- Home>
- 「今週の一枚Essay」目次
>
今週の1枚(04.03.01)
ESSAY 145/ 貧すれば鈍す
写真は、チャイニーズのスーパーに並ぶ日本食品。渡豪準備にあたり「大抵のものはこっちで手に入るから特に持ってこなくていいですよ。荷物が重くなって飛行機で超過料金数万円払わされるのは馬鹿馬鹿しいですよ」といつも口を酸っぱくして言っているのですが、この写真を見れば多少は納得していただけるでしょうか。
最近、日本経済はようやく不況を脱して本格的回復基調になったと、主として政府筋を中心に喧伝されておりますが、実際のところはどうなのでしょうか?あまりそんなに皆さんの金回りが良くなったような気がしません。良くなりましたか?バブル崩壊後十数年沈みっぱなしの日本経済ですが、それでも2度ほど回復しかけたことがあったようです。でも本格的な回復にいたらなかったのは今現在がこうなってることから明らかでしょう。今回の回復はどうか?というと、いろいろな人がいろいろなことを言っておりますが、どうも円安傾向による輸出増大と設備投資の増大によって経済指数が上向いているのは事実のようです。批判を浴びている政府の公共投資は削減されてますから、公共投資によって景気があがってるわけではないのは大いに評価するとして、問題は民間消費です。つまりは皆さん個々人のお金の使い方が激しくなったか、財布の紐がゆるんだか?というと、これはちょっと疑問だったりします。
例えば日本経済の潮目は変ったか?(上)(H15.12.17)などにそのあたりのことが書かれていますが、もっと強気な見方もあります。例えば、日本のマクロ経済見通し:FY2004−05――製造業の復活:わが国は長期不況から脱却する――みずほ証券会社 チーフエコノミスト佐治 信行平成16年2月18日などですね。かなり正反対に近いことを論じているので、興味のある人は読み比べてみてください。
僕がざっと読んだ感じでは、確かに企業の設備投資は伸びているようです。それは中国その他アジアなどの海外市場が景気が良く、ハイテク家電などを中心にどんどん輸出できるようになっているみたいです。また、消費者も大型耐久消費財(大画面TVたDVDレコーダーなどのデジタル家電)を買っているようであります。それはめでたいことです。失業率も昨年末にはじめて回復に転じたようです。ますますめでたいです。しかし、それだけっちゃそれだけの気もします。「それだけ」とか言ってはバチがあたるかもしれませんけど。
輸出産業が景気が良くて、それで日本経済を引っ張るのは日本の伝統パターンではありますが、当たり前ですが日本の産業はなんでもかんでも輸出してるわけではないです。不動産、建設、出版、教育、流通、小売、、輸出とは関係ない産業もゴマンとあります。日本の産業全体のうち輸出産業は4分の1程度でしかないです。以前は輸出産業(自動車、家電などの製造業)がガンガン伸びて雇用を創出し、従業員の給料が上がり、それが他の業種に波及していったのでしょう。輸出企業が儲かってもその利益を日本国内に還流させるまでのプロセスのどっかで停滞があれば、やっぱり個々人レベルまで景気回復の波は来ない。例えば会社が儲かってもその利潤を留保したり、従業員を増やしたり給料を上昇させることをしなければ、そこで止まってしまうわけです。
個人消費の上昇も、ほんとかどうか僕はかなり疑問なんですけど、あったとしてもどうもそろそろ買い替え時期にやってきた大型耐久消費財をドカンと買い換えてるだけじゃないかなって気もします。デジタル波放送の影響もあるでしょうが、液晶テレビにせよ、DVDレコーダーにせよ。これらのモノは額は大きいから統計を引っ張るとは思うのですが、本当の景気回復感というのは、日常的なレベルでちょっと贅沢してみようかというところから始まるのでしょう。牛丼を食べるにせよ、ちょっと卵もつけようか、味噌汁も頼もうかという部分からささやかにあらわれ始め、牛丼がそのうちに寿司になるという感じで回復していくのだと。
つまり「本格的」回復というのは、一部門での好景気がそのまま全体に波及していくかどうかにかかっていると思うのですね。そして、僕ら個々人がその恩恵に浴するのは、ひとえに雇用、給料、収入面で明るい予感があるかどうでしょう。来月も、来年もコンスタントに収入があるだろう、うまくすれば今よりも収入は増えるんじゃないかって楽観的に思えるかどうか。仕事なんかすぐに見つかるよって思えるかどうか。ここまで思えてはじめて、僕ら個人レベルで「景気が良くなった」という気分になるのでしょう。
