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今週の1枚(04.02.23)
ESSAY 144/ 「負け犬」という遠吠え
写真は、ボンダイビーチ付近。日曜の朝のブランチタイム。
最近、日本のAREAという雑誌を読んでたら、「負け犬論争」がどうしたこうしたという記事がありました。要旨は、女性の生き方に関するもので、いくらキャリアを積もうが高収入だろうが、未婚で子供がいなかったら「負け犬女」であるという挑発的なテーマをめぐって、なんだかんだ言ってるものです。
記事の内容に詳しく立ち入るつもりはありませんし、その真意はタイトルほど刺激的なものではなく、極めて穏当なもののように思えます。「キャリアのために結婚しないで頑張って、、」という肩に力が入ったノリを和らげ、むしろ自ら「負け犬」と笑い飛ばしてしまいましょう、その方がふっきれますよ、という部分にあるようですから。
ま、それはいいんですけど、敢えてわざわざ「負け犬」とか「勝ち犬」とかいう勝ち負け表現でいうことや、それをわざわざ雑誌で特集することや、さらにこれらの概念が一人歩きしていくことのしょーもなさを考えると、「なんだかなー」という脱力感を抱きます。
この脱力感の内容を自分で分析してみると、議論の当否はともかく、議論の前提になっている「人生のパターン認識」と「比較論的幸福」に、一番ひっかかるものを感じます。そのあたりのことをちょっと書きます。
人生の”パターン認識”ですが、こういうのが「いい人生」で、ああいうのが「ミジメな人生」であるという具合に類型化するって発想がそもそもクソだと思いますね。女は結婚してこそ一人前とか、子供を生んでこそ一人前とか、家庭という檻に隷属したらどうとか、そういう側面は確かにあるでしょうし、そういう人生の真実らしき断片は多々あるでしょう。はい、それは否定しません。だけど、一般化は出来ないでしょう。少なくとも一般化するには慎重であるべきでしょう。
結婚もですね、自慢ではないスけど僕も二度してますけど、いいもんですよ。仮に離婚という結末に終わった一回目の結婚だって、心の底からして良かったと思いますし、あれで相当人間的に成長できたと思います。だけど、それは僕にとってそうだったというだけであり、誰にとっても当てはまるかどうかは分かりません。それに、ある特定の相手と、ある特定の時期に結婚したから、ああいう実りが得られたのであり、これを別の時期に別の人間としていたらまた全然違ったものになるでしょう。というか、違ったものになってます、現に。二回結婚生活をしたからといって同じことを二度やってるという気分には全然ならんですよ。
僕の経験でいえば、結婚というのは高度にインディビュジュアル(個人的)なもので、ものすごく特異なものです。世界にこれしかないというくらい掛け替えのない一回性、代替不可能性があります。ですので、これをもって他人に当てはめて良いものかどうかかなり疑問です。そもそも自分にすら、一回目の経験が二度目には当てはまってないのですからね。つまりはパターン認識に馴染まないんじゃないかって気がします。
もちろん、ものすごく抽象化すれば一般論的に抽出できる何らかのパターンはありますよ。考え方もトラウマも異質な他人と共同生活をするわけで、しかも「死ぬまで」という前提で共同生活するわけですから、それなりの軋轢があるとか、自分の半分が自分じゃなくなるくらいの覚悟がないとやっていけないとか、その修羅場でこれまでヌクヌク肥大してきた自我は血まみれになりますから、それだけ成長して奥行きのある人間になるとか、そういったことは言えるかもしれないです。ただし、これすら全員に当てはまるわけではない。そういった異質感が殆どない双生児のようなカップルもいるでしょうし、凹凸が綺麗にかみ合わさってギクシャクしない人もいるでしょう。あるいは、そういった生身のエゴのぶつかり合い自体を恐がって避けてしまうカップルもいるだろうし、一方はその気でも他方にその気がない場合もある「すれ違い夫婦」もあるでしょう。考えていけばいくほど、千差万別って気がします。
したがって、かろうじて抽象化して概ね90%の人に当てはまるだろうなというのは、「世の中自分の思うとおりにはいかないもんだと思い知ること」くらいだと思います。しかし、こんなことくらいだったら、別に結婚してなくたって幾らでも学ぶ機会はあるでしょ。ある意味では、結婚しないで仕事してた方が、ずっと学べるかもしれません。
結婚するメリットの一つとして、人間の人格とか感性というものはおっそろしく個別的であり、独特であり、一人ひとりが似ても似つかないくらい全然違うということを思い知ることがあると思います。これまで生きてて、なにげに「皆、自分と同じだろう」と思ってたことがことごとく違う。もう味噌汁にいれる豆腐の切り方から、スイカに塩をかけるか砂糖をかけるかからはじまって、どうしてそんなに違うの?というくらい人というのは個性的であったりします。
結婚してそれが理解できるようになれば他人に対する許容度も高まりますし、懐も深くなるでしょう。それがメリットといえばメリットでしょう。それは他者という一個の人格に対する、謙虚にして正しい「畏(おそ)れ」を持つという、成熟した人間観を有することでもあります。だとすれば、「結婚して一人前」なんてパターン論的なセリフは間違っても吐けないんじゃないですかね?他者の人格について畏れをもって接すれば、人間を十把一からげにする乱暴なパターン認識に陥りにくいと思うのですが、違いますか?
