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今週の1枚(04.11.08)
ESSAY 181/巣立ち本能
写真は、Manly。サマータイムに入って、これからこういう気持ちのいい夕暮れどきが長く楽しめます。
先日、AREAという雑誌を読んでて椅子からコケそうになりました。2004年10月18日号「親子で取り組む”内定ブルー”」という記事です。就職活動で企業から内定を貰ったけど、だんだん「これでいいのか?」と悩む状態を”内定ブルー”と呼ぶらしく、結果として内定辞退者が毎年たくさん出る。企業としてはたまらんから、内定者が脱落しないようにつなぎとめておく”内定者フォロー”という作業をやらざるを得なくなっている。その一環として、「”親の反対”対策」があります。以下、原文に沿って要旨を書いておきます。
早稲田大学のA君(21歳)の父親(54歳)は、商社から中堅食品会社の役員として出ており、大企業志向。息子が名もないベンチャー企業に内定を決めたことに不安を感じ、「出来てから間もなくて、経営陣も若すぎる。まず大企業に入ったらどうか」と財務内容を挙げて心配する。息子のA君としても親に対する反論材料がなく、「うるさいとは思っても耳を傾けないわけにはいかなかった。父親の意見は参考になった」という。6月には100%その会社に行きたかったのが、父親の反対によって70%に下がる。「ほんとうにこれでよかったのだろうか?」と悩むわけである。そこで会社としても内定者の父母を集めて、会社説明会を開く。説明会では財務状況や経営展望について鋭い質問が飛び交い、経営陣は「株主総会くらい緊張した」。この父母会のあと、父親の態度は軟化。「安心したよ。勢いだけでなくて意外と慎重にやってるようだ。財務も良好にいっている」という父親の言葉に息子のA君もほっと安心し、行きたい度は再び100%になったという。自分には出来ない親への反論説得を会社がかわってやってくれた、と。この父母説明会に参加したのは内定者21名中19人の家族が出席していたそうである。
という記事で僕は椅子からコケそうになったわけですけど、あなたはコケましたか?
こんな光景が今の日本では当たり前なんですかね?子供の就職に親の説明会?また、それに行く親?そして親の意見に納得する息子。うーむ、まあ、家族円満でよろしいって言えばそうなのかもしれないけど、なんか釈然としないものを感じます。
まあ、ね、他人様のことですから、僕ごときがアレコレいうのも余計なお世話でしょうし、こうやって他人の箸の上げ下ろしまで皆でチマチマ論評するから日本は住みにくくなるんだってのも分かってます。ただ、個々的な事例の当否やお節介ではなく、全体的な傾向としてどうか?というのは語ってもバチは当らないでしょう。で、考えますに、これってものすごく例外的な現象なのでしょうか?それとも逆に「最近、皆さんこんな感じですよ」という非常にありふれた現象なのでしょうか。僕にはどっちか分からない。記事を読む限り、「内定者フォロー」という最近の企業活動そのものがメインテーマで、別に僕がコケたような親子過密着ぶりを取り立てて焦点に据えているわけでもないようです。
