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今週の1枚(03.12.08)
ESSAY 133/ 日本帰省記 (その2)
写真は、京都駅前から烏丸七条あたりの風景。
日本帰省記の第二回目です。
前回は山中温泉の写真を中心に、「やっぱり美しい日本」を見ていただきました。写真を楽しんでいただいた旨、何人かの方からおっしゃっていただきました。ありがとうございます。喜んでもらえて僕もうれしいです。それとちょっと関連するのですが、日本にいたときもデジカメを持っていると、「それ、何万画素?」とよく聞かれ、「?」というちょっとした違和感を抱きました。なんで、そんなに皆さん画素数を気にするのかなと。また、メーカーの宣伝に乗せられてはいないか?と。
デジカメは出始めの頃から使っておりまして、もうかれこれ7年以上使っていますし、撮った写真も数万枚あると思いますが、別に画素数をそんなに気にしたことはありません。というか、あんまり関係ないです。今のデジカメも、オリンパスのCamedia Zoom 700というもので、2年ほど前に6−7万円くらいで購入したもので、今だったら実売価格3万前後だと思います。あまりに画素数を聞かれたのでこの間調べたら200万画素でした。ただ200万画素まるまる使ってないですよ。「まあまあ高品質」という程度の設定にしてあります。アマチュアユースで、パソコンで見るならそれで十分でしょう。
画素、英語で言えば resolution(解像度)にあたるのでしょうか、というのは、確かにカメラメーカーからしたらキャッチーなウリになりやすいので、日本でもガンガン宣伝してましたけど、カメラ選びや実際に撮影するときにはそんなに大きな比重を占めないと思います。そりゃ、10万と100万じゃ違うでしょうけど、200万も400万も現場においてはそんなに変りはないんじゃないか。僕もアマチュア以下のレベルでしかないのでそんなによくわかりませんが、写真を構成する要素は沢山ありまして、僕レベルですら幾つか思いつきます。まずシャッターの堅牢さ、レンズの集光力あたりが大事であることはよく言われます。その点でNIKONが抜きん出ているし、中古になってもNIKONだけは値が落ちないといわれます。ただデジカメだとどうなのかは知りません。
あと、色調。今使ってるオリンパスも綺麗に撮れるのですが、色調が一番不満です。色が貧しいし、赤系が落ちます。青っぽく、冷たい色になります。以前使ってたのがコダックのもので、色のコダックと言われるらしく、確かに色は素晴らしかったです。色ってのは、単についていれば良いのではなく、その色によって得た感動(桜が綺麗とか)をそのまま伝えられるかどうかだと思うのですね。伝えられなかったら写真なんか撮る意味ないですよ。ホライトバランスで調整すればよいのでしょうが、いちいち現場でやってられないし、やったところで色の鮮烈さと感動で落ちます。「うーん」とか思いながら、日々使ってますし、なるべく色が冷たくならないような形で撮ろうと思ってます。
下の写真は、もう6年以上前の今週の一枚に使った写真です。コダックのカメラで撮ったもので、古い機種ですから、画素的にはお話にならないくらい解像度は低いですが、温かみのある色調がまるで絵画のような美しさをかもし出してます。実際に僕がこの風景を見たときの感動はよく伝わってると思うのですね。このページの他の写真は現在のオリンパスで撮ったものですが、僕のいう「色が冷たい」という意味がなんとなくおわかりでしょうか?綺麗に、精密に撮れればいいってものではないということですね。今度買うとしたら、画素は200万くらいでいいから、色調がナチュラルで、精密さが冷たさにならない機種を選びたいと思います。ただし、こういうことってカタログに載ってないんですよね。使ってみないと分からないところがツライところです。
しかし色以上に大事なことは、ブレないことでしょう。いくら画素数が巨大でも写すとき手でブレたら何の意味もないです。でもブレるんですよね。殆ど全ての写真でブレてるといって過言ではないくらい。ブレがたまたま少ないときに、すごい綺麗な写真が撮れます。写真に詳しい人がいってましたが、予算10万あるんだったら、3−4万は三脚に使えというのが分かります(使ってないけど)。実際にはこのピントとブレが全てと言っていいくらいじゃないでしょうか。今回も沢山写真を撮りましたが、もう殆どがボケボケで使い物になりませんでした。
