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今週の1枚(04.05.30)
ESSAY 158/ 小説「壬生義士伝」
写真は、早朝の近所の商店街、牛乳や野菜の仕入れの風景。
友人から、「これを読め」ということで、浅田次郎著「壬生義士伝(上下)」を貰い、その面白さに引きずりこまれて、あっという間に読了しました。今回はその読後感想文というか、覚え書きみたいなものを書き散らします。
壬生義士伝は、幕末の新撰組を扱った時代小説です。新撰組の小説(ないし映画、ドラマ)だったら掃いて捨てるほどありますが、これまでのものとはかなり趣を異にした斬新なものになっています。一つには、吉村貫一郎という地味な隊士を主人公に据えたところです。新撰組については、僕も世間の常識レベルには知ってますし、隊士の名前も近藤勇をはじめとして十名以上知っていますが、吉村貫一郎なんて人は聞いたことなかったです。殆ど無名に近い人物を発掘してきている点、しかもかなり徹底して発掘している点がまず斬新さの第一に挙げられます。ふたつめには、当時から50年隔てた大正時代に、とある人物が吉村貫一郎を調べるという設定で、関係者を訪問し、生き残っていた関係者が当時の思い出を語り言葉で言うという構成の巧みさ。ちょうど平民宰相といわれた原敬が首相になる時代設定が憎いです(後述します)。第三に、これが一番印象に残った特徴ですが、非常にリアルであるということ。第四に、これも重要なポイントだと思いますが、別に新撰組を書こうとしているわけではなく、テーマはいくつもあり、それを通じて大きく時代そのものを書こうとしていることです。
この小説はベストセラーにもなったし、TVドラマ化、映画化もされているそうで(僕はまだ見てないけど)、多くの皆さんはご存知だと思いますが、知らない人もいるだろうから、簡単に粗筋を書いておきます。
東北の南部藩(いまの岩手)の藩士である吉村貫一郎は、百姓と侍のボーダーにいるような底辺の下級武士である。が、努力の鬼である彼は、必死に頑張って藩内では文武両道並ぶものなしと言われるくらい卓越した実力を得るに至ったが、封建社会の身分の壁は厚く、結局貧乏からは抜け出せない。彼は、こよなく妻子を愛し、いかに妻子を養うか思いつめて、脱藩し、江戸に出て、さらには新撰組に身を投じ、死ぬまでお金を妻子のもとに送金しつづけます。彼は、北辰一刀流免許皆伝の剣客であり、新撰組でも卓越した剣技で頭角を表すのですが、そもそも立脚点が「妻子を養うための出稼ぎ」ということで皆と異なり、ともすれば「守銭奴」として馬鹿にされます。彼は、なんと陰口を叩かれようとも妻子への送金を怠らず、金を稼ぐために新撰組で活躍し続け、鳥羽伏見の戦いで幕府軍が敗走するときに負傷し、最後は大阪の南部藩の藩蔵まで落ちのび、そこで竹馬の友であり、今では南部藩の要になっている大野次郎衛に命じられ切腹し、三十余才の生涯を終えます。
話としてはそれだけなんだけど、それをいよいよ切腹という時点での吉村本人のモノローグと、50年後に生き残っていた当時の関係者の思い出話が交互にいったりきたりしながら、物語は続きます。当時の関係者は、新撰組の同僚から3名、”同期入社”した隊士、後からはいって吉村に可愛がられた隊士、幹部クラスの斎藤一。他にも、南部藩時代の吉村の教え子(文武に秀でた吉村は藩校で教鞭をとっていた)であり、同時に吉村の長子吉村嘉一郎の竹馬の友である二人。ひとりは桜庭弥之助、もうひとりは吉村に切腹を命じた大野次郎衛の長子である大野千秋。さらに大野次郎衛の中間だった佐助。
皆それぞれに幕末を生き、明治を生き、そして大正を迎え、同期入社した隊士は御茶ノ水で明治大学あたりの学生相手の居酒屋の親父になり、後輩は実家に戻って商家を継ぎ隠居の身、斎藤一は警察官から退官して隠居し、藩校時代の教え子の桜庭は建築士として活躍し、原敬の応援をしています。大野千秋は奇しき縁か吉村の二番目の子供(長女)と結婚し、満州に渡りそこで医師をし、佐助は新宿で博徒の大親分になっています。吉村の三番目の子供、脱藩したときまだおなかの中におり、出生後越後の豪農にひきとられ、長じて東京帝国大学教授・農学博士になり、日本の農業の祖となりコメの品種改良に一生をささげた吉村貫一郎(親と同名)が、自分の改良した稲をひっさげて、子供の頃に離れた南部盛岡に凱旋帰国するところで物語は大きな円環を閉じます。
