- Home>
- 「今週の一枚Essay」目次
>
今週の1枚(04.08.09)
ESSAY 168/受験について - 善玉ハードシップ
写真は、Sydenham。シティの南西部にある地味なエリア。しかしこのサビれた感じがロックしていて中々いいです。「すぃでぃあむ」と発音。
前回書き足りない部分があったので、今回補足・展開します。受験についてです。あれはあれで悪いものではないというか、悪いとしてもそれが存在する以上、最大限それを良い方向に利用したらいいんじゃないかってことです。
必ずしも悪いばかりではないという根拠は、あの程度のハードシップは適度にこなしてないと人間がダメになるという点にあります。楽ばっかりしてると馬鹿になるということですね。といって、辛ければそれでいいんだなんて極論するつもりはないのですが、なにがしかハードな体験をしないと人間の力というものは伸びていかないというも事実だと思います。むろん全部が全部そうだとは言いませんし、やらない方がマシというハードさも勿論あるのですが、それでも人は困難な経験を経て何か貴重なものを掴み、大人になっていくというのは否定できないでしょう。チヤホヤされて順風満帆でやってきた人間が、些細な挫折でダメになってしまうというのはよく言いますし、恋愛でもある程度の修羅場や起伏を経験しないと本当のところが分からない。
人間の技術や精神力を向上させるためのハードシップを「修行」などと言いますが、ハードシップのなかにも修行になるうるそれと、修行にならないそれとがあるのでしょう。明確にシロクロ分けられるものではないのですが、やればやるだけ鍛えられ、大きく成長していく体験と、やればやるだけ人間がセコく歪んでいく体験があるのだと思います。ではその分水嶺はどこにあるのか?何が善玉ハードで何が悪玉ハードなのか。どこに区別の基準があると思いますか?あなたはどう思いますか?
僕の今の考えとしては、いろいろな条件があると思うのですが、@ハードの状況それ自体に合理性があること、Aハードな状況が一過性のものであること、一定の時間的限界があること、Bそこで上手くやっていくための論理が正しいものであること、などがあると思います。
@ハードな事情の合理性ですが、要するにハードな状況に陥る過程や構造が理不尽ではないということです。理不尽なハードさというのは、例えばイジメとか差別です。イジメでも「今日のターゲット」みたいに誰がイジメられるのか全く分からんとか、イジメられる理由が難癖としか思えないような場合、そういうハードなシチュエーションに陥ること自体に納得できないでしょう。「あってはならない」という気がする。差別もそうです。性別、年齢、民族、容貌外見、出身、家族構成、本人的にはどうしようもない所与の前提のような部分で不利な扱いを受けることです。
合理性のあるハードさというのは、たとえば自分の作ったバンドでプロデビューするなんてこともあります。とりあえず最低限上手でないと話にならないから練習する。来る日も来る日も地味に練習する。バイトで貯めたお金で機材を買い、スタジオを借り、また練習する。ハードな日々です。また、ヘタクソのままステージに上がったらそれこそ客席から罵倒の嵐を食らい、物投げられます。そこそこのレベルまでいっても、今度はデビューするための戦略というのが必要で、そのあたりから練習→上手になるという直線的な努力から、複雑な曲線を描くような努力が要求されるようになります。もとより人気などは水物ですし、上手な順に報われるわけではないし、また業界内部は理不尽のカタマリだったりして、それなりにメゲるものもあるでしょう。でも、そもそもの原点が自分で望んでやってることだし、いかに人気家業の理不尽さがあったとしても、煎じ詰めれば、皆の支持を集めれば良い、つまり売れたらいいわけです。業界がいかに意地悪で陰険だったとしても、こっちが客を呼べる人気アーチストになってしまえば帝王だもんね、媚びを売るのは向こうの方じゃという図式があり、そのためにはやはり皆に「いい」と思ってもらわないとならず、そのためにはやっぱりいい曲を書いて、いい演奏をして、見てくれも表現の内だから気を使うと。大きなところでスジが通っている、合理性があります。
受験なんかもまさにそうだと思います。受験というのは、別に大学受験に限りません。各種資格試験もそうですし、世界的・歴史的にはエリート士官候補生になるための軍隊への入隊試験なんてのもあります。また、オーディションなんてのもありますし、展覧会や文学賞なんかもあります。自動車教習所の卒業検定なんかもあるし、柔道の昇段試験なんてのもある。これらの試験が設定されていること自体、誰もあまり文句はいいません。大学の定員が100名のところに300人応募している。だから100人を選抜しなくてはならないという合理性があります。プロへの資格試験でも、プロになるなら最低限このくらいのスキルは持っていろというボーダーが自ずとあるのであり、それをクリアしてるかどうかで合否を判定するというシステムそれ自体に異論のある人は少ないでしょう。人を選抜する必然性がそこにあり、その選抜の基準が本来の目的に照らしてもっともだと思えたら、それは理不尽ではないでしょう。
