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今週の1枚(04.08.16)
ESSAY 170/マニュアル時代
写真は、ジャスミンの花。ウチの庭で撮ったものです。そろそろ本格的に春めいてきました。そこかしこでジャスミンのむせかおるような香りが漂ってきています。
マニュアル世代という言葉がずいぶん昔に流行って、今もなお使われているようです。また、いわゆるハウツー本、マニュアル本は、今もなお盛んに出版されています。「マニュアル」という言葉は色々な局面で使われています。悪い意味でも、悪くない意味でも。
本来の英単語としてのマニュアル"manual"ですが、「手動の」という意味です。
man/manuというのが、ラテン語のmanusから由来して「手」を表すことから、もっぱら手に関連した言葉を作ります。マニキュアとかいうでしょう。あと、マニュピュレイト(manupilate=操作)とか、マニファクチュア(manufacture=製造)なんかもそうです。manの語幹部分からだったら、さらにお馴染みの単語が派生していきます。たとえば、マネジメント、メインテナンスなど。マニフェスト、マニスクプリトなんかもそうです。つまりは、「手」ないし、手を使ってなにかの作業をすることが基礎的なイメージなのでしょう。もちろん、manualには、「手引書」という意味もあります。だから”手”引き書なんですよね。手を使う人力作業における説明書ってことでしょう。
本来的な意味でのマニュアルは、オートマティックに対応するもので、「いちいち人が手で操作をする」って感じなんだと思います。「手作り」ですよね。だから自動車のマニュアル vs オートマというのが、マニュアルという語源的意味に近いのでしょう。パソコンや飛行機などの高度な機械系も、「マニュアルで操作する」というと機械任せにせずに、人間がいちいち操作していくということで、マニュアルってのは本来高度な技能と知識を要求されるカッコいいもののようです。
しかし、「マニュアル世代」と揶揄気味に言われるときのマニュアルはそうではない。「手作業の」という語義ではなく、「指示説明書」の意味であるという以上に悪い意味で使われます。「マニュアルが無ければ女も抱けねえ」というのは、忌野清志郎の「現場処理の男」という曲に出てくる一節で、この1フレーズに語り尽くされていますが、なんでもかんでも誰かの作った指示説明のとおりに行おうとし、自分の頭でモノが考えられなくなったという知的能力の後退した人間、、、要するにアホの一パターンとして言われます。
いったいいつ頃からマニュアル世代なんて言葉が使われだしたのでしょうか。20年くらい前でしょうか。「新人類」とか、「指示待ち人間」とかいう言葉が出てきたのとほぼ同じ頃だったような気もします。そしてまた「管理社会」なんて言われ方がし始めた頃だったような気もします。
「世代」ということでいえば、早ければ僕らの世代も含むでしょうし、今の30代のみならず40代もそうなっているということでしょう。ただ、「世代」というのはある特定の年齢層を示すものだとすれば、マニュアル世代に関していえば「世代」という言葉が正しいかどうか疑問があります。”世代”というからには、ある一定の年齢層だけ、つまりその年齢幅が過ぎたらまた元のマニュアルに頼らない世代に戻っているはずですが、そういう話にはあんまりなっていないことが第一。つまり、1960年台生まれだか70年代だかわかりませんが、その年齢あたりを皮切りにそこから下の世代ぜーんぶそうなってるかのような気がします。第二に、上の世代においても、同じくマニュアル頼みの傾向が見て取れるように思えるからです。だから、「マニュアル世代」というよりも、「マニュアル”時代”」と言った方がより正しいのかもしれません。
ところで、マニュアル(説明書という意味での)の存在そのものは、悪いものではなく、それどころか非常に役に立つものです。パソコンの動かし方、原子力発電所の操業から、いわゆる「手引き書」は、あらゆる局面に浸透していますし、それは何も今に始まったことではないです。それこそ鎌倉時代の世阿弥が書いたといわれる花伝書なんかは、能のマニュアルといってもいいです。
操作をするのに複雑なステップが入り組んでいて、素人には何をどう動かせばわからない機械や物事、ひいては未知の領域に向かう場合の水先案内としてマニュアルは非常に重宝します。不可欠といっても良いくらいです。一定の体系を有し、習熟するのに時間を要する物事について、効率よくこれを習得させるための書籍という意味では、古今東西全世界に遍在しているといってもいいでしょう。だって、難しいことは誰にだってわからないもん。そこに分からないものがある限り、それを易しく解説した本が出てくるのは、ある種必然ですらあります。
