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今週の1枚(04.11.15)
ESSAY 182/call a spade a spade アンチ馬鹿対策
写真は、Balmain。どこにいっても坂の多いシドニーです。
call a spade a spadeという英語の言い回しがあります。ありのままに言う、直言する、あからさまに言うという意味で、ぶっちゃけて言うことですね。spadeとは農具の洋鋤(すき)や鍬(くわ)のことで、シャベルみたいなものです。call a spade a (bloody) shovelという言い方もあるそうです。
「はっきり言わせて貰うけどさ」「スペードはスペードだろ」「スペードと言ってはマズイの?だってスペードじゃん」という、やや開き直ったかのような身もふたもないストレートな言い方を意味するのですが、別に農機具が問題なのではなくて、実際には「スペード」には色々な意味が入るのでしょう。例えば、「貧乏人を貧乏人と呼んで何が悪い?」みたいな。そのなかで、”馬鹿”という言葉が入る場合も大いにあるでしょう。「だって馬鹿じゃん」と。
しかし、世の中そんな簡単に「スペード」とはいえません。言ったら最後、面倒な問題が湧き上がってきてしまいます。だから中々言えない。言えるくらいだったら、最初からこんなフレーズわざわざ作ったりしないでしょう。
世の中、馬鹿はたくさんいます。馬鹿ばっかりと言ってもいいくらいです。その馬鹿の中にはもちろん僕自身も含みますし、失礼ながらあなたも含まれるでしょう。森羅万象の世界の広がりと奥行き、複雑微妙な変化を考えたら、それを全て理解できる人間などいる筈もない。今日まで人類が営々と築き上げてきた全ての知識の集積と技能の深さの絶対量を考えてみたら、一人の人間がそれらを理解できる範囲は何千分の1ないし何万分の1に過ぎないでしょう。一人の人間が、最先端の量子力学の議論に精通しつつ、フラメンコがプロ級に上手くて、旬の魚に名人芸の包丁を振るう、、、このくらいだったら可能性として、そういう人間がいるかもしれません。しかし、同時にヒマラヤ登山をやって、体操競技のムーンサルトが出来て、中世カンボジアの歴史に精通し、牛の乳絞りと羊の毛借りがメチャクチャ上手で、点字や手話が出来て、車と先物取引の営業経験があって、原子力発電所の設計管理が出来て、中世地中海のコンメンダ契約の生成と発展に詳しく、ヒンズー教の教義に造詣があり、刺繍と編物が趣味、、、という人は居ないでしょう。
「何でも出来る人」というのはいるけど、本当に何でも出来るわけではないです。それは昔々の話だったら、人間の活動領域なぞ限られてましたから、ある程度全部出来る人はいたかもしれない。稲作技術がやっと伝わった頃、人間がやってたことは、原始的な農耕と、他部族との戦闘と、家や柵などのインフラ土木と、服や道具を作る程度でしょうし、このくらいだったら頑張れば全部一人でマスターすることは出来たでしょうし、そういう人もたくさんいたでしょう。しかし、段々と分業化が進み、いろいろな職業が登場してくるにしたがって、一人で全部マスターするのは不可能になります。そして時代が下るにつれ、分業化細分化は留まるところを知らず、例えば医療でも、口から胃まで1センチ違うともう専門が違うというくらい細かく細かく分かれていきます。
殆ど無限といってもいいくらい細分化された今の世の中で、人はほんの一つか二つの専門領域を持ち、圧倒的大多数の不案内な領域を持つことになります。その領域について不案内であり、無知であるから、ついついスカタンな意見を言ったりする奴を”馬鹿”と呼ぶならば、この世の中馬鹿でない奴はいません。そういう意味では、僕もあなたも皆そろって仲良く馬鹿です。
で、それが何なの?というと、民主主義やっていくのも大変だよねってことです。
皆の頭の中身が同じようで、目に映ってる世界観も同じだったら、なにかについて議論しましょうといっても、共通の土俵もあるし、噛み合わせもいいです。同じ村に住んで同じように田んぼを耕していたら、「今年は台風が早く来そうだから早めに刈り入れを済ますべきか」という議題で議論しても、十分に噛みあっていくでしょう。
