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今週の1枚(04.06.21)
ESSAY 161/シドニー取水制限 /TV版「砂の器」
写真は、Wavertonの近くのBalls Headでの残照。
今回は、特に大きなテーマはないです。小さな話題を二つばかり。
そろそろ日本では夏至ですね。ということは、季節が正反対になるオーストラリアでは冬至になることを意味します。
あの、ところで、季節は本当に正反対になるんですよ。「正反対のような心積もりで」とかいう精神訓話ではなく、客観的な事実としてそうだということです。地球のあっちとこっちなのですから。なんとなくそれが分かってない人が結構多く、それも「わが身のこと」として自分自身がオーストラリアに来る人でも、このあたりの認識は甘いように思います。
正反対になるということは、日本の現在の月の数(いまだったら6月)に、6を足すか、引くかすればいいです。暗算が苦手な人は、時計の文字盤を思い出して、その反対側の数字だと思えばいいです。オーストラリアの6月は、日本の6月+6=12月、あるいは時計の文字盤の6時の反対側、つまり12時になります。ですので、6月21日は、季節を正反対にすると、日本における12月21日に相当します。職場の忘年会もあらかた終わって、いよいよクリスマスイブの3日前、です。そろそろ年賀状も書き終えてなければならない時期です。だから、寒いんです。当たり前じゃないですか。
シドニーは、日本よりは温暖です。霜もおりない、氷も張らない、雪も降らない。日中の最高気温が20度を超える日も珍しくないですから、日本でいえば春のポカポカ陽気並です。でも、日本とは比較にならないくらい日較差の大きい大陸性気候ですから、太陽が沈みかけるとガクンと気温は下がり、朝晩はぐっと冷え込み、10度を割り込みます。シティで8度、リバプールとかペンリスという内陸部になれば、2度とか3度まで下がります。それでも0度以上あるから氷も張らないし、霜も降りません。だから日本の冬に比べれば「温暖」です。「温暖」というのはそういう意味です。こちらの気候、特に気温の特殊性は何度もHPで書いてますし、来られる人には特別にFAQで説明もしてますが(https://aplac.net/service/faq/index.html)、それでも実感としてピンとこない人が多いです。
無理もないといえば無理もないです。自分の生まれ育ったエリアの気候帯以外で暮らした体験が乏しければ、気候に対する感覚もどうしてもこれまでの感覚に引っ張られるでしょうしね。日本は海という膨大なクッション(陸地に比べて熱しにくく冷めにくい)に囲まれた海洋性気候ですから、一日の温度変化がゆるやかです。だから砂漠のように、昼間50度夜零度という大陸性の荒っぽさが感覚的に納得できないのでしょう。だから、日中20度くらいまでいくと聞けば、朝晩も15度前後くらいかなと漠然と期待してしまうのでしょう。それが「勝手な決め付け」であり、たまたま部分的な経験だけをしてきたからそれが全てに通用すると思っている経験の無さでもあるのでしょう。
未知のエリアに行く場合、あらかじめ情報を仕入れますが、その情報を解析できる能力の方がもっと大事です。つまり、この場合でいえば、15度といえばどのくらいの気温、23度といえばどのくらいとピンと来る能力です。ピンときますか?15度のときの服装と、23度のときの服装、なにをどうすればいいのか即座にわかりますか?何度まで下がればコートを着ますか?ここをピンとくるように鍛えておかれると、後々世界のどこにいっても重宝すると思いますよ。「春だから」という季節主導の推測は、こちらでは不完全です。以前にも書いたけど、こちらの天気予報は、晴れとか雨とかいう天候と同じかそれ以上の重要性で、日中気温の予想を言います。「今現在何度で、今日は何度までいく」と言います。その必要があるから、意味があるから、そういう言い方をするということです。
さて、温暖とはいえめっきり寒くなってきたシドニーであります。今年は結構寒いような気がする。空は雲ひとつ無い晴天が続き、空気も澄んで、まさに”澄明”という言葉がふさわしく、つるべ落としの夕焼けが綺麗になる時期です。日本でいえば、太平洋側の冬型の気候ですが、この「晴天が続き」という部分が問題になってます。雨が降らない。もう夏から降ってない。恒例の水不足、取水制限が延々続いています。
