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今週の1枚(04.07.05)
ESSAY 163/似非(えせ)プライド
最近ふと思うのですが、無能な奴ほどプライドが高いような気がします。
はい、そうです、僕のことです。わかってますってー、反省してますってー。
というわけで、自分の事を棚に上げずにキッチリひっかぶる覚悟で書きますが、最近どうもプライドの高い人、もっといえばプライド”だけ”が高い人について、見たり、聞いたり、読んだりすることが多いです。といっても、「僕はプライドが高いです」と書いた札を首にぶらさているわけでもないし、別に典型的な出来事があったりするわけでもないですし、「ああ、なんかプライド高そうねー」とそこはかとなく感じるといった程度に過ぎません。そういった微妙な感じに過ぎないのですが、しかし何かひっかかりを感じます。言うたらカドが立ちますけど(でも言うけど)、失礼ながらやや不均衡にプライドが高いのではないか?という印象を受けます。うーん、そう言ってしまうと語弊があるかな。なんと言えばいいのかな、プライドの持ち方というか、プライドを持つ方向性というか、そのあたりがちょっと違うんじゃないかと。
何だか知らないんだけど、「自分は特別」として考えたがるというか、他の人々と一線を画した存在であるかのように、他の人々とは違った「格別な配慮」が必要な人間なんだと思っているというか、あー、言ってる意味わかりますか?世界の法則性がなぜか自分には適用されないみたいな、仮に雨に降られても自分だけはなぜか濡れないと思っている。誰でもその道を進む以上はそれなりに泥をかぶったり、嫌な思いをするものだけど、なぜか自分だけはそういう思いをしなくても済むようになっているというか。新入生は最初は草むしりと雑巾掛けをやることになっていても、自分はそれをやらなくてもいい人間だと思っている。これがヒドイ例になってくると、草むしりをやらなくてもいいように周囲が配慮すべきだと思ったり、配慮してくれない周囲を逆恨みしたり。もっと病が進行すると、現実社会に入れば否応なく草むしりをやらされるわけで、そうなると自分が特別であるという信仰がガラガラと崩れてしまうから、現実社会に入っていくことを恐がったり、モラトリアムのままでいたがったり、またその理論武装として独りよがりのプライドが出てくるという。
プライドについて思うのですが、本来プライドというのは、ちょっとばっかり他人よりもアレが出来るとかコレが上手であるとか、ちょっと変わった生き方をしてきたとか、アレをやったことがあるとか、コレを見聞したことがあるとか、そういった事柄からは出てこないものではないか。それらのことは、早い話がただの「うぬぼれ」とか「自慢しい」であって、プライドとは違うんじゃないか。
そういうのはプライドとは言わないでしょう。
プライドの本質を一言でいえば、「立派な人」ということに尽きると思います。
「自分は立派な人間だ」と思える人、あるいは立派な人間になろうとするその真摯さを持ち合わせている人だけが、その量と質に応じてプライドを持つことが許されるのでしょう。
かく言う僕自身も、若い時分はそんな風には考えられなかったです。鵜の目鷹の目で他人と自分とを比較し、ちょっとばかり何かが優れているような気がしたら、鬼の首でも取ったように思い、ちょっとばかり他人と違う歩き方をしていたら、それがすわなち「俺流」みたいに思ってました。能力の高さやら、生きてきた軌跡やら、将来への発展可能性やら、とにかく自分に関してプラスになるようなことを引っかき集めて築き上げようとしていました。何を?砂上の楼閣を。
思い出すだにこっ恥ずかしいのですけど、滅茶苦茶トンガってた時期もありました。まあ、若気の至りといいますか、平均よりも早く司法試験に合格し(現在よりもはるかに難関だった時代に)、こと司法試験に関してだけいえばウチの大学の学年では僕が一番早く合格したし、同学年どころか苦節十年組もふくめて全体の中でも模試年間通算で首席ブンどったし、でもって見てくれはただのロック兄ちゃんだったし、まあそれなりにあんなこともこんなこともしたし、、で、「俺はちょっと違う」みたいな意識が芽生えても不思議ではないです。だから、すげー生意気でした。この世に自分よりも頭のいい奴が存在するのが許せなかったし、いつか絶対追い抜いてやると思ってたし。おー、恥ずかし、死んでしまえって感じですな。
