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今週の1枚(04.06.28)
ESSAY 162/「理屈じゃない」ことについて
写真は、Cabarita。Concordの先の海辺で昨今の不動産ブームに乗って再開発された新興分譲エリア。日本の建売住宅みたいな家々が並んだりして、異国情緒ないです。
夢占いとか夢判断とかありますが、僕はあまり信用していません。いや、一般論的にどうということではなく、こと自分に関して言えばあんまり使えそうもないなと思うからです。それは夢判断や占いが悪いのではなく、僕の夢という対象素材の方に問題があるような気がします。
きわめて即物的な夢を見るのですね、僕は。
いつぞや、朝起きて、トイレいって、パソコンを立ち上げて、メールを受信して、返事をせっせと書いている、、、という夢を見たことがあります。まったく日常と同じ。夢をみたあと、起きて、またトイレにいって、パソコンを立ち上げて、メールを受信して、返事を書いていると、馬鹿馬鹿しくなってきます。デジャ・ビュなんてもんじゃないですよね。ねえ、こういう夢じゃあ、判断も、占いもしにくいでしょう?
それにかなり自覚的に夢をみてる場合が多いです。「これは夢だ」と分かっていて行動しているという。夢の中で、ショッキングなメールや手紙を受け取って読んでいたり、なにかとてつもなく面白い小説を読んでたりすることがありますが、大体読もうと思っていても字が妙にボヤけていてよく読めなかったり、読めてそれが凄いことは分かるんだけど、意味がよくわからない等でイライラすることがあります。「あーもー、結局なんなんだ」と思うわけですが、そのときに気づいてしまうのですね。これは結局自分の夢なんだから、このメールなり小説の内容も、今自分で考え出すしかないわけだよなー、えーと何にしようかな、、、って、自分で考えて自分で読んで感動するって馬鹿馬鹿しいよな、、と一瞬にして考えが及んで、シラけてしまったりします。夢独特の荒唐無稽な展開になっていって、収拾がつかなくなりますが、そういうときでも、「お前、これどうやって収拾つけるつもりだ」と自分で気づいてしまうこともよくあります。
空を飛ぶ夢もよく見るのですが、これもそんなにロマンチックなものではなく、「これは夢なんだから飛べるはず」「飛ばなきゃ損」とか思って飛ぶわけですから、我ながら「なんだかなあ」って思いますよ。高度300メートルから俯瞰でみた町の風景、それが徐々に高度を下げていくにつれて見え方が変わっていくところなど、頭の中の画像イメージのデーターベースみたいなところにアクセスして、適宜修正して”上映”していることも、頭のどこかでクールに眺めていたりもします。飛んでいる浮遊感や、風を切る感覚など、ヴァーチャルリアリティのように、いかにリアルに再現(創造)するかについても、段々意識的に「練習だ」とか思って頑張ったりしますので、今では「空を飛ぶデーター一式」みたいに充実してきて、かなり生々しく飛べるようになりました。
怖い夢も時々みます。怪物や暴漢に首しめられたりすることもあります。でも、大体は変な態勢で寝ていて、首のところに布団が食い込んでしまってたりするケースが殆どです。金縛りなんかも、これも寝相が変で、自分の腕を下敷きにするようにして寝ていて、血行が悪くなってしびれてしまっていたから動かないというケースばっかりです。本当に自由な態勢で金縛りになったことは一度もないです。だから、金縛りではないんですけどね。これも何度かあるうちに、「ああ、変な態勢で寝てるんだろうな」と気づいてしまい、「しゃーない、一回起きよう」とか思って起きることもあります。
要するに、僕の夢には神秘性が乏しいのです。すごい浅いところで夢をみてるようで、なんか詰まらんですよね。心の奥の方に、異次元世界に通じる回廊が開き、そして夢魔がそっとやってくる、、なんてこたあないです。あったのかもしれないけど、覚えてないですねー。
