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今週の1枚(04.04.19)
ESSAY 152/セルフプロデュースと「栄養」
写真は、去年のオーストラリアDAYでのクラシックカーショーの様子。「おお!」というクラシックカーが(公称)1000台も集合します。本当に1000台もあるかどうかわかりませんが、かなりの台数が出てきます。それよりも驚いたのは、これら全て個人所有の趣味の車であり、皆さん実際に乗ってやってきていることです。
僕がメインにお世話しているのはワーホリさんや留学生など長期滞在型の方々ですので、日本発の航空券がやたら高くなるゴールデンウィーク時期に来られる人はマレであり、その代わりそれを避けたゴールデンウィーク前後に人が集中する傾向があります。先週は5名(4組)の方々をお世話して、ゴールデンウィークまであと4名の方が来られる予定です。
毎週毎週同じことを説明しております。やれ、公共交通機関のシステムの説明や、治安についての対処の仕方にはじまって、ちょっとした生活のコツなど。例えば、外食して食べ残したらほぼ必ず持って帰ることができるよ、こちらは一人分の量が多いから持って帰ると一回の出費で二食イケるからトクだよ、その場合の英語の言い方は、ドギーバックなんて実際あんまり聞かないから、レストランだったら ウェイターに"Can I take it (them) away, please?"って言えばいいけど、サーブしてくれる人がいないフードコートで持って帰りたいときは、店に行って「入れ物を下さい」って言えばいいよ、30-50セントくらいで売ってくれるよ、「入れ物」というのは「タッパー」と言っても間違いではないけどあまり一般的ではないので、「コンテナ」と言うといいよ、"container"は、「こんていなあ」と発音し、「てい」のところにアクセントがくるから注意、、、、なーんてやってます。
最初に現地のイロハと学校選び(それ以前に英語とはなにか論とか)を、ぶっとーしで2−3時間「インストール」して、その後数日にわたって断片的にお教えするから、一人あたり5時間前後は費やしていると思います。数百回同じことを繰り返していると、さすがに飽きるものもありますが、仕事なんかそんなもんでしょう。聞く人にとっては、それが全てなんだし、飽きるなんて言ったらバチが当たるって。そういえば、マンガ「将太の寿司」に、500本の巻寿司を作る場面があって、「一本くらいいいや」と手抜きして、親方にドツかれるシーンがありましたね。作る側にとっては500本のうちの1本であっても、お客さんにとってはその一本が全てであるんだと。それに、個人的には前回よりも必ずどこか一つはヴァージョンアップさせようとしてますから、工夫してると飽きることもないです。また、語り手が「繰り返し」だと思った瞬間、その言葉の中のなにか大事なオーラみたいなものが死ぬような気がするし。
しかし、まあ、僕は聴衆には恵まれていると思いますよ。前職の弁護士にせよ、今の仕事にせよ、目の前にいる人は、なにかしら「切羽詰っている」人ですから、真剣に聞いてくれます。真剣に聞いてくれるのが最高のご褒美ですよね。バンドでステージに上がっても話は同じで、真剣に聞いてくれるのが一番うれしいでしょう。それに比べれば、学校の先生は大変だなあって思います。これは小学校にせよ、大学にせよ。全然聞いてない奴とか沢山いるでしょうしねえ。かく言う僕もよく居眠りしてましたし。真剣に聞いてくれない状況でなんか喋るくらいストレスフルなものはないでしょう。皆、誰も聞いていないところでカラオケ歌ってるような、砂を噛むようなムナしさがあるでしょう。チョークの一つも飛ばしたくなるでしょう。皆が一番聞いてなさそうなところをテストに出題したくもなるでしょう。
さて、それはさておき、毎週毎週何が一番「同じだなあ」と感じるかというと、皆さんが悩む個所ですね。大体、皆さん、同じ問題で悩まれます。それは、「自分探し」であり「自分の育て方」です。今日はそのあたりの話をします。