先程、上の世代だってマニュアル漬けになっているんじゃないか?と書きました。それは現代社会が高度に複雑になってきて、「分からないこと」が社会に増えてきたから、老いも若きも解説に頼らざるを得なくなっているという側面はあると思います。30年前、40年前を考えてみればわかりますが、あの頃は社会もシンプルでした。貯金や投資をするといっても、多くは郵便貯金かタンス預金、かなり知ってる人が株を買うというくらいだったもん。それが日本列島改造論あたりから土地神話の勃興してきて、やれ不動産投資はどうとかいう話になり、さらに節税対策を考えなければならなくなり、預金でも定期なんかバカバカしいから○○ファンドにしようとか、いやポートフォリオがどうとか、さらに外国預金はどうかになり、ファイナンシャルアドバイザーが登場し、、どんどん複雑になってます。身の回りの家電系だって、昔のテレビなんかリモコンもなくて、丸いチャンネルをガチャガチャ廻して、あとは音量調節するくらいでした。チャンネルチューニングなんて作業は必要ではなかった。ところがビデオデッキの登場以降、接続というチューニングという問題が出てきて、さらに、ビデオカメラに接続し、DVDにつなぎ、ハードディスクレコーディングをするためにパソコンにつないでキャプチャーしてとか、無線システムがどうとか、地上波デジタルがどうとか、どんどん複雑になってます。
食べ物だって、昔は「栄養のあるもの」「給食はバランス良く三角食べにしましょう」とか言ってれば良かったですもんね。それが栄養学の浸透と、健康食品、さらには遺伝子組み替えがどうしたとか、残留農薬がどうとか、フリー・ラディカルがどうしたとか、モノ・サチュレイトとポリ・サチュレイトとかいろいろ考えなければならなくなった。子育てにしても、昔は「ワンパクでもいい」とか言ってりゃ良かったんですけど、やれ幼児期のトラウマがどうとか、アトピーがどうとか、情操教育が、英才教育がとか、大変です。動物(人間も含む)の幼児ってものは、普通にそこらへんで遊ばせておけば勝手に育つようにDNA的にプログラミングされていると思うのですが(されてない種族は淘汰されるし)、なんかそんな風に言えなくなってきちゃってる。
人生だってそうです。昔は、「一生懸命働いて、まっとーに暮らしていれば誰でもハッピーになれる」という分かりやすい社会だったと思いますよ。いや、それなりに理不尽なことは山盛りあったでしょうけど、こんなに複雑ではなかった筈ですよ。複雑になれば、やっぱり分からないし、分からなければ解説を読む、だからマニュアルに頼る、、、となっても、何の不思議もないです。
誰かのSFで、未来社会になると80歳でやっと成人になるという小説がありました。世の中が高度になるつれて一人前の成人として求められる情報量と技術量が格段に増え、80年くらいやってないとなかなか一人前にならないから、という風刺のきいた小説です。しかし、この現代社会を見てますと、それも満更与太話ではないのかもね、という気もしますな。「分からないこと」が加速度的に増えれば、それを解説するマニュアルもまた加速度的に増え、マニュアルに囲まれて生きるようになっても、それは特におかしなことではない、と。
では、なぜ、普遍的な存在であるべきマニュアルが、マニュアル世代(時代)として非難がましく言われるのでしょうか?何が悪いの?ここですよね、問題は。
まずひとつは、「悪いマニュアルが多い」ということだと思います。
何を隠そう(隠しようもないけど)、このホームページそのものがマニュアルです。オーストラリア、シドニーに生活するためのマニュアルです。自分でマニュアル作ってるだけに、マニュアルという言葉には敏感にならざるを得ないのですが、マニュアルには、ハッキリと質の高低があると思ってます。
自分としては高品質のマニュアルを作りたいと思ってますが、何を持って質が高い低いというかというと、まず第一にわかりやすく解説すること、これは大前提だと思います。わかりにくい、理解しにくいマニュアルはマニュアルじゃないです。だから、Windowsにくっついてくるマニュアルはマニュアルじゃないです。大体、Windowsのヘルプで本当にヘルプになったことなんかないもんね。トラブルシューティングで解決したことなんかないもんね。そりゃ、昔に比べたら大分充実してきたし、あの複雑きわまるパソコン体系をすべて分かりやすく解説するのは無理だとは思います。でも、「均等割付とは、均等に割り付けることです」みたいな「舐めとんのか、わりゃ」というような解説などは未だに残ってるし、XORってなんじゃ?と思って調べると、「オペランドの一方が真でもう一方が偽の場合にのみ結果が真になるブール演算。Windows 2000 Server では、ブール演算の排他的論理和 (XOR)を使って、Windows 2000 Server のRAID-5 ボリューム形式のフォールト トレランス機能でデータ全体のXOR を維持し、データの冗長性が提供されます」とか説明されてもわからんぞ。あなた分かりますか?だからサードパーティの解説本が途切れることなく刊行され続けているのでしょう。
