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今週の1枚(04.08.16)
ESSAY 169/夏休みのこと
日本は連日、ものすごい暑さだそうですね(北海道は別かな)。暑中御見舞い申し上げます。
何度か書いてますが、実は、僕は日本の8月というものを、もうかれこれ10年以上味わっておりません。最初に来たのは94年の4月から10月までですから8月時点ではこちらですし、永住権申請のために日本に帰国してたのも翌年の7月末までです。以後、何度か帰省しているものの、8月帰省といのは未だにないです。帰省する時期は、わりとヒマな晩秋とか早春とかが多いですが、なにを好きこのんで暑い8月に帰らなきゃならんの?ということで、8月に帰ったことはないです。そうなると93年の8月が、僕が最後に体験した日本の8月になります。
これだけ遠ざかっていると、さすがに懐かしいものもあります。いやあ、夏の高校野球中継、アルプススタンドの応援の音とかもう全然聴いてないですねー。あのムッとする暑さも、セミの鳴き声も遠ざかる一方です。シドニーも夏は暑いですけど、日本の夏とは違います。もう「暴虐の太陽」という感じで、とにかく太陽光線が強く、それが全てという感じです。”光圧”というか、上から頭を押さえつけられているような陽射しの圧力を感じます。でも、逆に言えば陽射しを避けて日陰に行けばしのぎやすし、夜になれば涼しくなります。でも、日本の夏は、太陽が頑張ってるというよりも、空気そのものが暑いですよね。オーストラリアが日焼けサロンだとしたら、日本はサウナです。セミも、シドニーには時々いるようですし、家の周りでも聴くことはあります。でも、たいていはソロ演奏で、複数のセミが一緒に鳴いてるケースは少ないです。日本のように、マーラーの合唱交響曲のように、ワンワンガシガシとサラウンドで鳴いてたりはしません(行くところに行けば違うのかもしれないけど)。
「金鳥の夏日本の夏」ということで、夏に帰省するのもいいかなーと、ふとノスタルジックな気分に浸ることもありますが、でも帰ったら帰ったで、飛行機から降りた瞬間に後悔するんでしょうねー。「ああー、そうだ、そうだった。思い出した、くわー、たまらん」と。それが又見えるだけに、なかなかこの時期に帰ろうという気分にならないのでした。ネクタイ締めて満員電車に乗ったり、大阪の路上を原チャリで走っていたときのことを今でも断片的に思い出しますが、シャツが汗でべったり身体に張り付く不快感やら、先行するバスのエンジンの熱気と排気ガスをモロに浴びて朦朧としながら走ってたものです。あーもー、ネクタイ締めないで済むなら何でもいいわい、絶対ここから逃げてやるって思ったものでした。もっとも、だから仕事帰りの居酒屋の生ビールが、「くはー!」って極楽気分だったのですけどね。こっちにくると、あの種の「くはー!」的カタルシスは少ないように思います。
などという馬鹿話を書いていますが、クソ暑い中、こんな細々と文字が埋め尽くしているようなページをどれだけの人が見ておられるのが疑問だったりして、最近ちょっと堅い話が続いたりもしたので、今回は軽くいきたいと思ってます。まあ、最後まで軽いまま続くかどうかはわかりませんが(この時点で何を書くか全く決めてませんし)。
夏というと、なんだかしらないけど子供のイメージがありますね。自分が子供だった頃、春も冬も経験している筈なのですが、妙に夏の印象が強い。四季の均等バランスを失するくらいに、unproprotionallyに、夏のイメージが強いです。 あなたはそうではないですか?