そりゃ確かに、自分の一生を左右する就職の場において、人生経験社会経験に勝る親の意見を聞きたい、その意見によってグラついてしまう心理もわかります。片や子供に対する真摯な愛情の発露として就職先をきちんを見極めたいという親御さん心情もまた分からないではないです。力量において勝る者に一目置くのは自然なことですし、未熟な者を善導することもまた誉められるべきことなのでしょう。このようにイッコイッコみていくと、「なにか問題あるの?」という気になるのですが、なお、全体として釈然としない。直感的に、「なんかヘンだぞ」という気持ち悪さを感じてしまいます。
なにがそんなに気持ち悪いのかな?と自分の心理を省みると、やっぱりどっかしら「自然」じゃないのですね。もう直感的、皮膚感覚で言うと、「子供がそんなに親の言うこと聞いてどうする?」って気分があります。十代から20代前半くらい、それも男の子だったら、親の言うことなんかそうそう聞かないんじゃないんですかね。親が右といったら敢えて左を取るというほど依怙地にならないにしても、そんなに素直に思えないのが普通じゃないかと。親が「敵」とまでは言わないまでも、野球のバッターがホームランのスタンドを睨み付けるように打ち破る目標というか、なんとしても凌駕したいというか、凌駕するのが当然と自惚れたりするんじゃないでしょうか。
いや、別に百人が百人そうなるというものでもないでしょうが、そういう心理傾向というのはあると思うのですよ。フロイトに言わせればエディプス・コンプレックスですか。別の言葉では自立願望とでもいうのでしょう。だいたい人間というのは、思春期と呼ばれる十代前半に自我が芽生え、自分という存在や自意識を持て余します。さらにこのブサイクな自分をなんとかして人がましく世に立たせたいと思う気持ちが強まり、自立への葛藤や闘争が始まるのでしょう。この場合の”仮想敵”は社会全体であり、社会に打ち勝とうと願う。世の大人どもこそが社会の実体であり、自分を押し潰そうとする敵である。そして親こそがその社会の先兵であり、自分の理想、自分の感性、自分の生きざまをことごとく潰しにかかる敵の最前線のように感じる。戦いを挑みながらも、その度に圧倒的に未熟さを思い知らせたりして、ますます自己嫌悪に走ったり、その極端な反動で自惚れたりします。
こういったプロセスは、とても自然な経緯だと思います。「そうならなきゃ嘘だ」と思うくらいに。
なぜなら、若い頃は現実体験も少ないし、微妙な中間色も見えないから、全てがクリアにわかったかのように錯覚し、ゆえに理想もクリアに描きやすい。悪いことは弁明の余地なく悪いことに思える。例えば、周囲の大人が口先だけのお世辞を言ってるのを聞くたびに虫唾が走るとかね。お世辞などの社交辞令は、端的に言って「嘘」以外の何物でもないし、目の前で親が嘘を言うのを見て、「ああ、なんてこいつらは嘘つきなんだ」と嫌悪する。そんな誠意のカケラもない嘘で塗り固めた人間関係を築いてどうする?そんな嘘をついてまで嫌いな奴と付き合わねばならないのか、そんな人生に何の意味がある。とまあ思えてしまったりするわけです。そんな気持ちでいるから自然と表情は憮然としてきて、愛想もなくなってくるわけですが、そんな自分に対し、親は「ほら、ご挨拶しないか」と叱り、「すみませんねえ、図体ばかりデカくてまだコドモなので挨拶ひとつろくにできないんです」とか好きでもない相手にヘコへコしている。人間としての誠意を純粋に考えている自分が、コドモ呼ばわりされ、あろうことか気の利かないノロマ扱いをされる屈辱。しかし、面と向かって「てめーら、みんなクソじゃ」と言う勇気もないまま、不細工に頭を下げる自分。あー、もー、かったりーなー、、、ってね。経験ないですか?