多少の自己弁護を許してもらえるなら、それでも天狗になるのはカッコ悪いことだとは思ってましたよ。「俺こそが」とか言いながらも、もう一人の自分は全然信じてないという面はありました。まあ、なんというのか、自分でも「そんなワケないだろ」「バランス悪いな」「嘘臭えな」とは思ってはいました。でもって、世間に出れば、そんな虚勢なんか一瞬にして吹き飛ばされます。ほんと、「それがどうした?」って感じ。皆の方がもっともっと凄いじゃんって。「みんな」というのは、文字通り世間の皆さん全員で、そのへんの歩道を歩いているおばあちゃんも、おっちゃんも、です。
なにがそんなに凄いと思えたかというと、皆さん自分の知らない世界のことを知ってるし、自分の到底出来そうも無いことを軽々とやってのけるし、単純に知識や能力面だけでいっても、やっぱり凄いわけです。もっとも、彼らの知らないことを僕は知ってるし、彼らの出来ないことを僕は出来るますから、別に無条件に皆が上!と思ったわけではないです。ただ、無条件に自分が上だというものではないだろうというのは否応なく分かります。これはもう素朴に考えれば考えるほどそうで、何が上でなにが下ってもんではないだろうと。難しい法理論を完璧に解析する能力もひとつ、荒れ狂う海に船出していって魚を獲ってくる技能もひとつ、どこをどう直したのか素人目にはわからないくらい鮮やかに板金加工する技能もひとつ、的確なメス裁きで腎臓結石を摘出する技能もひとつ、暗いうちから起きだして美味しい豆腐を作る技能もひとつ、、、というわけで、とりあえず上とか下とかいう以前に、この世はなんて広いんだ!ということですね、実感として分かるのは。そして、大海原のように広がる世間と、数え切れないくらいの技能のうち、なんで法技術が他の技能よりも勝っているのよ?根拠あんの?と、普通は思いますよねえ。素朴に考えるほど、そんなもん根拠ないですよ。
そういった技能とか知識とかいう以前に、人間としての厚みといいますか、色々な経験をしてきた人だけがもつ重厚なオーラみたいなのがありますが、その存在感みたいなものにヤラれますよね。やっぱり経験した分、人は賢くなる機会が与えられます。その機会を無駄に逸して経験はするけど全然賢くならないって悲しいパターンもありますし、妙に経験したがゆえにその逆に経験に縛られて愚鈍になっていくというケースもあろうけど、でも一般的に言えば、いろいろ経験するだけ人間は練れてくる可能性が高い。
例えば綱渡りをするように毎月の資金繰りをこなしていく経験は僕には無いし、また出来るとも思えない。どんな人でも遊び半分に生きてる人はいないし、遊び半分に生きていけるほど世間は甘くはないです。そのあたりのことを目の当たりにするにつけ、「俺って結局なんなの?」みたいに思いますね。もし自分が他人と違って「特別」であろうとするならば、主観的にそう思ってたって意味ないわけで、客観的にもそうあらねばならない。チャンピオンというのは、現実に誰と戦っても一番強いからチャンピオンなのであって、チャンピオンだと思っていればそうなるってもんでもない。だから、世間の誰とでもタイマン張ってですね(別に殴り合いとかそういう意味じゃなくて)、人間的に遜色ないモノを自分が持ってないと、とてもじゃないけど自分が特別だなんて思えやしないです。そして、世間を知れば知るほど、そんなことが可能であるとは思えないし、また意味のあることだとも思えなくなります。素朴にやってりゃ、誰だってそう思うんじゃないかしら。
そうやって現実社会を目の当たりにして、しょうーもないプライドらしきものは吹き飛ばされるわけですが、それが悔しいとか落ち込んだという記憶はそんなにないです。むしろなんか嬉しかったですね。「あ、やっぱりねー」と。落ち着くところに落ち着いて妙に安定した感じがありました。だから、「吹き飛ばされたかった」って深層心理もあったのでしょうね。
そういえば大槻ケンヂひきいる筋肉少女帯の曲の中に、「お兄ちゃんは子供の頃、世間はなんて馬鹿ばっかりなんだろうと思っていたけど、でも本当は自分が一番馬鹿だったんですなー、これが」という歌詞がありますが、「あいたたた」って感じです(^_^)。
