- Home>
- 「今週の一枚Essay」目次
>
今週の1枚(04.09.13)
ESSAY 173/若い人の酒離れ
今週はお酒の話をします。先週が昼寝、今週がお酒。ちょっと読みやすくていいかと思います。
最近、若い人の酒離れが進んでいるようです。朝日新聞の be Reportという欄に、川口恭という方が「最近の若いヤツは…酒を飲まないのだ 酔っぱらいはダサい!?」というタイトルで コラムをお書きになっています。http://www.be.asahi.com/20040821/W13/0045.html
に原文があります。
「近頃の若い奴はつきあいが悪い。上司が誘ってもついてこない」というボヤキは、実は今に始まったことではなく、昔から言われていたと思います。しかし、川口氏が言っている「酒離れ」は、こういった主観的感覚的な話ではなく、客観的な統計の上でも、また酒造会社、居酒屋など専門的な視点からも裏付けられているようです。
そのくだりを抜粋しますと、「大衆的な居酒屋チェーンを経営する村さ来本社の宮崎泰豪・村さ来事業部東京営業部長の実感だ。数年前まではサークルなどの宴会が多く、イッキ飲みが当たり前だった。ここのところ宴会が減り、少人数のグループや合コンで騒がずに飲む姿が目立つという」「飲み方がおとなしくなっただけではない。酒を飲む若者自体も減っている(グラフ手前左 ※省略)。特に男性は、ほぼ一貫して右肩下がり。酒類メーカーがそれぞれ独自に行っている調査でも、同様の結果が出ている。飲酒頻度の下がる傾向も見えるという」「若者の酒離れだけが原因ではないが、国税庁の酒税統計によると、ここ数年、酒税課税額は減少の一途(グラフ左端)をたどっている。居酒屋やビアホールなどの市場規模も92年をピークに2割小さくなった」ということです。
このような酒離れと呼ぶべき現象がなぜ起こったのか?この考察の部分がこのコラムのメインなのですが、川口氏はそれによると、まず第一に原因として挙げられるのが「不景気」。不景気とか景気が悪いとかよく言われますが、具体的な数値が紹介されていて、「03年版国民生活白書によると、20代で「昨年より生活が向上した」と答えた人の割合が、90年にプラス6.5%、96年にプラス5.1%だったのに、02年にはマイナス6.8%と逆転してしまった。総務省の家計調査でも、00年度に1カ月20万4千円あった20代世帯の消費支出が、03年度には18万6千円まで減った。就職せずフリーターになる若者も増える一方だ」ということで、まず暮らしが上向かない、可処分所得も減った、懐が寂しくなってきているわけですね。しかし、「収入が減る一方、携帯電話やインターネット、ゲームなど、娯楽は多様に。酒への出費は減らざるを得ない」ということだと。
しかし、単に景気や経済的な理由に留まらず、もっと深い部分での変化があるのではないかということで、いくつかの意見を紹介しています。
博報堂生活総合研究所の原田曜平研究員は、単純な金銭問題より、彼らの行動様式と価値観の変化を重くみる。
酒の三つの効用を必要としなくなったというのだ。三つとは、(1)仲間との連帯感を深められる(2)自分を忘れてバカになれる(3)ストレスを発散してリフレッシュできる。(1)は携帯電話やメールの普及で人間関係が広く浅くなったこと、(2)はネット仮想空間の発達で酒の力を借りなくてもバカになれるようになったことが理由という。
(3)は、根が深い。酒を飲んで日ごろの留飲を下げられるのは、経済が右肩上がりの年功序列社会で、今を耐えれば将来は良いことがあると思えたからだ。それがもはや通用しない。こうなれば会社などのタテ社会のストレスに耐える気もなくなる。逆に酒を飲んだところでストレスは解消されず、リフレッシュにもならない。
サントリーRTD事業部の和田龍夫企画部課長は原田説の(3)と同じような見解だが、酒離れの背景に、若者ならではの純粋さも感じている。「彼らがムチャ飲みして酔っぱらいにならないのは、酔っぱらいをダサいと思っているからです。陰で上司の悪口を言って憂さを晴らすような姿が、目前の障害に正面から向き合わず逃げているように映るのでしょう。彼らなりに逃げないようにしたら、結果的に酒離れになったんじゃないですか」
とのことです。なかなか面白いコラムで、このコラムにインスパイアされて自分の意見を書いているサイトも沢山ありました。あなたはどうお考えですか?