もちろん酔った勢いでの座興的なセリフとしては言いますよ。これまで他者のエゴと血まみれになった経験がなさそうな小生意気で唯我独尊的な坊ちゃん嬢ちゃんを見たら、「はよ結婚して一人前におなり」って冷やかしたりはするでしょうさ。でも、それはそれだけの話で、それほど深い意味があっての発言でもないし、「味噌汁で顔洗って出直して来い」「豆腐の角に頭ぶつけて、、」の類のイディオムみたいなものです。
もし、あなたが、本当に本気で、結婚しないと一人前(=大人として十分に成熟した人間)にならないと思っているのだとしたら、そしてあなたが既婚者だとしたら、一人前でないのは他ならぬあなたである、と僕は思う。いったい結婚して何を学んできたのか?結婚しないと一人前にならない、あるいは結婚すれば一人前になれるという命題は、それを言ってるあなたが一人前でないという足元の事実によってガラガラと破綻するではないか。
言えるとするならば、結婚をすると人間的に成長する機会が、何もしないでいるのに比べれば、多いというだけです。それは言えるでしょう。しかし、本当に「何もしない」人間などはいないのであって、何かはやっているのだ。障害児のために巡回で指人形のボランティアをやってるかもしれないし、パチプロになってるかもしれないし、ブラジルで金鉱を探してるかもしれない。そのいかなる経験をも凌駕して結婚こそが優れた人間修養の機会である、とは僕には思えませんけど。だから、何らかの真実を抽象化しようとすれば、「人は何かすると成長する機会があるかもしれない」という程度のことでしょう。しかし、特に何もしなくて菩提樹の下で沈思黙考して悟りを得たお釈迦さまの例を考えたら、「人は何かしても/しなくても、成長するかもしれないし/しないかもしれない」ということなり、殆ど何も言ってないに等しくなる。だから、つまり、この豊かな人間像を薄っぺらな括りでパターン的に論じようというのが間違ってるのだ、ということになると思います。
それと全く表裏一体だと思いますが、「結婚して家庭に入ると好きなこと出来なくなり、自由がなくなる」という認識も同じくらいパターン化してておかしな話だと思います。そもそも結婚することが「好きなことをする」ことではないのかしら。それに、結婚したあと何をもって「自由」と呼ぶかどうかは人それぞれだけど、結婚すると失われる「自由」って、ちょっとばかり可処分所得が減って、気ままに温泉にいけなくなるとかその程度じゃないの?そんなものが「人間の自由」か。チェ・ゲバラが聞いたら泣くぞ。結婚生活を具体的にどうしていくかは、そんなことは相方と話し合って自由に決めればいいことでしょ。
なんかレベルの低いこと書いていて段々腹が立ってきたのだが、大体抽象的に結婚をしたいという(相手の心当たりもないのに)ということ自体、自分の人生をパターン化していて、その時点で「お前はもう死んでいる」ですよ。まず惚れた相手がおって、人間の自然な感情としていつも一緒にいたいし、一緒にいるにあたって社会的手続その他で有利な点があるから籍を入れましょかというダンドリになるんじゃないんですかね。こんなの理想論でもなんでもないです。ごく普通のありふれた成り行きでしょう。