ピントが合うかどうかって物凄く大事なのですが、デジカメのファインダーって概して小さくて、見ても合ってるんだかどうか分からないです。ましてやカメラの裏側のモニターでは益々わからない。ファインダーがしっかりしてるものがいいなあと思う所以です。あと、シャッタースピードと露出。明るいところに露出を合わせればシャッタースピードは速くなるから、ブレる度合いは少ないです。しかし、露出を上げすぎると色が飛ぶんですよね。僕のオリンパスのカメラは、自動露出してくれるのですが、なんか不自然に明るくなろうとする傾向が強いので、場合に応じてマニュアルで露出を下げてます。そうでないと、時として白っちゃけたアホな写真になりがちです。このあたりの露出とかシャッタースピードとか、あるいは絞りとか、実際に撮る時にはメチャクチャ重要です。綺麗な写真を撮りたいなと思ったら、購入にあたっては、画素なんかに振り回されずに、現場でそのあたりの調整ができるものがいいと思います。
まあ、実際問題としては、同じ場所で一枚だけ写真を撮るのではなく、数枚撮れということですね。デジカメなんだし現像代掛からないのですから、できるだけふんだんに撮っておくということですね。そのうち一枚くらい偶然ピントも露出も合ったものが出てくるでしょうという「下手な鉄砲方式」をオススメしますし、僕もそれでやってます。
下の二枚の写真は、ほぼ連続して撮ったものですが、全然違うでしょう?小さな画像だと分からないけど、クリックして大きくしたら右のものはまるで使い物にならないことがよく分かると思います。露出オーバーで色は飛んでしまってるし、ピントもボケボケだし。左の写真はドンピシャにハマってますから、瓦の冷んやりした質感や、空気の澄明な感じまで伝わってきます。ほとんど数秒くらいの差で、続けざまに撮影してもこのくらい出来に差があります。だから、「枚数撮れ」というのが実践的には一番役に立つ教えなのだと思います。
あと、望遠ズームは僕は大好きですから良く使います。単に遠くの物が近くに写るだけではなく、距離感がぐっと圧縮されて面白い写真が撮れるのですね。上の大きな写真は、京都駅のビルの上のほうから望遠で撮ったものですが、斜め俯瞰で500メートルくらいの距離が圧縮されて、ちょうど昔の屏風絵の「洛中洛外図絵」みたいな構図になっていて面白いでしょ。
さて、素人のしょーもないカメラ談義はこのくらいにして、日本帰国時の感想です。
うーん、10日いるだけでしたがコマメに見ていくと、色々と感じるところはありました。脈絡なく、断片的に思ったものも多いので、とっちらかった文章になると思いますが、思いつくままに挙げていきます。
まずですね、4年留守にしている間に色々聞かされていた「今の日本はこんなだよ」という事柄。例えば、猫も杓子も携帯電話を持っていて、電車のホームや車内では皆がいっせいにパコパコやってるということとか、得体の知れない精神病質的な事件が多く治安も悪くなって恐くなったとか。この二点に関しては、僕の「期待」が大きすぎたのでしょうか、別にそんなことないじゃんって感じました。
まず携帯ですが、10人座ってれば8人は携帯メールを打っているかのように勝手に想像していたのですが、いいとこ一人か二人くらいです。やってない人の方が圧倒的に多い。この点は注目してましたので、主観的な印象に流されないように、いちいち電車や公共の場に出て行くたびに人数数えて比率をチェックしてましたから、そんなに間違ってないと思います。やってなかったよ、別に皆さんそんなに。そりゃやってる人はそこかしこに居ましたけど、単純に数値で出したら10-20%くらいでしょ。右の写真は平日の午前中に乗ったJR神戸線の風景ですけど、これを見ても分かるけど、誰もやってないじゃん。
だってさ、まず実年層から高齢者の人はあまりやってませんよね。大体が若い人。でも今の日本は高齢化社会だから、中高年がやってなかったらそれでもう過半数割れでしょ?絶対少数派になっちゃうでしょ。「中高年以上は人間としてカウントしない」というルールがあるなら別ですけど。
でも、もしかしたらそういうルールってあるかも?って気がふとしました。日本人のお稚児さんロリータ趣味というのは事あるごとに書いているけど、これもその一環なのでしょうか。若い人の動向だけが日本社会の動向じゃないんだけど、なんとなく若い層に視線のファーカスを合わせてしまい、中高年層は見えていても視界から除去してしまってるんじゃないかな。でもこれは、日本ローカルな物の見方でしょう。オーストラリアではそうではないし、オーストラリア的に馴染んだ僕の感覚からしたら、女子高生とかそこらへんは社会人予備軍だから、社会の動向を考える場合にむしろ頭数に入れない。あのあたりの年齢の人間が何を着て、何を考えて、何をしようが、そんなものは社会のメインストリームからしたら関係ない。自活も出来てない無力な世代の動向が社会全体をどうこうしちゃうほど、社会というのはヤワな存在ではないでしょう--というのがこっちの一般的な通念だと思うし、僕もそれが当たり前だと思います。