まあ、分かりやすいというのは大前提だとして、第二に、マニュアルはあくまで補助であり、主役になってはならないということです。マニュアルごときが出過ぎない、つまり「分をわきまえること」です。マニュアル利用者の思考の主体性を奪ってはいけない。頭ごなしに「こうしろ!」と言うのは極力避け、常に常に「最終的に決めるのはアンタなんだよ」ということを確認すべきだと思ってます。マニュアルは人を賢くするためのツールであって、馬鹿にするための麻薬であってはならない。だから、読み終わった時点でその人がワンランク上に賢くなっていなければ、それはマニュアルではない。このように、常に「決めるのは貴方です」と言いつつ、その決定のための資料として、「でも、こうするといいと思うよ、なぜならば」と問題の構造を説明し、そのためのオプションを複数提示し、その利害得失を徹底的に検証するなかで、物事の全体構造がわかっていくというのが理想です。
第三に、これは第二とカブるのですが、マニュアルは中立でなければならない、ということです。洗脳して右にいったり、左にもってきたりしてはいけない。解説という事柄の性質上、いろいろな知識や世界観を植え付けるわけですが、その過程で洗脳することは非常に容易だったりします。「留学する場合、住まいについては、まずホームステイするのが定番である」なんてのも洗脳の一種だと思います。「日本人は狙われています」なんてのも洗脳でしょう。そういう局面も確かにあろうが、そうでない局面もまたある。思考や視野を一定の方向に限定するマニュアルは、それはやはり良いマニュアルではない。
すべてにわたってバランスよく客観的・中立的に記述すればよいのでしょうが、しかしこれは難しいです。どうしたって書き手の世界観に基づいて書かざるを得ないからです。僕としては、逆説的なのですが、中立性を確保しようとするならば、徹底的に主観的である方が良いと思ってます。「これは僕の意見に過ぎない」ということを常に明示すること、やや大袈裟なくらい「俺は偏ってるからね」と示しておくこと。そうすることで、「ああ、これはこいつがそう思ってるだけのことだな」と思ってもらい、それによって読み手の主体性は確保されるわけです。大事なのは、自分が中立であることでなく、読み手の意思決定が自由であることなのですから。僕の文章の結び方が、ほとんど常に「思います」「気がします」なのは、そのあたりの意識が強いか自分でもあまりいい文章だとは思いませんが、しれっと書いてると洗脳っぽくなるからイヤなのです。それに、半分冗談めかして、ちょっとメチャクチャ気味な結論に持っていくのもそういった心理の表れです。
余談ですが、洗脳のテクニックとしては、あからさまに押し付けても効果が薄いので、あくまで読み手が自由意思で自分で決断したかのように錯覚させるという方法があります。「諸君、私は諸君らにはなにも強制しない。こうしろともああしろとも言わない。大事なことなのだから自分で決めて欲しい」と繰り返し言いつづけながら、意思決定のための前提となる基礎事実を偏った形で提示するという方法なんかありますよね。あとはヤクザがよく使う手ですが、義理人情絡みで相手になんだか申し訳ないような気分にさせるという方法があります。「借りを返さねば」という気分に追い込んでいくわけです。そういうことも分かっているだけに、余計に気を使ったりするわけです。
よいマニュアルとは、近視眼的なステップ解説に尽きるものではなく、「なぜこのステップが必要なのか」をちゃんと説いてあるものだと思います。その必要性を説く過程で、全体の構造と奥行きがだんだんと見えていくように。自動車の運転を教える場合、「自動車はなぜ動くのか」という基本的なメカニズムも同時に教えますよね。なぜアクセルを踏むと加速し、ブレーキをかけると止まるのか、なぜギアというものがあるのか、その構造を理解してもらうように教えるのと、「とにかく進みたいときはアクセル」みたいな教え方をするのとでは天地の差があります。やみくもに目先のステップだけベタ覚えだけしている人の運転する車には同乗したくないでしょう?