ところが、現代のように細分化されてきたら、Aさんが見てる日本と、Bさんが見てる日本とではずいぶん見え方が違ってくるんじゃないでしょうか。医者という専門的ポジションから見える日本社会と、金融関係の人が見る日本社会はナチュラルに違ってくるでしょう。老後の医療福祉の政策を考える場合でも、医療的見地から描く理想像と、財政金融の見地から描くのではかなり違ってくるでしょう。同じように栄養学専門の人は老後の食生活を考えるだろうし、日本の家族主義を懐かしむ人は「親には孝」の醇風美俗と退廃を嘆きたくなるだろうし、建築関係の人はバリアフリー建築の可能性を模索するだろうし、もう千差万別といってもいいでしょう。でもって、当のおじいちゃんは何を考えているかというと、新しく出来たガールフレンドのことを考えてたりするのですな。
このように専門が明確に区分されているうちは、「あ、違うんだな」ってのが分かるからまだやりやすいです。違ってるのを前提に、各方面から知恵を出し合って、いわゆる「衆知を結集して」と生産的な作業が出来ます。しかし、必ずしもいつもいつも、諮問委員会とかパネルディスカッションみたいに各種専門の多様性がクリアになっているわけではないし、誰かが統合的に考えるわけでもない。一杯飲み屋さんでの議論になると、各人がそれぞれ好き勝手なことを吼えてそれで終わりってことにもなります。でもって、こと自分の専門分野に限って言えば、他の連中は素人であるし、造詣もないし、「馬鹿同然」に見えたりしますから、「しょーがねえなあ、こいつらは」とおもったりもします。
医者とか建築士とか職業的な専門性だったらまだ分かりやすいですけど、ライフスタイルや人生経験になると、さらに様々です。子供を産んだことがある/ない、地方出身/都会出身、長男/末っ子、勉強が出来た/出来なかった、モテた/モテなかった、身内に犯罪をおかした人がいる/いない、マスコミ報道で迷惑を受けたことがある/ない、海外に暮らしたことがある/ない、風俗産業で働いた経験がある/ない、、、、こんなの数え上げていけばこれも数百数千のオーダーであるでしょう。ライフスタイルや経験が違えば、見てきた物事も違うでしょうし、見てきたものが違えば世界観も違うし、だから意見も違ってくる。当然です。また、大きな差としては世代の差というのもあります。これも実は細かくて、25歳の人だって22歳の人を指して「最近の若い人は」という言い方をしますもんね。
ところで、この種の差異に基づく意見の違いというのは、職業的専門性に比べてわかりにくいです。専門性が明白に見える場合は、いくら相手の意見がスカタンに思えても、「素人なんだからしようがないや」と思うことも出来ますが、見えにくい経歴経験の差に由来する場合は、「なんでこんなことが分からないのか」「こいつは鬼か、冷血か」と思えたりして、時として話し合いの余地がなくなってきます。もう感覚が全然違うとしか思えないし、だから「新人類」とか「宇宙人」とかいうレッテルを貼ったりもするのでしょう。
単一民族・モノカルチャーといわれる日本ですらこうなのですから、世界規模で見ていったらもう接点なんか何もない、生物学的にホモサピエンスであるという以外に何の接点もないような人々もたくさんいるでしょう。それでも、民主主義を標榜している以上、「話し合って」解決していくしかないことになります。いや、大変な話です。話し合ってとかいうけど、そもそも話し合えるの?分かり合えるの?という疑問もありますし、現にパレスチナ・イスラエルをはじめとして、北アイルランドでもどこでも話し合いが破綻しかかってるようなケースも多々あります。