話は余談になりますが、海外に出てきたというのも同じ路線の延長線上にあると思います。学生時代の観念的なものがめでたく吹き飛ばされて、地道に現実社会で草むしりをやってたはずなんだけど、それでもやっぱりまた「嘘臭く」思えてきたわけです。なんか不当に優遇されているような気がしてきて。「そんな筈ないだろう」「俺って本質的な部分で全然ダメのままじゃないか」と。ダメな自分が正しくダメになれるまっとうな環境が欲しかったのでしょうか。
オーストラリアに来る前に、後にも先にも一回だけ海外旅行に行く機会がありました。職場の旅行で香港にいきました。その頃は海外なんか全然知らないし、ご多聞に漏れず「海外恐い」と思ってましたからね。ライオンバスに乗るように、観光バスに乗って、「このへんは治安が良くないから一人歩きは絶対にダメ」みたいなエリアを周遊したりするわけで、そのときに「あー、ここに一人でほっぽりだされたら俺泣いちゃうだろうなー」とか考えちゃうわけですね。で、それってダメじゃん、全然イケてないじゃんとも思うわけです。「あ、ほら、やっぱ俺ダメじゃないかよ」と。やっぱりこういったヤバいエリアに一人で放りだされても一人で生き抜いていけるだけの強さを持たないとダメなんじゃないか、それが出来て一人前でしょうとかね。そんなこと考えちゃうと、やっぱりダメなくせに一人前の顔してやってられる日本の環境がまたぞろ嘘臭く思えてくるわけですね。そんな考えが頭に入ってしまうと、もう「やっぱ鍛えなおさないとならん」という気になってきて、それで一気に後先考えずに、英語なんかろくすっぽできもしないのにこっちにきちゃったわけです。で、当然のことながら英語ボロボロだし、案の定ダメダメな毎日が始まるわけですけど、心は結構爽快でした。「そうこなくちゃ」みたいな感じ。
別にそんなことをしている自分が、まあ珍しい存在だろうなとは思ったけど、「特別」な存在だとは思わなかったし、今も思ってません。特別も何も平均以下というか、なにが平均なんだかわからないから、自分なりに思う「人間の看板掲げて生きてるんだったら、最低このくらいは出来ろよ」というレベルに達してないから、とにかくそこまで行かなきゃイヤだったのでしょう。低いレベルではあるけど、「最低このレベルまで」と自分の立派度のレベルを設定して維持しようとするという点で、本当の意味でのプライドはあったのでしょうし、今もそれはあるようにと思います。でも自分を特別に思おうとする”プライド”ではないです。
さて、話は戻って、現実世界に触れて、それまでの唯我独尊的、「自分だけは特別」的なひとりよがりの世界観がぶっ壊されるという点ですが、これって結構良くある話だと思います。社会に出て、「お前なんか全然平凡、ナミ、あるいは並以下」って事実を突きつけられてドカーンとなってしまうというのは、まあ、イニシエーションみたいなもので、毎年桜が咲く頃になると、日本列島のあっちゃこっちゃで見えないドカーンが湧き起こっているでしょう。イイコトだと思います。景気よくドカンドカンしたらよろし。
でも、どうもそんな具合に平明に世の中が見えない人もいるようです。ドカーンとならないというか、ドカーンとなって気づかないとか、ドカーンとさせる方が悪いと開き直ってる人もいるでしょう。
プライドの話に戻りますが、本当の意味でのプライドというのは尊いものだと思いますが、でも一般的な意味においては、まともに生きていく上においてプライドなんて別に要らないんじゃないかな。というよりも、有害な場合の方が多いのではないかな。
例えば、家柄がいいことをもってプライドの根拠にしたり、いい大学出てるからとか、有名企業に勤めているからとか、ちょっと他人よりもなにかに秀でているからとか、英語がちょっと話せたりとか、そんなことでプライド持ってる人がいたら、まあ、一般的にいえば、そいつは「ヤな奴」ですよね。「ナニサマのつもりじゃ」って思いますよね。同じ状況にある人、例えば同じく有名人であったとしたも、有名人であることを全然気にしてない人と、有名人であることを鼻にかけてる人だったら、妙なプライド持ってない人の方が、人間としてずっと魅力的でしょう。おかしくないですか。プライドを持ってるが故に人から嫌われたり馬鹿にされたりするのって。いわゆる「お高くとまる」ことがプライドなのか。プライドってそーゆーもんなのか?違うんじゃないか?それはただの自慢しいであり、単なるカン違い野郎じゃないのかって気がします。