オーストラリアは世界で二番目に乾燥した国です。一番乾燥している場所は南極大陸ですから、人が住んでいるエリアでいえば、世界で最も乾いた国です。サウジアラビアやイラクよりも乾いてます。ただ、これはオーストラリア全土を基準にして言った話で、海岸沿いに作られている都市部では、緑が青々と生い茂り、特にシドニーのようにリアス式海岸になってる港町では、水は豊富にあるかのように思えます。また、シドニーの水道水は、それほどカルキ臭くもなく、そのまま飲んでも十分においしいです。でも、大きく言えば乾いているのであり、大きなレベルで天候が変わればその影響はモロに受けます。
つい先日(6月19日)の新聞にも、”Wake up Sydney - life is only going to get thirstier”という記事がありました。長引く旱魃と、取水制限、それに向けて、ここ2-3週間の内に特別対策委員会が、州政府に答申を提出する予定であると報じ、その内容を示しています。
シドニーの水ガメは、ワラガンバ・ダム(Warragamba Dam)です。こっちで地元民として生活して、地元のオージーと付き合うなら、このダムの存在や名前くらいは必須単語として覚えておかれるといいです。誰でも知ってますから。このダムの後背水源、Lake Burragorang を中心とする”水たまり”はとてつもなく巨大であり、そこにたたえられるべき水量は、軽くシドニーハーバーの全水量の4倍を越えます。途方もない量であり、ちょっとやそっとじゃ無くなる心配は無いです。でも、その「ちょっとやそっと」以上の事態が進行しているということですね。
このドラウト(drought/旱魃)は、なにもシドニーだけの話ではなく、NSW州全体に広がっています。というよりも、シドニーなんかまだまだ傷が浅い方で、ワラガンバダムも干上がってるとはいいつつもまだ50%前後の貯水量はあります。しかし、州全体でいえば、殆ど干上がってしまっているダムもありますし、枯渇してしまっている河川も多い。州の70%くらいでしょうか、ドラウト被害にあっているのは。ああ、最新のニュースでは80%までに広がってますね。当然のこととして、農業などは壊滅的な打撃をこうむっています。特にNSW州の中央から南部方面が厳しいらしく、冬季作物についても、たった15%しか作付けが進んでいないそうです。州の農業相自身の言葉でいえば、”ここ数ヶ月に奇跡の起きない限り(unless a miracle happens in the next couple of months)”、状況は厳しいようです。というわけで、皆に関係する部分でいえば、野菜や果実の値段もまだ高いままが続くでしょうし、ワーホリさんなどでファームにピッキング(農産物の収穫の仕事)をする場合、これらの旱魃/収穫情報にはビビットになっておかれるといいでしょう。
そういった地方のご苦労を思えば、シドニーの取水制限なんかまだ楽チンなものです。
シドニーでは、もうここ半年ばかり、取水制限、(Mandatory)Water Restrictionsが課せられています。前は、ボランタリーであり、自主的に協力してくださいだったのが、違反者には罰金(220ドル)が科せられるマンダトーリーレベルにまで昇格されて既に久しいです。詳しいことは、シドニー水道局の取水制限のページをどうぞ。
現在レベル2の取水制限にあり、庭に水を撒くのも水曜日、金曜日、日曜日の、それも朝の10時までと夕方の4時以降に限定されています。また、車を洗うのもホースで洗うのを禁じられています。個人的には、この洗車制限がキツいですね。いちいちバケツに水を汲んでやってます。もう長いことホースで洗車していないです。
飲み水や洗濯、シャワーなどにはこの制限がかかっていませんので、普通にシェアなどで生活する分にはあまり関係ないっちゃ関係ないです。だから、こちらに住んでるワーホリさんや留学生の中には、シドニーで取水制限がなされていること自体を知らない人もけっこうおられるでしょう。でも、まあ、現地に暮らすのだったら、多少は知っておいてもいいとは思います。