そのなかで、大学入試、あるいは資格試験なんてのは、それも難易度が高くなればなるほど、純度の高い合理性があると思います。大学入試なんて、出題範囲は大体決まっているし、過去の問題もわかっているし、合格するかどうかのボーダーは点数という形できわめて客観的です。ルールはシンプルで、比較的公正です。もちろん裏口入学する奴もいるし、カンニングする奴もいるでしょうけど、難易度が高くなるほどこの種の不正の入り込む余地が少なくなり、純粋に「出来るかどうか」だけで判定されるようになります。もちろん出題が難問奇問で不適切だったり、採点基準が技術的に矛盾をはらむとか細かな批判点や改善点はあるでしょうが、なお全体としてみればピュアなハードシップだと思います。
同じ選抜行為でも、日本独特のトラディショナルな人間関係が入り込んでくるとピュアさが減って、妙な濁り方をしてきます。家元制度にしても、お師匠さんやその上層部の受けが悪いと名取になれないとか、受けを良くするためには寄付をしなければならないとか、絶対服従の奴隷みたいに振舞わないとならないとか、「そんなん実力と関係ないじゃん」という要素が入ってくる余地もあったりします。絵画なんかでも要するにどの先生に師事したか、どれだけ引っ張りあげてもらったかで決まる部分があります。大学内部で誰が助手になるかとか、講師、助教授になるか、さらには「白い巨塔」の医学部教授選のような世界もあります。オリンピック選考委員会でも選考の仕方が批判されたり、今回のアテネでも馬術だったかで日本のスポーツ仲裁裁判所が「反省を要する」という異例の厳しい判断を示してます。なんで日本ってああなっちゃうんだろうな、風通し悪いなーって常々思いますが、それはまた別の話です。いずれにせよ、大学内部で教授になる理不尽な苦労を思えば、大学入試なんてこれ以上ないくらい公明正大なものだと思います。
Aハードシップの一過性というのは、無限にそれが続いたらメゲちゃうからです。別に絶対必須の要件だとは思いませんが、実際問題として期間限定の方が頑張りやすい。「泣いても笑っても春までだ」という終端が示されていれば、心理学でいうところの終末効果が得られるし、それだけに密度も純度も濃くなります。だから、やりやすいということですね。
これがいつ果てるとも知れぬアフリカの国家内部の民族同士の内戦とかになってくると、本当にシンドイと思います。そもそも状況自体の合理性(なんで戦争しているのかという部分)に納得できない部分がありますが、期間無限定、どうなったら終わりというゴールが示されないのは精神的にかなりこたえると思います。度を過ぎれば、ハードシップや修行というよりも、単なる地獄になってしまいます。
イジメでもまだ救いがあるのは期間限定の場合です。卒業するまでの辛抱だとかね。イジメではないけど、自動車教習所で横柄な教官に横からボケカス呼ばわりされる辛さも、「くっそー、免許とるまでの辛抱だ」というのがあればこそ我慢も出来ます。でも、一生これだったら僕でもグレます。会社で冷飯食って、遠くの支店勤務に飛ばされても、「懲役3年」と思えばまだ我慢も出来る。期間限定というのは大事なことです。
その意味で大学入試というのは思いっきり期間限定です。なんせ試験日は堂々と発表されます。合格すればそこで終わり。合格するかどうかは自分次第だし、第一次志望がダメで第二次志望で妥協するか、あるいは浪人するかの期間設定・決定権も自分にあります。
そうそう、余談ですが、あまりに早期から準備をはじめると、それに比例して期間が長くなってしまい、結果的に成功率が落ちるような気もしますね。これは僕の単純な雑感なのですが、司法試験でも(今はどうなのか知らないけど)、大学に入ってからすぐに頑張り出してた皆さんの合格率はけっこう低かったような気がします。僕は1,2年時かなり遊び呆けていて、3年になってからガラッと180度転換してやりはじめましたけど、1年の頃からやってる人って途中までは先頭を切ってるのですが、第3コーナーのあたりで脱落する人が多かったです。つまり人間そーんなに長い期間集中してられるものではないので、疲れちゃうのでしょう。一方、遅くからスタートした連中、卒業してからスタートする奴(就職できなかったからとか)も結構いますが、こういった連中にしたら何を勉強しても新鮮だし、まだ疲れてないし、そもそも尻に火がついて燃えまくってますからイヤでも集中します。だから一気に合格ボーダーまでいってしまうという。
だから、将来の大学入試のために高校1年から準備しようとか、中学からとか、中学入試とか、小学校とか、どんどんさかのぼっていきますが、「人間は疲れる生き物だ」という単純な自然の生理を無視しない方がいいと思いますです。ちなみに僕の大学入試のための受験勉強期間は、実は2週間から1ヶ月くらいしかなかったです。「やんなきゃねー」とか言ってる時期は長かったのだけど、結局何もやらず、逃避行為で純文学ばっかり読んでました。さすがに年が明けてから「笑いごっちゃねーな」でやり始めましたけど、全然話にならなかったですね。直前対策とかいいますが、直前対策しかやらなかったので、もう結果はボロボロでした。それでもひっかかった学校があったので、「ほんでええわ」で入りましたけど、あそこまで期間が短いのは良くないです、はい(^^*)。ただ、結果的にいえば、今何が役にたってるかといえば、あの頃「受験近いし、やんなきゃねー」とかいってた時期に読んでた小説ですよね。もうドストエフスキーから漱石まであたるを幸いいくらでも読んだのですが(勉強したくない一心で)、それがその後の自分のスキルに一番役に立ってます。入試のための勉強は、本当にやったという記憶がないくらいやってないので、あれはあれでやらずに済んでよかったと思ってます。ただ、英語はもっとやっときゃ良かったなと、オーストラリアに来てから思いましたね、はい。
