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今週の1枚(05.04.25)
写真は昼休み時のマーティンプレイス(City)
このシドニーに滞在している日本人をネタにした映画や小説を作れると思いますか?
作れそうな気もするし、一見出来そうでいながら実は非常に難しい気もします。
あなただったら、どんな物語を考えますか?あるいはそれは小説や映画になりうると思いますか?
作れそうな気がする理由は、やっぱり海外というのは日本と違うわけで、その異なった環境にモミクチャにされる人間の目の高さで表現すれば、スーパーで買い物ひとつすること、横断歩道を渡ること、それ自体すでに「冒険」になるわけで、ネタなんか無限に転がっているじゃないかってことです。特にシドニーは200以上の民族がひしめきあっており、世界と世界文化の箱庭として汲めども尽きぬ迷宮でもあるわけです。面白くないわけがない。
主人公、あるいは対象が日本人であると固定してみても、注意してみれば一瞬一瞬が固定観念との闘いであるというスリリングなものになるでしょう。日本文化にどっぷり漬かってきた僕らが育んできた世界観、人間観が、あっさり破壊されて原点リセットされてしまう、その破壊のされ方の鮮やかさというのは、確かにあると思います。僕などは、その面白さに魅せられ住み着いているようなものです。
さきほど「スーパーでの買い物一つ」と言いましたが、スーパーマーケットだけに対象を限定してもそれだけで映画が一本撮れるんじゃないかって思われるくらいです。例えば、生まれて初めてこちらのスーパーマーケットに入ると、まず感じるのはアホみたいな陳列棚の高さです。平均的な日本人女性の身長では届かないくらいの位置に商品があったりします。また、その棚の奥行きが深く、手前の商品が売れてしまって、奥の方にだけ残っている商品を取ろうとすると平均的な日本人男性の背丈でも無理ってことも往々にしてあります。「買えないじゃん!」とブツブツいいながら、周囲をうかがいながら、エンパイアステートビルに登るキングコングみたいに、棚によじ登って取ったりします。慣れてくると、実は踏み台があったり、商品を並べる店員さんのための移動梯子(昔の飛行機のタラップみたいな形をして、足にトロリー=車輪がついている)があるのに気付きますが、最初は、なんでこんなアホみたいな高さまで商品を陳列してるんだ、取れないじゃん、売る気あるんか?と思ったりします。アジア民族の体格的劣等感を味合わされたりもするのですが、でも、別にオーストラリア人だって背の低い人はいるわけで、よくオージーのおばあちゃんなどがピョンピョン飛び上がって商品をゲットしようとしてたり、棚の商品を取ってくれと頼まれたりします。
また、陳列棚が天井近くまで伸びており、最上段付近はただの「倉庫」だったりしますし、「この棚より上の商品は、下の棚にも置いてあります=この棚から上はストック用です」とかいう表示がなされています。だったらストックは万全かというと、そんなことはなく、商品が品切れのまま延々待たされるのも珍しくないです。POSシステムの導入の有無を問わず、日本では品切れのまま棚が空になってから数日も数週間も放置されるということはまず無いです。ここ20年ほどは、人気商品の発売当日などのレアケースは別として(話題の人気ソフトの発売とか)、普通のスーパーの普通の商品(マヨネーズとか)が「品切れ」であるという事態はほとんど経験してこないでしょう。「品切れ」という単語自体、滅多に使わなくなりました。ところがこっちは平然とそういう事態があるのですね。買いたいものが全部買えたらラッキーくらいなもんです。また、商品の補充がえらくトロい。1ヶ月、2ヶ月待たされることもあります。今の、家の近所のOFFICEWORKという巨大な(体育館くらいある)文房具屋で、CD/DVDをおさめるCDスリーブの品切れ補充を待ってます(好きな銘柄があるのだ)が、もうかれこれ3ヶ月くらい待ってるのではなかろうか。スーパーでおばあちゃんが、"I've been waiting for this one long time!"とか言ってたりします。