じゃあ、プライドってなんなのよ?と考えていくと、昔の武士道とか、イギリス貴族の騎士道みたいなもので、人間としての完成度の高さを自らに厳しく課すという、その精神のありようだと思います。つまり、他人と比べてエライとかエラくないとか、そういうことじゃなくて、他者との比較なんか本来入り込む余地はなく、自分が自分に対して課するものという、発信人も受信人も自分自身であり、自己完結しているものだと思います。早い話が「立派な人間たれ」と自分に向かって命令することでしょう。
でも、立派であろうとすることは尊いことではあるのだけど、しんどいことでもあります。本当の意味でのプライド=それは「誇り」とか「矜持」という日本語で言ったほうが誤解は少ないような気がするけど、を持つことによって、対世俗的には損をすることの方がずっと多いだろうし、他人から尊敬されたりチヤホヤされたりすることよりは疎んぜられたり馬鹿にされたりすることの方が多いでしょう。「武士は食わねど高楊枝」をはじめとして、「渇しても盗泉の水は飲まず」であり、「いたずらに名利を貪ることなかれ」とか、オノレを律すべきこと北極の氷山のように厳然であるべし、と。戦後、ヤミ米を食べることを潔しとせず、配給だけで暮らして餓死した裁判官がいましたが、ああいう姿勢が本当の意味での「プライド」だと思います。凄いんだか、阿呆なんだかわからないくらいのレベルにいかないと、「プライド」なんて軽々しく口にすべきでもないし、思うべきでもない。それが本当の姿だと思う。
私は○○なんだから(=○○のなかには、本来有能なんだから、もともと頭がいいんだから、有名大学を出てるから、難しい試験を通ったからなど)、こんな詰まらない仕事なんかやりたくない、そんなカッコ悪いことはしたくない----なんて思うのは、一見プライドに似ているようでいながら、それはプライドではない。プライドというのは、前述のとおり、「私は立派な人間になりたいから、人の道に反するようなことはしたくない」と翻訳することが可能であるものを言うのだと思います。
しかしながら、このような”似非プライド”が氾濫しているようですし、それを大人の側や親の側でも戒めるというよりはむしろ助長しているキライもあります。自分の息子や娘が有名大学を卒業して、それで聞いたこともないような町工場に就職するとか、ボランティアの専従職員になって世間のお役に立ちたいのですとか言い出したら、ポンと膝を打って「あっぱれ、よくぞ申した」みたいな反応を
する人は少ないんでしょうね。まあ普通は「もったいない」という反応をするでしょうね。それはそれで理解可能なんだけど、親や大人に、それだけプライドのない人が多いってことでしょう。もっとも、プライドだけでは食っていけないって厳しい現実があることも否めません。とりあえず「生計を立てる」という面からしたら、プライドというのは最大の敵みたいなもんですからね。さらに言うなら、このように一見謙虚で、一歩下がったような考え方は、しかし実は厳しい現実に直面することからの逃避に過ぎないって場合もありうるでしょうから、一概には言えないんでしょうけど。
僕も含めて、プライドを持ちたくても持てない多くの人々は、そのことを素直に認めているかというと、あんまり認めてないですよね。「私は、能力にも乏しく、意思も弱く、卑怯だから、立派な人間になろうと思ってもなかなかなれないです。だから本来は全然立派じゃないことも、むしろ見苦しいようなことも、弱いからやってしまうことがあります。というかそればっかです」「今日、駅のホームでヤクザ風の酔っ払いに絡まれているOLさんを見かけたけど、係わり合いになるのが怖くて見て見ぬふりをしました。私は卑劣な人間です、とても立派な人間になれそうもないです」「今日、言われなく差別されている人を、友達から仲間外れにされたくない一身で心ならずも一緒になって馬鹿にしてしまいました。その人に取り返しのつかない心の傷を与えてしまいました。私は人間のクズです」とかさ、本当にプライドがあるなら、毎日毎日思い続けなければならない。これはツライですよ。プライドを持つということは、このツラさを引き受けることでもあります。
