- Home>
- 「今週の一枚Essay」目次
>
今週の1枚(04.07.26)
ESSAY 166/タカ派意見への傾向と対策
写真は、ホッケーの練習をしている子供達。Camperdown(Newtownの隣)にて。
イラクも今は何がどうなってるのか、フォローできないような状況に陥っているように見えます。アメリカは一体何をしに行っているのか。フセイン独裁政権を倒し、民主的社会を作るお手伝いをしに行ったという大義名分があった筈なのに、なんだか他人の家に乗り込んで乱暴狼藉を働いて地元民の反感を買ってるだけじゃないの?という気もします。911テロを受けてカッとなって振り上げた拳、無理やり下ろし所を探して下ろしてみたら、案の定泥沼状態になってしまったような感じです。
最近アメリカ本国での調査報告で、どんどん無能ぶりと無計画性が明らかにされていますが、政府高官の首が飛ぼうが、現政権がぶっ潰れようがお構いなく、「ダメはものはダメ」と徹底的にウミを出そうとするあたり、さすがにスゴイなと思います。このへんがアメリカという国の凄みですよね。間違えるけど、復元力もある。日本だったら、「政治的配慮」とかなんとかいって、何でもなあなあに抑えてしまうでしょう。でも、別にイラクのことは今回はメインテーマではありません。ここでは、ブッシュ政権やいわゆるネオコン派の主張、、、主張というほど理性的なものではないな、もっとファジーに「肌合い」というか「ノリ」というか、「男らしく、力強く、やるときゃやったるで、おー!」的な”感じ”について書きます。つまりは、「幼稚っぽい男らしさ」というか、マッチョなノリというか、分かり易いタカ派的な発想法についてです。
この種の稚拙な”男らしさ”は、僕も男性的性格を濃厚に持ってるだけに、理解できます。マンガや映画みたいに、「理屈はシンプルに、力は強大に」というノリですね。その感情的な気持ち良さは良く分かる。「えーい、しゃらくさい、ガーンといったらんかい」という。
こういうのは、とりあえず気持ちいいです。カッコよさげだし、「悪い奴らをやっつけろ!」というシンプルなところでやってられるから、非常に楽です。気持ちいいからこそ、マンガや映画の娯楽にうってつけだったりするのでしょう。
しかし、何によらず楽チンなものには落とし穴があります。現実はそんなに楽でも簡単でもないのだけど、無理やりに楽にしてしまう過程で、とんでもない過ちを犯す。
その昔弁護士業務をしていたときに、”ミニ戦争”みたいな事件がちょこちょこありました。集団対集団の紛争事件です。それは労働組合対会社側、消費者団体や被害団体VS国、あるいは会社内部の派閥抗争、さらには地方選挙における選挙違反のチクり合戦やら、お寺さんの檀家のなかの主導権争い(住職派と檀家総代派に分かれるとか)、はたまた山林や境界をめぐる家と家、村と村の争いなどなど。こういう集団相互の”ミニ戦争”的な紛争は、ロミオとジュリエットの昔から、古今東西いたるところであります。紛争というのは、当事者が一対一のタイマン形式のケースの方がむしろ少ないかもしれません。完全にタイマン勝負になりそうな離婚事件であったとしても、両家の親とか親族などがなだれ込んできて、場外乱闘になったりするケースも多いですから。
こういう紛争現場においては、いろいろな法則性があるように思います。一つには、陣営内部で戦略会議などをやっておりますと、アグレッシブな意見の方が通り易いということです。「タカ派有利の法則」とでもいいますか、じっくり話し合って解決点を擦り合わせていこうというハト派の意見は、「我慢できるか」「ふざんけんじゃない」「トコトンやったれ」というタカ派的な意見に押されがちです。
なんでタカ派的意見が通り易いかというと、これは色々理由があります。@とりあえず生の感情をストレートに爆発させるので気持ちがいい、A話がシンプルで理解し易い、B男らしく毅然としているように見える、C大体タカ派的意見をいう人は、肉体的にも頑健で声の大きい人が多いので、議論をしているとフィジカルに勝ってしまう、、、などが挙げられるでしょう。