余談ですが、こちらにやってきて、現地のオージー達と立ち混じって暮らしていきたい、日本人ばかりで固まって暮らしていたくないって人は多いのですが、実際にそれが出来ている人は少ないです。別にそれをすればエライってもんでもないし、どこまでいっても「旅人」なんだから現地人と同化するのは無理なんですけど、それでも現地社会に入っていきたかったら、平均的な現地人のライフスタイルとか、頭の中身に興味を抱くといいと思います。この取水制限でも、普通に車を持っていて、ガーデニングも大事にしている(夜のTVのゴールデンタイムにガーデニングの番組があることからもわかるでしょう)オーストラリア人にとっては、車をホースで洗えない、ガーデンに水を撒くのも制限がかかるというのは、結構キツいことなんです。それに庭といっても、サバーブにいけばデカい庭も多く、スプリンクラーを設置している家も普通にあります。でも、スプリンクラーは全面禁止だから、それも厳しい。さらに、プールを持ってる家もアッパーノースとかいけば普通にありますから、この取水制限でも”No filling of NEW or RENOVATED pools greater than 10,000L except with a permit from Sydney Water”という一項がひっかるわけですね。
現地の人の「頭の中身」ですが、とりあえずは現地の人が常識的に知ってることを仕入れておくことですね。この旱魃や取水制限にしたって、現地の人だったら当たり前に知ってます。ということは、会話のネタになるのですね。現地の人と会話をしよう!とかいっても、会話のネタが無かったら話のしようがないですよね。そんな誰もが日本のカルチャーに興味を持ってるわけでもないし、その種の文化比較論しか芸がなかったら(それでもキチンと出来たら大したものだが)、いちいち話が重くなってしまって、軽い会話が楽しめないでしょう?要するに世間話が出来ないという。世間話をしようと思ったら、世間の出来事をひととおり知っておけという。定期的に新聞を読んでるだけ(それもざっと斜め読みする程度)でも、全然違いますので。
今、ワーホリは30歳までということになってますが、社会勉強という意味でいえば、30歳”以上”にしてもいいんじゃないかな?とふと思います。その社会をどう見るか、どう観察するかは、すぐれてこれまで生きてきた人生経験がモノを言います。車の免許を持たず、買ったこともない人に、オーストラリアの車事情とかいってもピンと来ないと思いますし、見ても分からないでしょう。同じように、社会経験や仕事をしたことがない人には、こちらのビジネス事情や労働事情もまたよく分からんでしょう。比較の対象がないし、そもそも頭がカルティベートされて(耕されて)ないからです。日本で確定申告を自分でしたことのない人に、こちらの税金事情もわからんでしょう。結婚したり、子供を産み、育てたり、病人の看護をしたり、自分が病人になって入院したり、家を買ったり、建てたり、裁判沙汰を経験したり、交通事故をしたり、、、、これらの経験を積むほどに、社会システムがよくわかるし、そういうものの見方が養われます。ある程度そういう視点やフォーマットを仕込んでからこちらに来ないと、ビーチで遊んで、パブで飲んで、カンガルー見て、それで終わりになってしまいかねない。それだったら別に観光ビザで出来ますもん。せっかくの機会に勿体無いなって気もしますので、「ワーホリは30歳までダメ」と逆転した方が面白い気もします。
でも、まあ、本当は、18歳にもなれば成人として、自らの経験こそないまでも、社会について一とおりの知識を身に付けているでょ?ってのが制度の本来の趣旨なのでしょう。同じ18歳でも、ヨーロピアンやオージーで、大学行くくらいのレベルだったら、そのあたりのことは日本人の平均的な大卒よりもよく知ってます。義務教育の段階からワーク・エクスペリエンスとかインベストメント(投資)とか普通に習ってきてますし、外国人や異民族、異文化に取り囲まれるようにして育ってきますから。まあ、そうなるともう教育問題に話が移っていきますし、今日明日何とかなるものではないですが、まだ年若く、社会的経験の浅い人は、それだけに好奇心のアンテナを広げたり、なんにでも積極的に興味をもっていかれるといいと思います。面白い切り口が沢山見つかると思いますよ。それに、近い将来、自分自身が体験することでもあるのですしね。
話はいきなりガラッと変わります。