大体、皆さん最初は「いい学校」を選ぼうとしますが、幾つか見ていけばどれもそれなりに「良い学校」であることは分かるし、キャラクターの違いも一目瞭然といった感じで分かる。わからないのは、じゃあどこが自分に合っているのか?です。自分とのマッチングを考えるならば、自分はどういう特性を持った人間なのか、どうやって育ててやれば一番伸びるのか?という点が分かっていなければなりません。でも、これまで生きていてあんまりそのあたりを真剣に考えてきた人は少ないです。だから、悩む。
例えば、よくある希望に、「日本人の少ないところ」がいいというのがあります。中には本当に少なく、全校で3−4人しかいない学校もあります(スタッフにも日本人はいない)。「日本人が居なければイヤが応でも英語を喋らざるを得ず、だから英語が上達する筈だ」という「仮説」があり、これは皆さんよく思いつかれるところです。これも分析してみると、「日本人がいると、つい日本語を喋ってしまおうとする自分」「楽な方へ流されがちな弱い自分」という自己認識がベースになっているのでしょう。そういう「弱い私」には、ハードな環境で追い込まれたほうがいいという「自分の育て方」が合っていると考えるわけですね。ごもっとも、sounds reasonableです。
だけど、ちょっと待てよ。「否が応でも英語を喋らなければいけない環境」で英語が喋れたらいいですよ、でも、環境が変わっても自動的に能力が上がるわけではないから、どういう環境であっても喋れないものは喋れない。喋らねばならない圧力は高まるから、喋ろうという欲求は増すでしょうが、かといって知らない単語や表現がいきなり出てくるわけではない。無から有は生じない。そうなると、喋らないといけない環境で喋れないことになり、どうなるかというと、ひとりポツンと孤立するかもしれない。喋れないのがツライから、万事に消極的になり、引っ込み思案になり、引きこもりになり、自閉症になるかもしれない。仮説でいうなら、そういった仮説もあるわけです。
冷静にシュミレートしているようで、どっかで飛躍があるのですね。どこかに希望的な観測、ぶっちゃけて言えば「おとぎ話」が混入する。「英語環境になれば嫌でも英語を使うから上手になる」というのは、「嫌でも英語を使う」という部分がオトギ話っぽいんです。本当に使うの?という。つまり、「英語環境で英語が出来なければ結局誰とも喋れないで孤独になる」という可能性もあるわけです。その挙句、「草の根わけても日本人を探し出し、日本語を喋ろうとする」という可能性もまたアリなわけです。その可能性を全く無視してシュミレートしても意味ないですよね。
もちろん英語環境になってガンガン英語を使うようになり、それに比例して垂直上昇的に英語が伸びる人もいます。これはもう沢山います。でも、全員が全員そうなるかというと、そうではない。ここに「個性」というファクターが入ってきます。つまり、日本人ゼロ環境で、物怖じせず或いは開き直ってどんどん前に進める人と、逆にどんどん後ずさっていってしまう人がいます。
さらに話を精密にします。誰だって恥はかきたくないですし、苦手なことをやるのはイヤなものです。楽な方向に流れがちなのは、それはあなたが甘っちょろいだけではなく、それは「不快を避け、快を求める」生物の生存本能でもあるわけです。生き物というのは、生存に適していることは快く感じ、生存に適してないものは不快に感じるように作られてます。というか、そういう種族が淘汰されて生き延びてきているわけですね。大雑把にいえば、腐った食物を食べれば不味く感じるように出来ている。身体や心が休息を求めているときは、行動にブレーキがかかるように、ダルくなったり、眠くなったりするように出来てます。眠るべきときに眠ると気持ち良く感じるように出来ています。
「知らない言葉で、見慣れぬ外国人と会話する」というのは結構ストレスがかかりますから、これを避けようと思って当然でしょう。これに打ち克ってスキルというのものは磨かれるわけですが、基本的にスキルというものは、「イヤなことをやらないと伸びない」という共通の性質があります。イヤなことをやり続けるためには、それなりのメカニズムと原理があります。
