今週の1枚(01.09.10)
雑文/正解なし!
最近、とんと日本のことに疎くなりました。
ハッキリ言って興味関心が薄れてきているわけで、昔は「一応チェックしておこう」ということで、インターネットにつなぐと日本の新聞サイト等を見ていたりしたのですが、最近は週に1度見るかどうかくらいになってしまっています。まあ、あまり無関心なのもモンダイなので、AERAとRockin’on Japanというロック雑誌を実家から定期的に送ってもらってペラペラと眺めてはいますが。
海外に来ると、”祖国”日本との距離の置き方が時期とともにいろいろ変わっていくように思います。もちろん、どこに住むかとか、どういう環境に置かれているかとか、個々人の性格によってケースバイケースなのでしょうが。
大体最初の1〜2年に結構激しく動くような気がします。来た当初は目の前にある新環境に対応するのが精一杯で、そんなに日本のこと考えている暇がないわけですが、やがて一段落してほっとしてくると、今度は日本が妙に懐かしくなったりもします。「温泉入りたい」とか「畳の上を素足で歩きたい」とか「居酒屋の縄ノレンをくぐって、おしぼりで手を拭きながら、『とりあえず、ビール、中ナマね』と言いたい」とか、渇望したりします。ホームシックにかかる人は、このあたりでかかるのでしょう。
「海外に来ると、誰でも愛国者になる」とか「より強く日本を意識するようになる」とか言います。確かにそういう部分はあるでしょう。それまで当たり前だった事が全部当たり前ではなくなり、日常的に比較するようになりますから、日本に対する意識が鋭くなって当然だとおもいます。またその場合の意識のベクトルは客観/主観両面にまたがります。客観的に「世界からみた日本」という突き放した見方をするようになる反面、主観的に「俺は日本人なんだな」と思ったりもします。具体的には「日本のここがイケてないな」とクールに見えちゃったりする反面、味噌汁飲むとホッとしたり、とかそういうことですな。
でも、それも最初の数年でして、それも過ぎると”穏やかな無関心“が心の大部分を支配するようになっていくのでしょう。ちなみに、この”穏やかな無関心”は、別に来た当初からも存在すると思います。たとえば、毎週欠かさず見ていた連続ドラマとか、連載マンガとかは、当然こっちでは全部フォローする事はできないわけで、最初の数回は「ああ、あれどうなったのかな?」とか思いますが、次第にどうでも良くなってくるという。カラオケの新曲対応とかで、「今何が流行ってんの?」というのも、数ヶ月もすれば「ベスト10全曲知らん」状態になりますから、もう気にしてもしゃーないわという悟りの境地に達していきます。でもって、穏やかに無関心になっていくという。でもって、数年経過するとほとんどその無関心で埋められていってしまうという。
誤解しないで頂きたいのですが、これは別に日本のことが100%どうでも良くなるとか、積極的に嫌いになるとかいうことではないです。なんていうのか、意識の波長がデカく、長くなるのですね。最初は「連載マンガの行方」という一週間単位のことが気にならなくなるというところから始まって、そのうち「今日本で何が流行ってる」という数ヶ月から数年スパンのことがあんまり気にならなくなり、そのうち「日本はどっちの方向にどうのくらい進むのか?」という10年、20年単位のことくらいしか気にならなくなってくるという。
だから、小泉さんが総理になったって、まあ「ふーん」くらいの反応でそうそう燃えはしないわけです。問題は「小泉さんを総理にしたムーブメントで、実際に日本はどのくらい変わるのか」という部分だけです。松下が大々的なリストラをやるとかいっても、「そりゃやるだろうね」くらいです。日本のゼネコンと都市銀行が全部倒産しても、今では別にそんなに大事件だという気もしなくなってます。国家百年の計として、「そんで、どうなるの?」という部分ですね、興味があるのは。
