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今週の1枚(04.04.04)
ESSAY 150/「正しい」日本語について
今週は正しい日本語について書きます。
このエッセイも、またホームページ全体においても、僕はかなり「正しくない」日本語を使っております。一つは僕が無学だから、もうひとつは確信犯としてです。
言語=コミュニケーションツールであるという本質から考えれば、「正しい」も「間違ってる」もないと僕は思います。「正しい」というのも、いったい何を根拠にして言っているのでしょう?一般的には、国語審議会(正確には文化審議会国語文化会かな)が決めたスタンダードに準拠してるかどうかなのでしょうが、その国語審議会はなんの権利があってそんな判断が出来るのか?というと、これもまた分かりません。
言語=コミュニケーション・意思疎通の道具であるという観点から導かれるもっとも妥当なスタンダードは、どれだけ効果的に意思疎通が出来たか、つまりは「有効性」だと思います。「ノコギリの正しい使い方」みたいなもので、最小の力で最大の効果が得られる方法、加えるに、もっとも安全で、もっともノコギリを長持ちさせる方法、それが「正しい」のだと思います。それが「正しい道具の使い方」なのでしょう。
だとすれば、言語における「正しさ」とは、まずもってどれだけ相手に対して自分の言いたいことが伝わったかどうか(あるいは相手の言うことを理解できたかどうか)でしょう。意思伝達の正確性、効率性などです。それにプラスして、どれだけ相手に自分の意図する感情を起こさせたか、です。例えば目上の人にむかって敬語を使わず、「おまえ、こっち来い」といえば、"come here"という趣旨は正しく伝わるでしょうが、同時に相手に不愉快な感情を起こさせてしまいます。だから「誤り」になるのですが、相手を傷つけたり、怒らせたりしようと思って敢えてそういう言い方にする場合もありますから(喧嘩のときとか)、その場合は目論見どおり相手に不快感を与えたので、これは「成功」であり、「正しい」ということになるでしょう。
ですので、言葉なんかTPOによって正しくなったり正しくなくなったりするのだと思います。TPOという言葉自体が既に死語化しつつありますが(^^*)、Time, Place, Occasionですね。時と場合によって、「有効」になったり「無効」になったり、はたはた「逆効果」になったりするということです。
僕はこのようにプラグマティックに言葉というものを捉えていますので、世間でよく言われている「正しい日本語」というものに違和感を覚えることもママあります。そのあたりのことをちょっと書きます。
この時期、日本では、新入社員の研修などの場面で、”乱れた若者言葉”を矯正したり/させられたりしていることと思います。よく槍玉にあげられるのは、「とか弁」「ほう弁」と言われているもので、使用例としては「スキー”とか”やってました」「こちらの”方”、お下げしてもよろしいでしょうか?」などです。その他、「○○的には〜」の”的”の誤用、「てゆーか」という甘ったれた語尾、「全然OK」という本来否定形なのに肯定文で使う、何を言っても「微妙、、、」しか言わないなどもありますね。
このあたりの日本語は、僕が10年前に日本を出てから流行った用例だと思います。前にもあったけど今ほど流行ってはいなかったですね。海外に住んでいると、知らないうちに自分の日本語がUPDATEされずどんどん古臭くなっていきます。それが恐いので、僕もよく気をつけているところなので、ほぼ間違いないと思います。
ただ、これらが一概に「間違い」か?といわれると、それこそ「微妙」だと思います。
「とか」「ほう」「てゆうか」「微妙」などの用例が批判されるのは、その曖昧さにあります。そのものズバリで言おうとしない精神の脆弱性、あるいは正確に描写することの出来ない幼稚な言語能力が、その批判の核心にあるのでしょう。「あーもー、はっきり言わんかい!ちゃんと表現できないのか?」という。この種の用例は他にも沢山あって、「みたいなー」もそうだし、「って感じ」もそうでしょう。