パソコンだって、パソコンが動いていく原理みたいなものがあるわけです。まったくゼロから「半導体とはなにか」「IC集積回路の作り方」からプログラム言語とアルゴリズムなんてやる必要はないですが(僕も知らん)、まずハードウェアとソフトウェアの概念を理解し、CPUとRAMと記憶デバイスの関係を理解し、ソフトウェアについてはベーシックにOSがあって、その上に各種ソフトが走るのだというあたりは、最低限知っておかないとならないでしょう。ここの理解がまったくなく、ただ教えられたとおりにマウスとキーを動かしているだけだったらパソコンを使っているとはいわないでしょう。料理にしても、味の基礎構造として、@ダシ+A調味料という二重構造がわかっていないと話にならないでしょう。
もちろん対象によっては全体構造の理解が非常に複雑で、ちょっとやそっとでは分からない場合、そして緊急を要するような場合、「とにかくこれをしろ!」という命令的なマニュアルにならざるを得ない場合もあります。「とにかく止血しろ!」みたいな場合には、「人間の血液の○%が失われた場合、血液循環によって供給される酸素が脳細胞に十分に行き届かなくなり、脳細胞組織が死に始める。なぜ酸素がないと脳細胞が破壊されるかというと、、」なんて悠長なことを教えている暇はないし、適切なことでもないでしょう。パソコンだって、結構概念が複雑ですから、まずそれが分かるまでの当面の間は暫定措置として、「とにかく終わりたかったらブチッと電源を切るようなやり方だけはするな」とか、最低限の注意事項を問答無用で叩き込む必要もあるとは思います。
だから「頭ごなし」も場合もよってはOKだとは思います。でも、それは頭ごなしに命令する必要があってのことで、その必要がない場合、出来るだけ全体構造を理解してもらうように、そしてその世界独特の論理を皮膚感覚でなじんで貰うようにすべきだと思います。
これらのことを一言でいえば、およそマニュアルというものは、より分かりやすく、より広範囲に、より深く、より自由に、よりバランスよくトータルに理解してもらうことを目的とすべきものだと思います。
別の言い方をすれば、「読み手に、たくさんモノを考えてもらう」のが良いマニュアルだとしたら、読み手の思考能力を減殺するのが悪いマニュアルだと思います。そして、「マニュアルがなければ女も抱けねえ」といわれるマニュアル世代が良くないのは、まずもって、悪いマニュアルが氾濫しているからだということも出来るでしょう。
でも、悪いマニュアル、多いと思いますよ。「悪い」なんて言ったら書いてる人に失礼かもしれませんけど、でもマニュアルの書き方それ自体が不適切という以前に、そういうことはマニュアルにしてはいけないという領域にマニュアルにしちゃったりするケースも多々あると思います。「女の抱き方」なんて極端な例ですけど、いっとき槍玉にあがっていた「デートの仕方」なんてのもそうです。「遊び方」なんかもそうですし、「生き方」なんかもそうです。
なぜそういう領域がマニュアルにしてはイケナイのかというと、本来的にマニュアル化することが不可能だからです。そこにマニュアルが成立するということは、Aという行為をするとほぼ間違いなくBという結果が生じるというような定型的なパターンが存在することが前提条件だと思います。自動販売機マニュアルだったら、コイン投入口に規定のお金を投入する→欲しい商品を選択する→商品が出てくる、という一連の過程がほぼ間違いなく行われます。たまにコインがひっかかったり、商品が品切れだったりするけど、それは例外であり、トラブルシューテイングになります。
しかし、「生き方」なんてのは千差万別であり、Aをすれば必ずBになるってものじゃあないです。「異性との付き合い方」なんてのも、無限にバリエーションがある人格と人格の関係ですから、その組み合わせのパターンはおそらく億を超えて兆とか京とかいうオーダーでありうると思います。まあ、ある程度類型して絞り込むことが出来たとしても、それでも数十パターンはあるでしょう。だいたい、人間の長所なんか短所と表裏一体の関係にあります。奥ゆかしい控えめなタイプだ好意的に受け取る人もいれば、暗くて頼りがいのないタイプだと感じる人もいるでしょう。明るい人は軽薄な人、行動的な人は思慮の足りない人、頭のいい人は頭デッカチであり、壮健な人は筋肉バカ、一芸に秀でている人は専門バカ、何でも万能な人はそれがイヤミという具合に、良くも悪くも取れる。