況を把握することは、サバイバルの必須条件でしょう。
第四に、環境への順応性というのは一つの技術ですから、技術は磨いておいた方がいいということです。日本国内でも関西に住んだら関西弁を喋り、九州にいったら九州流のつきあいに馴染む。サラリーマンの世界に入ったらサラリーマンになり、土木現場の飯場にいったらそのように振舞う。逆説的に聞こえるかもしれませんが、カメレオンのように環境に順応する能力が高ければ高いほど、逆にあなたの核心にある個性は守られると思います。「朱に交われば赤くなる」と言いますが、技術で済ませられるものは技術で済ませる。表面上赤くなれば良いのであれば表面的に赤くなっていればいい。そうすれば内部まで赤くならずに済みます。この順応性が乏しい人ほど、馴染めずにギクシャクして大変であるのと同時に、時間をかけて馴染んだときには魂の芯まで真っ赤に染められてしまう危険があるように思います。まあ、そういう人の方が一本気で好感が持てる場合もあるのですが、「適当に合わせて波風を立てない」程度の処理で済む場合も多く、それ以上コミットしても大した意味もない場合もまた多いです。
話は余談に逸れましたが、人生のあらゆるステージで、あっちに行っては壁にぶつかり、こっちに行ってはぶん殴られ、、、というレスポンスを通じて、自分の存在してる社会空間のありようを徐々に正確に把握していくということでした。
このレスポンスが正しければ正しいほど、あなたの状況認識は正確になりますし、状況認識が正しいほどあなたは道に迷わずに済みます。逆に、レスポンスが無かったり、ズレてたりすると、あなたは何かとやりにくいことになるし、ひいてはあなた自身の存在すらアヤフヤなものになり、船酔いまがいの気分の悪さを経験することになるでしょう。
ここまでが基礎編であり、ここから先が応用編になります。
僕らが「自由」というものを感じるとき、それも自由であることに心地よさを感じたり、あるいは自由を切実に求めるときというのは、自由を厳しく制約されていたり、制約されていたという事実なり記憶なりがあった場合だと思います。生まれてこの方ほとんど制約されたことのない行動は、それが自由であったとしても、特に自由であるとは思わないでしょう。
何を言ってるかというと、例えば「呼吸の自由」みたいなことです。「息をしてはダメ」なんて言われたこともないでしょうし、呼吸をした瞬間即射殺なんて目にもあってないでしょう(あってたら今ごろ死んでるって)。当たり前のように僕らは今この瞬間も呼吸をしていますが、それをいちいち「自由」だなんて感じないです。それが大事なことであるとも気付かない。でも、他人から強制ではなく、何らかの理由でそれが制約された人の場合、つまり喘息などの病気の場合、あるいは花粉症などでくしゃみが止まらなくなった場合、「自由に呼吸が出来る」という状況に憧れると思います。あるいは何かのアクシデントで閉じ込められて酸欠状態を経験した人は、「自由呼吸」を渇望するでしょう。つまり、何らかの形でそれを制限されない限り、自由という意識は生まれにくいということです。
門限が厳しいとか、服装チェックが厳しい、校則が厳しいなど、僕らの周囲は制約に満ちていましたし、そういった壁に接することによって、僕らの中に「くそお、卒業したらパーマあててやる」とか「一人暮らしするようになったら毎晩遊び歩いてやる」という自由へ願望が生じます。それは自然なことであり、それがあるから生きてられるというくらい大事なものなのかもしれません。
なんていうのか、ここは難しいところだと思うのですが、子供とか未成年者、あるいは未熟な人間に対しては、それに応じたリーズナブルな壁はガッチリはめてやった方がいいのでしょうね。もう泣こうがわめこうが「ダメなものはダメ」と。もちろん、行き過ぎた制約はトラウマとして禍根を残すし、既にトラウマを宿している人にはベースにある全面受容も必要だと思います。でも、多くの場合は、厳然とした、押しても引いてもビクともしない壁が必要なんだと思います。なぜなら、人はその壁の感触、それはゴツゴツした岩肌かもしれないし、冷たい鉄壁の感触かもしれないけど、その感触を通じて世界のリアリティを学ぶからです。そして、その壁が理不尽に思えて憎らしくなり、ぶっ叩いたり、蹴飛ばしたりして反抗が始まり、自由のための闘争が始まる。
