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今週の1枚(04.09.27)
ESSAY 175/登場人物数と東西事情
写真は、アートギャラリー横あたりのDomain。Woollomoloo方面を臨む
先日、雑談をしていたら、西欧の小説や物語は、日本や中国の物語に比べて登場人物が少ないのではないか?という話になりました。「あれ、そうかな?」と思ったのですが、言われてみるとそうかもしれません。登場人物が少ないというよりも、西欧の物語は、主人公的存在がよりハッキリしており、その視点もクリアだという気がしてきました。
映画で有名な「ロード・オブ・ザ・リングス」も、はたまた「ハリー・ポッター」も、あるいはスターウォーズも、登場人物がやたら出てくるようでいながら、あのくらいの大風呂敷物語にしては、やっぱり少ないのかもしれません。同じような物語が日本や中国で語られていたら、あの10倍くらい登場人物が出てきてもおかしくないです。
だって、三国志なんか覚えきれないくらい人が出てきますよね。水滸伝なんか英雄だけで108人でしょ?まあ、108人全部が全部均等に扱われているわけではないにせよ、ワサワサ出てきます。三国志も、「劉備玄徳が関羽と張飛の義弟とともに戦国の中国に覇を唱える物語」といってしまえばそれまでですが、登場人物がやたら多い。魏の曹操や呉の孫権のライバル的大物に、またそれぞれに腹心の部下がいたり、英雄がいたりします。玄徳だって義兄弟3人で全てやってるわけではなく、玄徳以上に存在感のある諸葛孔明がいたりしますし、勇猛な諸将軍が出てきます。孔明も泣いて馬稷(本当は字が違うけど見つからない)を切ったりします。
三国志は特別だよという人もいるでしょうけど、日本の物語も多いですよ。南総里見八犬伝だって、犬塚千代、犬飼源八にはじまって8人出てくるわけでしょ。歌舞伎の「白波五人男」もそうだけど、「○人衆」「四天王」「三羽ガラス」とか、やたら一山なんぼ的なグループ志向が強いでしょう。西欧なんか「三銃士」くらいでしょ。黒沢明の「七人の侍」は日本ではよくあるパターンだけど、これを真似した西欧映画の荒野の七人」(原題は"MAGNIFICENT SEVEN")は、洋画のなかにあるから「やたら人が沢山出てくるな」って印象があります。「アーサー王と円卓の騎士達」も「12人の怒れる男達」も、別に1ダースくらいだったらそう多いって感じじゃないのですが、「多いぞ、沢山いるぞ」ってなタイトルになってますよね。
1ダースどころか、日本の古典に目を向ければ、「源氏物語」でも覚えきれないくらい登場人物が出てきます。さらに「平家物語」になったら、もう誰が主人公なのか分からんですよね。一応平清盛なんだろうけど、清盛が死んで平家が滅びていくのが一番のクライマックスだったりするわけです。
TVドラマでもその傾向があります。ちょっと古いけど、トレンディドラマのはしりになった「金曜日の妻たちへ」なんかも、登場人物が7-8人出てきて、それぞれがそれぞれと抜き差しならない人間関係になったりします。このモトネタになったと思われる、洋画の「セントエルモス・ファイア」も色々登場人物が出てくるけど、映画で時間が短いってこともあるのでしょうが、そんなに人間関係がねちっこく重たくなってないです。
もちろん、日本のドラマだって水戸黄門のように、ご隠居+スケさんカクさんという3人ユニットに絞り込まれているのもあります。この系統は結構あって、ルパン三世にせよ、古畑任三郎にせよ、TRICKにせよ、最小限のユニットがいろいろな出来事に遭遇していくってパターンですよね。この祖先は、孫悟空の西遊記なのかもしれない。でも、このパターンは、一回ポッキリの物語が連続して続いていくというもので、連続した長い物語を少数の人間に絞り込んで描いているわけではないです。
こうして並べてみていくと、やっぱり日本人や中国人(それを「アジア人」とまで広げてよいのかどうかは不勉強でよく分からないのですが)は、物語を「ある特定の人間の物語」という具合には見ないで、様々な人間同士が繰り広げる「人間群像」というか、「その状況そのもの」として見ている傾向があるように思います。ある一人の人生の軌跡(キリストの生涯のように)という「線」としてのストーリーではなく、「面」として状況それ自体を描くというか。
これは単に思いつきを書いているだけなので、本当にそうなのか、なんでそうなるのか?はよく分かりません。
ただ、文学も思想史もまともにやったことのない素人が、適当にいま想像するに、これがいわゆるルネサンス以降の「近代個人主義」ってやつが関係してるのでしょうかね?