周囲の大人どもは当然のことながら聖人君子ではなく、電車に乗れば疲れきったサラリーマンがスポーツ新聞のエロ記事を読み、横を見たら河豚みたいなOLがよせばいいのに厚化粧をして全然似合ってないブランドものを着ていて、教師は口ではエラそうにいうくせに目元に卑しさが漂い、個人的な選好を隠そうともしない。あーもー、こいつら全部クソ、全部ゴミ。アーマゲドンでも起きて人類が死滅すりゃさっぱりするのに。親は口を開けば勉強勉強と馬鹿の一つ覚えのように言う。勉強さえすればそれで人生OKとでも言うのか、なにがOKなんだよ、金じゃないかよ所詮、金しかねーのかよ、てめーの人生?クソみたいな人生、押し付けるんじゃねーよ。
しかし、逆らったところで、「じゃあ、お前、ひとりで暮らしてみろ」と言われたら何もできない、金もない、仕事もない、それをする勇気もない未熟な自分を再発見するだけ。ワルに走ってヤクザの帝王になるだけの度胸も腕っぷしもないし、高校生で金メダルが取れるほどスポーツが得意なわけでもないし、芥川賞が取れるわけでもないし、ロックや映画スターになれるだけのルックスにも才能にも恵まれてない。つまりはなんの取柄もない。でもそれは今現在はそうだというだけの話で、将来は分からない。少なくとも周囲のクソみたいな大人みたいにはなりたくないし、そうはならない自信もある。いくら落ちてもそこまで落ちないぞ。それにしても尊敬できない大人どもに頭ごなしに押さえつけられる窮屈さはなんとかならんのか。やることなすことイチイチ文句ばっかり言われる鬱陶しさ。くそお、早く文句言われないだけの強さが欲しい、自由が欲しい。自分が汚れきってしまわないうちに自分を守れるだけの強さが欲しい。
勿論全員が全員そう思うわけでもないでしょうし、デフォルメして書いていますが、こういう部分ってあると思います。あなたには無かったですか?もし全然無かったらこの世にロックなんて音楽は存在しないし、若い人のサブカルチャーなんかないでしょう。
自我も自立もそういった葛藤や闘争の中で生まれ、磨かれ、鍛えられていくのだと思います。
社会や世間や大人達にぶつかっていって、あるいは勝利し、あるいはボコボコにされ、あるいは認められ、あるいは嘲笑われ、あるいは可愛がられ、あるいは鼻先であしらわれる、、、こういった行為を通じてでないと、皮膚感覚で自分というものが分からないし、社会というものもわからない。自分というものに対して健康なナルシズムがある限り、誰だって一人前に完成された人間になりたいと思うでしょう。鳥と生まれたからには翼を使って飛びたいと思うだろうし、自分だけの力で餌を得たいと思うだろう。自分が自分を好きになれること、自分が自分であることに満足したいと思うこと、これは生物の本能だと思います。動物でも、幼児のうちは親にべったりしているけど、段々と育ち、骨格逞しく力が漲ってくると自分の力を試してみたくなるでしょう。また、犬や猫の子がそうであるにように何にでも興味を示し、つまらないものでも必死で追いかける。
ある空間にある生物が生存していくためには、二つの条件があると思います。
一つはその空間がどういうところか知ること、二つ目は自分がどのくらいのものか知ることです。
世界を知り、自分を知ることは、生存のための基本的な条件ともいえますし、それを必死に満たそうとするのは健全な本能だと思います。だからこそ若い個体は、可能な限り世界に挑戦し、そのリアクションの強弱でより正確に世界と自分を描き出し、最終的に自立的に生存可能な個体に成長し、ひいては種族を保存する。尾崎豊の「卒業」に「自分がどれだけ強いか知りたかった」という一節が出てきますが、これは本当にそう思ったりするのですよね。子供も危ない遊びが大好きだし、わざわざ崖から飛び降りたり、木によじ登ったり、それでコケて怪我とかします。長じてバイクを買えばまた限界ギリギリのコーナリングをやってみて、ヘタすれば事故死したりする。でも、これは本能だと思う。特に男の子の場合は、「強さ」というものしか存在原理がないから(少なくともその時期にはそのように思えてしまうから)、自分の強さと世界におけるポジショニングを確認するというのはイコール生きることそのものでもあると思う。