まず巧みなのは、これだけの語り手を用意すると、いろんな時代、いろんな角度からスポットライトが当てられるので、当時の時代のありようというものが、かなりリアルに立体的に浮き上がってくることです。また技術的に言えば、それらの語り手の言葉が、南部弁であったり、江戸弁であったり、変幻自在であり、それがまた上手なんですね。僕は南部弁をほとんど知りませんので、これで合ってるのかどうか分かりませんが、方言というのは、あれは外国語みたいなもので、典型的なフレーズはよそ者でも喋れますが、ありとあらゆる表現を全て言えるか?というとかなり難しいです。南部弁をこれほどこなしているだけで、あるいは鑑賞(まさに鑑賞という言葉はふさわしい)できるだけで、この本は買いかもしれません。
10人近い語り手がそれぞれの目線で語りますので、話が観念的に流れずに(「武士道とは」とか)、まるで自分もその場にいるようなザラザラしたリアリティが出てきます。また、半生記という歳月がそうさせるのか、語り手は講談話のように美化した自慢話をするわけではなく、その口調はむしろ自嘲気味ですらあり、カラカラに乾いた客観描写になっています。それが逆にリアルな凄みを感じさせます。例えば、、、といって、例を探しているうちにまた読みふけってしまった(^^*)。「これだ」という典型的な部分もないのですが、、、、
「わかるかい。新撰組のおかしさってのァ、それに尽きるのさ。
近藤勇は幕府御用の講武所の師範になれず、そりゃァてめえが百姓の出だから差別されてるんだといじけきって、ほとんど自棄(やけ)くそで京に上ってきた。そんなやつのもとに集まったのは、みんな食い詰め浪人と俄(にわか)侍ばっかしさ。
だから、二言目には士道士道と題目を唱えやがった。俺達は武士だ武士だと、叫び続けていなけりゃならなかった。」
「あたしが新撰組に入隊したのは、慶応三年の十月。京に入ったのは十一月の始めで、つまり徳川三百年のどん詰まり。平清盛から続いたお侍の天下も、いよいよこれでおしまいってときです。それも召集令状が来て戦地に持っていかれるなんていうのならまだしも、てめえで志願したってんですから。若気の至りというか先が見えないっていうのか、熨斗(のし)つきの馬鹿ですな。」
「ことに突然の御用改めは危険な仕事じゃった。「御用改めでござる」と呼ばわって真っ先に飛び込む御役目は「死番」と言い、場合によっては斬られ役となる。死番の次が二番、三番と、要するにこれは死ぬ順番じゃな。巡察のたびにこの順番は繰り上がった。平隊士達は、明日が死番かと思えば夜もろくろく眠れぬ。無事に終われば危険の少ない五番になるじゃから、ほっとした」
これだけでは感じがつかみにくいと思うのですが、まあ、そこは本を読んでください。ただ、上記の三つの例は、同じもと新撰組隊士、同じ江戸弁を使いながらも、身分や育ち、さらに性格によって、喋り言葉の”文法”を綺麗に書き分けているのが分かるでしょう。これだけでも、「巧いな」と思ってしまいます。
作者が丹念に描き出しているのは時代の空気、時代のリアルなありようです。そのために、手を変え品を変え、いろんな人間に当時のことを語らせています。それは「映画や小説のような」という形で修飾されるようにデフォルメされた観念的なカッコよさではなく、
生身の人間が、みじめに、ぶざまに、つまりはリアルに生きている姿です。それを上下巻1000ページに達するくらい緻密に書き込んでいきながら、当の主人公である吉村貫一郎は、全く逆だったりします。つまり「こんな人間この世にいるんか?」というくらい人間離れして”美しい”のです。だから全然リアルじゃない。鮮やかな対照をなしている。「愛と義に生きた誠実な男の凄絶な生涯」という、それだけ書いたら素晴らしすぎてリアリティがないです。そこに命を吹き込むためには、あそこまで綿密に背景を書き上げる必要があったのでしょう。
「素晴らしく、美しい」といっても、この吉村貫一郎は、終始一貫カッコ悪いです。背丈もあるし、容貌も整っているようですが、貧乏丸出しで衣服も粗末だし、不器用だし、金に汚いし、、、。いつもにこにこしていて、腰が低く、誰に対しても優しく、あまり武士らしくないし、凛としたところがない。ビジュアルでも物腰でもおよそ登場人物のなかで一番カッコ悪いです。だけど一番カッコいいんです。もっともみすぼらしいけど、もっとも美しいのです。そして、その美しさは、100%魂の美しさであり、千年万年経ても色あせない人間の美です。忠義とか思想とか武士道とかではなく、人が家族を愛すること、人として正しいことをすることという普遍的な人間美です。そこがこの小説のツボであり、最大のテーマなのでしょう。