若年層の酒の消費量が減っている傾向は、どうも事実としてあるようです。ただその理由となると、よく分からないです。上記に掲げられている幾つかの理由も、「ほう、なるほど」とは思うのですが、よくよく考えると「あれ、そうかな?」という気にもなります。
まず、「仲間との連帯を深められる」という「お酒のご利益」は、@携帯やメールの普及で広く浅い人間関係になったこと、あるいはAネットの仮想空間でバカになれるようになったなどの事情から、以前ほど重視されなくなった、という指摘があります。しかしですね、僕の経験でいいますと、携帯電話とかインターネットなどのネットワークというのは、酒に関して言えば価値的に中立なのではないかと思います。これらはコミュニケーションツールであり、ツールはどこまでいってもツールなのではないかと。
今のインターネット前身としてパソコン通信というものがありました。僕はかなり初期の頃から関わっておりました。まだ昭和の時代、1200bpsという今から思えば信じられないくらい遅い遅〜い通信速度(1.2Kだもんね。ブロードバンドからしたら遅いと言われるダイアルアップでも今は56Kくらいだから、いかに遅かったかわかるでしょう)の頃からやっておりました。専門職の職業病でもある「視野の狭さ」に自分も陥ってしまうような危機感をなんとなく感じ、異業種の人達と知り合いたいということで始めたのですが、所期の目的はほぼ達成されました。非常に面白かったです。ネットというのはおっそろしく不毛な部分も、きわめて毒性の高い部分もありますが、やりようによってはかなり実り豊かなものが作れます。僕らもその恩恵には十分に浴しましたし、ものすごく勉強になりました。
その経験でいいますと、ネットによって酒の機会が減ったかというと、増えました。もう爆発的に増えました。ネットで充実した(あるいは楽しくもお馬鹿な)意見交換をしてると、「この人はどういう人なんだろう?」と会ってみたくなるのが人情です。文章というのは、怖いくらいにその人の人となりが表れますから、人に対する興味はむしろ掻き立てられたりします。でもって、実際に会う機会を作るようになります。いわゆるオフ、オフラインミーティングのことで、オフ会を沢山企画するようになります。そのうち、もう「会」とかいうレベルを超えて、普通の飲み友達みたいになって、ガンガンやってました。最盛期にはなんだかんだで年間100回くらい、3日に1回くらい会ってたように思います。会えば会ったで、とりあえず居場所が欲しいですから、飲み会になりますよね。あまりに激しく飲みにいくので、お金が続かないから、皆でお金を出し合ってアジトとしてワンルームマンションを借りたくらいです。
ネットやってる奴が全員そうなるというつもりはないですし、僕らの方が例外なのかもしれません。でも、人とは知り合えますよ。普通に生活してたら出会う接点がないような人と沢山出会えます。人付き合いの機会が増えます。そりゃ、ネットの匿名性に隠れて、実際に会うのを怖がる人もいるだろうし、あるいは「変身願望」のように自分とはまったく違う架空の人格を捏造してネットで暴れたいって人もいるでしょう。でもそんなネガティブな奴ばっかりではないではないし、こと人付き合いという意味でいえば、そういう連中というのはネットをやろうがやるまいがあんまり活発に飲みに行ったりしないんじゃないか、だから酒の消費量にはあんまり関係ないような気がするのですが、これって偏見でしょうか。
それにネットをやるから人間関係が浅くなるとは一概には言えないでしょう。むしろ逆の側面もあります。現在の自分の職場や立場とまったくなんの接点もない人達と知り合えるから、しがらみがない分、あれこれ余計なことを考えずに素顔の自分でつきあえます。それがネットの良さと言われますし、小学校の頃の友達のように、全く対等で気のおけない友達になれます。今、こうして振り返ると、本当に「友達」と言えるのはネットを契機に知り合った人が多いです。ずっと前に日本に帰国したとき、全国行脚して、2週間に70人くらいと飲んだことがありますが、そのうちの80%以上はネット関係でした。そもそもいまのカミさんもネットで知り合ってます。だから、ネットだから人間関係が浅くなるとか、薄くなるってことは、一概にいえないんじゃないかな、少なくとも僕の場合は、ひたすら深く、濃くなってました。