もし、抽象的に結婚したいなと思って相手を探してたら、相手も抽象的に結婚したい奴になりがちで、パターン認識同士がめでたく結婚するから、そこにはあなたの個性に応じたインディビジュアリティなんかなくなってしまうでしょうよ。「結婚というのはこういうもの」と思い込んでる者同士なんだから。最初から不自由な発想をして、不自由なことをわざわざやってるから、結果として不自由になっているという、それだけのことでしょ。それはあなたが悪いのであって、結婚が悪いのではない。結婚なんて無色透明なただの制度であり、市役所に婚姻届を出すだけの話であり、実印でなくて三文判でOKという程度の、レンタルビデオの会員証を作る程度のものにすぎない。そこに豊かな彩りや内容を盛り込むのは、すぐれて個々人のナマの個性であり、共に過ごしてきた掛け替えのない時間の重みであり、器自体はバーベキューの紙コップや紙ディッシュと同じです。
折りしも、今はアメリカでもオーストラリアでも、same sex marrige、つまりゲイやレズビアンのカップルの結婚を認めるかどうかという議論になってます。そこで論じられているのは「結婚とはなにか」ということであり、二人の人間がおり、対内的にはもっぱら愛情を基礎とした人間関係が成立し、対外的には二人でイチ経済単位として捉えた方が社会的実態に即しているかどうかという点にあると思います。そしてもっぱら後者の点、つまり社会経済システムとして、無色透明なテクニカルな一点に純化しようとしていることが大事な流れでしょう。税金とか、相続とかそういった側面からどう扱った方がより合理的か、ということです。それ以外の、愛情であるとか、性交渉や子孫繁栄であるとか、そういった面は個々人の内面の問題であり、社会がクチバシをつっこむようなものではないと。古来「法は家庭に入らず」といいますが、より入らないように抑制すべきかどうかってことです。
それはもう個人の人生と社会システムとの接点をどうするかというレベルの話なわけで、それをより純化していけば、3人以上という形態もアリではないかとか、別に性交渉の有無は決定的ではないのではないか(例えば、性的な愛情はないが、半身不随の親友を一生面倒を見ようというライフパターンの場合両者を一個の経済単位として考えて便宜を図った方が良いのではないかとか)。結婚の意味を社会的法的に突き詰めれば、社会における最小ユニットをどう捉えるかであり、”擬似法人”みたいなものです。その意味では、NPOに権利能力なき社団ではなく独立した法人格を付与すべきであるという議論につながっていくのだと思うのですね。まあ、こういう話をやってるわけです。「なるほどねー」と考えさせられつつこっちの新聞を読んでて、ふと日本の雑誌を見たら「結婚してない女は負け犬」だってさ。真剣に知能指数低くないか?
あと、勝ちとか負けとかいう比較論も愚劣ですよね。なんでこうイチイチ比較しないと幸福になれんのだ?