さて、難しい統計的な経済動向の話をあまり続けるとボロが出るのでこの程度にしておいて、僕個人が立っているところから見えている日本経済の状況はどうかというと、やっぱりあんまり芳しくないです。僕のところから見える風景は、ワーホリや留学でやってくる日本の人々、あるいは現地に滞在している日本人の「金回りの良さ」ですが、なんか年々細ってきているような気がします。年々ケチになってるというか。
10年前僕がオーストラリアに来た頃は、日本人=お金持ちという図式が、まがりなりにもまだ成立していたように思います。お金持ちの日本人観光客を当てこんで、日本語表記のものがアチコチにあったりしましたし。今も日本語表記はありますが、なんとなく過去の惰性でそうなってるだけで、「日本語で書いておくと儲かるぞお!」という熱気はないですね。中国語で書いた方が儲かるでしょうね。
日本企業もどんどんオーストラリアから撤退しています。バブルが弾けた頃にどっと帰ったのですが、その後も引き上げていく傾向は続いています。シドニーにある日本の航空会社系のホテルも、昔は、日航ホテルがダーリングハーバーとキングスクロス(ポッツ・ポイント)にありましたが、まずキングスクロスのホテルが人手に渡り、続いてダーリングハーバーも撤退、ロックスにドーンとそびえる巨大なANAホテルも売却されてしまいました。メルボルンの大丸が撤退したかと思ったら、シドニーの高島屋も閉店です。社用接待用に使われていたサントリーも閉店したし。企業の駐在員さん=お金持ちという図式も今では無条件ではいえず、結構キツいようですし、「日本人はノースのさらに北の方のお屋敷に住み、車を乗り回し、東京マートに買出しに行くもの」という図式も今や過去のものでしょう。東京マートも、PKなどのチャイニーズ系のスーパーと価格競争をして負けないくらいに値段がこなれてきましたし、もっとすごいのは定期的にやってる特売デーには、日本人がどっと押し寄せメチャクチャ混んでいることです。逆にいえば日本人の行動パターンが「少しでも安く」という特売狙いによりシフトしてきているわけでしょう。チャイニーズ系のスーパーも「九折」「八折」とか書いた紙をブラさげて(全品一割引き、二割引の意味)やってますけど、平常時との混み具合の差はさほどでもないです。いまはチャイニーズの方がベンツとか乗ってて、日本人よりもお金持ちですよね。
余談ですが、暮らしのコツでいいますと、「売ります/買います」などの個人売買では、日本人から買ったほうがよく、日本人に売らない方がいいんじゃないかって気もします。今、オーストラリアはバブルです。これ、何度も言ってますけど、未だにバブル真っ盛りです。乗ってる車もどんどん良くなってきて、BMW、ベンツなんか掃いて捨てるほど走ってますし、ポルシェもゴロゴロしてます。オーストラリア人の消費性向は相変らず強力で、ガンガン買物してます。当局が「危機的」「世界最悪」と心配するくらいのローン負担率になってますが、それでもまだ買ってる。ハービーノーマン(有数の電気製品のチェーン店)のコマーシャルでも、「ローンで買え、1年間金利無料、返済も再来年からでいいぞ!"No interest! no repayment! until 2005!" 」とかいってジャンジャカやってます。
だからコンスタントにインフレになってますし、語学学校の授業料も年率10%前後上がっています。去年が週300ドルだったら今年は週330ドルという感じ。ホームステイの料金もコンスタントにあがってます。スーパーの物価もかーなり上がってますよね。肉なんか、未だに日本からみればすごく安いけど、それでも10年前に比べたら2倍以上にあがってるでしょう。不動産価格にいたっては、語るも愚かしいくらいに高騰して、いまや東京の地価など遥かに追い抜かしています。昨年暮れに日本に帰ったとき、日本の不動産のあまりの安さにちょっとくらっときましたね。「うわ、安い!買っちゃおうかなー」みたいな。買う金もないのだけどさ。バスや電車の公共料金も、年に何度値上げすれば気が済むんじゃって感じだしね。金利も、いまは定期だったら5%モノも出てきてますし、逆に車のローンを組んだら9−10%ですわ。日本の金利なんか無きがごとしだから、今の日本は金を貯めるべき国ではなく使うべき国なんだと思うけど。