そして、タカ派的意見が主導権をもって戦争を続行していくと、まあ、十中八九泥沼化するか、大敗北を喫することになります。タカ派的意見の最大の欠点は、緻密さに欠けるというか、戦略としておよそ出来が悪いというか、要するに「頭が悪い」わけです。弁護士は通常「軍師」のような形で参戦しますが、自陣営内部のこういうタカ派的な「困ったちゃん」の扱いに苦慮することになります。こいつらを抑えきれないとマトモに喧嘩も出来ませんから、弁護士にはライブの議論の場でタカ派連中を制圧するだけの力量が要求されます。それはまあ個々人の個性でして、タカ派以上にデカい声と肉体的迫力で沈黙させる人もいるし、物静かなんだけどカミソリのような理論ですっぱり切り裂いたりする人もいます。そこは人それぞれ。でも、難儀な話であります。これは別に弁護士でなくても、学校の部活でも、会社でも、親族会議でも何でもいいですけど、ある程度集団を率いた経験のある人だったらわかっていただけると思います。
タカ派的主張は、これまた古今東西いたるところにあります。人間が二人以上いたら、絶対タカ派はいる。もっといえば、人間の思考には、タカ派的回路とハト派的回路の二つがあって、同じ人間でも時と場合によって回路が違ったりします。
タカ派的主張の例としては、例えば北朝鮮がうざったい事を言ってるからガンガン締め上げたらんかいと言ったり、青少年の非行が多くなったら厳罰をもってビシバシ取り締まらんかいと言ったり、アメリカが難癖をつけてきたら毅然としてNOと言わんかいとか、暴力団犯罪があったら徹底的に取り締まって暴力団を壊滅させよとか、まあ、そんなところでしょう。
面倒なのは、それ自体としては正しい部分も含むということです。交渉ごとや、問題解決には、常にソフトオプションとハードオプションがあります。「なだめたり」「すかしたり」という奴です。料理でいえば甘辛味みたいなもので、醤油も必要だし、砂糖も必要。だから、辛口だからダメってことではなく、辛口も必要なんだけど、辛口一辺倒がダメなんですね。だから、大事なのは兼ね合いであり、バランスであり、レシピーなんだけど、これが一筋縄では分からない。そんなレシピーがすっと分かれば苦労しないし、最初から問題になってないです。
全面的に間違っているなら反論するのも簡単だし、同じくらいの力強さでバシッと言い返すこともできるのだけど、「レシピーが大事」というのは、いかにも迫力にかけるし、力強くならない。シンプル対複雑だったら、どうしてもシンプル有利ですよね、分かり易いもん。
物事と言うのは、視野を狭く限定して、因果関係も限定して、そこだけ見るようにすればするほど分かり易くなるように思います。
例えば、犯罪が増えたら厳罰をもってビシビシ取り締まればいいという意見がありますよね。部分的には正しいけど、ビシビシ取り締まるためには、警察官の増員も必要だし、質の向上も必要でしょう。だから人員増加分の金がかかりますから、単純に言えば増税しましょうということになります。また警察官も、数だけ増えても質が悪かったら意味がないし、警察内部の腐敗が益々進行するということもありえるでしょう。そんなことするくらいだったら、キャリアVSノンキャリや、「踊る大捜査線」のように本庁VS所轄といった、警察官僚機構の悪しき弊害を除去し、機能的な集団にした方が効率がいいかもしれない。
それに、量刑に関しては、統計上は刑罰を重くしたからといって犯罪が減ったという実例は世界的にも少ないです。死刑を復活/廃止しても犯罪発生率は変わらんという事例が多い。だから死刑というのはあんまり犯罪防止には役に立たんということで、そのあたりはドライに割り切るプラグマティックな西欧諸国では多くが死刑廃止にしているわけです。オーストラリアも廃止してるし、復活させようという議論はほぼ無いです。一部の情緒的な傾向が強い国民性の国、つまりは日本とアメリカでは残ってますが、実際死刑の効能は「悪い奴を死刑にしてスッとする」くらいしかないです。それに、重罰化して効果があるのは、交通違反の罰則(飲酒運転40万円のように)のようなケースで、つまりはもともとカタギさんの起こす犯罪くらいです。冷静に損得を考えられる人の犯すクールな犯罪。最初から半ば職業的な犯罪者(暴力団や暴走族など)にはあんまり効果ないです。それに、殺人などの重大事犯になればなるほど、実行時に理性的な抑制力がないですからそんな刑罰なんか先のことまで考えてないです。また、横領その他の経済事犯、贈収賄や汚職などは「絶対にバレない」というのが動機であるのが普通ですから、これまたバレたあとの刑罰なんかあんまり考えない。それにバレたときは、刑罰以上に厳しい社会的制裁がある(クビになるとか、落選するとか)。