もちろん、現在でもそんなこっ恥ずかしいほど正々堂々の人間美を貫こうとするのは大変ですし、当時の殺伐とした時代背景においては、ましてや殺伐の極致のような新撰組という人斬り集団のなかでは異様に浮世離れしてしまいます。だから、みな反発したり、馬鹿にしたり、吉村は結局生涯を通じてまるで報われません。でも、その普遍的な美の強さに結局は誰もが惹かれていく。「あんな奴、大嫌いだ、今でも嫌いだと」と言い放ち、出会った当初闇討ちしようとした斎藤一ですら、「こいつだけは殺してはならない」と思わざるをえなくなる。
この斎藤一の語りが出色なのですが、鳥羽伏見の戦いで、「誰が死んでも良い。侍など死に絶えても良いと思った。だが、この日本一国と引き替えてでも、あの男だけは殺してはならぬと思うた」とまで言わせるたのはなぜか。この理由を、斎藤一自身が語るのですが、これがこの小説の真髄にある美しさだと思います。
「これほどおのれの宿命に屈せず、苦悩に抗いつづける侍が他にあろうか。神に挑みつづける人間が、他にあろうか。
妻子を養うために主家を出る。しかし恩と矜(ほこ)りは忘れぬ。守銭奴と罵られ嘲られても、飢えたる者に一握りの飯を施す。一見して矛盾だらけのようでありながら、奴はどう考えても、能う限りの完全な侍じゃった。」
「人の器を大小で評するならば、奴は小人じゃよ。侍の中では一番ちっぽけな、それこそ足軽雑兵の権化のごとき小人じゃ。しかし、そのちっぽけな器は、あまりに硬く、あまりに確かであった。おのれの分というものを徹頭徹尾わきまえた、あれはあまりにも硬くて美しい器の持ち主じゃった。その器で壊すだけの勇気が、わしにはなかったのじゃ。」
その思いは誰の胸にも同じように宿り、「あいつは、新撰組の、俺達の良心みたいなものだった」と元隊士に語らせます。さらには、竹馬の友でありながら藩の役目上、断腸の思いで吉村を切腹させざるをえなかったる大野次郎衛が、自らのいまわの際で、彼の末子を越後の豪農に託す書状において「吉村貫一郎ノ士魂、南部一国ト取替申シ候」としたためます。
あれほど苛烈なまでに誠実に生きようとする人間を、むざむざ殺さざるを得ない世の矛盾、封建身分社会の矛盾。突き詰めるだけ突き詰め、思いつめるだけ思い詰めた大野は、自ら預かる南部藩を自らの手で滅ぼすように仕向けます。あの男を救えない世の中なぞ、一度壊れてしまった方が良いのだという確信犯として。薩長の官軍に徹底抗戦するように唱え、結果として南部藩は明治新政府に徹底的に弾圧されます。当然首魁たる大野は斬首。しかし、「それでもいい」「その方がいい」と思ったのでしょう。
平たく言えば、この社会のルールやシステムはあるけど(例えば武士道とか、お家への忠義とか)、いずれも「人間としての正しさ」を超えるようなものであってはならない。命に替えても妻子を愛し、養おうとする人の営みを潰して良いだけの正義はこの世には無い、ということです。吉村貫一郎のいう「義」「南部武士」の美学は、「武士」とか「義」とかいう古めかしい用語の形を取っているけど、その実は人類普遍の人間美であり、それがあまりにも普遍的であるがゆえに誰に胸にも突き刺さり、誰をも動かす。その思いが、斎藤一をして「日本一国と引き替えてでもあの男は殺してはならぬ」と言わせ、大野次郎衛をして「南部一国ト取替申シ候」と言わせる。人間には、国よりも大事なものがある。
現在のイラクのように、いやそれ以上に、毎日のように人が殺され、自らも人を殺すという幕末の修羅の時代に過ごした人々だからこそ、観念的な武士道や忠義に踊らされることなく、人間の本質がよく見えたのでしょう。大野の書状では、さらに「このまま天皇を中心に世の中がまとまっても、家族を犠牲にしてまで国に尽くすことを正義とするような社会になったら、必ず国は破綻し、外国の奴隷になるだろう」と書いてます(御一統之皇国御具現致シ候段万端相運ビ候得共、万一、一兵ノ息女ヲ扨置(さておき)テ滅私報国之儀、以テ義ト為ス世に至り候ハバ、必至国破レ異国之奴隷ト相成果テ候)。まるで明治維新後の軍国主義、さらに太平洋戦争の破綻をも予知したかのような慧眼ですが、おそらくは予知しようとして言ってるのではなく、素朴な実感としてそう思えたのでしょう。
次にこの小説に通奏低音のように響いているのは、貧困であり、東北です。
江戸時代というのは、開始当時はコメ経済の農本主義でしたが、二百数十年と続く間に商品・貨幣を中心にした商業経済、資本主義になっていきます。政治的には封建制度なのだけど、「平和になると経済が発達する原則」のとおり、世の中はどんどん今と同じような商業主義的経済に移行していきます。日本が明治維新によって、いきなり西洋の文化を取り入れられたのも、実はその前の江戸時代に経済的には似たような社会が既に出来あがっていたからだという見解がありますが、僕もそうだと思います。表面的には士農工商で、チョマンゲ結ってチャンバラやってて、まるで全然違う社会のようだけど、よく見たら基礎はもう出来ていた。