前にも書きましたが、こちらのチャイニーズのCD/DVDショップでは、日本のTV番組や映画の中国語字幕付のものが安く売られています。著作権的に”?”というものもありますし、OKそうなのもありますが、いずれにせよ、日本で買うよりもかなり安いです。日本のドラマ1クール分まとめてVCD8枚組になってますが、それで30ドル前後ですからね。2400円くらい。VCD版は、DVDに比べて記憶容量も少ないし、画質もやや悪いですが、普通に見る分にはまず問題ないです。面白いのは、日本人だったら10回番組だったら10枚組にするところを、実質本位というかなんと言うのか、出来るだけ少ない枚数で押し込んでますから、結果として番組の途中だろうがなんだろうがブチっと終わって、次のVCDに続きます。また、多分ビデオで録画したのを原版にしてるのでしょう、見てると、「ニュース速報」とか「選挙速報」というテロップが流れたりします。
別に日本のTVだけではなく、韓国のもの、香港のものも入ってきているようです。でも、今は、このあたりのカルチャーというのは似たり寄ったりなので、VCDやDVDのパッケージを見てても、「これが日本、これが韓国」とか分かりません。タレントの見た目も似たり寄ったり、デザインも似たような感じですから、特に知っている作品でない限り、パッケージのどこかに日本語が残ってたら日本のもの、ハングル文字だったら韓国のものって感じで識別するしかないです。
今年の1月から日本のTBS系で放映された「砂の器」ですが、既にこちらでも平然と(^_^)売り出されていて、「ほお」と思って見てみました。以下その話題を書きます。
「砂の器」という作品については、僕は正統派の消費者かもしれません。なんのこっちゃかというと、まず松本清張の原作の小説を読み、映画が封切りされたら映画館まで見に行き、その後ほどなくしてTV番組化されたもの(田村正和が主役をやってる)も見て、今回、中居正広の砂の器も見ているという。発表された順を追って見て、感動していることで、正統派です。
映画の砂の器を見たのは、たしかまだ中学2年とか3年の頃だったと思います。74年だから、そうですよね、中2か。銀座かどっかに見に行ったと記憶してますが、いや、良かったです。批評眼もろくすっぽない中坊ですし、「日本人が忘れかけていた日本の原風景
」とか言われても、忘れるもなにも未体験だし、音楽とか演技とか、そのあたりの観点もまるでわかりませんでした。特に映画少年ってわけでもなかったし。それでも、というかそれだから、分析も評価もできないままそのままドカンと飲み込むように観たこともあって、かなり身体の奥の方まで沈みこんでいった映画でありました。
その後ずっと時間が経過して、30才頃に、ふと気まぐれでレンタルビデオで借りてきて、「おお、これはこんなに名画だったのか?」と感動しました。この頃になると、一応評価もできるようになってますから、じっくり鑑賞できたわけですが、音楽にせよ、演技にせよ、そして何よりもカメラワークというか、「全体の作り」そのものが、メチャクチャ気合を入れて作ってるのがわかって、「日本映画の最高傑作の一つ」というのも間違いではないよなって思ったものです。
封切り当時、たまたま見ていたTV番組で森田健作が砂の器のインタビューに答えていたのを記憶してますが、野村監督や橋本忍などのスタッフが鬼のように映像にこだわっていて、ロケをしても「雲の形が気に食わない」となれば「雲待ちでーす」とかいうことになって、役者さんからスタッフから全員ぼけーっと待ってて、ひどいときには何日でも待ちつづけるという。確かにそのくらい気合を入れてないと撮れないだろうという映像の世界でありました。
この映画版「砂の器」も実はチャイニーズ版がありまして、僕は二枚も持ってます。一つは、間違って買ってしまったのですが、中国語字幕がつくのではなく、完全に中国語の吹き替えになってるやつでした。14ドルかそこらで安いなーと思ったのが間違いでした。丹波哲郎も森田健作も中国語喋ってます。でも、中国語の吹き替えがあるということは、中国でもそれだけの需要があるということなんでしょうか。もう一枚は、ちゃんと日本語原版で、中国語の字幕のあるもの。それは良いのですが、もう色落ちが激しくて、白黒にうっすら色がついているという感じ。あの大スクリーンで見た、「うわ、なんて綺麗な風景なんだ」というブン殴られるようなショックは望むべくもなかったです。そこが惜しいというか、致命的です。