なにをどう書いても、話が大袈裟になってしまいそうで書きにくいのですが、根っこにあるのは、この世界をどう見るかという世界観だと思います。今こうして僕個人がここにいて、僕を取り巻く環境や世界があります。この状況をどういう視点で見ていくかですが、@まず自分がいて、これがあくまでも主人公で、その周囲に環境としての世界があるという個人・主観からものを考えていくアプローチ、そうじゃなくてAまず世界というのがあって、その世界の成り立ちと状況を曼荼羅のように理解していって、その全体像のなかに「自分はここにいる」と考えていくアプローチ、の二系統があるとします。
あなたが仮に東京の新宿に住んでいるとします。まず世界地図をもってきて、世界のあらましと日本の位置を理解して、日本地図を取り出し東京の位置をつかみ、東京区分地図を見て新宿の場所を探し、さらに新宿区分地図を見て、自分の居場所を探していくアプローチがAの後者だとしたら、まず自分の住所から見て、次にその周囲はどうなってるかを見て、という具合に同心円的に段々広げていくアプローチが@のようなものでしょう。@の場合、世界全体を知ること自体は特に目的でもないし、興味もなく、自分に関連するレベルで周囲のことを知っておけばいいって感じになります。
近代個人主義というのは@的な発想なのでしょう。それ以前の中世とか古代においては、「人はいかに生きていくべきか」というよりは、「世界はどうなってるか」的アプローチの方がメインだったように思います。「世界がどうなってるか」論の最たるものは世界各地の神話でしょう。ギリシャ神話やローマ神話、北欧神話、さらに旧約聖書の世界、日本だったらイザナギ・イザナミの国生みの物語とか、天孫降臨とか。この世界はこうなって出来上がってるんだよという。
これは当時の経済的状況も関係しているのでしょう。ある程度メシが食えないと、「人はいかに生きるべきか」とか個人の尊厳やら自由なんて思いつかないでしょう。とにかく絶対的に食料が不足し、餓死者や病死者がゴロゴロ出ている時代には、必死になって食料を確保し、サバイバルする以外に「生き方」なんてありえないでしょう。生き残るために農耕技術が発達し、農耕は天候の影響をモロに受けるから、気象地学が皆の関心の対象になります。なんで旱魃や洪水はくるのかとか、なんで疫病が流行るのかとか考えますが、科学的なメソッドが発達してないので、人知をはるかにこえるドエライ存在が仕切ってるんだという考え方になり、自然=神様になったり、神様が世界を仕切ってるという具合に認識するのでしょう。ここでは、宗教も、文学も、哲学も、アートも、自然科学も全部ゴチャ混ぜの一体のものとなるでしょう。
人間が社会を織り成して、強大な国を作り出し、強い奴が弱い奴を収奪したり、技術が進展するにしたがって、人間の中にはあんまり生活に困らない層が出てきます。いわゆる王族や貴族層ですが、彼らは必死になって食い物を探さなくていい分ヒマになります。だからヒマにまかせていろんな事を考えたりします。ここで文化や芸術が発達したりするのでしょう。同時に、「なんでボク達はキミ達よりもエライのか」「なんでボク達は働かなくていいのか」という正当化の理屈を編み出したりします。終始一貫ベースにあるのは「強いからだ」という暴力的な根拠があるのでしょうが、暴力だけで支配するのは大変だし、疲れるし、効率も悪いし、不安定だから、もっと誰もが「なるほど」と思っちゃうような精密な理屈を作りましょうということになります。
そこで、皆の共通の価値観をベースにして「だからボク達はエライ」論が編み出され、ヨーロッパでは、キリスト教という共通の価値観に基づいて教会権力が強くなり、教会権力と結託した王族貴族が出てくるのでしょう。農耕社会日本では、自然の神様の一族である皇族が権力を正当化します。だから日本書紀とか編纂させて、「ボクらは神様の末裔で、ボクらを怒らせたら怖いよ」という具合になるのでしょうね。ただ、権力が一回出来てしまうと、あとはお決まりの権力争奪戦になり、権謀術数の世界になり、なんでコイツがエラいのかよく分からないけど、とにかく事実上絶大な権力を振るう奴とかが出てきます。
