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今週の1枚(04.07.12)
ESSAY 165/こんなに我慢しているのに、我慢強くならないのはなぜ?
頭の中には、いろいろとエッセイのネタはあるのですが、なかなか上手いこと一本にまとまってくれません。例えば、ある問題意識はあるのだけど、それを皆さんにわかりやすく提示することが出来ない。それは、「あーなって、こーなって、だからこうなるはずで、だったらこうなるから、、」と考えていった上で「こうなんちゃうか?」というお話なのだけど、そこに辿りつくまでものすごく紙数がかかってしまう。はたまた、何かひっかかる断片的な疑問はあるのだけど、なにやら途方もなく巨大そうで、何をどこから書いたらいいのか途方に暮れてしまうことであったり。
あんまり溜め込んでいても仕方ないので、今回は、それら断片を覚書のように書いておきます。あまり、エンターティメントにならないかもしれないけど。
今の日本の(あるいは世界のといってもいいか) 人々は、昔に比べれば比較にならないくらい豊かな生活をしているハズなのですが、同時に前よりも沢山の我慢を強いられているような気がします。
一昔前のことを考えると、さしあたって餓死する心配はしなくてもいいし、いきなり徴兵されて地獄への片道切符を貰ってしまうという恐怖は無いし、東京から大阪まで夜行列車の固い座席で14時間も座らなくてもいいし、長距離電話をかけるために十円玉を山ほど積んでマシンガンのように連続投入しなくてもいいし、手作業で洗濯したり食器洗ってアカギレに悩まなくてもいいし、テレビにはリモコンがあるし、結婚でも親がNOと言ったらあとは駆落ちか心中しかなかったのが当たり前のように出来ちゃった婚をするし、、それを考えたら、生活は便利に豊かになりました。それに伴って、じっと我慢しなきゃならないことも激減したハズです。
にも関わらずココロの中の忍耐による不快度数が高まってるというか、あんまり楽しくない。失業率は多少改善したとはいえ、「よっしゃあ!」という感じにはならない。仮に就職できたとしても、先々安泰というものでもない。年金はどうなるかわからない。日本の経済や社会も、いずれは再び輝くだろう、とは安易に信じられない。世相的にも、心温まる話よりも、ココロが寒くなる話の方が多い。それも「おい、どうなってるんだ」と言いたくなるような、背筋が寒くなる話が多い。通勤距離も時間もさして縮まっていないし、税金も安くならない。
そういった社会世相だけの話ではなく、なんと言うのか、もっと全体的に目に見えないところで我慢が増えているように思います。社会が生活が便利に豊かになった分だけ、「やっちゃいけない」ことが増えた。昔は「やりたくても出来ない」我慢だったのですが、それは確かに減ったけど、その分「やれるけどやっちゃいけない」ことが増えた。例えば言えば、そうですね、親戚の裕福なオジサンの家に遊びにいって、そこでは部屋の中は暖房が効いてて温かいし、ご馳走を並べてくれるし、大きなTVもあるし、人々は上品で優しいのだけど、そのなかで膝を崩さず正座して、「○○クンは、いくつになったのかな」「はい、8歳です」とか、「良い子」をやってないといけないようなスチュエーションのような感じ。それに対して、近所の悪ガキと原っぱを走り回っているようなスチェーションもあるわけです。外は寒かったり、暑かったり、温かいココアも冷たい麦茶も出ないし、買い食いしようにもお金もないし、TVも何もないし、悪ガキ同士で取っ組み合いの喧嘩したりするし、ドブにはまったり、ガケから飛び降りて足をくじいたりしてます。何にもないけど、正座はしなくていいし、「よい子」にならなくてもいいという”スチュエーションB”。これが昔の社会だとしたら、オジサンの家のスチュエーションAは現在です。豊かなんだけど、いまいち楽しくないという。なんか我慢しなきゃいけないことが増えたような気がする。