やっぱり夏休みという偉大な存在があるからでしょうか。夏休み、うれしかったですもんねえ。子供の頃は時間経過がゆっくりなこともあって、たった40日程度の休みでも、今の1年分くらいの長さを感じたものです。夏休みを最初に作ったのは誰だか知りませんが、粋な計らいですよね。しかし、よく考えてみると、お盆前後に数日休むだけってのがそれまでの日本社会の一般通念だったはずです。いわゆる薮入りとかです。それがいったい何時から一気に40日という画期的な超長期の休みになったのでしょうか?ふと疑問になったので調べてみたら、かなり早く、明治時代の初期、つまり学制発布のあたりから現在のような長期の夏休みというのは設置されていたようです。なんでそんなことをしたのかは調べきれなかったですけど。
でも、夏休みというのはいい制度だと思います。あれだけドカーンと長く休むってところに意味がありますよね。これが、冬休みのように2週間かそこらだったら、大人になった後にも記憶に残るような感銘力は無かったでしょう。子供の時間感覚で、終端が見通せないくらい途方もない長さがあるからこそ、単なる休みというレベルを超えて、大げさにいえば人生のパラダイム変換が起きたかのようなインパクトがあったのだと思うし、人格形成上に大きな影響を与えたと思います。これは、一週間くらい休みをとってオーストラリアに旅行しても、それはただの海外旅行であって、人生が変わるってことは少ないけど、留学やワーホリで半年とか1年とかドカーンと来ちゃうと人生が変わるのと一緒でしょう。休みというのは長くなると質が変わっていくのでしょう。
実際、あれだけ長く休んでいると、それまで毎日通っていて、どっぷり頭まで漬っていた学校生活というのが、なんか別の世界の話のような気がしますもんね。まるで長い夢を見ているような。たまに全校登校日かなんかでふと目覚めるのだけど、それはトイレのために夜中に起きた程度のことで、本格的な目覚めは9月の新学期になります。まあ、学校生活と夏休み、どっちが夢なんだかわからないけど。
この長い夢の時期に、実はめっちゃくちゃ貴重な体験をするんじゃないかなって思ったりもします。それは夏休みの間に海にいったとか、田舎に帰ったとかいうイベント体験ではなく、それまで毎日通っていて「人生こんなもんだ」と思っていた固定的なパターンの学校生活が急に消滅して、「それだけじゃないんだ」ということを体感するって部分がキモなんじゃないかと。やってる最中には「それしかない」と思えようなものでも、必ず終わりがあり、全ては一過性のものであるということを知る。そして異なる世界を二つ体験することによって、複数の世界を最終的に統合するのは結局自分しかいないということを朧気ながらも知る。つまりは自我の確立ですね。なんかこう書いてしまうと異様に難しそうですけど、難しいことを難しく考えず、キャッキャ喜んでるうちに自然に身に付けてしまうって点がスグレモノだと思うところです。
どっぷり漬かってしまうがゆえに、発想が近視眼的になって、大きな視点や自分自身を忘れてしまうというのは、何も子供に限ったことではないです。大人だって事情は全く一緒だと思います。むしろ大人のほうが症状がひどいかも知れません。仕事やら、世間的なしがらみに囲まれて、これしかない、これが全てってつい思ってしまいがちです。
だからこそ、子供の頃に「別に世界はこれだけじゃないんだよ」というのを原体験として積んでおくのは無意味なことではないでしょう。ある日を境にガラッと世界が変わること、世界というのはそういうもんだということを皮膚感覚で知っておくこと、これはすごく大事なことじゃなかろうか。ガラッと世界が変わるという認識なくして、どうして統合的な人生マネージメントをやろうという気になるものか。死ぬまで今日の繰り返しだったらマネジメントなんか要らないし、物も考えなくてもいい。でも、時折、全ての環境が変わってしまう or 変えることが出来ると知っているからこそ、そういった変化を当然織り込みつつ、主体的にどうやって変えていったらいいか、どうしたいのかというマネジメント的発想が出てくると思います。
