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今週の1枚(04.04.12)
ESSAY 151/イラク戦争における象徴性
写真は、うちの近所(Lane Cove)の公園。珍しく朝霧にけむる早朝にて
イラクで日本人民間人が人質になったというニュースは、こちらでも流れています。もっとも人質になったのは日本人だけではなく、というか日本人はそのなかの一部に過ぎないので「外国人をキッドナップ(誘拐)した」という扱いです(例えば、”8 Koreans, 3 Japanese reported kidnapped by insurgents” 4月9日付SMH)。他にもキッドナップされた外国人は多く、アメリカ人、イタリア人、カナダ人などなど。ただ、本国におけるショックは日本が一番大きかったということで、"Scenes of terrified hostages leave Japanese in shock"(4月9日付)という記事のなかでは、”But the kidnappings caused the greatest shock in Japan. ”と書かれています。
日本人の3名は解放されそうな動向で喜ばしいのですが、その帰趨がどうなるかとは別に、ちょっと感じたことがあります。それはなんによらず「象徴的」だなあと。
日本が派遣した自衛隊の総数は500名強。駐留しているアメリカ軍は13万人以上ですから、現場のアメリカ軍のからしたら500名くらい助っ人が来てもそれほど大勢に影響はないだろうし、本気で協力するつもりならその数十倍くらいの人員を送ってくれよといいたいかもしれません。ただ、アメリカとしては本気で兵力的なヘルプを日本に求めているわけではないのでしょう。日本を含め「他の国もアメリカに賛同してくれている」「アメリカが単独で突っ走っているわけではない」という、国際世論における政治的なエクスキューズが欲しいのであり、象徴的な派兵で充分なのでしょう。実際に役に立つ援助は何よりも金でしょうしね。
もともとテロリズムというのが心理戦であり、象徴性が強いです。NYの貿易センタービルをぶっ壊したからといって、別にアメリカという国は揺らぎもしないでしょう。アメリカを本気で軍事的に叩き潰そうと思ったら、核兵器を10発くらいアメリカ本土の主要部に叩きこむくらいしないとならんでしょう。テロは "terror(恐怖)"からきてますから、攻撃における物理的効果ではなく、心理的ショックを狙っています。その心理的恐怖感を最大に演出するためにはどうしたらいいか?ということで、象徴的な貿易センタービルを破壊し、その効果は甚大だったと。これが、ロッキー山脈のどっかの山奥を爆破してもあんまり効果はないです。
アメリカの行動原理も、「やられたらやり返せ」というシンプルな報復感情に基づいてますし(大統領府が何をもくろんでいたかはともかく大衆レベルでは)、反射的に振り上げたこぶしをとりあえずアフガニスタンに下ろし、さらにまだエネルギーが残っているのでイラクにも向けたという感じがします。なんでイラクなの?本当に根拠なんかあったの?ということで、今大統領政府内部で「ミスリードしたのはお前だ」と弾劾合戦をやってますが、振り上げたコブシをどこに下ろそうかなと思っていたら、(アメリカ人から見たら)いかにも憎々しげなサダムフセインの顔が”象徴的”にそこにあったという。
ある意味では彼も気の毒で、あまりにもアクの強い個性が、悪役としての象徴性を帯びてしまったという。先週はサダム政権崩壊から一周年になりますが、1年経過してわかったのは、彼一人が極悪大王でそれ以外の善良なイラク人を抑圧しつづけてきたということではなく、宗教的過激派の群雄割拠するアナーキーなエリアを、剛腕で無理やりまとめあげていたというものだったらしいということですね。なんせアメリカ軍精鋭13万人が1年かかっててこずっているのを曲がりなりにも統治してたわけですから。だから、ヒットラーというよりは、山口組組長みたいなものだったのかもしれません。今回のイラク侵攻も、「なんとなく目があった」「そいつの顔がそこにあった」からボコられたという、イジメみたいな話だったのかも。