なんでこんなに「醒めた夢」をみるのかしらと思うと、やっぱり中学あたりの頃、思春期に入るかはいらないかという時点で、心理学に凝ってしまったのがいけなかったのかもしれません。あの当時は、「ほう、こんな面白いもんがあるのか」と発見して、岩波新書の宮城音弥氏の本などを片端から読んだもんです。
何にそんなにひきつけられたかというと、心という不可思議なものを、まるで物体のように、力学的に扱うその発想が面白かったのでしょう。テーブルの4本の足のうち、一本だけ長さが短いからガタガタするんだよといった具合に、あまり神秘性のない、実も蓋もないドライな感じが新鮮だったのだと思います。
そしてその根底にあるのは、”人間機械論”と言いますか、自分自身の心も身体もいわばひとつの機械に過ぎないというカラカラに乾いた発想が、自分の性に合っていたのだと思います。自分自身を神棚に乗せてしまわずに、「そんなに大したモンじゃないよな」とばかりにちょっと突き放して見る感じが、自分では良かったのでしょうね。
だからといって、機械だからダメだとか、しょーもないということではないです。それどころか、”機械”には何か男の子のメカフェチ心をくすぐるものがあったりするのですね。精巧な機械やメカニズムを見るとうっとりしてしまうという。一生乗る機会もないであろうスーパーカーのDOHC12気筒スーパーツインカムターボがどうしたとか、ジェット戦闘機のマッハ3飛行時における旋回性能がどうしたとかを、熱く語りまくる男の子のサガのようなものです。もっとも、僕は、バリバリ文型ですから、どっちかというとメカには弱い方ですし、系統だって勉強したこともないし、鉄道マニアの鉄ちゃん的に盛り上がったりする趣味もないです。ギターの物理的構造や音階の波動的システム(弦の長さを正確に2分の1にすると正確に1オクターブ上がるとか)くらいは知ってますが、そのくらいです。だから”メカ的な雰囲気”が良かったのでしょう。
こう書くと、いかにも感性が貧しい、左脳バリバリ人間であるように映るでしょうし、なんでも理屈にしないと気が済まない、融通の利かない、理屈に溺れて本質を見失う詰まらん奴だと思われる人もいるでしょう。別にそう思って戴いて構わないですけど、でも、ちょっと違います。
僕自身はどちらかというと右脳的な感性面の方が強いかもしれません。まあ、どっちが強いかなんか分からないですけど、文章、画像、音楽などの感性面では人並み程度にはあると思いますし、時として平均人よりもこだわりが強い部分もあります。理屈にならない領域というのがあるのは知ってますし、それを愛でる気持ちも強いです。
だから、です。だから、余計に、理屈で説明がつくような事柄を右脳的感性領域に持ち込みたくないのです。芸術の神様への冒涜とまでいうと言い過ぎですけど、単なる職分管轄という意味でも、それは違うだろうって気分はあります。自分の身体や心のことなどは、”身辺雑多”という言葉がありますが、それこそeverydayの話であり、圧倒的大部分は日常的な事柄です。そのあたりのメンテナンスは、むしろメカ的に考え、機械的に処理していった方が手間が少なく、効率がよく、そしてなによりも的確な場合が多いと思うのですね。
例えば最近どうも体調が思わしくないとか腰痛があるとか肩が凝るとかいうならば、水子の祟りとか、先祖の霊がどうしたとかいう以前に、まずは決まりきった機械的、ルーチン的な発想でトライすればいいと思います。要するに運動不足じゃないのかとか、不自然な態勢で仕事を続けすぎてないかとか、暴飲暴食偏食をしてないかとか、妙な病気にかかっているかもしれないから健康診断を受けておこうとか、まあ、そういうことですし、それで殆どの場合は解決すると思います。それでも解決しない不可思議な現象に直面したら、もう少し非論理的で直感的な世界にいきましょうという、これはもう単純にダンドリの話だと思います。より簡単で、より適用対象が広く、より効果的で、よりコストパフォーマンスが高いものから先にトライしていった方が、より少ないコストと手間でより効果的な結果を得られるだろうからです。単なる運動不足なのに、いきなり600万円もする多宝塔を買ってしまうようなリスクを踏む必要もないでしょうということです。
しかしまあ、「機械」と言うかどうかは単純に趣味の問題という気もします。