たとえば、@不快さを我慢しうる欲求不満耐性が高いこと、それは精神的においては不愉快な記憶をチャッチャと忘却したり解毒したりする「心の肝臓・腎臓」みたいな生理作用が生まれつき強いかどうかですね。
あるいは、A不快さを上回る快楽があること、なんかも大事ですね。
これはさらに、A-1:「将来にカッコいい自分を夢見てムフフとなれる性格」なんてのもそうでしょう。英語を喋れるようになってカッコよくなった「将来の自分」を、殆ど妄想に近いくらいリアルに強烈に想像できて、それに酔える人は幸せです。ちなみに、いつぞや書いたと思いますが、僕の経験でいっても、ギターの技術にしても、司法試験にしても、これで乗り切ったように思います。ギターだったら、ステージでキャーキャー言われてる自分を「むふふ」と想像するのですね。そうすると頑張る気になります。まあ、実際に弾けるようになっても、結局そういったキャーキャーなんて経験はなかったわけだけどさ(^^*)。司法試験でも、煮詰まったら、「後輩達を前に、合格体験談をエラそうに得々と喋ってる自分」を想像するわけです。「私はこうして合格した」とか。出来れば、その体験談のときに何を喋るか草稿の一つも書いてみるといいです。そうすると、「ああ、なんて気持ちいいんだろう」→「よーし」になると思います。
いや、別にあなたも必ずそうなるよ、とまでは言ってませんよ。でも僕はそうだったし、そういった「夢見る夢子さん」的体質を、強力な牽引力に仕立て上げることは可能だと言いたいわけです。馬の鼻先のニンジンであり、モルヒネみたいなものですが、この快楽妄想で、目の前のハードさを中和するのですね。”薬”がきちんと作用すれば、目の前の現実がいかにハードでミジメであっても、「僕も最初はこんなに悲惨だったんです」と言える訳だから、「いやあ、また将来の自慢のタネが出来てしまったなあ、むふふ」って気分になるから。冗談で言ってるんじゃないって、ほんとだって。僕はほんとそうでしたよ。それがあるから、何の目算もないのにオーストラリアにだってやってきたんだし。ほんと、これって現実が悲惨であればあるほど酔えるという、マイナスを一気にプラスにできる、”マイナスの掛け算”みたいな強力な武器だと思うんだけどなあ。「主人公は必ずピンチになる原則」とかね。
あるいは、A-2:「報償的快感を感じて調子に乗る」って方法もあります。努力が報われていることを感じる力です。ちょっとづつ英語が出来るようになって、「おお、伸びてるじゃん、俺!」と感じること、カタコトながらコミュニケーションが取れたことによる喜びを感じることが出来たならば、それまでの不快感は一挙にチャラになります。努力は確かに忍耐という苦痛を伴いますが、その不快感よりも、達成感という快感の方がデカいですから、それさえ感じることができたらしめたものです。
ただ、努力を続けるためには自分に厳しくしあらねばなりませんが、そのための克己心と、ほんの少しでもいいから自分の進歩を発見して自分を褒めてあげる精神状態というのは、ともすれば相反します。自分に厳しくあろうとするがあまり、多少の進歩には気づかないとか、気づいたとしても「そのくらいじゃダメだ」とネガティブに思ってしまったりします。このあたりのメンタル管理は難しいのですが、行動にあたっては厳しく、結果については積極的好意的に評価してあげること、自分をおだてて調子に乗せてやることですね。要するに名コーチみたいなものです。もっと言ってしまえば犬の調教みたいなものです。
自分の中に「勝ちパターン」を持っている人、それも出来るだけ色々なパターンを持っている人は、何においても習得も早いし、成功もしやすいでしょう。それを持っていない人、それが乏しい人は、モノになる前にメゲてしまいがちです。物事というのは、大抵、最初に膨大な量をいかに速やかに蓄積できるかにかかっていると思います。英語においても絶対必要な知識の量というのはありますし、スポーツでも最低限必要な筋力や運動能力というものがあります。マルクスのいう「資本の原始的蓄積」みたいなもので、金持ちはより金持ちになり、貧乏人は相対的により貧乏になっていくとしたら、その分かれ目は最初に一定以上のお金を持っているかどうかで決まります。だから、その絶対必要な「量」をいかに素早く集めるか、です。最初は何事も不慣れですし、ザルで水を掬ってるようなものですから、やってもやっても漏れて逃げていってしまう。それでも「貯める」には、高速で集中的に水を汲むしかない。それを短期間にやりとげることができるかどうか。