かといって、民主主義にとって代わるシステムも無いんですよね。封建主義の絶対王政だったら、誰が何をどう言おうが王様が「右」と言えば右にいきます。意思統一なんかする必要ないですし、その意味では話は楽です。しかし、こういう超越的な絶対者がいるというシステムは、その絶対者がアホだった場合、とんでもない悲劇を招きます。なんせその絶対者を選ぶことも出来ないし、途中で降板させるわけにもいきません。民主主義の効率の悪さとまどろっこしさを思うと、ふと絶対制だったら楽なんだろうなと思ってしまいますが、いざ本当に君主主義になって、金正日みたいな人が日本の君主になって彼の一存で自分の命すら決められるというのはやっぱりイヤですよね。逆に、この人だったら自分の人生を決めてもらってもいいやと思えるような人など居ません。だから面倒臭くても話し合っていくしかないんだろうなと思うのですが、しかし、この意見や価値観の多様性を考えると吐息をつきたくなります。
このように今の世の中、政治にしても、商品やサービスにしても、「本当に全てが理解できている人」など存在せず、皆さん自分の専門や経験という偏り/バイアスを抱えてますから、対象に対する理解度は昔に比べてむしろ落ちてきているかもしれない。いや、昔に比べれば教育程度も上がってきてるだろうし、マスコミやインターネットの発達で一般的な知識は昔の人よりもかなり増えてきただろうとは思います。しかし、それ以上に現実の方が先行してしまっているのではないか。
中島らも氏のエッセイで読んだ記憶があるのですが、彼が幼少期を過ごした昔の日本は、公害なんか誰も知らなかったから、煙突から工場の煙が出ていても、「今日もモクモク煙突さん」という感じで、むしろ復興の象徴というか、エネルギッシュで好ましい風景だったといいます。その当時の日本人の世界観はその程度で、そのくらいの見識でまあ常識レベルはイケていたわけですね。それが公害の出現で、あれは嫌気すべき環境破壊であるという認識に変わります。公害も、最初は有機水銀やカドニウム汚染にはじまって、最近の産廃施設のダイオキシンという具合に、平均的な日本人としては勉強すべきことが増えてきます。「黒部の太陽」といってクロヨンダムを賞賛していればよかったのが、脱ダム化になります。鉄腕アトムのように原子力は豊かな未来の象徴だったのが、重大な環境問題とセットにして考えなければならなくなります。食べ物にいたっては、「病気になったらメロンが食べれるかも」とか言ってりゃ良かったのが、無農薬野菜がどうのとか、自然農法がどうのという話になります。
ここ数十年で「このくらい知っておけ」という常識レベルの知識がえらく増えた気がします。しかし、それだけ一般人(特にそれを専門としていない素人集団)が多くを知ったとしても、実際の現場や研究レベルはもっともっと先にいっているのでしょう。原発も「危ない」「死の灰」とかいうのは何となくわかっていても、実際のところウランとプルトニウムとどこが違うの?臨界って何よ?というと、殆どの人がしどろもどろだと思います。つまり「問題だ」というのは分かっても、具体的に、あるいは体系的にキッチリ理解しているかというと、そういうわけではない。昔は野菜一つ、スイカ一つとっても、ポンポンと叩いて「こいつが甘そうだ」というのが分かればそれでOKだったし、おそらく実際のところとそう大きな隔たりは無かったでしょう。でも、現代になればなるほど、本当の理解と、一般人の理解との隔たりは激しくなってるように思います。対象が複雑且つ難解になり過ぎちゃって、一般人ではついていけなくなってる。原発だって、僕や皆さんの理解程度では、本格的な専門家の人からも、気合をいれて勉強しまくってる反対派の方々からも、「まったく素人はこれだから困るんだよ」とか言われちゃうでしょう。
つまり、世の中の専門性が深まり、人類の知識が増えれば増えるほど、一般人や素人の無知度や馬鹿度は相対的に高まっていくんじゃないかと。だって、そうですよね。そんなに何もかも同時並行的に興味を持って勉強なんか出来ないし、普通に仕事してたら、そんな時間もエネルギーもないですよ。ほんと、限られた自分の専門領域以外は、どんどん無知蒙昧度が高まっていってる。
しかし、民主主義なんですよね。議論や討論の末、多数決で決めることになります。ある問題について、本当によく理解している人などごく一握りでしょうから、これで多数決なんかやろうものなら、言うならば馬鹿ばっかりで決めていることになりかねないわけです。