また、携帯電話が普及することと人間関係が希薄になることとの間に因果関係があるのかな?という気もします。どうなんでしょうね?携帯電話が普及したから、いちいち外で会わなくても済むようになり、それがゆえに外出機会、ひいては飲みに行く機会も減っているということでしょうか。でも、こまめにコンタクトが取れるから、気軽に呼び出して飲みに行くってパターンもあろうから、どっちとも言えないような気もします。
だから、携帯といいメールといっても、あくまで「道具」にすぎないわけで、その道具を使ってどういうコミュニケーションを図るかは、結局はその人次第ということだと思います。新しいコミュニケーションツールが出てくると、物珍しい部分や奇矯な部分ばかりがフィーチャーされて報道されるキライがありますが、別にそうと決まったわけではないです。「話題」と「実態」はまた違う。上記の所論は、なんかそういった特殊な部分に引っ張られているような気もします。ネットや携帯にハマる若者=あいつらなに考えてるのかようわからん、みたいな。
それに、「ちょっとじっくり話をしたい」という場合、2,3の注意点を伝えるくらいならば、確かにメールでことが足りるのも事実です。従来酒の席でやっていたことがメールに取って代わられたという部分もあるでしょう。でもそれって、最初からメールでことが足りるようなレベルのコミュニケーションだとも思うのですね。実際、ある程度まとまった意見の伝達は、口頭表現よりも、論理性や記録性に優れた文書表現の方がふさわしいです。だから、酒の席でやらない方がむしろ望ましいというケースだってあると思います。じゃあ、酒席や対面コミュニケーションは不要になるのかというとそんなことないです。文章や言語では表現しきれない人間の魅力は、やっぱり会わないとわからない。意見や情報の伝達ではなく、人間存在それ自体の交歓みたいなものがあって、人はそれに惹かれます。メールや電話があるから、会わなくてもいいやって恋人はまずいないでしょう。実際に会うのはまた全然別物です。
次に、酒を飲んで「自分を忘れてバカになれる」とか「ストレス発散」という効用ですが、いわゆる「パーっとやる」ということですよね。たしかに、そういったハレ的、お祭り的な機会というのは、世の中が進展するに従って多様化し、ゆえに酒席の頻度も相対的に低下するという傾向はあろうかと思います。話を分かりやすくするために極端に考えますと、その昔の原始社会のようなところでは、ハレ的なものは部族の祭礼儀式くらいしかなかったでしょう。テレビも雑誌もインターネットも風俗産業もカルチャー講座も起業も何もなかったら、やっぱり皆で集まってなんかやるくらいしかないです。夜になったら囲炉裏端に集まって皆でお話をするとかね。原始社会までさかのぼらなくても、擬似的な原始社会、つまりはキャンプにいくとか、登山やスキー旅行にいくとかですが、パーっとやろうと思えば、やっぱり皆で集まって酒盛り的なことをやるしかないでしょう。それが、テレビもあり、インターネットもあり、ゲームもあり、あらゆるメディアがあったら、それぞれが好きなことをやるでしょうし、結果として皆で集まってなんかやるという機会が減るのは確かでしょう。
しかしですね、こういった傾向はなにも今に始まったことではなく、人類の歴史として連綿と続いているんじゃないでしょうか?だから、人類の文化文明の進展と生活の多様化に伴って酒消費量が一貫して下がっているというなら話はわかりますけど、精々ここ数年〜10年程度の短期スパンに特徴的なことってわけでもないでしょう。生活の多様化でいえば、携帯の普及はもう10年近く前から起きてますし、その前だってテレビゲームとかいろいろな多様化があったと思います。ここ数年で劇的に多様化したのかなあ?って、そこはちょっと疑問でもあります。
それと、ストレス発散の多様化ですけど、確かに多様化したかもしれないけど、ストレスの量も昔に比べれば格段に増えているのではないでしょうか?先行き不透明なこの世相においては、右肩上がりのイケイケ時代のように「明日もがんばろー」でやってられた牧歌的な感じではなく、より逼迫するものはあるでしょうから、逆に「酒でも飲まなきゃやってられるか」って具合になってもおかしくないように思います。
