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今週の1枚(04.05.17)
ESSAY 156/手塚治虫について−普遍性の鬼
写真は、のんびりした昼下がりのKogarah駅前の風景(シドニー南西、Rockdaleの一つ先の町)
今週から来週にかけてかなり忙しく、ゆっくりとエッセイ書いている時間がなくなってしまいました。あと数時間。
ということで、じっくり調べ物をしているヒマはないので、思い浮かんだことをサラサラと書いていきます。
何を書くかというと、手塚治虫についてです。いや、別に深い理由はなく、たまたま昨日、手塚治虫のマンガをゲットしていて読んでたからというきわめて安直な理由なんですけど。「手塚治虫、いいっスね〜」というだけの話で、本当のこの一言で今週のエッセイは終わりにしてもいいくらいなんです。それじゃあんまりなんで、「いいっスね〜」をもう少しグダグダ書いてみたいと思います。
僕は特に手塚ファンではありません。フェバリットの漫画家に挙げるほどでもないです。フェバリットだったら、星野宣之とか諸星大二郎あたりが好きです。知らない人も多いでしょうが、完成度の高さと、アートとしてのオリジナリティだったらこの両者は凄いです。だけど、今回は手塚治虫。
手塚氏の作品は、これは誰でも知っているくらい滅茶苦茶たくさん名作があります。ありすぎるくらいあります。鉄腕アトムにせよ、ジャングル大帝にせよ、リボンの騎士にせよ、ブラックジャック、火の鳥、ブッダ、、、、、殆ど「ひとりビートルズ」みたいな世界です。
およそ何十万人かに一人という確率で才能と運に恵まれた人が、その道のプロとしてやっていけます。それだけプロの道は厳しい。そして、そのプロの中でも、「一生に一度」くらいの確率で超名作が出来る人と出来ない人がいます。いわゆる「一発当る」という奴ですが、単に時流に乗って流行るだけではなく、20年、30年と伝えられていき、やがては「古典」になるという。そのくらいの名作をモノに出来るひとは、プロ数百人のうち1,2名だと思います。日本の音楽界にしても、未だに「これは名作」として歌い継がれている曲が、数え方にもよりますが、だいたい数百曲あると思います。でも、音楽界にプロとしてデビューした人の数は、その数十、数百倍いるでしょう。毎年何百人もの人がレコード/CDデビューしますが、数年たって残っているのは数人くらいでしょ。
その神がかりの超名作を、こともあろうに「量産」しているバケモノみたいなアーチストがいます。ビートルズがそうですね。「これ一曲あったら、一生食っていける」くらいの名曲を、およそ100曲くらい作ってるんじゃなかろうか。昨年、日本に帰ったときに、ここを先途とまたレンタルCD屋に通って、カセットでしか持っていない曲をCDで借りておりました。ビートルズなんかもそのなかの一つですが、今聴いてもカッコいいし、斬新ですよね。久しぶりに「へルター・スケルター」を聴きましたが、中坊の頃ラジカセで聴いていたときよりも高性能の再生機器で大音量で聴いてみたら、滅茶苦茶カッコイイ曲であることに改めて感動しました。左チャンネルの、ポールのべースなんか、何なの、これ?って感じで、おっそろしくラフ&ワイルドです。今、新曲として発表しても売れるんじゃなかろか。
その意味で、ビートルズが神様扱いされるのは、きわめて当然というか、およそ人間業とは思えないです。しかし、そのビートルズでさえ、解散してからはパッとしないですよね。ジョンレノンの「イマジン」くらい、あとポールマッカートニーの初期の頃(ジェットとか)くらいでしょうか、似たような規模でヒットしたのは。あれだけ才能あふれるアーチストでも、「神に愛される」かのような時期は長くはないということですね。