でも、期間が短いと集中するというのは本当にあります。司法試験のとき思いましたが、あれは短答、論文、口述の3関門があるのですが、論文試験の合格発表から口述試験までの日程が2週間くらいしかないのですね。論文に受かればほぼ受かったも同じなんですけど、それでも口述で落ちる奴もいるから、逆に怖かったりするのですが、論文試験の発表のとき、「うそ?まさか?受かってる?やったー」という超感動のあと(すごい感動しますよ)、数瞬遅れてやってくるのは「口述、どうしよう?」という不安です。まさに超超直前対策の世界で、1日24時間勉強というよりも1日30時間くらい勉強するくらいやりますが、このくらい追い込まれたときの人間のパワーってすごいのですね。火事場の馬鹿力ってこういうことを言うのだなと実感しました。なんせ、通常だったら読むのに一ヶ月くらいかかる専門書が半日で読めちゃうのですから。マラソンと100メートルの違いみたいなもんで、「うそ?なんで俺こんなに早く読めるんだ?しかも全部理解してるし、読むそばから覚えられる」とびっくりしたのを覚えてます。同じ本を勉強をはじめた頃には読むのに3ヶ月以上かかってました。まあ、こちらの実力がついてるから理解力も上昇しているということもありますが、これ1年生のときに読んでたら1年かかっていたでしょう。人間は自分の潜在能力の30%くらいしか使えないとか、脳の機能のうち使ってるのはせいぜい5%とか言いますが、あれは本当なのかもしれません。といっても30%以上の未知の領域を開放するとかミステリアスな話ではなく、その30%すらマトモに稼動していないのが普通ですから、それを30%にまでもっていくだけでもとんでもないことになるのでしょう。
まあ「1年でやることを半日で出来る」とまで極論するつもりはないですが、期間を長くするとチンタラしますね。これは絶対チンタラすると思います。人間にはエネルギーをセーブしようという無意識の本能みたいなものがあるのでしょう、先が長いとペースを落とす。落として正解なのですが、でもね純粋に努力効率から考えると、闇雲に早くからやらない方がいいです。効率悪いし、悪いどころか途中で疲れてドロップアウトしかねないですから。期間が長いと、その間別にこれといって何をやったわけでなくても、ただ期間が長いというだけで疲れますから。
さらに余談を続けますと、オーストラリアに行こう、ワーホリや留学に行こうと思ったら、もうすぐ来ちゃった方がいいです。物事には周到に準備すべきことと、準備のしようがないというか、むしろあんまり準備しない方が良いことがあります。ワーホリなんかは明らかに後者でしょう。準備というはやるべきタスクがはっきりしていて、そのために周到なダンドリが必要な物事に必要です。エベレスト登山とか、破産宣告手続とか、銀行強盗とか(^_^)。客観的に事柄が特定できるものですね。でも、やるべきタスクがハッキリしない、というか「タスク」という形で明確化できないし、そんなビジネスライクなものではなく、それをやること自体に意義があるようなものの場合、準備なんかやりようがないです。未知の世界が不安だから、不安を解消するためにあれこれ情報をかきあつめるのは、準備とは言わない。気休めというべきでしょう。まだ恋人もいない思春期の少年が、恋人とデートするようになったらあれもやろう、これもやろうと想像したりするのは「準備」とは言わない。この種の領域は、ウダウダやってないで、「とにかくやってみ」というに尽きます。現場でいくらでも調整がきくし、現場で滑って転んでいくうちに習得していく以外の方法はないです。頭で考えていても一歩も進まない。恋愛小説を1万冊読んだからといっても、現実の自分の恋愛が上手くいくとは限らない。むしろ頭でっかちになって失敗率が増えるだけって気もします。
何度も言ってますが、日本でする準備なんか知れてますし、殆ど役に立つ準備なんか出来ないでしょう。だから、これもよく言う不謹慎な例えですが、北朝鮮に拉致されるように本日ただいまオーストラリアに連れてこられるくらいでいいです。どんなに長く準備したとしても1ヶ月くらいでしょ。それ以上の期間準備する意味は、バイトして軍資金を貯めるということ以外は、無いでしょ。もっとも、オーストラリアについてからの準備というよりは、日本を発つ上での準備、つまり留守にするための準備は時間がかかると思いますけどね。僕も10年前に来たときは、ろくな準備なんかしなかったですよ。というよりもインターネットもまだ盛んでないし、オーストラリアの生活情報そのものが極端に少なかったですから。「ま、人がいるみたいだから、住めるんだろ」くらいの感じでした。「ホームステイ」なんて言葉自体知ってたかどうか怪しい。別にそれで十分ですよ。お金とパスポートとビザさえあれば、あとは現地で全部何とかなるし、いくら準備しても100の行動メニューのうち2か3くらいしか出来ないから、結局現地でやらなきゃいけないことに変わりはないです。高校に入る前に、中学で一生懸命準備しても意味ないのと一緒。せいぜい制服やカバン買うくらいでしょ。だもんで、長々とチンタラ準備してるくらいだったら来ちゃったほうがマシだと思います。集中力があったら、集中せざるを得ない状況に追い込まれたら、あなたは10倍有能になれます。Trust me!