というわけで、お祭り騒ぎのドンチャン騒ぎのオーストラリア社会で、ひとり日本人社会だけがひたすらイジこく、デフレマインドで安物買いに走ってるという感じだったりします。ですので、「売ります買います」で買うんだったら日本人から買った方がいいけど、売る段になったら日本人に売ってもシビアに買い叩かれるし、価格競争が異常だから、売らないほうがいいです。日本人以外に売った方が景気よく買ってくれます。もともとシドニーの日本人の人口比率なんか400分の1に過ぎないのですから、そんなミクロ社会で売っててもラチあかないです。400倍大きい市場で売った方がいい。もともと日本人は、「海外だったら値切らなきゃ損」「日本人はカモられている」という頭があるせいか(自意識過剰だちゅーに、そんなに存在感のある民族じゃないって)、意味なく値切ろうとするので鬱陶しいしね。
語学学校での留学状況を言えば、年々留学産業のパイは大きくなってきてるし、数年前から南米系の生徒が増えてきてますが、相対的に日本人の比率はどんどん減ってきてます。今、留学しようと思うのだったら、「日本人比率」とかいってもどこもかしこも日本人だらけなんてことはないですよ。少なくともシドニーに関しては。そして、どちらかといえば、日本人比率は学費が安い学校になればなるほど高まります。ワーホリさん御用達のような、安い、早いみたいな学校に集る傾向があるんじゃないかな。
日豪プレスやCheersなどの日本語コミュニティ誌と、一般のオーストラリアの新聞や雑誌などとを見比べてみると、同じ社会で同時進行してるのが不思議なくらい温度差があります。日系の方は、いかに安いか、「激安!」系の広告が多いですが、地元のオーストラリア系はいかにハイクォリティかを訴える広告が多いです。グロッシー(glossy、ファッション雑誌のように、表面がツヤツヤしてる高価で豪華な印刷)な紙面で、高級車やらを売ってます。
まあ、今の日本の状況からしたらケチりたくなるのも無理もないと思います。先行き不透明ですから。でも、ここのところケチるとかいう以前に、そもそもお金を持ってないって感じもします。つまり持ってるお金をチビチビ使うのではなく、最初からそんなに持ってないというか。ワーホリさんも、これも正確な統計などどこにもないのですが、感じでいえば、昔は1年分の軍資金として200万くらい持ってきてる人は珍しくないし、100万円でも心もとないって感じだったのですが、ここのところ50万円以下って人も増えてるように思います。いや、昔だって乏しいお金で来ている人は幾らでもいたし、7万円で来たって人もいました。でもノリがちょっと違って、「敢えて小額しか持ってこない」という冒険的な試みの部分に眼目があったように思います。今は冒険とかそういった趣味的なことじゃなくて、とにかく最初から無いって感じ。
総じていえば、若い人にお金が廻っていってないような気がします。まあ、僕が漠然と「気がする」程度ですから、真偽の程は定かではないです。実はバリバリ羽振りいいのかもしれませんけど。それに、僕が20代前半のときなんか司法試験受験生としてビンボー生活をやってましたし、その頃の感覚からしたら海外に行くだけでも「すげー、金持ち」とか思っちゃいますけどね(^^*)。なんせ、バイトの時給が480円、半年働いて530円にあがったときは嬉しかったてな感じですからね。司法修習生の給料も手取りでいえば10万円切ってたけど、それまでがそれまでだったからえらいリッチな気分に浸ってましたねー。なんか、こんな話しても何の参考にもならんですけど。
まあ、そんな20年前のビンボー話はさておき、ここ10年ほどの傾向を見るに、日本人はデフレに慣れて、セコくなってるなって印象がありますし、セコくならざるをえないくらい若年層にお金が廻ってないようにも思います。上記の経済記事などでは、トヨタのクラウンを若い人が買うようになって、若年者の消費が伸びているとか書いてるけど、どーなんだかな?って気がします。別の記事では、若い人でも超高収入の人も増えてきてるとか言いますが、同時に二極分化してるともいいます。二極分化とかいうと、50対50に分かれているような印象があるけど、実際には1対99くらいじゃないんですかね。あなたの周囲で二十代で年収1500万円いってる人ってそんなにいますか?