例えば、人間は機械ではない、なぜなら人間には魂があるからだという所説があります。あるいは魂魄というものがあり、死して魂は天上へ、魄は地界へ行くとも言われています。でも、それも「メカニズム」じゃんっていう考え方もアリだと思うのですね。機械のパーツとして魂があるだけじゃんって。先祖の霊を祭らないと祟りがあるとかいうのも、メカニズムちゃメカニズムです。天地の気の運行に関連する方位や風水の思想なんかも、かなりメカニカルです。その説明原理は地学や気象学といってもいいくらいです。
機械とは、メカとはなにかというと、別にピカピカの金属が複雑に入り組んでなければならないってものではなく、一定の法則があり、それに従って異なるモノ同士がシステマティックに相互に連動していくもの、そしてそれが人間の論理則・経験則において理解可能だったら、それはメカニズムなのだと思います。自縛霊や憑依霊がおって、それを守護霊が駆逐して、、とかいうのも、マイナスイオンとプラスイオンがあってそれが他の分子構造に影響を与えてとか、善玉コレステロールがどうしたというのも、「あーなって、そーなーって、こーなる」という一連の理屈の流れという意味では同じじゃないですか。
同じじゃない、全然違うと感じる人も勿論多数おられるでしょうが、僕にはそれは趣味の違いのようにしか思えないです。
どういう趣味の違いかというと、そこに神秘的なフレイバーがかかっているか、それともメカの香りがするかの差でしょう。占いにせよ、夢判断にせよ、膨大なサンプルケースから一定の法則性をリッピングしてきて、確率論をベースに帰納演繹を繰り返して収斂させていくものでしょう。ただ、一方には”そういう言い方”をするをシラけてしまう人がおり、他方にはそういう言い方をしてもらった方が分かり易いと感じる人がいるだけのことだと思います。もっと言えば、「理屈」です。後者のタイプは理屈が精緻であればあるほど気持ちがいいのだけど、前者のタイプは理屈が混入してくるだけでなにやら神秘の純粋性が損なわれたかのように感じるのでしょう。
「いや、こういう事柄は理屈じゃない」と言う人もいますが、でも理屈ですよ。例えば、生前に沢山の苦労をして功徳を積んでおけば、死んだ後に天国にいけるというのも「理屈」でしょう。頑張って貯蓄に励めば、預金額は増えて老後は安泰だというのと論理は一緒です。つまりは、1+1=2になるという加算論理をベースにしていることに変わりはない。もっといえば、AだからBになるという相関関係や因果関係を言い出した時点で、それは「理屈」「論理」と呼ぶべきものになるのだと思います。
本当に理屈ではないものは、こういった人間の理解しうる論理則から外れているはずです。例えば、車に乗るときにタマネギを積んで走ると成層圏中のオゾンの破壊の進行が遅れるとか、朝起きたら昨日に戻っていたとか、歯を磨いているうちに気が付いたらリオデジャネイロの海岸にいたとか、そういうことです。そこには論理的関連性がなさそうに見えるから、理解できない。でもって、これを理解しようとするならば、例えばSF的なタイムトンネルとか、テレポーテーション能力とか、時空間の歪みがどうしたとかいう話になりますが、ここで理解しようとするイトナミを分析しますと、要するに論理的説明をつけようとすること、理屈をつけようとすることに他ならないです。逆にいえば、僕らは理屈がなければ理解できないし、理解できたならばそこには何らかの理屈があるということです。まったく何の理屈も立ちそうもないこと、例えば、「菜の花畑で、平仮名の”す”の字が、圧力鍋」とかいう文章は、まったく理屈の脈絡が立たないから、理解できないでしょう。
ところで、モノが見えるとか、聞こえるなどの知覚感覚は、理屈じゃないです。理屈的に納得しないとモノが見えないわけでもないし、音が聞こえないわけでもない。幽霊などが見えてしまう人は、おそらくは僕らがテレビや公園の風景を見るのと同じように、どうしようもなく見えてしまうので、「なんで見えるんだ?」といわれても困ってしまうでしょう。見えちゃうんだから仕方がないという。それを、理屈的に見えるはずがないから見えるのは間違ってるといわれると、その理屈とやらの方が間違っていると思うでしょう。そりゃ思うよね。僕だってそう思う。予知能力とか、六神通と言われる種々の超能力も、「感じちゃうんだから仕方ないじゃん」ってな世界の話だと思います。僕はそれは否定しません。見える人には見えるんだろうなあって思うだけです。