このような本当の意味でのプライドを持てる人、ほとんど聖人君子と同義だったりしますが、そういう立派な人など限られています。だから、そこまで立派でなくても仕方ないと思います。自分の弱さや卑怯さをそれなりに自覚することが出来れば、まだ罪は軽いですし、積極的に汚いことをやるんじゃなければ、まだ許されるでしょう。というか、そう思わないと自決するしかなくなっちゃいます(^_^)。
だけどそれ以上に似非(えせ)プライドを振りかざしたり、それを心の拠り所にするのは、どういう心理によるものなのかと疑問になります。自分もそういう部分を持っているだけに、自省を込めて考えますに、まあ、要するに自分に自信がないんでしょうね。弱い犬ほどよく吠えるってやつなのでしょう。そうやってプライドらしきものを高々と掲げてないと、世間から潰されちゃうような恐怖感があるのでしょう。外気圧が高いように思ってるから内気圧も高くして対抗するというか。
そこで思うに、試験制度というのは必要悪ではあるのでしょうが、あんまりいいことないですよね。試験って、落ちたら落ちたで必要以上に挫折感とコンプレックスを与えるし、合格したら合格したで、無用な自信と嘘のプライドを植え付けますから。この場合の弊害の最たるものは、とにかく視野が狭くなることでしょう。自分のプライドを持てる狭い狭い領域に、広い世の中を強引に押し込めようとしがちです。上級公務員試験のキャリア・ノンキャリみたいに、単純二元論で世の中見るようになる。そうなったらせっかくこの広くて豊かな世界に存在していても、その豊かさを実感できなくなるので、存在している喜びが半減してしまう。半分死んでるようなものです。勿体無い。やれ人よりも足が速いとか、税金のことが詳しいであるとか、子供を産んだことがあるとかないとか、妙なフィルターがかかるだけ損です。
だから長い目で見たら、およそ試験というものは落ちた方が良いんじゃないかって(^_^)。落ちたらそりゃあ落ち込みますし、コンプレックスもバリバリ持ったりしますけど、コンプレックスはまだ症状が明確だし、対処のしようもあります。また弱い自分を自覚することで賢くなることもあります。でも、下手に受かっちゃって間違ったプライドを持ってしまうと、それって妙に気持ちイイだけに治しにくいです。これは厄介ですよ。こうなったらもう性病にかかっているようなもので、気長に直していくしかないです。
ある程度「大人」の世界に入れば、挫折経験のない奴は信用しないとか、順風満帆で来た奴には金を貸さないとか、そういうのってありますからね。ですので、いま何らかの形で試験を控えている人は、縁起でもないことを言うようですけど、もし落ちたら喜んでくださいな(^_^)。ソニーの創始者の井深大さんも、大学の就職活動で東芝受けて落っこちてるそうですから。後になってエラくなった人でも、最初は軒並み全部落ちたという人はゴロゴロいます。結果論ですけど、下手に受からなかった方が良かったって言い方もできますしね。まあ、わざと落ちる必要はないかもしれないけど、落ちたからといって、It's not the end of the world でありますし、it's just the beginning of your world です。また、不幸にして(笑)合格しちゃった人は、その代償として大きな落とし穴が待ってることに心しておくといいと思いますです。
似非プライドの持つ問題点としては、先ほどちらっと書いたように、クリアな視界が得られなくことがあると思います。どうしても自分中心に、自分に都合がいいように世の中を捻じ曲げて見るようになるから、屈折率の高いレンズを装着しているように、物事がストレートに見えなくなる。そして、悲惨な二次災害、三次災害を招く。