「暴力団をビシバシ取り締まろう」というのも同じです。総論としては僕も賛成ですよ。ただ、暴力団を「壊滅」というけど、それってどういう状態のことをいうのか?犯罪組織としての○○組という組織を潰して、解散声明を出させればいいのか?でもね、日本の人口1億人おったら、10万人くらいは職業的犯罪者になりますよ。予備軍がその10倍くらい。人口比率の問題として、どうしてもそのくらいのボリュームで常習的に犯罪を犯す人が出てきてしまう。何故だと思いますか?生来的犯罪者のように、生物学的要因もあるでしょうけど(生来的に粗暴性が強く、犯罪に対する忌避感が少ないとか)、それ以上に社会的要因があるでしょう。つまりは、万人が平等で、全ての人が幸福になれるような理想的な社会をまだ僕らが作ってないからです。100人おったら、1000人おったら、1万人おったら、一人くらいはこの社会のシステムに従っていても全然楽しくない、それどころか自我が殺されてしまうと思う人も出てくるでしょう。
例えば、生まれながらに差別されたり、イジメられたりしてきた人、そしてその不正を訴えても誰も何にもしてくれないようなエアポケットのようなところにハマリこんでしまった人というのは不可避的に出てくるでしょう。その悔しさを肥やしにして逞しく成長していく立派な人も沢山います。でも、その人が気が弱かったり、力が弱かったりしたら、自己嫌悪と自己卑下を抱えて生きていくことにもなるでしょう。これ自体が悲劇ですけど、こういう話は残念ながら沢山あるでしょう。否定はできないですよ。そして、たまたまその人が腕力が強かったり、気が強かったりしたら、こういった社会に反発するでしょうよ。やってもいない濡れ衣を着せられて、「こんなことするのはお前みたいなゴミに決まってる」などと、「人間として絶対に言ってはいけないこと」を言うアホな教師もまた人口一億いたらいくらかは実在するでしょう。その場合、その教師を思わず殴ってしまう人が絶対居ないとは言えない。将来的にもゼロになるという社会はまだ築けていないでしょう?かくして不可避的に反社会的な立場に立ってしまう人間が、常に常に一定の割合で出てくる。彼らが人がかましく生きていこうとしたら、一般社会のルールとは違うルールでやっていこうとするでしょう。その全てとは言わないけど、一部には法に抵触するような生き方になっていくでしょう。
光があれば影ができるように、人間集団には不可避的に主流派と反主流派が生まれます。反主流派の向かうベクトルは、それは時代や社会の環境によってマチマチですが、主流派に面と向かって反抗する場合、あるときは主流派の驕りとウミを正す正義の集団になるかもしれないが、あるときは反政府ゲリラになり、その行動方針がタカ派的にシフトすればテロになる。主流派に反抗せずに裏に廻って共存を図る場合、それは秘密結社化し、ある場合には犯罪集団になってみたり、あるいはウィルスのように主流派の中に浸透し体制内のガン細胞のようになる。このように暴力団がそこにある以上、それを生み出す社会的生理や力学があります。地震はなぜ起こるのか、なぜ潮の満ち干きがあるのかと同じように、ある種の自然法則が働くのだと思います。
こういう全体の状況を見ずに、暴力団だけ壊滅させてみても、つまりは全ての暴力団に解散声明を出させてみても(警察と自衛隊の連合軍が本気で攻撃すればそれは可能でしょう)、この世から暴力団的な犯罪行為が消えてなくなるわけではない。エネルギー保存の法則のとおりに、なにかをしでかすエネルギーは存在していますから。ただ、そのエネルギーを分かり易くまとめておく「入れ物」を壊しただけともいえます。入れ物を壊せば、内容物は世に散らばります。組織の鉄の統制が無くなった分、より収集がつかなくなるかもしれない。