「ほら、理屈じゃないものもあるじゃないか」って言う人もいるでしょうけど、そうですよ、それは理屈じゃないです。でも「その限りにおいては」という限定付です。なぜならそれは「見えちゃった」という結果が文字通り体感的に100%実感しちゃえるから、それ以上「理解する」という作業を必要としないからです。理解したいとも思わないし、思う必要もない、だから理屈も要らない。つまり、「理屈じゃない」のではなく、理屈を「必要としていない」だけでしょう。
だから、必要になれば理屈も出てきます。例えば、普通に見えてるだけだったら、「なぜ見えるのか」なんかイチイチ考えないですけど、目の病気などで視力が落ちたとか失明しそうだとかになると、「なぜ見えないんだ?」を知りたくなるし、そのためには「なぜ見えるのか?」を理解する必要が生じます。そして、眼球レンズと視神経の関係がどうしたとか、水晶体や網膜がどうしたという「理屈」やメカニズム論になるでしょう?
人間が「理解したい」と思うところには、理屈が求められます。「理屈じゃない」と言い張ってる人もよくいますけど、意地悪な言い方をすれば、「理屈じゃない」ことで損をするような場合は、そうは言わないと思う。理屈じゃないということで得をするような場合にはそういうけど。例えば、オーディションを受けて、どうみても自分よりも劣ってる奴が合格して、自分は落ちたとします。「なぜだ?」と思いますよね。なぜ自分は不合格なのか、理由をしりたい、理解したいと思うはずです。合格した奴は最初から強力なコネがあったとか、審査員が単純にボケだったとか、自分の演技に気づかないところで致命的な欠陥があったからだとか、なんとか納得の出来る「理屈」を知りたいと思うでしょう。そこを「理屈じゃないんだ」って突き放されたら納得できないんじゃないかな。もっと端的にいえば、恋人同士が別れるときに、自分が振られる側のときは理屈が欲しいです。なんでダメなのか教えてくれって言います。でも、自分が振る側だったら、上手くいえないから、理屈じゃないのよって言い方になると思います。
なにやら理不尽にワリを食ってると思えるような場合、人は「理屈」を求めます。例えば、家族が通り魔に殺害されたとか、乗ってた飛行機が落ちたとか、本人に何の落度もないのに不幸な出来事が起きてしまうことはこの世には多々あります。それは単純に確率の問題で、人間が何万人かいれば一定の割合で殺傷事件が発生したり、飛行が年間何機落ちるかは、人間が完璧でない以上一定の確率でバグが発生せざるを得ないから当然といえば当然です。そして、たまたまそのバグ発生時に近くに居合わせたという、偶然というか、運が悪いとしか言えないような出来事です。しかし、自分自身が、あるいは愛する人が死んでしまうというこの世で最大級の不幸を突きつけられ、「運が悪かった」だけでは納得しにくいです。そこで、人によっては「もっと理屈を!」という欲求が生じ、「ご先祖様の祟り」だとか、「家相が悪かったからだ」とかいう「理屈」を求めるのでしょう。
でも、不幸の因果関係という「理屈」を強烈に求めておきながら、他方、「どうして家相が悪いと飛行機が落ちるのか?」「乗客は全員家相が悪かったのか?」とかいう理屈までは求めない。むしろ「それは理屈じゃない」という。なんか変だと思うのですが、要するに「理屈」とは、この世の現実を自分で受け止めるための潤滑油みたいなもので、受け止めて、納得することが出来た時点で理屈の役割は終わり、それ以上は必要とされない。というか、邪魔臭がられる。そういうことじゃないですかね。