比較は人間の本能であり、比較優越の快感もまた本能的なものです。だから一概にこれを否定はせんけど、モノには程度というものがあるでしょうって思います。ここまでくると、ちょっと病気だって気もします。
日本の社会は、各自が勝手にバラバラなことをやっており、必要なときに集まって必要なことを決めればといいという具合にはなってません。グルリと全員で輪になって、誰もが誰もを監視できるようになっているのでしょう。そして、集団全体が一つの生き物のように動き、各自の自我はその全体のポジションとして意識されます。スポーツの団体競技のように、刻々と変化する状況に応じて、集団はいかにすべきか、そしてその集団の中で持ち場を持つ自分はいかに行動すれば良いのか、それを一瞬一瞬見極めて、それで動こうとします。野球でいえば、ランナー3塁でセンターに飛球があがった場合、センターはそれを捕球すべく全力で走りますが、セカンドやショートはタッチアップに備えて中継地点に向かうし、ピッチャーはバックホーム返球がそれた場合に備えてキャッチャーの後ろに回りこみます。状況状況に応じて、各自がその集団内部で最も求められる動きが何かを判断し、整然とアクションに移す。これが団体競技というもので、日本の社会は常にこれをやっているのだと思います。
その集団の個々の状況に応じて、いかにしてエブリワンハッピーになるか理想の状態を予測し、そのために他の人間がどう動くかを察知したうえで、自分でも期待される動きを果たす。日本人の状況把握能力、他人を「察する」能力、これは世界でも群を抜いているように思われます。西欧人、特にアメリカ的な人間類型からしたら、ほとんど「テレパス」のように、超能力者・読心術者であるかのようにも見えるでしょう。
余談ですが、だから日本人の説得技法というのは、まず背景の説明、登場人物のプロフィールの説明、これまでの成り行きの説明をするという、「ストーリー説明的説得」になりがちです。全ての説明が終わった時点で、日本人同士だったら「なるほど、だから○○するしかないわけだな」と。でも、これを西欧人相手にやっても、「お前は何を言ってるんだ?」でイライラされるのがオチです。ペリーの黒船から日米の通商会議というのは一貫してこのすれ違いがあるのでしょう。アメリカの説得技法は、共通の理念や価値観を乱暴に押し付けすぎるという欠点はあるのですが、一点すごいのは「これまであれこれしてやった恩も忘れやがって」という言い方はしないことです。日本人同士だったら絶対に言ってるだろう部分を彼らは言わない。これを言った方が日本人的には納得し易いんだろうなと思うのだけど。
このような日本人の、状況をまるごと理解して全員の利害を調整的に考えるという思考方法は、良い方向に進むと、謙虚で、思いやりにあふれた人間、博愛的で思慮深い、ひとつの人間の理想像になります。集団でいるとき、「ああ、○○さんがしんどそうだな」「○○さん、何か言いたそうだな」「今日は○○さん大変だったんだから、ひとつワガママにもつきあってあげよう」と、常に周囲を察し、他人に優しく、何も言わなくても全て了解しているという、叡智と慈愛の人間像です。これは素晴らしい能力だと思いますし、世界に通用する「大人」の美徳だと思います。実際、個々人の付き合いレベルにおいては、日本人のこういう思慮深い部分を正しく評価してくれる人も世界にはたくさんいます。それは表現の仕方一つで、「曖昧で自分の考えをもたないアホ」と思われることもあろうけど、deep thinker としてリスペクトされたりもします。
しかし、悪い方向に進むと、「自分がない」という自己空洞化につながります。ナマの自分の意見や好みというものを抑えているうちに、自分と言うものがなくなってしまう。自分というものは、周囲が与えてくれるものになってしまう。こんな状況は、本来の日本人の理想にはなかった筈だと思います。「オノレを虚しくして」という美徳はありますけど、本当に虚しくなってしまったら意味がないでしょう。言うべきときは陰腹切ってでも諫言するのが日本人でしょう。陰腹(かげばら)って分かりますよね?殿様に意見を言う、特にキツい意見をいうのは封建時代では出過ぎた真似で無礼なのだが、無礼を承知で言うべきことは言わねばならないとする。その場合、無礼のお詫びを先にするべく最初に自分で腹を切ってサラシで腹をキリキリと縛り、しばらく延命措置を施したあとに、殿様に意見をビシバシ言うことですね。言うだけいって死ぬと。つまり命に代えても言うべきことは言うというのが日本人の美学でもあるわけで、それだけ巨大な自我というものを持ちつつ、しかし普段は控えめに、つましくしているというたたずまいの美です。