そうそう、北朝鮮も金正日政権を倒したらあとは一気に開放民主化にいくかというと、イラクみたいに軍閥同士の内乱になってもっと収集がつかなくなるかもしれません。まあ、イラクと違って民族や宗教的な亀裂はないでしょうから、その可能性は薄いとは思いますが、でも、わからないですよね。強烈な独裁者がいると、「こいつさえ居なくなれば」と思いがちですが、そうと限ったものではないのでしょう。
さて、日本の自衛隊にしても、実際に軍備がどのくらいあって、どのくらい強いのか、どの国のどこをどう攻撃するのか(防衛するのか)という具体的な話よりも、象徴的・観念的な意味合いの強い存在だと思います。なんせ実戦経験ないですし(あっちゃいけないんだけど)。
もともと憲法9条の戦争放棄条項が強烈な理念を謳いあげている関係で、自衛隊という存在自体が違憲じゃないかって話は昔からあります。最初は「警察予備隊」という名称で発足して、あくまで警察ですということでやってたのですが、そのうち警察の範囲を超え軍隊になってしまったら、こんどは軍隊ではなく自衛隊ですという言い方になります。未だに、日本国軍、日本国陸海空軍という言い方はされていません。歴代政府は「自衛のための戦力の保持までは禁じていない」というアクロバティックな憲法解釈でしのいでますが、そのあたりが既に「神学論争」みたいな部分はあります。
憲法と自衛隊の関係については、ご存知のように pros and cons、賛否両論ありますが、いずれにせよそのポリシーを具体化させるための議論と準備が乏しいように思います。すなわち、もし戦力を持たないという選択をしたならば、戦力なしにやっていくためには、今の何倍も国際情勢に対してクレバーにならなければならないし、他国から「悪賢い」と呼ばれるくらいに巧緻な国際戦略を営む必要があるでしょう。A国と喧嘩したらB国を味方につけるように今のうちに根回しをしておこうとか、国際世論を日本びいきになびかせるためにオピニオンリーダー的に地位に就くとか。逆に軍備を持つのであれば、その軍備に振り回されないように、シビリアンコントロールを徹底することでしょう。シビリアンコントロールは今もありますが、形骸化させないように。
どっちの準備も整ってないから、日本がどちらかの決断をするにせよ、あと50年くらいかかるんじゃないかってのが僕の意見です。つまり、戦力なしでやっていくためには、日本政府が国際情勢にクレバーにならなければならないわけだけど、それって結局その政府を選出し支持する国民一人一人のレベルで国際情勢に明るくクレバーになる必要があるでしょう。常日頃からいろんな国の人とつきあっていて、海外情報をダイレクトに理解できる程度の英語など第二外国語能力はもう”標準装備”というくらい誰でも持っているようになり、この地球や世界をある程度皮膚感覚で理解できるくらいの体験量。そのあたりの力量を底上げしないと、それも一部のエリートだけでなく国民レベルで底上げしないとダメだと思います。日比谷焼打ち事件の二の舞になってはしょーもないですから(*)。
*日比谷焼打ち事件というのは、日露戦争終了のポーツマス条約の締結内容が日本に不利だということで、怒った市民が日比谷で暴動を起こしたもの。実際は、大国ロシアに奇跡的に勝っていただけで、しかも現時点の途中経過がそうだというだけで、本気で持久戦になったら圧倒的な国力の差でボロ負けするのは明白だった。ときの政府もそれを知悉していたから、緒戦でいきなり勝って、判定に持ち込むという戦略だった。それはロシアも百も承知だったから講和そのものに不服であった。そこをなんとか戦争終了までこぎつけた全権大使小村寿太郎の”外交的大勝利”といっても良かった。実際、ここで決裂し、戦争が続行されたら、かなりの可能性で日本はロシアの属国になったかもしれないし、今でも北朝鮮や中国のように共産主義でやっていたかもしれないという歴史のターニングポイント。しかし、「連戦連勝」としか報道されなかったため、国際情勢も何も知らずに日本軍最強と思い上がった日本人はこれを不服とし、暴動を起こし、小村寿太郎の住居も襲撃された。以後、夜郎自大に思い上がった日本は(特に後の世代)、歯止めがないまま破滅的な第二次大戦に向う。