Bハードシップをサバイブするための論理が正しいこと、ですが、これは@とリンクします。
強ければそれで良いとか、人気があれば良い、一点でも多く取ればいい、スキルが備わってたらそれでOKということで、わかりやすく公正なゴールが設定されていれば、あとはそこに至るまでのプロセスもまた公正で分かりやすいものになるでしょう。
「論理が正しい」というのは、たとえば医師資格の試験にしても、医師になる以上人体や疾病、治療法について最低限の必須知識をもっていなければならないとされますが、WHY?なぜ持っていなければならないか?が原則的な「論理」です。スキルがなくてボンクラ医師だったら、みすみす患者を殺したり、治療しそこなったりして、「人を疾病から守る」という医師本来の目的に反する、だからこそ医師になりたかったら最低限のスキルを身に付けろということでしょう?そしてそれが納得できるもの、スジが通ってると感じるものであれば、それは「正しい」です。勉強はハードで、勉強ばっかりしてる生活も辛いとは思いますが、その辛さに十分意味があると思えたら、そしてその辛さをクリアしない限り(頑張って勉強してスキルを身に付けないと)ゴールにいけないという構造が納得できたら、そのハードシップは意味があるといっていいと思います。
これが、出世するには社長に可愛がられるかどうかだとか、ある特定の人間の胸先三寸の気まぐれに委ねられているような場合、このハードシップをサバイブするための「論理」は、”決定権限をもつ人間に有利な決定をしてもらう”ということになるでしょう。そして、その論理は「正しい」と思いますか?エライ人に気に入られるとしても、その人が公正明大だったらまだいいです。その人が、有能な人間、誠実な人間を愛する人で、判断にあたって私情を廃し公平に努める人だったら、有能になったり誠実になればいいのですから
まだいいですよ。でも、人間そんなに立派になれないから、どうしてもエコヒイキしたり、好き嫌いで物事決めたりする。奴隷のように屈従する人間を可愛いと思うとか、容姿容貌がいい人間を可愛がるとか、おべっか使う人間を重用するとか、セクハラさせてくれる相手を好もしく思うとか、正しい批判をする人間を疎んずるとか、そういうことだったらあんまり「正しい」とは言えない。また、その人間にゴマを擦って、信条に反する言動をとったりするのが「正しい」と思えるかどうかです。
僕は正しいとは思えないし、正しいと思えない努力を強いられるハードシップだったらイヤです。そういうことやって自分が鍛えられるとも思えないし、時間の無駄どころか、逆に自分が磨り減ってイヤらしい人間になってしまいそうでそれがイヤです。だからその種のハードシップはあまり意味があるとは思えない。もっとも、これはこれで意味があるのですが、これは「上級編」です。あとで述べます。ここではまだ大学入試とかの「修行・初級編」ですから、シンプルな構造が理解できたらいいです。
ついでにいっておくと、権力者(他人の人生に影響を与える権限をもってる人)が馬鹿であればあるほど世の中暗くなります。民主主義の本質は何なのかというと、誰が権力者であるかどうかを皆で選ぶ権利を持つということであり、これに対する封建主義は選ぶ権利を持たないということだと思います。つまり封建主義においては、どんな馬鹿殿であれ、暴君であれ、暗愚な君主であろうとも、それを選んだり交代したりすることは出来ないのが原則。日本が封建主義で、たまたま金正日やフセインが日本の帝王の血筋に生まれたら、それをひっくり返すことが出来ないのが封建主義です。要するに権力者に対するチェック機能があるのが民主主義であり、ないのが封建主義。
その原点からすると、日本が原則としては民主主義ですが、その原理が本当に浸透し機能してるとは言いがたい。馬鹿な権力者が馬鹿なことやってても速やかにシステマティックにこれを矯正することができないからです。これは政治の場のことだけを言ってるのではなく、業界や、個々の会社、集団内部の話でもあります。どこのエリアにも天皇のように振舞ってる帝王みたいな奴がいて、こいつがいくら馬鹿でも皆でチェンジできないのだったら、それは民主的ではない。民主的でないと、その馬鹿が高い煙突から有害な煙を撒き散らすように、周囲の皆に有毒ガスを振りまき、近くにいる人間はそのガスにやられ、ひどい例になると発狂したり(人格変わったり)、自殺に追い込まれたりします。日本の場合この弊害はまだまだ強いと思いますが、なんで日本だとそうなるのか?というと、社会経済的には労働流動性の少なさ(会社辞めてもいくらでも生きていけるという環境が整ってない)、そしてメンタル的には「エライ奴は問題無用にエライ」という封建的な心情だと思います。が、それはそれでまた別の話です。
話を戻して大学入試ですが、こういった封建的に悲惨な世界に比べれば、受験なんかめちゃくちゃクリーンです。そりゃ、裏口入学とかコネではいる奴とかいますけど、全体的に言えば99.9%の人間が試験の点数だけで客観的に判断されているでしょう。だからシステムとしてはクリアです。