資本主義経済が発達するためには、前提となるいくつかの要素が必要です。僕は経済学の専門ではないけど、素人でもそのくらいはわかります。まず、商売というシステムを、国民がよく知っていること。これが一番大事かもしれません。需給バランスにせよ、マーケティングにせよ、そういうネーミングや概念は知らなくても、「安く買って高く売る」という基本から、「良いものを作れば高く売れる」という技術革新の契機、「人気があれば高く売れる」「宣伝が上手だったら人気が出る」というマーケティングの原理は、江戸時代の人(特に都会生活者)だったら当然に知っていたと思います。江戸から続く三井鴻池、幕末の岩崎の三菱など、当時の商道徳や家訓が今なお通用しているというのは、結局当時においてそのくらい商慣習が発達し、浸透していたことを意味すると思います。
また、これら商売が発達するための社会的なインフラが整っています。それは例えば、度量衡の統一。例えば、酒一合といえば全国どこにいっても同じ分量であるということ。これが地方によってマチマチだったら、商売なんかなかなか出来ません。さらに貨幣の統一。これも場所によって貨幣が違ったり、交換レートがいい加減だったら危なくて商売できません。あるいは、契約の概念と契約遵守の制度的保証。商談の際の約束事が、男女の睦言の「愛してるよ」みたいに扱われていたらマズイわけです。人の心は移り変わりますが、商売の約束は約束、変えてはいけません。そして約束を守らなかった人に対する社会的制裁がキチンと課せられなかったら、誰も怖くて契約なんか出来ません。というわけで民事訴訟は江戸時代からあります(もっともっと昔からある)し、そのお裁きをするのが大事な公務でありました。また、皆が共通の言葉を使わないと意味が通じないし、計算も皆が強くないといけない。つまりは国民の平均知識水準、特に読み書きそろばん、英語でいうとリテラシー/ニュメラシーですが、これが一定以上の水準になってないと全国規模でビジネスなんか出来ないです。お釣りの計算ひとつでモメてたら話が進みませんから。
日本人のこういった商業的な知的水準は、江戸時代から世界的にもズバ抜けていましたから、その末裔である僕らにとっては、別に当たり前のことだと思います。でも、これが全然当たり前でない国は世界にいくらでもありますし、当たり前でない国の方が多いでしょう。戦争やクーデターばかりで、子供すらも戦い、殺されているところでは、のんびり文字や算数を教えているひまはありません。また、多民族間で紛争が延々続いていたら、統一商業文化を作るだけでも大変です。カルチャーというのはなんでもアリで、例えば「お釣りを要求するのは信仰に反する」という人もいるかもしれない。仏教なんかでも布施行というものがあり、貧しきものに施しをあたえるのは当然だとしますから、相手が自分より金持ちだったら物を盗んでも悪いことではないという発想になることもあるでしょう。
インフラのもう一つは、ロジスティクス、物流ですね。江戸時代にはもうこれがメチャクチャ発達してます。日本中の米が一回とにかく大阪の堂島まで集まって、それからまた全国に散っていくわけですから、それだけの流通網というのがあった。お米だけではなく、松前昆布のように北海道特産品も日本海を越え、大阪に向かっていったわけです。そうかとおもえば、越中富山の薬売りのように、行商人、ようするにセールスマンが全国を駆け巡っています。これ、よっぽど治安がよくないと出来ないですよ。戦国時代だったら、荷駄隊が進めば野盗や山賊に襲われるから、厳重に警備していたといいます。ガードマンというよりも、もう軍団みたいなのが一緒についていったといいますから、そんなことして物流やってたらコストがかかって仕方がない。
長くなりましたが、このように日本における江戸時代は既に実質的には商業主義的経済社会になっていたのだと思います。でも、侍の世界は、コメ経済の頃のまま固定されています。○○石の世界です。サラリーも米です。米でなんでもやらなければならない。米経済というのは不便です。餓えるかどうかというレベルの時代だったらそれでもいいです。食い物を持ってる奴が一番強いからいいです。でも、時代が進んで、食い物だけではなく、衣服もそれなりに上質になり、生活が向上し、社会も複雑になってくると食べ物だけではいかんともしがたい。大名においても、食べてるだけだったらそれでもいいけど、参勤交代はあるわ、江戸屋敷で幕府の役人と付き合わねばならないから接待費はかかるわ、藩士の子弟への文教費はかかるわとなると、それでは済まない。それに、米というのは言うまでもなく農産物ですから、天候によって左右されます。飢饉ですね。しかも農産物というのは月単位ではなく、年単位でくるから厳しい。