このあたりの世界観は、とにかく世界はこうなってるんじゃ、エライ奴は問題無用にエラいんじゃ、エラくない奴はエラくないんじゃというビシッと決め付けられます。これがいわゆる中世の封建主義なのでしょう。エラい人間はもう神話的にエラい、そのエラさに疑問をさしはさんだり、「ちょっとおかしくないか?」という提案はタブーになります。そんな時代が延々続くのですが、でも段々とそういった宗教的権威というものが薄らいできます。薄らいだ理由は、たぶん生産技術が進展して皆にもモノを考えたり力を蓄えたりする余裕が出来てきたことや、権力側が腐敗して腑抜けになっていったこともあるのでしょう。そうなると、いくら「私は神の代理人である、神の子である」とか唱えても、皆も納得しなくなる。「それってウソじゃねーかよ」って。
日本の場合の転換期は、おそらく平安末期の源平時代あたりにあるのでしょう。それまでの貴族社会的価値観、なんだか分からんけど「エラいからエラい」的世界観(源氏物語や枕草子なんかも常にそれですよね、身分の上下が大前提)は、勃興する武士階級の「強いからエラい」という分かりやすい強弱的価値観にひっくり返されます。
ヨーロッパの場合がルネサンスで、文芸復興とか人間復興とか言われますが、世界観のリセットですよね。まず神様がおって、キリストがおって、その代理人たる教会権力がおってというヒエラルキーを叩き壊して、まず居るのは「自分」、一個の人間じゃないのかよ?という具合に物の見方が転換され、近代個人主義思想が芽生え、それが個人の尊厳を最高価値とする世界観につながり、今日にまで連なっているのでしょう。
多分このあたりで東西のカルチャーが分れていったと思うのですが、西欧は全員参加の市民革命みたいなものを経験しているから、中世の封建的な発想というのはかなり粉微塵に打ち砕かれたのでしょう。まあ、貴族階級や上流社会とかまだ残ってるから完璧にぶっ壊れたわけではないけど、少なくともメインストリームとしては強固な個人主義と、そこから必然的に派生する民主主義が根を生やしています。
一方、日本の場合は、平安貴族が没落し平氏になり、源氏になり、北条政権、足利、織田、豊臣、徳川と続いていっても、所詮は権力者同士の権力闘争でしかないです。民衆が立ち上がって革命を起こしたというのは、各地で散発的に起きた一揆とか戦国期の堺などの自治都市をのぞいて殆どないです。明治維新にしても、薩長対幕府という権力闘争でしたし、その後の明治政府も、「民衆の政府!」という具合にはやらず、物置の隅で埃をかぶっていた天皇を発掘してきて飾り付けて押し出した。市民革命を経ないで、いきなり帝国主義にいっちゃった。
この歴史的経過の差が、今の東西の文化やメンタリティの差になっているのかなって気もします。
登場人物の人数の多い少ないも、遠因はこのあたりにあるのでは、と。もっとも、こればっかりじゃあないでしょうし、他にもいろんな要因はあるでしょう。でも、とりあえず思いつくのはこのあたりです。
このような歴史的思想的背景があるのかないのか、西欧人の物の見方や興味の焦点は、僕ら日本人よりも「個人」「(一個の)人間」にシフトしているように思います。それに対して、僕らの場合は、個々の人間や普遍的な人間存在というよりは、人間同士の関係、いわゆる「人間模様」にどうしても目がいってしまうのでしょう。
一個の人間を掘り下げて描いていく場合、それほど多くの登場人物を必要とはしません。また、主人公というのが突出して確定しており、この主人公に苦難や愛などの刺激を与える存在として脇役的な登場人物が登場します。だからそれなりの必然性や役どころがないと脇役も登場しにくい。結果として人数が少なくなるのでしょう。
でも、日本の物語は、そもそも誰が主人公なのか分からんようなものも多いです。あるいは一応主人公は決まっているけど、主人公よりも脇役の方がキャラが立っていて魅力的で、主人公が一番普通で詰まらんというケースも多々あります。これは特に連載マンガなどで話が長くなるほどにその傾向があるよな気がします。「北斗の拳」でも、主人公のケンシロウが一番平板で面白くないもんね。ラオウをはじめ十数人以上でてくるキャラクターの方が圧倒的に魅力だったりする。それに、あの長い物語を通じて、一個の人間たるケンシロウがいかに人間的に成長していくかを描くというよりは、それぞれに魅力的な登場人物がいかに凄絶な生き様をさらしていくかという群像性に視点が向けられているように思います。