ほんでも、この日本人の美学って形骸化してますよね。子供だって、3歳くらいまでは、「ボク、これがいい!」って明確な自己主張をしていた日本人も、小学校に上がる頃になるとすっかり日本人になっちゃって、ホームルールでも、「○○君、どう思いますか?」と聞かれたら、「皆がいい方でいいでーす」とかいう主体性のカケラもない人形になっちゃってるもんね。日本の伝統って、物凄く自我があって人格高潔な人間でも、自分というものがなくて何も考えてないアホでも、見た目は一緒だったりするのですね。「大賢は大愚に似たり」とはよく言ったもんです。だから大愚でも大賢の真似をしやすいって弊害もあると思うわけです。
日本人社会を相互監視システムとか言われますが、もはや相互監視なんて生易しいレベルを超えて、自我の相互依存というアドルト・チルドレンみたいな、それも一対一ではなく、集団で相互に自我を依存しあっているという集団性精神疾患みたいな状況になってないかと懸念します。集団内部で認められたい、それもより良く認められたい、「集団の中で高い評価を得ている私」というのが自我のコアになることはあるでしょうけど、そういうのって閉鎖的で一時的な社会の中での話でしょ。閉鎖的な社会だとそういうことってよく起きますよ。刑務所内のボスとか、白い巨塔的な学内人事だとか。だけど、それが広く社会一般にまで拡大してしまうことなんか無いでしょう。学会では権威があったとしても、家庭菜園にいったら近所の子供に人気のある気のいいオジイチャンだったりするわけだし、それで人間バランス取ってるんだと思います。それを超えて社会一般にまで集団的評価の場が広がってしまったとしたら、それは社会が気が狂ってるときです。ファッショですね。自分の息子が戦場にいってないと肩身が狭いとか、息子が戦死した方が鼻が高いとかそういった社会です。こういった社会は狂ってます。病んでます。
でも、今の結婚したらどうとか、キャリアがどうとかいうのも、戦場に息子が、、というのと一緒じゃないか。でも、幸か不幸か、今の日本社会はそこまでおかしくなってないですよ。結婚してるかどうかであなたの価値を計るような人もいるかもしれないけど、そんな奴ばかりではないですよ。というか、そんなアホなこと真剣に考えてる奴なんか100人に1人くらいしかいないんじゃないの?いや、数字に大した根拠は無いけど、結婚とかキャリアとかくだらないパターン記号認識だけで貴重な人生を考えたりしてる人、もっといえばそういう発想を生み出す前提となる爛れた精神状況にある人というのは、実はそんなに多くはないと思います。まあ、そういう人がよく目立つし、声も大きいってのはありますし、面白いからマスコミが取り上げがちってのはありますけどね。
ともあれ日本人の長所でもあるべき全体把握能力が裏目に出たら、「全体の中で○○と評価されているワタシ」以外のアイデンティティがなくなってしまうことになり、これはかなり息苦しいと思います。それが亢進すると、そもそも優秀な筈の全体把握能力すらおかしくなってくる。勝手に虚像である集団の幻想を見て、そこで幻想的に評価される自分の幻影を見て、自分だと思ってしまうという。
確かに、キャリアと結婚と子育てというのは、両立しにくいです。これは世界的にもそうです。だから時間差でやりましょうとか、試験管ベービーとか精子バンクの冷凍精子で体外受精とか、そういったことが流行ったりもします。それはそれで、「どうなんだかなあ」って気もしますけどね。
いずれにせよこの問題の背景には、女性の場合やりたいことが3つくらいあるのに1つしか時間がないという、基本的な問題があるわけで、それがまず原点なのでしょう。その点は男は楽ですよね。最初からキャリアしかないもんね。結婚だけ、子育てだけが人生の最大の目標ですなんて生き方、男には中々出来ないし、許される環境でもない。選択が乏しいから(というか無いから)、選択に苦しむこともないという。なんか、両足を切断したから靴を買わなくて済むみたいな、喜んでいいんだかって気もしますが。男から無責任にみたら、3つもあるだけいいよなーって気もします。しかし、3つもあるからこそ非常に悩まざるを得ないというのは、確かにシビアな状況だと思います。