そこで、今の世の中、何をするにしても「馬鹿対策」というのが重要な課題になります。
ちゃんと全てを理解してくれて、そのうえでじっくり考えてくれるんだったら、馬鹿対策なんか要らないけど、大多数の人はそれをやる時間がないし、興味も持ち得ない。非常に浅い知識、言ってみればイメージみたいなもので判断しなきゃいけない。だから、ある問題を推進する側は、いかに良いイメージを一般大衆に植え付けるか、反対側はいかに悪いイメージを植え付けるかに腐心せざるを得なくなります。そうなると、話は単純に広告戦略になっていきます。
実際、こういった「イメージが全てを決する」という傾向になって既に久しいと思われます。
選挙なんかもう顕著ですよね。やれ「クリーンなイメージ」やら、「マッチョなイメージ」やら、イメージばっかりで殆ど政策なんか語られない。最近はマニフェストなど多少は政策面での主張が取り上げられるようになりましたけど、総体としてはまだまだイメージ中心でしょう。だから政策面での矛盾とか、実現可能性の乏しさとか、実現のための試算に誤魔化しがあったとかいう、本来重大な筈のことが余り、というか殆ど語られず、ずーっと昔に秘書が会計処理を間違ったとか、異性問題とか、身内に犯罪者が出たとかいう本質的にはどっちゃでもいいようなスキャンダルの方が遥かに重要視されたりします。
それっておかしいんじゃないか?といいながらも、趨勢はそうなってますし、アメリカの大統領選挙なんかかなり昔から広告合戦になってます。地味な映画ですが、選挙戦を演出する人(スピン・ドクターっていいます)を取りあげた「THE KING」というのを見たことがあります。かなり昔の映画ですが、選挙CMの撮影から、着ている服の選定から、ありとあらゆるマスコミ対策をします。これも聞いた話ですが、例えば候補者が昔戦争のときの古傷がもとで多少足を引きずって歩くとします。その場合、見方によっては「弱々しい老人」にも見えます。しかし、「見せ方」によっては、こういう戦場での古傷は、ダヤン将軍の片目のように、あるいはモビーディックの船長のように、「男の紋章」みたいに逞しく男らしいタフさを演出することにもなります。どの角度からどう見るとカッコよく見えて、どの角度から見ると弱々しく見えるかを徹底的に研究して、候補者はそれにしたがってトレーニングをする、と。
日本の選挙の場合は、マスコミ映えもありますが、基本的にはドブ板選挙で、笑顔で握手を繰り返し、オバちゃんとツーショットで写真に収まったり、カラオケ歌ったり、ステージで土下座したりしなければなりません。これも地味な映画ですが、緒方拳主演の日本映画で「国会に行こう」というのがあります。そこでも同じように国会議員に扮する緒方拳が地元で懇親パーティーで精力的に動き回ったりしています。「俺たちの戦場は赤絨毯の上じゃねえ、ここなんだ。こいつら(国民)の意識改革なんか待ってたってしょうがねえ。こいつら百年たっても変わりはしねえ」と呟きます。
実際、国会議員なんかよくやるよなあと思います。体力的に人間業じゃないよね。飲み会や会合だけで月に数百回こなすという。地元の宴会ともなれば、やれ「まま、一杯」と注いで廻らねばならないし、注げば必ず「ご返杯」ってのが来ますから、お猪口とはいえ、一回の宴会でかなりのアルコール摂取量になるはずです。それをダブルヘッダーやトリプルヘッダーで殆ど毎日やるという。酒に弱かったり、体力なかったら出来ないです。それに、やれ馬鹿な選挙民から、馬鹿息子の交通違反をもみ消してくれだの、裏口入学で口をきいてくれだの言われ、盆暮れ正月には付け届けだの暑中見舞いを何万枚も出し、冠婚葬祭には代理であっても必ず駆けつけ香典や祝儀を包む。それをやらないと、地元で評判が悪くなるから、落ちてしまうという。だからやらざるを得ない。
こういう傾向を嘆く声は昔からありますし、そんなこと言ったって現実は現実なんだから仕方がないのかもしれません。
ただ、しかし、仕方あろうが無かろうが、もういい加減「そーゆーのって、アホちゃう?」って、声を上げて言ってもいいのかもしれません。