この種のパターンはいくらでも類例がありますし、皆さんも「そういえばあれもそうか」と思いつくでしょう。逆にいえば、日本の連載物語(マンガや小説)というのは、脇役を次々に登場させればいくらでも長くすることができるし、実際長くなってます。ドラゴンボールなんか、誰が強いか論がエスカレートして、しまいには神様まで出てきて、それでもまだ終わらない、神様よりもさらに強い奴が出てくるという(^^*)。「リングにかけろ」や「聖闘士星矢」なんか、毎週毎週一山なんぼで量産される敵キャラだけで話が持ってるような部分があります。もう主人公なんか、ただの観客というか、ナレーターがただ参加してるだけというか。
今回のエッセイに別にこれといった結論はないです。ふと考えて見たらそうかな?ということをベースに、あれこれしょーもないことを思いついて書き付けてるだけです。
ところで、個人的な物語に慣れている西欧人からしたら、あんなに登場人物がやたら出てくる日本の物語をみててちゃんと覚えられるのかな?という余計な心配も出てきます。「あーもー、誰が誰だか!」ってな具合になってないのでしょうか。まあ、聖書とか読まされてるから、登場人物が多いのには慣れているのでしょうか?もっとも、「ドラゴンボール」などを子供の頃から見つづけている今の若い世代だったら、そのあたりは慣れているのでしょうか。
あと、先日クリントン元大統領が「My Life」という自伝を出しましたが、西欧人ってああいうバイオグラフィー、自伝や伝記って好きですよね。ある程度、人生で峠を越した、引退した政治家とかやたら書きたがるし、またそれが売れるから、皆も読みたがるのですね。日本人でも出す人は出すけど、「当然出すものだ」とまでは思われていないし、自分のことを延々語ることにどこかしら照れくささを感じてしまいがちです。
思いつくままに考えをのばすと、西欧の人って、自分や家族の写真が好きですよね。壁やら枕もとやらにやたらめったら貼ってます。こちらの写真屋さんは、同時に写真立て/額縁屋さんでもあり、店先には写真立てが山ほど積まれています。僕は自分の写真なんかあんまり見たくもないし、貼っておくような趣味は無いです。家族も別にキライなわけではないけど、家族の写真を壁一面に貼りたいとは思わない。日本は世界一のカメラ大国で、写真大好き民族だけど、アルバムにコレクションするだけでしょう。また、写真も、「皆で箱根にいったときの写真」という具合に、「一個の人間」を撮るポートレイトというよりは、「その場の状況」という記録性の高いものを好みます。このあたりも、あくまで個人にフォーカスを当てようとする人々と、その「場」そのものをそのまま重んじようとする人々の差なのかもしれません。
日本の物語に登場人物が多いというのは、やっぱり僕らの物の見方がそうなってるからなのでしょうね。個人認識・自己認識
だけから出発せずに、その場における状況の認識を重んじる、人間模様や力学というものを重視するカルチャーにあるからだと思います。
何度も書いてますが、日本人の社会性というか、日本社会でやっていこうと思ったら、イチにも二にも「場の空気を読む力」が必要不可欠だと思います。そして、場の空気を読む力のない奴が、往々にしてイジメられたりします。ある場に出たら、まずそこに登場している人物ひとりひとりをよく観察し、それぞれ腹のなかで何を考えているかを的確に察知し、その全体認識の上にたって、さて自分にはどのような役柄が期待されているかを考え、皆の期待に沿った人間像を演じる---これが日本社会で生きていく基本だと思います。
これはもう6歳くらいで”日本人”になりますよね。3歳くらいだったら、「○○クン、何が食べたい?」って聞いたら、間髪いれず「僕、カレーライス!」って直球勝負の発言しますよね。ところが6歳くらいになって、小学校にいって、ホームルームになると、「○○君の意見はどうですか?」と聞かれても、全体の趨勢が見える前は「今、考え中です」とかいって慎重な構えを崩さず、あるいは端的に「皆がいいほうでいいでーす」とか発言するもんね。「興味ないです」「早く帰りたいです」とか、率直な直球勝負はもうこの年齢になったら影をひそめます。