そこへいくと手塚治虫というのはバケモノの中のバケモノでしょう。なんせ、初期の頃の「リボンの騎士」から、晩年の頃の作品のブッダなどの作品いたるまで、およそボルテージが下がっていない。僕は手塚作品を全て読破しているわけでもないし、それどころか全作品のうち読んでるのは3分の1くらいに過ぎないと思いますので、そう正確なことは言えないのですが、それでもどの時期の作品を読んでも一定レベル以上の感動を得られるということは分かります。これって、ものすごいことだと思います。
なんで、こんなことが人間に可能なのか。
手塚治虫がいわゆる一発屋で終わらず、30年以上にわたって一定以上のクオリティの作品を量産しつづけられたのは、ものすごく普遍的なところから出発しているからだと思います。つまり、人間とは、人類とは、人生とは、世界とは?という、紀元前から語られてきたような普遍的なテーマに真正面から取り組んでいるからなのでしょう。いわば、小賢しいマーケティングの対極にあるような立脚点です。
アーティストが世に出るためには、いろいろな面で新しいオリジナリティが求められます。「この人でなければ」という点ですね。一発当てるだけだったら、別に「この人でなければ」という部分がなくても、「そういえば、こういうのも改めて鑑賞するといいよね」みたいなリバイバル的な、盲点みたいな部分を突いてヒットすることはあります。70年代フォーク的な叙情性を再発掘するような感じとか、ビートルズのリバプールサウンドを再構成するような感じです。でもそれって、「たまにはいいよね」みたいなところで受けているので、別にそのアーチストでなくても、そのテイストは誰でも出せるわけです。もう世に出て久しく、フォーミュラ(公式)も出来上がっているわけですから。
「この人でなければ」的なオリジナリティは、とりあえず分かりやすいところではテクニックという分野があります。メチャクチャ上手である、バカテクであるとか。あるいは「必殺技」的な看板テクニック。あとは、作風、切り込み方なんかもありますね。マンガだったら、異様に細密な線で描くとか、異様にヘタクソっぽく描くとか(ヘタウマってやつですね)、前衛的なストーリー展開で起承転結をまるっぽ無視しているとか。音楽だったら、クラシックとの融合が新しいロックとか、、、まあ幾らでもパターンはあり、その新パターンを開発するということでしょう。これでも立派なオリジナリティです。
手塚治虫も、初期の頃はテクニックと前衛性で鳴り響いていたそうです。それまでのマンガというのは、「のらくろ」なんかがそうであったように、全てのコマワリが同じ、つまり1ページに3コマとか4コマとか予め決まっていて、まるで舞台を見てるように画面が構成され、そのまま続いていくという。マンガというのは、それまで「そういうもの」だったわけです。それを叩き壊したのが手塚治虫で、ハリウッドの映画に影響を受けたとかなんとかで、コマ割は自由自在、バーンと見開きUPになったと思ったら、いきなりカメラがパンしてロングショットになり、また、、という具合にめまぐるしくカットが変わるという。これらは、今のマンガだったら当たり前のことですが、これを最初にやり始めたのは手塚治虫だと言われてます。もうそれだけで、ビートルズやジミヘンレベルの革命性を持ってるわけです。また、テクニック的にも当時のマンガの水準からしたらズバ抜けていたでしょう。
ただ、それだけだったら埋もれてしまうわけです。コマわりの斬新さ、画力という点だけだったら、幾らでもあとから来た漫画家の中に優秀な人がいますから、すぐに追いつかれ、追い抜かれてしまったでしょう。現に、今、手塚治虫を語るときに、そのテクニックや絵の上手さ、斬新性などをメインにもってくる人は少ないでしょうし、それを楽しみたくて手塚治虫を読んでいるわけでもないでしょう。