戦力保持という選択をした場合も、上記と同様です。いずれにせよ原則はシンプル。「アホは生き残れない」ということだと思います。「力」を制御するのは「知」ですから、「知なき力」は身の破滅のもとでしょう。あと、軍備を持つのであれば、付和雷同的な国民性をなんとかすること、レミングの自殺行進にならないように、周囲に逆らってもNOと言えるだけ根性を一人ひとりが持つこと、NOと言う人をレスペクトすること。こういった文化精神風土が日本に根付かないと、またぞろすぐにファシズム的な全体主義になってしまう恐れはあります。でもって、現在の日本がそうなっているかというと、まだまだだと思う。「周囲の目を異様に気にする」という精神構造を改めるのが第一だから、そこを矯正するには、それなりに強烈な体験をしてこないとならないし、そういった根性ある世代が次の世代を教育していってはじめてOKになると思うから、最低あと50年くらいはかかるんじゃないかってことです。
当然のことながらアメリカは軍備を持っていますが、一般大衆レベルにおいてはそれほど国際情勢にクレバーなわけではないです。しかし、あのくらいの大国になればチョコマカ振舞わなくても、多少失敗しても、それで国が潰れるという恐れは少ないです。それにアメリカがいっときアホアホであったとしても、あの国はファシズムに染まってしまうことはない。どんな状況のときにでも必ず反対勢力はいますし、反対勢力が多勢に無勢を理由に沈黙することもない。この点は英米系の"freedom of speech"の凄みだと思いますが、大勢に逆らっても「言うべきことは言うべし、言わすべし」というカルチャーが一人一人に徹底していて、それが国や社会の強力な復元力になっています。右に走りすぎてバランスを失しかねなくなると、左に向かおうという力が強く働く。今回のイラク侵攻でも、それに対する最も痛烈な批判者はアメリカ社会の中にいたりします。
今回の自衛隊派遣も、自衛隊総力26万人のうちの500名強に過ぎません。ごくごく一部の兵力でしかない。客観的にみれば、とても「本気で参戦」というレベルではない。それでも物議をかもし、議論になるのは象徴的な意味があるからです。戦後はじめての戦闘エリアへの派兵ですから。まあ、「派兵」ではなく「復興援助」なのでしょうが、このあたりも日本でしか通用しない「神学論争」、もっといえば言葉の遊びみたいなものでしょう。世界的に見れば、"force""troops"という「軍隊」という表現をしていますし、だれもそんな神学的表現に興味はない。
それは当事国においては尚更でしょう。イラクの過激派からしてみれば、自分の家に他人が土足でやってきて占拠してるので腹が立つというのが根源的な感情なのかも知れません。そのときに、その人たちから「占拠している一味」と思われるかどうかが全てでしょう。いくら日本が復興援助のお手伝いで、イラクの人達の為にという善意を持っていたとしても、占拠されている人からどう映るかです。
日本は、アメリカからの強いプレッシャーがなければおそらく派兵はしなかったでしょう。自発的に火中の栗を拾うだけの意思も必然性もない。全てはアメリカ協調外交の一環としての、「お付き合い」で派兵しているよなものだと思います。要すると断るとあとでヒドいメに合わされるのが恐いから付き合ってる。精一杯の抵抗としては、戦闘はしない、復興援助に限るという限定を付することです。アメリカからしたら、別に日本に実務能力を期待しているわけでもなく、「日本も賛同してくれている」という政治的情勢を作ればいいわけですから、まあ何でもいいです。派兵するという事実に意味がある。