このように非常に大づかみに物事見るようになってきますから、それ以外の、やれ今日本で何がどう流行っているだのということは枝葉末節でしかないし、何の曲が流行ってるかとか、最近の流行語はどうのとか、そーゆーのはハッキリ言ってどーでも良くなってきます。知ってなきゃイケナイとも思わない。iモードがどーのとかいう事柄も、「あーゆーチマチマしたオモチャに燃えちゃうという日本人の特性それ自体はあんまり変わってないのね」で一括りにされちゃうわけです。知りたいこと、押さえておくべきことはただ一つ、「そんで、日本と日本人は具体的にどうなるわけ?」という部分だけです。もっとポイントを絞れば、「どれだけ進化したか」だと思います。
このように遠くから富士山を眺めるような視線で日本を見た場合に思うのは、今ゆっくりと大きなフルイにかけられてるんだろうな、ということです。新しい時代に対応できるだけの自分を構築できる奴と、出来ない奴とにゆっくりと分離していくだろうと。でもって、これは日本だけの話ではなく、世界全体にそうなってるんだろうと思います。
経済が発展しました、インフラも充実してきました、ボクの給料も上がります、明日は今日よりもいい生活が出来るでしょう、、、、、という、いわゆる右肩上がりの時代は楽だったのでしょう。大きな道が一本ドーンとあるだけだから、急いで進むか道草食うかの違いはあれど、基本的にはその道を進めばよかったし、迷いはなかった。
でも、今は分からんです。どっちに進めばいいのかもわからないし、そもそも道があるんだか無いんだかもわからない。一生懸命努力して、ガンガン出世して、社会的ステイタスを構築したらそれでOKなのか?というと、なんかそうも思えない。必死にキャリアを積んだ挙げ句、ストレスで身体はボロボロ、家族は崩壊、「人間の幸福って何?」みたいな状況になってもしゃーないし、って気もします。かといって、若いうちから世捨て人みたいになって、フリーターでずっと過ごして、そんで40歳50歳になっていって、「そんでどうなるのよ?」「人生始まってないんじゃないの?」という気もするわけです。
何というのか、「進め!」というベクトルと「止まれ!」というベクトルが同時に出ている感じ。これは、どちらが正しくてどちらが間違ってるというものでもないのでしょう。人間というのは、静謐なやすらぎも欲しいし、心静かであるからこそ見えてくる奥深い世界というのもあるのでしょう。同時に、激しく極限まで動くことによる身体的快感というのは確かにありますし、「生を燃焼させる」充実もあります。「あしたのジョー」が何故戦うのか?ですね。
だから、自分が自分の人生のプロデューサーになって、この動と静のレシピーを決めていってやらないとならんのでしょう。まず社会に出て、超ハードな生活を何年かやったら、それをポンと捨てて山にこもって自然と戯れ、それぞれを自分に体験させた上で、自分にとって一番よろしい動と静の配合比率を決めましょう、みたいな。ある意味、仕事をやめて日本からオーストラリアにやってくる人は、意識的にせよ無意識的にせよ、ほとんどがこの動/静のレシピー(ないしそのバリエーション)を実証的に確かめるために来ているのではないかとも思えます。
ただ、そうそう簡単に物事進むわけもないです。
@、配合比率を決めるための体験とか簡単にいうけど、そんなの実際に出来ない。「はじめにキャリア街道を驀進」とかいっても誰でも出来るものではないし、また、ポンと山にこもるなんてことが実際にできるかどうか。親や子供、家族の関係やら、住宅ローンやら、「しがらみ」というものは強力にある。それに、また「動」でバリバリやりましょうといっても、世の中不景気だわ、既得権益はまだ強くて新規参入しにくいわで実現しにくい。
A、そんな配合比率なんか簡単に分かるものなのか?また分かったとしてもそれが黄金の分割比率として終生通用するんかいな?