かくして大人になって、詰まらない会議や飲み会でなどで上司がどーでもいいような演説をしてたりすると、熱心に聞き入るふりをしている同僚達の「早く終わらないかな」「帰りたいな」という本音を的確に察知し、出来るだけ早く終わらせるような協力態勢に入り、絶妙なタイミングで「部長、お時間の方が、、」とナイスなツッコミをいれて皆から殊勲賞をもらったりします。ところが、この場の空気を読む力のない奴がいて、せっかく部長が「お、もうこんな時間か、、」と辞めようとしているのに、よせばいいのに「あ、部長、この点ですけど」と話を振ってまた長引かせてしまったりします。こういう奴は「余計なこと言いやがって、ボケが」皆から嫌われ、ドツかれたり、イジメられたりするわけですね。
かくして、日本で生きていこうと思ったら、この場を読む力、人間相互の関係性、人間模様という状況認識能力をいやがおうでも磨かねばなりません。周囲の人間模様さえちゃんと読めたら、あとは逆算的に自らの役どころも決まってくるし、そのとおりの人格や振る舞いをすればOKだったりします。
このような僕ら日本人の認識傾向からしたら、日本の物語で登場人物がやたら多くなるのも不思議ではないってことになりますし、登場人物が幾ら増えようとも、それに楽勝で対応できるだけの頭のキャパシティがあるのでしょう。逆に登場人物が少なく、あくまでの主人公だけに焦点が据えられていると、逆に息苦しいというか、落ち着かないというか、自己中的というか、なにやらとても内省的なものに感じられるのかもしれません。
内省的といえば、日本の近代文学の場合、西欧的個人主義の視点を取り入れてます。夏目漱石の小説など、主人公がビシッと決まっていて、ブレない。主人公の心の軌跡がそのまま小説になってたりします。ただ、同時に、ストーリー展開の面白さで読ませるのではなく、人間省察的な、「一人で物思いにふけってる」的な感じになりますよね。日本独特の私小説という分野がありますが、日本人が個人主義を取り入れるとああなっちゃうという例なのでしょうか。個人主義的な世界観は、西欧人にとってはスタンダードなものの見え方なのでしょうが、日本人が意識して個人主義的になると、なにやら外部世界をシャットアウトして、自分の世界にひきこもっているかのような閉塞感がそこはかとなく生まれるのでしょうか。
僕ら日本人の全体状況をまず見て、そこから自分の立ち位置を考えるという発想方法は、西欧人からしたら、ともすれば「自分の意見がない」「自分というものがない」と非難される契機をはらんでいます。実際、オーストラリアに来ますと、「アナタはどう思うのか?どうしたいのか?」と主体性を強く問われるので、普通の日本人としては「え、え、、、」と戸惑ってしまいがちです。これも何度も書いてますが、英会話が出来る出来ない以前に、会話が会話として成り立たないというか、自分から主体的にどんなことにも意見をビシバシ述べる、ときには叩きつけるように自分というものを前に出していかないと、英会話にならないという問題はあると思います。僕なぞは、日本人にしては理屈っぽい方だろうし、こんなエッセイを書き続けてるくらいだから、「よくぞ聞いてくれました、いいか、よく聞け」的に対応出来る部分もありますが、それでも「どうでもいいじゃん」ってことまで聞かれると鬱陶しいなって部分もあります。
まあ、実際、英語学校に入って、「イラク問題についてどう思いますか?」「地球の温暖化についてどうすべきですか?」とボンポンと、問い詰められるように聞いてこられたら、普通、言葉に詰まりますよね。これはもう英語という問題以前のレベルです。だから、こちらに来るのであれば、とりあえずどんなことにも自分でモノを考え、自分の意見をもつようにしておかれるといいです。ただし、そんな高級な模範答案でなくてもいいですよ。日本人的には「期待される答弁」「どう答えればいいのか」とかつい考えてしまいがちですが、辛気臭く考えなくてもいいです。ある程度基礎的に勉強しておけってのはあるとしても(全然知らないんじゃ話にならないから)、そこから先は地のままの考えでいいです。つまりは、イラク問題にしても、「正直言って、そんなに興味はない」とか「今の自分にとってそれほど重要な問題ではない」という答えだって全然アリだと思うのですよ。そんなに背伸びして構えることはないと思います。
全体を考え、しかるのちに自分を考えるという日本的なものの見方や発想法は、僕は、これはこれで立派なもんだと思っています。度が過ぎて、本当に自分が無く、周囲の色によって自動的に色が変わるカメレオンみたいな人間になっちゃったら問題だとは思いますが、でもそんなに極端な人も少ないでしょう。
