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今週の1枚(04.01.05)
ESSAY 137/ベンチとホームレス
写真は、例によってゴーストタウンと化したクリスマス当日(25日)のシドニー
さて、日本帰省の話も去年で一応終わり。今年からまた新たなネタで書かねばならなくなったわけですが、「やれやれ、またネタ探しに週末苦しむのかあ、、、」という感じではあります。
連載も137回を数え、雑記帳時代の約100本をあわせれば都合240本弱。書きも書いたり。前回のエッセイの文字数をカウントさせてみたら1万字ありました。四百字詰原稿用紙で、改行も段落分けも何も考えずにベタに換算すれば、約25枚分です。それでも前回は写真がメインで文字はその説明だけでした。2回前のエッセイは文章メインだったので、こちらもカウントしたら1万7500字以上ありました。原稿用紙約44枚分。二回の平均をとれば34枚。これに全240本を掛けたら8240枚。まあ、特に年を追うごとに長くなる傾向があり、最初からこんなに長いわけではなかったので、約半分だとしても4000枚。改行とか段落分けとか適宜入れて増量すれば約5000枚。大体原稿用紙500枚書けば長編小説と呼ばれるようですから、長編小説10本くらいは書いてる計算になりますな。
これだけ書いて(当たり前だけど)一銭にもならないというのは、ふと考えると、「何やってるんじゃ、俺は」って気にもなりますね。膨大なエネルギーを無駄に遣っているのかも。これだけ書くエネルギーがあれば、ねえ、なんかもっと他にやりようがあるんじゃないかって気もしますよね。それこそ短編小説を100本くらい書いて賞に応募するとか。100本出せばどっかに佳作くらいにはひっかかるような気もせんでもないです。数撃ちゃ当たるんじゃないかって。
でも当たらないでしょう。ヘタな鉄砲は、やっぱり一発一発がヘタクソだから、結局何発撃っても当たらない。それにこんな駄文だからこそこれだけ書けるのであって、小説とか賞狙いとかになると妙に緊張してしまって筆が進まなくなるのが目に見えています。また、そんなに書きたいような小説もないし。トドメは、仮にそれで何かの賞をとって見事作家先生としてデビューしたとしても、結局今以上に書くハメになるわけですね。あまり楽しそうな未来ではないです。
だから別にお金になる必要など無いのです。自分が書いてて楽しく、そしてまた読んで幾ばくか楽しく思ってくれる人がいたら、それでOKなのだと思います。その程度のことをやってるわけですから。ただ、その程度のことに、毎週毎週土日をドヨヨーンとした気分で、歯ミガキチューブの最後の一回分をひねり出すように必死にならんでもいいよなって気もします。
今までの分をボツボツと読み返してみると、どうも性格なのかどんどんエスカレートしてきてますよね。量も増えてますし、ヒネリも1回ヒネリじゃあありきたりで面白くないにせよ、3回ヒネリや4回ヒネリくらいになってきてます。ここまでくると過剰サービスという気もしますし、読むのもツラかろうとも思います。
というわけで、今後の長丁場を考えたら、あと何百回続くのかわからないですけど、カロリー半分くらいのライトバージョンを目指したいと思います。「あれ、もう終わり?」くらいの。
さて、話は変わります。ちょっと前に、日本にはベンチが少ないと書きました。その後、日本のベンチが少ないのは、ホームレスの人たちが占拠してしまうから意図的にそうしているのでは、という御指摘をいただきました。そのために、わざわざ現存するベンチを撤去したりする例もあるとか、ないとか。
これねー、今更言うのもなんですけど、書いてる段階でそうじゃないかとも思ってたんです。でも、それまで書いてたら長くなるからと思って削除したんですけど、やっぱり書いた方が良かったかしら。でも、そうすると、「もっとヘビーにすべきだった」という方向になって、今言ったことと全然反対になってしまいます。だから、やっぱり、最初はちょっとスカスカのボケボケ気味にしておいて、皆さんのツッコミを待つという方がいいのでしょうね。なんか、その方がインタラクティブでええやん?って。