この不幸の状況を作り出している原因の一つに、日本の仕事環境において「キャリア」なんて言葉をそのまんま持って来ちゃったことがあると思います。キャリア(正確には、カリィーアというけど)というのは、職歴・技能を表す無色透明な概念であり、高校のときウェイトレスのバイトをしてましたというのも立派なカリィーアです。それがなんだか日本に入ってきたら、女性に自立とか、非常にハイスキルでハイスタンダードでキラキラ金粉まぶしたカッコイイものになってしまって、それがそもそもの間違いのもとって気もしますね。ピーマンの袋詰でもスーパーのレジ打ちでも立派なキャリアであり、労働市場に出して「あんた何が出来るの?」と聞かれたとき「これが出来ます」の「これ」がキャリアです。それに原則として学歴はキャリアには入らないし、入るとしたら卒論のテーマとか、そのための情報収集の方法やら、具体的に自分が何をやって何が出来るようになったかです。つまりは、あくまで実戦経験であり、即戦力となりうる技能証明です。
で、そのキャリアが本当に意味を持ちうるのは、就職や仕事というものが、「労働と給与の等価交換契約である」というカラカラに乾いた認識があっての話だと思います。仕事が出来ればOK、出来なければクビ、他に何があるのか?っていう。人間をただの労働力、パソコンの性能のようにしか見ない世界、それ以上でもそれ以下でもない世界。だから仕事なんか「その程度のもの」、そう大したものではない、人生の優先順位ではそう重要なものではないって世界での話です。仕事で自己実現みたいな「情念」がはいってくる余地が日本よりは少ない。
でも日本の仕事観は、これはことあるごとにいってますがもっと全人格的な没入を要求するから、単純にコレが出来るとか、あれが出来るとかいうことだけで、電池の交換のようにカラリと人事の交換が出来ない。そうでなかったら、なんで日本の採用広告に年齢制限とかいう不可思議なものがあるのよ?スキルさえあればそれでよかったら年齢なんか関係ないでしょ。実際、オーストラリアでは、募集広告に性別年齢を書くことは違法になってるし、違法でなくても書く必要も乏しいでしょう。未だに女子の新入社員採用では、家元から通ってたほうが有利とか、片親だけだとどうとかまことしやかに言われるわけじゃないですか。実際にも、会社も「大切なご子様をお預かりして」みたいな意識があるじゃないですか。それは日本の仕事でもなんでもムラ社会化していく精神文化の特性なんだから、一概にいい悪いじゃないです。でもね、キャリアという概念がそのままの形で馴染むような環境じゃないです。
また、欧米でキャリアやスキルが重視されるのは、即戦力が欲しいからなのですが、逆に言えば社内で育てるという教育機能を会社が持ってないからでしょ。日本の企業はまだまだ社員を育てるという気はあるし、育てもします。それに一芸に秀でた専門キャリアを求めるよりも、優秀な幹部候補生であればあるほど現場や工場や全ての部門を巡回させたりするでしょ?あれってキャリアだけからみたらむしろマイナスですよ。どれも中途半端なんだから。だから、日本の会社はキャリアなんか欲しくないんでしょ。そんなものは幾らでも現場で育てられる、叩き込めばいいと思ってる。また会社というのが機械のような集金マシンではなく、カルチャーというのが濃厚にある人間社会だから、自社文化に染まって、自社の隅々まで理解してもらって、そしていよいよカーンとセンターに打球があがったときに、ぱっと持ち場で最善の働きが出来るような人材にしようとしてるんだと思います。
だから同じビジネスっていっても、かなりゲームが違うように思います。やってるのは同じ将棋の駒で将棋やってるようだけど、一方は本将棋やってて、もう一方は挟み将棋やってるようなもので、「キャリア」という概念も本将棋における「と金」みたい概念で、それを挟み将棋にもってきても使いようがないって気もしますね。
だから、キャリア志向とかいって頑張っていても、日本の企業風土ではやっぱり浮いてきちゃうものがあると思うのですよね。これが不幸のカラクリの一つなんじゃないか。キャリアという言葉に騙されちゃダメなんじゃないかって。