日本人は別に「自分がない」わけではなく、「自分というのは客観的にはそれほど大した存在じゃないよ」というのをクールに見抜いているのだとも言えると思います。だってさ、個人の尊厳とか、個人として大事とか言っても、結局はその場の人間同士の力関係で物事が決まってしまうわけじゃないですか。自分を取り巻く環境、それは人間もあろうし、経済状況もあろうし、天候もあろうし、そういった環境因子を細かく分析していけば、個人が取りうる選択なんか実はそんなに広くないともいえます。だから、無駄を避けるためにも、最初に全体を見て、自分の選択肢が現実的にはどのくらいなのかを考えていくのは、ある意味優れた発想だとも言えるわけです。
ちょうど、将棋をやってるようなもので、抽象的には「次の一手」は無限と言っていいくらいにあると思いますけど、実際にはそんなにあるわけではない。王手をかけられていたらとりあえず逃げるしかない。そりゃ、王手をかけられていながら逃げないで関係ない「歩」を進ませることも理論的には可能ですよ。負けるけどそういう選択も自由です。でもそれって「個人の自由」とか高らかに謳いあげるようなものではないでしょ。無意味なことをする自由はあるけど、その自由自体が無意味です。というわけで、その盤面の情勢を分析すればするほど、可能な手段、選択の余地は実際的には狭まります。これと同じように、社会の中で生きているなら、「こーすれば、あーなって、こーなって、、、」とある程度予測がつきますから、それを織り込んで考えた上で行動するということですね。それは別に「自分が無い」わけでも、自由が無いわけでもなく、ひたすらプラクティカル(実際的)なだけだと思います。
それに、特定個人の視点を中心に据えて見ていこうとするのは悪いことではないし、また自分の人生はそうやっていくしかないのは事実なんだけど、でも、神の視点で客観的に俯瞰して見れば、現実は群像的にあるわけです。Aさんがいて、Bさんがいて、Cさんがいて、、、とそれぞれがそれぞれに存在しているだけであると。日本人はその客観的な部分にどうしても力点を置いてみてしまいがちなのだとも言えるでしょう。
こういった日本人の俯瞰的認識傾向ですが、これ自体は悪いことでもないし、むしろ誇ってもいいことだと思います。広角的な状況判断力に秀でているということで。ただし、課題もあります。このような全体状況の把握をしてから自分の立ち位置を決めるという方法論は、最初の全体状況の把握が間違っていたら、もうどうしょうもなくなります。情報のインプットのレベルで間違ったら、自分自身の自己規定まで間違っていってしまうリスクがあるわけで、これはかなり怖いです。でもって、日本人の状況認識が常に正しいかというと、別にそんなこともないです。半径5メートルの職場の人間関係くらいだったらかなり正確に把握できるでしょうか、全体の範囲を広げていくに連れて情報も不正確になるし、間違いも増えてくる。
日本国内の状況についても、あんまり正確に把握してるわけではないし、自分の住んでいる世界とは違う世界にいる人々は同じ日本人であってもあんまりよくわかってるわけではない。この場合、身近な出来事や、周囲の連中の言うこと、さらにマスコミくらいで全体把握をしようとすると、間違います。つまり「日本という社会はこういう社会」という認識を間違ってしまったり、それが偏ってしまうと、そのなかで生きていく自分の人生設計も必然的に狂います。例えば「高学歴でなければ日本では生きていけない」という間違った認識をもってしまうと、その人の生き方も狭苦しいものになるでしょう。
さらに日本国外、世界全体の状況になると、もう致命的に情報不足です。島国である地の不利、ユニークな言語、文化が災いして、世界は本当のところどうなってんの?というのがかなり見えなくなります。見えないまま、断片的な知識だけで、「だから日本に求められているのは、、」と考えてしまうとハズすと思うのですよ。
全体状況を把握してから個人を考えるという方法論は、全体状況をキチンと把握できてはじめて有効に機能するのであって、全体状況を把握できない場合は、この方法に頼っていたらかえって危険でしょう。だったらどうするのか、やっぱり個人から出発するしかないでしょう。周囲のことはイマイチよく分からないけど、自分としてはこうしたいと。それでやっていくしかないですからね。