そして自分が相手をどう思うかも、その時々の気分によって違うし、相手からどう思われるかの相手の気分次第、さらに付き合っていく過程でお互いに触発しあい、また相互に変貌なり成長なりを遂げていくわけで、一瞬たりとも同じところに留まらないダイナミックなプロセス全体をひっくるめて「付き合う」ってことだと思うわけです。異性と付き合うのはとってもイイコトだと思いますが、それは人間本来が持つこのダイナミックさこそが醍醐味であり、それを通じて人間の摩訶不思議さと面白さを学んだり楽しんだり苦しんだりすることだと思います。このように因果関係のパターン認識と確実性に馴染まないもの、これは「こーすれば、あーなる」というマニュアルにするのは不可能です。
また、自動販売機での購入方法はマニュアル化できるとしても、自動販売機で何を買うか、缶コーヒーを飲みたいとしても「あたた〜い」のがいいか「つめた〜い」のがいいか、それは個々人の趣味の問題で、「○○を飲みなさい」なんてことはマニュアルにしてはいけないです。こんなの当たり前のことですよね。なんで当たり前なのか?といえば、それは個人の選択の領域だから、早い話が好き嫌いの話だからです。「好き嫌い」というのは、個々人の感性の中核的なものであり、その人の人格そのものというか、神聖不可侵のサンクチュアリだと思うのですね。人間、その部分を売り渡したらアカンのではないでしょうか。
もちろんこういうマニュアル化不能ないしマニュアル化してはならないことでも、無理やりマニュアルにすることは可能です(それはすでに”マニュアル”ではないので、”マニュアルっぽい体裁をとったもの”と言い換えた方がいいかもしれませんが)。どうすればいいかというと、無限にあるバリエーションを無視すればいいのですね。「女というのはこういうもの」と単一人格に決め付けてしまえばいいのです。いうまでもなく、女性男性という性別以前にそれぞれが独自の人格を持つ人間なのですが、そういう当たり前の事実はまるっぽシカトして、「女はいつだってアバンチュールを求めている」みたいな決め付け方をすればいいわけですね。しかし「ちょっと刺激的な体験」をしてみたいって気分は万人共通にありますよ。そんなものは「おなかが空いたらゴハンを食べたくなる」といってるのと一緒で何の意味もないです。また、アバンチュールを求めているといっても、愛する家族を交通事故で亡くした当日とか、自分のやっている事業が行き詰まっているときとか、新婚旅行の最中とか、スチュエーションは無限にあります。「いつだって」なんて大嘘です。別に僕がここで力説せんでも、3秒考えたら誰だってわかるでしょう。
しかしこの種の「無理やりマニュアル」は、その3秒考えるということをさせないのですな。あまりにも強引な決め付けをすることで、人間の健康な思考能力を奪ってしまうのでしょう。これが問題なのですが、しかし、この種のマニュアルは多いです。「女はいつも〜」とかいうレベルになると「んなバカな」で笑ってられますが、「オーストラリア人というものは」とか言われると、「ほう、そういうものか」という気になってしまうのですね。国籍やら民族がどうとかいう以前に、個々人の個性や人格というのはむちゃくちゃバリエーションがあるのだという当たり前の事実を忘れてしまう。モノカルチャー、ホモジニアスといわれる日本人でさえ、個性や人格の差はいろいろあるのに、ましてや個人主義の発達した西欧で「およそオーストラリア人というものは」なんて確定的な法則性が成り立つ局面など非常に限られています。ゼロといってもいいかもしれない。
よく現地で着いたばかりの人に、シェア探しのアドバイスなどをすることがありますが、まずこの「オーストラリア人というものは」「シェアというものは」という固定観念を徹底的に破壊するところからはじめるようにしてます。「ボンド(保証金)は返ってくるのですか」「最低三ヶ月住まないといけないのですか」「キッチンとか自由に使えるのですか」などなど、聞きたくなる気持ちはわかりますが、答えはいつもひとつ。「人によりけり、相手によりけり」です。人の数だけシェアの態様はあるから、そんな法則性を模索して対策を立てようとしてもまったく無駄。