また、司法警察の日常的な捜査現場においては、暴力組織からの情報収集が貴重な捜査情報になる例は多いです。外国人の窃盗集団がいれば、彼らも趣味で盗んでるだけではないので、必ずそれを利潤化する。つまり、盗んだものを換金したり、国外に搬送したりするわけで、そのあたりの贓品ルートの情報や闇運輸の情報が捜査の切り込み口になるでしょうが、そんなもん、普通に聞いて廻ってたって出てこないでしょう。今、裏社会で誰がどこでどんなことをしているか、リアルタイムの情報というのは、同じく裏社会に生息している人間から聞き出してこないとならない。既存の暴力組織が新興組織を潰すために警察と結託するケースは、これはありうると思います。そのために、捜査の現場においては、警察官と暴力組織との間に日常的ななんらかの「つきあい」が生じ、それが大きな弊害を生んでいるとしても、同時に検挙率を高めること要因として働いている面はある。
別に僕は暴力団を擁護しているわけでも、警察との癒着を弁護しているわけでもないです。むしろ、普通の人以上に忌避したり、あんなもん皆ぶっ潰してしまえと思ってる方だと思います。そうであったとしても、潰してそれで済むほど簡単な話ではないということを言いたいわけです。つまり、視野を短く狭く限定すれば、暴力団が悪いことをする→じゃあぶっ潰せと話はシンプルになって分かり易いのですが、それに伴う副作用というのものもあり、視野をもっとロングレンジに広く長くしてモノを考えないととんでもないことになるよと言いたいわけです。
このようにショートサイトの解決は簡単なのですが、いざ実行してみたら、思いもよらない方面からもっと巨大な反作用が生じて困ったことになる、、というケースは沢山あります。治山治水は大事ですし、クリーンエネルギーとしての水力発電は大事だとしても、やたら護岸工事を施し、ダムを作りまくり、河口堰をガンガン建設してしまうと、もっと巨大な環境生態系というものが破壊されてしまう。取り合えず餓えたくないので生産に励む、国際競争力をつけるためにどんどん工業化すると、今度は公害が生じ、貴重な生命身体が蝕まれる。規制立法を施し、技術革新に励んで、やれやれ奇麗な河川が戻ってきたと思うと、今度は地球の温暖化を招き、オゾンを破壊してオゾンホールを生み、結果的にオーストラリアにはものすごい紫外線が降り注ぐようになる。1のものを解決しようとすると、今度は10倍くらい巨大な範囲の問題が生じる。ある病気に効くという薬を投薬しつづけていると、今度は身体のどこかにそれ以上悲惨な副作用が発生するようなものです。
思うのですが、一部分だけ変えるということは出来ないのだろうな、と。
物事と言うのは全体で一つのバランスが出来ているのであり、たとえそれがほんの一部であろうとも、そこをいじくるとその結果は徐々に全体に波及する。巨大な壁のレンガ一つを除去した場合、すぐにはその効果は現れないけど、あるべきレンガ一つ無くなっただけの構造上の負荷はジリジリと全体にひろがり、やがては全体の強度を蝕む。そういえば、歯の噛み合わせが悪いとか、左右の足のバランスが悪いと肩こりを生むとかいう話がありますよね。歯の噛みあわせが悪いと、身体の左右のバランスが微妙に損なわれる。損なわれた分、必ずどこかの筋肉に不必要な負荷がかかる。そのアンバランスは、身体全体に波及し、身体に無理な負担がかかる歩き方、座り方、寝方になって現れ、さらにそれが長期にわたることによって、身体のフレームが変わり、絶対に解消しない肩凝りを生み、老化にともない内臓疾患などにもつながっていくという。
テンポが非常にゆっくりして、範囲が異様に広いからなかなか気づきにくいけど、大きなドミノ倒しやビリヤードをやってるようなものなのでしょう。あるエネルギーの移動は、必ず他のエネルギーに変化を及ぼし、その変化は永遠に続くという。
それゆえに、「短期は損気」といいますか、ショートサイトの対症療法を繰り返していても意味がないし、もっと悲惨な結果を招くということを頭に入れて動かないとならないのでしょう。ヘボ将棋のように、角道が開いたらいきなり飛び込んでいくようなことをしてたら、いずれニッチもサッチもいかなくなってしまう。一つのことを行うとき、必ず全体のバランスに気を配って次の一手を模索しなくてはならない。
まあ、こういってしまえば簡単なことですけど、実際に実行に移すとなるとやたら難しいです。
とりあえず集団内部のタカ派的意見を説得できないですよね。「全体を考えて慎重に行動しよう」というのは、主張として正しくても、迫力がないし、具体性もないし、複雑すぎて理解しにくい。「何、悠長なこといってんだ」と言われてしまいます。