昔は、もっと社会も人生も荒っぽかったのでしょう。それに伴った悲惨なことや忍従を強いられることも多々あったのですが、同時に自分自身の行動も荒っぽくてよかったし、自由なテリトリーは意外に広かったのかもしれません。失業は昔からあったけど、そんなの当たり前だった。「包丁一本サラシに巻いて」という生き方、同業種内転職、いわゆる職業横転率は昔の方が高かった。「田舎に帰って百姓でもやるか」という選択肢もあった。結婚制度、家制度はあったけど、離婚はあったし、子供産まなかったら追い返されたから身分変動は実は結構いろいろあった。養子縁組なんかザラだった。新生児の死亡率は比較にならないくらい高く、赤ん坊は死んで当たり前という雰囲気もあったし、成長した子供もよくコエダメにはまったり、近所の沼で死んでいた。親の管理不行き届きなんてこともそんなに言われなかった。学校ではビシバシ先生がブン殴っていたし、イジメも普通にあったけど、取っ組み合いの喧嘩は今の数倍あった。気に食わない奴がいたら、皆で示し合わせてシカトするなんてシチ面倒くさいことしなくて、とりあえず喧嘩売って、殴りかかってれば良かった。荒っぽいけど、同時に、そんなに皆さん「良い子」でなくてもよかった。
今は沢山の決め事があって、それを守った良い子であることが必要です。就職でも、やれキャリアがどうのとか、将来設計がどうのと考えなければならないし、皆に説明がつくような体裁の良さが必要。「オマンマ食えたら御の字ですわ」みたいなラフな戦略は許されない。子育てでも、英才教育がどうのとか、健康にいい食べ物を考えなきゃならないし、友達付き合いも気を使うし。ねえ、なんか我慢しなきゃいけないことが増えたような気がします。皆さん、ガマンしてます。改めて考えると「スゴイなー」と思うくらい、よく辛抱しておられると思う。
さて、問題は、これだけあれこれ頭をめぐらせて、良い子になって我慢しまくっているのだけど、でも、あーんまり我慢強くなっていないんじゃないか?ということです。むしろ我慢”弱く”なっているのではないか、そんな気がします。おかしいじゃないか。普通、我慢を続けていたら、我慢強くなったりするんじゃないのか。なぜだ。
我慢強さというのは、ストレスに対する耐性の高さ=イヤなことがあっても平常心を失わない強さだと思うのですが、最近はすぐにキレる人が多くなってきているようなので、むしろストレスに弱くなっているような気もします。すぐにキレるというのは、別に犯罪に走るとか、取り乱したり、滅茶苦茶になったり、壊れちゃったりすることだけではないです。もっとその前提として、「トライもせずに、すぐに諦めてしまう」という症状があります。「キレる」という糸がプツンと切れるような表現とはちょっと違うけど、「最初から糸がキレている」というか。
例えば、成功率50対50でどっちに転ぶかわからないような事をする場合、「どうなるかわからない」という不安ストレスがかかります。「それでもいい」と思ってチャレンジできる人は、この不安ストレスを受け止められる人です。でも、このストレスを我慢する力のない人は、「だったらやめよか」と思う。日本の人って、この不安ストレスへの耐性が弱くなってるような気がします。イチから十までお膳立て整えてもらって、絶対大丈夫とならないとやりたがらない。十中八九大丈夫となっても、残りの10、20%に目がいってしまって、躊躇ってしまう。安心したい。安全なところにいたい。不安のままにいたくないという。これも一種の「キレて」いる状態だと思います。
物事Aと物事Bとを辛抱強く糸と結んで、有機的に連動するように仕組んでおく。こういうつなぎ合わせを張り巡らせて、人生なり生活なりのシカケを作っておくのだけど、辛抱が足りないと糸がキレてしまう。だからバラバラになってしまう。でも、最初から結びつけようという根気がなかったら、切れる以前に何もない。生きていくためのシカケが作れていない。ある意味ではもっと重症ともいえます。
何度も話に出てますが、海外に行くとなると治安がどうのって話になります。しかし、「恐がりすぎ」って部分も大いにあります。治安に対する不安は、日本にいようがどこにいようが、人里離れた魔境や宇宙空間にでもいかない限り、絶対についていまわります。ゼロにはならない。だから治安問題は、どこまでいっても程度問題であり、緻密にどの程度で危ないか、ではどうするかを丁寧に測っていくアナログ的な作業だと僕は思っています。決して、「あそこは危なく、ここは安全」というデジタル的なオンオフの話ではない。でも、それが出来ない人がいるし、その比率はむしろ増えているのかなという気もします。