B、そもそもそんな配合比率がハッピーになるためのメソッドとして役に立つのか?たとえば、高度成長のときは配合もヘチマもなかったけど、結構みなさんハッピーだったじゃないか。
C、仮に配合比率がもっとも有効なメソッドで、しかもそれが完璧に発見され、実践されたとする。でも、そうなったらそうなったで、逆に目茶苦茶ムナしいんじゃないか?これは、その昔、雑記帳で書いたけど、なんでもかんでも自分の計画どおりいっちゃったときに感じるムナしさですよね。人生に必須のスパイスである「破綻」も「偶然性」もないわけで、大きく自閉してるだけじゃないの?という根源的疑問。
というわけで、懸念要素はいっくらでも思い付きますな。
まあ、これはそれぞれに反論、深化していくことができるでしょう。
@なんかは、自分の人生を楽しく動かしていくための「舞台」としての社会、その舞台を整備するメンテ部門としての政治の問題で、わかりやすい論題でしょう。介護問題、教育問題、住宅問題、雇用問題、、、、等などは、言ってみれば、自分の「舞台」である社会のメンテナンスであるわけです。介護に忙殺され、子供の教育に頭を悩まし、住宅ローンに押しつぶされ、職の不安にさいなまれてたら、自分の人生なんか構築してる余裕はないでしょう。舞台のあちこちに穴ボコが開いていて飛び跳ねる度コケるわ、あそこでは雨が漏れてるわ、壁が倒れかかっているから押さえてないとならんわで、舞台どころの話じゃないって感じですよね。
だからもう政治的に解決していかなければならん問題は日本に山と積まれているのでしょう。メンテや改築するためには、第一ステップとして古い造作を破壊しなきゃならず、その破壊をやってくれそうだから、小泉さんに期待が集まっているのでしょう。僕も期待してます。シラけてたって話は進まないんだから、物事が前に進んでくれるんだったら、期待も理解もします。
ただ、いくらそういった問題が整備されたとしても、それは舞台のメンテが出来たというだけの話で、だからといってアナタが自動的にハッピーになるというものでもない。本当の問題はその次に来るのだと思います。さあ舞台は整備できましたとなって、「ほんで、アナタはどうすんの?」という部分ですね。
僕が今回言いたいのは、この部分です。
誰だってもう本質的に感じてると思うのですが、確かに日本には問題が多い、改革しなければならない事は沢山ある、しかし、今の自分が今ひとつハッピーになれない理由は、そういった政治社会の問題とはまた別のところから来ているのではないか?と。
つまり、社会や世界が進化発展して、それと自分がシンクロすることによって自分もハッピーになるという方法論が使えなくなってきてる点こそが問題なんじゃないかと。「いい時代」「いい社会」になってくれたからといって、自分の人生がよくなってくれるというものではないという。
ある意味では今の日本は(いわゆる先進国は)、とても「いい社会」だと思います。問題はあれど、生まれで一生が決まる封建社会でもないし、差別は一応いけないことになってるし、内乱やクーデターが起きてるわけでもないし、普通にやってたらまずゴハンには困らないし、犯罪や物乞いをしないと生きていけないというものでもない。だから、現在ある社会の歪みによる直接の犠牲者(たとえば冤罪で捕まって監獄暮らしを強いられるとか)でない限り、とりあえずハッピーにやっていけるだけの社会状況の設定はできているのではないか。もちろん、これで満足しろといってるわけでも無いですよ。
ちょっと風呂敷を広げてみると、19・20世紀というのは、日本も含めたいわゆる先進諸国にとって、大きな「お祭り」というか、「ハレ」の世紀だったのかもしれません。蒸気機関車が出来ました、アメリカが発見されました、電気が見つかりました、エジソンがいろいろ発明しました、車が登場しました、コンピューターが出てきました、、という科学技術の進展と、帝国主義、国家主義で喧嘩して領土が増えました、生活豊かになりました、で、とにかくどんどん時代は進む、ますます生活は豊かになる、ときどきシャックリのようにトラブルはあれど、大きく見れば「待ってりゃどんどん良くなる」ような時代。時代が進化成長してくれることによって、自分の生活も人生も豊かになっていくという。