一方、イラクの一部の感情的になってる人々にしてみたら、そんな日本の内部事情なんかお構いなしでしょう。例えは悪いのかもしれないけど、グループで女性を輪姦した場合、強いボスのいいなりになってイヤとは言えないまま参加している子分的な存在みたいなもので、例えそいつが「見張りだけ」「後片付けだけ」で姦淫行為そのものには携わりたくはないといっても、やられている被害者からみたら、加害者グループの一味であることに変わりはなく、強い恨みを持つでしょう。それと同じことだと思います。
逆に言えば、「他国に兵を出す」ということは、そういうことなのでしょう。それだけ一部に強い恨みを受ける。その恨みの種類が正当であるか、逆恨みであるかはともかく、そういう現象は起こりうる。そして、その発生の仕方は様々であり、それは例えば今回のように民間NPOの人々にとばっちりが及ぶかもしれないし、あるいはスペインみたいに、あるいはバリ島のようにテロという形で発生するかもしれない。武装すること、武装集団が他人のもめごとにちょっかいを出すということは、それだけの重みのある出来事なのだということを、この際僕らは改めて学ぶべきなのだろうなと思います。
それだけの犠牲を覚悟にそれだけの事をする以上、それ相応の信念なり理由がなければならないでしょう。それが、「アメリカさんに言われたら断れないでしょう」という、内輪の付き合いの論理だけでいいのか?ということだと思います。勿論、政府もそんな単純な話として受け止めて処理しているわけではないと思います。それなりに考えた上での行動だと思います。
アメリカからの報復は確かに恐い。それはまずもって経済的なエリアで恐い。アメリカ市場から締め出されたり、ちょっと意地悪をされたら、日本企業は大きな打撃を受けるでしょう。それがゆえに大企業とそれをささえる下請け企業に被害が及ぶでしょうし、せっかくよくなりかけた日本の景気もまた立ち直れないくらい悪くなるし、さらには失業者も増えるでしょう。アメリカ追随は弱腰だという人がいますが、その人は、じゃあ強腰になったときの報復ダメージがどのくらいのものになるか、どう見積もっているのでしょうか。日本はNOという言うべしという議論もありますが、あなたが仕事を失ってでもそれでもNOと言うべきでしょうか?結局、その現実的な報復被害は、我々の国民に何らかの形で還元されるわけです。その痛み、失業するかもしれない覚悟なしにメンチは切れないです。
はたまた今後の北朝鮮情勢、中国情勢を考えた場合、駐留アメリカ軍とのスムースな連携なくして対処できるかどうかという問題もあります。あの厄介な連中相手に、強大な軍事力の背景なしにどのようにことを進めたらいいか、その青写真はどう描けるか、それも考えておく必要があります。
ただ、正直なところ、ここでアメリカに逆らってどれだけ失うものがあるのかそのあたりが詳らかではないです。また北東アジア戦略がどうなっているのかもよく分からないです。政策決定は、強烈な理念のもとに、徹底的に緻密な比較考量をしてなすべきでしょう。政府というものは、その理念と比較考量の検討の経過を正しく国民に説明する義務があると思います。どちらを選択しても無傷では済まない苦渋の選択をする場合、なぜそう考えたのかを説明し、それで国民の信を問うというのが、本来あるべき姿なのだと思います。
もちろん大きな声ではいえないこともあるでしょう。体外的に強気のポーズ、弱気のポーズという「擬態」を取らざるを得ないところもあるでしょう。だから、常に常にリアルタイムに馬鹿正直に言えとは僕も思いません。例えば、「アメリカには逆らわないが、ブッシュには逆らう」という選択もアリだと思うのですね。ブッシュ政権が短命に終わることを見越して、アメリカ内部の反ブッシュ勢力と密かに話をするというやり方もあるでしょう。だけど、それは表立っては言えないですよね。