そこで、冒頭の「スペードをスペードと言う」になるのですが、少しづつでいいから、馬鹿は馬鹿って言ってもいいのではないかと思います。例えば、選挙にしたって、ある具体的な政策を訴えて真面目に立候補してる人だっているわけで、そういう人は、非常に難解な政策を説明したいでしょう。でもほとんど誰も聞いてくれない。「あの人、難しい話ばっかりするから嫌い」「愛嬌ってもんがないのよね」とか嫌われてしまうという。最終的には、顔がいい/悪いで合否が決まってしまう。
いい加減、ブチ切れそうでしょうねー。こっちは皆のために真剣にやってるんだ、これは本当に重大な問題なんだ、今考えないと取り返しがつかないんだという問題は、今この瞬間にもたくさんあるでしょう。それを必死で訴えても、あの「一般大衆」という奴らはろくに聞こうとしない。一般大衆というのは、他人事ではありません、あなたのことです。そして僕のことです。聞いてないですよね、実際。だから、もう、ブチ切れてもらって構わないですよ。「馬鹿っ!」って言ってくれていいですよ。そのくらい言われないと僕らも目が醒めないしねー。「こんな話したって、お前ら馬鹿だからどうせ理解できないだろうけど、馬鹿は馬鹿なりに努力しろよ、この野郎っ」て。
現実に何事かをなそうと思えば、必ずこの「馬鹿対策」が出てきます。
コンパの場所決め一つとっても、必ずなんか一言いいたがりのうるさい奴や、先輩なんぞが、チャチャ入れてくるでしょう?どんなときでも一言キメて自分の存在感を増そうと試みるアホとかいるじゃないですか。で、そういう馬鹿への対策は結構重要で、これをいい加減にしておくと、あとになって「オレには一言の相談もない」とかいってスネられたりします。だから、立案の段階から意見聞いておく。さらに、そういう人は必ず独自性を出そうとするから、敢えて本命プランは出さないでちょっと違ったプランを出して、本命プランをそいつの口から言わせるようにするとか、そいつも逆らえないような人の意見であるように体裁を整えておくとか、こういった根回しが大事だったりします。これを怠ると、面倒くさい、ほんとーに面倒なことになったりします。面倒なことになったことある人、手を上げてください。ね、ほら、ほとんど全員なんらかの経験があるでしょ(^^*)。
商品開発でも販売でも、消費者が100人いれば一人くらいは何を考えたらそんな独創的な読み方をするのだ、何が悲しくてそんなひねくれた使い方をせなならんのだ?という人がいたりします。で、もって、またそいつが文句を言うし、これがまた偏執的だったりするから、面倒くさい。先日、十何年ぶりというくらい久しぶりに日本のカップ焼きそばをこっちで買って作りましたが、驚いたのが日本製の印刷の綺麗さと細かさであり、いたるところに書かれている「馬鹿対策」でした。カップ焼きそばは、説明するまでもないけど、最初にお湯を入れて麺を柔らかくしてから、あとでお湯を排出します。隅っこに排水口がついているのですが、これがまたご丁寧に細かくグリル状に穿っていたりします。さすが日本製、芸が細かい。さらに、なんて書いてあったのかな、「熱湯がでてくるのでやけどにご注意ください」とか注意書きがしてあるのですね。これなんか典型的な「馬鹿対策」ですよね。そんなもん自分で熱湯を入れてるんだから、また熱湯が出てくることくらい子供でもわかるだろうし、熱湯が出てくる以上やけどに注意するのは当然でしょう。こんなもんイチイチ注意されないと分からないか?と。こっちの説明はいたってシンプル、お湯を捨てろ」"drain the hot water"だけです。それで十分でしょう。でも、そんな注意書きを書いているところからしたら、やけどした馬鹿がカスタマーサービスかなんかに文句言ってくるのでしょうね。そのときの免罪符としては、「ちゃんと注意書きをつけています」と言えるようにしておきたいわけでしょう。
まあ、PL法云々ということもあるでしょうけど、神経過敏すぎると思います。でもって、カスタマーサービスに「やけどしてしまった、どうしてくれる?」と文句言う奴がいたら、この際カスタマーサービスの係員の人も、「スペードはスペード」の精神で、はっきり言えるようにしてあげたらいいと思うのですよ。「そんなの、自分が馬鹿だからじゃん」「他人のせいにするんじゃないよ」って。