こういう大きな流れのある時代って、激動で大変だとは思うのですが、でも個々人の人生の構築とか、「幸せの意味への問いかけ」とか面倒くさいことやらんでも良かったから、わりと楽だったのではないか。だから、配合比率なんたらも要らんし、今ほど精神的な物事が問題がなることもなかった。日本人だって、昭和30年代には、1日12時間働いて、4畳半のアパートに一家7人くらい雑魚寝してたわけですけど、別に「癒し」だのトラウマだのヒーリングだのあまり話題にならんかったし、犯罪も起きてたけど今ほど事情が込み入っていたわけでもないでしょう。人間って、道が見えていて、折々にご褒美が納得できる形で用意されてたら、そうそうグレたり、落ちこんだりしませんから。
でもって今はどうかというと、そりゃまあ進化の余地は、たとえば環境問題にせよ高齢問題にせよ、まだまだ死ぬほどあるけれど、それが解決したからといって、それで皆が自動的にハッピーになっちゃうというほど巨大な流れにはならないように思います。
だもんで、自分を取り巻く、社会なり国家なり時代なりと自分をシンクロさせて、それで自分もハッピーになりましょうという、19・20世紀的ハッピーになる方程式が昔ほど有用性を失ってきているんじゃないか。
絶対的な尺度でいえば、昔に比べれば物質的にも制度的にも豊かになったんだから幸福になりゃ良さそうなものなんですけど、幸福というものが本質的に持つ「逃げ水的性格」によって、そう話は簡単ではない。人間がハッピーを感じるときって、比較して→差があって→その差が刺激になって→幸福感をもたらすという、本来的に相対的なものだから、すぐに慣れてしまうのですね。「美人は三日で慣れる」というアレですね。「幸福は失って初めて分かる」というアレでもあります。
そういう意味では、面倒な時代になってきたなと思います。
ハッピーになるかどうかは、すぐれてアナタのパーソナルな問題だよとポンと渡されちゃってるわけですから。それはまあ理想といえば理想なんだけど、大変といえば大変。夏休みの宿題の自由課題みたいなもんです。自由というのは本来、無重力で不安なものですから。毎朝とにかく参加してスタンプ押してもらってりゃいいラジオ体操とか、山ほどあるドリルとかやってる方がよっぽど簡単ですもんね。
「ゆっくりフルイに欠けられている」というのは、こういう道があるんだか無いんだかわからん、道というよりは単なる広場みたいなところで、止まるも進むもアナタ次第という環境で、したたかに適応していける奴と、なかなかそれがうまくいかない人とにふるい分けられていっている過程にあるんじゃないかってことです。
で、思うのですけど、今の日本で新しい教科書を作る会とか、右傾化とか言われてますが、あれなんかも「適応できてないな〜」と。今の時代、「国家」なんてものは、本来そうであったように、技術的な概念に過ぎない。それが何かイノチあるモノであるかのように振る舞っていたのは、人類史的にいっても19、20世紀だけじゃないかって気もします。もっと昔は、通信交通技術が未発達だったから、一部の王様や貴族は別として普通の人々が実感できる「世界」というのは「オラが村」程度だったでしょう。
で、20世紀末以降になったら、今度は逆に技術が発達しているから、わりと簡単に地球単位で物事考えられるようになる。これは超国際エリートでなくても、別にこちらの英語学校にはいって、いろんな国から来たクラスメートと遊んでたらすぐに実感できちゃう。地球にはもともと国境なんかないし、地球の大抵のところには24時間以内にいけちゃうという昨今、この地球をご丁寧に二百数十に分割したイッコイッコにどれだけの巨大な意味があるというのか?