この世には、理屈を必要としない事柄は沢山あります。理屈があっても別にいいけど、理屈をつける必要がないものごと。どうしてAさんが好きで、Bさんが好きじゃないのかとか、そんなの理屈なんか要らないです。というか、理屈がつけられないでしょう。これだって、人類が築き上げた最高水準の知能と知識を総動員して理屈をつけようとすることは出来るでしょう。好き嫌いの「選好」も、生物学的、遺伝学的、心理学的にある程度は理屈がつけられますからね。でも、異様に面倒くさいし、そんなことする必要はないです。同じように、なぜこの料理は美味しいのか?という理屈も、イノシン酸やグルタミン酸がどうしたという理屈はつけられますけど、別につけたからといって美味しさに変わりがあるわけではない。
そう、ここまで書いてきて何となくわかってきたことは、この世には、理屈なものと理屈じゃないものがあるのではなく、僕ら個人が、理解したいと思う対象の場合は理屈が必要になり、理解したいとは思わない(必要がないもの)ものがあるというだけでしょう。そして、後者の場合、好きだとか、美味しいとか、気持ちいいとか、感動するとかいうことは、なぜそうなるか論よりも、いかにピュアに、深くそう感じるかの方が大事だったりします。
単純に個人として充足しているだけだったら、理屈なんか野暮なことを考えずに、純粋にその感覚を味わっていればいいです。堪能しなはれってことですね。でも、ひとたび、自分だけで自足するのではなく、第三者を巻き込む必要が生じた場合、しかも「ね、これ、いいよね!」と感覚を共有できる人だったらまだしも、共有できない人を巻き込む場合、「感覚」という飛び道具が使えませんので、結局又しても「理解」してもらうという鬱陶しい作業が必要になり、そして理屈が登場してくることになります。
どういう場合かというと、例えば、Aさんのことを愛しているだけだったら心ゆくまで愛していればいいけど、その愛を第三者に認めさせなければならない場合、自分の親に結婚を認めてもらうような場合、「なぜAさんが素晴らしいのか」論をプレゼンしなくてはならなくなります。この場合、両親に引き合わせて、それで両親もめでたくAさんのことを好きになってくれたら、説得不要です。でも、「なんでこんな奴と」と感覚を共有してくれなかった場合、「実はああみえて繊細な人」で「傷つき易いからぶっきらぼうになる」「でも本当は優しい人」で「根性もあって、将来もしっかり考えていて」とか、セールスマンのようにAさんの売り込みに励むことになります。そこでは、「ね、わかるでしょう?」という感覚共有が出来ないから、必然的に万人に開かれている説得ツール、つまりは論理と理屈の世界でやらねばなりません。また、必要があれば、「高校のときに県大会で表彰されて」「年収は幾らだけど、前年度比でいえば150%増だから未来は明るい」という、証拠を示して論証する必要すら出てきます。
面倒くさいですねー、出来ればやりたくないですねー。でも、それは理屈が悪いのではないのです。それは、感覚が違う人間同士のコミュニケーションが難しい、相互理解というのは簡単ではないということです。相互理解をするためには、「わかる人にはわかる」といった独善的なツールでは不十分ですから、万人に通用する1+1=2的な論理と理屈を使わねばならないということです。
感性に比べて、理屈は、なにやら一段レベルが低いもののように捉えられがちですが、見方によっては実は逆で、人間と人間が理解し合おうとして一生懸命差し伸ばしている手こそが「理屈」なのだともいえるでしょう。この営々とした地味で不細工な理屈の積み重ねとトライこそが、人々の相互理解を促進し、ひいては世界の平和に貢献するとも言えるわけです。いや、実際、相互理解さえしていれば下らない喧嘩をしないでも済んだというケースは、国際紛争レベルでも、僕らの日常レベルでも幾らでもある筈です。取り返しのつかない悲劇が起きてしまった後、「ああ、もっと理解しあっていれば」と後悔することは山ほどあります。「理屈」というとイメージ悪いかもしれないけど、「話し合いによる解決」と言えば聞こえもいいでしょう。
それに引き替え、「感性」は尊いようでいて、「わかる人にはわかる、わからないキミらは仲間にいれてあげない」とばかりに独善的な自閉的なサロン化しやすいといえ、理屈がやっているような人間同士の相互理解への努力や誠意が無いから、レベルの上下を敢えていえば、むしろ理屈よりもレベルの低い、仲良しクラブでしかないじゃん?ともいえると思います。
