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今週の1枚(04.06.14)
ESSAY 160/ 「経済」について
ふと、今の日本経済は、本当のところどうなってるんだ?という疑問が湧きました。まあ、パッとしませんわね。90年代初頭のバブル崩壊から十数年、「不況だ」と口にするのもウンザリするくらいパッとしない状況が続いてます。その理由はいろいろあるでしょうし、たちどころに幾つもあげられるでしょう。やれ、不良債権処理が進んでいないからだ、デフレスパイラルが進行しているからだ、規制緩和を含む構造改革が進んでないからだ、政府の景気刺激策が不徹底だからだ、銀行が貸し渋っているからだ、政治がダメだからだ、日銀が悪いからだ、、、などなど。でも、本当のところはどうなんでしょう?
政府だって、国民だって、ぼけっとしていたわけではないでしょう。不況になったら、公定歩合を下げて、マネーサプライを増やして景気を上昇させるという古典的なセオリーは、とっくの昔にやってますし、それどころかここ数年金利はほとんどゼロのまま張り付いています。これ以上やりようはないです。景気刺激策としての公共投資は、もうジャカスカやりまくってきました。ここ十数年で政府の借金(国債発行残高)は、400兆円も増えています。殆ど倍増。ゼロ金利にせよ、国の借金増にせよ、ほとんど自殺行為といってもいいくらい頑張ってきてます。これ以上やれというのは無理でしょう。同じように金融システム不安への対処としては、銀行救済やら再建のために巨額の公費が投入されています。
デフレがいけないって説もあります。でも、普通デフレになったら、物価が安くなるのだから、企業も家計も楽になって、前よりも皆が物を買うようになり、市場にお金が出回り、活発になり、景気が徐々に良くなっていく筈でしょう。だからデフレが常に悪いわけではない。規制緩和にしても、構造改革にしても、不徹底だ、骨抜きだという批判はありながらもこの十年取り組んできてますし、だいぶ緩和された面もあります。本当だったらもう少し効果が出てきてもいいんじゃないかという。
「あれ?」と思ったのは、いわゆるセオリーどおりのことを、「これでもか」というくらいやり続けてきて、本当だったらとっくの昔の効果が上がっているはずなのに、そうならないことです。やってもやってもパッとしない。「なぜだ?」ということです。
政府や当局の経済政策というのは、両刃の刃であって、強烈な副作用を生みます。例えば、赤字国債を発行して、公共投資など大幅な景気刺激策を取ります。この時点で、まず国の借金がドカンと増えます。本来、財政の健全化という点ではやってはいけないことです。しかし、「身を捨てて浮かぶ瀬もあれ」というか、一種の「捨て身技」として、まず政府が借金に火ダルマになりながらも、無理してガンガンしてお金を使いまくれば、それが発火点になって景気が良くなり、景気が良くなれば税収も自然に増え、最初の借金を返済できるだけのものが返って来るというシナリオですよね。公共投資にせよ、景気刺激策にせよ、かからない車のエンジンを無理やりかからせるための押しがけスタートというか、セルモーターというか、そういう「最初の一発」を与えるものです。無限に押してられませんし、セルを廻しつづけたらバッテリーが空になるように、何度もやるようなものではない。最初にガツーンと蹴りをカマして、景気というエンジンを廻すためのものです。でも、エンジンがかからない。かからないと、最初の「身を捨てた」部分だけがマイナスのツケとなってのしかかります。
つまり、国の財政が悪化すればするほど、国のその他のサービスは低下せざるを得ない。例えば、今話題になっている年金にしてもそうです。国が貧しくなれば、そんなに皆に気前よく配ることはできなくなる。無い袖は振れないってやつです。だから、年金の掛け金は上がるが、需給額は減るという。同じように、各種生活保障のレベルも下がるでしょう。治安悪化に備えて警察官の大量増員なんてのも出来ないでしょう。介護保険なんかも絵に描いた餅になるかもしれない。