他にも、これは前にも書いたことあるけど、駅のホームに行けば「白線の内側にお下がりください」とアナウンスをし、エスカレーターに乗れば、「エスカレーター中央部分に乗れ」とか「小さなお子さんの手をつないで」とか、あれこれ親切に言ってくれるわけです。こっちもエスカレーターはあるけど、こんな注意アナウンスなんか誰もしませんし、別にそれで困りません。もし、エスカレーターで小さな子供が怪我をした場合、エスカレーターの機能に問題がなく、また身障者であるなど特別な事情がないのであれば、それはアナウンスの有無に関わりなく連れている保護者が馬鹿であるか、その子供自身が馬鹿だからでしょう。
そしてこういった馬鹿対策にもコストは掛かっているわけであり、そのコストは最終的には価格に転嫁されますから、結局馬鹿の尻拭いを普通の人がしなければならないという。おかしいんじゃないか、と。
一事が万事この調子だとしたら、馬鹿がどんどんつけあがる社会になってしまいます。必要悪のようにやられている馬鹿対策ですが、馬鹿対策がますます馬鹿を助長しているという。
でもねー、考えてみたら相当なエネルギーの無駄だと思うのですよ、この馬鹿対策。志も高く、有能な人材が何かイイコトをしようとしても、ちゃんと理解して支持してくれる人など一握りであり、それだけの少人数では実権を握れない。だから、大多数を占める馬鹿どもへのご機嫌取りをしなければならないという。実働作業の殆どが馬鹿対策だといっても過言でないかもしれません。もう非常に効率が悪いじゃないか。エネルギーの浪費以外の何物でもないのではないか。
そしてここから先が分水嶺だと思うのですが、方向性としては、@人は必ずしも馬鹿ではなく、妙な馬鹿対策で耳障りの良いしかし無内容なことを言って誤魔化すくらいだったら、厳しくてもビシッと筋のとおった説明をすべきであるという路線と、A結局大衆は馬鹿であり、百年たっても馬鹿のままであるという前提に立ち、逆に馬鹿であることを利用するくらいに、徹底して洗練した馬鹿対策を取るという路線の二つがあると思います。
現在の大勢はAですよね。現在というより、古代ギリシャのデマゴーグ以来、そうかもしれない。ちなみに「デマ」の語源でもあるデマゴーグというのは、高校の倫社政経でやってるとは思うけど、古代ギリシャの煽動的な民衆指導者のことです。古代ギリシャのアテネでは、最初の頃の指導者は名門の出で、それなりにしっかりした政治家だったけど、クレオンというオッサンが出てきて以降、見識を欠き、雄弁さだけが取柄の連中が大衆をリードしたといわれてます。こういった連中の多くは、実はちゃんとした役職に就いておらず、いろいろ提案はするけどその責任はかぶらず、結局、民主政治(デモクラシー)は衆愚政治(モボクラシー)へ堕落していったといわれます。
無責任にわかりやすく、耳ざわりのいいことを大衆に吹き込んで、大衆の馬鹿度を助長する連中というのは、古今東西いつでもどこでも連綿といます。ただ、こういう連中の言うことは、非常にわかりやすい。また、感情的にも納得しやすい。逆に言えば、最初から誠実に考えず、真実なんかどうでもいいわと開き直れば、本当のことを犠牲にしてでも「わかりやすく」「感情的に訴える」主張を作るのは簡単なことです。そして真実なんかどうでもいいんだから、非常に歯切れがよくモノがいえますし、それが毅然として力強いリーダーのように見えます。そしてカリスマ性を獲得していく。
歴史的に言えば、ヒトラーなんか最たるものでしょう。戦前の日本なんかもそうでしょう。「日本は神の国だから絶対に正しく、絶対に負けるはずがない」という主張は、日本人にとっては麻薬的なくらい気持ちいいですよね。「本当に神の国なの?」「神の国ってなによ?」「なんで絶対正しいなんて言えるのよ」「仮に正しいからといって勝てるとは限らないじゃん」という至極当然の疑問も圧殺しながら、突き進んで300万人の同胞を悲惨に殺して終わった。ヒトラーが「ゲルマン民族の優秀性」を説くとき、それを聞いてたドイツ人も気持ち良かったと思いますよ。