学校卒業して一つの職場にはいって、あとは定年までその仕事をして、老後は年金生活というだけだったら、マネジメントなんか殆ど要らないです。全く必要ないってことないですけど、そんなに必死こいて考えなければならないことはない。しかし、昨今のように、いつ倒産するかわからない、一生このままって保証はどこにもないってことになると、やっぱり誰だって考えますよね。この先時代はどう動くのかも考えるし、自分はどんな環境にあったらハッピーになれるのかも考えるし、それが実現可能かどうかも考えるでしょう。それがすなわちマネジメントであり、それこそが自分の人生の総司令官たる自分の役目だという気にもなるでしょう。
そんな具合に考えていくと、子供の頃の夏休みとは長いから意味があるのだって思います。
まあ、子供が家にいると親は面倒みなきゃいけないから鬱陶しいし、夏休みを短縮して欲しいって気分になるのも分かるんだけど、子供は単に遊んでるだけじゃなくて、なにかもっと重要な、人生のエッセンスを摂取している最中なのかもしれません。
これは理屈から勝手に推測してるだけじゃなくて、自分自身の心理を省みても実感的にそう思います。夏休みになるときの、あの輝かしいパラダイム変化、あのトキメキ感が、やっぱり身体に残っているのですね。特に7月段階の、まだ夏休みも始まったばかりという時期は輝いていました。それは学校に行かなくても良いという大きな開放感もありますが、それとともに、なにか未知の眩い世界に入っていくような静かな高揚感があったように記憶しています。「こういうことってこの世にあるんだ」という認識は、それから20年の歳月を経て、オーストラリアに行こうとする心理に何らかの影響を与えていたんじゃなかろうか。
そういう意味では、あんまり夏休みに子供に多くの宿題をやらせたり、塾とか通わせないほうがいいのかもしれません。ドラスティックにガラッと変わるってところ、それも楽しい方向に変わるってところが夏休みの醍醐味なのですから、いつもとあんまり変わらなかったら意味が薄れてしまう。ガラッと楽しく環境が変わること、それは人生の可塑性と可変性を身体で記憶することであり、ひいては人生の可能性を信じる力になり、最終的には生きていくエネルギーの”原子炉”ともいうべき「希望を抱く力」という形で結晶化していくのではないかなと。「変わる」ということを全身で知ってないと、希望なんて抱きにくいと思います。
他にも、夏休みで学んだものは、今のなお自分の身体記憶に残っています。
例えば、気が遠くなるほど長いように思えた夏休みもやがては終わってしまうこと、時間というものは「まだまだある」と油断してるとたやすく浪費してしまうものだという貴重な経験をしたのは、夏休みが最初でしたし、最も強烈だったかもしれない。はたまた最初の頃は計画なんぞをたてるのだけど、すぐに実行しなくなって、「計画倒れ」という日本語を覚えたのも夏休みでありました。「苦あれば楽あり」というのは夏休みの初期に実感し、そして「楽あれば苦あり」というのは夏休みの最後にデッチ上げの絵日記を作ってるときに痛感しましたねえ。溜まりまくった宿題の山を見て、「仕事に追われる」ってことを最初に実感したのも夏休みです。
このあたりの自由とは容易に堕落に通じ、そして最後にツケが廻ってくるというのは、人生の初期において是非とも知っておくべきことかもしれません。ああ、そういう意味では適当に宿題があった方がいいですよね。そして、遊び呆けて、最後に半泣きになるのも正しい姿なのかもしれません。そんでもって、今年こそはと思いつつも、また同じ轍を踏んでしまい、「人間とは懲りないものだ」という、これまた貴重な教訓を得るわけです。