こういった品切れ状態が普段にあるという現実を目の前にしたら、買い物の仕方もまた変わってくるのですね。Aという店でなければ、同じチェーン店のBという店で探すというのはありふれた行動になります。車社会ということもあり、あちこち出歩いては、行き先の店に入って、「そういえば」と思って商品をゲットするという。しかし、プリンターのインク切れとかなると即時補充しなくてはならないから、こーゆーのが品切れだとカリカリきますね。また、常時ストックを備えておくようになります。日本にいるときは「無いものを買う」「なくなりそうなものを買う」という買い方だったのだけど、こちらにいると段々「ストック切れになりそうなものを買う」というストック補充ショッピング、会社の総務部や倉庫課長みたいになります。今日トマトソースがカラになってストックしてある新しいトマトソースの封を切ったら、即またストックを買っておく。ストック補充ショッピングになっていくと、スペシャル(特売)になってると取り合えず買おうかって話になります。安いときにまとめて買う。しかし、これが出来るのは、それだけ家にスペースが必要です。日本の居住環境だったら難しい部分もあります。コーラ3カートンとか置いてたら邪魔でしょ。
いったいこの国のロジスティクスはどうなっているんだ?遅れてるなーとか思うのですが、日本の22倍という国土の広さを考えると、それも仕方ないかという気になります。日本がシドニーあたりにあるとしたら、パースはベトナムとかカンボジアくらいの距離になりますからね。それだけの範囲をカバーしながら、人口は日本の首都圏ほどもいないのですから。POSシステムやマーケティングは遅れているのか?というと、意外に日本よりも進んでいる部分もあって、例えばスーパーのチェーン店でも支店が違うと商品構成や値段が違います。これが仔細に見ているとかなり徹底的に違ってたりして、いかにローカルマーケティングをやってるか、ですね。自動車保険の掛け金でも、住むエリアが違うと掛け金が違う、引っ越すと追徴金請求がきたり払い戻しが行われたりします。
そう考えると、スーパーのトロリー(ショッピングカート)が巨大なのも頷けます。子供が三人乗れるくらいデカいです。最初は「無駄にデカいな」とか思ってるのですが、慣れるにしたがってこの巨大なトロリーが埋まるようになっていきます。しかし、本家オージーのように、トロリー山盛り、場合によっては二台連結なんて量は買えないですね。牛乳10リットルとか一度に買ってる人をみると、どういう生活してるんだ?って気もします。ただ、このトロリー、3台に2台は車輪部分がヘタっていて、まっすぐ進んでくれなかったりします。空トロリーだったらまだしも、山盛りトロリーをこのヘタッた車輪で押して行くと、どんどん右に逸れていったりするのを強引に押さえ込んだりして、結構腕力使います。また、陳列棚の一列が長い。30メートルくらいあるんじゃないか。だから、列の端に立って、この列には何が売ってるのかなと見回しても奥の方はわからない。一応「この列には何が売ってる」とか表示はあるのですが、あんなもん一部しか書いてないからあんまり役に立たない。特に卵とかねー、「どうしてここに?」という変な位置にあったりするのですね。それがまた支店ごとに配列が違うから、「くっそー、どこに置きやがった」とヘタった車輪のトロリーを腕力で押さえ込みながら数百メートル相当の距離を歩かされます。そして巨大なショッピングコンプレックスの場合、レジを出てからまた駐車場まで延々押して行かねばなりません。よって、良いトロリーをゲットするのは非常に重要なことであり、そのためトロリー置き場では、ちょっと動かして車輪のヘタり具合を確かめ、「これは使えん」と皆が放置してあるトロリーが散乱してたりします。また、スペース節約のためにトロリー相互がはめ込めるようなデザインになってるのですが、はめ込みすぎて並の腕力では引き抜けなくなったトロリー達がいたりします。
一方マクロ的な視点では、オーストラリアは規模が小さい田舎市場なのでどの業界も寡占化が進み、すぐに一党独裁、二党独裁になります。スーパーマーケットだったら、コールズVSウールワースという二台巨頭がしのぎを削ってますが、しのぎを削って安くなるというよりも、カルテル的に共謀して高くなってるような気もします。先日もTVでスーパーのぼったくりぶりを放映してましたが、例えばジャガイモの生産者価格(スーパーの買い入れ価格)とスーパーの小売価格の差は、なんと2500%、いくら流通に金がかかるといっても、25倍もの値段で売ることは無いだろうと思いますよね。これに対抗する勢力はあるのか?というと、IGAがあったりして、なかなか経済的見地からしても、面白い構図になってたりします。