社会学のサーベイ(調査)として統計を取ろうとかいうならまだしも、シェアについて大事なのは、自分が入居するただ一軒だけでしょう。その一軒がどうかが全てです。あらゆるバリエーションのあるシェアの中からどれを選ぶかであり、そんなありもしない一般的傾向を考えてる暇があったら、一軒でも多く訪問すればいいです。一軒訪問すればひとつわかり、数件訪問するうちに徐々に全体が見えてきます。「人によりけり」という事実も見えてくるでしょう。一人の異性と付き合ったらそれなり分かり、複数の異性と付き合えばまた見えてくるものがあるのと一緒。そして、「シェアというものは、、、」とやたら聞きたがるのは、また異性と一回も付き合ったことのない人が、「キスって、どの段階ですればいいんですか?」と聞いてるくらい滑稽なことだったりします。「ウダウダ言ってないで、とにかくつきあってみ」というしかないです。
しかしですねー、この種のマニュアルがのさばるのは、自ら進んで馬鹿になりたい人も結構たくさんいるということをも意味するんじゃないかとニラんでいます。馬鹿、楽ですもんね。自分でモノ考えなくていいんだから、言われたとおりやってればいいんだから、こんな楽はことはないです。よく分からないから、誰かに断定して欲しい。力強く、自分でモノ考える余地もないくらい協力に断定して欲しいって。早く馬鹿になって楽になりたいって。だから、みのもんたが受けるのでしょうね。「奥さん、あなた、騙されてますよ!そんな男とは別れなさい!」とかね。およそ知能指数が70以上あったら、二桁の足し算が出来る程度の知能があったら、そんなもん「おまえに何がわかる?」ってすぐにわかりそうなもんなんだけど、わからないんでしょうね。いや、わかってるけど、わからなくなりたいのでしょうね。
生きていくことはしんどいことで、何一つよく見えないなかで、それでも日々決断していかないとならない。決断によるダメージは全部自分がひっかぶらなければならない。それは大変なことです。その昔、採漁生活をしていた頃、海に魚をとりに行くか、森に動物を捕まえにいくか決めなければならない。どっちがいいかは分からないし、海に決めたところで魚が取れる保証はどこにもない。下手をすれば餓死してしまう。それでも決めなければならないし、それが基本だと思います。この「全部ひっかぶって自分で決める」という基本を出来ず、そこから逃げたい人は、誰かに決めてもらおうとします。馬鹿になってでもいいから、決めることから逃げたいのでしょう。でも逃げた時点でもう終わってるんですよね。
はたまた、この世界がもつ無限のバリエーションが怖くなる人、手におえないと思ってしまう人もいるのでしょう。「こうなったらいいな」「ああだったらいいな」という自分に都合の良い願望を抱き、「そうであって欲しい」と思う心理は誰しもあります。でも、普通、それはやくたいもない自分の妄想に過ぎないということも分かります。でも、その願望があまりに強いと、嘘でもいいから信じたいって気になっていくのでしょう。彼女/彼氏が欲しいという願望が強いと、それを実現するフィールドである世界そのものを、「こういうもの」と改造したくなるのでしょう。で、「女は常に待っている」という妄想世界を構築するという。
この妄想と現実の区別というのは、実際にはなかなか難しいです。全ての人が大なり小なり事実と異なる世界観を持ってますし、願望にドライブされた妄想も持っているでしょう。それは希望的観測と言われ、あるいは希望そのものと言われたりします。「戦争のない平和な世界が来る、構築することは可能である」というのもひとつの世界観であり、願望であり、希望であり、妄想なのかもしれない。しかし、その希望をもつことはとても大事なことです。ただし、遠足に行きたいがあまり、雨が降っているのに「降っていない」と言い張ったり、本当に雨が見えなくなってきたら問題です。被害妄想、被愛妄想、いずれにせよ客観と主観の境界が溶け合い、精神の失調状態に陥ることもあります。無理やりマニュアルは、この偏った世界観を助長します。その意味で、無益だけではなく有害ですらあります。