公共投資のもとになるお金は国民皆のお金であり、それを使う以上はそれ以上のリターンがなければ正当化されない。それなのに、予定したほどリターンが無いじゃないかってことが問題になっているのでしょう。人によっては、気楽に(気楽じゃないのかも知れないけど)、「国はもっと景気対策を!」とか言いますけど、あれって「俺の年金を削って、道路を作るべきだ」というのと同義ですよ。そのことの痛みと覚悟のうえで言ってるのかな?って疑問はあります。そういう痛みの上で道路を作っても、各地方の顔役的土元業者の懐と、それを経由して政治家やら、天下りの高級官僚やらの各利権集団に配分されるだけで、景気刺激的効果なんか、実際の額面ほどにもないじゃないか。結局、国民の年金その他のお金を、利権集団がむさぼってるだけじゃないかって、そういう認識がひろがっていって、だから小泉政権も公共投資には冷たい態度を示しているし、国民もそれをサポートしてるのだと思います。
この際、なにがどうなってるのか調べてみるかと思って、ネットを巡回してみたのですが、難しくて早々とあきらめました。いろいろな人がいろいろな事を言っていて、それを読む限りでは「なるほど」と思うのですが、また別の人が別のことを言っていて、それを読むとこれも「なるほど」になり、結局全体像がつかめないのですね。そりゃ、そんな簡単に全体像がつかめたら苦労はしませんし、僕にそんなことが出来るくらいだったら、皆さんとっくにやってますよね。
そんななかで、この10年の経済論争を手際よく概観した寄稿記事がありました。小林慶一郎氏の「経済論争 この十年」という論稿で、朝日新聞の2004年4月8日から8回に分けて掲載されたものです。http://www.rieti.go.jp/jp/papers/contribution/keizaironsou/index.html
に掲示されていますので、ご興味のある人はどうぞ。
この論稿で最初に指摘されているのは、現在の経済学はケインズ経済学派と新古典主義派に分かれており、どの論争をみても結局はこの対立に収斂されることが第一。ケインズ派は、財政&金融政策を使って政府&日銀が景気をコントロールできると唱え、大きな政府を志向するが、新古典派はそれに疑問を呈し小さな政府を提唱するそうです。両論いずれが良いのか僕には判断できないけど、まずもってこのような「ものの見方」の大きな対立があること。第二に、これは「なるほど」と思った点ですが、いずれの議論にせよ、科学的な分析立論を超えて、あるいはそのベースにあるものは、論者の価値規範であるということです。「社会はどうあるべきか」という理想が各自それぞれ違い、その違った価値観に基づいて議論してるから、どうしてもベースの価値観に引っ張られてしまって、
議論が噛み合わないという。
抽象的に言っていてもわかりにくいでしょうから、例えばこういうことだと思います。「弱者の切捨ては是か非か」という問題があるとします。モラル的には当然非であり、これに異論のある人はいないでしょうけど、こと経済政策として考えてみた場合どうか?と。まず強者を救うことによって強者達に働いてもらって豊かな社会を築き、その余裕で弱者を救うべきだ、そうでなければ実際に廻っていかないじゃないかという立場。その逆に、いかなる場合でも弱者を切り捨てるのは許されないことで、ただの弱肉強食なだけだったら、それは「社会」ではない、弱者も強者もいかに等しく幸せになれるかを模索するのが社会というものではないかという立場もありうるでしょう。
原始社会において、飢饉に襲われた集落が、より豊かな場所を目指して移動しているとします。集団はヘロヘロになり、食料も少なく、このままだったら全滅してしまいかねない。ウサギでもなんでも獲物をしとめて食いつながないとならない。でも空腹で誰も力が出ない。そんなときに、女子供年寄りまで平等に食料を配ってたらジリ貧だから、彼らが餓死しようが、獲物を取れそうな強くて若い男性に食料を集中的に与え、彼らが獲物を獲ってきてもらうのを期待するという物の考え方があります。ギリギリの価値判断で、それも止むを得ないと思うか、いやそれはダメだと思うか、そこは人それぞれの考え方だと思います。
