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今週の1枚(04.02.02)
ESSAY 141/ 古賀議員の学歴詐称問題について
ここ数日やたら忙しく、6日間に6回空港までお出迎えに行くなどバタバタしておりました。だからエッセイを書く時間もママならず、出来が悪いかもしれないけど許されよ、という言い訳をまず最初のノベておきます(^_^)。
さて、例によってネタ探しにインターネットをパラパラと見てたら、古賀議員の学歴詐称問題が大騒ぎになっているようです。いや、すごいですね、「川に落ちた犬は叩け」方式で、ついに議員辞職までさせられちゃったりして。どうも一連の経過を見てると言い訳がお粗末過ぎるのがマズかったみたいですね。最初からスッパリ認めちゃえば良かったような気がします。
だけど、思うのですが、それってそんなに大問題なの?学歴なんかどーだっていいんじゃないの?
そもそもその学歴だって、アメリカの”ペパーダイン大学卒”であって、これがハーバードとかケンブリッジとかいうなら話もわかるけど、言っては悪いけどそう知名度の高い学校ではなさそうだし、少なくとも日本の選挙民が「え、ペパーダイン?あそこはすごいんだよな」と分かるってことはないような気がします。あなた知ってましたか?それ以上に不思議なのは、いろいろ記事を見たのだけど、その大学のどの学部を出て、何を専攻して、何の学位を取ったのかがまるでかかれていないこと。BA(バーチャーロー・オブ・アート)とかLLC(法学士)とかさ、普通書いてあるもんじゃないの?
大学というのは行きゃいいってもんじゃなくて、行ってどんなスペシャリストになったのか、どんな特殊技能を身に付けたのかがポイントでしょう?だから、なんの学位を得たか、どんな資格を取得したのかこそが問題であって、そこが分からなかったら意味が無いし、そこを報道したり議論したりしなかったら意味ないじゃないか、、、とは、思わないんでしょうね。
結局この問題って、これが問題になること自体、そしてこういう形で問題になること自体、一種のお笑いだという気がします。日本人の、学歴信仰と海外信仰が二重にあぶり出しのように出ていて、さらに本質論よりも形式論に流れてしまう点、政治に対するナイーブさなどなど、いろいろな日本の問題点を映し出してしまっているように思います。
政治に対するナイーブさでいえば、政治家が嘘ついても僕は全然悪いとは思いません。時と場合によりけりです。嘘のつけない政治家なんか無能だと思うし、選挙民がバカだったらその馬鹿をキッチリ騙して当選するのが有能な政治家だと思う。違いますか?要するにメディア対策とか、演出というのはそういうことだ思うのですよ。別にこれって政治家に限らない。普通の仕事だってそうだし、男女関係だってそうです。なんでも正直にやりゃいいってもんじゃないでしょう。例えば、お客さんに「○○はありますか?」と聞かれたら、無いのが明々白々でも「ありません」とニベもなく断るのではなく、「ちょっと探してまいります」と一応努力する風を装ってから、非常に申し訳無さそうに「あいすみません、あいにく、、」と断るのが礼儀であるとされていたりします。男女関係でも浮気がバレそうになったら、例え証拠写真を突きつけられても、「これは俺じゃない」と言いつづけるのが”礼儀”であるという見解もあります。
嘘を言うのは良くないっていえば良くないですよ。でも、そんな3歳児レベルの道義観念で大人の行動は判断できない筈です。というか、あなただって一日生きてれば最低10回は嘘を言ってるはずだ。「私最近太っちゃって」「そんなことないよー、変わらないよー」とかいう社交辞令を、いちいち「嘘」とか言ってたらやっていけないでしょ。別に嘘はいいことだと言うつもりは無いが、「嘘が良くない」というアホみたいな基準だけで物事を判断するのはアホだと言ってるだけです。「ついちゃいけない嘘」であるかどうか、その嘘が実質的にいかに被害を撒き散らすかどうか、です。例えば原発で事故があったにも関わらず当局がひた隠しにするような嘘は、危険物の管理のモニタリングを有名無実化し、人々の生命身体に危害を加える恐れがあるから、許されない。このように許されない嘘には許されないだけの具体的理由があるべきであり、その内容で判断すべきです。