状況はシビアかもしれないけど、対応策はいつもシンプルだと思います。要するに、そのときどきで一番やりたいことをすればいいです。誰にだって決断すべきときはあり、決断は苦しいです。右に行くか左に行くか、右にいけば左の道の可能性を捨てることになるし、左に行けば右を捨てることになる。選択の苦しみは喪失の苦しみです。でも、それは女性に限らず、仕事や結婚に限らず、何においても生じるものです。封建社会の昔は、選択の自由がなかったら決断の苦しみもまたなかったです。つまり、決断の苦しみは、自由に当然付いて廻る影みたいなものなのでしょう。
そして、僕が思うに、決断の際に一番大事なことは、パターン認識で決めないことでしょう。いわゆる世間一般の評価とか、「結婚するとこう」とかいう一般的なパターンでモノを決めるとしくじる場合が多い。あくまで個々別々の局面で、具体的な選択して考えるべきでしょう。「仕事か結婚か」みたいな二者択一の抽象問題にしすぎない方がいいです。もちろんそういう一般論で語られるべき状況もありますよ。でも、それは女性の人生を生きやすくするために、例えば税金使って無料託児所をガンガン作るべきではないかという大きな議論のなかでの話です。それと、個々人の人生とはおのずと違う。抽象的な公的な議論を、ダイレクトにパーソナルな決断に引っ張ってきたらダメです。
個別的には、今やろうとしている仕事がどれだけ面白いかどうか、結婚しようという相手をどれだけ好きかどうかだと、ただそれだけ、むしろ究極の「好き嫌い」として突き詰めて、最後は直感で決めるべきだと思う。それに本当にやりたいことだったらそもそも悩まないと思うのですよ。結婚でも、駆け落ちしてでもするとか、行き場がないから心中するとか、そこまで惚れた相手がいるんだったら、最初から「仕事をとるべきか」なんて悩まないでしょう。
パターン認識が危険なのは、何度も言うけど、あれはマクロの方法論だからです。政治や経済などで、100人のうち70人が右にいくなら、右の方向をより重点的に整備しましょうとかそういった話です。それはそれで大事ですよ。でも、そんなマクロの方法論を、個人的なミクロに当てはめてはダメです。1万人のうちのたった1ケースの例外で数字的には0.01%であっても、それが自分だったら、自分にとってはそれが100%なんです。むしろ、確信をもった決断をするときは、一般論的には逆行する場合の方が多い。周囲から、「なんでそんなシンドイこと、、」と反対されるようなことですね。
「勝ち」とか「負け」とかを決定する権利は他人にも社会にもないです。それは自分だけが決められることであり、その権利は神聖不可侵にして一身専属。自分がハッピーだなあって思えればそれでいい、そういうことだと思います。他に何があるのか?結婚も仕事も子供も、あなたには1ミクロンも保証しないでしょう。結婚して、仕事をして、ひたすら不本意な人生を突っ走っていってしまう人だっていくらでもいます。こんな結婚(仕事)だったらやらない方がマシなんてことも山ほどあるでしょう。だから、選んだものをより実り豊かにしていくかだけだと思うし、その豊かさのタネになるのは「やる気」であり、やる気のもとは「好き」だと思う。したがって最終的にモノをいうのは、ゾーリンゲンのナイフのように、日本刀のように、ギリギリに研ぎ澄ませた「好き/嫌い」の感性だと思います。
好き嫌いの感性だけが人生の武器になりうると思う。
だって、単純に考えてみてもそうでしょ?人間、何事においても尋常一様でないエネルギーを注ぎ込んだらそれなりのレベルまでいきますよ、つまりはそれなりに成功しますよ。でもって、人間は好きなことは続けられるけど、嫌いなことは続けられない。無理に続けていくと身体が壊れる。だから好きなことやってた方がトータルとしてのエネルギー量は多くなり、結果として成功率が高まると。それに結果がどうあれ、好きなことにエネルギーを注いでいるという状況それ自体を「幸福」というのではないですか。だから、好きなことをやってれば、まずやってる過程がいちいち楽しい、そして成功する確率も高い、仮に失敗したとしても悔いは少ない。いいことづくめじゃないですか。
そして、もう言うこと分かったと思うけど、パターン認識くらい、この伝家の宝刀である好き嫌い感性を鈍らせるものはない。刃物の上に酢を垂らすくらい、ボロボロに腐食しますよ。好き嫌いで決められていたら、もう他人の意見や社会の反応なんかどうでもいいです。それこそ遠くで犬が吠えているくらいの雑音にしか聞こえないでしょう。だからそれは「負け犬の遠吠え」ではなく、負け犬だといっているどっかの遠吠えでしかない。好き嫌いで決めきれない人が、参考情報として周囲のパターン認識を探し、そして益々決めきれなくなるという。悪循環だと思いますです。