それはそうだと思うのですが、でもこれらが若者言葉だとしますと-----別に若者でなくても使ってるし、若者でも使ってない人はいるから、「若者言葉」って表現するのは不正確だと思うけど、ここでは「これらの用法を愛用している一群の人々」という意味で”若者”と言っておきます------、若者の間では意思疎通できているのですから、それで問題ないってことですよね。そもそも流行るってことは、使い勝手の良さを皆が納得して重宝してるってことで、むしろ「道具」としては優秀なんだろうと思います。まさにそういう言い方によってしか表現できないこともあるのでしょうし。
誰だって、あんまりズバズバ言いたくない、言うと差障りがある、出来れば言わずに済ませたいような場合、曖昧な表現をします。住んでる場所を教えたくないときに、「あっち」「山の方」とか大雑把に言うように、別に若者言葉でなくても曖昧な言い方は幾らでもあります。例えば、「仕事、何してるの?会社員?」と聞かれて、「まあ、そんな感じ」って答えたらダメで、「まあ、そのようなものです」って答えたらOKってのも変な話ですよね。英語でいえば "something like that" で、曖昧度では同じですから。
それに、そもそも日本語が曖昧な言語ですから、曖昧な表現には事欠かないです。「お会計のほう」の”ほう言葉”について誰かが言ってましたが、日本語(or 日本文化)というのは、もともとそのものズバリ言うことを無礼であるとする美意識というか、礼儀意識があると。例えば、「お前」=「御前(ごぜん)」なんかも 、「おん前に」という場所を表すもので、"in fron of "って意味しかない。自分のことは「手前」というし(後に「てめえ」と you を指すようにもなる)。「上様」なんてのも方向だけだし、より端的には「お方(かた)様」なんて言い方もあります。「奥様」「奥方」なんてのもそう。北方面に夫人が住んでいたという当時に建築方式から、「北の方様」なんて言い方もあります。時代劇で殿様がよく言う「その方(ほう)、おもてを上げい」でも、「そのほう=そっちの方角にいる人」なんて曖昧な言い方しないで、ズバリ名前で言えよって気もしますが、そういう風習なんですね。今でも相撲の呼び出しでも、「かなた、こなた」で言いますよね。
今気づいたけど、YOU=二人称代名詞に相当するズバリの日本語って無いかもしれませんね。「あなた」も「貴方」だし、もとを正せば「あっちの方角」ですものね。こなた(此方)の逆で、”山のあなたの空遠く”の「あなた」でしょう。「君」ももともとは君主の地位を表しているのでしょう。「社長」とか「委員長」とかいうポジション名詞でしょう。それは「殿」なども一緒ですね。強いて言えば、「汝(なんじ)」くらいでしょうか?でも、あれって聖書や古典の邦訳のような局面でしか使ってるのを見たことがないです。
「YOU」という人間関係でもっとも基本的な概念ですら、ズバリ表現することを千数百年間嫌いつづけてきた日本人が、「コーヒーの方、お下げしてもよろしいですか」について、突如として「曖昧だ」「無駄だ」といって怒るのも、なんか妙な感じもしますね。ある意味では、若者達は正しく日本文化を承継しているのだと言えなくもないでしょう。
ちなみに、ちょっと前に流行った「陰陽師」などを読んでおりますと、直接名前を呼ぶのは「呪(しゅ)」をかけることであり、忌み嫌われたという風習もあったのでしょう。また、「方違え」などの風習からしても、方角というのは古代においては非常に重要な意味があったようです。一種の方位学でしょうが、これが天文学でもあり、死生哲学でもあり、世界観でもあり、政治学でもあり、医学でもあったのでしょう。西方浄土のように死んだら西の方角に行くとか。家相や墓相が良い悪いは今でも言います。鬼門とかね。「北枕」なんてのも今でも言います。だから、「方(かた、ほう)」というのは、日本人にとっては、非常に神聖かつ重要な概念だったのかしらんです。だったら尚更「コーヒーの方」と言うのは由緒正しいのかもしれません。「の方」とボカすことによって、直接ズバリという不躾さを和らげようという。