平和な世の中だと人口は増えます。しかも戦乱がなく平和だということは、武家にしたら領土を増やし、生産力を増やす手段がないことを意味します。パイは同じ。しかも人は増える。だから侍の次男坊、三男坊は悲惨なものです。百姓でも話は同じで、だから「ごくつぶし(穀潰し)」「無駄飯食らい」という表現も出来ます。
そこで江戸も中期になると各藩とも経済改革に乗り出します。ここで米経済の百姓の論理のままでやっていくと、結局は倹約は美徳という形になり、実際に時々江戸時代に「名君」が現れ、倹約を命じて、経済は火が消えたようになります。要するに経済というものがわかっていない。経済というものを分かっている藩主は、主として西国に多かったですけど、米以外にもガンガンいろいろな商品を開発して全国に売り出し、富を蓄えようとします。忠臣蔵で有名な播州赤穂藩の「赤穂の塩」なんていうブランドも出てきますし、その頃には相場で儲けるという投機/投資による利殖も社会に出てきてますから、赤穂藩はお家取り潰しになってもまだお金が残った。だから大石蔵之助が祇園の一力茶屋でドンチャン騒ぎが出来たのでしょう。薩摩、長州もそうです。特に長州は商売が上手で、幕末の頃は実質百万石といわれるくらいの経済的実力があったといいます。だから、幕府相手に戦争ができるし、西欧諸国からガンガン大砲や軍艦を買うことが出来た。
これに比べて、東国の方の平均的な藩はあまりぱっとしなかった。南部藩も、南部大豆や南部鉄(後の釜石製鉄所)というブランド品を算出していて、それで頑張っていたけど、いかんせん経営は厳しい。もともと東北など寒冷地には稲作は向いていません。日本人は、コメは日本人のイノチみたいに思っているけど、イネという植物の原産は東南アジアなど熱帯地方です。だから世界のコメどころというと、タイやベトナムになります。あそこでは、種をまいておけば、年に3回収穫があるというくらいで、それだけ植物の生育環境に合っているのでしょう。それを北へ北へもってきて、日本まで持ってきて、さらに日本の東北地方にまで持ってきて栽培しましょうというのがそもそも植生限界を超えてるような話です。熱帯性の植物だから冷害に弱く、すぐに枯死し、飢饉が起きる。もちろん品種改良もやったでしょうが、それは多くは明治後、西欧科学の植物学、遺伝学、地質学が伝わってからでしょう。日本のイネは品種改良に改良を重ね、先祖のイネから比べたらおっそろしく寒さに強くなり、収穫量も増え、だから「絶対無理」と言われていた北海道でも「きらら335」のようなコメが出来るようになっています(明治時代はジャガイモと小麦でしょ)。
このように見ていくと、どうも江戸時代の武家というのは、そもそも当時の社会条件、気候条件に適合しているとは言いがたい生存類型だと思われます。とにかく食えない。この小説に出てくる吉村貫一郎が脱藩した頃も、東北地方は相次ぐ飢饉の波に打ちのめされていました。当然農民も食えなくなりますが、同時に武士階級も食えなくなる。特に下級武士はなお更です。こういった「絶対的な貧困」というのがまずあって、だから食い詰めた浪人や武家の次男、三男などが、「都会に出ればなんとなかなる」とばかりに出て行って、あるものは尊皇攘夷の志士を気取り、ある者は新撰組になりこれらの者を斬った。でも、根は一緒なんでしょう。
「考えてもごらんなさいな。南部盛岡藩は二十万石。むろんこれは表高で、実際には三十六、七万石の内高があったとされていますが、それにしても表高をはるかに超える損耗、内高の七割がたが(天保の大飢饉で)損耗してしまったのです。しかもそのわずかな収穫は比較的「やませ」の影響の少ない南のあたりに違いないのですから、広大な領内のほとんどの地域は、一粒の米すら獲れぬ惨状でありました。
農民達は草の根や木の皮を食べ、犬猫はおろか、財産である馬や牛も食い、ついには人肉まで食らって餓鬼道に堕ちるという有様でした。人肉は一体に分量が多いので、食い尽くせぬ分は塩辛にして保存し、餓死者の少ないある村を検分してみると、どこの家にも塩漬けの大瓶があったという話を聞き及んでおります(桜庭弥之助)」
「だども、あの年の冬だけァ、無事に越せるはずがないと思うた。銭こささえあれば、はたから何と言われようが人は死なねで済む。よしんば武士を捨て、雫石の在所に身を寄せても、銭こさえあれば何とでもなる。お前たぢを生かすも殺すも、父の肚ひとつじゃと思うた。(吉村貫一郎の独白)」