よくワーホリや留学でオーストラリアに行くときに、「まさかのための」現地サポート料として、途方もない高額のフィーを払っている人がいます。中東とか南米の危ないエリアにいくならともかくオーストラリアでしょう?また、一昔前だったらまだしも、年間1万人も日本人ワーホリが来ていて、個人旅行もこんなに盛んで、幾らでも基本的な情報は入るだろうに、「それでもまだ恐いか?」という気もします。僕も似たような仕事(学校入学サポート)をしていて、同じような現地サポートもやってますけど、事実上無料です。だって、そんなにやるような出来事ってないもん。皆さんこっちに来たら逞しくなるし、現地の人々もスレてなくて善人度高いし、日本よりも住み易いという人が多いようなところで、サポートもなにもないですもん。それに、サポートといっても限界あります。車に轢かれたからといって、僕が手術するわけじゃないし、盗難にあったからといって、僕が捜査するわけでもない。病院に行けば?警察に行けば?と”アドバイス”してあげるくらいでしょ?出来ることといったら。そんなもんのために何十万円も払うか?
そのあたり、ちょっと詰めて考えたみたらわかりそうなものだと思うのですけど、考えないのでしょうか。ちょっと不思議な気もします。でも、これも、角度を変えてみたら、我慢”弱く”なっていることのイチ症状ではないのか。不安のままにいるのが耐えられないのか、「万が一」が気になって仕方がないのか。物事を整理して、自分の頭で、ひとつひとつ丁寧に考えていけばいいだけなんだけど、でもそれには、ある程度心に負荷がかかります。「ほんとに、それでいいのかな?」という不安からは遂に逃れられないでしょうしね。それをやる我慢力がないと、「だって、わからないもん」でブラックボックスにして、その部分をお金払ってアウトソーシングの丸投げしましょってことでしょ。
でも、不安の無いことやってたって人間成長しないし、どこにも行けない。ハイリスクハイリターンとまでは言わないけど、ローリスクであったとしてもリスクはかかる。ノーリスクでいこうと思ったら、ノーリターンでしょう。ずっと昔のエッセイに、「不安と仲良く」というタイトルで書いた記憶がありますが、ほんと、どれだけ不安と仲良くやっていけるかこそが、人生のキーポイントだといっても過言ではないと思います。
リスクを高く見積もりすぎてビビって何もしないんだったら始まらないし、リスクを軽視しすぎて自殺行為に走ってもまたダメ。目の前に展開される千差万別の状況のうち、冷静にリスクを見積もり、それに対応する行動を取れるかどうか。冬山で頂上間近でありながら、退却するかどうかの決断のように、進退いずれの決断をしても心に負荷がかかります。しかし、その負荷は耐えねばならない。不安でドキドキしながら冷静でありつづけるというのは、かなりしんどい話ですが、でもそこで踏ん張らないと、成長の機会を逸してしまうし、あるいは逆に、面倒くさくなってバクチに走ってしまったりする。最終的には「神風が吹くから大丈夫」みたいな滅茶苦茶な話になってしまう。
この我慢”弱さ”は、何も若い世代だけのことでなく、むしろ年配の世代にも共通に見受けらるように思います。「危ないから」といって、子供の自由を制限しすぎるのも、子供に万が一のことがあった場合のリスクを負うのに耐えられないからではないのか。でも、そのリスクは負うべきだし、ストレスも正しく負うべきでしょう。別に自由放任で何もするなといってるんじゃないですよ。「子供はもう死んだものと思え」とか極論を言ってるんじゃないですよ(^_^)。ただ、「転んで怪我するかもしれないから、自転車乗っちゃダメ」みたいなこといってたら、子供は成長できないでしょうって言ってるんです。そして、子供が自転車に乗ってる間、ハラハラドキドキしなきゃいけないから、かなりストレスかかるでしょうけど、そのくらいのストレスは負うべきでしょうと言ってるんです。そして、事柄はなにも自転車に限ったことではないということです。また、それで子供が転んで怪我をしても、「親は何をしてたんだ」なんて周囲は言うべきじゃないですよ。