このように、もしかしたら日本語としてむしろ正当なのではないかと思われる若者言葉ですが、でも、それを職場で使うのは依然として間違ってると思います。ただし、それは言葉の問題として用語法が間違っているのではなく、TPOが間違っている。もっと言えば、意思疎通の手段としては十分に効果的ではない、ないしは他人の侮りや敵対感情を招くから、道具の使い方としては、そんなに賢くないよと。
こういった若者言葉を矯正させようとするならば、「正しいからこうしろ」「誤ってるからダメ」という教条的な言い方は逆に説得力がないんじゃないかって気もするのですね。いかにも上から押し付けられたような感覚を与えて、反発を招きかねない。まあ、反発くらいだったら別にいいんですけど、心からの納得は得られないようにも思います。
大事なのは、状況認識でしょう。今の日本の社会においては、このような用語例に不快感を覚える人がまだまだ多数存在するという事実をどれだけ認識しているかですね。そして、不快感を覚える人達が、たとえばあなたの就職面接の試験官であったり、あなたの上司であったり、取引先であったり、お客さんであったり、つまりはあなたの利害を直接間接に決定する立場にある人に多いという状況です。はたまた単に自分が馬鹿にされるだけではなく、所属している会社や組織にまで害を及ぼすということ。この認識が足りないから阿呆だといわれるのでしょう。
大体、カジュアルなものの言い方、ぞんざいな口調というのは、自分と同等で距離が近い人間関係においてよく使われますし、その中にでこそよく発達します。今の日本の成長過程においては、子供時代から大学卒業まで、だいたい同年齢の人達をメインに、ほぼ対等に付き合ってきてます。人間関係が常にカジュアルだから、言葉遣いもカジュアルになるのは当然で、それはそれで自然であり、別に問題はないです。早い話がタメ口OKです。ところが社会に出るようになったら、カジュアルな関係性を保てる領域は一気にドカンと少なくなります。せいぜい同期入社でごく気心の知れた連中くらいで、圧倒的大部分はフォーマルな人間関係になります。
フォーマルな人間関係になれば、言葉遣いもフォーマルになります。なぜか?何故なんでしょうね?
今適当に考えるに、フォーマルというのは人間関係が「好み」によって形成されてはならないような局面なのでしょう。カジュアルは「好み」によって形成されます。「おもろいやっちゃな」と気にいった連中と、快適な人間関係を作ればいいのがカジュアル。そこでは好みこそが正義。しかし、好きな人とだけつきあっていられるほど世の中甘くないです。それはもう物々交換の社会のはじまりを思ってもらえば分かるでしょう。あなたは魚を取って市場に米と交換にいきます。そのとき米の交換に出してる奴がイヤな奴だろうがなんだろうが、交換をしなくてはならないでしょ?だから、そこでは快適な人間関係を築くことがメインの目的ではなく、交換という取引事務、dealをやることがメインの目的になります。そこに登場してくる人物が好きだろうが嫌いだろうが、とにかくやることはやらないと米が食えない。こういう状況、つまり好き嫌いで人で付き合ったりしない、人と付き合うことがメインの目的ではない状況がフォーマルの原点的風景なのではないかと。
このような状況においては、出来るだけお互いに不快感を与えないように配慮しますから、没個性的で、スタンダードな言葉遣いと物腰が自然と求められるようになるのでしょう。あまりに生々しい個人の性癖を出すのはタブーです。だって、疲れちゃうでしょう?改札の駅員さんから、タクシーの運転手さんから、ファーストフードのカウンターから、ホテルの受付から、それぞれに濃い「ありのままの自分」をさらけ出されたら、やってられないですよ。たまにそういう人もいるし、それはそれで個性豊かで微笑を誘うことはあっても、全員が全員それだったら疲れますよ。あなたが大学受験の試験会場で受験生として臨んだとして、やってきた試験監督が男のくせにセーラームーンのコスプレやってたらイヤでしょう?ああいう口調で「カンニングしたらお仕置きよ!」とか注意事項を説明されたらイヤじゃないですか?ヒマだったら笑ってればいいけど、人生のかかった重大な勝負の場でそんなことしてられたら腹立ちませんか?