しかし、入試に成功するための努力、ハードシップをサバイブするための論理(一点でも多く取る)に、「正しさ」はあるか、です。
ここはねー、ちょっとモンダイだと思ってます。
医師になるために医学的知識を問う、弁護士になりたい奴のために法律的スキルを試験するのは、正しい合理性があります。しかし、大学に入るために、「なんで、こんなことやらなきゃいけないの?」という疑問はあるだろうなーって思います。そりゃ大学は、最高学府であり、最高難度の学問をやるところですから、それを修めるために必要な基本的な学問的素養があることを求めるというのは理に適ってますよ。
しかしね、実際問題、大学生、遊んでるじゃん、勉強してないじゃん、そして自分自身勉強するために大学に行くのではなく遊ぶために行くんだもんね、という本音と現状があったりしますよね。大学が遊んでるところであり、自分自身も遊ぶつもりだったら、その大学に入るための入試問題は、正しくは「いかに面白く遊ぶ力があるか」で決めたらいい筈で、あるいは普通の入試をやって点数の低い順から(つまり遊び呆けていた順から)合格させてもいい筈ですよね。まあ馬鹿な話だけど(^_^)。
事実、日本の大学生、勉強してないもん。いや俺はしてるぞという人が居たら問いたいのですが、あなたの専門分野で、現時点における世界での最高水準はどうなってるか言えますか?経済学部に行ってる人、去年のノーベル経済学賞の受賞者は誰で、どういう内容の論文で、その理論や功績に対して、あなた独自の見解はなんですか?たとえば2003年の受賞者のひとり、イギリスのクライヴ W.J.グレンジャー氏が「コインテグレーションによる経済の時系列分析手法の確立」という功績で受賞してますが、この点について学問的に説明して私見を述べてください。それが言えたら「勉強してる」と認めましょう。だって、そうでしょ。最高学府なんでしょ。卒業したら学士になるんでしょ。学士、バーチャローの称号というのは、それくらい重いもんなんだもん。これは世界的にそうだもん。大学生や大卒って自己紹介したら、その程度の知性の持ち主であると思われるしね。日本の大学でも、理系の方はまだ勉強してるかもしれないけど、高校の延長のように単に出席してノート取ってれば「勉強してる」ってもんじゃないです。大学以上は大人の世界だから、そんなコドモみたいな「言われたとおりにやってるいい子」なんか通用せんよね。
日本の場合、ここが思いっきり歪んでるんですよね。大学が全然大学じゃない。もしオーストラリアやアメリカ流に大学やったら、日本の大学生のほぼ大部分が卒業させて貰えないでしょう。そのくらい大学がまっとーな姿になれば、必然的に大学入試も、論理が正しくなると思います。「これだけハイレベルな授業をやるけど、お前についてこれるか?」という試験をするわけで、このレベルのことをやるのだから、この分野の高校レベル程度の事柄だったら余裕で満点取ってこい、それだけ出来たら入れてやるって。そうなれば、なぜこんな勉強をしなければならないのか、という論理の正しさが復活するし、納得もするでしょう。でも、今のままだったら、納得のしようもないですよ。夏はサーフィン、冬はスノボで遊ぶつもりなのに、なんで「ポセイの乱」なんか覚えなきゃならんのだ?と。純粋に関係ないですよね。
というわけで、大学入試ですが、@Aと二関門はほぼ満点通過したにも関わらず、第三関門「なぜ、これをやらねばならんのだ?」という所でコケます。それでもカツカツ論理性をつなぎとめているのは、今頑張って詰まらない勉強をすれば後で思いっきり遊べるという、信賞必罰というか「一生懸命努力した人にはご褒美が与えられる」「苦あれば楽あり」という、非常に漠然とした一般的なルールでしかないです。だから、別に受験の内容や勉強のテーマなんかなんだっていいんです。別に勉強である必要すらない。一定苦しい思いをすればいいんだからさ。佐渡の金山で働いたとかでもいいわけじゃん。
でも、この歪みは大学の責任じゃないでしょう。大学側にしてみれば、勉強せんアホはビシバシ切り捨てたいでしょう。「てめーら、学問、ナメんじゃねえ」ってのが、その分野に進んだ人々の自然な感情だと思う。だから、大学としては、やれるもんならビシバシやりたいんじゃないかろうか。でも、それが出来ないのは、もっと大きく、日本の社会自体が歪んでるからでしょう。ひとつには大学の卒業生に実社会が何を期待してるのか?です。「大学出るとなんかいいことあるの?」ということですが、「いいこと」を用意するのは社会側の責任ですよね。社会が用意する「いいこと」は、安定した職、高給、有名な会社名でステイタス気分を満足させるなどでしょう。でもって、それらを提供する側、つまりは大企業などですが、彼らが求めている人材は、特殊専門的な領域で最高水準のスキルを保有する人というよりも(理系の分野ではそれが残ってますが、文系では)、とりあえず難関といわれる知的作業をクリアできる程度の知能をもっていて、あんまり根源的なことを考えず「現実的」に妥協できて、それを実行できる人材です。それが「有能」な人材だってことでしょう。だから、難関大学を出た(というよりも入れた)という事実は、それらの有能性の証拠になるのでしょう。だから、はっきり言って日本の大学入試は、イコール就職試験でもあるわけですな。何を学んだかという内容はどうでもよくて、一定難しいことを成し遂げたかどうかが問われるわけです。ゆえに、勉強の内容など何でも良いわけです。