じゃあ、学歴詐称にはいったいどんな実質的被害があったというのか?そこを書いているものは殆ど無かった。
これ、書けるわけないんだろうなーって気もします。書いたら選挙民が傷つくもん。ブーメランのように自分に返って来るもん。だって、候補者の学歴詐称の具体的被害について考えられるとしたら、「有権者や支持者が誤った情報(嘘)によって誤った判断をした」ということでしょ。だけど、取得学位も具体的な専門技術の実態もわからず判断したとしたら、そいつがアホだと思いますよ。「わあ、大学卒なんだ、頭いいんだな」「海外なんだ、すごいなあ」くらいの愚劣な判断能力しか持ってなかった、なんか雰囲気だけで投票しちゃったという、選挙民の(ひいてはわが国の政治風土の)愚劣さがありありと浮き彫りにされるだけでしょ。だから、実質的被害とか言い出したら、皆が傷つく。だから、あまり突っ込んだらマズイから、「嘘はイケナイ」というチャイルディッシュなレベルで収めておきましょうということじゃないんですか?
それに、”海外大学卒”というのを武器にして、そこをベースに斬新な視点で日本を見て、斬新な提言をする新しいタイプの政治家というのが売りにするのだったら、まずもってその”斬新な政見”の内容そのものを皆で吟味すれば足りるはずです。要するに今現在どういう見解をもっているかですよね。大学に行ったとかいう経歴なんか、全て現在の見識を作るための準備作業に過ぎないんだから、結果だけ見ればいいんです。レストランだったら、いかに高価な調理器具を使ったとか、シェフがパリで修行したとかいうエピソードなんかどうでもよくて、テーブルに出てきた料理が美味いかまずいかが全てでしょ。古賀議員にしても、街頭演説やHPで所見などを発表してるわけで、その内容を聞いて、「なんだ、海外大学卒だといっても、この程度のことしか言えないのか」と判断すれば足りるわけだし、「むむむ、鋭い、そのとおりだ」と感心したら別にその意見が出てくる過程に多少の誤差があったとしても、そういう意見を考えつくだけの過去の研鑚はあったわけで、実質的被害はないじゃないかって気がしますね。
要するに、学歴詐称が問題なるということは、それだけ選挙民に、ひいては日本人に、判断能力がないってことを意味するのでしょう。金看板の有無がないと何ひとつ判断できない阿呆であると。そして、それは往々にして正しいから、ますます痛いんでしょうね。
だから、皮肉な目で見れば、この問題はこれ以上、つまり「嘘はいけない」という、子供じみた偽善的なレベル以上に深まることはないと思います。逆にいえば、深めるだけの知的能力を日本人が持ってるかどうかですよね。個々人は持ってると思いますよ。僕は日本人は賢いと思ってますから、ひとりひとりに問い掛けてみたら、ちゃんと考えられると思う。だけど、個々人の賢さが集団になると「衆知を結集」という形で益々高まるのではなく、集団になると逆に知能低下を起こしてしまう点こそが日本の問題だと思います。一番肝心なことが言えなくなっちゃう、無かったことにする、なぜか?誰かが傷つくからですね。そこをなあなあで収めたいから、大きな場面になればなるほど「そんな事言ってる場合じゃないだろ」で吹っ切って本道に立ち返るのではなく、話が大きくなればなるほどなあなあで済ませようとする。甘やかされて自我が肥大した今の日本人には、「貧乏人は麦を食え」みたいなことを言えなくなってきてるってことでしょうね。言ったら最後、キーキー、ヒステリックに騒がれちゃうよね。面倒くさくてしゃーない。「こんなもんで騙されるんだったら騙された選挙民が馬鹿なんだから、この際選挙権を剥奪したら?」とか言えないでしょ。「暴言」とか言われちゃうよね。