この自立過程における第一の関門は親でしょう。自分を優しくプロテクトする繭のような存在が逆に檻のように感じるだろうし、あるいは自分を押しつぶそうとする社会の象徴にも感じられるでしょう。逆に言えば、親が正しくその世界を象徴していなかったら、反射的に子供の世界観も狂ってくるということです。生存のための生命線ともいえる基本データーに致命的なバグが生じることになり、その子供の生存可能性は減少する。
なにをグダグダ書いているかというと、要するに大人/自立へのイニシエーションであり、巣離れ、親離れです。これがちゃんと出来ていない個体は、生存能力に欠けるということです。そこで冒頭の内定フォローの父母説明会になるのですが、やっぱり僕には過干渉というか、親離れ/子離れが出来てないのではないか?とエラそげに思ってしまうのです。
ところで、一体どこあたりの年齢でこの「離れる時期」の線引きするのか難しいところだとは思いますが、18歳過ぎたら基本的に独立した人格として突き放していいんじゃないかと思います。18という数字にどれだけの合理性があるのか分かりませんが、18才になれば生物的に体力や知力の成長は一応終わりますから、その時点で全て一人で出来る筈ですし、一人でやるようにすべきなのでしょう。「全て」というのは、人生の決断であり、日常的な生活、生活を支える収入手段です。
オーストラリアでは18歳が全ての基準になります。18歳になれば成人にもなるし、選挙権も与えられるし、家を追い出され自活を迫られます。だから大学も基本的には自分で稼いでいく、と。まあ、最近はオーストラリアでも親がかえが多いし、それに大学の授業料に関する奨学金制度が非常に充実(申請すればほぼ認められる=その代わりあとで一定以上の年収になったら税金のように給料から天引きされる)していますから一概に比較は出来ません。また、カルチャーの違いもあるでしょう。
まあ、今の日本に現実的なことを考えれば、とりあえず遅くとも大学を卒業する22歳くらいを線にしたらいいのではないかと思います。入試で浪人したら浪人するのは本人の責任だから、一浪だったら大学4年の授業料は子供持ち、二浪だったら3、4年分は子供負担でもいいと思います。でもって、基本的には実家を離れて自活。生活費も自分で稼ぐこと。別にそんなに厳しい話ではないと思います。出来るか出来ないかといえば、出来る筈です。そして、出来なかったとしても、一人で出来るようになる時期に適切にそれをやらないと、それも体力気力が充実しているより若い時期にそれをやらないと、後になればなるほどもっと出来なくなるでしょう。
では、就職はどうか?これも独立した個体の行動ですから、基本的には親は関係ないです。全く無関心というのも不自然ですから、「好意を感じる個体同士」としての当然の意見や忠告はあってしかるべきだとは思います。ただ、一定のライン以上になると、「余計なお節介」となるのでしょう。
親から見たら子供はいつまでたっても未熟でしょう。60歳の子供でも85歳の親からすれば「まだ未熟」に見えるでしょう。ある意味、当然のことだと思います。そして、愛すべき者が未熟であれば、誰だって手を貸してあげたくなります。歩いている先に落とし穴があるのであれば、「気をつけろ」と教えてあげたくなります。それも当然の心情でしょう。しかし、この当然の心情にだけ従っていると、いつまでたっても庇護される者は自立できない。よって、保護者としては手を貸しすぎてはいけない。自立を促すためには、敢えて被保護者の好きなようにやらせ、失敗させなければならない。自分の意思で歩いて、自分の意思でドツボにはまらないと人は強くも賢くもなれないから。「手を出す/助ける」ということと同じくらいの重要さで、「手を出さない/助けない」という行為(不作為)が必要なのでしょう。