さて、今回の中居「砂の器」ですが、「うーん、原作(映画)が凄いだけに、どんなもんかな?しょーもなかったらヤだな」と半分不安もあったのですが、良く出来ていました。クォリティは映画と同等。だから、映画が2時間で圧縮していたものを、10時間かけて丁寧に作りこめるだけに、ある意味では映画以上になっていると思います。
まず唸ったのは映像です。「うそ?」というくらい力入ってますね。TV番組レベルのクォリティじゃなくて、映画レベルです。よっぽどお金と時間と、なによりも才能を費やさないと、ああいう絵は撮れないんじゃなかろうか?と、素人ながら思ってしまいます。もしかしたら、すっごく簡単に取れちゃうのかもしれないけど、だったら今度はそのテクニックが凄いです。
なにがそんなに映像が凄いかというと、とにかくロケが多い。べつにロケでなくてもスタジオでちゃっちゃと撮ればいいじゃないかというようなシーンでもロケにしているらしいのですが、これって大変だと思いますよ。前提のロケハンが一苦労だろうけど、場所が決まったとしても、まずスタッフと機材を担いでそこまで行くのが大変だし、行ったら行ったでそんなに思ったような風景になってくれてはいないでしょう。海辺のシーンでも、通行人なんか全然見えないから、多分協力を願って立ち入らないようにしているのでしょう。しかも、かなり高い位置からのロングショットが多いから、立ち入り禁止区域も相当広いでしょう。でもって、思ったような天候になってくれているとは限らないし、光の加減なんか刻一刻と変わります。夕陽のシーンが多いのですが、夕陽なんか分単位で光源や光量が変わるだろうから、納得できなかったら、はいまた翌日ってことになるのではないでしょうか。それに、「雲待ち」みたいなこともしたでしょう。実際、この番組の雲は綺麗です。夕陽の波止場のシーンが最初の方に良く出てくるのですが、あんな奇麗な夕焼け雲、そうそう滅多にないんじゃないか?どうやって撮ったの?って気がします。
それだけ必死こいて、数日がかりで撮ってるんだろうなーというシーンであっても、わずか数秒だけ映して終わりという、えらく贅沢な遣い方をしてます。また、同じような場所のシーンであっても、季節を変えて、場所を変えて撮ってますよね。亀嵩駅のシーンなんかでも、雪の頃のそれと、晩秋のものがあるし。
それとものすごくクレーンを多用してます。かなり高いところからの俯瞰のショットが多い。あれだけ高かったら、よほどデカいクレーンをもっていかないとならないように思います。亀嵩駅のシーンでも、駅のこっちからのショットを3秒流したら、こんどは反対側からのショットが流れるという手の込み方で、このわずか数秒のシーンのために、スタッフ一同えっちらおっちらクレーンを移動して撮ってるわけでしょ。かなり気合が入ってないと、こんな面倒くさいことやらんでしょう。普通の捜査会議かなんかでも、あたりまえのようにクレーンを使ってます。また、クレーンではありえない高度の撮影もあり、それはヘリコプター飛ばしているのでしょう。「話は東京の和賀の自宅のマンションに移って」ということを表したかったら、別に東京の雑踏のシーンを移せばいいのに、わざわざ東京湾からヘリコプター飛ばして撮影してます。
あと、特筆すべきは光の使い方がすごい上手だと思いました。主人公の豪華なマンションのシーンが多いわけですけど、一面窓ガラスで外からの光が入っていて、常に逆光気味に撮影しているのですが、ただのベタなシルエットになりがちな逆光を非常に上手に使い分けています。また、ピアノや床の反射や質感もよく出ています。
そして、当たり前ですけど、これらの努力が空回りしてないことですね。無駄に気合が入ってるわけではない。映像を洗練させている効果として、まず第一にロケが多い分、物語の臨場感が違うでしょう。吹きさらしの日本海でのシーンでも、役者さんのアップだけだったら別に日本海まで本当にいかなくても撮れるわけですが、やっぱり実際に撮ってると、その場の空気の冷たさや潮風の感じがなんとなく画面から伝わってくるものがあると思います。その積み重ねというのが大きいんじゃないでしょうか。特に、最後の方の親子放浪の回想シーンは、そういった皮膚感覚が伝わるかどうかというのが、説得力につながっていくと思います。日本海の海岸のシーンや、亀嵩などの奥出雲のシーンが多いので、なんか見ているうちに、本当に自分もそこに行ったことがあるかのような、あと20年もして記憶があやふやになったら自分が行ったという誤った記憶が刷り込まれているな、そういう部分ってあると思います。