そういえば古賀議員が打ち破った対立候補の山崎拓議員も、女性関係がどうだこうだで叩かれてますよね。これも、政治と女性関係なんか関係ないと思いますよ。政治家ってのは有能か無能かが全てでしょ。というか、政治家に限らず、社会的存在としてのプロはそうだと思います。あなただって、生死を分けるような大手術をやってもらうときに、女性関係にはだらしないけど手術の腕は抜群
である医師Aと異性関係は謹厳実直だけど手術の腕はイマイチな医師Bとで、どちらに手術をして欲しいですか?ここで、いや私は多少死ぬリスクが高まったとしても、清潔なBさんに手術をして欲しいといって本当にそのとおり実行に移せる人だけが、信念を持って山崎氏を批判しうる資格があると思います。どんな資格じゃ?といわれたら、「人間としての資格」です。偽善者ではないという資格です。偽善者には人を批判する資格はない、違いますか?それか、政治家というのものがプロフェッショナル技術者であることを知らない、「なんか立派な人が立派な政治をしている」というメルヘンな世界に遊んでいる人なのでしょう。それはそれで社会人としての知的能力に重大な欠損があるという疑いがあります。
でもって、日本人がそこまで馬鹿だという気はしません。少なくとも僕ごときが考える程度には皆も考えるでしょうよ。だから、多くの日本人はこれが茶番であることは百も承知なんじゃないんですか?国家をあげて「馬鹿ゲーム」やってるわけで、古賀議員はそのゲームに敗れたわけでしょう。多分他の国会議員にしても、他の日本人にしても、学歴詐称なんか別に大した問題ではないということくらい皆わかってると思う。だけど、「すぐバレる嘘をついた」という点が許せざる無能さに映るのでしょうな。ほんと、先々のことを考えなかったのかなという。この程度の先見性だったら、政治家として政策を担当してもダメだろうという判断がまずあるのでしょう。また、スキャンダルの渦中に立たされたときの対処能力もイマイチで、この程度の対処能力で、アメリカとか中国とか海千山千の連中と虚々実々の取り引きをさせるには不安があるってことなんでしょうね。
だから、他の政治家連中にしても、あるいは僕らにしても、学歴詐称とか問題は何でもいいんですよね。立小便をしたとか、酔っ払って喧嘩したとか、銭湯の帰りに他人の傘を拝借していったとか、何でもいいんです。問題は、付け込まれる禍根を残したというリスク管理能力であり、叩かれたときにそれでもしぶとく生き延びるリスク対処能力なんだと思います。
これはもう「生き残るための試練」みたいなもので、政治家じゃなくたって、僕らも毎日この試練を受けている。いわれの無い非難を浴びたり、いわれがあっても些細であるようなスキャンダルを撒かれたり、イジメられたり、差別されたり、裏切られたりしてるわけです。官公庁内部では怪文書が乱れ飛び、企業内部では派閥内紛があり、職場では白い目で見られたり、個人でビジネスやれば同業他社の中傷があり、、、、ねえ、世の中そんなもんでしょみたいな共通認識があるのでしょう。そういった、とっても「大人」なクールな認識のもとで、あえて「嘘はイケナイ」という子供じみたレベルのことをやっているんじゃないかなというのが、僕の見た図式なんですけど、あなたどう思いますか?
だけど、生き残ること、サバイバルってのはどんな動物世界にもあるけど、こんなレベルの低いところで生き残り競争やってるのって人間だけかもしれませんね。人間が持ってる嫉妬心などのネガティブな感情、それを原動力にする悪意の攻撃からいかに生き残っていくか、、、人間ってやーねって気にもなりますな。
ところで、古賀議員の釈明段階で、「大学当局は卒業名簿に載ってないと言った」うんぬんの報道がありましたけど、これ大学がアホで事務ミスをしたんだって誰も思わないみたいですけど、海外在住の皆さんだったら、ちらっとそんなこと思ったりしませんでしたか?