さて、ここでふと思うのは、「貧すれば鈍す」というココロの傾向についてです。
「貧すれば鈍す」というコトワザの意味は、貧しくなると頭のめぐりも悪くなり、阿呆なことをしがちであることでしょう。これ、結構当てはまるような気がします。ただ、単純にアホなことをするだけではなく、もっと人格それ自体が蝕まれていく恐さもあると思います。そのあたりのことをちょっと書きます。
若い人がビンボーであることは何ら恥かしいことではないと思います。それどころかカッコいいです。若いくせにオヤジみたいに金持ってるのって、どことなくカッコ悪くないですか?20代なんか自己投資の時期でもあり、下積み修行時代でもあるし、資格取得のために勉強する時期でもあるし、プロデビューを目指してバイトで食いつないでいる時期でもあります。欲しいものも一杯あるしね、恋愛関係支出もデカいし(特に遠距離恋愛なんかやってたら)、金なんか右から左でしょう。だから、別に若い人がお金持ってなくなって不思議でもなんでもないです。金持ってるほうが不思議です。
若い人の特権は(若くなくてもそうだと思うけど)、現実とココロがリンクしてないところにあると思います。客観と主観が全然食い違っているところ。何を言ってるかというと、客観的にいえば、金ない、モテない、芸ない、なんもないのナイナイ尽くしなのだけど、主観的には「俺様こそが!」と思ってるということですね。現実にいくら貧乏してようが、だからといって精神や生き方、夢や希望は蝕まれないのですね。この「現実を見てない」という、ある種の愚かさ、ある種のアホアホな心理傾向が、若い人の素晴らしいところだと思います。
これ、年食っても別に出来ますよ。できるんだけど、やるのは段々難しくなります。あなたが今ハタチで年収100万円くらいだとしても、一生年収100万が続くとは思わない。一生コンビニ弁当やホカ弁食って、ワンルームに住んで死んでいくんだとは思わない。いつか離陸して、それなりの高みに上るだろうと普通に思っているでしょう。でも、あなたが今40歳で、年収100万でホカ弁食べてたら、「死ぬまでこのまま」という想いはハタチのときとは比べ物にならないくらい強くなるしょう。若いときはなんとなく全てが上昇してるような感じがするから、現在はこうでも将来はもっと上がってると自然に思える。その根拠は?と聞かれても何もないんだけど、すっと自然に思える。それが強み。でも年とってしまうと、水平飛行、どっちかというと下降飛行になるから、なかなかそう素直に思えないですよね。
まあ、人にもよります。かくいうワタクシなぞは、あと20年したら億万長者になる予定でいます。「どうやって?HOW?」と聞かれると、何も答えられないのだけど、そうなるもんだと自然に思ってます。これはかなり強烈な確信で、「なるに決まってんじゃん」って思ってます。つまり、まだ「俺様こそが」とか思ってたりするわけですね。主観と客観が相変らず乖離してるわけです。これまでずっと主観と客観が分離して、主観を客観が追いかけてきたから、それが当たり前なんですね。主観と客観が一致しちゃうと妙に居心地が悪いです。だからそこそこ一致していた弁護士時代はちょっと居心地悪かったです。高いところから水を落として水力発電をするように、主観と客観のギャップこそがエネルギーのモトだったりするので、水位が一緒になってしまうとどうしていいのか分からなくなって困るのですよ。でも、まあ、僕みたいな変な人間はそんなに居ないかもしれませんよね(一応自覚はしてます)。
僕がなんとなく懸念するのは、若い人も含めて日本全体がなんか妙に主観と客観が一致しちゃってるような気がするところです。貧乏している自分が、「世をしのぶ仮の姿」とはあんまり思えなくて、「等身大の自分」と変にお利口に思っちゃってる部分です。今自分が貧乏してるからといって、それを基準にモノ考え出したり、それによって自分自身を規定し出したら、それはヤバイと思います。「しょせん私のやることなんだから」みたいな。そういった心理状態を指して、「貧乏に負けた」と言うのだと。
「貧すれば鈍す」ということの一番の恐さはココにあるのではないか。