という具合に、スーパーについてだけも幾らでも新しい発見はあります。仔細に、注意深く見ていけば見ていくほど発見があります。もう10年以上買い物してますけど、未だに「ほお」と思うこともあります。「これ、なに?」というワケのわからん商品があったりもします。
しかし、これが映像化できるか、小説化できるか?というと、「うーん」と思ってしまいますね。
日常的な小さな発見が、自分の中の「スーパーとはこういうもの」「買い物とはこういうもの」という固定観念をバンバン打ち壊していってくれるのはある意味快感ですし、そうやって開けた地平からどんどん新しいものが見えてくるのはスリリングでもあります。が、こういったことは「頭の中の大冒険」で、内面的に開けていくのであり、外部的な「絵」としては、普通のショッピングしてるだけで全然面白くなかったりします。
スーパーに限らず、こちらで感動したり感心したりすることというのは、絵になりにくい。あまりにも壊滅的に英語が通じず呆然としていたり、ミジメな思いに打ちのめされたり、あるいは何度でも説明してくれたりする優しい人に出会ったときの嬉しさなど、頭の中は爆発状態になっているのですが、絵的には馬鹿みたいにボケッと突っ立てるだけだったりします。
すべからく感動というのは、内面的な精神作用であるので、外部的にはわかりにくいものなのですが、それでもまだ物語的な感動だったら外部と共有しやすいです。こーなーってあーなって、そして意外な結果が、、、という一連のストーリーを追いかけ、そのストーリーの起伏にそって感動が生じるのであれば、語りやすいし、映像化しやすい。しかし、スーパーマーケットの店内とか、いろんな国の人々のパーティーに招かれたときの空間感覚というのは、ストーリーではなく、「状況」であり、その場に立った人でなければ共有しにくいですよね。
だから、海外生活の面白さってのは、「自分でやってなんぼ」「やって楽しい」ものであって、見て楽しいものではないんじゃないか。それは、車の運転やセックスみたいなもので、自分でやらないと面白くない。車の運転だって、運転しているときは、絶えず前方後方側方に注意し、速度に注意し、道順を思い出しながらやるわけで、頭の中はスリリングに展開しているわけですが、運転している人だけ延々2時間映像化しても、面白くも何ともない。寝てる人を延々写しただけの実験映画があると聞いてますが、ああいう前衛映画でもない限り、見てて面白いってものには中々なりえないような気もしますね。
それはともかく、スーパーのような断片ネタではなく、もう少しまとまったネタとしてどういうものがあるか?ですが、 例えばワーホリさんの普通の一連の経過を描くだけでも面白いとは思います。
日本で働いてて「そうだ、ワーホリに行こう」と思い立って、情報収集をして、こちらにやってきて、言葉と異文化にボコボコに打ちのめされ、そこで日本人同士固まって終わりというイージーオプションに行くか、メゲずに現地に溶け込んでいくハードオプションに進むかの分岐点があり、後者を選んだ場合、日本人の「殻」みたいなものが打ち壊される瞬間があり、いろんな人と出会い、別れ、ジャパレスでバイトし、節約生活を楽しみ、タバコを手で巻き、ラウンドに旅立ち、地平線までひろがる農場でピッキングをし、聞いたこともない地名のところで息を飲むような景観に接し、バッパーの冷蔵庫で誰かに牛乳を飲まれ、荷物を盗まれ、でも皆に助けられて何とか旅を続け、そして出会った人とも全て別れ、最後の空港では、はじめに一人でやってきたように又一人ぼっちにもどり、やがて懐かしい日本の灯が飛行機の窓から見えてきて、着陸して、日本人ばかりの人ごみのなかに違和感バリバリのまま歩き、自宅に帰り、自室のベッドに寝転がり、見慣れた壁のピンナップ写真をぼんやり眺め、「あれはなんだったんだ」と思う------
まあ、これだけで一本撮れそうな気もしますな。