ノーリスクじゃないとダメ、耐えられないとか言ってたら、生きていくことは出来ないし、生きていくための大事な栄養を摂取することが出来ない。もっとよくないのは「ノーリスクであるかのような幻想」にすがりついてしまい、さらに洒落にならない二次災害三次災害を自ら招くことです。ワケの分からない新興宗教にハマって一財産失うとかね。なお、新興宗教が一概に悪いと言ってるんじゃないですよ。人に不安心理に「つけこむ」ような勧誘があったとしたらそれは良くないだろうし、この世の現実の危険や悲惨さを直視できずに、またぞろブラックボックスにして、神がかった方向に丸投げ外注してしまう心の弱さが問題だと言ってるんです。
そして、次に良くないのは、「やることやらずに我慢しちゃうこと」です。糸を張ろうと思わなくなる、ってことです。
これなんでしょうね、多分、問題は。「我慢してるんだけど、我慢強くならない」のは、我慢の方向性が違うからなんでしょうね。
例えば、これも日本人に良くありがちな話ですが、こちらでホームステイをして、なにか「あれ?」と思うようなことがあっても、言わずに我慢してしまうというパターン。僕も、ステイ先に送り出すときに、クチを酸っぱくして、なんかあったら遠慮なくホストに言いなさいよ、とにかく黙ってたって相手には伝わらないよ、「こんなこと言っちゃ悪い」というのは日本人の勝手な思い込みである場合が多いし、こちらでは自分に関するデーター(自分の感情や意見)を正しく伝えるのは最低限の礼儀ですらあるのだからねと言います。always ask! です。「とにかく聞いてみ。話してみ」ということです。今は寒い時期ですし、白人種は寒さに強いから、多くの場合部屋は日本人的には寒かったりします。だったら震えてないで、「寒いからもっと毛布ください」って言えばいいです。しかし、たったそれだけのことが言えないって日本人は多いです。
この場合、相手にどういわれるか分からない状況で、とにかく話を切り出してみるのは、とりあえず「不安」を抱えることでもあるし、ストレスもかかります。「ワガママ言ってるんじゃないわよ」と心象を害されてしまう「リスク」もあるでしょう(毛布ぐらいでそれはほぼ100%ないと思うけど)。でも、その不安やリスクは負わねばならない。そこは「我慢」しなきゃいけないのだけど、それが我慢できなくて、別の我慢をする。
当然為すべきことをしない。それに伴う不安やストレスを我慢することができないから。しかし、為すべきことをしなかった報いとしての不愉快な状況は幾らでも我慢する---------。そういうことって沢山あるように思います。
歯が痛いとか、身体が不調だといって苦痛を我慢するけど、医者に行くなど適切な行動を取るに伴う苦痛は我慢できない。「面倒くさい」「時間がない」とか言って。今の仕事や自分の生き方に納得できず、ときとして身体に変調をきたすほどのストレスは我慢できても、思い切って仕事を辞めるとか、別の道を模索することに伴う不安ストレスは我慢できない。その逆もあります。一つの仕事や生き方が自分に合ってるかどうかは、ある程度がっぷり四つに組んでトコトンそれに付き合ってみないと分からない。でもその我慢が出来ず、コロコロ職場を変えていくこともそうでしょう。政治が悪いとか社会が悪いとか、その悪さに伴う苦痛は我慢するのだけど、それを変えていこうとすることに伴う苦痛は我慢できない。選挙一つ行かない。友人知人に不快な感情を抱いているんだったらそう言えばいいのに、それを言うための苦痛が我慢できず、現状の不快をひたすら我慢する。
もっと典型的に意味のない我慢は、寒い冬の日にコタツに入ってて、トイレに行きたいけど、寒いからイヤで、ひたすらコタツで尿意を我慢をしているような我慢でしょう。そんなの我慢してたって何の意味もない。我慢してればなんとかなるというものでもないし、いずれは行かねばならなくなる。先送りにして何かよくなるものでもない。それどころか、膀胱炎になって苦しむという重大なリスクすら犯している。だから意味が無いどころか有害ですらある。でも、こういう我慢は良く出来るのが人間だったりします。
こんな我慢、いくらしてたって我慢強くなるわけないし、仮に我慢強くなったところで意味が無い。物事には我慢して意味のあることと、意味のないことがある。はい、ここで、質問です。意味のある我慢と意味の無い我慢との違いはどこにあるのでしょうか?何を基準のその二つを分けたらいいのでしょうか?あなた、どう思いますか?