だから試験監督がそんなに個性を出したら他人に不快感を与えるのです。フォーマルであればあるほど没個性的に、出来るだけ他人の感情を逆撫でしない物腰と言葉遣いが求められるのでしょう。
礼儀や礼というのは何のためにあるのか?人間関係(あるいは人間と自然の関係)における、しきたり、パターン、形式なのだと思いますが、なんでそんなもんが必要なのか?僕は疲れないためだと思います。人間は人間がいないと生きていけないのですけど、同時に人間が嫌いです。「他人が居る」というのは強烈なインパクトと感情を与えます。あなたの個人の部屋や寝室に、誰か他人が背後霊のようにじーっと立ってたらイヤでしょ?その人が絶対危害を加えない、なんの邪魔もしないということがわかっていたとしても、それでもそこに「人が居る」というだけで落ち着かないし、安らがない。よく分からんのですが、一人の人間からは、なんかオーラみたいなエネルギーが発散されているのでしょう。そのなかには好ましくない毒素みたいなものも放射されているのでしょう。ずーっとそれに「被曝」していると、人間というのは疲れるように出来ているのでしょう。
ですので、お互いに疲れないためには、出来るだけ個性を殺して、存在感も殺して、エネルギーや毒素の放射も殺して、意外性も殺して「なにをしでかすか分からない」という緊張感を緩和するために、一定の相互に安心して予測できるパターンというものが必要なのだと思います。必要だからこそ、各部族それぞれなんらかの対人関係方式(マナー)を編み出しているのでしょう。それが東洋、中国的なものになると、孔子が発展させたという「礼」になるのでしょう。
インフォーマル or カジュアルな関係というのは、その逆で、「人間が好き」というところから出発して、出来るだけお互いに個性的であろうとし、好感情の交換をしようとします。そこでは、フォーマルな物腰や言葉遣いは、むしろ「水臭い」ものとして嫌われます。ぞんざいであればあるほどフレンドリーなものとして好まれます。だからもう、カジュアルかフォーマルかで、全然立脚点が違うのでしょう。
ですので、フォーマルな場面なのにも関わらず、カジュアルなものの言い方が抜けない奴は、「学生気分が抜けない奴」として非難されるのでしょう。学生時代まではカジュアルな人間関係だけで生きていけますけど、社会に出たらそうはいかない。「フレンドリーさの押し付け」をしてもイヤがられるだけだし、「このクソ忙しいのに、お前とフレンドやってるヒマなんかねーよ」というビジネス社会や人間関係の最も基本的なことが全然わかってないわけで、そういう人間は未熟であり、無能であり、要するにモノが見えていない馬鹿だと思われてしまうよってことですね。
関連して思いついたことを。体育会系が評判いいのは、あそこは上下関係が厳しいから、早い時期にフォーマルな人間関係を叩き込まれているので、社会に出ても馴染みが早いからでしょう。あと、最近、友達親子みたいなのが流行ってますけど、一歩間違えると危険だなって気もします。だって、親子ってカジュアルとフォーマルの境目みたいなもので、幼少のうちにフォーマルな関係というものを親が教えないと、いつまでたってもフォーマルとカジュアルの違いが分からないまま育ってしまって、あとで人間関係でシビアに失敗するかもしれないなって気もちょっとします。
カジュアルな用法というのは、学生時代まで発達しますが、そこから先はそんなに発達しませんね。例えば50歳、60歳になっても、昔の仲間と会えば、カジュアルな「俺、お前」の言葉遣いをします。それは当然なのですが、そのとき使う言語というのは、学生時代使っていた用語法になるような気がします。時代とともにカジュアルな喋り方も進化するか?というあんまりしないんじゃないでしょうか?進化してるのだったら、今の若者言葉みたいなカジュアルな用法を、老人ホームなんかでも皆がつかってることになると思うけど、あんまりそんな感じはしませんよね。「留さん、最近イケてねーよなー」とか喋ってなさそう。やっぱり、カジュアルな言葉を一番盛んに使っていた時期の用法がそのまま固定されるのかなって気がします。これはカジュアルな言い方に限らずに、その時代時代で流行った単語が染み付くというのはあるでしょう。全共闘の世代とか、「自己批判」とか「総括」とかいうフレーズが仲間内だとつい出てきてきそうですね。