国家なんて思ってるほど大したものではないし、しょせんはシステムに過ぎない。こちらでは二重国籍なんか当たり前だし、お隣のご夫婦もイギリスとオーストラリアの両方のパスポートを持ってる。だから、気楽に「いいな、ここ、もうちょっと本腰入れてコミットしてみようかな」と思えばその国の国籍(市民権)を取ればいい。だから、二重国籍を認めてない日本からくると、「7年も住んでてどうしてオーストラリアの市民権を取らないの?」とか逆に聞かれて、説明が面倒臭かったりします。早く認めてくれよ、二重国籍。なんか、日本の当局って、二重国籍を重婚みたいに反人道的でいかがわしいもののように思ってないか?
こんなご時勢に、国威発揚もヘチマもないと思うし、日本人の誇りとか自信とかいうものが、周辺諸国にむやみに頭を下げずにコワモテでいればいいってものでもないだろう。というか、そんな「強ければエライ」「ナメられたらアカン」という暴走族みたいな価値観で全てを律しきれるべくもない。こういうこと言う人達というのは、日本人の誇りとか自信というのは、「中国政府に屈しない」とか「過去は(そんなに大きく)間違ってなかった」とかいう文脈でばかり語りたがるのだけど、自分の所属してる国家のありかたに誇りを持つとか、それを作っている一員としての自分に誇りを感じるとかいうのは、それに尽きるものではない。というか、また別の次元の問題だと思います。
そもそも投票率50%かそこらの国民的意識で、「自分の所属してる」とか「自分がそれを作っている自覚」なんてあるんかいな?という疑問もある。ハッキリ言って無いでしょ。他の国の連中から、グチャグチャ言われるから腹が立つとか、それに追随している同胞にもっと腹が立つとか、そういったレベルでしょ。
もし日本人に、日本という国家に何らかの誇りがありえるとしたら、それはオーストラリア人がごく素朴にオーストラリアという国に感じているように、「こんないい国、世界にないよ」と無邪気に思えるかどうかであり、その「いい国」にするために自分自身も一役買っているという自覚と誇り(それを持ちうるための行動)だと思います。例えば「人間を一番ハッピーにしてくれる社会」を「俺(達)は作ったんだ」ということですな。それこそが、国家/社会と自分のありかたでしょう。
その意味で、僕も含めて日本人が日本に対してごく自然にプライドを持てる部分といえば、それは例えば「職人気質」や「完全主義」であったりすると思います。「オレに仕事をさせてみな、世界のどの民族よりもキチッと仕上げてみせるぜ」という。構成員ひとりひとりがプロフェッショナルたらんとする姿勢、その自覚と規律の高さは、世界でも珍しいレベルだと思うし、それは僕らが当然のこととして思っているのではないでしょうか。日の丸が翻ったり、君が代が流れても別に自尊心が燃えてくるわけではないけど、"made inJapan"のクォリティの優秀さを誉められたら、「バカヤロー、当たりめーだろ!」と自然に思えるという。この点に関しては、僕らはその母集団に属してるという自覚があるし、日々の仕事を通じてそのブランドを信頼性を支えて守っているという自覚があると思います。だから、日本人のなかで、いー加減で使えない奴が増えてきて、そのあたりの誇りを傷つけられると目茶苦茶腹が立つという。
国家社会と自分の誇りとかいうものは、そういったごく自然のところにあるのではないかと思います。
ただし、仮にそこまで思えたとしても、それでも国家社会やらいうものと、アナタとはそんなに強くシンクロしてるわけではない。もともとそんな技術的なシステム概念に過ぎない「国家」というものと、生身の人間の人生とがシンクロするわけないんだけど、なんとなくお祭り的な流れでそう思えちゃっていたのが前世紀、前々世紀だったのでしょう。でも、今世紀になると、そうそう幻想に遊んでいるわけにもいかなくなる。国家よりも一回り小さくて実感しやすかった「会社」なんて組織にも、今ではなかなかシンクロできなくなってるでしょう。
目的や方向や、「あなたの幸せはこうなのよ」と外部から与えられない時代。それは成熟した素晴らしい時代なのだとも思うけど、しんどい時代でもあります。