9月1日の二学期の始業式はツラかったですね。心は鉛色って感じで、「ああ〜」とため息をつきながら登校したものです。始業式の前の日に学校に放火してつかまった奴がいるというニュースを聞いて、ああ、皆同じなんだなあと思ったり、そこまでやるか?と思ったり、でもウチの学校はどうして誰も放火しないんだよと思ったり。9月1日は関東大震災にちなんで防災訓練とかあったりして、あんまりマトモに授業がなくて、それが救いだったり。
そして、これが大事なんですけど、あんなにイヤだった学校も、始まってしまえばまた慣れていくってことですね。夏休みが、天地が逆さになるくらいのパラダイム変換だとしたら、それが終わるのもまたパラダイム変換です。でも、人間って案外慣れるものなのですね。しばらくすればそれが当たり前になってしまう。この認識は結構僕としては重要で、海外にいっても結構それはそれで慣れてしまうんじゃないかなって思いましたし。その応用ヴァージョンとしては、例えば日本が急に軍国主義化して、徴兵制が復活して、戦争はじめてしまっても、結構日常的には慣れてしまうんじゃないかなって見通しにもつながります。いくらなんでもそうなったら国民も立ち上がるだろう、、、とはあんまり思ってません。「慣れ」というのは強力な瞬間接着剤のようなもので、だから慣れたものから引き剥がされるときは強烈な抵抗感がありますが、また新しい生活が始まればすぐにそこで固まっていってしまうだろうと。
とまあ、夏休みは教訓の宝庫のようなものだと思うわけです。でも、こんなことは、ずいぶん年を食ってからシミジミそう思うだけの話で、やってる最中は別にそんなこと思ってるわけではないです。学んだことが大事であればあるほど、血肉になればなるほど、身体の中におさまってしまって、どこにいったのか分からなくなるし、また学んだという実感もないでしょう。それは、食べ物を食べたときに、実感できるのはせいぜい胃袋どまりで、そのあとの消化プロセスでグリコーゲンになったり、アミノ酸や酵素になって身体を支えているという実感はもち得ないのと似たようなものなのかもしれません。
夏休みだけ書いてますけど、思えば子供時代に学んだ「人間と世界の法則性」のような貴重な物事というのは他にも沢山あるのでしょうね。学年が上がっていったり、中学、高校と全く新しい世界がはじまって、そしてすぐに過ぎ去っていくこと。サイクリックな物事の循環なんてのも、この世界の原型ですよね。ああ、そういう意味では、中高一貫校ではない方がいいのかもしれないし、幼稚園からエスカレーター式に上がっていかないほうがいいかもしれません。あれはあれで長所もあるとは思いますが、「岐路→決断→新しい変化」というエッセンスを学ぶ機会が乏しくなるという点もあるのではなかろうか。僕は、小、中、高、大と常に岐路→変化でしたが、そういう軌跡をたどってきた人と、エスカレーターで来た人とでは、生き方に対するアプローチが微妙に違ってくるのかもしれません。まあ、実証したわけでもなく、思いつきなのですが。
夏には妙に静かな印象があります。なんかシンとしてます。特に子供の頃の記憶には。
冬も、秋も、それなりにシンとしていて、それがまたいい風情だったりするのですが、夏のシンとした感じはまた格別です。
ひとつには、無理やり早起きさせられた夏休みのラジオ体操なんかも寄与しているのかもしれません。夏は朝が早いです。すぐに明るくなる。朝靄の立ち込める中、町はまだ半分寝ていて静かです。また、夏には海や山に行きますから、そこでまた早朝の静けさを体験します。逆に冬は、明るくなったときにはもう町は起きていて、冬の朝は家人の立ち働く音で目が覚めるようなイメージがありますね。
夏だって本来はうるさい筈です。騒音は相変わらずだろうし、クーラーや扇風機の音もするだろうし、人々が急に無口になるわけでもないし、セミはガシガシ鳴いてるし、高校野球のラジオ放送が聞こえてきたりするし、花火がドーンとあがったりします。だから音はあるんでしょうけど、なぜか遠ざかってみると、音が消えてしまう。あるいは一つの音だけしか聞こえない。蝉なら蝉だけ、風鈴なら風鈴だけ。秋や冬は最初から音が少ないから静かなのに対して、夏の静寂というのは、なにかしら無声映画のような、本当はあるんだけど音声だけカットしているような、シュールで夢幻的な静けさがあります。