で、「ホームレス対策としてベンチが少ない」ということですが、こっちの方が「単にドン臭いからベンチを作り忘れた」というよりも、もっとモンダイだと思います。視点はいろいろあるのですが、@そもそもホームレスの人がいること自体、Aホームレスの人に適切に対応してるか、Bホームレスの人が公衆のベンチに座ってなぜ悪いのか、Cベンチをなくして追い払うという発想の問題性、などなどです。
直感的にはよく分かります。そりゃホームレスの人ってとりあえず臭い人が多いですし、普通の人と一緒にベンチに座るにはインパクトありすぎる場合もあるでしょう。特に完全に公共の場ではなく、個人商店などがお客さんの為に設置してるような私的なベンチの場合、望まれない人ばかりが座ってしまって、結局自分の商売までもが圧迫されてしまったらモンダイです。それに僕は長期的な視点でモノを言ってますが、商売してたらとりあえず今日明日の売上が大事だから、即効性のない議論は無意味でもあるでしょう。だから、色々言いつつも、僕も同じ立場だったらベンチを撤去するでしょうね。今日明日の方策としては。
個々人のレベルで、しかも今日明日の対策としての話だったらわかりますが、公的なレベルで、長期的展望にたった場合、単にベンチを撤去してOKという問題ではないです。それは単に臭いものにフタをしてるだけで、「対策」という名にすら値しない。
そもそも原理原則論で言えば、公衆のベンチに誰が座ろうとも本来自由であるはずです。それが定職を持たない失業者であろうがなかろうが、です。むしろ、失業して人生のハードな局面に立たされている人にこそ、公的な安全ネットが機能しなくてはならない。足取りの重い人にこそ、ベンチは与えられなければならない。ただし--。
ただし、当然のことながら一定の調整は必要とされます。他人に不当な迷惑をかけるような行為はなされてはならない。例えば、ベンチに腰掛けている他の人にうるさくつきまとったり、聞こえよがしにイヤミやいやらしいことを言うとか。こういう行為は軽犯罪法違反等でもありますから、犯罪として排除されねばならない。また、単純に悪臭がひどいという場合も、犯罪ではないですけど、何らかの対処が望まれます。だって、その人が座る分以上に他のベンチを使用不能にしているのですから。
問題はこの調整をどうするか、だと思います。第一に、いわゆる失業者対策ですね。そもそもホームレスの存在を減らすこと。失業者を減らすかどうかは、これは一般に国の経済政策に関わることです。要するに景気を良くするとかそういうことです。ただし、今現在日本は「痛みを伴う改革」をやってる最中であり、大量の失業者が出るのはある種当然でもあり、本当のことを言えばまだまだ少ないくらいです。それに、ある社会が時代の進展にビビットに対応していけばいくほど、新陳代謝は激しくなり、昨日までは必要だったけど今日からは不要になるという部分もコンスタントに出てきますし、それを血行の循環よくチャッチャと代謝させていけば、どうしたって一定の失業者は出る。ある意味、快食快便のように、社会が健康であればあるほど失業者というのは発生する。だから、これをゼロにすることを本来の目的にすべきではない。
というわけで、失業者は常に一定数存在する、いや存在しなければならないというのが正しい前提だと僕は思います。まずこの前提を、今の10倍どうかしたら100倍くらい厳しく認識することが最初の一歩でしょう。健康であればあるほど、汗やウンコはちゃんと出るということです。それが自然の摂理、好ましい生理であるならば、当然対策の方向性も変ります。つまり、「あってはならないモノが生じたので、慌てて排除する」のではなく、「当然あるべきものが生じたのだから、しかるべく対処する」と。