あるいは、「そうだオーストラリアに移住しよう」と思って、家族を説得し、資金を貯め、永住権獲得のためビザエージェントのもとに何度も足を運び、IELTS試験の難しさに泣きそうになり、念願かなって永住権を獲得し、イニシャルエントリーでオーストラリアの地に降り立ち、最初のセトルダウンのイニシエーションを経験する。不動産探しでまごつき、電気やガスや電話の手続きで途方に暮れ、買った家具のデリバリーで終日待ちぼうけを食らい、なにはともあれ職探しだと出かけていくと現地でのキャリアゼロという厚い壁に阻まれ中々就職が決まらず焦りまくる。子供のいる人は、子供の学校の手配に奔走し、子供が馴染めないとなったらまた気を揉み、かなり頻繁に開催されるPTAの会合に出席したらあまりにも会話が通じないので今度は親が”登校拒否”になる。そんなこんなでこちらに馴染んで楽しくやっていく人もいれば、「やっぱり帰ろうか」という話になって帰国する人たちもいます。
これはこれで一本撮れそうです。
お母さんと子供の親子留学なんかも山あり谷ありで一本撮れそうです。あるいは、こちらにきてオーストラリア人と恋をし、結婚して住み着いたという人も沢山います。
ただ、いずれの場合も、自分自身で体験したときの感動が100だとしたら、それを横からみてる人間の感動は10くらいだろうなーってことです。上記のワーホリさんの事例も、絵的には、英語がわからずシドロモドロになったり、能面状態になったりという、分からないまま気弱そうな愛想笑いを浮かべてたりというシーンが延々続くだけって気もしますな(^^*)。
思うに、この種の映画や小説は、題材とかネタではなく、イチにもニにも表現力が重要なポイントになりそうです。平板にストーリーを追うだけだったら、全然面白くないと思うのですね。絵的にも退屈だし。
海外に住んでいる日本人は(日本人に限らないけど)は、皆さん程度の差はあれ、一種の「居心地の悪さ」を感じてると思うのですね。どんなにオーストラリアが気持いいとか、住んでて楽とかいいながらも、自分の国ではない他人の国にいるというのは、身体的、皮膚感覚的な居心地の悪さを感じていると思います。それが身体感覚的に表現できたら素晴らしくリアルなものが出来ると思いますし、それが出てこなかったら絵空事になってしまうのではないかと。
逆に日本にいるときの居心地の悪さというのもあります。これは自分の家(特に実家)にいるか、他人の家にいるかの差に似てるのかもしれません。自分の実家というのは、確かに自分の居場所もあるし、勝手も知ってるし、気楽です。でも余りにも知りすぎていること、家族相互で知りすぎていることが、ある種の息苦しさというか、煮詰まったおでんみたいなやり場の無さがあったりします。他人の家だと、この種の煮詰まりはないのですが、今度は居場所があるんだかないんだか分からない宙ぶらりんな感覚を絶えず(無意識的にせよ)抱くことになります。
この無重力空間的な不安感が、画面の何処をとっても通奏低音のように鳴っていたらいいなあって思います。海外に出て張り切って仕事をしていまーす!成功してビッグになりました!なんて薄っぺらな物語を作ってもしょうがないし、日本からみたら海外でガンガンやってるように見える人でも、ときとして「結局、俺ってよそ者なのね」ってイジけたくなる瞬間はある筈です。だって、客観的によそ者なんだもん。「目をつぶれば世界はなくなる」とばかりに、そうそう主観パワーで客観認識を押さえ込めるわけもない。
無重力空間で「船酔い」しないためには、根本的に自分のアイデンティティを組替えなおす作業も要求されるでしょう。「自分は日本人で、いま外国に住んでます」というどうしようもなく事実の状況認識があるわけですけど、「自分は今ココに住んでます。もとは日本だけどね」に変わり、さらに「自分は自分でいま存在してます(何処に?とか昔は?とかいうのは付帯情報に過ぎない)」という具合に変わっていくんじゃないかと。アイデンティティの中の土着性みたいなものを削ぎ落としていく作業です。東海道新幹線に乗ってるとき、あなたの状況認識は「新幹線に乗っている」だけで、たまたまその車両が今静岡県を通過していても、「私は今静岡県にいます」とはいちいち思わないように、自分はいまオーストラリアにいるっちゃいるけど、別にそれはどうでもいいのだって感じになっていくんじゃないかな。大事なのは、自分が今ここに居て、生きているってことだけだよ、それ以外は全部付帯状況だよって。そうなっていくと楽ですけどね。