じゃあ、何よ?というと、テーマの普遍性と、異様なまでのストーリー・テリングの上手さだと思います。要するに、読んでいて、「面白くて、感動する」という「おはなし」を作るのが天才的に上手だったのではないか、と。とにかく、「話」としてやたら面白いんですね。この「面白い話」を創造する力、これはアーティストとしてもっとも根源的な力だと思いますが、そこが優れている。
手塚治虫といえば、ライフワーク的作品の「火の鳥」が出てきます。火の鳥という伝説的な永遠の生命と対比させて、人類とは何か、人とは何かを描いているわけですが、まず描けないよこんなテーマ。あなただったら、どんな「おはなし」を考え付きますか?いわゆる学園ラブコメものみたいに、「とある普通の高校に、ちょっと変わった転校生がやってきて、そこで繰り広げられる明るい騒動と、ほんわかした淡い恋愛」みたいなストーリーだったらいくらでも考えられます。僕ですら、今この場で考えろといわれたら、数本くらいのストーリーは考えつきますよ。あるいは、非常に特殊な業界の世界を取材してそれを展開するのも、ある意味では楽だとは思います。普通の人には珍しい、その業界独特のしきたりや技術を紹介していくだけで、「ほー、そうだったのか」的な感動は与えられますからね。
でも、「永遠の生命と人類」というテーマでストーリーを考えろと言われたら、頭を抱えますよ。人並みはずれた「物語創造能力」がないと出来ないです。それを、「よくまあ、こんなに」というくらい、手塚治虫は手を変え品を変え「火の鳥」を描きつづけてきたわけですね。初期の黎明編、未来編、ヤマト編だけでも超名作なのに、さらに何作も続いています。よく言われるところですが、「火の鳥」のテーマは、未来編で殆ど語り尽くされていますよね。
ストーリーは知っている人もいるとは思いますが、超未来で人類が絶命したあとにも、火の鳥の血を飲んで不老不死を得た主人公が延々と生き続けるという気が遠くなるような話です。あまりの孤独に発狂しそうな主人公が、地球上を探し廻って「5000年後に解凍する」という冷凍睡眠カプセルを発見し、毎日毎日通って5000年間待ちつづけた。しかし5000年経過してもカプセルは解凍しない。数百年それでも待ちつづけたのだけど、辛抱たまらずカプセルを開けようとしたら、その振動で中の人間が粉々に砕けてしまったのを発見したときの主人公の絶望感。「この5000年、わしは待つのが楽しかった、、、しかし、これからの5000年、いったい何を楽しみに生きていけばいいのか、、、」というくだりは鬼気迫るものがあります。そして、「おお、まさか、もしかして、、、」といって、もう一度この地球上にゼロから生物の進化を促すという試みをします。生命の元となったコアセルベートを海岸から海に注ぎ、やがて原生動物が発生し、古代生物、恐竜、両生類、そして哺乳類が登場するまでの何億年、ひたすら待ちつづける。ところが、なにをどう間違ったのか、ナメクジが進化して高等生物になる。しかし、そのナメクジも、人類と同様に勢力争いをし、世界大戦を引き起こし、絶滅する。また、ゼロからやりなおし、、という。
こんなストーリー、よく考えるよなーって思います。未来編の主人公の肉体はとっくに滅びて、最後には意識だけの存在になっているのですが、そこに再び、なんと30億年ぶりに火の鳥が現れ、火の鳥は宇宙の生命体の集まりであること知らされ、火の鳥のなかに主人公の意識が吸収され、そこで主人公は30億年前に死に別れた恋人と再会する。彼らの意識をも包含した火の鳥は、一個の超生命体として、いつの日か人類が「生命を正しく使ってくれる」のを待ちつづけるわけで、火の鳥とは宇宙の超意識のようなものなのですね。この宇宙の真理はただ一つ、「生命を正しく使う」ことだという普遍的なテーマが、未来編ではこのうえなく明瞭に語られています。