今の状況がパッとしないからといって、自分自身そのものがパッとしないのだと思ってしまうこと(セルフエスティームの低下)。そのパッとしない状況を基礎に全てを考えてしまうこと。そうなったら夢も希望も無いです。夢や希望は生きていくミナモトなのですが、夢や希望にまつわる大変さは、それが中々実現しないことでも、それを実現するまでに途方も無い労力がかかることでもないです。本当に恐いのは、夢や希望をそもそも抱けなくなることだと思います。不妊状態、懐胎する力がなくなるようなもの。そもそも夢や希望は、今ある現実に浸食されない部分に価値があります。今がどんなにしょーもなくても、絶対に良くなるという根拠のない確信を抱けるかどうか、確信を抱く魂のパワーがあるかどうかだと思う。これがなくなったら、人間死ぬしかないっす。だから、客観とか現実に、自分の心まで侵略されてはイケナイのだと思うのです。逆に言えば、「若さ」とは、今ある現実や客観をどれだけ平然とシカトできるか、その馬鹿パワーの強度なのかもしれません。その意味では暦数年齢は若くとも老人な人はいっぱいいるだろうし、年齢はいっててもいつまでも若い人もまた幾らでもいるでしょう。まあ、「諦めてる度指数」みたいなものかもしれません。
貧してくると、そのあたりの大事なパワーが落ちてきます。そこがヤバイです。
お金に不自由してれば、それなりにやり繰りしようとするのは当然ですし、節制もしますし、賢くお金を使うように頭を働かしたりもするでしょう。それは当然。だけど、一歩間違えたら、節約のための節約、ケチのためのケチ、セコさのためのセコさという自己目的化が働き、一体何をするために節制してるのかわからなくなったりもします。
留学とかワーホリとかあるいは移住で来られたりする場合、お金は大事ですから節約するでしょう。特に異国においてはお金は一番頼もしい味方ですから、大事にして当然です。でも、「そもそも何のために来たの?」という本来の目的まで霞んでしまっては意味がないし、将来のビジョンもボケてしまったら意味が無いです。お金が惜しかったら、最初から来なきゃいいんですよ。お金が欲しかったら、今なお世界で最高賃金水準の日本で働けばいいんです。
節約というのは、ある目的Aを達成するための手段として経費がかかるとして、達成のための効率が同じだったらなるべく費用は少なく抑えるべきだということですよね。オーストラリアに行きたいからオーストラリア行きの飛行機のチケットを買う。それが10万円で高かったから、ケチって5万円にしてベトナムあたりで降りてたら意味がないんですわ。こういう例ならすごく分かり易いと思うのだけど、ちょっと例が曖昧になると見失いがちなんですね。
英語学校に入るにしても、そもそもなんで学校に行くのか?ですね。英語が上手くなりたいからというのがそもそもの出発点だったでしょう。だったら、その目的に対して最も大事なことは何かというと、「勉強せよ」ですわ。とにかく鼻血が出るくらいクソ勉強しろと。それが原点でしょ。でもって、その補助ツールとして学校がある。だから学校にいっても自分が勉強しなければ何の意味もない。
次に高い学校と安い学校があるとして、選択にあたってはその差はいったいなんなのか?そこを徹底的に解明すべきでしょう。パソコンでもAという機種は19万円、Bは25万円。Aの方が安いといって無条件でAを買ったりしないでしょう?Aは安い分だけ機能が劣る。例えばHDDの容量が3分の1しかない、ディスプレイがいまいち綺麗じゃない、DVDを読めるけど焼けない、そういった部分を冷静に見極めて考えるべきでしょう。資本主義なんですから、無意味に安かったり高かったりするわけは無いです。絶対なにか理由があります。それを考えるべきであると。
でも、そこまで考えきれる人は少ないです。それどころか、乏しい予算の中でいかにケチるか、節約するかが興味の焦点になって、少しでも安いものを探して、「幾ら得した」と喜ぶという。その気持ちは僕も痛いほど分かりますけど、それは「安物買いの銭失い」という地獄の一丁目でもある。save moneyの喜びってのは直接的だし、分かり易いけど、その喜びに振り回されたらアカンでしょう。よくあるパターンは、そうやって安い学校にいったら、そこは同じようなことを考えてる日本人ばっかりおって、そこで日本人の友達ばっかり増えて、日本語ばっかり喋って、いつしか学校もサボりがちになって、結果として英語は全然伸びてないという。これが一番お馬鹿なパターンでしょう。「学校は勉強のためのツール」という本来の目的が見失われ、「安く済ませましょうゲームのイチ問題」に過ぎなくなってしまうという。