それがまた一つ問題のタネで、単にフォーマル・カジュアルの差だけだったらまだしも、世代によってカジュアルな言い方が違うから、違う世代がそれを聞くと違和感を覚えたりするのですね。耳慣れない分、余計に腹が立つという(^^*)。
というわけで、フォーマルな言葉遣い、スタンダードな言葉遣いというのは、社会に出るならデフォルトスタンダードとして標準装備してなさいってことだと思うのです。それが日本語として正しいかどうかというよりも、出来るだけひっかりの少ないスタンダードを知っておけということですね。何故なら、やたら敵を増やしたり、人間関係でしくじったり、周囲から辛く当たられるリスクを回避するという自己保身がその1、とりあえず聞いた人間が不愉快であり、社会に害毒を垂れ流さないようにしようという他者への思いやりが理由その2です。
あと、どこまでいっても日本文化は儒教的な長幼の礼はあります。韓国ほど厳しくは無いけど、うすくたなびく春霞のようにあります。年上=目上という感覚は、ある種自然なものでしょうから、それもわきまえておくといいんでしょうね。いや、俺はそんな長幼の礼なんてものは認めないぞ、生まれた先後関係と人間の価値とは本来関係ない筈だぞという人も居るでしょう。僕も昔はそう思ってました。でもね、そういうあなた、そのへんの小学生に「おい、お前、ちょっとこっち来い」って言われたら腹立ちませんか?いや、俺はそれでも全然腹たたないよという人だけが、長幼の礼を無視しても「自己中」呼ばわりされないでしょ。小学生にタメ口きかれると腹立つくせに、年上に敬語は使いたくないっていうなら、要するに自己中なだけじゃん。
そのように受け止めて、いわゆる世間で言われている「正しい日本語」をひととおりマスターしておくのがいいと思います。それを敢えて無視するにせよ、カスタマイズするにせよ、最初に知ってなければ話にならんですから。
「正しい日本語」として一般に語られるのは、昔からそう言い慣わしてきて、いっときそれが社会の大多数の支持を得てスタンダードになった用法の場合にいわれます。今日にいたるまで、それが大多数の支持を得ていたら、何の問題もありません。「正しい」はrightの意味、「日本語」はJapaneseの意味、「喋る」はspeakの意味、、、と、まったく何の変化もないので、それが問題になることはない。問題になるのは、古い用法が賞味期限を過ぎて失われつつあるとか、新しい言い方が開発されてきたとか、そういった移り変わりの場合でしょう。
古ければ何でも良いのではないのは勿論です。そんなこと言ってる人はいないけど、もし古さ=正しさならば、皆して源氏物語みたいな文章書いて喋ってなければイケナイことになります。「あまたさぶらひたまひける」とかね。誰でも言うけど、言葉は進化します。必ずしも向上するとは限らないから、進化というよりも、「変化」ですね。常に変わりつつあります。去年の日本語と今年の日本語とでは微妙に違ってるはずです。
問題は、ここでも状況認識だと思うのですが、「大多数の人が使ってるかどうか」の認識、現時点でのスタンダードをどのあたりに設定するかでしょう。国勢調査みたいに大々的に調査をして75%の人が使ってたらそれでOKにするとかいうキマリがあればまだ
話はスッキリするのでしょうが、そんなシステムはないです。だから、それぞれが自分のカンで「これが普通」と言うのでしょう。でもって、「人の数だけ常識がある」と言われるように、この基準が人によって様々なのでしょう。
だとすれば、コミュニケーションの原点に立ち返って、どう言えば(書けば)、最も内容がよく伝わり、また意図する効果を生じさせられるか(無用な不快感を招かずに済むか)ということになるでしょう。ですので、これは「言葉」の問題というよりは、いま目の前にいる人はどういう人か、リアルタイムの今の社会の人々はどういう言語感性をもっているかという、状況認識論になるのでしょう。
読売新聞の2003年8月に「正しい日本語講座 」という特集記事があり、コンパクトにまとまっていますので、紹介します。
書かれていることはそれなりに納得するのですが、「とか」「てゆうか」などのカジュアルな用法が不快感を与えがちなのは、単に言葉の使い方の問題だけではないと思います。例えば、以下にちょっと引用しますが、
■〜ていうか