だから、未来編で殆ど完結しているようなものなんですけど、このストーリーテラーの鬼のような手塚氏はまだまだたくさん火の鳥のお話を描きつづけています。火の鳥は、これもよく言われるのですが、最初の二作で超古代と超未来を描き、あとは振り子の振幅のように過去と未来を順次描きつつ、段々時代が現代に近づいてくるという構成になってます。ヤマト編のヤマトタケルノミコト、鳳凰編の平清盛、乱世編の源義経と徐々に現代に近づいてくるわけですね。
これって形式はマンガですけど、内容的にはものすごいことを言ってますよね。かなり深い哲学ですし、これを子供の頃に読むと、皆哲学者になります(^_^)。イヤでも、人類とはとか、生命とはとか考えますし、僕も考えました。未だに自分の世界観のなかに、火の鳥的な部分は入ってると思います。
「ブラック・ジャック」は、 医学博士でもある手塚治虫が自分の専門領域を描いたマンガなのですが、驚くべき点が二点あります。医学博士(阪大医学部卒)でもあるんだったら、通常だったら医学マンガの権威になってやっていけると思うのですが、自分の最大の得意分野をマンガで生かそうとしたのは、僕が知る限りブラック・ジャックただ一作です。これがまず凄い。さらに、それをデビュー当時にやったのではなく、ブラックジャックはかなり後になってからやってます。つまり世に出る手段としては全然使っていない。漫画家でありながら、自分自身が医師でもあるという望んでも得られないような特殊技能を持ちながら、それに全然頼ってないことです。最近の日本のドラマでも医療モノを始めとする、特殊業界ものが多いですが、こういう取材一発系とは違って、「珍しい世界を紹介する」というだけでは手塚氏の創作欲求水準はクリアしないのでしょう。実際、ブラック・ジャックを読んでみると、もちろん毎回医療的に珍しい症例などが出てきますが、描いているのは一貫して「人間のドラマ」です。
普通に病院の描写して「白い巨塔」に持っていっても、診療所の「赤ひげ」的に持っていっても、いくらでも描きようがあるにもかかわらず、ブラックジャックでは、顔に皮膚移植をしたツキハギのクールな主人公を持ってきて、外科手術の腕は天才的だけど、法外な金を要求し、しかも免許を(敢えて)取得しないで無免許医師でやっていくという、”わざわざ”特殊な設定をしています。しかし、ここまで特殊な設定をしてしまったら、逆に、考えつくストーリーなんか限られそうなものです。僕もそんなに思いつかないよ。何か考えつきますか?それが、これでもかこれでもかと新しい舞台設定と新しい病気と新しいオチというかテーマを考え出すところが人間離れしています。あるときはアメリカの死刑囚だったり、あるときはイタリアのマフィアのボスだったり、あるときは日本の病院内の派閥抗争であったり、あるときは孤島の医師だったり、あるときはシャチとの友情物語だったり、、、、「なんで、そんなに思いつくの?」というくらい自由な発想でストーリーがのびのびと展開し、それに「へえ、そんな病気あるのか、、」という医学部分をジョイントさせ、最後にきれいにそれらが融合して感動とともに終わる。この終わり方も異様にあっさりしていて、ダラダラ描かない。これだけのものを思いついたら、伸ばしてもっと長編にすればいいのに、というのを短編にしてしまう。
なんというのか、天才ってそういうものなんでしょうかね。天才と呼ばれる人の話を読んでみますと、ネタ切れなんてことはなく、常に表現したいテーマが頭からあふれ出そうで、それを必死になって吐き出さないとパンクしてしまうというパターンが多いようです。もう、頭のどこかが神の世界とチャネリングしていて、そこから大量のデータ-がなだれこんでくるのでしょう。天才という人種は、だいたい人並みはずれて働き者が多いですが、そのくらいフル回転してないと、一個の人間としてデーター過多でぶっ壊れてしまうのでしょうか。