物理的には「量」だけの話ですから全然難しくはないと思います。ひたすらやればいいだけです。でも、人間の心というのは弱いから、すぐにメゲてしまう。だから脅したり、すかしたり、褒めたり、騙し騙しその最初の詰まらない時期を一気に上りきることができるかどうかですね。
さて、これらの習得パターンを踏まえたうえで、一体自分というものは、どういう環境においてやれば、最も気持ちよく突っ走ることが出来るか、です。植物の発芽と同じように、どのような温度、湿度、日光時間であれば最大に発芽するか、です。
ここがまさに個人差の世界で、最も難しく、皆が最も悩むところであります。ある程度ハードな環境に置かれた方がやる気が出るという人もいます。自分が未熟だったら、その分きっちりヘコまされ、正しくミジメになるような環境の方がファイトが湧く人。生ぬるい環境でチャラチャラやっててもダメだ、体育会系のようにビシバシやることにある種の爽快感を抱くという人もいるでしょう。
あるいは、その逆に、チャラチャラはイヤだけど、もっとぬくもりのある環境で、ほがらかに、楽しくやってるときが一番効率がいいという人もいるでしょう。「厳しさ」も大事だけど、「楽しさ」の大事さは決してそれに劣らない大事な要素であるとする人もいる。じゃあ、さらに、その人はどういう環境だと一番楽しく感じるのでしょうか?単に楽チン的な快感ではなく、より「生産的な楽しさ」というのはどういうことか、どのような環境だったらそれが得られるのか。それは例えば、友達に囲まれて始終ワイワイやってるのが楽しいって人もいるでしょう、はたまた少しばかり淡く、透明感のあるような人間関係の方がいいって人もいるでしょう。そこは好みであります。
自分が一番自分らしくあることができる環境とはどういう状態か、あなたは自分でわかりますか?
さらに難しいのは、自宅や家族の環境のようにリラックスすることが目的なのではなく、精進するための環境ですから、今の自分に100%マッチしているのではなく、「あるべき理想の自分」にマッチしている方がいいということです。あまりにも自分のフィットしすぎてしまうよりも、多少不快感があって、それが刺激になって頑張れるような環境の方がいいと。つまり、あまりにも周囲の人々が立派過ぎたり凄すぎたりすると、頑張ろうと思うよりも先に「ああ、俺って、ダメダメ」って落ち込む比率が高いから却って効率悪いのだけど、かといって自分と同じような甘さを持った人間ばかりだと、つい傷を舐めあってしまって「別に頑張らなくてもいいよね」ってなってしまいかねない。そのあたり、ちょっと背伸びをするくらいが丁度いいのですけど、その「ちょっと」の頃合というか、そこのレシピーが難しいんですね。
かくして、毎週毎週、皆さん、そういった部分で悩まれます。これは大いに悩まれたらいいと思いますし、積極的に悩んでもらいたいです。ここで悩んだことは、将来必ずや大きな財産になります。ここであれこれ悩むからこそ、Aという特性をもっている自分は、Bという特性をもっているB学校を、こういう角度からこのように使いこなしてやろうという能動性が出てきます。学校なんか「道具」ですから、単に選ぶという受動的なことだけでは足りずに、より積極的に「使いこなす」ことが大事で、大まかでもいいから事前に使いこなすための目処なり方向性が見えてきたらしめたものだと思います。そして、遠い将来においても、こういったセルフ・プロデュース能力を身につけていること、あるいはそういう視点でモノを考えられるようになることは、大きな武器になると思います。
ところで、それと関連して思うのですが、僕らが自分を育てていく上での「栄養」って何なのだろうかって。
最近は日本も就職状況が厳しくて、大学入ったらすぐに就職を意識したり、自己投資とかいってスキルアップに励んだり、資格のための勉強をしたり、予備校に通ったりしている人が多いらしいですね。司法試験でも、入学と同時にLECのような予備校に行くとか。