ここをしっかり認識していたら、そもそもホームレスの数は増えないでしょう。つまり失業者→ホームレスと単純になるものではない。そもそも、多少失業したくらいで、いきなり住むところが無くなるという社会システムはおかしい。ホームレスのパターンもいろいろあるでしょう。インドの行者のように本来的にそれを志向している筋金入りの人もいるでしょうが、ついこないだまでは勤続30年のマジメなサラリーマンだったお父さんもいるはずです。こういう人でも、社会や時代が変ればクビになること、それ自体は仕方のないことだと思います。クビになり方とか選別の過程の公平性とかそういった個別的な問題はあるでしょうけど、全体としてみれば不要な人材は首になるのは健全といってもいい。ただ、首になるのはいいとしても、そのあとなんでホームレスにまでならねばならんのか、です。
これはこれまで折に触れ書いてきたことに繋がっていきますが、日本の全てのシステムが、スタンダードに成功している人のパターンだけをモデルにして、そこから漏れた人についてはろくな対処をしていないことに基づくのでしょう。公的に言えば失業保険のケチ臭さであり(何度も言ってますが西欧平均からみて福祉について特に優れているわけでもないオーストラリアですら、やることやってれば失業保険は無期限で出ます)、無収入になってもお構いなしにかかってくる公租公課(住民税とか健康保険や年金)であり、無収入による減免申請の門の狭さであります。また、準公訴公課ともいうべき公共料金。電話料金とかガス代とかですが、これも失業したからといって待ってくれるわけではない。同じく教育費。奨学金制度も申請すれば一定の資産証明さえあれば誰でももらえるというわけでもない。純粋に私的な部分でも、スタンダードから漏れた場合、つまりケチな賃貸アパート一部屋借りるだけでも、やれ所得証明やら住民票やら保証人やら要求される。そもそも、いい年した大人が昼間っからブラブラしてたら近所から白い目で見られるという。つまり仕事をしていない状態をもって「ブラブラ」というネガティブな風景として映ってしまうという、これはもう脳髄の芯まで染み込まされた固定観念があります。
つまり、日本の生活システムというのは常に一定限の収入があることを前提にしている。前提にしすぎている。なんかの事情によってやむを得ず収入が途切れるという事態を、あまり当たり前のことだとも思っていない。
これがそもそもおかしい。前述のように、一定の失業者が存在するのは健康な社会だったらむしろ当然であり、それを前提に全体のシステムを組まねばならないはずです。官民あげて、それをしてない今の日本のシステムは、はっきり言って「トイレのない家」みたいなものです。一昔前、女神のように崇められている女優さんとか、「吉永小百合は絶対ウンコなんかしない」みたいなチャイルディッシュな言い方をするムキがありますが、それに似ている。「まっとーな日本人だったらぜったいウンコなんかしない」、だからトイレなんか要らないって感じですよね。アホかと思う。
だからどうなるかというと、健全な社会の生理現象として失業者が出ると、その人が単なる失業者、求職中の人という段階に踏みとどまれずに、そのままホームレスまでいってしまいがちなのですね。日本は大改革が必要だとか、痛みを伴うとか言ってるわりには、そのあたりの整備が整ってない。ヘンな言い方ですけど、これじゃあ安心してリストラすることもできないですよ。ホームレスになるかもしれないと思ってたら、人道的になかなかクビなんか切れるものではない。だから、リストラも進まない。失業したってそれが「よくあること」であり、なんとかなる、なんとかすると社会全体で気合入れている国だったら、安心してリストラできる。だからガンガン企業も公共団体もシェイプアップしていく。効率的・機能的であるべき組織はどんどん尖がって、戦闘能力が高まっていく。そういう国々と国際競争していって勝てるはず無いですよ。どうなるかというと、日本という国それ自体がリストラされちゃうということです。世界的にみて、もうこんな国要らないよねみたいになっちゃう。まあ、極論ですけど、傾向としてはそうでしょ。
これが根本的な歪みだと思うのですが、これを正すのには随分と時間がかかるでしょう。ただ時間さえかければ何とかなるでしょう。絶対不可能というものではない。