この意識の変遷を、カメラや文章で「身体的に」表現できたら、それはもう素晴らしいなって気がしますね。
あと映画や小説にするのだったら、ドキュメンタリーにしない方がいいと思います。100%フィクションにした方がいいです。これはハッキリそう思います。
なぜかというと、ドキュメンタリーっていっても結局は虚構だからです。僕自身、弁護士時代その仕事ぶりをドキュメンタリーで撮られてTVで放映されたことがあります。かなり質の高いドキュメンタリーフィルムに仕上がったわけですが、その経験でいっても、やっぱり一つのテーマのもとに、「絵になりやすい」「わかりやすい」ストーリーや情景がどうしようもなく求められるわけで、当然のことながら演技や「やらせ」が入ってきます。その点は特に批判したいとは思いません。製作スタッフも非常に誠実にやっておられましたし。ただ、ドキュメンタリーである以上、100%虚構の出来事をデッチあげるわけにはいかず、そうなるとどうしても素材が重要になり、素材を見つけきれなかった時点でアウトになってします。また、ある程度素材が集まったとしても、それがコンセプトを語る上でベストの事例か?というと、必ずしもそうではないでしょう。つまり取捨選択するにせよ、現実の素材という制約がはまってきてしまうわけです。これはやりにくいだろうなって思います。
ある特定の事件や出来事を徹底的に取材するならドキュメンタリーは有効な手法だと思います。特定の出来事の詳細をリポートすることに意味があるのですからね。でも、抽象的なテーマに導かれて素材を集めてドキュメンタリーにすると、これはもう取捨選択というレベルを超えて、情報操作じゃないかってくらいのものになりえます。例えば、通り魔の犯行があったあと近隣住人の恐怖と不安の声を集めてみましたみたいな、ありがちのパターンの場合、「恐怖と不安の声を集める」という「テーマ」が最初からあるわけです。そして画面には「ほんとに恐いです」「子供が心配で一人で遊ばせられません」という主婦Aだの通行人Bだのが登場するわけですね。でも、実際に通り魔犯行があった地点から数百メートルのところにたまたま住んでいた経験を持つ僕の感覚でいえば、たとえそのときにマイクをつきつけられても「ふーん、そんなことがあったの?」くらいのボケた反応だと思います。別に恐いとは思わんかったし、もっとリアルに言えば「知ってる場所がTVに写ってちょっとうれしい、ほお、TVカメラを通すとああ見えるのか」とか思ったりするくらいです。本当にリアルに周辺住民100人に聞いて、そのままインタビューしたら、「あんたらマスコミが騒ぎを大きくしてるだけだろ」って声もあろうし、「全然知らんかった」という人もいるだろうし、「商売の邪魔だからどいてくれよ、あの中継車駐車違反じゃないか、仕入れのトラックが入れなくて往生してんだよ、こっちは!」という怒りの声もあるでしょう。本当に本気で皆が恐怖のどん底に叩き落されたら、町はゴーストタウンになりますわ。「恐いわねえ」とか言いながら皆ゾロゾロ歩いてるわけで、要するに誰も真剣に恐がってないんじゃないの?って。でもそれじゃ「ドキュメンタリー」にならないから、情報操作まがいの取捨選択が行われると。
そういえば、東京の地下鉄でサリンが撒かれたときも、利用客がガタ減りだといっても完全にゼロになったわけでもない。それどころか結構乗ってたりするわけです。「警察が改札で利用客の荷物を検査するなど、厳しい警戒態勢が続いています」とか言ってるくらいだから、「利用客」はいるわけでしょ。皆が真剣にビビって地下鉄のらず、1時間に一人くらいしか乗らなかったら改札の警備もヒマを持て余してあくびしてるだろうし、第一カラの車両にサリンを撒く馬鹿はいない。
話は逸れましたが、そんなに映像化しやすく、物語化しやすいように現実の出来事が起こってくれない以上、出来事や素材の取捨選択や、演出や強調は止むを得ないところでしょう。ただ、事柄の性質上100%完全虚構というわけにはいかないという内在的な限界はあるし、たまたま集まった素材に引っ張られると全体のバランスも悪くなるし、またやりすぎると嘘っぽくなるし、そこがドキュメンタリーの難しいところです。