オーストラリアの大学もいい加減ですからねー、平気で入学申込書を紛失するわ、言ってることがメチャクチャだったりするわ。そういえば1年ほど前、西シドニー大学だったかな、数百だか数千人くらいの規模で”幽霊学生”がいることが地元の新聞にスッパ抜かれてましたね。もう現地に来て1年以上たっている海外留学生達で、ちゃんと学生ビザを得ているのに、大学側の事務のミスで、生徒として登録されていなかったという。信じられないでしょ?そんな大規模の数の学生が、学生として名簿登録されていないにも関わらず1年以上授業を受け、試験も受け、単位も取っていたという。でも、それがこっちのビジネスのレベルですよ。おそらくアメリカだって似たようなもんだと思います。
だから、古賀議員が真実卒業していても、大学側の記録に残ってなかったということは、すっごく「ありうる」話だったします。日本の報道機関はそのへんよく分かってないんだろうなー。僕だったら、議員先生の言うこともにわかには信じないけど、大学事務局の言うことはもっと信じませんよ。担当者を変えて、上のマネージャークラスに話を通して、「もう一回ちゃんと探してください」って。なんで卒業云々くらいのことで弁護士を雇うんだっていう話もあるけど、大事な話だったら弁護士くらい雇ってガンとカマして真面目に仕事させないと怖くてしょーがないって部分もあるとは思うなあ。
なんか日本の論調を見てると、まさか大学当局が間違えるはずはないって思っているみたいだけど、チッチッチッですよ。日本の基準で考えたらダメっす。
学歴詐称の学歴ですが、未だにそんなこと言ってるんだなあって気もします。学歴信仰が崩れたとか何とか言いながら、全然崩れてないのね。ちなみに、オーストラリアでは学歴信仰はないです。その代わりに、上にも述べたように資格重視はあります。つまり、どの大学を出たかではなく、どんな学位を取得したか、です。
大体政治家でもそんなに出身大学とか出てきませんし、皆もそんなに知りません。日本だと3行プロフィールがあったら必ず出身大学を書くけど、こちらではまず書かない。誰も気にしない。それよりはこれまで何をやってきたかです。また学校に行ってたとしてもどの学科で何を学んで、それを以後どう生かしているか、です。これはこちらのCVとかレジュメイといわれる履歴書を書いたことがある人ならお分かりでしょう。
現在のオーストラリアの首相ジョン・ハワードがどの大学を出ているかなんかあんまり語られません。母校がどうしたみたいなことも本人も言わないし、周囲も語らない。ちなみに調べてみたら、オーストラリア連邦議会のホームページの議員のプロフィールのページがあり、ジョンハワード首相のページはhttp://www.pm.gov.au/your_pm/biography.html
にあります。どこに学歴があるかというと、ズラズラ続くキャリアの最後の方にちらっと出てくるだけです。”Qualifications and Occupation before entering Federal Parliament”という欄に、”LLB (Syd). Solicitor. ”と書いてあるだけです。そうか、彼はシドニー大学法学部卒のソリシターだったのね、と僕も初めて知りました。まあ、この程度の扱いですね。
ちなみに、僕の住んでる地方自治体(Lane Cove Council)の議員の紹介ページがありますが=http://www.lanecove.nsw.gov.au/content/councillors/councillorf.htm、各議員のプロフィールを見ても(写真をクリックすると出てきます)、出身大学を書いてある例が殆どないのがよく分かると思います。