でも、その根本になるべき一人一人の物の見方、これを変えるのは、1分あれば出来ます。何十年も必死に考えつづけてきた結論であるとか、骨の髄まで洗脳されてしまった人だったらともかく、大体においてこれまでろくすっぽ考えてこなかっただろうから、一旦立ち止まって全体的に、系統的にモノ考えたらすぐに話はつく、そういう人も多かろうと思いますよ。
失業者がいるのは必ずしも悪いことではない、しかしホームレスが居るのは、良いことではない。好きでホームレスやってる人はともかくとして(実は資産数十億あるけど趣味でやってる人とか)、多くは選択肢がないからホームレスになっているのでしょう。だとしたら選択肢を増やせばいいです。それは例えば、ホームレスの人を収容するレフュージーを増やすであるとか、民間の慈善事業の活発にするかです。シドニーにもホームレスの人はいるのですが、日本ほど数が多くなく目立たないのは、これらの底辺の活動が厚いからでしょう。
あと、どうしてもホームレスになる人が一定限度出てきてしまうとするならば、そういった人達とうまくつきあっていく方法を考えるしかないです。ホームレスの人がなぜ困るのか迷惑かというと、別に襲ったり、犯罪を犯したりするわけではなく(それどころか暴行を受けたり被害者的立場にたつ場合も多い)、単純に身なりが臭いとか不潔だとかそういったことでしょう?言ってみればそれだけです。
だったら、収容して寝泊りさせる施設を作るのは大変かもしれないけど、せめて身なりをこざっぱりしてもらえばいいじゃないですか。例えば自由に使える公的な風呂やシャワーを設置すればいいじゃないですか。単位平米あたりの処理人数は高いし、コストなんか知れたものでしょう。服装にしたって、オーストラリアでやってるようなクロージング・ビンを作ればいい。つまり皆の要らなくなった古着や靴などを寄付するデカい箱が街のあちこちにあるわけで、それをセント・ビンセントとか、サルベーション・アーミーとか、スミス・ファミリーなどの慈善事業体が回収して、そのまま恵まれない人に渡したり、あるいは古着ショップを開店して売上を慈善事業に使うというシステムが行き渡っています。散髪だって、修行中の理容師、美容師さん達がボランティアでやる場所を作ればいいじゃないですか。
あ、こういうと、「風呂屋さんの営業が妨害される」とか「美容室の営業が圧迫」とか言う人いるけど、そんなの枝葉末節じゃないですか。もちろんある種の調整は必要かもしれない。だからといって何もしないという選択になることはないでしょ。それに、そういう場所を作ったら、利用するのはホームレスの人が多かったりするわけで、一般の顧客層とバッティングして客の取り合いになるようなことも少ないと思いますよ。
これらのことで、大分身なりもこざっぱりするでしょう。そりゃボロいかもしれないけど、少なくとも今みたいに半径1メートルに近づくのが躊躇われるようなこともないでしょう。これらの施策がいきわたっても、それでも尚且つ「他人に迷惑」レベルに悪臭を放ってたりする場合は、毅然たる処置を取るしかないでしょう。”強制お風呂命令”みたいなものです。それは法を改正してでも実行すべきでしょう。
さて、これだけホームレスの皆さんがこざっぱりしてくれたとしても、尚もホームレスの人だから一緒にベンチに座りたくないって人もいるでしょう。でも、そんな馬鹿はほおっておけば宜しい。少なくとも俺は座ります。
これが一番の問題なんだと思います。差別の根源。なんだかよくわからないけどとりあえず差別されてるから差別しましょという、日本古来のエタ・非人、いわゆる部落みたいなものです。なんでこれらの人々が差別されているのか、その理由知ってる日本人がどれだけいるのか。いるわけないよね。だって理由らしい理由なんかろくすっぽないんだから。理由らしい理由を強いて見つければ、「弱かったから」くらいしかないですよ。弱かったから、皆によってたかってイジメられ、ろくな仕事にもつかせてもらえず、皆が嫌がるような仕事しか出来ず、理不尽にも社会の底辺に押しやられたというだけでしょう。
差別とは、実際の現場では、差別されるべき理由があるかどうかなんかどうでも良くて、「差別されてるから」というのが最大の理由になったりします。差別されること、イジメられること、理不尽にかわいそうなこと、それ自体が既に「罪」であり、それだけで十分にイジメられる理由になる。”理由”として改まって認識されるわけではないけど、現実的な暴力を喚起するだけの十分なキッカケになりうる。