「だってあの人は、私ら貧乏人の鑑(かがみ)だもの。貧乏と馴れ合うことを潔しとせずに、貧乏に立ち向かった、たったひとりの人だもの。少なくとも先祖代々から享け継いできた貧乏ってのをね、てめえ一代でよしにしようとした、かげがえのねえ貧乏人なんですから(大野次郎衛の中間、佐助)
「武士になりたかった百姓ども。生きんがために国を捨てた足軽たち。冷や飯を食わされ、陽も当らぬ部屋住みのまま朽ち果てていく、御家人の倅ども。そして、また、いわゆる勤皇の志士と称する輩の多くも、わしらと同じ境遇であることに気づいた。食えぬ者たちが何かを変えようとしたのじゃ。たがいに憎み合い、ゆえなく殺し合い、それでも長く続いた不条理の時代を変えようとしたのじゃ。(斎藤一)」
もう一つ僕の心にひっかかったのは、東北です。僕は東北に言ったことはなく、北限は那須くらいまです。そこから北は飛行機で一気に北海道。東北、行きたいなあって思いつづけて、未だ果たしておりません。オーストラリアくんだりまで行ってるんだから、東北だって行けばいいじゃないかってなもんでしょうけど、思い切っていくには近いし、気軽に行くには遠いし、、ということで、なかなか機会がありません。
ただ、東北の人には何となくシンパシーを感じます。自分に似てるからシンパシーを感じるのではなく、似てないから、というか自分に無いものを持っていそうだからです。まあこんな勝手な思い込みをするのは無知の裏返しであり、これも偏見の一種であることくらいは分かります。ただし、歴史的に見ていくと、ちょっと報われなさ過ぎる(特に近代)気がして、義憤のようなものも感じます。それにあんまり知られてませんよね。僕も知らないけど、東北の各県を、正しく位置とともに言ってみろといわれると言えない人が多い。いえたとしても、その広さが実感できない。岩手県が実は面積的には四国と同じくらい大きい県だとか、東北ではないですが福島県も大きく、大阪府7個分だっけな、そのくらい大きいといいます。知らなかった人、多いんじゃないですか。
京都に1000年都があったことから分かるように古来日本の中心は西方でした。江戸以降、そして明治以降東京が中心になりますが、それでも東京をはじめとする関東どまりで東北までその恩恵がいくことはなかった。上代における東北は、「みちのく」という言葉のように「道の奥」であり、「奥」といえば東北、「奥の細道」といえば東北旅行記、だから奥州。陸奥の国などは名前に奥が入っています。とにかく「遠い」ということで、遠いという言い方は、ある意味失礼な言い方で、あくまでも京都を基準にしてのことです。
だけど奥州は未開野蛮の地であったかというと、実はそうではなく、平安時代の奥州藤原氏のように半ばインディペンデントな、独立独歩の気風を誇り、文化的にも華やかなエリアだったようです。南部藩の祖となった南部氏は、日本の大名の中でも指折りに古い家系で、大陸からやってきた騎馬民族という説もあれば、甲斐の国からやってきたとも言われます。ともあれ、海からやってきたらしく、最初に上陸したのは八戸だと言われています。
盛岡を首都とする南部の気質は、この小説の吉村貫一郎を典型とするように、辛抱強く、腰が低く、他人にやさしく、努力を怠らない。そのくせ、心の底にはカチンと硬い物を持っており、そこだけは絶対に譲らない、妥協しない。この我慢強くて、口数が少なく、でも強情っぱりというのは、南部に限らず東北人一般に通じる特徴のような気もします。寡黙で優しくて努力家だけど、融通がきかない。そのあたり、大阪あたりの上方の連中、あるいは江戸あたりの都会人とは対照的です。大阪なんか騒がしいし、チャカチャカしてるし、回転が速く、物が見えるし、要領がいい。東北人に比べれば、大阪などは要領だけで世間を渡っているようなものです。だから商売に向いている。パワーよりもスピードで勝負というタイプですな。
一方、南部人は(東北人)は、これは誉め言葉でもあるのですが、要領が悪い。それゆえ、政治的や交渉事になると方向音痴になるという。実際にも方向感覚が薄いらしく、以前紹介した司馬遼太郎氏の「歴史を紀行する」の南部の章によると、南部人は東西南北の感覚があまり無いと。つまり町を普通に歩いていて今どっちが北かということを余り気にしない。「あなたの家は南向きですか」と言われると、「えっと、、どっちかな」となるという。西日本の人は東西南北の感覚が発達している人が多いといわれます。典型的な例が京都で、東西南北がわからなければそもそも歩けません。住所からして、「烏丸御池西入ル」とかいう言い方しますもんね。地名でも洛北とか洛南とか言います。同書によると、奈良では隣家のことを「東ノウ(東隣の家)、西ノウ」といい、土佐の高知県でも東西南北はクッキリと意識されているという。そのため古来南部では商人は遠くから入り込んできた近江商人に牛耳られていたらしく、京大阪の古着(ふるて)を仕入れて売っていたらしい。「ふるてやにはかなわない」というフレーズさえあるらしい。