それはそれでスジが通っているようだけど、しかし、企業経済活動は欧米だって同じ筈です。欧米でも大卒だと高給を取れますし、就職に有利です。でも、大学は高度に専門的なことをガンガンハードにやります。そこには妥協はない。これはいったいどういうことなんだろう?実は、ここから先は、あんまり日本で語られていない部分だと思います。
僕も「これだ」という回答は得ていないのですが、いろいろ思うに、まず第一に、大学での成績がいい順に実社会でも有能であると言われたりします。本当にそうかどうかは知らないけど、幾度となく聞いたことがあります。試験やレポートも、範囲は決めるけど自由課題的なものが多く、自分でテーマを決め、自分で調査などを企画し、実行し、それをレポートする。レポートには遠慮会釈なく厳しい批判が浴びせられるといいます。もちろんダメなものはバシバシ落とされます。それがほぼ全科目にまたがるといいます。しかし、よく考えると、これらのタスクで優秀な成績を残せるということは、実社会でも有能だということですよね。ある支店、あるエリアを任される。そこでの過去の販売成績を調べ、自分の発案で新たなリサーチを実施し、自ら現場を歩き、なぜ売れないかの問題点を解明し、改善ポイントを優先順位別に書き出し、さらに実行可能性と効果が出てくるまでの期間の予測、さらには実行するための予算などを盛り込んで、簡潔なビジネスレポートにして上に提出するわけでしょ。それが優秀であればあるほど使える人材になるし、優秀であるかどうかは見ればすぐわかるし、何よりも実行してみたら「なんだ、売れないじゃん」とかすぐわかる。
というわけで、一つには大学の授業自体が、学生に主体性を存分に与え、その能力を最大限引き出すように組まれているのでしょう。逆にいえば、だからこっちの大学はハードであり、卒業するが大変だといわれる所以です。そして、そこを優秀な成績でクリアしてくれば、実践的にも「使える」として企業で評価されると。トム・クルーズの初期の主演映画「ファーム」でも、法学部を卒業するトムクルーズが弁護士事務所に就職活動するシーンから始まりますが、そこでも大学の成績が非常に重視されていますよね。つまり、大学の成績を見てたら、大体この人物がどれだけの能力があるかが分かるのでしょう。そういう授業をやってるのでしょう。日本のように、ノートを読み上げて板書するのをノートに取ってればOKという感じの授業ではない。もっとも、大学側もそういう授業をやりたいのでしょうが、マスプロ教育にしないと経営的に成り立たないとか、そういう厳しい授業をやれるのは一部の特権的な名門校だけで、普通の大学でそれをやったら受験生が来なくなるという、結構とほほな状況があるのでしょう。
もう一つ。これは日本社会の性格を反映していると思うのですが、結局、会社もまた封建社会であり、新入社員には封建的な人材がほしいんじゃなかろかってことです。有能である人材が欲しいのは勿論なんだけど、同時に従順な人材もまた欲しいのでしょう。でも、普通、有能であればあるほど天狗になるし、我も強くなるでしょう。それが若ければ尚更ですよね。そこで、有能なんだけど、「エラい奴はエラい」という日本社会の封建的な不文律に性格的に馴染める奴が好ましいのだと思います。こういう人材は、理不尽なことがあっても耐える能力があります。逆にいえば深刻に疑問に思わないくらいに馬鹿だということでもあるのですが(^_^)。日本企業のなかには今なお終身雇用幻想がまだありますし、動き出したシステムはそうそう変わらない、客観的に変わってもメンタル面では変わりにくい。何十年と同じ連中と一緒にチームワークやろうとしたら、人間がもってる非合理性や理不尽に対する耐性があり、「うまくやっていく能力」と、適度な「現実性」と「保守性」がある人材が好ましいのでしょう。そして、それを見るためには、大学入試程度で十分なのでしょう。そこから先は、企業内部で育成システムがあるから、適当に素材を選別して入れておけば、あとで使いものになるように教育しようってことだと思います。