断定を避ける「〜ていうか」は若者のあいまい表現の代表格。「うまくいった?」「う〜ん、うまくいったっていうか〜」「え? ダメだったの?」「ダメってわけじゃないんですけど〜、ま、それなりにって感じですかね〜」。「〜ていうか」「〜ってわけじゃない」「それなり」「感じ」。あいまい表現のオンパレードで、まるで要領を得ない会話になってしまうことも
この使用例を見てると、単に言葉の使い方が悪いというだけではないように思います。正確に表現しようとする描写力の稚拙さがまず問題なのでしょう。うまいこと言えないから大雑把になぞってしまう。これも、その言葉自体が悪いのではなく、「うーん、なんて言えばいいんだろう、どうすれば過不足なく伝わるんだろう」と真剣により正確な表現を模索している最中に、口をついて出るのであれば、僕は不快感は感じないです。「てゆうか」は、「−と言うよりも」の略だろうから、分解すれば「○○と言ってしまうと誤りが含まれるから、そういう表現では不正確であり、より的確な表現があるはずで」というツナギの言葉としては、むしろ真摯な表現姿勢の現われともいえます。
ただ、「てゆうか」で終わってしまったら、あるいは「てゆうか」と言いながら結局同じことを言うのであったら、何の意味もないです。「てゆうか」の後には、よりグレードアップしたズバリ的確な表現がこなければ嘘だと思うのですね。例えば、「イヤなの?」「いやイヤってゆうか、、その、悔しいんです。単に好き嫌いでイヤだといってるのではなく、やること自体は意義があるし、僕も勉強になるから好きなんです。しかし、このやり方では意図したことをまっとうすることが出来ない。もう構造的に不可能なわけで、結局途中でいつも挫折せざるをえないことになっている。それが悔しいんですよ」とつながってくれたら、「てゆうか」と言われても腹立たないと思います。
「てゆうか」が問題なのは、「てゆうか」だけで終わってしまっている稚拙な表現能力であり、もっと言えば「ちゃんと努力して言おうとしない怠惰な精神のありよう」「相手に対して十分な情報を伝えようという誠意のなさ」が透けて見える部分にあるのでしょう。もっと言えば「イヤイヤつきあってる」というやる気のなさにも受取られるし。あと、「てゆうかさー」と人の会話に割り込んできて、結局同じことをいう奴がいますが、あれがイヤなのは、要するにそいつがでしゃばりだからなのだと思います。総じて言えば、言葉そのものに罪があるというよりも、その言葉を使う人間の好ましからざる人間性が問題なのだということでしょう。そして、そういう言葉は控えた方がいいよという主意は、あんたのクソみたいな人間性が露出しやすいからリスキーだよ、ということだと思います。
その他、「○○さん的には」とか、「全然+肯定文」などについては、単に馴染んでる/馴染んでないの問題だと思います。最初はなんだって違和感があるし、僕も違和感があったけど、慣れて来たら”全然OK”です。てゆーか、むしろ表現のバリエーションが増えるし、新たな表現を開拓している部分もあります。これを積極的に擁護している人はいないだろうから、ちょっと書いておきます。
「的には」ですが、「○○さんとしては」というのが本来の正しい言い方です。でも、”テキ”という言葉の方が聞いたときに発音が明確に立ちあがってきます。キレがいいんです。”トシテハ”という発音は、サウンドとして潜ってしまう恨みがあり、より明確に「アンタ、どうなのよ?」という部分を強調したかったら、サウンドのキックが強い”テキ”の方がわかりやすいと僕は感じます。だから、「あ、使えるわ、この表現」って思いました。逆にあんまり強調したくない場合、相手に問いただすような強い印象を与えたくない場合、相槌をうつような場合には「としては」を使ったほうがいいかなって。「なるほどねー、○○さんとしては、そうせざるをえなかったんでしょうねー」というような使い方です。この両者は細かく見ていけば、使い分けることが出来ると思います。
もとより語法的には間違っています。だからTPOをわきまえて、使うべき相手でないときには使いません。ただし、間違ってるとかいっても、「的」なんて本来が中国語でしょ?「熱烈歓迎的」などの使い方が本来正しいっちゃ正しいわけで、本家中国から見たら日本語の「的」の使い方の方が間違っているのでしょう。