そうかといって野暮ったいわけでもなさそうで、南部には独特に美学があり、ダンディズムがあるといいます。むしろ西欧流の個人主義的なカラッとした部分に相通じるものがあるという。南部出身の原敬首相、後藤新平、米内光政、さらに五千円札だった新渡戸稲造達は、精神的には日本的泥臭さが少ない。南部の精神は、この小説でも「岩割桜」という表現で出てきますが、どのような苦難があってもそれを消化し自分の力としていく克己心に出ており、そのため南部出身の人は中央で出世しても閥を作らなかったといいます。米内内閣のとき、米内首相をはじめ、閣僚に盛岡中学出身が4人もいて南部閥を作れるのに、全然その気配が無かったこと、知事の千田氏が後藤新平のところに就職の斡旋を頼みに行っても、「南部人なら自分で切り開け」と言われたというエピソードも残っています。この世の厳しさを当然のこととして受け止め、それを乗り越えてこそ一人前という思想が、他の地方よりも強いのでしょうか。それがまた、西欧流の個人主義的な独立独歩の気風と相通じるのでしょうか。はたまた、もともと騎馬民族だったという前身によるのか(ちなみに南部は馬の名産地)。
学問芸術の分野でも、南部の人は、すぐに商用化できそうな応用科学よりも、基礎科学の方を好む傾向があるらしく、司馬氏はこれを「南部人の純理好き」という表現をしていますが、ベーシックな部分に真正面からブチ当っていくのを好むらしいです。つまり、「労多くして実りが少ないから、こっちの方が効率がいい」とか、あんまりそういった小賢しいことを考えない。江戸時代の安藤昌益なども南部人ですが、思想的に突き詰めていくうちに、封建制度を激しく批判し、しまいには支配者のいない「自然世」を理想としたといいます。彼がフランスに生まれていたら、ルソーに匹敵する大思想家に数えられていたかもしれない。
だったら理屈が好きなドライな人々かというと、そうではなく、情念は日本人平均よりもはるかに多量だという気がします。南部出身の石川啄木、宮沢賢治を考えてみたらわかると思います。思うに、人間としてもっている感情の量が、とても豊かなのでしょう。情念豊かなゆえに、その情念を裏切れず、ストレートにいくし、多量な情念をダムのようにたたえていなければならないから我慢強くもなるし、根性もつく。その情念の豊かさゆえに、底のところではテコでも動かぬ強情さがある。
そうこう考えていると、吉村貫一郎というのは、まさに典型的な南部人なのかなという気がします。いかに妻子を愛していようが、どうしようもない現実があれば、その運命を受け入れるのが普通でしょう。例えば赤ん坊が餓死するとかしても、しかたのないこと、不可抗力だと思うでしょう。思うしかないです。でも、この小説に出てくる吉村は、その貧乏と戦う。藩随一の文武両道の侍でありながらも、これを捨て、出稼ぎに出ます。出来るようで出来ないことで、だからこそ、佐助をして「貧乏人の鑑」と言わせ、斎藤一をして「神と戦った人間」と言わせるのでしょう。この断じてメゲないしぶとさは、ここまでくると崇高ですらあります。
東北の情感豊かなしぶとさ、その苦闘の歴史は、他の小説にも出てきます。僕がこの「壬生義士伝」を読んで思い出した小説は、西村寿行の「蒼茫の大地、滅ぶ」であり、高村薫の「レディ・ジョーカー」でした。「蒼茫の大地」は、東北地方に蝗の被害が発生し、殆ど壊滅状態になるというフィクション小説ですが、冷淡な中央政府に愛想を尽かし、東北六県が奥州国として独立国となる話です。ここで、野上という知事が、東北がいかに中央から虐げられてきたかについて熱弁を振るうシーンがあり、この小説の白眉をなしています。
これによると、明治政府は富国強兵のために兵を東北に求め、そのために決定的に東北を食えなくした。つまり、明治25年の林野行政によると、奈良県の民有林は99%であるのに対し、東北は官有林ばかりであり、宮城県の官有林比率は66%、山形83%、福島80%、秋田94%、そして青森になると97%が官有林として中央に没収される。山野という生活の原資を立たれた東北の農民は嫌でも都会に出稼ぎに出ざるを得なくなる。産業勃興時に、東北人は、今の外国人労働者のように、手軽で使い捨ての労働力として扱われ、景気が悪くなるとあっさり首を切られ、故郷に帰れといわれた。しかし、故郷は食えない。現在のタイの農村がそうであるよに、妻が身売りし、娘が売られて東京の赤線にいく。子供を買う「最上婆」があらわれる。中央政府はさらに、満州を開拓するために東北人に満州にいくように奨励した-----。