一方、欧米の場合、労働流動性が高く、同じ企業でも、3年経ったら社長から末端まで総とっかえというのも全然珍しくないです。だから、職場で同じ人間と何十年もつきあうという状況自体がまず無い。また、多民族国家ということもあり、以心伝心的な人間集団の作り方は出来ない。さらには宗教的なこと、社会文化的な背景もあって、仕事をすることが人間として最も大事な美徳だとは全然思ってない(家族を愛したり、ボランティアをする方が価値が上だと思ってる傾向がある)などなどの諸要因があり、結果として職場における職務は、大きなバインダー数冊に詳細に書かれている職務記述書(マニュアル)に客観的に限定され、仕事が出来る出来ないは4半期ごとに客観的に認定され、要求水準に達しなかったらどんどん首になる。また、自分の能力からして給料が安すぎると思ったり、履歴書に書けるだけの意味のありそうな経歴を付加できない(or 既にやり尽くした)と判断したら、ちゃっちゃと退職して、より高度なポストに転職する。
要するに、人生における仕事の意味、やり方がかなり根本的に違うということですね。日本もここ10年だいぶそういう流れになってきてますが、本家はやっぱり強いというか、徹底してます。プロ野球やサッカーの選手の契約みたいな、有能であるかどうか、結果をだしたかどうかそれが全てというドライな世界が、あらゆる業種職種に広がってるということです。ですので、こういう世界においては、この人物が有能かどうかがギリギリ判断され、選別されることになります。したがって大学もまた、遠慮なくビシバシ厳しいタスクを学生に課し、ビシバシ落とす。なぜなら実社会がそうだからです。
結局のところ、社会文化が違うから、大学や、さかのぼれば入試制度も違うということになるのでしょう。言ってしまえば平凡な結論なんですけどね。ただ、見落としてはならないのは、欧米社会の場合、競争は熾烈ですしビジネスは厳しく平気で首になるのだけど、仕事を得られないからといってすぐにホームレスになることはないし、日本ほど人格否定的に恥ずかしいことだとは思われていない。それだけ社会保障が厚く、同時に仕事は人生においてそれほど群を抜いて価値のあることだとは思われてはいない。だから仮に競争が激しいとしても、そこでの敗者は、それほど「敗者」感があるわけでもないのですね。同じように、大学なんて好きな奴が行けばいいし、大学行かないと人生が二流になってしまうなんて、あんまり考えない。つまりは「数ある生き方のうちに一つに過ぎない」というのが自然と理解されているのですね。オルタナティブが常にある。たーくさんある。マラソン大会に出たい奴は出ればいい、ただし競争は厳しいよ、出たくない奴はでなきゃいいじゃん、もっと自分の好きなことやんなよって、そんな感じなんですね。
だもんで、日本社会を変えようと思ったら、いつもいってる結論に戻りますが、APLaCのPですね。Pluralistic、多元的って意味ですけど、いい大学行って、いい会社入る以外にも、いっくらでもハッピーになれるようにするしかないっす。要するにハッピーになりゃいんだからさ。だから、いい大学出ていい職業についてる人はその活動内容を充実させるともに、封建的な部分を少しづつでいいから変えてください。体制内改革。そして、そのルートに乗っていない人、日本人の殆ど大部分がそうだと思うけど、ハッピーになってください。より質の高い、より人間としてナチュラルでレベルの高い幸福を築いてください。オルタナティブを充実させてください。あなたがハッピーになればなるほど、日本は良くなるし、日本がもってるfxxkin’な部分は矯正されていくでしょう。
さて、話を冒頭に戻します。受験も案外悪いばかりじゃないんじゃないかってことでした。それを書きたくて本稿を起こしたのだけど、前提だけでまた終わってしまいそうです(^_^)。
今見てきたように、受験は第一関門第二関門はクリアな存在ですが、第三関門で、日本独特のツイストがかかってます。ここがハードシップとしてワンランク難易度が上がるところなんですね。つまり、@−Bまで全てクリアしたハードシップは、それは技能精神の鍛錬としてとてもわかりやすく、理想的なのですが、逆言えば入門編であり、初心者向けなんですね。中級上級になると、@-Bがそんなにクリアじゃなくなってきます。つまり理不尽係数みたいなものがあがってきます。
実際、考えてみても、この世の中で、そんなに受験みたいにクリアで公正なイトナミなんてそうそう転がってるもんじゃないですよ。就職だってコネの有無で決まったり、営業かけて受注まで漕ぎ着けるかどうかも運次第ってところがあるし、社内での出世もそう。バンド組んで売り出してみても、音楽的な完成度が高ければ売れるってもんでもないそれどころかクソみたいな曲が逆に売れたりもする。早い話が意中の異性を射止められるかどうかだって、相手の気持ち次第、自分が努力してればそれだけでOKってもんじゃないです。
だから実際の社会では、80点とっても不合格だったのに、なぜか70点の奴が合格してるみたいな理不尽なことばっかりです。"This is the life, as it is" ですね、「人生なんかそんなもんよ」ってことです。この「そんなもんよ」と理解するのが高級難度なんですね。ですので、実際に実行するにあたっては、理屈どおり物事が運ばないのです。どっかで理不尽というワイルドカードが出てきて、大コケすることもありうるわけです。必死で金を貯めて、マーケティングして、開業して、夜も寝ないで働いてやっと軌道に乗ったかなというところで、従業員に経営資金を全部横領されて倒産したとか、それまで安全で人気のある食品を扱ってたら、ある日突然危険物としての濡れ衣を着せられ経営難に陥るとかね。O-157の貝割れ大根みたいに。