ちなみに、僕の乏しい生活体験で言うならですね、モテたいとか、彼氏彼女が欲しいと思うのであれば、結局は人間的な美徳に尽きると思います。思いやりがあるとか、優しいとか、聡明であるとか、ガッツがあるとか、だって、結局そういうことでしょ?それが純愛志向であればあるほど、普遍的な人間としての魅力に還元されていくと思うのですね。今あるいは過去にパートナーを得たことのある人は想起してもらえればいいですけど、「なんで好きになったの?」と聞かれたら、とどのつまりは人間的に魅力があったからってことに行き着きませんか?そりゃルックスとかも大きな要素を占めるかもしれないけど、性格ブスだったらやっぱりイヤでしょ。
逆にツイストがかかってるような場合、例えば玉の輿に乗りたいという”経済活動”として捉えている人、とにかくセックスできりゃそれでいいという場合は、あれは一種のゲームですから、両者ともにそのゲームの土俵に上っていれば、これはゲーム展開次第でなんとかなるでしょうね。共通のルールってのがあるから、それにのっとって、ハイスコアをあげればいいです。玉の輿に乗りたいと思ってる女の子が好きな男性は(そんな男性あんまり居ないと思うけど)、自分が玉の輿を提供できるようになればいいんでしょう。基本的にセックスしたいと思ってる男女が集る場においては(気楽に想像するほどそんな場所なんか滅多に無いと思うけど)、ルックスと態度とあとは手数の勝負でしょう。でも、一般的な普通の恋愛に関して言えば、これは人間関係の一般原則のとおり、人間的に魅力のある人に人気が集まるという一般傾向はあるとしても、相手にも好みというのがあり、これがまた千差万別だから結局保証の限りではないということですね。
これじゃミもフタもないから、もう少し言うと、これもよく言うのですが、「幸福の女神は横顔を好む」と。真正面から探してるときは往々にして見つからないもので、なにか他のことに熱中してるときに結構モテたりするのですね。好きなことに打ち込んでいるときのひたむきさ、その真剣な横顔にこそあなたの魅力が一番表れるのでしょう。実際、男女の恋愛感情じゃなくても、何かに夢中になってる人ってオーラ出てますし、魅力的に見えますよね。だもんで、まず自分が輝きなはれってことだと思います。これなら出来るでしょ。
話をマニュアルに戻しますと、いずれにせよ、自分の頭でモノを考えたり、自分の趣味で選んだり、自分の責任で決断したりする「自分」というものを殺すようなマニュアルは、ろくなもんじゃないということです。そして、それはマニュアルがろくなもんじゃないだけではなく、そもそもそんなマニュアルを読む人それ自体が既にろくなもんじゃなくなっているということだと思います。
マニュアル世代というものがあり、そこに問題をはらむのだとするならば、「世界に揉まれて自分を磨く」ということを嫌ったり、怖がったりする精神傾向にあるのでしょう。はたまた、そもそも「現実にぶつかり、学び、成長する」という経験が乏しいので、そういう出来事がこの世にあるということ自体を知らない点にも問題があるのかもしれない。しかし、後者の場合、かなりヤバいですよね。これって人間が人間として、、、というか、生き物が生き物として生存していく最も基礎的な部分だと思うから、ここが足りないと、そりゃあ生きていくのはしんどかろうって気もします。
だけど、嘘八百とか無理やりマニュアルに強引に断定された世界観を、皆が信じてそう動いていくとしたら、それが事実になってしまうという怖さはあると思います。みのもんたが、番組で「○○が効く」と断定したら、とりあえず本当にそれが売れてしまうという経済的事実はあるわけですからね。あれって怖いよなあって思いますよ。
なお、マニュアル世代を批判している上の世代も、あんまりエラそうなことは言えないと思いますよ。
その昔はもっとシンプルに人の生き方それ自体が固定されていたから、逆に迷わずに済んだという面もあると思います。はるか昔の「女大学」なんか、生き方マニュアルの最たるものとも言えるわけでしょ。「父に従い、夫に従い、息子に従え」という、人間の個人の尊厳を完膚なきまでに踏みにじるようなこの「教え」は、マニュアル以上に、強圧的な「命令書」ですらある。マニュアルが必要とされるのは、その前提として一応ながらも選択の自由があるからでしょう。選択の自由それ自体がない所で、マニュアルもヘチマもないです。支配と服従あるのみ。戦前の軍国教育にせよなんにせよ、生き方、考え方までお上にイチイチ指図されて、それを疑問にも思わず従っていたなんて、あまり誇らしい過去ではないでしょう。その意味で、マニュアルが盛んになってきたというのは、昔に比べればなお事態は好転してるといえなくもない。