それはそれで結構なことだとは思います。でも、そればっかりってのは、ちょびっと不自然なものも感じるのです。なんというのか、栄養があるからといって、サプリメントだけ食べてるみたいな感じ。そんなに栄養ばっかりとっていいのか?というか、「栄養」ってそういうもんなの?というか。
これは英語学校を選ぶときに皆さんに言うことでもありますが、入るときは皆さん「英語が沢山伸びる学校」「英語を勉強するための学校」を選ばれます。それは、まあ当然なんだけど、これが卒業するときには、微妙に言い方が変わるのですね。英語に関して言えば、3ヶ月とかやったくらいではそんなに伸びた感じはしないのだけど(客観的にはすごい伸びているのだけど、主観的にはそう感じられない)、それをあんまり問題にする感じではない。それよりも、「楽しかったですよー」という言い方になるのですね。通っていて、英語もそうだけど、もっと大きな意味で総合的に充実したという。だから、こと英語力の上達だけを気にするわけでもないと。
そして、これも皆に言うのですが、あなたが中学や高校生のときに、「勉強しに」学校に行ってましたか?毎朝通学するときに、「よーし、今日は日本史を極めてやろう!」とか向学心に燃えて学校に行ってましたか?行ってませんよね。それどころか、授業中は半分寝てたり、消しゴムのカスを前に座ってる奴の襟元に入れたりしてましたよね。友達とダベったり、部活やったり、帰り道に買い食いしたり、下駄箱にラブレターが入ってたとか、バレンタインデーに燃えたり、文化祭のステージで燃えたり、好きなCDを貸し借りしたり、、、、そんなことばっかりやってたと思います。
で、今、そのことを後悔してますか?ああ、もっと勉強すればよかったとは思うでしょう。それは時々痛切に思うでしょう。だけど、これらの時間が無駄だったと思いますか。もし、あなたの目の前に神様が出てきて、「今からお前の中学高校の記憶を消してやる、全部消すのは気の毒だから、中高6年間で得た全ての勉強の知識を消すか、それともそれ以外の友達とか部活とか恋人の記憶を消すか、どちらかを選ぶが良い」って言われたら、どっちを選びますか?この質問、実際に皆さんにも聞いてみるのですが、ほぼ間違いなく、皆さん、消すなら勉強の知識の方を消してしまうといいます。僕もそうです。
これは「予備校」と「学校」の違いの説明するときによく使う比喩なのですが、「学校」って本来そういうものだと思うのです。スキルアップとか、知識の習得とか、そんな実利&機能一辺倒の存在ではなく、もっと総合的な「場/サロン/社会」としての存在なのだと。そこでやってきたモロモロの営み、部活で先輩にシゴかれたり、ラブレターつっかえされたり、喫茶店で馬鹿話してたり、中間テストの前に一夜漬けしようとして、その前に夜食作って腹一杯食べたらそのまま寝てしまって朝を迎えたり、、、そういったことが物凄く貴重な、宝物みたいな記憶なんだと思います。そういった一つ一つの記憶や体験が、いまのあなたを作ってるんだと思いますよ。僕も、中高のときに聞いた音楽、読んだ本、友達と話したこと、それらが今の自分を作ってます。もう自分の人格の半分以上がその頃の体験で出来上がってるといっていいです。本当の「栄養」ってそういうことじゃないのかな?って気がするのですね。
だから、学校は行った方がいいですよ。勉強なんかぜーんぜんやらなくたっていいからさ。こんなこと言い切っちゃうと反発食らいそうだけど、でもさ、エラそうに言ってる大人達だって、つまりは年齢からいけば僕もそうですが、僕らだって勉強したこと覚えてないですよ。「セポイの乱はなぜ起きたのか」と「イオン化傾向」についてという理系/文系双方の知識を、30、40歳過ぎてから同時に正確に説明できる奴は少ない。あなた覚えてますか?中学生レベルですが、天体の運行についての「合」「衝」ってなんのことか覚えてますか?古文でやった推定の助動詞「らむ」の活用形を言ってください。球の体積の求め方は?球の表面積は?じゃあ、逆に中高のときに習ったこと言ってみて?なにを覚えてますか?大して身についてないんじゃないですか?