「やらない」ということの見極めは、これは難しいと思います。みすみすドブにはまるのが見えながらも何もしないわけですから、情において忍びない部分は大いにあります。また、全く「わしゃ知らん」で100%放置してしまっていいのかというと、それも問題でしょう。「自分の力でやらせてみて、それなりに失敗も経験させる」にせよ、その失敗が途方もなく、それで死んでしまうとか、一生を台無しにしてしまうくらいのもどうかと思います。あくまで「失敗による学習」という長期的なメリットが上回るような場合、なんとか「取り返しがつく」範囲内に収まるような場合に限るでしょう。
ここでさらに二つのことを考えてしまいます。
ひとつは、「取り返しのつく範囲」というのはいったいどのくらいの範囲か?ということです。大学新卒での就職(転職ではなく)の場合、「取り返し」がつくのかどうか?ここは結構人の生き方や価値観が出てくると思います。
上記の事例でのお父さんは、ご自身が大企業勤務ということで、「大学→いい企業=大企業」という生き方の方程式が出来上がっているのでしょう。僕なんかは、高校のときからこういう方程式を信奉してませんでしたし、今でもしてません。そんなこと言ってるから日本はダメになるんだよとすら思います。しかし、こういう考え方は未だに根強いでしょう。要するにスキーのジャンプ競技みたいな人生観ですよね。ジャンプ台での踏み切りに相当するのが大学卒業時であり、そこでいかにスピードに乗って初速を獲得し、遠くまで飛べるかが全てである。ジャンプ台から飛んでしまった後は、もう推進エネルギーは何もなく、ひたすら姿勢を保持して空気抵抗を減らすくらいのことしか出来ないし、逆に言えばその程度の努力で足りる。全ては、踏み切りの時にどこまでスピードを獲得できるかであり、そのために生まれたとき(ジャンプ台の一番上)からずっと踏み切りのために頑張って滑るわけです。でもって、ここでもバランスを保ちつつ、前傾姿勢をで空気抵抗を減らすことが最良ですから、なんのことはない、踏み切り以前も以後も、ひたすら空気抵抗(世間との軋轢)を避けるためにじっと我慢して同じ姿勢でいるという。つまりは一生波風を立てずに同じ姿勢でずっと保持ってことですね。
このようなジャンプ的人生観においては、就職(=踏み切り)こそが、一世一代のブレイクポイントであり、ここで出来るだけ大きく跳ばなければ何のための人生か?ということになるでしょう。より大きな、より有名な、より安定した就職先に飛ばなくてどうする、という。こう思いこんでしまっている人にとって、就職というのは到底「取り返しがつく」ようなものではないでしょう。まさに生きるか死ぬか、DOA(dead or alive)の問題となり、のんびり「巣立ちのための試行錯誤」なんかやってる場合ではないのでしょう。
しかし、いまどきの日本で、こんな風に考えている人なんかどれくらいいるのでしょうか?これも実は分からんところでして、クールに勘定してみたら殆どそんな人は居ないのかもしれないし、実は全然変わっていないのかもしれません。バブル崩壊から十数年、なんだかんだ言って日本もあんまり変わっていないようにも見えますので、あんまり変わってないのかもしれませんねー。
だけど、趣味や生き様の問題はさておき、純粋に戦略としてみて場合、本当にそういった方法論でいいのかしら。これも他人事ながら気になってしまいます。この戦略というのは、@大企業の方が安定していて結局人生の幸福の基礎になりやすい、A大企業にちゃんと入るには中途採用ではなく新卒採用が良い、という二つの条件があってこそのことだと思います。確かに、この条件は戦後日本ではずっと満たされてきましたが、これから先はどうなのか?