上述の指摘で「酒を飲んで日ごろの留飲を下げられるのは、経済が右肩上がりの年功序列社会で、今を耐えれば将来は良いことがあると思えたからだ。それがもはや通用しない。こうなれば会社などのタテ社会のストレスに耐える気もなくなる。逆に酒を飲んだところでストレスは解消されず、リフレッシュにもならない」という部分がありました。そうなんですかね?酒をウサを晴らせばそれでOKというほど症状が軽くなく、酒なんかではどうにもならないくらい打ちひしがれているのでしょうか?そんなにヒドイのですか?僕は現場にいないのでよく分からんのですけど。そうなんですか?でも、状況が閉塞し、悩みが深くなるほどに、「実は、俺、迷ってんだけど、、」みたいなシリアスな酒が増えても良さそうにも思います。
あと、上の世代の酔態=醜態をみて、「酒への逃避」を回避するという傾向ですが、そんなところまで考えているのかなあ?まあ、考えるというか、なんとなくの好き嫌いなのでしょうけどね。でも、そういう傾向ってのは、新人類の一番のハシリと言われた僕らの世代でもそうでしたよ。団塊世代やその上の世代のような付き合い方を、息苦しいな、暑苦しいなと思う部分は確かにありました。今でもそれは大きく変わってないと思いますが、だからといって酒の量そのものが減ったか?というと、別にそうでもないように思います。そりゃ確かに「飲み方が変わった」とは思いますよ。職場の人々が一丸となって、人格が集合的に融合してしまうような付き合い方ではなく、もう少しサラッとしたものにはなったと思います。しかし、人が人を欲し、人と接することでなんらかの人間的充足をみるという根本欲求の部分では変わるべくもないから、結局スタイルが多少変わったくらいだと思います。よりパーソナルに納得して、しっくりいく飲み方をしたいということであって、量的な増減には直ちには関係しないようにも思います。
ただ、これらの指摘を通覧して感じるのは、「あれ、酒ってそういう具合に消費するものだったのか?」ということで、なんかお酒の飲み方の捉え方自体が、僕からするとちょっと一面的なように感じられます。なんというのか、酒=職場のノミニケーションとして捉えられ、酒量の減少=ノミニケーションの減少であるかのように論じられているのではないか、と。それはそうなのかもしれないけど、うーん、もっと他にあるんじゃなかろうか。
僕自身、日本にいるときはガンガン飲んでましたけど、自分を振り返って考えるに、「連帯感」「バカをやる」「ストレス解消」という三大効用って、そんなに大きな比重を占めていなかったように思います。もっと別の理由で飲んでたんじゃないかな。
僕がお酒を飲む場合というのは、「その人とゆっくり話をしたいから」という理由が一番大きいように思います。それを「連帯感」というのだよと言われるかもしれないけど、別に話をする相手は同じ職場の人とは限らないし、そうじゃない場合の方が多かったです。まあ、魅力的な女性とお近づきになりたいなんて場合もありましたよね、昔は(^^*)。ただ、純粋にナンパ系というよりは、単純に人として面白そうだからって場合も多かったです。ちなみに合コンというのは学生時分からあんまり好きじゃなかったので一回もやったことないです。あと、「友あり、遠方より来る」系のケースとか、普通に友人知人と話をするために飲みに行くという。
別に話だったら公園でも喫茶店でも出来そうなもんですけど、飲み屋が一番居心地がいいです。以前に日本帰省記にも書いたのですが、日本の都会にいたら、酒飲むくらいしかやることがないというか、居場所がないのですね。公園のベンチも少ないし。その代わり、日本の飲み屋さんは世界一だと思いますね。居酒屋や一杯飲み屋、あるいはちょっとお値段高めだけどしっかりした肴を出してくれる小料理屋系のお店というのは、オーストラリアに来て I miss Japan(ああ、日本が懐かしい)と思う事柄のひとつです。もちろんシドニーにも沢山日本レストランはありますし、かなりのクオリティのお店もありますが、やっぱりどうしても「レストラン」っぽくなりますし、「居酒屋」的なカジュアルな感じにはならない。そういうお店も無いことはないけど、広いシドニーに点在してるって感じで、サンダルつっかけて「ちょっとそこまで」的な感じじゃあないです。
西欧風の飲み屋は、基本的にパブとかバーですから、カウンターでお金を払ってビールを受け取ってというシステムで、肴なんか全くなく、なんか情緒もへったくれもないから、あんまり行きません。ほんと行かないですよ。10年住んでて数回くらいしか行ってない。その代わり、こっちは家が大きくて気分いいから、家で飲むのが多くなります。まあ住環境とか仕事環境が変わればまた変わるのでしょうけど、今のところわざわざパブに出かける必然性なんか何もないですね。いくなら「飲みにいく」のではなく、「食べにいく」という感じですね。