「レディ・ジョーカー」は、なんで東北?と思われるかもしれません。この小説も、今度映画化されるとかいう話ですが、グリコ事件に酷似した犯罪を扱ったもので、ビール会社の社長が誘拐され、後に毒入りビールをバラまくといって脅迫される話です。一見すると東北なんて何の関係もないのですが、実はここでも東北は通奏低音のように鳴り続けています。犯人グループの首謀者である物井清三(これは小説で早々に明らかにされるので別にネタバレでもないでしょう)は、東北の出身です。その兄岡村清二も東北の出身で、被害企業になった日の出ビールにいっとき就職し、勧奨により退職するのですが、退職にあたって雇い主であるビール会社に長い手紙を書きます。この長い手紙が、この小説の冒頭に延々と続きます。旧仮名遣いでかなり読みにくいので、ここだけで挫折してしまった人もいるでしょう(^^*)。
この書簡でつづられているのは、東北の貧農に生まれた者が、都会の会社に就職し、戦争の波に翻弄され、戦後激しく変動する社会についていけずおろおろしている姿です。そして、それは弟である物井もまた同じです。戦後の動乱を東北人らしく器用に立ち回ることも出来ないまま、一生懸命働き、その見返りに得たものが妻と娘の侮蔑でしかなかったという人生。なぜ篤実に暮らしているものが貧乏くじをひかねばならないのかという積年の恨み(とすら本人も意識していないでしょう)のようなもの、そしてそれは東北の貧困さに続いているもので、それがこの小説の底流に流れているように思います。であればこそ、この長大な小説の最後の最後に、東北の「やませ」の冷涼とした風景が幻影のように描かれているのでしょう。
話を「壬生義士伝」に戻します。
いわゆる「感動」ですけど、いっぱい感動できます。筆の運びが上手だし、言葉の選び方、畳み掛けるようなリズムが巧みなので、読んでいて目頭が熱くなるくだりが沢山あります。それを技法による「あざとさ」と言ってしまったら違うだろうと思います。作者はまさにそれを書きたくて正しくそれを書いただけでしょう。「ここで泣かすと売れるぞ」みたいな計算は、まったく無いとは言わないまでも、それがメインではあるとは思えないです。なぜなら泣かせるだけだったら、なにもこんなに苦労して取材して吉村貫一郎を発掘してくる必要はないですもん。
感動するくだりはいくらでもあるのですが、最後にページをパラパラとめくって目にとまった箇所を引用しておひらきにします。新撰組の新入隊士として吉村貫一郎の教育を受けた池田七三郎が語るくだりです。鳥羽伏見の戦いで、吉村が負傷した池田に退却しろと説得するシーンです。この直後、吉村はたった一人で官軍に挑み、死に至る負傷を受けます。
この先生きたところで何が出来るのですかと、あたしは捨て鉢に訊ねました。すると先生(吉村貫一郎)は、真白な歯を見せてにっこり笑い、あたしの頭を撫でてくれたんです。
「何ができるというほどお前はまだ何もしていないじゃないか。生まれてきたからには、何かすべきことがあるはずだ。何もしていないお前はここで死んではならない」
有り難いお言葉でございますよ。目から鱗が落ちましたですよ。
考えてみりゃあ、あたしは自分が生まれて、この世に十九年間生きていたっていう証拠を何ひとつ残しちゃいない。それじゃあ、いてもいなくても同じだってことになる。
「それともおまえは、犬畜生か」
いえ、人間です------そう答えたとたん涙が出ました。
あたしは泣き虫で、女房にも倅達にも孫達にも、よく笑われます。
こんな顔のあたしに(※甲府の戦で顔半分が吹き飛ばされた)、初めて女房が抱かれてくれた晩にも、ずっと泣いてました。倅が生まれたときも、孫が生まれたときも、新しいお店(たな)を出したときも、市長さんから表彰されたときもね。
ことあるごとに千両松の戦場で吉村先生の言って下さった言葉を思い出しちまうんです。
泣きながらいつも胸の中で呟きました。
先生。あたしはかかあを貰いました。ぶすだけど、こんな顔のあたしに抱かれてくれるかかあです。
先生。倅が生まれました。孫が生まれました。新しいお店が出せました。
先生、銭をもうけて、しこたま税金を納めて、柄にもなく寄付なんぞもして、東京の市長さんから立派な感状をいただきました。
あたしは、人間です。
文責:田村
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