第二の効果は、物語の進行に「ノイズ」が入らない点です。例えば、まあ、極端な例ですけど、街頭でのシリアスな会話シーンなどで、役者さんの後ろの方で、近所のガキがカメラに向かってVサインしてたりしたらアカンわけです。当然ピントもあってないし、そっちに注意が向かってるわけでもないから気づかなさそうなものなんですけど、不思議と人間ってそういうものに目にいってしまったりするのですね。まあ子供がVサインというのは論外にしても、路上のシーンでも電柱の看板をふと読んでしまったり、海辺のシーンで関係ない人がいたりすると妙に気になったりします。この物語は、痛快なアクション映画ではなく、人間の内面、それもかなり深い部分にスポットを当てる内面描写のドラマですから、チャカチャカ、ザワザワしたノイズは、ある意味では致命的でしょう。だから、注意を逸らすようなものは極力排除されているのでしょう。
三番目に、これは二番目と似てるけど、映像それ自体が美しく、それも任意のワンカットを切り抜いてきても額に入れて飾ることが出来るくらい美しいと、見ていて気持ちよくなりますよね。これが大きいと思います。村上春樹のときにも書きましたが、文体が生理的に気持ちいいというのが大事だというのと同じく、映像が生理的に気持ちいいかどうかというのが僕にとっては大きいです。ここがあんまり気持ちよくないと、いきおいストーリー展開の面白さとか、豪快なアクション、奇想天外なトリックなどのオカズがないと間が持たなくなるように思います。逆に、ここを洗練させているからこそ、じっくり内面を描けたのだろう、じっくり内面を描きたかったからこそ、あそこまで映像にこだわらなければならなかったのだろうと、僕は勝手に思ってます。実際、ストーリー展開だけだったらそんなに11回も連続ドラマで持たないと思うし、ストーリー展開で引っ張っていくタイプの物語でもないでしょう。
主演の中居正広は、あのSMAPの中居クンなのですが、僕はSMAPって殆ど興味ないからそんなに知らないので、逆に「あの中居クンが」という目で見ないで済みました。以前、「模倣犯」で主演していたのを見たことはありますが、あれは映画の出来自体がかなり悲惨というか、山崎勉の好演で何とか体裁を保てたかのような、そんなに凄いと思った映画ではなかった(ハッキリ言えばかなりクソだと思ったのですが)せいか、彼の印象も薄かったです。
でも、今回の砂の器では、いい演技をしていると思います。常に眉間に皺を寄らせて、冷たくも厳しい性格で、台詞も少ないわ、また言う台詞も結構象徴的なものだったりして、えらく難しい役なのですが、好演していたと思います。少なくとも「あーもー、こいつでブチ壊しだ」ってことは全然なかったし、それどころか「一分の隙もないほどに、自ら無理して作り上げた人格像」というのをうまく表現していたと思います。また、それが内面からサラサラと崩れていき、最後の最後で表面にまで達するその過程とグラデーションがよく出てたと思います。動作的な演技でいえば、普通に歩いたり、車を運転したり、あとは苦虫噛み潰した顔でうつむいているだけだったりするわけで、変化のつけ方が難しいだろうなと思うのですが。
よくまあこれだけTVドラマで撮れたよなあと思ったら、映画のスタッフ、橋本忍と山田洋次が参加しているのですね。本家の二人が参加していれば、それは本家を超えようとするでしょうし、いい加減なものにはしたくないでしょう。
もう一つ感心したのは、あれはもともとライ病患者の話で、ライ病に対する根強い差別意識が全ての発端なのですが、話を現在に持ってきてしまうと全ての設定が狂うのですね。主人公が第三者の戸籍を獲得するのも、原作は大阪大空襲で戸籍原簿が焼失したことになっているのだけど、そうしちゃうと主人公は今70歳くらいになってしまうから辻褄が合わなくなります。そこを村人30人殺害の指名手配犯にし、大阪大空襲を長崎の水害事件に置き換えています。うまいこと考えるものだなと思います。30人殺害とはなんとオーバーなと思う人がいるかもしれないけど、結構そういう事件は過去にあります。有名なのは津山事件で、昭和13年にひとりの村の青年が、わずか1時間半の間に30人の村人を殺害しています。この事件をモデルに横溝正史の「八ツ墓村」を書いています。