経済論争にもこれと同じような部分があるということでしょう。年金や福祉を多少カットしようとも、大企業など日本経済を引っ張っていく連中を手厚く保護して、景気を立て直してもらうべきだという発想もあるでしょう。これに反対する立場(どうしても切り捨てという行為を納得できない人)は当然あるでしょうが、反対論を展開するに当って、まさか「死ぬときは皆平等に餓えて死のう」みたいなことは言わないでしょう。こういうときだからこそ、福祉や年金を大幅に拡充して、国民が安心して暮らせるように思ってもらわないとならないという言い方をするでしょうね。将来の不透明感や先行きの不安感が、財布の紐をギュッと締まらせ、消費を低調にしている原因なんだから、「なーんだ、心配しなくてもいいんだ、溜め込まなくてもいいんだ」っていう明るいムードが広がれば、消費も増え、景気も良くなるという。
それぞれにもっともな考え方なので、Aを読んだら「なるほど、Aか」という気になり、Bを読んだら「むむむ、実はBだったか」という気になるという。そして、それらの立論の根底にあるものは、その人の人間観や社会観なのでしょう。意識的にせよ、無意識的にせよ、それらの価値観に基づいて理屈を立てていくのでしょう。
付言するに、こういった理屈どおりに物事が進まない、政治や社会の腐敗という点も大きな問題になっているでしょう。経済政策というのは、風が吹けば桶屋が儲かるという図式のように、ショートからセカンドへ、セカンドからファーストへと、滞りなく物事が進むことを前提にしています。そこで、ショートがお手玉したり、セカンドが落球したり、ファーストが転んだりすることまでは予想してないのだけど、現実にはそういうことも起こりうる。上述のように、100億円の公共投資をしようとしても、例えば道路工事をしようとしても、そのうち30億円くらいは本来の景気刺激とは関係ないところに消えたりします。例えば、政治家にリベートとしてわたったり、有名無実な公共法人の天下り理事の法外な退職金8000万円とかに消えたり、景気刺激になるはずの建設業者への工事代金にしたって、全額収入として計上して社員にボーナスをドンと振舞うわけにもいかない。今後、自分の会社が受注できるようにまた献金なり賄賂を贈らないとならないし、談合のための調整金を同業他社に払わねばならない。道路を作るのがなんで景気刺激になるのかというと、工事を請け負った会社が儲かり、そこの社員が給料がっぽりもらってホクホクして、新車を買ったり、家を買ったり、旅行にいったり、ご馳走を食べたりという行為を通じて、お金が天下に廻り始めるからですよね。でも、その企業が代金を会社のなかに溜め込んで、外に出さなかったら、景気刺激も起きない道理です。
このように教科書どうり景気対策を忠実に実行しても、社会が腐敗してたらダメじゃないか、結局利権集団を肥え太らすだけではないかという。だから、景気対策より先に構造改革をしなければならず、ちゃんとショートからファーストに流れるように、腐敗を一掃しなければならない、だからまずもって政治改革をやらねばならない、、、という流れになっていくのだと思います。
それはそれで正しいのですが、政治改革から先にやれということになると、えらく話が大きく、長くなってしまう。ましてや利権構造というのは今や日本社会のDNAみたいなものになってしまっているので、それを是正しろ、そのためには国民一人一人の意識改革から、、というのは超正論であったとしても、百年河清を待つに等しい。もちろんそれはガンガンやらねばならないとしても、数年の間に即効性が現れるというものでもない。意気込んで改革しようとしても、いわゆる”抵抗勢力”の猛反対にあって骨抜きにされていくのを目の当たりにすると、「やっぱりダメじゃん」と逆効果が生じることもあるでしょう。少なくとも、正しいことがすなわち有効なこととは限らない。
このようにあれこれ考えていると、経済というのは本当に謎です。
断片断片は比較的クリアに見えるのだけど、全部を統合してみていくと、なにがなんだか分からなくなります。