以前、オーストラリアのインディペンデント映画で、”Hell Bento”というのを見たことがあります。スタッフが日本にいって、いろんな日本人にインタビューしてるわけで、そのインタビューをあんまり編集しないでそのまんま延々見せてくれるのはいいのですが、出てくる人が特殊すぎるのですね。大阪のヤクザとか、横浜ケンタウルス(伝説のアメリカ型おっちゃん暴走族)のリーダーなど、日本にいても中々その存在を知られないような人々が、それぞれの視点で日本を語るわけですが、それはそれで興味深くはあるのだけど、これで等身大のリアルな日本が表現できているのかというと、かなり疑問でありました。
そんなんだったらいっそのこと100%完全フィクションで作ったほうがいいと思うのですね。村上春樹がどっかのエッセイで書いてましたが、ドキュメントというのは現実から出発して虚構に向かい、フィクションというのは虚構から出発して現実に向かうと。僕もそのとおりだと思います。フィクションの方がより真実を伝えやすい、伝えやすい場合が多いのではないかと。
海外生活の、エキサイティングなんだけどトホホな切なさというのは、これは表現するのはかなり難しいと思います。エピソードも練りまくって、画面も練っていかないとならないでしょう。そこへもってきて上記のドキュメンタリーの制約がかかると、もう事実上表現不能って気もします。また、監督をはじめ製作スタッフがその「とほほ感」を自分自身の身体感覚として共有してないとならないでしょう。
ともあれ、海外に居る日本人が着いていきなり現地にバンバン溶け込み、地元のヒーローになるとか、アクション満載の活躍をするなんてことは絶無に近いと思います。リアリティは、たえずオドオド、きょろきょろ、おっかなびっくり生きてるだけでしょう。僕だって未だにそうですよ。だから、胸がスカッとするような溌剌とした物語なんかそうそう無いです。じゃあ、詰まらないのかというと、これがメチャクチャ楽しかったりするので、そのあたりの「やってる奴」と「見てる奴」のギャップの激しさというのがあるわけです。いっつも英語が通じず、何を買うにも注文するにも"sorry?"と聞き返されていた僕が、今日はいちども"sorry?"と言われずに注文できたぞ!というのは、個人史的にはモニュメンタルな出来事であり、「胸がすくような活躍」だったりするのですけど、客観的な絵としては単にタドタドしい英語で注文してるだけだったりしますからね。
というわけで観客の皆さんに波長同調してもらうためには、主人公の視線で視界が展開していき、目の前にきたオージーが何か言っても、日本語字幕が出ないのがいいですね。観客も何を言ってるのか分からない。「げげ、何を言ってるのかさっぱり分からんぞ、やばいぞ」というドキドキ感が画面に出るといいですね。周囲を見回すと皆が自分を注目してる、段々話し掛けてきた相手も不審そうな顔をしてる、「わー、まずいぞ、何か言わなきゃ、、」という。結局なんにも言えずに、「ダメだこりゃ」みたいにシュラッグされたり、無視されたり、冷笑されたりするミジメさ。これは基本でしょう。そして、そのミジメさから出発して、それが段々わかってくる、、、というほど英語なんか簡単に上達しませんが、わからなくても構わず自分の言いたいことだけ言う、なんとか話を通しちゃうというクソ度胸がついてくるとか、なんというか「太く」なって、現地に馴染んでいく過程が表現できたらいいなと思います。
なんかミジメさばっかり強調してるようだけど、あらゆる在外日本人の問題というのは最終的には言葉の問題に帰着するんですよね。これは、ずっと昔西オーストラリアの日本人会の会長さんが書かれた文章にもありましたけど、「言葉さえ出来れば」というのはあります。逆に出来ないから、待ちぼうけ食らわせたデリバリー会社に電話して文句も言えない、医者に行きたくても病状を説明する自信がないから我慢しちゃう、よく聞き取れないまま生返事してるからあとで飛んでもないことになる、パーティに招かれても喋れなくて孤立するのがイヤだから行かないとかね。