僕は、「勇気と希望」だと思います。なんか少年アニメの主題歌の歌詞みたいだけど。
我慢をすることによって将来的に展望があるという確信がある場合、結果についてまでは確信はないけど方向性については確信がある場合、いずれにせよなんらかの「希望」がそこにあり、希望に基づいて行動している場合、それに伴う苦痛の我慢は意味のある我慢だと思います。あるいは、為すべきことを断じて為す勇気に基づいている場合も、同じく意味のある我慢だと思う。一歩切り込む勇気が無く、これといった展望も無く、ただ「コタツから出ると寒いから」みたいな理由で我慢してるのは、意味のない我慢なのではないでしょうか。
そして、これに関連して思うのが、我慢弱くなっているとするならば、それは「勇気と希望」が相対的に減少してきているからなのかもしれません。だとしたら、これはけっこうユユしき問題だという気がします。
じゃあ、さらに勇気と希望が減少してきているということはどーゆーことかというと、現実を対処する能力が落ちてきているのかもしれません。処理能力と一口に言ってますが、分解すれば、まず現実を直視し、認識する能力、次に状況を分析する能力、そして大きな法則性に則ってアクションを起こし、仕掛けていき、結果が出るまで辛抱することになるでしょう。そのいずれもが落ちてきている、と。
現実を直視というのは、世界はどのくらいの広がりと凹凸をもって持って存在しているかを知ることであり、世界の動いていくシステムを知ることであり、その中で自分はどの程度の存在なのかを知ることであり、今何が起きていて将来起こっていくかを知ることであり、それらを可能な限り知ろうとすることでしょう。「海外恐い」なんてのも、現実を直視したことになってない。「海外」なんて一括りにしている時点で、なんかマジメに考えていないんじゃないか?とすら思えます。マスコミで流されるセンセーショナルな報道も、「非常に珍しい例外事例」があったからこそセンセーショナルになるのであり、それだけピックアップしてたらグロテスクな全体像になってしまう。それだけ鵜呑みにするのも、マジメに直視してるとは思えない。
自分を知るというのも同じことでしょう。自分の能力がどの程度のものか、どの程度の成長が見込めるか、どれだけ正確に見抜けるかというのはとても大事なことです。でも、自分を直視するのは不愉快なことでもあります。誰だって自分の事は3割増くらいに増量して自惚れているというし、体重計には乗りたくないし、悲惨な写真になったら写真写りのせいにしたいし、ファンタジーの世界に遊んでいたいです。「海外にいけばイヤでも英語ができるようになる」というのもファンタジーであり、海外に行ってもろくすっぽ喋れないままの方が、数の上ではずっと多いはずです。少なくとも英語にコンプレックスを感じずに済む日本人など殆どいないか、劣等であることすらも自覚できない人でしょう。語学というのは特に「現実的」なスキルですから、やることやらなければ伸びない。これまで勉強してこなかった、する根性も意欲も持ち得なかった奴が、いきなり海外に来たからといって人が変わったように立派な人間になれるわけがない。今日やらないことは、多分明日もやらない。だから明日もそう大して変わらない。その積み重ねで言えば、10年後もあまり今と変わらない。冷静に考えればそうでしょ。現実を直視するとはそういうことでしょう。
なにやら希望のない話のようですが、希望というのは、そんな安っぽいファンタジーではない筈です。縁側に座っていたら、いきなり空から金貨が降ってきたとか、犬がでてきてここ掘れワンワンと言ってくれるとか、そんなことを願う心情を、「希望」とは言わない。