ある意味では、上の世代は下の世代に対する最大の生きたマニュアルでもあります。「俺のように生きろ」「俺になれ」と、その生き様で示すという、なによりもビビッドでなによりも説得的なマニュアルである筈ですが、そういう自覚はあるか?また、子供の進学や就職のとき、とにかく国立大学に、とにかく有名企業へといい、海外に行くとなれば馬鹿の一つ覚えみたいに治安が心配とかそればっか言ってるという。こういうボンクラは、マニュアルとしても、かなり出来の悪いマニュアルだともいえます。あまりにも出来が悪いから、さすがのマニュアル世代も従わないという笑えない結果になっているのではないか。
それともう一点、上の世代はマニュアルを読むこと自体を嫌がる、怖がる。マニュアルの中には正しいマニュアルもあるわけです。というか、普通の操作説明書ですよね。そりゃ何言ってるんだかワケが分からん出来そこないのマニュアルもありますが、普通の家電レベルだったら日本語知ってりゃ分かるように書いてます。パソコンの使い方にせよ、携帯電話の使い方にせよ、ちゃんと読めば分かるように書いてあるのに、「わたしはこういうの苦手だから」「年だから」とか逃げ口上をいって読もうとしない。これって、マニュアル人間以下でしょう。何度も書いているけど、アルツハイマーとか”ちゃんとした”病気にならない限り、人間の知性というのは年を取らない。そりゃ記憶能力は衰えるかもしれないけど、総合的な理解力や洞察力はむしろ年とともに高まるはずです。だから古来、どんな部族でも長老が最高権力を握っていた。長老こそがもっとも的確な理解力と判断能力をもっているからです。判断がアホだと部族そろって全滅しちゃうような厳しい生活環境に置かれていた古代の部族に、長幼の礼とか「エスカレーター人事」なんて悠長なことをやってる余裕は無かったはずでしょう。実力的に最高だったからとしか言えない。知的作業に関して言えば、年齢は一切の弁明にはならないと思います。
実際70歳になっても、80歳になっても鋭い理論を次々に展開していく気鋭の学者さんはいますし、名作をモノにする作家や芸術家、人間国宝の皆さんはいます。オーストラリアでも、60歳、70歳になって大学に入るひとは珍しくないし、知り合いの知り合いだけど70歳過ぎて博士論文に挑戦している人もいます。ハーバード大学でも、50歳、60歳の学生はゴロゴロいる、というか法律なんか本当はそのくらいのビジネス経験と人間経験を経ていないと分からないともいえます。そして、学問というもの、知的作業というものが、過去の経験とそれを体系化しようとする知的努力によって支えられているものであるから、むしろ年を取ってからの方が学んだり、思索したり、研究したりするには都合が良いともいえます。
このあたり、すぐトシのせいにして楽になりたがる日本の傾向に僕は多少ムカついているので、つい力がこもってしまうのですが(^^*)、小学生高学年くらいのガキが1年生を見て「若いのう」「「もうトシだから」なんて言ってる民族に明日はないぜよ。もう意識改革のためには、大学の最低入学可能年限を引き上げたらどうかとすら思いますもんね。40歳とか50歳以上でないと原則として大学に入学できず、例外として若くて入学したい人間は論文を書いて評価されないとダメとかね。まあ、それは極論としてもですね、また別に彼らがトシを理由に楽になりたがっているとか非難したら可哀想なのですが(世間からよってたかってそう仕向けられている部分もなきしもあらずなので)、なんとかならんもんかと思います。
ともあれ、トシを取ることでなんでもかんでもディスカレッジする(勇気をくじく)ような社会はよくないと思います。もっとエンカレッジ(勇気付ける)しなきゃ。定年はもうハッピー!リタイアメントなんですからね。なんか、トシを取れば取るほど人生がショボくなっていくかのように錯覚するから、またその錯覚に皆が悪乗りするから、「いかにミジメな老後を避けるか」こそが人生の最大目的であるかのように錯覚が二乗され、世の中暗くなるんじゃないかと。このあたりの話は、ずっと昔に「老後を制するものは天下を制する」という雑文で書いたので割愛しますけど。
文責:田村
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