意味なくプライドの高い人は、その「意味ない」分だけキッチリ世間からしっぺ返しを食らいます。自分はエラいんだ、有能なんだ、特別なんだと思い込んでる人は、その人の実際の能力との差の分だけ、思うとおりに世間が反応してくれない。例えば、就職なんかでも、本人的には合格して当たり前なのになぜか不合格になるとか。でも、客観的には落ちるべくして落ちているのです。ただ、ストレートにモノが見えないから、主観的には不当にワリを食っているように思える。そうするとどうなるかというと、屈折率がさらに高くなり、あの面接官は人を見る目がないとか、あんな企業に将来はないとか、落ちたのはコネがないからだとか、差別されているからだとかいう物の見方になっていきます。そういうことも実際には往々にしてあるでしょうけど、素朴にみれば「自分が無能だったから」という原因がもっとも確率が高いんだけど、そうは考えない。プライドが高いですからね。そういう意味で、プライドの高い人って、被害者意識が強い人が多いかもしれない。
これは大変ですよ。生きていると、ほとんど自動的に「不幸の連続」になったります。そりゃそうなりますよね。だって、本人は100円持ってるつもりでも実際には50円しか持っていないわけです。で、100円のモノを買おうとしているのだから、どこも売ってくれない。当たり前ですよね、客観的には50円しか出してないわけですから。でも、本人的には、100円のものを100円で売ってくれないという、理不尽極まる事態が出現したことになり、差別されているとか、そういう話になるでしょう。自分の主観と客観のズレが50円だったら、50円分だけキッチリ世間からしっぺ返しを食らう。そして、本人としては、まさに不幸の連続になり、この世の中はなんと不公平で理不尽な世界なのだというモノの見方になっていく。その屈折率の高まりが、さらなる悲劇を生みます。
話は簡単で、要するに、度の合わないメガネをかけていてよく見えないからドブに落っこちてるだけなんですけど、だからドブに落ちた時点で、「あれ?」と気づけばよさそうなものなのだけど、不幸にしてプライドが邪魔してそうは考えられない。なんで道の真中にドブなんか作るんだ、けしからんという発想になる。そして、この国の道路行政は間違っているという、第二段階の誤ったビジョンが刷り込まれ、さらにそれによって失敗し、第三の歪んだビジョンが作られ、さらに、、、これはもう無間地獄ですな。
この世の中でハッピーに生きていこうとするならば、まず第一に必要なのは、こういった「健康な視力」だと思います。平明に、ストレートに、あるがままにモノが見えるということです。自分の都合のいいように、タテを引き伸ばしたり、横を膨らませたりしないということですね。モノさえちゃんと見えていれば、そうそうドブにハマったりはしません。
次に、モノが見えるにしたがって、世間で起きている出来事の意味がよく見えるようになり、正確な法則性を体得することが出来るようになります。「このくらいの努力をするとこのくらいの結果が生じる」という法則性です。自分の作った商品を売ろうとするならば、このくらいの営業努力はしなくてはならないとか、運不運ということは確かにあるけど、トータルに均せば大体こんな感じという、体感的なカンドコロが得られるかどうかです。これ、メッチャクチャ大事ですよ。ほとんどこのカンドコロさえあれば一生食うに困らないというか、このカンドコロが鈍いと何をやっても失敗するというくらい、大事なものだと思います。
ただ、これは自分でやってみないと分からないです。英語なんかでも、1年必死に勉強してみてはじめて、「一年間、あのくらいの密度で勉強して、このくらい出来るようになる」というのが身体で分かります。多くの場合は、「この程度か」という失望的な驚きをもって認識されるというか、まあ、「一年やったくらいじゃこの程度」ってトホホ的な感じで分かるでしょうが、それでもその感覚はとても大事なことです。正確な未来予測と、行動計画が立てられるという意味で、なによりも貴重な財産になります。