「手塚治虫にハズレなし」といいますが、これは本当にそうで、最近になって、今まで読んでなかったマイナーな手塚作品に触れていてもそう思います。シドニーにも、日本の古本を売るお店がいくつかあるのですが、手塚治虫の本って、あったときに買っておかないとすぐに無くなります。その無くなり方がやっぱり早くて、さすが知ってる人は知っているのだなと改めて思い知らされます。
一般的にはあまり知られていないのだけど、名作だなあって思うのが「シュマリ」です。北海道出身者の人は必読でしょう。北海道開拓時代の話ですが、大学のとき、北海道出身の下宿の先輩に借りて読んだのが最初ですが、良いです。北海道の大自然が余すところなく表現されているだけでなく、ここでもまたストーリー展開の上手さで、魅力的な登場人物、名脇役が出てきますし、因縁深い人間関係と、明治維新になり資本主義や軍国主義にのめりこんでいく時代背景など、読み出したら止まらなくなり、読み終えて「ふはあ」って感動の吐息が出ます。
シュマリを読んでて思うのですが、手塚治虫の作画というのは、背景などに限って言えばかなり写実的なタッチです。相当力をいれて描きこんでいて(アシスタントの人が描いているのだろうけど)、それだけみてたら「劇画」と言ってもいいレベルの水準だったりします。しかし、手塚作品が一度して「劇画」と呼ばれたことが無いのは(多分そうだと思う)、人間だけは絶対に劇画調に描かないからだと思います。昔ながらの、オーソドックスなデフォルメを施した(たとえば実際よりも目を大きく描くとか)、いわゆる「マンガ」としての人間の描き方です。
ただ、そのデフォルメもかなり最小限に抑えられていて、デフォルメのパターンでオリジナリティを出すとか、それがトレードマークになっているとか、そういう感じでもないのですね。たとえば、「サザエさん」の場合、見たら誰でもわかるように、殆ど完全に球形のまん丸頭の人物だったりします。それは、アメリカのシンプソンズなんかでも、見たら誰もでも分かるという独特のシンプソンズ風のデフォルメをしてます(余談ですが、シンプソンズの画風は、園山俊二氏の画風、といっても分からない人は「はじめ人間ギャートルズ」の絵といえば分かるかな、に似てますよね)。でも、手塚作品はそこまで分かりやすいデフォルメをしていない。あくまで人間を描き分けるのに必要な限度でデフォルメしてます。
このあたりもこの人の特徴なのでしょうね。これだけリキいれて背景描けるんだったら劇画調に流れたくなりそうなものですし、逆にこれだけのデフォルメ能力(ジャングル大帝のライオンや動物の”自然な擬人化”は優れたデフォルメ能力がないと出来ない)があるんだったら、デフォルメ方面で発展させても良いのにそれもしない。前述の、専門領域マンガに流れることがないことと併せて考えると、手塚治虫という人は、およそアーティストだったら抗いがたい魅惑的な方向性を、意図してかどうかは知らないけど、全て排除しているように思います。専門知識はあるけどそれに頼らず、取材はするけどそれだけに終わらず、絵はリキをいれて描くのだけど絵を売り物にする気は全然ないという。
要するに、この人は、「感動的なお話を面白く読ませる」という、超ベーシックな所に踏みとどまり、そこだけで勝負してるのでしょう。別に「勝負」とかいう意識はなかったのでしょうけど、もうそういうことにしか興味がなかったのでしょう。だから、他の作家だったら、それだけ一芸になりうる、一財産築けるだけの技能も、彼にとっては枝葉末節に過ぎなかったのでしょう。バケモノだなと思うのは、そういう点です。
つい最近、「時計仕掛けのりんご」という短編集を買って読みました。こんな作品集があること自体、僕は知らなかったのですが、手塚作品にハズレなしの原則にのっとって買ってみたら、やっぱり当ってました。かなり「大人」の短編集で、映画一本見ているよな感じで読めます。