その現実はちゃんと描くべきだと思います。さもないと、在外日本人が(経験者も含めれば)いまや数百万人ともいわれる昨今、説得力のある空間は構築できないでしょう。観客も成熟してきてるし、成熟すれば、絵空事っぽいサクセスストーリーなんか見向きもされないでしょう。それは例えば、なんでも万能のスーパーサラリーマンがトントン拍子に出世して、ポルシェに美女に別荘生活をエンジョイしてるだけの映画なんか誰も見たくないのと一緒です。「け、そんなになんでもかんでも上手くいったら苦労はねーよ」って。「冷静と情熱のあいだ」という映画を見たときも、「けっ、ちょっと留学したくらいでそんなにイタリア語が上手くなったら世話ねーよ」ってドッチラケましたもんね。
また、この現実を描くのは、そのあとに訪れる感動を質の高いものにするためにも必要でしょう。オーストラリア人のもってる人のよさ、こだわりの無さ、言葉なんか吹き飛ばすような笑顔の魅力、心の底から気にしてないんだなという差別意識の無さ、どうしようもなく善意があふれ出ているような顔、そして彼らとの交流の温かさが分からないでしょう。彼らの本当の美質である、異民族異文化に対する寛容性が描けないでしょう。寒いからこそ温もりのありがたみが分かるように、寒さを描かないと本当の意味で人間同士の交流の温かさが描けない。また、周囲を見回せば、同じような立場で頑張ってる英語以外の言語を母国語とする人々が沢山居ます。それまで名前だけしか知らず、どこにあるかもよく分からないような遠い国の遠い存在だった人々と、一種の連帯感や同志的な感覚すら抱いてしまうという不思議さ。
知らない異国のストリートで、失意と疲労にへたり込みたくなる。"I'm nobody"という無力感。一回ここで「みそぎ」のように、「ただの人間」に戻って、話はそこからだと思います。事前に収集した情報など屁の役にも立たず、多少なりとも勉強したはずの英語もあっさり粉砕され、万策尽きて「ただの人」になること。これまでの日本社会で後生大事に抱えていた恥だの、見栄だの、自分自身に対する嘘だの、くだらないプライドなどを全部ぶっ壊されてから、本当に始まるんだということは大事なことだと思います。ただの人である自分を皆が(全員が全員ってわけではないけど、もちろん)、愛してくれる、受け入れてくれるというのは、けっこう得難い体験なんですよね。「なにをリキんでたんだ、俺は」という気になれることの貴重さ。
あとは、映画のコンセプトになるのかどうか分からんけど、在外日本人は、トホホ的なミジメさと居心地の悪さ、居場所の無さを感じたりもしてるって書きましたけど、でも、それに負けてませんよ(まあ、負けちゃってる人もいるとは思うけどさ)。現実はハードだけど、そのハードさに打ちひしがれているばかりではなく、それらを相手に「闘って」ます。色んな人が、色んな立場で、色んな方法と表現で、闘ってます。この「戦ってる」感じが描けたら最高だなって思います。日本から一歩も出たことない人、というか海外でなんの保証もないまま一人ぼっちで戦ったことのない、いわば”本社の連中”にはわからんかもしれんけど、”現場”ではそれなりに戦ってます。
以前、山崎努や真田広之が主演した「僕らはみんな生きている」という映画では、内乱やクーデターの相次ぐ国に駐在させられたサラリーマンの悲哀と奮闘ぶりを描いていて面白かったです。最後に、ゲリラ軍だか政府軍だかに銃をつきつけられながら、ブチ切れた真田広之が「おいこら、山猿、てめーら、日本のサラリーマンをなめんじゃねえ!」って啖呵を決めるところが良かったです。
今度撮るとしたら、駐在さんではなく、自分の意思でやってきて、ハードな環境にもまれ、自分自身を削ぎ落としていき、「一個の人間としての自分」を再生させていくプロセスを説得的に描けたらいいですよね。言葉にしちゃうとカッコいいですけど、だから実体は、「厳しい修行の末」とかいういいもんじゃなくて、オドオドしながらピンボールのようにあっちこっちに弾き飛ばされたりしているわけです。けっこう恥ずかしかったりもするんだけど、でも、それは「恥」じゃないです。本当の意味でのプライドをもって小突き回されていたらいいと思います。そのドタバタぶりは、かなりコミカルなタッチで描けるだろうし、かなり悲喜劇ではあるんだけど、最後には感動に変質していくはずです。チャップリンの映画みたいにね。なぜって、現実がそうなんですから。
文責:田村
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