しかし翻って日本の場合、例えば大阪市会議員のプロフィールを見たりすると、これも意外に出身学歴は書いて無かったりします。というかそもそも殆ど何も書いてないのだけど。気になったので、ランダムに山形県議会や香川県議会の議員名簿を見たのですが、これらも別に書いてないですよね。当選何回とか所属委員会とか連絡先くらいしか書いてないです。
かろうじて、国会議員の名簿には最終学歴が載ってますが、これも各議員を見ていると、全然記載してない議員もいたり(顔写真もない)、結構いい加減だなって印象を受けました。国会議員名簿で面白いのは、この名簿への毎日のアクセス数が記録されているのですが、皆さん日々のアクセス数が1−5くらいですね。小泉純一郎首相ですら、昨日(1月31日)が15アクセス、その前は12アクセス、その前は11アクセス、累積(いつからなのか知らないけど)で1834アクセスでした。要するに誰も見てないのね。
だけど、こうして各議員をプロフやその扱いを眺めてますと、出身大学とか学歴とかそんなに重要に扱われているとは思わないんだけどな。小泉首相は慶応卒ですが、別に彼がどこの大学であっても、あるいは高卒であっても、だからといって評価が変わりますか?あんまり変わらないと思いますけどね。
学歴で思うのは、日本の大学ではそんなにマジメに勉強やってないことは誰でも知ってますよね。英文科出て英語で出来ない奴なんか掃いて捨てるほどいるし(殆ど全員といってもいいくらい)、法学部を出て法律の専門知識や技量がある奴なんか100人に一人もいないし、経済学部を出て最新の経済理論をキチンと説明できる奴なんかそんなにいないでしょ。だいたい勉強するために大学なんか行ってないでしょ。それは日本の常識でしょ。
だから日本で学歴を尊重するのは、ひとえに入試でしょ。あのクソ難しい入試を突破したという事実が大事なんですよね。だから卒業でも中退でもあんまり世間の評価は変わらない。早稲田なんか昔から「中退者で持ってる大学」て言われてるくらいですし。だったら、企業の採用でも、卒業なんかどうでもよくて、いっそのことドライに入試の成績だけで判断すればいいじゃんって気がしますね。現役でどことどこを受けてどれだけ合格したか、一浪してどれだけ合格したかと。そのほうが正確でしょ。どうせ大学行っても大したこと学んでこないんだしさ。
逆にバリバリ学んできたらきたで、鬱陶しがられるでしょ。「机上の学問で何がわかるか、現場だよ、現場!」って言うじゃないですか。そもそもアカデミズムを馬鹿にしてますよね。これは日本の一般市民だって同じでしょう。「学者先生になにがわかるか」みたいな感じね。それに、「僕が学生時代勉強が大好きでした」なんて言ってる奴居ないでしょ?「勉強っすか?いやー、そっちはさっぱり、、がはは」みたいな言い方こそが、日本人においては好感もって受け入れられているじゃないですか。田中角栄だって小卒の肩書が大卒以上に武器になったし。
これだけアカデミズムを馬鹿にしきっていながら、なんで学歴なの?って気はしますねー。本当に大学でキッチリ学問を積んできた人間だったら、逆に学歴なんかでは何も分からん、そいつの書いた論文や研究をみてみないと分からないという正しい態度になるでしょう。一般人は、「ガッコなんか、あんなものアテになるかい」って態度に出てるし。いずれにせよ誰もマトモに評価しようとしてないじゃないですか。誰が評価してるんだろう?