皆が冷静に、ゆったりした時間のなかで物事を考えているのでしたら、まだしもそういった緻密な議論が生じる余地はあります。だけど、皆がある物事について議論するような場合というのは、とりあえず何か事件が起こって、それも耐えがたいような不快感を生じさせるような出来事が起きて、なんとかしなきゃって話し合ってるような場合だと思います。水道の蛇口が壊れて、水がジャージャー漏れているような、とりあえずこの現状が不快で溜まらん、一刻も早く除去したいって。大体皆さんイライラしてますから、即効性を求めます。クィック・フィックスですね。ちょうどオシッコを我慢しているときに、全体の配管を考えてトイレを建設しましょうと言われてるようなもので、「なにを悠長なことを抜かしとんねん!」という気になりますよね。
もともとが生理的な不快感を前提に議論しているわけですから、どうしても生理的に快感をもたらす解決を求める。もう構造的に情緒優先になるわけです。ですので、複雑で緻密な思考なんかやってられる精神状態でもないし、その気もない。例えば、青少年の犯したショッキングな犯罪が報道されたら、そういった事態に生理的な不快感=つまりは、犯行をおかした当事者や親や学校への怒り
にかられて、あれこれ議論するわけです。「こんな不届きな野郎は叩き殺してしまえ」という、非常に「気持ちのいい」解決に向かいます。
逆にいえば、「気持ち悪い」というところが議論の出発点になっているような場合は、もう構造的、宿命的に、その議論はスカタンになるべく運命付けられているともいえます。もっと言えば、今は別に不快でもないし、ゆっくり考えることが出来るという精神状態のときに議論しなきゃいけない。でも、大抵忙しいですから、そんなことをやってられる余裕もない。「なぜ、今、これを論じなければならないのだ?」って。でも本当は、「なぜ、今?」という気がするくらいの段階でやるべきなんでしょうけどね。実際には、ショッキングな事件が起きて、世論が沸騰するということの繰り返しです。当局としてはどうするかというと、世論が静まるのを待つわけで、人の噂も75日ですからね、すぐに皆さん忘れる。例えば、その昔に、学校で校門圧死事件というのがありましたが、あのときもショッキングでしたが、あのときの新鮮な怒りを今もなお持続させている人って少ないと思いますよ。もうすっかり忘れてたでしょ?
物事を解決するのは、結局のところ、誰でも知ってるような、オーソドックスな王道しかないのだと思います。大きな戦略としては、もうそれしかないでしょう。もちろん、局所的、戦術的には、ショックを与えたり意識覚醒を目的とした奇手奇策というのもありうるでしょうけど、大きく言えば、まっとーなことを地道にやっていくしかない。
例えば犯罪を減らして治安の良い社会を作ろうと思ったら、犯罪を生み出すような社会の亀裂や軋み(きしみ)を出来るだけ減らしていきましょうということになる。皆がまっとーに生きていける世の中にしたら、犯罪という経済的にワリが悪く、快感度も総合的には乏しいことなんかそうそうやらなくなります。と言うか、犯罪の方がワリが悪い、楽しくないと自然に思えるような社会にしていくしかないです。
そのための第一歩、原始的なレベルにおいては、まずもって生産でしょう。10人いるけど、5人分しか食料がないという絶対的に餓えている社会においては、食料をめぐって争奪戦が繰り広げられるでしょう。他人を蹴落としてでも食料を奪い、生命を維持しようとする。そこでは他人を蹴落とす行為、極端にいえば殺すような行為も、それが「犯罪」とすら思われもしないでしょう。自分が餓死しようとも他人の幸せを考えるなんて人間そこまで立派じゃないから期待すべきでもないでしょう。もちろんそういう立派な人はいます。いますけど、スタンダードにはならない。だったらどうしたらいいかというと、根本的には10人とも満腹になるくらい生産量を増やすというのが解決になるでしょう。戦後の闇市の頃、謹厳に配給品だけ食べて餓死した裁判官の話は何度もしてますが、ああいう時代には、犯罪(食料統制法違反)を犯さないと生きていけないから、誰でも犯罪を犯す。というよりも、それを犯罪とすら思わない。それを直すには、まずもって生産。