「MW」というのもマイナーな作品ですが、これは珍しくピカロ/悪漢を主人公にした作品ですが、美しくて、頭が切れて、行動力があって、そして「悪い」という主人公の「悪の魅力」がムンムンするような作品です。サイドストーリーとしてホモセクシャリティが走りつつ、在日米軍まで巻き込んで話はエスカレートしていくのですが、最後の最後の数コマでどんでん返しがあるあたり、ストーリーテラーの面目躍如たるものがあります。
「どろろ」は、これは大昔にTVでも放映されましたが、大好きな作品の一つです。
生まれたばかりの赤ん坊のときに、魔物たちに身体の48箇所を奪われ、義手義足義眼などをつけた百鬼丸が、魔物に復讐して殺すたびに、奪われた身体の器官を取り戻していくという、この設定がまず面白いです。物語の半分は設定だと思いますが、「復讐譚(はなし)」という古典的なベースを下敷きにしつつ、ストーリーが円滑に転がっていく設定が卓越しています。設定が上手だと、もうほおっておいてもストーリーが勝手に自走していきます。ジェットコースターはエンジンが無く、最初に高いところまで引っ張ってあとは重力の法則だけで走り回るのですが、設定というのは、この最初に高いところまで引っ張っていくことだと思います。
設定が弱いと、ちょっと走っただけでストーリーが止まってしまいます。そうなると、どんどん新しい敵キャラを出して話を展開させねばならず、「敵キャラ、エスカレートの原則」にしたがって、どんどん人間離れして強い奴を出してこないとならなくなります。「リングにかけろ」「ドラゴンボール」なんか好例ですね。「北斗の拳」もこれにかなり近いですが、それでも「一子相伝の北斗神拳」という設定だけは最後まで貫いたから何となく一体性はあります。古典的名作「巨人の星」「あしたのジョー」の場合は、あとになればなるほど「人生における目的性と燃焼性」みたいな哲学的な部分に重きをおくことによって、「敵キャラエスカレート原則」は働きつつも、それに飲み込まれてしまうことを免れ、名作たる地位をキープしたのだと、僕は思います。
さて、そろそろこのしょーもない雑文にもマトメをしないと。
総じて言えば、手塚治虫氏と手塚作品は「普遍の鬼」みたいなものだと思います。
人類古来の普遍的なテーマを、奇抜で巧みな設定と、ストーリ展開の上手さで、巨大なテーマをきれいに消化しつつ、あくまでも面白く読ませることに徹しているという意味で。
手塚作品を読むたびに思うのは、普遍性の強さです。
30年前の作品ながら、今でもほとんど何の違和感も無く読めてしまうのは、テーマ、表現技法、物語展開のいずれもが普遍的なものを目指しているからなのでしょう。そして、これは言うのは簡単だけど、実行するのは死ぬほど難しいですよね。だって、普遍的なものって、全然「新しく」ないですから。新しいものをクリエイトして世に出すのは、それはそれで難しいけど、それでも「新しい」というとっかりがあるだけまだやりやすいです。でも、「新しさ」を禁じ手にして、誰もが皆知っている、かつて散々語り尽くされた普遍的なものだけで勝負していくのは、これは難しいですよ。いわく言いがたいサムシングが必要ですから。
それはたとえば、極めてオーソドックスでシンプルなロックンロールをやっているバンドが全世界で数えれないほどあるのにも関わらず、結局、ローリング・ストーンズの地位を奪うバンドが遂にあわられなかったようなものなのでしょう。普遍的な部分で勝負するというのは、それはもう誰もが認める王道なのだけど、誰にもでも出来るというものではない。もう、「誰にも出来ない」といっていいくらいのものなのかもしれません。
ただ、それは分かるのだけど、ここまで「王道」というものの超強力なパワーを見せ付けられてしまうと、やっぱり惹かれるものはありますし、自分としても普遍的なものを、もっと馬鹿にしないで真正面から見据えてみようかと思ったりもします。
文責:田村
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