もともと映画も、松本清張の原作をかなり変えています。そもそも主人公はクラシックのピアニストではなく、現代音楽の前衛芸術家だし、超音波を使って流産させようとして結果的に第二の殺人も犯すし、けっこう違います。親子の流浪も、そこをメインに書いているというよりは、さらっと流しているだけです。考えるに、松本清張が原作を書いた頃(1961年)の日本においては、ライ病患者へのいわれなき差別も、親子で流浪することも、それほど珍しいことではなかったのでしょう。豊かな時代になりつつありながらも、まだ人々の記憶には残っていたのでしょう。映画のテーマとなった、生まれながらにしてどうしようもない「宿命」という概念も、あえて著者が力説しなくても、当時の日本人だったらごく一般的な、身近な観念として共有していたのだと思います。だって、「家柄が違う」「身分が違う」という理由で、当然のように結婚を諦めてたりしたのですからね、当時は。それが時代が流れ、映画の頃には、意図的に人生の宿命性をテーマとしてフォーカスし、さらに21世紀になってしまえば、「ライ病患者への偏見」「お遍路さんとして村を追い出される」という出来事が、なにかおとぎ話のように感じられるようになるのでしょう。だから原作以上に、宿命という概念を丁寧に描きあげねばならなくなるのでしょう。
松本清張の原作は、宿命とか親子の情愛がメインなのではなく、多くの清張作品がそうであるように、推理小説として、盲点にあるような「意外な発見」がポイントです。「中国地方に東北弁のような方言がある」という発見が、この原作小説のキモだったのでしょうし、それだけで一本になりえた(確かになりうると思う)。ちょうど、名作「点と線」が、日本の推理小説世界に時刻表というものを持ち込んだのと同様、「よくそんなことに気づくなあ」という炯眼と着想が大事だったのでしょう。だから、小説の原作は、主人公の人間性を深く掘り下げることもないし、心理描写もあんまりないし、純然たる刑事小説、それも下手な俳句が趣味の、捜査は鬼だけど気の
いい中年男として今西警部補補を描いていたのだと思います。もう、全編これ「徒労の鬼」みたいな、地道な地道な捜査が連綿と描かれてます。映画版になると、犯人の和賀が半分くらいのウェートを占めるようになりますが、それでもまだ今西警部補が主役でしょう。砂の器はまずもって”今西警部補事件簿”だったと思います。ところが、中居TV版になると、渡辺謙が今西警部補を好演していますけど、主役は完全に和賀になります。そのあたりの違いが面白いですな。
これを書き終えて、さて皆はどんな具合に思っているのかしらと、他の人のレビューなんぞをインターネットでパラパラと見てみましたけど、感心するのも多かったけど、「なんだかなあ」って思うのも多かったです。本人は辛口評論で鋭いつもりなんだろうけど、意見や感性の違いは人それぞれにしても、「そういう批判はないでしょう」というのもありました。それは、例えば、イソップの「アリとキリギリス」の話に対して、昆虫の生態について事実に反すると批判してるようなものです。キリギリスは冬には生きてないとか批判したりしてね。「なんだかなあ」です。
あとよく目立ったのが、「泣かせようという意図が見え見え」とかいうやつです。なんか詰まらない映画を見すぎておられるのか、どうも「人間なんかそんなもんよ」と妙に背伸びしてひねこびた中学生みたいな、あざとい意見だなあって思います。これだけ手間ヒマかけて「物を作る」サイドの人間としては、いかに完成度を上げるか、いかに伝えるかに腐心しても、その結果として誰が泣こうがあんまり気にしないんじゃないですか?それに泣ければOKってもんでもないでしょう。いろんな場合がありますが、鮮烈なショックを受けたときは、涙なんか出てこないこともあるし、まさに「言葉を失う」って感じで呆然とするときもあります。映画版の砂の器を最初に見た中学生のときも、僕は泣きはしなかった(大人になってから見たときは泣けたけど)。泣きはしなかったけど、前に書いたように、何だか知らないけどものすごいモノが身体に残りました。身体の奥の奥の方に、やたら重い石を一つ置かれたような、それで体重が増えたような、それから先一生この石を抱えて生きていくんだろうなという種類の感動でした。だから、泣くとか泣かせるとかいうのは、一定レベル以上の作品を評する場合、たいした基準になりえないんじゃないかって思います。なんというのか、この作品に限らず、例えば
書籍の広告用の帯の謳い文句を見るにつけても、「泣ける」かどうかが今すごい重要なポイントになってるような印象があるのですが、皆さん、泣きたいんですか?