もっと言えば、そういった宝物を得られそうもないなら学校行ってもしょうがないともいえます。ひどいイジメに遭うだけなら、とっとと学校を変えたらいいと思う。不登校であっても、別に不登校の間に存在しなくなるわけではないので、何かやってるわけで(部屋で本を読んだりとか)、そこで考えたことや、想像したことは何かの栄養になると思います。
こういうことって、自分が大人になったからこそ堂々と言えるのですが、入試を突破するためだけの勉強って本当の意味での勉強じゃないです。自分が子供の頃に同じことを言っても、負け惜しみや言い訳にしか聞こえないけど、今なら言えるもんね(^^*)。試験のための勉強、あれは単に「処世術」です。それはそれで大切なテクニックですよ。割り切って、やる!それも大事。社会に出たらとっても大事。どう考えても意味のない仕事、社長の自己満足でしかない仕事も、それに付き合うことも給料のうちと割り切ることも大事ですね。でも、それは勉強じゃあない。思うのですが、子供達に勉強をさせようと思ったら、彼らが覚えさせられている知識を、僕らもまた正確に理解して、それで実際に生活が豊かになることを実証してやらなきゃならないんじゃないですかね。親や大人が、得た知識をもとに楽しく豊かに暮らしているところを見たら、「なるほど」と思うんじゃないかな。でもって、段々わかってきたけど、学校でやった知識って、知っておくと結構ちゃんと生活が豊かになりますよ。
あ、でも、子供達に「勉強しなさい」って言うのは大事だと思いますよ。矛盾してるようだけど、上から一定の気圧というか、適度なプレッシャーを与えられていることは、人間が健全に発育するためには必要だと思うから。適度に「こんちくしょう」「何でだ?馬鹿野郎」と思うくらいでないと、モノ考えなくなりますからねー。適宜適切なプレッシャーは必要だと思いますです。
日本の大学は、アホでもいけるとか、全然勉強しないとか色々言われます。確かに西欧の大学の超ハードさに比べたら、天国というか、屁みたいなもんでしょう(学部によるとは思うけど)。でも、一面では、あれはあれでいいんじゃないかなって思うようにもなりました。誰かが書いていて、僕も以前に引用した記憶があるけど、日本の大学って何にもしないでボケーッとしてる時間が多いけど、それがいいのだと。あのくらいボケーッとしないと、人間がセカセカしてきてしまうと。
僕も大学の一回生、二回生の頃は、自慢じゃないけど(ほんとに自慢にならないんだけど)、全然勉強しませんでしたもんね。ドイツ語再履修。司法試験突破とか掛け声ばっかりで、実際にやってるのはギター必死になって練習したり、そのために指立て伏せやったり。デートしたり、バイトしたり、初めて二日酔いを体験したり、下宿で麻雀が流行って皆で足の引っ張り合いをやって全員留年したり、古本を山のように買い込んできて読んだり、アホなことばっかりやってましたけど、珠玉の思い出ばっかりです。僕が司法試験をマジメにやりはじめたの三回生になってからです。合格したのは25歳だから、入学時期から予備校に通ってたら、もしかしたら23歳で合格したかもしれませんよね。でも、これらの体験をチャラにしてまで2年早く合格した方が良かったなんて、全然思わないです。もう一ミクロンも思わない。それどころかぞっとしますよ、貧しい人間になってたんじゃないかって。今も貧しいけど、もっと貧しい。
だって実際に弁護士の実務に就いたら、純粋に法律知識だけで解決する部分なんて数パーセント、5%もないんじゃないですか?あとの圧倒的大部分は法律知識以外の部分、それはいわゆる「世間智」と呼ばれるものであったり、人間というものは本来的にダメダメなんだけど、ダメだからこそ愛すべき存在なんだということとか、喧嘩の仕方であったりとか、そういったことです。男女の修羅場だって、自分である程度体験してないと、ひとの話を聞いてもピンとこないでしょう。自分が、ひねくれたり、他人を羨んだり、逆恨みしたりしたことなかったら、そういう人の気分も分からんでしょう。ましてや説得なんかできないでしょう。それより何より、接客サービス業ですからね、誰と会っても適当に話が盛り上がる程度の座談芸というか、知識がないと営業として成り立たないです。