「全然+肯定文」は、肯定の強調をする場合に便利な言い方だと思います。「OKです」を強調しようと思ったら、どう言います?「とてもOK」「すごくOK」「途方もなくOK」、、、なんか変です。「全然」という言葉が持つ、地平線の彼方まで全て見渡すような all な感じを、肯定的に使ったっていいじゃないかと。「全く何も問題がなく、OKです」という意味を省略して「全然OK」といってもいいんじゃないか。それに、「全て」「全部」の場合は肯定文とつながっても良いのに、「全然」だとなんでダメなのか?これも結局言い習わし以上のものではないように思います。
あと、「そうなんかなー?」「今更そんなこと言っても誰も知らんぞ」というものもあります。
「電話があったことだけ、お伝えいただけますか」は、「『あえて連絡してくれと頼むほどの用件じゃないんだけど、折り返し電話をくれればうれしい』といった微妙なニュアンスが含まれるが、伝言されたほうは、『伝えるだけでいいなら、かけ直せばいいじゃん!』と口をそろえる」と解説されてますけど、そうか?俺は口をそろえないぞ。この微妙なニュアンスを汲み取るぞ。汲み取らない方が機転のきかない馬鹿に思えるけどなー。
「とんでもありません」は、「”とんでもない”を丁寧に言おうとして、「とんでもありません」「とんでもございません」というのをよく耳にするが、「とんでもない」は「とんでもある」の否定形ではないから、これはおかしい。「とんでもないです」「とんでもないことでございます」などが正しい使い方」と解説されてますが、これもそうかなー?「とんでもない」はもともと「途方もない→途でもない」から転用された用法だとされます。国文法”的”にはどうなんでしょうね?「とんでもない」というのは、「情けない」「みっともない」と同じような否定形”ない”を含む形容詞で、それで一単語とされるものだから、あたかも文章のように「とんでも+ありません」とするのはおかしいということなんでしょうね。「情けありません」「みっともありません」というのは、確かにまだ一般化してないし、ちょっと変な感じはしますね。しかし、何が形容詞でなにが形容動詞で、なにが文章かってのは難しいですよ。「滅多にない」なんて、「滅多にない出来事」で形容詞としても使いますが、「こんなことは滅多にありません」とも言いそうですよね?どうなんだろ。それに純粋に語感としていうならば、「とんでもありません」が「とんでもないです」よりも不快感を与えるか?というと、あんまりそんな感じはしませんけど。
「なるほど」を目上の人に使うのは失礼に聞こえるというのも、むむむ、そうか?と思いますね。じゃあなんと言えばいいのでしょうか?「ごもっとも」とでも言うのか?「なるほど」って便利な言葉ですよ。相手の言うことを深く理解してますよと示し、さらには「おお、そういうわけだったのですか」とこちらの理解がさらに進んだというシグナルを発して、相手をエンカレッジする便利な言葉だと思うのですが、これを禁じ手にしてしまったら、どういう代替案があるのでしょうか。確かにちょっとエラソげな響きはありますよ。軍隊かなんかで、上官が部下に「我軍は第一方面に進出する、第一方面こそが戦線を打開する要地だからだ」と説明していて、部下に「なるほど」とか言われたらちょっとカチンとくるかもしれませんよね。でもそれって、「お前は考えなくていいんじゃ、俺の言うとおりやってりゃいいんだ。手駒のくせに一人前にモノを考えるんじゃねーよ」というニュアンスがありませんか?なるほどと言われて腹が立つのは、その前提のなる人間観がむしろ歪んでいるような気もするのですね。目上といっても、そこまでエラそに思い上がらなくてもいいでしょうって。もっとも、言い方もあるんだと思います。「なるほどねっ」とか軽く言われるのと、「なるほどー」と感嘆の響きをもって言われるのとでは違うでしょうし。
それとですね、、、、って、もう大分書いてしまいました。こんなことやってたら幾らでもかけそうですね。さすがに長くなったので、余韻もオチもなく終わります。結論めかしたものは別に何もないのですが、結局、自分の吐いた言葉は自分の分身だから、それによって他人の不興を買って報復されたりしても、それは自己責任ってことだと思います。「正しい」かどうかの正統性論議は趣味の議論としては面白いけど、実戦的には、「どういう言葉を使うとどういう結果を招くか」という状況判断が一番大事だと思います。でもこれって別に特殊なことではなく、コミュニケーションの基本だと思いますけど。
文責:田村
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