だから、「理屈じゃない」って言い方を多用する人を、僕はちょっと引いて見てしまうところがあります。「理屈じゃない」って言い放って、そりゃあ、あんたは気持ちいいかもしれんけど、言われた側はどうなるのよ?そのへんのことを考えたことがあるの?要するにあんたは他者とのコミュニケーションを拒絶してるわけよって。
「理屈じゃない」というのは、@結果が明白で敢えて理屈や説明を必要としないケース、A感性共有が出来ない他者とのコミュニケートをしたくないというケース、B理屈はあるのだがそれをわかり易く説明する知識も能力も無いケース、C理屈を説明することは出来るのだけど、相手にその理解能力が無いケースなど、色々なケースがあると思います。
Cは教育やしつけなどではよくありますよね。立居振舞いや行儀作法は、条件反射的に仕込んでおかないとダメですし、あれは体術ですから理屈で納得したから出来るというものでもない。それに、そのシツケの意味と実益がわかってくるのは、かなり社会経験を経てからですからね。「貧乏ゆすりをやめろ」というシツケにしたって、若いうちは馬鹿だから「いいじゃねーか、そんなの個人の自由じゃん」とか反抗します。でもって、この馬鹿も自分が会社に入って、人事課長くらいになって、面接官として実際に面接を担当して、貧乏ゆすりしている学生を見て、「こいつはアカンわ」って落とすようになったときに、はじめて「ああ、なるほど、良くないわ」って思うでしょうから、理解するのに20年くらいかかるでしょうね。だから言ったそばから理解できるわけではない。理解能力が無い。仕方ないから理屈抜きで押し付けるしかないってことだと思います。まあ、本当は諄々と理を説いて相互理解に達するべきなのでしょうけど、「理解能力のない人間に説明を求める権利はない」というか、「馬鹿に人権はない」ってことなんでしょうかね(^_^)。教育というものの本当の難しさはこのあたりにあると思ったりもします。
さて、この雑文には、別にこれといったテーマも結論もありません。
メカニズムとか理屈とかいうものが、時として必要以上に冷遇されてるかもしれないなあって思っただけのことです。
人間が何かをもっと知りたい、理解したいと思うときには、「理屈」が、全てとは言わないけど、大きなツールになるでしょう。感覚的に納得できる場合以外は、理屈が通らないことを人は理解できないのですから。
理屈について、思いついたことをもう少し。
理屈が悪者のように扱われているケースというのは、理屈一般が悪いというよりも、その当該理屈の出来が良くないとか、理屈の使い方が間違ってるとかいう場合であるように思います。例えば、うーん、いい例が思い浮かばないけど、浦島太郎の話で、助けた亀に連れられて竜宮城にいくとき、「竜宮城は海の中だから浦島太郎は溺死してしまうはず」と言い出すのは、たしかに「理屈」ではありますが、レベルがメチャクチャ低い。というか「理屈」という称号を与えて良いか疑問なぐらいの理屈です。この種の民間説話は、「そういう話が残されている」という事実が大事なのであり、また「寓話」としての意味性を味合うものであってて、その内容の論理的一貫性や実証性の有無なんかどうでもいいのです。説話なんか一種の「比喩」「暗喩」なんだから、比喩の非論理性をイチャモンつけてもしょうがないのと一緒。「目に入れても痛くない」というのを、「目に入るわけないだろ」というようなもの。この種の理屈は、「屁理屈」としての名にも価しない。
あと、理屈は理解のための重要なツールであるけど、万能ではない。「理屈がつけられない」「つけられるけど正しいという保証はない」ということも多々あります。理屈はモノサシのようなもので、計れる範囲のものはキチンと計ることが出来るから便利ですが、対象物がモノサシよりも大きかったら計れない。計れないから、その対象が悪いとか、無いとかいうのは、それこそ理屈的にもおかしい。例えば、幽霊は理屈で説明できないから存在しないというのも、このモノサシと同じことだと思います。