はたまた、今回、人質解放のために、テログループの要求に屈したふりをするという戦略もあるでしょう。ともあれ日本軍を全面撤退させ、人質を無事に解放させる。そのうえでNPOをはじめ、在留日本人を現地から引き上げさせる。あるいはそれでも残留したい人には「今度は助けないよ」と徹底しておく。そのうえで、再び自衛隊を派遣するという二枚舌外交を使うテもないわけではない。その場合、八百長で撤退するわけですから、八百長だとわかっては困る。だから、アメリカと事前に示し合わせて、日本の撤退をアメリカにも八百長で痛烈に批判してもらう。「裏切り者」呼ばわりをしてもらう。「敵を欺くにはまず味方から」とも言いますので、これらの戦略を国民に明かすわけにはいかないですから、一般に弱腰政府として批判されるでしょう。そこまでやらないと信頼されませんし、どこにスパイがいるか分かりませんからね。
だから、常に全ての情報と決断過程を正直にクリアにせよとは僕も思わない。必要があれば国民を騙すのも可だと思います。いずれ時を経て、その決断の正当性を後で正確に検証できる担保があれば、それでも構わないです。ただ、今やってることはそこまでシタタカに考えてのことなのかなって疑問もあります。単なる「付き合い」レベルで受け止めて、それ以上に考えてなかったのかもしれないし、アメリカに逆らった場合こうなるという考える上でのフォーマットを充分に提示しているとも思いがたいです。その点は今後の課題でしょう。
さらに、そもそもの基本理念の部分で、@多少の自国民の人命的な犠牲を払ってでも国際貢献をすべしとするか、Aいかなる場合も自国民の保護こそが最大の理念であるとするか、B自国民の保護と国際貢献が矛盾する場合、ケースバイケースで処理するとしても、保護の対象は生命身体である場合はそれを優先し、単に経済的打撃に留まる場合は例え失業者が100万人規模で生じてもそれは保護しないという具合に処理する、、、という具合にいろいろな考え方があるとして、大きな価値判断としてどの路線で行くのか。これはやっぱり一回じっくり考えてみる必要があると思います。
ある意味羨ましいくらい、アメリカはシンプルですよね。@ですもん。この価値判断に揺らぎは少ない。世界大国としても強烈な自負心と義務感がある。今、日本ははじめて自国民の犠牲に直面してますが、アメリカの人的被害は今回のイラク戦争に限っても既に1000人を超えてます。毎日毎日数人が殺されています。全員が全員兵士というわけではないし、民間人も多々いるでしょう。それでも止めない。それが正しいのかどうかは別としても、一つの価値判断をするにあたっての腹は据わってるのでしょう。
これまでは神学論争のような、観念論で議論していたキライもあったと思います。これは何も馬鹿にして言っているのではなく、幸福にもそれ以上突き詰めて考えなければならないような切羽詰った情勢にならなかったからです。
ただし、観念論や象徴性で議論していると、どうしても議論が空中戦になり、「とにかく死ぬのはイヤ」「毅然とした態度で」「世界に恥じない国際貢献」など、ややもすると情緒的なレベルで話が終始してしまいがちなウラミもあったと思います。 いや、これらを唱えている人々はそれなりの信念をお持ちでしょうし、また現実的に考えての結論なのかもしれません。でも、一般に論議されると、どうしても好き嫌い的なレベルに堕する部分もあったと思う。
だけど、もうそんなことやってるヒマはないのかもしれないです。話は極端ですが、「3人救うために百万人が失業しても良いか」「失業を防ぐためにはこの際3人くらい犠牲になっても仕方ないか」という、どっちに転んでもシビアな傷が残るような苦渋の選択を余儀なくされてくると思います。それは非常にキツい話でしょう。精神的にも考えるだけで辛い。でも、それが現実ならば真正面から受け止めねばならないでしょう。目を瞑れば世界はなくなる、というものではない。
ポジティブに捉えれば、それは悪いことではないです。いよいよ象徴から現実に降りてくるときが来たのだから。