大企業といっても、図体がデカいだけだったらダメで、実質的には大きさプラス優良企業であることが必要でしょう。当たり前のことですが、企業は儲けてなんぼ、業績をあげてなんぼです。しかしここ10年の世界の動向、日本の動向を見てますと、優良企業であり続けるためには、絶えず自己革新していかなきゃならないし、史上最高の業績を上げた年にビシバシとリストラもやり、他の企業を呑み込み、あるいは合併し、、という具合に、やたら新陳代謝の早いアメーバーのような、急流下りのラフティングのような活動傾向を強めているように思います。大企業であればあるほど、エクセレントカンパニーであるほど、変化が激しいし、また激しくしないと勝ち残っていけないとしたら、大企業こそもっとも足場が安定しない就職先と言えなくもない。やっと大企業に入れたかと思ったら、いきなり20代でリストラされたり、他の企業を買収する場合の先遣隊として遠征させられているうちにその部門ごと切捨てられてそこで終わってしまったり、そうこうしているうちに外資系に呑み込まれたり、そのまた外資が別の外資に呑み込まれたり、、、。大企業というと、タンカーや大型客船のように揺れが少なくて安定していると思ってたら大間違いなんじゃないんスかね。
このように新陳代謝が激しく、攻め時引き時の決断が早く、大胆な改革に継ぐ改革をやってる企業が強いのは当たり前っちゃ当たり前でしょう。それは「戦闘能力が強いところが生き残る」というアメリカ的な(つまりは世界的な)資本主義のスタンダードのありかたで、いわば俊敏な猛獣のようなあり方でしょう。でも、戦後日本の企業のありかたは、「よらば大樹」というくらいどちらかといえば植物的で、どっしり動かず根を張り巡らし、枝や葉をあらゆるところに伸ばして、関係各所との付き合いの良さと深さで安定していくという方法論だったと思います。株式の相互持合なんか典型的だし、官庁による護送船団方式とかね。これは経済のモデルとしてどちらがいいか悪いかではないです。
ただ、将来的にどうなるかというと、アメリカ的な動物スタイルの方が汎用性は高いでしょう。つまり世界のどこに行っても通用しやすい分かりやすさとコンパクトさがある。そして、今後50年、日本はなにをベースにして経済的に栄えていくか?というと、日本人同士でお金を廻しあう内需拡大は勿論大事なんだけど、やっぱり外需も無視できない。端的にいって中国とか、なじみのない外国に出かけていってそこで活躍して頑張っていくというスタイルになるでしょう。中国も、昔のように生産拠点、工場立地だけの存在ではなく、中国こそが最終消費地、つまりマーケットとして考えられているでしょう。そうなると日本ローカルな発想やシステムだけではやっぱりフットワークが悪くなったり、外部との互換性やインターフェイスが悪くなるから、それでは負けちゃう。やはり好き嫌いは別として、植物的なありかたから動物的なあり方にシフトしていくんじゃないかって思いますし、実際にそうなりつつあると思います。
ということは、今後50年、企業はやはりタンカーからラフティング傾向を強めるということになり、安定度は少なくなるでしょう。このことは同時に、A新卒でなきゃダメという条件の変更をも含みます。なぜなら、絶えず流動し、新陳代謝の激しい体質になるのだとしたら、手付かずの新卒を採用してゆっくり自分の(企業の)色に染め上げてという日本人的処女信仰も廃れるでしょうし、そんな悠長なことをやってる余裕も乏しいくなるでしょう。つまりは、走りつづけながら即戦力をガンガン補充していくスタイルになるでしょう。そうなると、結局、日本的な家柄(大学ブランド)志向というよりは、欧米的なキャリア志向になっていくでしょう。
今僕が書いているのは別に目新しいことでもなんでもないです。皆さんも耳にタコが出来るくらい聞かされているでしょう。自分でも再確認のためにもう一度書き出してみたようなものですが、何度考えてもやっぱりそうなりますよねえ。そうならないとしたら(これも可能性としてはありうるけど)、その場合は逆に日本自体が世界から取り残されてしまうかもしれません。もちろん超強力にドラスティックに変わらないと生き残れないってもんではないと思うのですよ、現実は。結局は日本人の情緒性に根ざしたシステムと、世界の流れとでどうやって折りあいを付けていくかって話しになろうかとは思います。が、いずれにせよ、今までのまんまってこたあないでしょうし、既に変わっています。