これは昔日本に行ったときの雑文で書いた記憶がありますが、やっぱり日本の居酒屋はいいです。清潔に掃除され、磨き上げられ、木目も美しいカウンターやテーブルについて、目移りするくらいいろんな美味しそうな献立が並んで書かれていて、目の前には大皿で肴の煮付けなんかがドーンとあったりして、「とりあえずビール」っつって、オシボリのぬくもりを楽しむという。ああ、いいなあ。こっちオシボリないですからね。突き出しが出され、さらに日本料理独特の美意識で盛り込まれた季節の一品料理がちょっと並んでくると、雰囲気は一気に intimate というか、同席する人達との親愛なる空間が醸し出されます。ゆったりくつろぐし、ほんと「胸襟を開いて」という形容がふさわしいコミュニケーションの場が出来ます。
こっちはパブはですね、基本的には立ち飲みですし、ツマミなんかろくすっぽないし(ピーナッツ買うくらい)、やたらうるさいし、ひたすらグビグビ飲んで、大声で怒鳴るようにして会話をするって感じです。落ち着かないっていうか、なんかガソリンスタンドみたい。給油ならぬ給酒所。エネルギーありあまってる若いうちはいいかもしれんけど、ある程度トシ食ってくると逆に鬱陶しくなってきますな。
こうして書いてくると、バカをやるとか、ストレス発散とかいうのは、「飲みにいく」というよりは「酔いにいく」という感じですよね。酔うことが大事というか、アルコールによる麻酔作用を求めているような。でも、皆さん、そんな風にして飲んでるのかしら。アルコールの作用として、身体や気分が温まったり、ほぐれたり、いい気分になるのは僕も好きですが、酔っ払うのはそんなに好きではないです。お酒は美味しいから飲みたいけど、酔っちゃうのがイヤだなあって思ってます。酔わない酒があればいいのにって思ったりして(^^*)。二日酔いでシンドイというのが大きな理由ですが、それだけではなく、段々会話もとりとめもなくなってきて浅く流れるし、一晩たったら忘れちゃうし、食べ物の味もわからなくなるし、知覚や思考が鈍磨していくこと自体がそんなに好きではないのでしょう。
でも、まあ、ドンチャン騒ぎや乱痴気騒ぎは、僕もやりますし、別に嫌いじゃあないです。酔っ払って「ぎゃはははは!」という気持ち良さはわかるし、結構バカもやりました、はい。でも、それは「そういうこともある」という程度で、それがメインの目的ではないです。バカをやるのも嫌いじゃないし、好きな方かもしれませんが、素面で大まじめにバカやる方が面白いです。くだらなーい企画を考えて、それを大真面目に実行して、爆笑しながら粛々とやるとか。大学のときに、サークルの中でカン蹴り大会を企画実行しましたが、いい年こいてキャッキャやってるのは面白かったです。
ストレス解消とか連帯感ということで職場の人と飲みに行くのはよくやりました。誘われたらまず断らなかった方だと思いますし、実際楽しみにもしてました。いい職場だったんだと思いますが、説教がましい上司もいなかったし、上の人はやっぱり自分よりもキャリアの長い弁護士だからいう事が勉強になった、、、「勉強」とかいうとイイコぶってるみたいだけど、単純に面白かったですし、すごくタメになった。事件処理で悩んでたりしても、同じように悩んでる同僚や同期の連中と話してるとストレス解消にもなりました。だから一番のストレス解消は「じっくり話す」ということで、必ずしもバカをやることではなかったです。
多分、上記の分析をされているのは、僕よりも一世代上の、それもサラリーマン的な社会でのお酒を念頭においておられるのだと思います。そりゃ僕らの世代でも、その下でも、「赤提灯で上司の悪口いって、おだをあげて」というのが酒席のメインであるという人は沢山いるでしょう。しかし、僕をはじめとして、そういう方向には馴染まない人は僕らの世代で既に出てきています。それに、上の世代でも、僕の父親はそういう飲み方は大嫌いだと思います。
だから僕のような人間が徐々に増えていって、それが結果として酒量の減少につながっているのだといえば、それはそうなのかもしれない。しかし、それは、昨今新たに始まった現象ではなく、ずっと続いてきた現象なのだと思います。