前にも書きましたが、特別に戦争や天変地異でも起きたなら別ですが、何も起きてないのに景気が良くなったり、悪くなったりするという現象自体が「謎」です。「経済」というのは、人間の生産・消費生活そのものでしょう?食べないと餓死するから皆食べ物を購入し、寝ないと死ぬから寝具や寝る場所を(住居)を購い、、ということで、人々が生きていれば当然出てくるような活動の総和でしょう。だったら、いつの時代をとってもそんなに変わらんと思うのですね。少なくとも数年単位でなんでこうコロコロ変わるのかという。これが、ダイエットが流行って国民全員一日一食しか食べなくなったから消費が少なくなり景気が悪くなるとか、皆さん急に一日8食くらい食べだしたので消費が増えて景気が良くなったとかいうなら分かりますよ。皆さん車をやめて歩き出したとかさ、急に音楽なんか聴かなくなったとか。国民の数はだいたい一緒(それどころかまだ増えてる)、一日は24時間でいっしょ、一日の必要なカロリー量もいっしょ、急に原始人スタイルが流行ったとかいうこともなくライフスタイルも同じ、、、これでなんで消費が増えたり減ったり、景気がよくなったり悪くなったりするのでしょうか? 僕の頭が悪いからなんだろうけど、まずこの根本的なところが良く分からんのです。
僕が貧しい頭で考えるに、結局は、「気分」とか「雰囲気」というファジーなものしか浮かんできません。
わが身に置き換えて、一体自分はどういうときにお金を使って、どういうときに使わないか?と考えていくと、なんとなくリッチな気分がして、少しぐらいだったら遣っちゃっても構わないだろうという気分のときにはお金を使い、「やばいな」と思ってるときは遣わないという。じゃあ、どういうときにOKと思い、どういうときにヤバいと思ってるかというと、その根拠というのは結構いい加減なんですよ。ちょっとした取るに足らないような原因で将来が明るく見えたらOKで、暗くみえたらダメだという。
例えば、いまITの仕事をしておられる方がいるとします。その人が、たまたま出会った人から「いいですね、ITだったら将来絶対食いっぱぐれないですもんねー」と言われ、それも連続3人くらいにそう言われたら、「むふ、そうかな?」と気分がよくなって明るく見えるでしょう。でもって彼女とのデートでもちょっと奮発しようかなとか、久しぶりに旅行でも行こうかなと思うかもしれない。逆に、連続3人から「ITといってもこれからは大変ですよね。中国やインドなんかかなり脅威ですよね」とか言われたら、「ああ、そうなんだ」と将来が暗く見えてきて、「いかん、無駄遣いは、ちゃんと貯金しないと」と思い、彼女のデートもファミレスで済ませ、今度の連休はレンタルDVDでいいやと思う。
こういうことなんじゃないんですかね?
結局は、自然科学に比べた場合の社会科学特有の難しさなのでしょう。社会がどういう場合にどう反応するか、社会の生理学みたいなものが社会科学だと思うのですが、社会というのは個々の生身の人間の総体であり、かつ生身の人間の意思決定プロセスや行動というのは、そう簡単に分かるものではない。人間というのは、「Aという部位に○ボルトの電流を流すとBという反応が起きる」というほどシンプルなものではないです。「右の頬を張られたら左の頬を差し出すもの」みたいな人間共通の法則性というのが分かりにくい。右の頬を張られたら、殴った理由を問いただそうとする人もいるだろうし、おびえて泣き出す人もいるだろうし、いきなり銃を抜いて発砲する人もいるだろうし、そもそも殴られたことに気づかない鈍感な人もいるかもしれない。千差万別。そして、なぜそこで泣くか?という心理プロセスを解析しても、幼年期のトラウマがどうとかいう迷宮に入るだけです。
社会の構成要素が個々の人間だとしたら、自然科学における原子みたいなものです。構成要素が千差万別だったら困るんですよね。「個性豊かな水素原子たち」がいて、なかには「俺は酸素は好かん」とかいって、酸素と結合したりしなかったり、だからH2Oの水になったりならなかったりされたら困るのです。自然科学ではそういうことはなく、水素と酸素が結合して水になりますという法則性を打ち立てられるし、それを確認し、次のステップに進める。でも、社会科学は、そういうときもあるし、そうでないときもあるという面倒な性質があります。
この面倒な特性が、経済においても反映されて、皆の気分の浮き沈みによって景気が良くなったり悪くなったりする、どういう時に気分が浮いたり沈んだりするのか良く分からん、、、という困ったことになるのだろうと思います。
だって、よく考えてみれば日本経済が沈滞している理由って、わかってるようで分かってないですもんね。