次に何が出てくるかというと、つまりはマズローの欲求段階説のように、生理的欲求→安全欲求→愛と所属の欲求→承認と尊重の欲求→自己承認・自己尊重→自己実現→超越と連なっていくのでしょう。とりあえずおなかが一杯になったら、今度は安心して暮らしていきたいという欲求が出て、さらに自分を愛し、自分を仲間にいれてくれる人間集団を求め、そこで認められ、周囲に認められることで自分自身を認めることができ、その認めた自己を思う存分発揮し、、、、ということですね。
万人全てがこの欲求を全て満たされるような理想的な世の中というのは、 天国でも行かない限りないかもしれないのですが、方向性としてはそうだということです。欲求が満たされない場合、問題なのは、その満たされなさのスタイルであり、将来満たされるようになるかどうかの希望でしょう。例えば、ある学校に進学できないとか、会社に就職できないという満たされない事態が生じた場合、その理由が、単純に理不尽な差別であったりしてはいけないということです。ダメだった理由が、実力不足だとするなら、理不尽にワリうを食ったという恨みもないだろうし、もっと頑張れば合格するかもしれないという希望に通じますから問題は少ない。
だから、結局、言葉に出していうのも恥ずかしいくらいまっとーなこと、つまりは「公平で公正な世の中」にすること、これが王道だし、これしかないでしょう。少しでも理不尽なことを減らすことでしょう。
ただ、今の日本では(に限らず他の先進諸国でも似たようなものだけど)、生理的欲求や安全欲求という基本的レベルにおいて、まだまだ改善の余地があると思うし、むしろ安全欲求などは前よりも悪くなっているかもしれません。生理的欲求にしても、食べ物に関してはとりあえず飽食日本ですから餓えて死ぬという量的な問題は少ないですし、質においても比較的日本人はイイモノ食べてるとは思います。しかし、他の生理的欲求、住環境とか生活環境に関して言えば、大都市を中心としてまだまだ改善の余地があるでしょう。大都会はそれなりにエキサイティングですし、「眠らない街」の楽しさはあります。それが好きだって人も沢山いるとは思いますが、みながそういうわけではない。もっと緑が多く、のんびりした環境に住みたいという人もまた沢山いるでしょう。現在のシドニーは日本に負けず劣らずアクセクした環境になりつつありますが、それでもまだ全体にスカスカ感というかのんびり感が漂うのは、やっぱり自然環境に恵まれている部分が大きいと思います。夏のクソ暑い時期でも、虫の音を聞きながら、山の涼気や潮風にふかれながら毎晩ぐっすり眠れていたら、もう少し皆さん我慢強くなり、キレる回数も減り、子供や部下や友人に理不尽に当り散らして、その反作用で誰かの人格を歪ませて、「生きてても楽しくない」という状況を相互作用で徐々に増やしていくということも減るでしょう。
こういった住環境の改善は、地方分権に伴う一極集中の是正や、分散して住めるように地域産業の振興などを通じてまだまだ改善する余地は多いでしょう。かくして、19世紀にドイツのリストという学者が言った名言「最良の刑事政策は最良は社会政策である」というのは、今もなお生きていると思います。そして、最良の社会政策は、最良の経済政策とリンクしています。さらにまた、これら最良の政策を講じることが出来るようになるためには、より良い政治・官僚機構が必要であり、良い政治機構を作るためには、主権者たる国民のレベルが相対的にアップしないとならないことになり、さらに皆のレベルがあがるためには、やっぱり日常的に少しでも質のいい議論をすることであり、あるいは「世の中捨てたもんじゃないな」という気分にお互いがなれるようにやっていくことだと思います。
こういったことは細かく分解してしまえば、別に不可能なことでもないです。でも、それは「千里の道も一歩から」といっているのと同じで、一歩は、それは簡単だけど、一歩は一歩でしょ?という空しさにもつながります。ちょっとやそっとやったくらいでは実効性がないという。でも、悪い影響のドミノ倒しがあるのだとすれば、良い影響のドミノ倒しもまた存在すると思うのですね。悪いことと、良いこと、それぞれのドミノ倒しが、この社会全体に何億という回路を走り回っているのでしょう。そして、総体としてどちらが優勢になるかということなのでしょう。ですので、結局はこの空しさとの戦いというか、自分のところに廻って倒れこんできたドミノを、自分のところでどっちの方向に蹴るかなのでしょう。この日本列島で皆で何億という数のボールで同時にサッカーをやってるようなもので、毎日何回か、何十回か、自分のところにボールが廻ってくるでしょう。それをどっちに蹴るか、それが戦いだと思います。