飛行機に乗れば一定の確率で落ちます。高度1万メートルから落ちれば、まず奇跡でも起きない限り、死にます。だから、飛行機に乗るという行為は、確率はすごく少ないけど、死ぬリスクを犯している。それが「現実」です。泣きわめいても、死ぬときゃ死ぬ。それだけ。それはイヤだ、絶対に死にたくないのだったら、乗らない方がいいです。しかし、同時に、自動車に乗るのはもっと控えた方がいい。自動車で死ぬリスクは飛行機の比ではないくらい高い筈ですから。自動車に乗るのは特に恐さを感じずに、飛行機だけに恐さを感じるとしたら、それは雰囲気に流されているだけで、現実を直視しているものではない。
この世の中は十人十色で、色々な考え方の人がいるけど、自分と同じようにモノを考えない奴をキライになったり、それをひたすらケシカランと憤激したり、ひどい例になると罰則を作って取り締まれと思ってしまうのも、現実がわかっていない。「十人十色」という言葉は知っていても、それをちゃんと認識したことにはなっていない。世の中が右傾化するというのも、同じことじゃないかとニラんでいます。平和的解決というのは、大量の辛抱を必要とします。ムカつきを抑えながら、延々話合って、あーでもないこーでもないと議論して、また振り出しに戻って、それでもなおも話続けるという、かなり忍耐力のいる作業です。我慢が足りなくなってきたら、「もういい、こんな奴と話していても無駄じゃ、やったれ!」という話になりがち。
現実認識がアホアホだと、これに対する対処もアホアホにならざるを得ない。ファンタジーに基づく認識は、ファンタジーによる解決を求める。そんな解決、白骨死体になるまで待ってもやって来ない。前々回のエッセイと重複しますが、意味無くプライドの高い人は、なんだか知らないけど自分は他人とは違って、特別な何かに恵まれていると思う。もうファンタジーですわ。だから、いつか自分の稀有な才能が世に認められ、この世の春を謳歌するというファンタジー的解決を求める。何をどう粉飾しようが、誤魔化そうが、アホはアホというのが現実です。
現実は、そんなに自分に都合よく出来ていない。主観では、世界の中心は自分であるけど、客観的にはそうではない。思ったとおりに物事が運ぶことなどマレであるし、期待すべきでもない。かといって、全てが絶望に塗りつぶされているわけでもない。悪いことや悪い人ばかりではないし、自分もアホだが、それほど致命的にどうしようもないわけではない。叩けばなんとか使える程度にはなる。
という具合に、徹底的にドライに現実を認識します。そこからですよね、希望を語るのは。希望が強ければ強いほど、それを実現したいと真剣に思う。真剣に実現を考えれば、それだけ真剣に現実を直視するようになる。なにがなんでも実際に実現したいと思えば、それへの障害事由を真剣にチェックするし、これらに対する対応策も深く、的確になる。かくして、「現実を動かす」という行為が出来るようになる、と。
そして現実を動かす過程で、どうにも計算しきれない部分、ファジーな部分、運に頼るしかない部分というのが出てきます。お天気なんか好例ですが、いくら自分に都合がいいように願っても、悪天候だったらどうしようもない。雪山で遭難したときのように、雪洞を堀り、食料は一日チョコレート1枚とレモン一個と極限まで計算し尽くし、ひたすら天候の快復を待つ。3日でも4日でも待つ。待てない精神力の持ち主には、ただ死が訪れるだけです。もうすごいストレスがかかるでしょうが、現実を可能な限りリアルに認識し、勇気と希望をもって戦う。
「ものごとを成し遂げる」というのはそういうことであり、こういった経験を積み重ねることによって、人は現実対処能力を獲得し、それに伴う真の我慢強さを獲得する。粘り強く、しぶとい生命力と生活力が得られる。現実に打ちのめされ、しかしメゲずにきっちり落とし前をつけてきた軌跡。打ち勝ってきた現実がハードであればあるほど、生命力もまたしたたかに強くなる。