バブルとその崩壊ってのはあるだろうけど、その後十数年にわたって続くようなものではないでしょう。上記のショート〜ファーストの癒着腐敗だって、今にはじまったことではないし、景気がいいときだってそういうことはあった。日本経済はもう瀕死の重傷だとか、これからは中国の超巨大市場だとかいっても、人口十倍以上の中国全部のGDPをひっくるめても日本の3分の1しかないわけですし、中国人ひとりあたりのGDPに至っては日本人の30分の1です。景気が良くて良くてどうしようもなくバブルで踊っているオーストラリアだって、GDPでいえば日本の足元にも及ばない(10分1以下)。オーストラリア人は生活水準が高いから国民ひとりあたりのGDPはさぞかし高かろうと思っても、これまた日本人の半分ちょいでしかないです。つまり、日本国そして日本人の方が圧倒的に金持ちであり、経済でみる限り、日本からみたらオーストラリアなんか遥かに格下です。
オーストラリアあたりからみてると、日本なんか金に埋もれて暮らしているようなものなのに、なんで不況なの?最近ようやく回復基調とかいってるけど、回復もなにも、なんでそもそも不況にならなきゃいけなかったのか。この肝心のところが、ついには分からんのです。どうも経済の規模とか、お金があるかないかということと景気とは直結しないみたいですな。
とはいっても、マクロ経済の議論、さらには国の財政金融政策が意味が無いといってるわけではないですよ。そういった大きな社会的な背景が、個々人の心理に影響を及ぼす度合は非常に高いでしょうから。日本人勉強好きだし、社会の景気がどんどん良くなってきたというのを読めば、別に自分の給料が特に上がらなくてもなんとなく明るい気分になって、消費も増えるでしょう。だから、これまでどおり、財政や金融の議論はガンガンやっていただいて、正しいと信じる施策を講じていただきたいと思います。
また、「消費者のマインド」とかいうホンワカした要素ではなく、とりえあず石油が絶対的に足りなくなるとか(オイルショック)、為替レートが決定的に不利になるとか(ドルショック)という大きな外部環境で景気が左右されることもあります。こういう一種の”外科的”な原因の場合は、国家のマネーサプライがどうしたという分かり易い処方も十分に有効でありましょう。
ただ、今の日本の場合は、なんで不況になってるのかよう分からん、なんでここにきて回復基調になってきたのかもよう分からん(中国の成長に引っ張られているからという説明は一応あるけど、そればかりではないでしょう)し、だから今後本格的に回復して景気がピキピキ良くなるかどうかも分からんという状況は、僕にとって手に余ります。色々な要因が複雑に絡み合い、それが漠然とした社会不安として醸成され、人々の消費行動に連なっていっているということくらいしか分からないです。だから特効薬もよく分からないです。
ただ、現在の日本国の財政状態は異常です。それは700兆円というGDP(500兆円)以上の負債をおっていること、税収が国家の支出の半分程度しかまかなっていないこと、つまり国家の年収(税収)は50兆円だけど、支出は80兆円で、差額の30兆を借りて(国債)いるのだけど、うち15兆円はこれまでの借金の返済(国債の償還)にあてていること、、、これを普通の家庭に置き換えてみたら、分かり易いと思うのですが、年収500万円くらいの家庭が7000万円の住宅ローンを負担しているわけです。普通だったら、この時点でもうアウトです。破産の申請をした方がいいです。でもって年収500万円なのに、よせばいいのに800万円も支出しています。この行動自体、既に自殺行為です。でもって、足りない300万円は新たに借金しているわけです。でも300万円借りても、うち150万円は借金の返済に当てているという。借金して借金を返すといういわゆる自転車操業に陥っていて、これが個人レベルだったら一刻も早く自己破産申請して傷口を小さくしようとすべきでしょう。これが日本国の状態です。やっぱ異常ですよね。