幸福は、各自が各自のやり方で、オノレの甲斐性でならんとならないので、それが出来ない人、思い付かない人は、昔ながらの古典的で初歩的な幸福の方法論に走るでしょう。たとえば皆と一緒にいるという擬似的な連帯感であったり、皆よりもちょっと進んでいるという虚栄心であったり、つまり「流行物」であったり。あるいは、ナショナリズムであったり。大体、ナショナリズムって、個々人の人生が行き詰まってる社会で蔓延する傾向があると思うし。はたまた、「これがアナタの幸福なのよ」と他者から直接教えてもらったり、つまりは宗教。あとは小手先の生活改革。大きくドーンと生活や人生を改革するのではなく、インテリアをいじくったりとか健康食品に凝ったりとかそのくらいのこと。それか、刹那的な快感、セックスやドラッグ。そして、小市民的な隠微な犯罪。痴漢、ストーカー、愉快犯。それでもどうしようもなくなったら、あるとき堰が崩壊してコントロール不能になってキレて殺傷事件を起こすか、自殺するとか。
各人勝手に幸福になるってのは、考え様によっては凄い簡単で、いわゆる「小確幸」(小さいけど確かな幸せ)を噛み締める穏やかな日々に宿ったりもするのだけど、考え様によっては目茶苦茶難しいから、うまくサバけなくて自爆しちゃう人、方向を見失ってしなう人も大量に出てくるとおもいます。
というわけで、僕が日本のことにおいて興味があるのは、そういった新しい時代に皆さんどれだけ応戦できているのか、皆さんどれだけハッピーになれているのか、それに尽きるといってもいいです。
余談ですが、教育問題も盛んに論じられているようですが、僕が今思うに、子供ってのは、教師だけが育てるわけでも、親だけが育てるわけでもなく、社会全体が育てるんだろうなということです。これは、こちらに来て、ろくすっぽ喋れず、情報もなく、いわば赤子のような状態で、まさに子供時代を追体験するように生活してきた実感からそう思います。僕がオーストラリアについて学んだ教材と先生は、例えば道ゆく人々がどれだけ幸せそうかとか、身体の不自由な人をバスの中で皆がどれだけ助けているかとか、スーパーのレジで客と店員が挨拶してるとか、結構いい加減に仕事してるなとかそういうことでした。そういった体験した全ての瞬間瞬間がデーターになって、「この社会で適応していくにはどうしたら良いか」を学びます。実際、こっちにきて「なるほど、いいな」と素朴に感じて、それで物の考え方や性格が変った部分も大分ありますし。子供だって、それと同じだと思う。
だとすれば、学校の改善も、親の教育も大切だとは思うけど、根本的には社会にいる皆が、この「正解なし」みたいな新しい社会で、新しい「やり方」を開発し、個々がハッピーになっていくことが一番大事だと思います。つまり、自分が本当にハッピーであるということは(それは近視眼的なセコいハッピーではなく、人生これでいいいんだよと本気で思えるレベルでのハッピーですけど)、非常に重要なことなんだなと改めて思ったりします。アナタがハッピーになることはアナタの権利でもあるけど、義務でもあるのでしょう。
ところで、上の写真は、Flemington というシドニー西部にある駅前のベトナム料理屋さんでのスナップ。ベトナム人なんだか、中国人なんだか、ナニ人なんだか分からん人々と一緒に、ズルズルとPhoというベトナムのヌードルを啜りながらの一枚です。
この場所で、アナタも一緒になってズルズルやってるつもりになって欲しいのですが、ねえ、別に僕もアナタも、他の人々も、背中に国家や日の丸しょってズルズルやってるわけではないです。別にベトナムに国家的関心があるからこの店で食ってるわけでもないです。メシが食いたいから食ってるわけです。ただ、そんだけ。この緊張感のない、のんびりしたズルズルが、「世界」とやら言うものの本当の姿だと思います。僕が「新しい教科書」を作るのだったら、この場の空気を教えてあげたいな。
写真・文/田村
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