話を戻して、タカ派的な主張ですが、別になんでもかんでもタカ派的な強硬策がダメだと言ってるわけではないです。大局的な戦略観から、場合によっては、断じて行うべしという場面もまたあるでしょう。それは否定しないし、それが大事なことであることも分かります。ただ、それは本当に時と場合によるのであり、その時と場合を選択するためには、全体を鳥瞰する視点というのが不可避であるということです。短絡的、反射的な報復行動、英語でいえば、knee jerk reactionとか tit -for- tatとか言いますが、それであってはならない。
ならないんだけど、残念ながら、現実にはそうなってしまうことが多いです。 kree jerk reaction、膝外腱反射、つまり膝小僧を叩くと足がピョンと上がってしまうアレですけど、あんな感じにピョンと反応してしまう。特に、予想もしなかったときに、予想を上回る強さで叩かれたら、あれこれ思うヒマもないまま足が反応してしまうでしょう。911テロなどは、まさに巨大な一発だったわけで、もうとにかくテロリスト憎しで足を上げないとならなかった。強烈な集団的生理、国家的生理で、拳を振り上げ、どこかに下ろさないとならない。最初にアフガニスタンに下ろし、それでもまだ収まらないから、フセインのイラクに下ろしましょうということでしょ。もちろん、これを機会に色々なことを考え、画策していた勢力というのはいるでしょうけど、民衆がそれを支持したというのは、出発点が強烈に感情的なものだっただけに、ともかくも大きな感情開放を必要としたのかもしれません。
そして、この場合全体を見ましょうとか、もっと建設的な対応策をと呼びかけても悠長な議論に聞こえるでしょう。カウンターパワーとしては、「とにかく戦争はイケナイ」という反戦論が世界中に広がりました。しかし、なかなか全体が見えなかったし、今でも見えていないと思います。僕も分からない。そもそも、本来がキリスト教ほど戦闘的ではないイスラム教で、ほんの一部とはいえ過激な原理主義者が「なんであそこまで怒ってるんだ?」ということがよく見えない。あれを、狂信的で狂った連中なんだと決め付けてしまうのはたやすいことではあるのだけど、あれだけの人数が持続的に狂いつづけていると考えるのも無理があります。彼らがアメリカや西側に対して怒っている理由は、「悪魔であるアメリカにアラーの神の鉄槌を下す」という身内内部の特殊な文法でしか言わないから、身内でない僕らにはよくわからない。
実際の刑事裁判でもそうですし、映画や小説でもそうですが、「どこから見始めるか」で正義と悪が簡単に入れ替わってしまうことが多いです。直近の出来事だけ、つまりAがBを殴りましたという出来事だけみてたら、Aが悪くBは被害者です。それは簡単。でも、もう少し前から出来事を追っていくと、Bは、奸智をめぐらせAの家業をのっとり、Aの妹を仲間と輪姦して殺していたのかもしれない。怒り心頭に発したAがBを問い詰め、殴ったのかもしれません。全体的にみれば、Bの方が圧倒的に悪い。しかし、さらに遡ってみていくと、そもそもBをしてそういう悪どい行為に追い詰めたのは、実はやっぱりAで、もっと酷いことをBにしていて、Bは恨みを晴らすべく長い年月をかけて周到に準備していたのかもしれない。
同じように911テロから見始めたら、誰がなんといってもテログループが弁明の余地なく悪く、これを叩き潰すのは正義の戦いだということになるでしょうけど、数年前、50年前、200年前から見始めていったら、また違う感想を抱くかもしれません。
しかし、このようにじっくり物事を見極めていくのは、それ相応の忍耐力が必要です。感情にとらわれてカッカしてたら、ものもロクに考えられないでしょう。とりあえず不快感から出発した議論は、なによりも感情開放を求めます。ようするに「一刻も早くスッとしたい」ということで、ハリウッド映画のように、ドカーン、バシッ、ドガガガガガ!という解決に向かってしまいがちだということです。