日本にいたら、この現実の断片しか理解できない。たしかに日本的現実はあるが、それは世界の全てではないし、ごく特殊なパターンでしかない。僕らは、「人はいずれ死ぬ」 ということをあまりよく理解できていない。また、この世の不条理により、いともたやすく人が死ぬ、どんなに大切にしていても、ある日突然冗談みたいに全てが壊れてしまうという厳しさも、あまり理解する機会がない。それは幸福なことではあるのだけど、幸せである分認識が遅れる。幸福のまま一生を終えられたらいいのだけど、現実に対する認識不足のツケが廻ってきて、人生のマネジメントに失敗する恐れもある。
人と人が理解しあえること、或いは理解しあえないこと、についても同じでしょう。異文化・異人種の人々と、ときには好意的にときには敵対的に接する経験が少ないと、人間としての付き合い方というのを忘れてしまう。周囲の状況や名刺の肩書きで、会話のパターンや方向性がほぼ決まってしまう文化にいると、初対面の人間に自分の全人格をスキャンされる、あるいはこちらが相手をスキャンするという経験に事欠く。
あたかも線路を走る電車のように、あまりにも障害や凸凹がない道ばかりを走っていると、しまいには線路がないとどこにもいけなくなる。この現実は山も谷もあるのだから、四輪駆動のように、しぶとくしなやかに進まねばならないのに、それが出来なくなる。そして、線路のない不安を我慢できなくなる。不安を飲み込む胃袋の強靭さ、不安を緻密に分析する目の確かさを失う。そして不安であるかないかだけが行動の基準になり、自分は本当は何をしたかったのか忘れてしまう。あるいは、何をしたいかなんか、生まれてから一度も考えたことすらなくなってしまう。経験の少なさは、能力の少なさにつながり、無能さは不安感をより増大する。だから何もしなくなり、経験が少なくなり、、、という悪循環に陥る。そして、生きるための技能の低下は、生きようという意欲の低下にもつながる。
かくして、糸を張り巡らすための周到な準備も努力もできなくなり、やり方もわからなくなり、「わからないから」といってブラックボックスにして、お金払って外注に出す。そして、世には、ブラックボックスをブラックボックスのまま請け負うパッケージ商品が増えていく。でも、そんなブラックボックス商品を重ねてみても、結局どこにも行けない。
ああ、なんかまとまりのないエッセイですが、覚え書きとして書いておきます。今書いたことは、全体のほんの断片です。全体像はなかなか見えない。考えてみると、「我慢ばっかりしてるんだけど我慢強くならない」というパターンの話って沢山あるように思ったのです。昔書いたエッセイで、「これだけ受験受験で勉強ばっかりしているのに、大学生がむしろアホになってるのはなぜか?」というのがありました。同じように、「これだけ英語をやってきたのに喋れないのは何故?」「これだけ毎日ニュースを見ているのに、社会のことがまったく分かっていないのは何故?」とか、もう幾らでもあります。
本来有益な方向に向けて努力しているはずなのに、なぜか結果に結びついていない。それまでの膨大なエネルギーが、まるで魔法にかかったかのように、異次元空間に吸い込まれてしまったみたいです。大きなところで、歯車がかみ合っていないというか。なにかがズレているという感じがします。その「なにか」を突き詰めて書いてみたいのですが、ねえ、話が大きくなりすぎてなかなかまとまりません。だから、断片だけちょっと書いておきます。
文責:田村
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