真っ青な空に入道雲が湧きあがっているイメージには音がありません。草いきれの中、虫捕りの網をもって林に向かっているとき、そこにもなぜか音声はありません。プールから帰ってきて、気だるい午睡をしているときにも、あまり音の記憶はありません。天空から降り注ぐ強烈な太陽光線の下、全てのものがクッキリとしたコントラストを描いていて、その画像イメージがあまりに強烈だから、音声イメージは相対的に退いているのかもしれません。
マーシーこと真島氏(もとブルーハーツ、現ハイロウズ)のソロアルバムの歌詞の中に、「タクシー会社の裏で 夏はうずくまっていた」という一節がありますが、この感覚はなんだか非常によくわかります。「うまいこと言うなあ」って感動したのですが、夏というと、なんか知らんけどタクシー会社だったりします。なんで?って言われると困るのですが、「とにかく、そうなの」って。別に具体的にどこのタクシー会社って覚えているわけではないです。でも、強い既視感があるのは何故だろう。
夏は、ギラギラとした太陽に照らされて、全てのものがその存在をあからさまにしているにも関わらず、どういうわけか全体的なイメージとしては夢幻的であったりします。不思議に、日ごろは気にもしないような地味なスポットがピンポイントで記憶に印象付けられています。タクシー会社に象徴される町の地味なデテールとか。体育館に続く、渡り廊下の日陰の部分とか。なんか印象派のヨーロッパの映画みたいに。
パーソナルなことですが、僕が「そうだ、オーストラリアに行こう(というか、滅茶苦茶ハジけたことをしよう)」と思い立った理由の一つに、夏休みの記憶が絡んでいます。半ズボンはいてた当時の僕は、ご多分に漏れず昆虫採集なんぞをしていたわけですが、ドン臭いからなっかなか昆虫なんかつかまりません。バッタや蝶くらいだったら捕まえられても、カブトムシやクワガタクラスの大物になると、「クヌギの木に砂糖水を塗って」とかやってても滅多に捕まるものではなかったです。それでも、カブトムシを捕まえられることも皆無ではなく(捕まえたというより、勝手に家に迷い込んできたような感じだった)、あのときは狂喜しましたねー。あるいは、林の中で、黒地に信じられないくらい美しい青の水玉模様を背負ったルリボシカミキリを見つけたときも、タマムシを見つけたときも感動しました。
そんなことを東奔西走している仕事中にふと思い出したのですね。あの頃は、汗べったりのシャツを気持ち悪がりながらも、夏休みもクソもないくらい仕事してましたし、さらに寸暇を惜しんで飲み歩いたり、異業種の連中と遊んだり、あんなことやったり、こんなことやったりしてました。「なんか面白いことはないか」って結構テンパって毎日が過ぎていったのです。が、ある日、ふと夏休みの記憶を思い出してみて愕然としたのでした。
なにがそんなにガクゼンだったかというと、子供の頃カブトムシを捕まえたときの純粋な歓喜、ハッピー度を思い出したからです。「あんときゃ、うれしかったー」って。そして今現在を省みて、あれくらい楽しいことってここ数年なかったんじゃないかと。あれと同じくらい、「うおおお、やったぜ」という感じになろうと思ったら、いきなりフェラーリに乗るくらいのことをしないと追いつかないんじゃないか、いや、それでも足りないかもしれないって。なんでもお金に換算するのは良くないのですが、物の例えとして言いますと、カブトムシなんかハッキリいってタダです。昆虫採集なんかも限りなくタダです。最近はそうでもないのだろうが、僕の頃はタダです。フェラーリは3000万円くらいします。つまり、子供の頃、夏休みでふんだんに得られていただけの幸福感を、今得ようと思ったら3000万円かかるわけでしょ?