ただ、携帯電話が二つ折り式のものが主流になったから、掌から上半分がピョコンと飛び出るでしょ。あれがなんとなく、聖徳太子が手で持ってる棒みたいに見えて、なんかおかしかったです。あ、あそこにも聖徳太子が、あ、ここにも!ってな感じ。
ちょうど右の画像のようなイメージですね。
ちなみに、あの聖徳太子が持っているあの板切れみたいなモノはなにかというと、「笏(しゃく)」というそうです。調べてみると、本来は儀式用に使ったらしいのですが、紙を貼り付けてメモ帳代わりに使ってたとか。まあ、そういう意味では、今の携帯と似たようなものだったのかもしれません。本当は30センチくらいあったそうで、だから「しゃく(尺)」と呼ばれているとかいないとか。
右の画像も、携帯っぽく見せるために、ちょっとイタズラして笏の長さを短くしてます。クリックすると本物が出ます。
治安が悪くなったという点もですね、結構期待して、ドキドキしながら「アブなそう奴、いるかなー?」って見てたんですけど、そう思って探すと居ないもんですよね。肩透かしでした。それほど深夜の繁華街とか徘徊したわけではないから分からないですけど、でも、深夜の繁華街がリスキーなのは万国共通ですからね、別に珍しい話じゃないし。
単純に町を歩いている印象でいえば、全っ然、恐くなかったです。この”全っ然”度ですが、オーストラリアよりも恐くなかった。およそリスキーという気が全くしない。オーストラリアにもう10年もいるわけですけど、やっぱりオーストラリアに居るとき方が緊張してたんだなーって思いました。もうごく自然に、ほんとにごく軽くですけど、ガードしてたんだなあと。日本だと、もうガード自体が要らないという雰囲気があります。
だから、まあ、この日本の感覚を基準に考えれば、そりゃ海外は恐く感じるだろうよ、オーストラリアでもあったとしてもそう感じるだろうなと改めて思いました。やっぱり海外に出れば勝手もわからないし、言葉も、システムもわからないから自然に緊張しますし、ガードも高くなります。それが段々、「ああ、いい人が多いな」と実感し、別にそれほど恐くもないことが分かり、安心してリラックスできるようになります。かなりガードは下がっていきます。でも、完全にゼロにはならないですよね。「海外だあ!」ということで、最初にガード値100の緊張感を持っていたのが、徐々に50に下がり、20に減り、最終的にはほとんどあるかなしかの感じになるけど、無にはならない。犯罪とかそういったトラブルはあって当たり前だと思いますし、それがビビってた程差し迫った危険ではないということが分かりはするけど、「あっても不思議ではない」という最後の一線はいつまでもキープします。
そういった最後の一線のリスク管理感覚というか、ガード意識が、日本にはない。こんなに無くていいのか?ってくらい。オーストラリアですら、レストランでゴハン食べてるときも、バッグをひったくられないように無意識に取られにくい位置においたり、始終身体の一部に触れているようにしたりするけど、日本だとそれも不要ですよね。マクドナルドとか、スターバックスとか先に自分のカバンを置いて席を確保してからカウンターに注文に行ったりするもんね。ノーリスク感覚ですよね。「すごいもんだな」と結構感心しました。
オーストラリアでは、どんな人がいるか分からんです。1000人中999人は善人で、その多くは日本人よりもはるかに善人度の高い人々です。そうであったとしても、1000人中1人、いや一万人に一人、とんでもない奴がいるかもしれない。自分の常識とか論理とかでは測れないようなブッ飛んだ奴がいるかもしれない。例えば、ジャンキーなんか普通にいるし、あるいはアル・カイダ系のテロリストやその予備軍だって、シドニーには普通にいるでしょう(先日摘発があったけど)。そういった”ワルイドカード”の存在というのは絶対にあると思う。それがある限り完全にガードをおろすことは出来ないです。あるいは犯罪ではなくても、簡単な交通事故を起こしたときでも、その後の警察や保険などの手続を不案内のままやるのはテンションかかります。はたまた、それほどの”事件”でなくても、バスや電車に物を置き忘れて遺失物係に問い合わせるだけでも、異国では精神的にキツく感じるでしょう。
ただし、それが不快だというわけではないです。そんなん当たり前でしょと思うだけです。治安感覚というのは、服装と寒さの関係に似てるのかもしれません。気温が15度でも下着一枚だったら寒く感じるけど、気温が5度でも防寒装備をきちんとしてれば寒くはない。きちんと適切な装備をしていれば、不安感も少ないし、気分も引き締まるし、適度なテンションがむしろ心地よくすらあります。しかし、無防備だったら、些細なことにも不安を覚える。そういうことだと思います。