ところが同じ体験をしても、物がストレートに見えない人は、なんだかんだ言い訳をいうようになります。この程度にしか英語が伸びなかったのは、教え方が悪かったからだとか、学校が良くなかったからだとか、周囲の友達が悪かったからだ、ステイ先が冷淡だったからだとか、およそ「自分の能力などこの程度」という平明な事実を直視するのを避けるためには、ありとあらゆる言い訳を考え出して自分を納得させようとする。せっかく”人生の宝石”ともいうべき貴重な法則性やモノサシを得る機会があるのに、これを逃してしまう。そして、間違ったモノサシでまた次の家を建てようとするから、当然のことながら失敗する。それだけではなく、困ったことに、こういった言い訳を高らかに周囲に吹聴して廻ったりするのですね。情報としてはデマに近いのですが、そんな情報がまことしやかにネットや口コミで流れるから、他人に迷惑を及ぼすことになる。なんとかしてくれって感じではありますし、他人の話を聞くときには、このあたりは割り引かないと自分も一緒にドツボにハマるリスクもあります。間違った目盛りのつけられたモノサシなんか渡されても、失敗を招くだけですから。
この法則性は、別に英語の勉強に限らず、自分でお店を開店するようなときでも、この程度の品揃えだったら売れないとか、この程度の広告戦略だったら訴求力がないとか、こういう接客態度だったら愛想をつかされるとか、こういう立地だったらダメだとか、この程度の資金計画だったら早晩破綻するとか、、、、それなりに正確なモノサシを持ってないと失敗します。多くの人は、必死になりながら、走りながら考え、試行錯誤をし、なんとな軌道に乗せようと法則性を模索し、それを体得していきます。
ただ、人生に一回しかチャンスがないようなこともありますし、そうそう失敗が許されないことを乾坤一擲でやらねばならないときもあるでしょう。誰しもそういうチャレンジングな時期はあると思います。そのときに、うまくいくかいかないかは、自分にこれまで蓄積されてきたカンドコロでありモノサシがどれだけ正確であるかによると思います。そして、その正確なモノサシをゲットするためには、いかに日頃からモノをストレートに直視し、たとえ自分に都合が悪いことであったとしても素直にそれを見て、学んでおくかどうかでしょう。
ですので、煎じ詰めれば、下らないプライドは、ほんと、必ず失敗するために巧妙に仕組まれたプログラムの核であり、その意味でウィルスみたいなものであり、ガン細胞みたいなものだと思います。ですので、詰まらんプライドなど、一刻も早く捨てて、犬にでも喰わせてしまえってことになるのでしょう(喰わされる犬も可哀想か)。
そんなこんなを考えていくと、冒頭一行目の結論、「無能な奴ほどプライドが高い」ということになったりするわけです。
もちろん、かなり乱暴な命題ですし、プライドといってもカッコつきの”似非プライド”ですし、全部が全部そうだと決まったわけではないでしょう。でも、なんか関連というか、因果関係があるように思えるのですが、いかがでしょう。
補足するに、上に述べた事情から推論していくと=つまりプライドが邪魔して物が素直に見えず、だから学べず、失敗を繰り返すということ、プライドが高いからこそ無能になっていくというメカニズムもあるような気がします。だって失敗に学ばず、それを誤魔化すためにビジョンをさらにゆがめてしまえば、次の失敗確率はさらに高まるでしょうし、これを能力面でいえばどんどん無能になっていくということになるでしょう。そしてまた、その無能さを誤魔化すために、ますますプライドを高くして隠蔽せざるを得なくなるという相互補完の関係が成り立っちゃったりなんかして、ほとんど悪魔の永久機関みたいなパターンになるかもしれません。これは恐いです。生きてて詰まらなそうだな。
あと、ケチなプライドは身を滅ぼすもとだと思いますが、自信を持つことはいいことだと思います。プライドと自信は、似てるようで全然違うと思います。まあ、その言葉にどのような意味を含ませるかは人それぞれですが、僕の考えではこの両者は違います。プライド、特に似非プライドというのは、自分と世間との関係において出てくる概念、、、というとワケわからんので、自分は世間にどう接するべきか、世間は自分をどう取り扱うべきかってレベルの話だと思います。でも自信というのは、他者や世間は関係なく、自分が自分を認めてあげることです。そして、プライドが「かくあるべき」という当為的な「べき論」であるのに対し、自信は存在そのもの、「べき」を言わないものだと思います、、、、って、わかりにくいですよね(^_^)。これ言い出すと長くなるので、また機会があれば。
文責:田村
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