それだけだったら、騒ぎたい奴が騒いでいればいいのだけど、正しくもじっくり物事を考えている人々のことを、非難し始めるわけですね。これが問題。やれ、弱腰だの、偽善者だの、アカだのなんだの言い出すわけです。英語世界でも、do-gooderだの、PC(political correctness)だのいう言葉があり、オーストラリアでもアメリカ追随して参戦するにあたって、国内を二分してそういう議論がありました。この場合、タカ派的な意見というのは、非常にわかりやすい。「悪い奴が目の前で悪いことをしているのに、何もしないのはおかしい」とね。
こういう議論、この種の性癖というのは、どんどん子供じみてきて、自分が気に食わないことが周囲にあると、なんでも相手が悪いんだという感じになっていきがちです。そして、どんどん議論が雑になってくる。日本においては、なにかあると戦後民主主義が持ち出されてサンドバックのように叩かれる、諸悪の根源は日教組だみたいな言い方になる。外国人犯罪が多くなったら、そのうち「鎖国しろ」みたいなこという馬鹿も出てくるでしょう。でもって、言われた方はイヤーな感じになるし、反発もする。どんどん関係が険悪になっていく。社会が悪いとか、誰かが悪いとか言う前に、お前が一番悪いじゃんという気にもなる。
オーストラリアで、ポピュリズム的傾向のある、”マッチョ”なことをプロパガンダする、ラジオDJの帝王のようなアラン・ジョーンズというおっさんがいますが、ラジオで聞いてるとムカムカしてきます。イラク攻撃も断固支持だし。例えば、「オーストラリアは移民の国だし、多くの人が移民したり観光や留学でオーストラリアに来るのは大歓迎だ。だけど、他人の国に来る以上、最低限その国の言葉くらいは覚えて来て欲しい。特にアジア人。もっと英語できるようになってから来い。もう俺たちはお前達に何度も何度も同じことを繰り返して言うのに飽き飽きしているんだ。別に難しい注文じゃないだろう?この国では世界中から人がきてて、みな英語を勉強して喋れるようになっているんだ。お前達だけだぞ、英語がろくすっぽ出来なくて皆に迷惑かけてるのは。いい加減にしろよ」とかなんとか。そして、じゃあオーストラリア人が日本や中国に行ったら日本語や中国語喋ってるのか?というと喋ってないじゃないかという反論が来ると、「英語はいいんだよ。英語はなんたって世界の共通言語なんだから、公用語なんだよ。だからどこいったって英語喋ってて通じるようになるべきなんだ。通じない現地の方が悪いんだ」みたいなことを言う。別に彼が実際にこう言ったわけではないのだけど、それに近いニュアンスのことは何度か言ってるのを聞いたことがあります。
ね、ムカつくでしょ。なにいい気なこと抜かしてやんでえ、って江戸っ子的に啖呵の一つも切りたくなります。でもね、こういうこと言う人って、言ってる時はすごい気持ちいいんだろうなって気もするのですよ。「そういうことは言っちゃいけない」ことになっているから、普段は言わないけど、「マルチカルチャリズム?冗談じゃねえや」って思ってる奴もいるでしょうし、「言っちゃいけないことになっている」というPolitical Correctnessに反発を感じてる人もいるでしょう。そういう人は、こういういわゆる「辛口の意見」を聞いて快哉を叫ぶのでしょう。同じようなレベルの低い議論は、日本でもどこでも沢山あります。でも、実際に自分が言われてみたら、いかにムチャクチャな議論なのかが良く分かると思います。
僕はいわゆる「辛口の意見」というもの、そういう看板を掲げているものをあまり信じない方です。なぜって、「辛口」なのは言われる側にとっての話で、言う側にとってはめちゃくちゃ「甘口」だったりする場合が多いからです。自分は絶対に非難されないような場所に立って、他人をボロカス言うという姿勢そのものが卑怯だし、ガキだなって思う。「同じことを何度も繰り返して言うのにうんざりしてる」ってのは、確かにそういう側面もあるだろうけど、そんなこと言われたらこういい返すべきでしょう。「そのくらい我慢しろ」と。だって、それはもう世界中の人がやってきていることで成り立ってる国の宿命みたいなもんで、それで多くのいい思いをしてるんだから、そのくらい我慢したってバチは当らんぞ。
マッチョで、タカ派的な意見に傾くときは、誰しも知らず知らずのうちに「他人に辛く、自分に甘く」なっているだろうから、この種の意見に対する反論の骨子は、「甘ったれんじゃねえ」ってことだと思います。
文責:田村
★→APLaCのトップに戻る
バックナンバーはここ