なんといいますか、「清濁併せて飲む」といいますが、「濁」も大事です。そういったことも立派に「栄養」になるのだと思います。
セルフプロデュースの話に戻りますが、これら「栄養」をよく考えて、自分を育てていくのが大切なのだろうと思うわけです。
そして、人工肥料やらサプルメント漬けにしてたら、どことなく不自然に育ってしまいかねないように、オーガニックに栄養をとるのが大事なのだろうと。「オーガニックに栄養を摂る」ためにはどうしたらいいのか?というと、うーん、よく分からんけど、あんまり考えすぎたらダメなんでしょうね。妙に小ざかしいのはダメ。自然に興味の赴くままやってるのが一番バランスが取れるのかもしれないです。
例えば、将来エリート官僚になるのが当確の大学生が、「庶民の気持を知るために」といって敢えて必要もないのに肉体労働のバイトをやって自分の栄養にする、、、、ってのは、どうなんでしょうね?いいような、なんか気持ち悪いような。そんなんで分かってもらいたくないなあってのもありますよね。将来エリートになる人であっても、貧乏学生だから仕方なしにバイトやってるという、そのナチュラルさが尊いような気がしますが、あなたはどう思いますか?じゃあ、裕福なのでバイトする必要もない人はどうするか?というと、その「恵まれすぎるが故のコンプレックス」を抱えているのがむしろ自然なのかもしれません。
大学に入るやガンガン予備校いって資格の勉強して、キャリアだのスキルだのに奔走して、「私のキャリアパス計画」のとおりに実践されるのも、いいとは思います。はい、すごく不自然で、アンバランスだと思いますが、それはそれでいいかもしれません。だって、そういうやり方って、いかにも若者独特の直線的で、未熟で、傲慢で、一言でいえば阿呆じゃないですか。だからどっかで思いっきりコケると思います。それがいつどこでコケるかは分かりませんけど、出来れば早い方がいいですよね。とりあえずやり始めたけど全然続かなかったとか、微笑ましいですね。あるいは、そういった自信満々のプランと技術が、好きな異性を射止めるにあたっては実は全く無力だったりして(当たり前だ)、ガーンとなるとか。自分が必死に緻密に計算していることよりも、さらに巧みなことを全く何の計算もなしに天真爛漫にやってのける奴に出会って打ちのめされるとか。キャリア一筋でやってきて、途中で急に馬鹿馬鹿しくなったり。「キャリアに、家庭に、育児に、バランスよくこなしている私」という自画像に酔ってたら、あるとき突然何もかもがイヤになったり、キッチン中の皿を叩き割ったり、自覚はしないけど抑圧した無理が祟って体調が異様に悪くなったり。
若さが故に暴走するのは、悪いことではないです。速く走ればいいんだろうといって、お化けみたいなエンジン作って車を走らせたら、今度はカーブが曲がりきれなくて激突するとか、速いのはいいけどブレーキがきかなくなって恐い思いをするとか、そうやって実践現場でバランスを取る機会があると思いますから。それもこれも、みな栄養だと思います。
学校選びの話に戻りますが、いつも最後にこういうアドバイスを差し上げてます。
あんまり理屈で考えないほうがいいよ、理屈で選ぶと失敗するかもよ、全てを考え抜いた上で最終的には直感で選ぶのがいいと思うよって。
足りない栄養分は、自然と身体が欲するといいますが、自然と欲してくれる自然な身体が、一番大切なのだと思います。
文責:田村
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