自分の子供の頃や思春期の頃の記憶を手繰り寄せてみると、「なんだよ、きたねーよ、ひでーよ」とか文句言ったり反抗したりしている反面、同時に心のどこかではガツンと拒絶され、ブン殴られることを期待してもいたように思うのです。「甘ったれんじゃねー」って。そういうことされるとさらに腹は立つのですが、ここが複雑なところで、ムカつきながらも妙に納得してる部分もあるのですね。「そりゃそうだよなー」って。
結局、何を求めてたのかというと、力の限りやってみて「ここまでだ」という、境界線みたいなものが欲しかったのかもしれません。自分の力がこの世界でどの程度のものなのか試してみたかった、自分がどれほどのものなのかを知りたかったのかもしれません。自分の周囲のテリトリーをはっきりと確認したかったのかもしれないし、この世界がどうなってるのか知りたかったのかもしれない。多分こんな甘ったれた要求は通らないだろうなと思いつつも、一応言ってみて、ガツンとぶん殴られて、「あ、やっぱり。なるほどね」と納得したかった。
なによりも欲しかったのは「納得」だったような気がします。「そりゃ、そうだよなー」という。
マイナーなうちは頭の中が肥大化しますから、あれこれ妄想を紡ぎ出しては現実との境が無くなる。それがなんか気持悪いから、「これが現実だよ」というのを確かめたかった。スーパーマン願望というのがあるのですが、もしかして自分は空を飛べるんじゃないかと思い込んでしまうわりとポピュラーな妄想らしいですけど、その種のものに取り付かれるわけです。ちょっと通信教育で空手やったらすごく強くなったんじゃないかと妄想し、小遣いはたいていい服買ったり、化粧品にトライしたら、もしかしたらすごくモテるんじゃないかと妄想したりします。で、やってみたくなる。結果は惨敗でしょう。「わははは、俺はスーパーマンだ」と叫んで二階の窓から飛び降りたりするわけで、あえなく落下して足をくじいたりするわけです。重力の法則にからめとられて、なすすべもなく地べたに引きずり込まれる無力感を感じるとき、またくじいた足のズキズキする痛みを感じるとき、ミジメなんだけど、同時に「そりゃ、そうだよなー」という納得もしてると思うのですよ。強くなった幻想に引っ張られて喧嘩を売ってボコボコにされたり、モテるつもりで出かけていって嘲笑されたりしながらも、「そりゃそうだよなー」ってのはあると思うのです。違いますか?
「そりゃそうだよな」と思うようなことでも、一応トライして納得したいって気持は誰にでもあると思います。赤ん坊や動物がそうするように、一応、匂いを嗅いで、触ってみて、噛んでみて、「これは○○だ」と納得しないと先に進めないという。
物事や世界のリーズナブルな法則に従って、リーズナブルな壁があることは、大事なことだと思います。壁がないと、コール&レスポンスをして正しく世界や自分を把握しようとしても出来ないことになります。そういった壁があるからこそ、自由の存在を知るし、自由を求めるようにもなるし、それに対して戦おうという気にもなります。つまりは、そこから人生が始まる、と。
そして思うのは、今の日本にはこの壁があんまり正しく設置されてないのではないかと。
壁というのは「正しく」設置されてないとならず、その「正しさ」というのが難しいです。あまりにも強大すぎてしまうと人を負け犬にしますし、諦めの敗北主義に陥らせてしまう。あまりに理不尽だと馬鹿馬鹿しくてやってられなくなるでしょう。あまりにリーズナブル過ぎるのもまた問題で、適当に理不尽でないと、怒りとか反抗パワーが湧いてこないのですね。ゲームみたいなもので、難しすぎたら成立しないし、簡単すぎてもダメ。適当に難しくて、適当に乗り越えられるくらいのものがいいです。