企業へ就職するときは指定校制度とかいってるから、大いに意味があるんでしょうね。でもなんで企業って応募者の出身大学を気にするのかね?やっぱりそれなりの差ってのはあるのでしょうか?確かにあれだけの難関を乗り越えてきたということは、それなりに知能レベルが高かったり、受験の馬鹿馬鹿しさをスパッと割り切って対処できる現実適応能力があったり、クラスメートに将来エラくなる人々がいるという人脈があったりという「何か」を持っている、という間接証拠にはなるでしょう。しかし同時に18歳になるまでに自分の人生の指針を決めきれなかった優柔不断さ、とにかくレールに乗っていきましょうという小市民的な保守性の間接証拠でもあります。「小利口ではあるが大物ではない」という、ね。
思うのですが、日本が学歴社会だというのは、2つの条件に基づくものと思われます。ひとつは、社会の中枢というか、エリートというか、比較的高収入で”美味しい仕事”は一定の高学歴をおさめた集団がメインストリームであること、これがひとつ。これだけだったら諸外国と大して変わらないし、いかに高学歴者がメインストリームであろうとも後から幾らでも入り込む余地はある。例えば、プロ野球の選手は、彼らの世界での高学歴に相当する「甲子園出場有名校の出身者」がメインストリームになるでしょう。これは必然的にそうなるでしょう。でも、だったら甲子園に出てなかったらまず絶望かというと全然そんなことないですよね。だから、付け入る余地は幾らでもあるし、”学歴”偏重にもならない。
これが学歴信仰になるためにはもうひとつの条件、日本社会の、特に高級ホワイトカラー層の人材流動性が低いことがキーになってるような気がします。要するに転職をあんまりしない。有名企業の幹部候補生とか、高級官僚、医師界、法曹界とかに入ったらもうあんまり転職転業をしない。流動性が乏しくなり、一生同じような顔ぶれで生きていくことになります。そうなると人間って「仲良しグループ」を作り始めるのでしょう。派閥ですな。でもって、同じような経歴、同じような出身階層とばかりつきあってると、異種交配を心理的に避けるようになり、似たもの同士で派閥を作る。だから学閥というものを作り始め、一流大卒者とそうでない人間とで分けて考えるようになるんじゃなかろか。
これってハッキリいってクソですな。今の日本を支える中枢連中が仲良しグループを作って遊んでられるほど、日本は安泰で牧歌的な情勢にあるわけではないです。でも、まあ、遊んでるんだろうね。「○○クン、嫌い、あっちいけ!」みたいな。いい国だよなー。
これを変えるのは2−3の法律を改正したらいいでしょう。公務員あるいは国から補助を受けて成立してる半公共団体の一定以上の高級ポストの選任は、必ず公募して決しないとならないということ、です。外国では結構ある制度だと言います。だって当然でしょう?税金を使うんですから、仲間内で適当に決めないで欲しいですわ。堂々と新聞などで募集広告をして広く人材を集めて決めて欲しいですな。だから、NHK会長募集、編集局長募集とか、東京大学総長募集とか一般公募でやりゃいいんです。でもって選任委員会にはその組織以外の外部メンバーが必ず過半数を超えるように組織し、選任過程は全てレポートし、情報公開し、疑義がある場合には司法的解決になじむようにする(裁判を起こせる)こと。また、採用条件に「日本国籍を有する」という条項を削除すること。外国人であろうが、有能だったらどんどん採用するべし。
荒唐無稽なことを言ってるようで、要するに、プロ野球やプロサッカーの監督と同じです。あそこは成果を出してなんぼの実力社会ですから、有能だったら日本人であろうが外国人であろうが構わない。北海道大学にクラーク博士の銅像があるように、昔は外国人でもどんどん登用していたじゃないか。警視庁長官とか、テロ対策の警備局長なんかは日本人じゃなくて、もっと先進的な国から呼んできて欲しいものです。外務省なんか殆ど外国人を使った方が役に立ちそうじゃないですか。交渉だって上手そうだし。英語が上手な日本人を雇うよりは最初からネィティブを雇ったほうがいいじゃないですか。せっかくの税金なんだから有効に使って欲しいもんです。それが出来ないのであれば、日本のお役所や公共団体というのは、プロ野球やサッカーほどにも実績主義ではない、一定の現実的成果を出すための純粋なゲゼルシャフト(職能集団)ではないということでしょう。ただの仲間内で居心地のいい「大きな家族」みたいなゲマインシャフトだということです。そして実際そうでしょう。