国が破産しても、直ちに国土が消滅してしまったり、僕ら国民が蒸発してしまったりするわけではないです。当たり前ですけど。国連やら世界銀行から緊急融資が行われたり、国際レベルでいろいろ救済してくれはするでしょう。ただ、そこまでいったら日本の経済的信用ががた落ちですよね。何がどうなるのか僕ごときの想像の範囲を超えてる部分はありますが、とりあえず円は暴落するでしょう。1ドル500円くらいになったりして。そうなると輸入している石油やら食料やらが買えなくなります。それらは当然物価に跳ね返って、デフレどころか超インフレになるかもしれません。ハンバーガー一個2000円とか。こういう話は別に絵空事でもなんでもなく、今現在こういう状況になっている国は沢山あります。実際、国の借金が嵩んだときはハイパーインフレでクリアするというのは、ある意味では常套手段でもありますから。破綻した後どうなるか、誰かシュミレーションでもやってくれてないかな。
しかし、よくまあ公共投資で景気刺激や、公的資金注入で金融システム安定をやってきたものです。政府の肩を持つわけではないですが、「皆がやれって言うからやったんだ」って部分もあるでしょう。これで上手く景気が刺激され、5年前頃に回復してくれていたら「英断」と賞賛されていたのでしょうけど。借金で火の車になりながら、家が火災で燃えていながらさらに焚き火をするような、死ぬ思いで景気刺激策をやっていながら、あんまり効果がない。「なんでじゃ?!」と担当者も叫びたかったんじゃないかしらん。
時の政権も、例えば橋本政権も「これではいかん」と緊縮財政にしましたけど、とたんに景気が失速し、選挙が近づけばまた大盤振る舞いせざるを得なくなりました。小渕政権は、もうガンガン財政出動して、皆の期待にこたえて、借金を雪だるま的に増やし、小泉政権になってまた引き締めなおしているというところでしょう。しかし、難しいですよね。火をつけたら家が火災で燃えてしまうけど、火をつけないと凍死してしまうようなものですから。
ともあれ、そんなこんなで借金だらけになってしまいました。この国家的破産状態では、将来の年金受給もヘチマもないでしょう。しかもこれから未曾有の少子化高齢化社会になり、ますます福祉厚生にお金がかかります。最もお金が必要になる時期に、最もお金が無くなってしまったという、考えれば考えるほど、悲惨な状況であります。
だから、この財政破綻状態を是正するのが第一なのでしょうね、本当は。でも、そんなこと出来るのか?って気もします。かなりドラスティックなことをやらないとなんともならないようにも思います。だって税収50兆に借金700兆でしょ?飲まず食わずでやっても14年かかります。無限の権力をもってる独裁者だったら、超増税をして消費税を50%に、所得税を3倍にし、年金は一律100%カットし、医療保険もゼロに凍結するなどし、公務員の数を3分の1に減らし、戒厳令を敷いて逆らう国民は投獄ないしその場で射殺し、3年くらい持ちこたえれば何とかなるかもしれません。なんのことはない、今の北朝鮮と似たり寄ったりですよね。北朝鮮は「偉大なる首領様」というカリスマ幻術でなんとか社会の体裁をとりつくろい、日本は皆して見ないふりをして「なかったこと」にしているという違いはあるけど、火の車度では似たようなものじゃないんでしょうか。
もっとも、仮に破綻しようが何しようが、日本という国がなくなることは無いし、僕はわりと楽観的です。だって、別にハッピーになるにはそんなにお金なんかいらないもん。水道がこなかったら雨水貯めて飲めばいいし、食い物がないんだったらそのへんの雑草でも食えばいいし、警察が足りなくて治安が悪化したら自警団を作ればいいし、人間なんか結構しぶといから、そうそう死に絶えやしません。戦後のゼロからやってきた民族が、この程度のことでポシャるとも思ってません。かえってセイセイするんじゃなかろうか。だいたい、ちょっとお金が足りないというのが不幸なのであって、いっそのことスッカラカンになったら、それも皆してスッカラカンになったら、そんなに不幸じゃないですよ。特に日本人の場合、「自分だけが貧乏」というのがツライのであって、せーので貧乏になれば、皆で夜空の下で焚き火をしながら、「こういう暮らしもいいですなあ」とか言ってるって。