端的に言ってしまえば、上記の所見で想定されている酒の飲み方は、特殊「終身雇用のサラリーマン」的な酒の飲み方なのではなかろうか。終身雇用のサラリーマンという職業・人間類型は、たしかに日本社会において一番のボリュームをもつかもしれないけど、世の中はそういう人達ばかりではない。自営業者は沢山いますし、手の職系の職人さん、農林水産業に従事している人もまた沢山います。給与所得者であったとしても、終身雇用なんか特に前提にしていない人もいるでしょう。これも以前に書いた記憶がありますが、どうも日本のメディアや評論などで、日本社会が描かれるときに、実際の人口比率以上にサラリーマン、それもホワイトカラーで、それもある程度規模の大きな会社に就職している人間類型がフィーチャーされているような気がします。それは評論したり報道したりしている人がまさにその類型だから、なんとなく世間も自分と同じような人々であるかのように錯覚してるんじゃないかしら。日本の大企業に勤めているホワイトカラーなんか、日本の絶対人口からすれば一握りに過ぎないでしょう。そんなに誰も彼もが有名企業に入れるわけでもないでしょ。
ウチの家業も殆どずっと自営だったから、父に特に上司も同僚もいなかったし、付き合いで飲み歩いて午前様で帰ってくるなんてことは絶無に等しかったです。そして僕も今自営をしてますが、自営をしてると、上司も同僚もいないから、サラリーマン的な理由でお酒を飲むことはまずないです。飲もうと思っても飲めない(^^*)。同じように、サラリーマン諸兄が一杯楽しくやってるとき、その居酒屋を経営している人だっているし、厨房で働いている人だっています。彼らは仕事が終わったら一杯って具合にはいかないでしょう。夜も遅いし、明日にはまた仕入れも仕込みも待ってるわけだし。このような立場の人は、実は沢山いると思いますよ。
だから思うのですけど、この酒量減少傾向は、特に最近になって若い人達が酒に向き合うスタンスを変えたというよりは、昨今のリストラや就職難、派遣社員の増加などで、昔のような純粋培養サラリーマンの絶対人口が相対的に減ったから、結果としてサラリーマン的酒席が減り、それが酒量減少の理由であるかのように見えているんじゃなかろうか。
ある意味では、そういうサラリーマン的飲み方の方が、国民全体からすればむしろ特殊だったとも言えるわけです。これまでたまたまそういう人々の絶対人口が多かったから、日本社会のメインストリームのように思われがちであり、また情報を発信する人達がそのカルチャーにどっぷり漬かっていたから特にそう表現されてきた部分もあると思います。でも、それほどのもんかなあって気がしますよ。
ただ、20代の飲酒率は着実にさがっているようです。今、20代の男女の3割くらいはお酒を飲まないそうです。
その理由は何なのか?ですが、正直言って僕にもわかりません。もっともこの調査は、ビデオリサーチ社の調査にもとづくもので、おそらくは国勢調査のような大規模なものではなく、モデレートな規模の一回的なリサーチでありましょう。それを全ての前提にしていいかという点は多少の留保は必要でしょう。そして、3割飲まないといっても、別に3割減ではないです。93年に87.6%だった男性の飲酒率が2003年には73.1%になったということで、実質は14.5%減です。なお女性は78.0%が67.2%になっており、10.8%の減少です。
確かに減っているのは減っているのですが、女性の方が男性よりも減っていないのはなぜでしょう。先ほどの理屈でいえば、女性の方が男性よりも今なおサラリーマン的酒の飲み方を堅持しているからなのか?あんまりそうとも思えませんよね。あと飲酒率の調査なんですけど、どういう質問事項でやってるんでしょうね?「日ごろお酒をよく飲みますか?」という漠然とした問いかけなのでしょうか?ふと思ったのですが、「あなたはお酒を飲みますか?」と聞かれた場合、自発的に飲む場合を念頭において答えませんか?つまり、職場の半強制的な飲み会に駆り出されたような場合をして、「私はお酒を飲む」ということにカウントするでしょうかね?あんまりしないような気もするのですが。つまり、「最近の若いモンはつきあいが悪い」とか言われるその「付き合い酒」ですが、これって飲酒率のカウンティングにどれだけ影響を与えているのかな?という気もします。