これは民間企業でも同じ。部長以上は一般公募して決しないと株主が承知しないようになればいい。株式の相互持ち合いが減っていけばいくほどそうなっていくでしょう。こうやっていけば、学閥作ったり、派閥作ったりして遊んでる場合じゃなくなりますよ。外部からボンボン有能な人材が入ってくるんですからね。
そっそ、それと警察なんかでも、「警察の威信」とか「威信」という言葉を使ったら100万円の罰金を科したらいいですな。警察は国民の生活の安全を守ればそれでいいの。あの集団の目的はただ一点、それだけ。それをなんか集団=大家族みたいに錯覚して、集団に人格があるみたいに思って、その集団の名誉とか威信とか言い出すから話が倒錯するのだ。だから、逮捕したけどあとで無実であることが判明したけど、今更そんなこといったら警察の威信が丸つぶれだから証拠を捏造してでもこいつには有罪になってもらおうみたいは話が出てくるんでしょう。「今更そんなこと言ったらメンツ丸つぶれ」だから、厚生省だってエイズの記録を隠匿してたんでしょう?およそ威信とかメンツとかいう言葉が出てきたときはロクなことにならないから、そういう思想そのものをブッ潰す。例え酒席であっても、威信、、とか口走った奴は罰金。3回罰金を喰らった奴は懲戒免職。
ここが変われば、おそらく日本の学歴信仰の半分はぶっ飛ぶと思います。なぜなら「君は過去にどの大学を出たか」なんてエピソードなんかどうでもよくなり、「今この瞬間君に何ができるか」だけが純粋の問われるようになりますから。で、出来なかった奴は即クビ。いいじゃないですか、どうせ、国民全体の0.1%も占めないエリート達の世界での話なんだから。
ただ、そうだとしても尚も学歴信仰が残るんじゃないかな?というのは、単なるゲームとしての勝った負けたの優越意識があるからです。自分の子供がいい学校に入れたら、それだけで「自慢できる」「カッコいい」という感情があります。いい学校に入れたからといって、だから将来は安泰というほど今の日本が甘くないことは誰もが知ってると思います。だから”実利”ではないんでしょうね。お受験なんか4歳とかそんなもんなんだから、”実利”が転がり込み出すのは遠い20年後ですよ。だから、実利でガンバッているのではなく、原動力になってるのは感情でしょう。自慢したい、自慢されたくないという、嫉妬と優劣意識。あとは、ブランド品を持ってると自分まで1ランク高級になったような錯覚を抱けるという、貧乏ったらしい自己拡大欲求ね。
自分で自分の人生を生きているという実感もプライドも持ち得ない悲しい人々が、ムキになってやってるしょーもないゲームの「採点基準」として学歴は機能しつづけるでしょう。これに対する特効薬は、即座には無いですよね。馬鹿につける薬はないって昔から言いますからねー。それに嫉妬心や優越感情は誰にだってありますから、これを排除するのは難しいでしょう。
だから、対策としては、嫉妬も優越もぶっ飛ぶくらい、圧倒的な快感でしょうね。前回の話の結論と期せずして同じような結論になるわけですけど、日常的な「快感」が少ないんじゃないんでしょうね。それがそもそもの問題のような気がします。日常が適度に気持ちよかったら、あんまりこんなゲームやらないんじゃないかな。
あとは同じように流動性を増すことでしょう。同じようなゲームをしている集団があるからこそ、そこにゲームの勝敗感覚が生まれるのでしょう。毛色も種類も違った連中がボコボコ周囲に登場し、また去っていくようになれば、自慢したくても同じゲームをやってないから自慢のしようもないですよね。例えば、日本でブランド品を買ってうれしかったとしても、それをオーストラリアにもっていっても誰も見向きもしないからゲームが成立せずムナしくなるし、アホらしくなるのと一緒です。子供がお受験に成功しても、隣に住んでるのがアボリジニの人だったら自慢のしようもないですよね。早くそうなったらいいと思いますよ。
だから、まあ、一口で言ってしまえば、似たもの同士の集団が続きすぎると、しょーもない遊びが流行るってことですかね。
文責:田村
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