ひきこもりとかニートとかいうのも、やってる本人も「こんなん許されるわけないよなー」ってどっかで思ってると思うのですよ。だから引きこもってる奴は餓死させろ、働かざるもの食うべからずでニートも餓死させろって極端なことを言いたいわけでもないし、家族の方を責めるつもりもないです。一番苦しんでいるのは当事者だと思いますからね。だけど、もしここで大地震や天変地異があって、養ってくれる家族も、家も全て消滅し、たった一人で荒れ果てた世界に放り出されるようなことがあったら、つまり自分が動かなければ餓死するしかないような世界になったら、案外と楽なんじゃないかなって。そのあとに餓死するかどうかは本人の選択だけど、そこにはリーズナブルな納得があるんじゃないかってことです。
僕も日本を出てきたのは、日本社会の「そんなわけないだろ」みたいな部分です。
いや、別に働いていたわけですし、それなりに稼いでもいましたけど、なんか「嘘くせえなあ」って部分はあったのですね。ちょっとばかりお勉強が出来て、司法試験通って、弁護士やってね、それで人生OKみたいなのって嘘じゃないのか?って。それはたしかに激務でしたし、この世のリアリティをつぶさに見る機会はあったんのだけど、なんか僕が思ってる「コール&レスポンス」じゃない。どっかズレてる気がしたのですね。この程度の努力でこんなにメシが食えたらいけないんじゃないかって。僕が思ってた世界のリアリティというのはもっとシビアなもので、なんか気持悪かったのですね。
だから海外に来た、という部分はあります。自分の全能力全存在に見合っただけのレスポンスが欲しいと。
こっちでは確かにレスポンスは日本よりも納得できる部分は多かったです。英語が出来なきゃ苦労しますしね、それも半端じゃない苦労をさせられますしね。ちゃんと地図を持ってないとすぐに迷いますし、延々とぼとぼ歩かされたりします。面倒臭がって手を抜くとキッチリお返しはあります。安物買いの銭失いも山ほどしましたし、みすみすチャンスを逃すようなことも沢山します。しかし、リーズナブルなんですね。いちいち納得できる理由があるのですね。「ま、そりゃそうだよなー、俺程度の実力だったらこんなもんでしょう」という、ね。それが結構スガスガしいってのはあります。
自分がそうだから他人もそうだと決まったものではないのですが、こちらに来られる人の中には、やっぱりそういう部分を求めてこられる人も多々おられるように思います。リーズナブルな壁がないと、自分の居場所がわからない、自分が何かもわからない、自分の存在すらもわからないという。正しい壁があるというのは、幸福になるための一つの条件だとも思います。
書いていて段々思ったのですが、今の日本、いやこれは日本だけではなく世界全体の話なのかもしれないけど、リーズナブルな壁が少なくなってきたような気がします。壁そのものが減ったり、曖昧になってきたというのもありますが、実はもっと問題なのは、細々した壁が少なくなった分だけ、巨大な見えない壁が出来てしまってるんじゃないかってことです。それは「世の中そのものを変えるという壁」です。これが段々見えなくなってきて、段々と難しくなってきている。
これがフランス革命当時のルイ○世みたいな絶対王制だったり、外国の軍隊に占領され日本人全員奴隷にさせられたりとか、分かりやすい「壁」があったら、人々もまた燃えると思うのですよ。これさえ打倒すれば世の中は変わるというのがあると、非常にやりやすいわけです。でもこんなに分かりやすい形ではなく、何が悪いんだかよく分からず、でも世の中や自分の周囲は着実に悪くなってるような気がする、でもどこに壁があって、どうしたらいいのか見えないというのは、厄介だなあって思います。
そういう社会になると、皆さんもう諦めちゃいますよね。なにをどうしたって変わりっこないよ、と。そもそも何をどう変えたらいいのかも分からないよ。諦めムードが世を漂うという。リーズナブルな壁にぶつかって、痛い目にあったけど妙に納得しているときに、「そりゃ、そうだよなー」というセリフが口をついて出ると思うのですが、壁がない(あるけど分からない)社会の場合、人々は「そりゃそうだよな」の代わりに、「ま、こんなもんでしょ」みたいなセリフを吐くのだろうと思います。似てるんだけど、その差は大きいですよね。
文責:田村
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