今でいうなら石原都知事なんか典型的だと思います。彼が人気があるのは、政策としては「(全体的な整合性を無視した)断片的なわかりやすさ」であり、開き直った傲慢さによる「強さ」でしょう。彼の政策の多くは、オリジナルのように見えながら、はるか昔、都知事選に出て敗れた宿敵美濃部都政の形を変えたリバイバルヴァージョンであることは、よく指摘されるところです。彼の言う「東京革命」は、彼が嫌っている左翼の方法論そのものであり、初期に言っていた米軍基地の返還は立川基地返還をかちとった美濃部都政の政策のそのものだし、ペットボトルをこれ見よがしに掲げる環境行政は美濃部都政の公害規制のパクリだし、銀行課税も美濃部都政の大企業超過課税のパクリ、国と対立するポーズもパクリ。違うのは美濃部が強化しようとしていた福祉をガンガン切り捨てているところでしょう。ただ、マスコミ対策が上手いというか、「カッコよく見える」ということには最大限気をつかってるように思いますし、暴言を吐いても「歯に衣を着せぬ直截的な強さの現れ」のように演出してしまう上手さがありますよね。だから結構コロリとやられる人も多いでしょう。
インターネットの論説のどこかで誰かが書いてましたが(出典を忘れてしまいました)、今の日本の大衆(=つまり僕ら)には、相反する二つの心情と傾向がある、と。一つは個々人としての無力感と既成政党への不信から、より強いリーダーを待望して何とかしてもらおうという「強さへの渇望」です。これは無能なんだけどプライドだけは高い人がよく陥りがちのパターンですな。「今の日本はダメ」だと切り捨てられる知性があると誇りたいのだけど、じゃあ具体的にどこがどうダメでどうしたらいいの?というと答えられないという程度に無能で、でもその無能さを攻撃されたくないし、何もしたくない、失いたくないという人は、そんな都合のいい願望をかなえてくれそうな強者を探し、そこに帰依する。これは一種の奴隷願望だと思いますが、全部面倒を見てもらえる強い主人を待望するわけですな。
もう一つの方向性は、大衆自身が自分に自信をもって、自分で切り回していこうというものです。ここ十数年局地的、散発的に続いてきている住民自治、住民投票における直接民主制です。既存の権力や政治家ではダメだ、でも自分たちも無力だという出発点は同じなんだけど、じゃあ自分たちが強くなればいいじゃないか、無知なら勉強すればいいじゃないか、無力でも声を上げていくところから始めようじゃないかということで、草の根的に広がっていくという。
両者の決定的な違いは、自分に自信があるかどうか、そして実際に「やる」かどうか、馬鹿対策を拒絶する強さを持っているかどうかでしょう。この差は大きいと思います。
馬鹿対策を押しとどめるもの、馬鹿対策の甘言に乗らないで対抗するためには、まず「自分は馬鹿である」ということを認めるところにあると思います。自分は馬鹿だし、無知だからよく分からない。そう思わなければ、学ぼうという気分は出てこないでしょう。
おそらく、将来的にはこの二つの方向のせめぎあいになっていくんじゃないかと思います。
前半にも書きましたように、僕らは多くの領域において”馬鹿”です。それは悪いことではなく、当然の帰結ですらあります。ただ、そのことに気づき、そこから出発するかどうかがキモなのでしょう。それを促す意味でも、call a spade a spade で、お互いの馬鹿さ加減を指摘しあうことが結構大事なのではないかと思ったりします。
もっとも、他人の馬鹿さを指摘するのは難しいことです。文字通り馬鹿にして言ったり、勝ち誇ったように言ったりしたら反発を招くだけだし、指摘することで自分を相対的にエラく見せたいとかいう邪念が入ってくると言葉は濁ります。また、馬鹿と指摘することで相手が改善するのだという信頼がなければ言えないし、その意味では本当に馬鹿だと思ってたらダメなわけです。まあ、感じとしては、「俺も馬鹿だから良くわかるんだけど、あんたも結構馬鹿だよ」という感じでしょうか。
文責:田村
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