もし、バリバリ欧米的なキャリア志向になるのであれば、就職や大企業との付き合い方も欧米風のそれが参考になるでしょう。つまり、優良企業、強い企業は、激しく変動するラフティングボートのようなものだから、気力体力スキルの充実した数年間
だけ、そこに飛び乗って存分に暴れてみるという、ピンポイントの就職観です。就職先や企業は、スポーツ選手が各種試合や大会に臨むような感じになる、、、といっても分かりにくいかもしれませんが、例えばテニスをやってるとして、最初は町内会のサークルくらいで楽しんでいるのが、段々実力がついてくると県大会とかに出たくなり、さらに実力を磨いて全国大会に出たり、夢はウィンブルドンや全豪オープンだみたいに、就職や企業というのは、自分を試したり、修行したりする場であると割り切るわけですね。これは今の日本の企業も同じ面もありますが、違うのは「終(つい)の棲家」ではないということであり、もっと大事なことは、静的安定ではなく動的安定に移行するということです。
静的安定というのは変わらずにどっしりしている安定感のことで、これは分かりやすいと思います。動的安定というのは、例えば、自転車に乗っているときのように、絶えず絶えず身体の重心を移動し、ハンドルを微妙に修正しつつ、動きながら最適のバランスをキープすることです。動的安定の場合、静止してしまったら硬直してバランスを崩して倒れます。動きつづけることでバランスをとり、安定を果たすという。
話がちょっと逸れてしまいましたが、安定(静的)=成功=大企業志向という図式を、これからは昔ほど無邪気に描けなくなっているのではないかということでした。
じゃあ、大企業が全然ダメかというと別にそんなことはないです。キャリアを積んで世渡りしていくにしても、最初の出発点はそれなりに高いところから始めたほうが何かと好都合という面もあります。例えば評論活動をしようとか、ミニコミ誌を作ろうとかいっても、最初に「元朝日新聞政治部記者」とかいう地点から始めると、とりあえずは何かとやりやすい、人の態度も違うという面はあろうかと思います(まあ、最初だけだけどね)。また、大きな企業でなければ出来ない大きな仕事もあろうし、日本を見下ろすような高い視座も得られるだろうし、あるいは日本の奥座敷のような権力の深源も見られるかもしれません。つまりはいい経験が出来る、いい勉強になるということです。
だったら、大企業じゃないとダメかというと、これもそんなことはないです。大きな物や高いところでばかり物を見てると、なにやら自分が神様であるかのように錯覚しますし、この錯覚は時として人生を滅ぼすリスクがあります。ある意味、覚せい剤より怖いかもしれない。また、使い古された比喩ですが、歯車のように一部しか任されず全体把握力に劣る部分もあるでしょう。
一箇所で全てが学べるなんてワンストップショッピングのような都合のいい場所はありませんから、結局はどの道進んでも一長一短はあります。大事なのはその一長一短を理解し、フルに活用することだと思います。
そして、新卒就職でコケると「取り返しがつくか」という最初のテーマに戻りますが、取り返しはつきます、というのが僕の意見です。と言うよりもですね、取り返しなんか一生つきます。もっと言えば、失敗は成功よりも学ぶものが多いから、そこでちゃんと学びさえすれば、「取り返し」なんかセコいこといちいち考えなくてもいいんじゃないんですか。
どうも冒頭の記事のお父さんは、財務状態がどうのとか、経営方針がどうのとか言ってて、やっぱり安定企業かどうかが眼目になっているような気がしますが、うーん、どうなんかなあ?って気もしますね。やっぱり安定、気になりますかね?それと、別の視点で言えば、会社の財務状態がいいってことは、メチャクチャ給料ケチってるのかもしれないし、冷酷非常なリストラをやってるのかもしれないし、鬼のようにサービス残業押し付けてるのかもしれないし、従業員にとっては地獄かもしれないでしょ。それでも財務状態は良くなりますから。
変動する現代社会って、古代もそれなりに変動してましたし、変動してない時代なんかないわけで、いっときある状態が続いたからといって永続するわけではない。近未来の日本を見ても、また性懲りも無くブッシュが再選されてしまった世界情勢を見ても、「ずーっとこのまんま」って太鼓判を押してよい局面なんか殆どないでしょう。やっぱり動くでしょう。どっちにどう動くかは誰も知らないけど、動かないわけはない。だとしたら、巌の大地ではなく、地震のように地面が揺れるのだから、やはり動的安定を考えた方がいいんじゃなかろうか。動的安定、バランス感覚を養うには、やっぱり多くの視点を持ち、多くの発想を抱き、そのためには多くの経験をすることだと思います。