今のハイパー・ラグジュアリーの日本人の生活水準を維持しようと思うから、しんどいのでしょう。何度も言うけど、日本くらいお金もってたら、他の国の連中からしたら全然問題ないですもん。なんというのか、膝までしか水深のない浅瀬で、わざわざ横たわって懸命に溺れているというか、「よくそんな器用な真似ができるな」てなもんでしょう。国債発行残高が天文学的数字っていうけど、国債を持ってる人も同じ日本人だから、要するに自分が自分に借金してるだけであって、見方を変えたらどってことないです。頑張って貯めた中国ファンドがチャラになる程度のことで済むわけですしね。
なんかとりとめなく書いてますけど、確かに、経済論というのは論者のよって立つ世界観に引きずられますね。僕みたいに、「お金?そりゃあるに越したことはないけど、無かったら無かったでいいんじゃないのー、別に。」などという世界観からしたら、そもそも経済論なんか成り立たないかもしれないですね。「いいじゃん、別に」とか言っちゃったら、話が始まらないですよね(^_^)。
でも、「いいじゃん、別に」というくらいの腹は括っておいた方がいいかもしれません。
国家経済とかいうとなにやら堅苦しいけど、要は皆がハッピーになれば文句無いんでしょう?なりゃいいじゃん、なりゃあ。そして、個々人のレベルだったら、自分がハッピーになればいいんでしょ?ある意味、楽勝じゃん、そんなの。前回のエッセイと最後の結論が一緒になってしまうのですが、ものの考え方一つってことだと思いますよ。これから、未曾有の不況が来るとか、社会的大変動が起こるとかいったら、歴史的イベントに「参加」できるチャンスだと捉えることも可能ですからね。ワクワクしてりゃあいいんですよ。
なにがなんでも現状を維持しようとするから苦しいのであって、よく考えてみたらそこまでしてまで維持しなければならない現状か?という。国民の3割くらいは、むしろ現状を維持することよりも、現状を打破したいと思っているんじゃないかな?適当に世の中が乱れてくれて、隙間が出てきてくれないと動きがとれない。「ちきしょう、早くぶっ壊れないかな」「うずうずするぜ」ってエネルギーがあり余ってる奴だって結構いると思いますよ。
もちろん病弱であるとか、お年寄りや小さなお子さんを抱えているなど、自由勝手に暴れられない人も沢山おられるでしょう。そういう方々には、まずもって現状を保証するのが大事なことだと思います。そこはもう、国家が残り少ない体力をかき集めてでも、全力で保護して差し上げるべきでしょう。
しかし、15歳から60歳くらいのまでの男女で、しかも扶養家族がおらず、五体もまず満足な連中だっています。少子化、晩婚化社会なんだからこういう連中は沢山いるはずです。僕も含めて、こういう連中に現状なんか保証してやる必要ないです。むしろガンガンぶっ壊してやった方がいいくらいです。社会において最もエネルギーに恵まれた”強者”なんだから、こいつらが現状維持なんてチマチマした生き方をしてられたら社会全体が暗くなります。この連中に限って言えば、「無事これ名馬」ではないです。「無事これ駄馬」です。ガンガン働いて、暴れていただきます。やりたいようにやっていただきます。この際、このタイミングでこの国に生れ落ちた宿命を受け入れ、国家的歴史的イベントの栄えある出場選手として腹を括ってもらってですね、例えば会社勤めをしておられるなら、会社が倒産したり、クビになったりするのを待ち焦がれるくらい気丈に生きていただきたいです。サーフィンと同じで、波は高ければ高いほど面白いでしょ?
ですので、この世代を子供にもった親御さんもですね、「娘が自立すると寂しい」とか情けないこと言ってないで、自分の子供が手の届かない世界にいくことを望んでください。相撲の世界では、先輩を倒すのが最高の恩返しだといいますが、いつの世でも、子供は親の想像を越えるくらい遠い世界に駆け上っていくのが最大の親孝行だと思います。僕はそう思いますけどね、違いますか。
何度も言いますけど、この世代の連中に必要なのは「保証」ではないです。彼らに(僕らに)必要なのは、チャンスであり、自由であり、自由に伴うハードシップであり、叱咤であり、激励だと思います。
ああ、こんな具合に議論が脱線していってしまうから、僕には経済学は向いてないようです。
文責:田村
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