あと、当然のことながら、突込みどころは沢山ありますし、そんなのあっていいんです。文句なしの名作といわれる作品であっても、突っ込もうと思えば幾らでも突っ込めますからね。そんな重箱の隅をつついて、鬼の首でもとったようなレビュー書かれても、ちょっとなあって思います。同じように、ドラマが間延びしてるってのも、言っちゃ悪いけど、読解力が甘いとか、注意力散漫だからじゃないですかね。もっとも、僕はVCDにして一気に見たってのが大きいと思います。これがCMがちょこちょこ入り、毎週ブツ切りになる連続ドラマだったら、ツライものはあるかもねって気もします。不朽の名作になっている「巨人の星」「あしたのジョー」もリアルタイムに毎週読んでたのですが、あれって物語が進むにつれレベルが上がってアートになっていくのですが、それに伴いじっくり描きこむようになるから、毎週分割して読んでる身としては退屈でした。あとで単行本で読み直してみて初めて、固まりのような感動になって再生したのですが。
和賀と成瀬(松雪)の恋愛物語が尻切れトンボだという批判もあったけど、もともとそんなもの描こうとしてないんじゃないんですか。松雪の役どころは、宿命の多様性の表現であり、「誰にでもある」という共通性であり、同時に無理に無理を重ねてきた和賀が、滅びの予感を抱きながら、その宿命に正面切って相対していくための「触媒」性にあるのだと思います。
渡辺謙の今西警部補が刑事としてのリアリティがないという批判もあります。うん、僕もそう思うけど、でもさ、「刑事のリアリティ」とかいうけど、実際に刑事が働いている現場を見たことあるのかしら?なにをもってリアリティというのか。それもイマジナティブなものでしょう。そもそも僕に言わせれば、刑事物じゃないですからね、この物語は。リアリティでいえば、高村薫の小説の合田雄一郎の世界のように、吐き気がするほど濃密なそれもあるわけですけど、刑事物語に力点をおかないコンセプトだとすれば、淡くていいのではないかと。また、渡辺謙の役廻りは、和賀の理解者であり、説明役だと思いますから。
でも、あっさり描いているようで、「父と息子」という構図、それも父子とも同じく人を殺めてしまい or 警官になるという構図、ともに父親が病床にあるという構図、それをきっかけに父親への理解が再度深まっていく構図などは、和賀と今西で二重絵のようになってます。もっとネチっこくそのあたりを描くことも出来たでしょうけど、別にコテコテと親切に描かれねば分からないってものでもないので、これでいいんじゃないでしょうか。「宿命」は「誰にでもある」という普遍性を示唆する程度でいいんじゃないかな。和賀の物語は誰の物語でもあるということ、和賀の人生が奏でる主旋律が、副旋律やオブリガードである今西警部や成瀬あさみ(松雪)が出てくることによって、普遍的な広がりを響かせればいいんでしょ。だから両名の役どころは「響き」でいいわけで、ちょうど奇しくも成瀬の所属する劇団の名前が「響」であるように。
最後に音楽ですが、これ難しいですね。どちらが良いかという問題ではないよなあって気もしますから。もともと原作の映画版の音楽のイメージを崩さないようにと言われて作曲したらしいのですから(これは難しい注文だと思いますよ)。曲それ自体としては、映画版の方が僕は好きです。映画版の方が、メロディと構成にくっきりとエッジが立っているのと、第一主題の他にも魅力的な第二主題、第三主題があったし、ラストあたりの展開と盛り上がりは凄いと思います。TV版の方は、基本的には第一主題が終始一貫変奏されていくだけなので、やや面白みに欠ける感じがしました。しかし、これは好みですよね。それに、それは映画だからって部分があると思います。2時間に凝縮して一気に見せるためには、エッジのとがった、やや大袈裟なくらいに起伏をつけた方が良いのでしょう。それを延々11回ドラマでやってしまうと、逆に臭かったり、油っこかったりするのかもしれません。
ただ、TV番の曲でも、最後の盛り上がりの方で、主題の最初の部分が、つんのめるように、スタッカートになっているヴァージョンがありますが、あの部分の曲想は凄いです。鳥肌たった。ちょうど和賀が、曲を最後に完成させるために単身亀嵩に赴き、ホームの端に崩れ落ちるときに流れるのですが、溜めに溜めきった堰が一気に崩壊するあの表現が、ドラマのテーマと完全にシンクロしていて、感動的でありました。オーラスで、和賀が父親千代吉と再会する場面が一番感動的だという意見が多かったのですが、確かにあそこでの両者の演技はかなりのものだと思いますが(難しいと思うし)、でも、僕には亀嵩駅のホームが一番印象に残りました。あそこが起承転結の「転」の極致だと思うからです。
このドラマ、それほど大々的に評判になったわけではなさそうですが、連ドラのノリで見てると分かりにくいかもしれませんね。ただ、息長く売れるとは思います。映画版で感動している人にこそお勧めかもしれません。ノスタルジーに引っ張られて映画を見るだけだったら映画版の方がいいとは思いますけど、頭をリセットしてちゃんと見るとこちらもいいですよ。僕も今回映画版の方も、もう一回同時並行的に見比べてみました。
オススメですとか言いながら、日本で幾らで売ってるんだろう?と思ったら、DVD版で2万2000円もするのですね。そりゃないだろうというくらい高いです。なんでそんなに高くするのだろう?全然デフレじゃないですよね。
文責:田村
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