同じようになにか人の行動を理解しようとして、適当にありきたりな理屈をくっつけてわかった気になるのも理屈の「悪用」だと思います。犯行の動機、自殺の理由など、「ついカッとなって」とか「リストラされたことを苦にして」とかわかったような分からないような理屈をくっつけますが、人間の行動なんかそんなに簡単わからないです。同じように、全ての行動を理屈で説明せよというのも無茶な注文です。
ただ、考えてみれば、こういった理屈の悪用、誤用がチマタにはゴロゴロしてますから、理屈が悪者になっても不思議ではないかもねって気もします。「理屈じゃない」って叫びたいときって、こういう誤った理屈に接したときだと思います。理屈を誤用する場合、あるいは誤用する人間の、「俺には全てが理解できる」という思い上がった傲慢さ、人間と世界に対して正しい「畏れ」を抱いていないという精神の未熟さ、オノレの狭い器量に全てを押しこもうとするから森羅万象が矮小化し、大事なものを取りこぼしてしまうその愚かさについて、強烈な反発感情が湧き、「お前は馬鹿だ」と言いたくなるときに、「理屈じゃない」って言葉になるのだと思います。
だから、正しい「理屈屋」としては、こういった悪用誤用に陥ることなく、理屈はスジ良く、センス良く、正しく使いたいものです。
理屈は、多分あるんだろうけど、あまりにも複雑すぎて僕には把握しきれない、って。そして、自分ごときが理解できるものなど微々たるものであり、あとは理屈抜きで(あるのだけど理解できないから)あるがままに受け入れるしかないのだと。
理屈といい感性といってますが、突き詰めて考えてみたら同じモノなのかもしれません。
人間はなにゆえ論理を論理として認識できるのか?と言い出すと、話は泥沼化しそうですが(^_^)、例えば、先ほど挙げたように 1+1=2 という加算論理があります。なぜそうなるのか?と悩むとエジソンになれるのでしょうが、でも、なんで僕らは、1+1=2のことを「そりゃそうだ」って納得できるのでしょうかね?
今ミカンを一つ持っています。カゴの中からもう一個をミカンを持ってくると、ミカンは2個になりますってことですけど、「当たり前じゃん」と言わずに、よーく考えてみると、そう思えるのは、人間の脳味噌というのが数量を認識することが出来るからですよね。また、空間把握能力に比較的長けているからですよね。ミカン一個の空間と二個の空間の違いをよく識別できる。これが出来なかったら、「1ってなーに?2ってなーに?」になるでしょう。数の概念がピンと来ないという。さらに僕らを取り巻く物理的環境が比較的スタティック(静的)だということも条件になるでしょう。ミカン一個は、腐って溶け出さない限りミカン一個のままです。だから、分別できる。しかし、ミカンがアメーバみたいにグニョンと伸びたり結合したりしてたら、1個2個と数えにくいし、数の概念もまた違ってくるんじゃないでしょうか。もし、人間がアメーバーみたいな存在で、アメーバーみたいな環境にいるとしたら、1+1=2という論理を理解できないんじゃないかって気もします。
こうして考えていくと、僕らが堅牢な「論理」として考えているのも、僕らにたまたま与えられた物質的環境やら、それに基づく知覚経験に支えられているものであって、決してそんなに自明なものではないように思えます。もっと言えば、論理とかいいながらも、そこでは「感覚的(生理的)納得」が無ければ成り立たず、なんのことはない最終的には感覚に還元されていくようにも思えます。根っこが一緒というのはそういう意味です。
理屈を何段階も積み重ねていきます。「こーなると、あーなる、あーなると、するとこうなって、結局ああなる」という。ここでの論理の接続部分や積み重ね部分をよーく見てみると、ここでも感覚的納得に頼ってる部分があると思うのですね。例えば、ダイヤモンドのように硬そうにみえる法的論理も、よく見てみるとけっこういい加減だったりします。例えば、殺そうと思って人を殺した場合と、そんなつもりは毛頭ないけど誤って殺してしまった場合とで、前者は殺人罪で罪が重く、後者は過失致死罪で罪が軽いことになってます。そこでの分水嶺は、故意か過失かという主観的な要素で決まることになってます。こう言うと、堅牢な論理に見えますが、でも、わざとやった場合と、間違ってやった場合とで「罪の重さが違うべきだ」というのは理屈があるようで無いですよ。なんで故意の場合の方が「悪い」の?悪いか悪くないか、どのくらい悪いかというのも、かなり感覚的です。