これは絶対おかしいって思いました。なんでこんなに幸福になるのに効率が悪くなったのかって。それはすなわち、幸福になるための能力、感受性やアンテナや心の張りが、ボロボロに錆び付いているってことじゃないかと。舌がどんどん麻痺して味がわからなくなってきたから超美食でないとダメとか、耳がどんどん聞こえなくなってきたから最高級のオーディオでないとダメっていってるようなもので、そのうち完全麻痺してしまえば何をやっても無駄になり、何のために生きてるのかわからんやんけ、と。カブトムシといえども、たかが虫一匹であれだけ幸福になれた精神の瑞々しさを、今ここで取り戻しておかないともう手遅れになるわと。これは結構真剣に思いましたねえ。これはもう仕事なんかしてる場合じゃないんじゃないかと。
このままいけば刺激を求めてエスカレートしていくでしょう。なまじ経済力もついてきてるから、それを購うことも出来るでしょう。だけどそれが落とし穴じゃないのか。そんな「大人買い」みたいなことしててもしょうがないんじゃないか。耳が遠くなるから、どんどんボリュームを上げていきましょうという方法論ではなく、要するに耳垢を取ればいいじゃんという。
どうやったら耳垢がとれるのだろうか?ということになって、「そうだ、オーストラリアに行こう」となったわけです。ここ、論理が飛躍してますが、語り出すと何千行もかかりますから割愛します。今までさんざん書いてきたことでもありますし。ここでは、そうえいば、夏休みには、そういうエピソードもあるなというだけの話です。
一言だけ付記しておくと、大人になって一番良くないのは、快楽や感動を「記号として消費」しようとすることだと思います。子供は記号にしないですよね。存在そのものを素直に直視し、存在そのものをダイレクトに面白がれる。「すげえ!」って言って。この「すげえ!」って素朴な部分が大事なんだろうなあって。
例えば、温泉に行きますよね。温泉にいくとなると、大体予想される快楽があって、湯船でのびのびして、美味しいゴハン食べて、だらだらして、、って感じですけど、それがすでに記号です。頭で最初にその対象物を定義づけてしまって、「ここは気持ちいいところだから気持ちよがろう」みたいな感じで観念的にやってたりします。「温泉に行く」って行動をすること自体に意味があるみたい。だから、温泉宿に温泉が沸いてたりしても別に「当たり前じゃないか」と誰も感動しない。でも、素朴にいって、お湯が地面から出てくるなんて「すげえ!」ですよ。素直に、温泉という存在にダイレクトに向き合えば、「おおっ、なんじゃこりゃあ!」という不思議な現象があるわけですから、それをストレートに面白がればいいじゃないかって。もっといえば、それを「温泉」という単語で呼ぼうがなんだろうが関係ないです。逆に、きちんと室内風呂として管理されている温泉は、本当に地面から出てきてるのか、水道を沸かしてるんだかわからんですよね。わかりもしないものを、「これは温泉だ」という記号で大人は感動するわけですけど、子供的に素朴に見たらただの風呂じゃんってこともあるわけですし、温泉であることよりもなによりも、家の風呂よりもデカいとか、眺めがいいとか、そういう部分で感動するんじゃないかな。
海外に行くってのもそうだと思います。留学するとか、ワーホリするとかいう「記号」ではなく、とにかく外国があるってのが面白いですよね。遠くにいくと、全然違う言葉を喋って、見てくれも違う連中が、違う生活をしてるって、それが冗談や洒落でやってるのではなく大マジにそうだという。まずその事実が「すげえ!」です。そんでもって、そいつらのまん真ん中に入って行っちゃおうというのだから、怖いくらいにワクワクしなきゃ嘘でしょう。留学といい、ワーホリといい、そんなのは言葉だけの話だし、ビザという行政外交手続上の概念に過ぎないです。本質は、「すげえ遠くまで行く」ってことだし、「何から何まで違う世界に行く」ってことだと思います。不思議な国のアリスみたいに。
その昔、「人生で必要なことは、全て子供の頃の砂場で覚えた」という内容の本が流行りました。僕は内容を読んでないですけど、タイトルだけ読めばもう分かるような感じですよね。「あ、なるほど、それは言えてる」って。
僕らは今エラそうに大人ぶっていますが、僕らの知恵のメインフレームは殆ど子供の頃に作られているのでしょう。上述した夏休みにしてもそうです。非常に多くの貴重な体験をし、それが身体に染み付き、血肉となっている。
でもって、もう一歩進んで、子供の頃に学んだはずなんだけど、今ではすっかり忘れてしまったってことも多々あるように思います。これ、勿体無いですよね。あれだけ夏休みになるたびに、毎回毎回計画倒れで失敗していながら、今またここにダイエットの計画を立てているとか。小中高と9回の夏休みで繰り返し学んできたはずなのに、それが全然身についていない。何度失敗すれば気が済むんじゃ、How many times?! って感じですよね。夏休みに限らず、子供の頃の記憶を引っ張り出していけば、少しは僕らも賢く慣れるかもしれません。
でも、まあ、言ってるそばからなんですけど、今回のエッセイも締め切りギリギリになって書いてます。もういつも8月31日状態で、それこそ、How many times!? なんですけどね。
文責:田村
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