最後に再び記事に戻って、負け犬論争というのは、キャリアキャリアで頑張ってきた人に、「なんだ、ワタシ負け犬だったんだ、あはは」と肩の力を抜いてもらいたいという主旨らしいのですが、肩の力を抜くんだったら、別に負け犬とか比較論やパターン論で言う必要はないです。普通の日本人がちょっとやそっと頑張ったくらいでは、別に一般に言われているようなキャリアなんてご大層なものにはならないです。あなたも、ワタシも、皆「庶民」。ド庶民が何をムキになってるんだ?って思えばいいんじゃないですか。
だって記事に紹介されている諸例も、別にそれほど大したキャリアだとも思わない。20代でアメリカの大統領補佐官になったとか、大臣を既に経験したとか、ノーベル賞をとったとか、そのくらいでないと大袈裟に言うほどのモンじゃないです。日本というのはいい国で、皆、みんな平凡な庶民です。カリスマとかなんて言葉も安っぽく流行ってるけど、カリスマとかいうのはビン・ラディンとかそのレベルまで行かなきゃ使っちゃいけない言葉でしょ。この人のためなら喜んで死にますって人が何百人単位でいて、はじめてカリスマ足りうる。それ以下だったらただの使い捨てのアイドルだわ。歴史にも何も残りもしない。セレブなんて単語も同じように誤用されてますよね。
要するに、ちまちま生きてるド庶民が、そのイジこい日常をつかの間忘れたいために、やたら舶来の高級単語を持ち込んで必死に飾り立ててるだけでしょ。ブランドものも自分で買いにいってるようでは庶民でしょ。親の代からのデパートの外商の番頭さんが、「ひとついいのが入りましたので」で持ってきてくれるくらいじゃないと。
10年くらい前に、住友商事だったかな、TIMEに載ってたけど、世界の銅の売買の5%もその人の一存で決済しているということで、世界の金融界では「ミスター5%」として、それこそカリスマ的に思われてた部長サンだったかな、そういう人がいました。でも、日本でのその人の生活って、たしか京浜急行かなんかに乗って40分通勤してたとか。世界の常識だったら、これほどのビッグビジネスをやってるマネージャーだったら、お付きの車があって当然、自家用車もポルシェくらいで当然なのだけど、それが平然と通勤電車に揺られているという。だから外見的には普通のサラリーマンのおっさんです。だからこれを知って世界の金融界はのけぞったのですね。あれほどの人材が何の不満もなく満員電車で通勤してると言うJAPANってなんなんだ?って、「日本、恐るべし」と言われたわけですね。
レベルはずっと下がるけど、僕も司法研修所というときに松戸(正確にはその二つ先の馬橋という駅)にある寮から満員電車に揺られて湯島まで通ってました。もう千代田線混むし、「こんな生活やだ」と思ったもんですけどね。でも、研修所の教官などのバリバリのエリート裁判官(裁判官のなかでもさらにエリート)の官舎がどこにあるかっていうと柏なんですね。もっと遠方じゃないか。しかも勤務地は霞ヶ関だからもっと遠くまで行く。通勤時間2倍。司法試験通って、裁判官になって、そのなかでもエリートと呼ばれるコースを辿って、それで10年以上キャリア積んでも、まだ柏から通うのか?という。
だから、こんなもんですよ、日本のキャリアって。エリートであればあるほど逆に質素だったりしますよ。その平然とした庶民性こそが、日本社会の強みだと思います。だから、あなたも庶民でいいでしょ?だって庶民じゃん。納豆好きだったりするでしょ?納豆に醤油かけたら邪道だとか言うでしょ?タコ焼きにマヨネーズかけるのは邪道とかいうでしょ?それが日本のイイトコロなんですよ。庶民じゃないのは皇室くらいのもんですよ。素晴らしい国だと思いますよ。いや、ほんとに。階級がないのって素晴らしいですよ。
だから、庶民同士でカッコつけてたってしょうがないじゃん。あなたも、あなたも、そしてワタシも、普通の庶民なんだからさ、いくらインテリアに凝りまくっても、やっぱりコタツが一番とか言ってる可愛い庶民なんだからさ、無理することないよ。肩の力を抜くんだったら、別に負け犬とかイヤな言葉なんか使う必要ないと思いますよ。
文責:田村
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