もちろん高けりゃいいってもんでもないです。そんなことはいってないです。本来の目的に即していかに有効なのものはどれかでしょ。英語の修行よりももっと上位の目的は、多くの体験を積んで自分という人間力を高めることだと思うのですし、そのためにワーホリに来られるのでしょうが、別に英語なんか出来なくたって多くの貴重な体験を積めばそれはそれでいいです。だから、どんどん物怖じせずにオーストラリア人社会のなかに入っていけばいいけど、それが出来る人も少ない。だから、せめて多少なりとも言葉は喋れるようになりましょうってことだと思うのですよ。
でも、乏しい予算でワーホリに来るところまでは良くても、ドーンと入っていく度胸が無いから、友達の日本人に頼ったりする。でもってその友達がイケてたらいいけど(自分で努力せえと突き放してくれたらいいけど)、イケてない場合も多いから、「シドニーを日本語だけで暮らす方法」ばかりを伝授され、「こうすると安い」とかいうセコい技ばかり身につけ、結局日本人社会から抜け出せなくて1年が終わるという。学校も行ったけど、行っただけ。結局は、「ワーホリに行った」という形式だけを踏んでるに過ぎない。それが一番勿体無いです。何を勿体無いと思うかどうかは人それぞれの価値観だけど、僕に言わせたらこんな無駄遣いはないです。
これはもう典型的な「貧すれば鈍す」だと思います。
あのですね、これは色んな人に言ってますし、自分にも言い聞かせてますが、平均的な日本人の生涯年収というのは大体3億円だと言います。途方もないような額だけど、人生長いですからね、そのくらいいくそうです。またそのくらいないと日本という国では暮らしていけないのでしょう。今、あなたの総合的な力量が10%UPしたとします。そういった力量の上昇が直ちに収入に結びつくわけではないけど、長期的に均してみれば結びつくでしょう。10%力量があがれば、あなたの生涯年収は3億円の10%である3000万円上昇する筈でしょ?英語ができるようになって直ちに収入増には結びつかないにしても、就職機会は広がるかもしれないし、どんな展開があるかもしれない。英語が出来るようになることが何%の増大なのかは僕にもわからないけど、キチンとできれば10%以上はいくと思う。だとしたら、留学にせよ、なんにせよ、3000万円というレベルのビジネス、プロジェクトを手がけていることになります。だって、そうでしょ?違いますか?
それだけ大きなプロジェクトをしてるという自覚がないまま、目先の数万円で右往左往してたら意味ないでしょ。ちゃんと勉強しなかったら意味ないでしょ。鉄道会社が設備投資をしてレールを敷いているようなもので、レールを途中まで敷いてやめちゃったら結局電車は走らないし、投下資本がまるまる無駄でしょ。こーんな明々白々でクソ当たり前の原理が、貧しいと見えなくなるのですね。だから、貧すればアタマが悪くなる、鈍するというのは、ある意味真理だと思います。
僕もエラそうなこと言ってますけど、何度も何度も鈍してますし、それで大損こいてきました。今だって鈍してると思う。だから、余計に思うのですよ、目を凝らしてクリアに見なきゃって。目先のしょーもない、1年経ったら忘れてしまうような些事に一喜一憂して、なんのために何をやってるのか見失わないようにしなくちゃって。
ちなみに鈍するのは貧だけではないでしょう。「富せれば鈍する」というのもあると思います。バブルの馬鹿騒ぎですね。
結局、今貧乏であるとか、今金回りがいいととかいうのも、パチンコみたいなもので、玉が出るときもあれば、出ないときもある。さっきまで出てたと思ったらいきなりパタッと止まったりもする。しょせん、循環的で、一過性のことに過ぎない。その一過性の物事に、自分の人格やら、将来の展望やらのパーマネントで大事なものまで影響されてはいけないよ、ということだと思います。
文責:田村
★→APLaCのトップに戻る
バックナンバーはここ