人間は残酷なもので、イジメられている人、ミジメな状況になる人をみると、妙に嗜虐心が湧いてきて、さらにイジメたくなるものです。誰もがそうなるとは言わないけど、そういった悪魔的な心は誰しも多少は持ってるはず。人間というのはろくなものではなく、他にも、悪魔のような獣性を持ってる。奪いたい、殺したい、犯したい。そういったケダモノの部分をどうコントロールできるかどうかが文化のレベルを示すのでしょう。差別やイジメがあるのが何で社会として恥ずかしいかというと、そういった獣性を十分にコントロールできていないから、文化レベルの程度のが低いから恥ずかしいのでしょう。「社会」は個々の「人間」に置き換えられます。こういったケダモノ性を抑えきれなかった人間は、人間のレベルが低いとして周囲から糾弾され、軽蔑される。それと同じ。
もし、ホームレスの人が、悪臭とか悪罵などの客観的被害も何ら与えず、単に大人しく座ってるだけであっても、それでもイヤだ、居ないで欲しい、なんとか排除して欲しいと思う人がいたら、はい、あなたは僕の”敵”です。
と、同時に、ホームレスの人に炊き出しをやってるのを見て、「あんな風に甘やかすから付け上がるんだ」「マジメに働いていないからああなるんだ」と吐き捨てるように言う人も、僕の敵です。
前者は、単に「得体の知れない」人と同席したくないという心情が根源になっているし、あるいはホームレスというものを一般人とは根本的に違うものだと見なしている。あなたのどこが僕の敵かというと、その幼稚きわまる世界観が敵なんです。「得体の知れない人」だったら、ちょっと外に出たら幾らでもいます。海外に出れば尚のこと居ます。というか、世界は基本的に得体の知れないところなのだ。しかし、それに接触していかないと生きていけないのだ。だから、得体の知れないものと巧くやっていくための、本能的な防衛技術とか直感とかそういうものがあるんでしょ。ジャングルに住む動物達のように。もし得体の知れないというだけで、もうビビッて何も出来なくなるのだとしたら、それはあなたに生き物としての基本的な「生きる力」が乏しいことを意味する。自然の摂理に従えば、悪いのはあなたの方だし、滅びるべくはあなたの方だ。ただし、そこまで極論はしないけど、あなたを基準にして社会のシステムを構築することは出来ない。それをしたら妙な社会になってしまうのだ。なお、これは健常者をスタンダートだとする傲慢な思想を言ってるのではない。そのくらいわかりますよね?
後者は、「まじめにやってたら失業しなくて済むはず」というこれまた救い難い幼稚な世界観が敵です。現実はそんなことない。いくらマジメにやってても、いくら正直にやってても、いくら努力しても、なぜかめぐり合わせが悪いという人生のパターンもあります。これはもう絶対ある。パチンコと一緒。ただ、人生は一度しかないから自分が体験できるのは1パターンだけ、しかも似たような種族に囲まれて生きていたらそれが全てだと思ってしまう。パチンコのようにいろんな場合があることがわからない。「まじめにやってたらパチンコで負けるわけがない」と言ってるのと同じくらいヘンなことを言っているのだ。30歳過ぎてそれがわからない奴は知能障害だといっても言い過ぎでもないと思う。
前者も後者も、これだけだったら可愛い思い違いに過ぎないのだけど、集積すると社会のあり方を決めるパワーになる。ある意味では、日本をここまで息苦しく、こう着状態に陥れている張本人はあなた方だと言ってもいい。あなた方は、無責任に差別する、排除する、軽蔑する。その結果どうなるかまでは考えない。だから無責任なのだけど。