日本が海外に派兵することも、「国際社会で求められているから」なんてあんまり思わない方がいいと思います。そういう発想自体が「皆が思われているように振舞おう」という日本人的過ぎるわけで、皆がどう思ってるかどうかなんかよく分からんですよ。見方を変えたら、ムキになって「戦争反対、軍備廃棄!」と狂ったように叫ぶ続けるのが、世界が日本にもっとも期待している役割なのかもしれないです。だって、核兵器を落とされた地球上で唯一の民族なんですからね。半狂乱になって「戦争反対」といっても、「そりゃそうだろうなあ」って世界で一番理解を得やすい被爆民族でもあるわけです。でもって、世界のバランスから考えると、狂ったように反対している国が幾つかあった方が全体のバランスはいいですよ。だから、世界が(アメリカじゃなくて)日本に期待しているのは、アホみたいな理想論をブチ上げる役どころなのかもしれんのです。日ごろ親しくつきあってるアメリカとかその仲間から「お前もやれよ」と言われたから、「国際的に求められている」なんて誤解せん方がいいと思うのですね。それこそ半径5メートルの視点なんだと思います。ただまあ、そのあたりは実際に世界に日常的に接していない僕らには分からんでしょう。日本人が平均して、日本人よりも外国人の友人の方が多いかと、海外在住経験が平均5年以上あるとか、そのくらいになったらある程度皮膚感覚で「全体」が見えると思いますけど、今のままじゃ分からんでしょ。
分からなかったら、もう、自分の視点でやっていくしかないですよね。イラクに派兵するにしても、軍備をもっと増強するにしても、「そうしたいかどうか」です。極端な話、アメリカに反対され、国連に反対されても、「いや、それでもどうしてもイラクに派兵したくてたまらんのですわ」って思うかどうかです。とりあえず周囲の意見や思惑は考えないで、自分自身としてはどうしたいか。そこから考えていった方が誤りが少ないと思います。
これは別に国際政治なんて巨大な話だけではなく、もっともっと日常的なレベルでもありうる話だと思います。全体を把握しようとしてもよく分からなかったりすることは頻繁にあるでしょうし、また把握してると思ってる状況認識それ自体が間違ってるんじゃないか?って疑った方がいいようなケースも多いでしょう。「全体」の半径が狭いと、圧倒的な世論に背を向けて、狭い身内の論理だけで動いたりすることもあるでしょう。というわけで、全体認識から始めないと気がすまない僕らのクセはクセとして重んじつつも、それ一本だけに頼ることなく、「とりあえず自分はどうなのよ?」という主観から始めるアプローチも磨いたおいたら良いのでしょうね。
そうそう最後に身近な話を。「全体状況」の中には、自分の家族、特に親御さんの意向というのも大きな存在としてあると思います。例えば、オーストラリアにワーホリに行きたいとか、仕事をやめてでも留学したいとか思ってたとしても、おそらくは親に反対されるであろうと一人で悶々としているというケースは多々あるでしょう。僕は毎日メールで相談をしてますが、そもそも留学しようかなーという漠然とした段階から相談している場合も多々ありまして、そのなかで「予想される周囲の反対」ということがよくメールの話題になったりします。そして、「思い切って親(あるいは恋人など)に話してみたら、”やってみなさい!”と意外にも激励された」という報告を頂くことがよくあります。
だから、全体認識=「親の意向」の認識把握がそもそも間違ってて、その間違った前提をもとに悩んでいたってケースというのも結構あるようです。まあ、間違ってるというか、おそらくは親御さんとしては、話を切り出されたときの真剣な気迫やオーラのようなものを感じられたのでしょう。いい加減に甘いことを言っていたらダメ出しをするけど、これだけ真剣にやろうとするなら話は別じゃって部分もあるのでしょう。あるいは、親のプレッシャーをはねのけられるくらい、力強い「巣立ちの羽ばたき」を待っておられたのかもしれません。そのあたり「親の心、子知らず」で、勝手にわかった気になって全体認識をしていると大きく方向がズレちゃったりすることもあるでしょう。もったいないですよね。
文責:田村
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