人生はワルイドです。そんなにうまいこと物事運ばない。ものすごい理不尽攻撃があります。いつどこでやってくるかもわからない。「やれやれ」と思ったところで乗ってたバスが谷底に転落して死んでしまうかもしれんのです。それでも日本なんかまだいいですよ、戦争ないから。やっとのことで自分の店を開店した!と思ったときに、クーデターや内戦が始まって、爆撃を受けて全壊しちゃったなんて話は世界ではゴロゴロあるでしょう。イラクの映像なんか見てても、バグダッドに普通の商店とか建ち並んでて、それが爆撃受けて滅茶苦茶になってますが、あの一軒一軒がそれぞれの血と汗の結晶でしょうに、かくも無残に破壊されてしまう。さらに、そもそも自分が生きていけるかどうかすら怪しい、毎日一人づつ知り合いが死んでいくなんてケースもまた無数にあるでしょう。その意味ではこの世は理不尽のワンダーランドです。
ただ、そうであったとしても、その理不尽に負けてはいけない。多くの場合、理不尽に遭遇すると、「馬鹿馬鹿しくってやってられるか」という気分になりますが、どんなエリアでも、どんな道でも、アホらしくてやってられなくなるような理不尽攻撃がありますが、そこで負けちゃうと、「やってらんない」でヒネくれて、それで本当に終わってしまいます。「ま、そういうこともあるさ」で軽く流せるかどうかが大人かどうか、サバイバル能力があるかどうかだと思います。だから、早いうちに負けない程度に適度な理不尽に慣れておく必要もあろうかなと思います。
しかし適度かどうかが大事で、これが行き過ぎると、たとえば理不尽なイジメを受けつづけることによって、トラウマになり、社会は異様に怖いところだという刷り込みがなされ、人と会うときに卑屈になってしまったり、イジメられるくらいだったらイジメる側に廻ろうと、先手必勝的に人ばっかりイジメて、それが唯一の処世術になってしまったり、、、、このあたりが難しいところですね。
先ほど、受験は第三関門でコケる、どうにも理不尽な部分が入ってると書きましたが、まあ、この程度の理不尽だったら、まだまだ可愛いレベルだとも思います。18歳になったら、このくらいの理不尽をクリアできるようになっててもいいんじゃないかと。別に大学入学後と何の関係もないような受験勉強であったとしても、それが関係ないクソみたいなものだということを百も承知で、それでも手段と割り切ってやる、と。この受け入れと割り切り、しかし魂は売り渡さないということですね。社会に出たら、嫌な取引先や上司ともうまくやっていかねばならない時期はありますから、理不尽は理不尽と割り切りつつ、どの程度まで受け入れてよいか冷静に判断できるようになっておくといいのでしょうね。理不尽耐性が全然無いのも問題で、そんなこといってたらこの世で生きていけなくなります。ですから耐性がバリバリあって、まだ耐えられるけど、あんまり耐えても意味が無いなと判断できるかどうかです。
あと、とりあえず理不尽に直面することで、「なんでこうなっているんだろう」と嫌でも考えますから、そこが社会的視野のはじまりだともいえます。なるほど、世の中こうなっているのか、だからここで苦労させられるわけね、と。そんなに一足飛びに全てが理解できるわけではないでしょうが、総じて考えれば、18歳程度の成長過程においては、まあまあ手ごろなタスクかな、適当に理不尽も入っているしと思ったりもするわけです。
もちろん受験にまつわる弊害は山ほどありますよ。それに目をつぶるつもりはないです。ただ、だからといってひたすら避けた方がいいのか?受験しなければしない方がいいのか?というと、そういうもんでもないでしょうって思います。避けたら避けたなりに、別の理不尽難易度を含んだタスクをやる必要がありますから。でも、早いうちにそれをやってないと、クソ甘ったれて使い物にならない人間になっちゃって、そうなると一番しんどいのは自分ですからね。なにをやってもモノにならないわけで、そうういのって人間としてかなり辛いと思います。まあ、自業自得というハードシップの合理性はないわけでないけど、期間無限定で、しかも本人にそのハードシップの状況認識が出来ないだろうから(自分がダメだから成功しないとは思えない)、ひたすら社会から理不尽な仕打ちを受けつづけているだけって感じになりがち。そうなると隅っこで世を恨んでイジイジやってるようになるし、正攻法ではダメだからひたすら卑劣な手を駆使しようとしたり、、そんなこんなで老けてきてタイムアップで人生終わっちゃいます。それって、もったいないと思います。
文責:田村
★→APLaCのトップに戻る
バックナンバーはここ