僕がなんとなく思うのは、10人おって3人くらい酒を飲まない奴がいるというのは、これはもともとそんなもんじゃないかな、けっこう自然な数字なのかもしれないなって。体質的に飲めない人が一定いるとして、片や酒が好きでどうしようもない人がいて、あとの中間層は、まあ気分や環境で飲んだり飲まなかったりしてると思うのですよ。そして単純に「食べ物としての好み」でいえば、「けっこう普通に飲んでます」という人が7−8割もいるというのは、それ自体わりと高い数字なのではないかと思います。
むしろそれまで9割近くの人が飲んでいたこと自体、僕からしたらちょっと違和感あります。これって、殆ど体質的に飲める人はほぼ全員飲んでるくらいの数値じゃないでしょうか。これもちょっと異常な気もします。これって、お酒を「おしるこ」とか「きんぴらごぼう」とかに置き換えてみたら分かると思うのですが、何を食べ何を飲むかなんかそれこそ嗜好品なんだから個々人の自由でしょう。西欧のように、食事になれば水のようにワインを飲む習慣があるならともかく、それほど人種的に酒に強くもない日本人が、「お酒はとにかく飲むものだ」と思ってたとしたら、そっちの方が強迫観念なんじゃないかって気がします。しかも、嗜む(たしなむ)とか味を楽しむのではなく、わっと騒いだり、酔いつぶれたりするのが「酒の道」なんだみたいに思っているとしたら、それは間違ってますよ。僕はお酒が好きですが、好きだからこそあまり酔いつぶれたりはしたくないのです。特に杜氏さんが精魂傾けて作った銘酒を、酔っ払って味もなにもわからないまま喉に流し込むようなことはしたくないです。なんか失礼じゃん。
ここまでつらつら書いてきて気づいたのですが、酒量消費、お酒の飲み方論って、要するに人間関係論、コミィニケーション論であり、ひいてはその人の生き方論なのだと思います。そして、若い人が酒を飲まなくなった→若い人の人間関係が貧しく痩せてきていると考えるのも一面的な物の見方でしょう。お酒の飲み方や、人との付き合い方に別にキマリなんかないです。好意的に若い人を理解すれば、あるいは僕自身の感覚でいえば、人間関係が痩せてきてるのではなく、逆にもっと「ちゃんと人と付き合いたい」って思ってるのですよ。酒席=職場酒と限定したくないし、そこでの会話は上司から部下へのサラリーマン社会の心得論だけに限定されるはずもないし、酔っ払って乱痴気騒ぎをするだけがストレス解消ってもんでもないでしょうと。そういった鋳型で流し込んだような酒の飲み方、人との付き合い方、ひいては生き方ではなく、もっと素直に、もっと個性に応じた、もっと本当の生き方をしたいと思ってるんじゃないかしら。だから多様化します。十人十色なんだから多様化しないほうが嘘です。
「最近の若い者は」というフレーズを、実は僕と同年代の40代も発しているわけですが、「ちゃんと見てますか?」って言いたくなる時もあります。若いからってそんなに人間として違いがあるわけじゃないですよ。世代論を強調しすぎじゃないかな。自分たちに理解できないように理解できないように、素っ頓狂な部分ばっかりフィーチャーしてエイリアン的な人物像を勝手に描いて勝手に悩んでるって部分がなきにしもあらず。僕のところには、年間通じて100人くらいの人が短期とはいえ寝泊りしますし、多くは20代、10代の人も30代の人もいますけど、世代の差って驚くほど無いですよ。それは外国という、誰にとっても未知の場所にいるから日本社会での世代的行動様式が通用せず、素に戻るって環境的な要因があってのことだと思いますが、逆にだからこそより本質が見えるという部分はあります。
今の時代は、昔のように大企業に就職したらそれで一生安泰さ、あとはそのカルチャーにどっぷり漬かればOKという分かりやすい時代じゃないです。銀行再編劇を見ててもわかるように、超有名企業に入ったからといって、あとで吸収合併されいびり出されるかもしれないわけです。共同幻想を持てない時代に(もともと幻想なんだから持たない方がマトモだと思うし)、じゃあ何を求めるの?といえば、二つの方向。一つはより麻酔作用の強力な幻覚剤。ブランド品もってたらなんとなく救われるとか、宗教とか。もう一つはより幻覚が薄れていく方向で、より普遍的で、より本物を求めるようになると思います。
そして、人間も、お酒も、まごうことなき「本物」ですから、基本的にどうにかなっちゃうってことはないと思います。ただ、より本物っぽくしたいってことだと思いますし、そうであって欲しいなって思います。ああ、大吟醸、飲みたいっす。
文責:田村
★→APLaCのトップに戻る
バックナンバーはここ