その観点で就職を捉えたら、安定してるか給料がいいかではなく、その就職におけるテーマみたいなものがあるかどうかですよね。「ベンチャー企業の内実を経験して、将来における日本での起業風土を勉強する」とかね。暴論のようですけど、入社して3年くらいで会社が潰れちゃってもいいと思います。会社が潰れるというのも一度は経験しておいた方がいいだろうし、「潰れる前はこういう雰囲気になる」というのを知っておくとあとで嗅覚が確かになるだろうし、潰れる前の会社というのは起死回生に思い切った面白いことやるかもしれないからそれに参加すればいい体験が出来るだろうし。
まあ、いろんな考え方が出来ると思います。
「考えてしまう二つのこと」のもう一つですが、ここで既にページ数もオーバーしてしまいましたが、大体いつもこのあたりで興が乗ってくるのですが(^^*)、「巣立ち」についてですが、子供可愛さの親の心情からして、「あえて放置して失敗させてみる」という選択が非常に難しいことは分かります。また、人間、どうしたって自分の経験から世界観を紡ぎますから、自分の経験による意見を押し付けたくもなるでしょう。それは分かるし、数万年前から人類というのはそうだったのだと思います。
でも、冒頭の記事を見て僕が椅子からコケたように、なんでここに来て巣立ちがモタついているかのように思えるのかというと、親の側の原因もさることながら、子供の側の原因の方がもっと大きいと思います。だって、子供に進路を押し付けるというプレッシャーは、昔の方がもっともっとキツかったと思いますから。「絶対許さん!どうしてもというなら勘当だ!」とか、実際やってたわけですけど、いまどきそんな話滅多に聞かないでしょ?それでも皆さん巣立ちが出来ていたのは、やっぱり子供の側の巣立ちパワーが強かったのだと思います。親が何を言おうとが、勘当されようがなんだろうが、障子を引き倒し、雨戸を蹴り倒してでも家を出ていくというパワーがあったのでしょう。
僕がこの記事を読んで一番思ったのは、そういうパワーが乏しくなってきたのかな?ということです。
会社から親への説明会とかさ、僕だったらまず親に知らせないよ。親が行くといっても止めますよ。「みっともねーから止めてくれよ!」って。それが、内定者21人中19家族が出席でしょ?出席した親よりも、出席させた子供の方が僕は気になります。なんというか、巣立ち本能、自己確立衝動のモトとなる、動物として/生き物としての生命力が弱くなっているのではなかろうか?と。
経済動向や、景気や戦略なんか、所詮ゼニカネですし、まあどうでもいいちゃどうでもいいです。でも、生き物として何かが欠けている、本能や情動の豊かさが失われているのだとしたら、これは問題でしょう。人間としての器質にかかわる問題は、あらゆるところに波及します。それはビジネス習慣だけではなく、犯罪を犯すかどうかのココロの分水嶺にも関わるだろうし、当然子育てなどにも影響し、再生産されうる。
例えば快感を感じる感性が貧しくなってたりした場合は、「気持ちいい」と思う度合いが少ないことになります。人は、その快感の強さによって動機付けられるとしたら、つまり凄い気持ちいいと感じるからこそ、何が何でもやってみたいと強く思い、メチャクチャ頑張るとしたら、そもそもそんなに気持ちよくなかったらそんなに頑張ろうって気分にならないですよね。それが積もり積もって、ちょっと難しかったら皆で「じゃあ、いいや」で諦めるような「気合の入っていない社会」になってしまうかもしれません。そこでかなり頑張らないとクリアできない難局を社会が迎えたとしても、皆さん頑張らないから乗り越えられず社会が衰亡するという。
という具合に、人間というは社会の構成原子ですから、原子レベルで変動があった場合の影響は、経済や景気の比ではないと思います。ただ、まあ、そんな就職記事イッコで何がわかるわけもなく、僕の話も単なる与太話なのかもしれない。ただ、椅子からコケながら感じた違和感を突き詰めると、結局そういう部分になると思います。
文責:田村
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