これだって理屈をつけようと思えばつけられますよ。例えば主観主義学派では、社会防衛論の立場から、わざと人を殺す奴の方が間違って殺す奴よりも、社会にとっては危険な存在だから、長い間社会から隔離する必要があり、だから故意の殺人罪の方が罪が重いのだとか。あるいは、わざとキマリを破る奴の方が、うっかり破る奴よりもより強い意志で破っているのであり、破り方は激しく、だから非難可能性も高いとかね。でも、まあ、そんな理屈を持ち出さなくても、わざとポカリと頭を殴られた場合と、態勢が崩れて肘が誤って当ってしまった場合とでは、全然話の事情は違いますし、やられたときの怒りの感覚が違う。断然前者の方が腹が立つ、悪い!ってのは、「ね、わかるでしょう?」という一種の「感覚の共有」をベースにしています。
だから論理だ理屈だといっても、ベースになるのは「感性の共有」だったりするケースが結構多いじゃないか。だとしたら、論理というのは、皆で共有して納得しあっている感性ポイントと感性ポイントをつなぎあわせているだけじゃないかって気もしたりして、そうなると良く分からなくなってきますね。
理屈で納得してもらうよりも、感性をダイレクトで共有できた方が人間同士話はスムースに進みます。そこで、理屈ではなく感性にダイレクトに訴える説得方法、共感を得る方法もまた発達しています。それがいわゆるアートなんだと思います。
「机の角に足の小指をぶつけてしまって、痛くて痛くて、でもどこにも持っていき場のない怒り」とかいうのは、状況を説明しただけで、簡単に共感を得られます。そういうのばっかりだったらいいのですけど、もっともっと複雑な感情もこの世には沢山ありますし、大事なことなので訴えたいけど誰もがそんなに経験したわけではないので伝えにくい感情、とてもピュアで深くて感動的なものなのだけど、それだけに非常にレアであり、なかなか結晶体みたいな感動は想起しにくい、でも伝えたいとか。
これを伝え、感性を共有したいがために、人間というのはあの手この手を編み出すのでしょう。単純に「悲しい」と言っただけでは十全に伝わらないので、「胸にぽっかり穴があいたような感じ」とか、いわゆる文学的表現を試みたり、悲しい感じのする音やメロディを模索してみたり、悲しい心象イメージを画像化してみたり。はたまた、壮大な「例え話」として、原稿用紙3000枚かけて順々に説き起こしていって、読み手が主人公とシンクロするようにして、主人公に仮託した怒りや悲しみの感情を共有してもらったり、それらを総合的に組み合わせて映画を作ってみたり。
ただ、こういうことは異様に手間隙がかかったり(構想10年とか)、特別に人間離れした技巧が必要だったりして、誰にでも可能というわけでもありませんし、時間をかけテクニックを磨いても表現しきれないものはあります。限界はあるのですが、感性的な部分でダイレクトに説得や共有ができたら、それだけ正確だし、理屈で言うよりも手っ取り早いですよね。
これが日常的に自由自在に出来たら、さぞかしコミュニケーションも説得も楽なんだろうなって思いますけど、そんなに簡単に出来ないです。まあ、誰でも出来たらアーティストの存在意義もなくなっちゃうわけですけど。
それに、こういうのって感性を共有すればOKの場合に威力を発揮するのであって、別に感性とは関係ない純然たる論理的な物事の場合はどうしようもないです。例えば、確定申告をしていて、減価償却の計算の方法が間違っているから修正するとか、その計算方法とか、その種のコミュニケーションの場合は、どんな名演奏家が美しいバイオリンソナタを奏でようとも通じないでしょうしね。
文責:田村
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