このようにスタンダードを無邪気に設定することによって、「こういう不運でミジメな奴はイジメちゃえばいいのよ」という思想を静かに広め、人々はイジメられたなくない一心でスタンダードを追い求め、生活の最低水準は不必要に高くなり、追いかけるだけで四苦八苦することなり、ラットレースのネズミ状態に追い込まれる。その見返りは何かといえば自立心と創造性の喪失。また、無条件に人と人との間にバリアを張るから、人間としての共感性も連帯感も鈍磨させ、コミュニケーション能力を極端に落とし、結果として国内的には引き篭もりを量産し、国外的には人間力レベルで通用しない日本人を量産する。さらに、イジメられ、迫害された人は、結局どうなるかといえば、寄り添いあって防衛力を高めることになり、集団化が進み、社会にゲットーやスラム街という治外法権の場所を生み出すことになる。そこを拠点として犯罪は自己増殖し、手のつけられないような治安悪化を招きかねない。マジメに生きてきたお父さんがホームレスに転落し、人々がどう冷たくあたるのか目の当たりにした子供は、この世界をどう学ぶか。
こういう連鎖というのはキリがないのだ。最初は無邪気でシンプルな思い違いであったとしても、撒かれたタネは発芽し、増殖を繰り返す。そういったところまで思い至らない。はっきり言って30過ぎて(本来なら20歳)、このあたりのことが(皮膚感覚的にせよ)分からないなら成人でも、社会人でもないと思う。そして同時に、ココさえ撃破したら悪循環が好循環に変りうるポイントでもある。だから”最重点攻撃目標”でもあるから、敢えて「敵」と表現したのです。
話をベンチに戻しますが、そういったことを考えると、単純にホームレスを人目のつかないところに追い払ってそれでヨシとするのは解決でもなんでもない。もちろん、最初に述べたように、個々の商店レベルでどうなる問題ではないので、僕がいってるのは国家百年の計としてです。1,2年でどうにかなるとも思わないけど、だからといって何もしない何も考えないでいい筈もないでしょう。災い転じて福となすとも言いますが、考えるいいキッカケですらあります。
そういう意味で、やっぱり公的な場所にはベンチが欲しいですね。たとえ、それでホームレスの人々が集まって悪臭を放ったとしても、それこそが僕らの前に突きつけられた課題なんだから、毎日毎日それを見ながら暮すくらいでもいいかもしれない。もちろん耐えられないでしょうし、短絡的に逆の反応が出るから良くないかもしれません。だからなんとも言えない部分もあるんだけど、問題用紙をどっかに捨てて、それで問題はなかったことにするってのは、ちょっとねえって思います。それって解決能力がないってことだし、解決能力がないことすら気づかないことにしましょうってことでしょ。
ああ、あとこれは言っておかねばならんでしょう。可哀想な人を目の前にした場合、人は自然に助けたいと思いますよね。惻隠の情。ただし、常に助けられるとは限らない。忙しかったり、自分の能力が足りなかったり、問題の根が深すぎるとか。むしろ助けられる場合の方が少ないと思います。助けられなかった事実から、人は自らの無能さ無力さを思い知らされます。それは不愉快なことでもあります。そこで、人間というのはズルいというか、心の防衛機制として正当化しようとします。「すっぱいブドウ」みたいなことですが、助けられなかった自分の無力さを考えるのは苦痛だから、「あんな奴は助けなくていいのだ」「可哀想じゃないんだ」と逆に何もしない自分を正当化しようとします。心優しい人ほど意外とそうなりがちだと思います。優しい日本人は「無能な奴は死ね」とまでは思えないだろうから、むしろこのパターンの方が多いかなって気がします。気持は分かるんだけど、ただ、それだけはやっちゃイカンでしょう。何が出来なくても仕方ないから(今のところは)、少なくとも無力な自分くらいは自分で受け入れて始末しよう。自分の心に嘘をつくために、「あいつらは、いいんだ、別に」みたいな言い方はせんようにしましょう。あなたは本気ではなくても、一回口を出た言葉は一人歩きするぜよ。
それらの思いをひっくるめて、ベンチが少ないぞ、もっと増やせと書いたのですね。
でもあそこでこれだけ書いてたら、もっとヘビーになってしまうし、そもそも年頭の誓いもどこへやらで、また今回も結構長くなってしまいました。いかん、もっとライトにせねば。
文責:田村
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