個人的な意見を言わせて貰えば、今回に関しては自衛隊は撤退した方がいいと思います。それは「人命は地球よりも重いから」というよりも、そもそもあのブッシュ政権に自国民を犠牲にするほどの価値があるとは思えないからです。彼がそれほど有意義なことをしているとは思えない。これは前々から言ってますけど、ああいうやり方はないだろうと。理論的にも、道義的にも、戦略的にも、そして政治的にも、素晴らしい行動だとは思えない。もともとがそんなに素晴らしい行動だとは思えないことに、幾ら「付き合い」だといっても、そこまでしてやる必要はないです。
この問題を「テロに屈するかどうか」と捉えるべきではないと思います。そういう形に捉えてしまえば、脅しに屈するのはいかにもケッタクソ悪いし、腹も立ちます。また戦略論でいっても、冒頭に書いたようにテロというのは心理戦ですからには心理的に動揺しないのが最強の対抗策でもあるでしょう。だから、「殺せるもんなら殺してみやがれ」と啖呵の一つも切りたくなります。俺らの仲間が自分の意志でそこに行ったなら、それなりの覚悟はしてるだろうから、「やってみやがれ」と。その代わり、自衛隊を500人とか言わずに10万人でも20万人でもありったけ投入し、世界に冠たる日本の経済力の総力を注ぎ込んででも、てめーら皆殺しにしてやっからな、といいたくもなります。911テロの後のアメリカ人も同じように思ったのでしょう。だけど、それは間違いでしょう。
自分のやってることに確信がある場合、そして事をなすにあたって充分に覚悟をしてからやってる場合であれば、「テロに屈するかどうか」という問題になると思います。しかし、今回は違う。そもそもやってることがいいのかどうかを深く問うべき場合だからです。それをテロに言われて考え直すのは胸糞悪いのですが、キッカケはどうあれ、それは割り切るべきでしょう。
現在の情勢は二転三転して、これを書いている最中も予断を全く許さないのですが、願わくばイラクの宗教指導者の長老達がクレバーに説得して欲しいものです。ここで殺してしまったら、「テロに屈するかどうか」ということが逆に枷になって日本としても退くに退けなくなりかねないから、却って逆効果であると冷静に判断して欲しいです。退かせるなら、警告効果は充分にあったと思ってひとまず解放し、その上で日本にゆっくり考える時間を与えて、それで退かせた方が得策だって。
最後に、いかなる結果になるにせよ、今回の三名の方々を逆に非難するようなことは言ってはならないと思います。お前らがそんなところに居るから日本は困った立場に追い込まれたんだ、迷惑な話だ、などとは言ってはならない。これはもう、「絶対に」言ってはならないと思う。オーストラリアでも、似たようなスチュエーションはよくあります。自国民間人が海外でNPOなりジャーナリストとして滞在することは、日本の比ではないくらい多々あります。それでも彼らを非難するようなことはまず無いでしょう。
別に彼らは野次馬で行ってるわけでもなく、勝手に抜け駆けしていっているのでもなく、正式な手続きをふんで「いいこと」をしにいってるわけです。ジャーナリスティックな意味からも、欧米メディアのおこぼれを受けて報道してたら自国民が国際情勢で正しい判断をすることは不可能です。だから自国民が現場を見て、自国の言葉で伝えることは大事なことだと思います。なんにせよ、「いいこと」した人間を、集団の「都合」を理由に非難するのは筋違いであります。ここが日本の一番悪い点だと思いますが、その場その場の集団の都合を最優先し、「何が正しいか」という人間にとって最も大事な倫理を劣後させること。社会にそのカルチャーがある限り、その社会には自浄能力は無い。その集団が悪いことをしてたら、事情を知るものは「悪い」と言うべきであり、それを「身内の恥を世間に晒すな」「余計なことしやがって」と非難していたのなら、社会の腐敗は止まらない。話がズレてると思う人もいるかもしれないけど、「正しい」ことと、「都合」とでは明らかにレベルが違うのだと、事あるごとに確認していかないとならないと思います。
文責:田村
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