オーストラリアで薄着とはいえ服を着てそれなりに対処しようと無意識に構えていた自分が、日本に戻ってきて感じたのは、お風呂に入ってるみたいに素裸でいいのねという感覚であり、ひるがえって「ああ、俺は服を着てたのか」と逆に認識したということです。そういう意味で、日本が物騒になったとかいっても、”全っ然”って思えたわけです。もう、町のどこに居ても目をつぶって眠りこけてもいいくらいに楽なもんだなと。
ですので、日本が恐くなったというのも、「そりゃ裸でいたら恐くは感じるだろうな」ってことじゃないかとも思います。これまでが裸だったから、ガードを固めましょうといってもそのカンドコロが分かりにくいんじゃなかろうか。一遍高くあげたガードを、徐々に現実を確かめながら下げていく場合は、なんとなく「こんなもんでしょ」というカンドコロが分かります。でも、いきなり上げろと言われたらどれだけしたらいいのか分からないでしょうね。ゼロから100まで一気にいってしまうって部分はあると思います。
ガードというのは、ほんの些細な日常の行動の積み重ねだと思います。車から離れるとき、外部から見えないように車内の小銭を隠すとか、バッグとか金目のものらしく見えるものがあるときはトランクに入れておきましょうとか、クセにしてしまえばどってことない行動でしょう。別に大仰にスタンガンとか防犯グッズを買い集めたりしなきゃいけないようなものでもない。
それと、生活設計、ライフスタイルをそれ用に変えることですね。毎日の帰路の夜道が恐く、実際痴漢や犯罪も多いのであれば、そもそもその通りを通らないでいいように引越をするとか、通勤時間帯を変えるとか、だからこの際仕事を変えるとか、タクシーを利用するとか。そういった抜本的な部分で対処することです。そんな大袈裟なと思うかもしれないけど、あなたも海外に住んで同じような状況だったらそうすると思いませんか?
もっとも日本でそんなに簡単に家や職を変えたりできないって言われるかも知れないけど、むしろ問題はソコにあるのではなかろうか。僕は、防犯対策の第一歩は「走りやすい(逃げやすい)靴を履け」ということだと思ってます。すなわち防衛力であり、防衛力は多くの場合「逃走力」です。フットワーク軽く、危難を避けること。同じように人気の無い夜道で10分立っているだけでも、両手フリーで立っているのと、手足を縛られて立っているのとでは不安感はリスクは全然違うでしょう。気に入らなかったらとっとと住まいを替えられること、仕事も変えられること、さらに抜本的に自分の生きるための優先順位、プライオリティを常にハッキリさせておくこと。日本で生活しはじめたら、この「手足を縛られているが故の不安感」というのがあるのかもしれません。住まいを変えるといっても容易じゃないし、権利金や敷金はオーストラリアのように法定で4週間分までと決まっておらず嘘みたいに高いし、仕事もまだまだそう気軽に変えられるわけもないし、失業保険もちょっとの期間しか出ないし、結局動くに動けないから我慢するしかない。残業を強制されても断れない。だから恐い夜道でも我慢して歩かないとならない。リスクがわかっていても手足を縛られているから避けられない。
それと同時に、「なんでそんなに働かないとならないの?」「どうしてそこに居なければいけないの?」「何がやりたくて生きているの?」という人生のプライオリティが明確でないって面もあると思います。なんとなく世間体を気にして働いているだけだったら、些細な不快も理不尽に感じるでしょう。やりたくないことをやってたらどんなリスクも不当に感じられるでしょう。逆にやりたいことが明確だったら、リスクをかぶろうという覚悟もできる。覚悟が出来れば対処も冷静にできる。ぶっちゃけた話、警察の仕事に生き甲斐を感じる人の場合、警察官なんか犯罪に自分から向かっていくわけですから、リスクなんかそれこそ一般人の数倍数十倍であるはずですが、自分で納得していればそれもOKでしょう。それにリスクに真正面から立ち向かうならば、それなりに対策も立てられる。大して生き甲斐も感じられない仕事に、「他にこれといってやりたいことがない」「転職するのが面倒臭い」という消極的な理由だけでしがみつき、結果として毎晩怯えながら夜道を歩かざるを得ないのであれば、それは治安の問題であるのと同時に、その人の人生の「設計力」「企画力」の問題だと思います。
さて、そういった事柄とは別に、単純に日本の人々の性向を見ていても、オーストラリアのように「フレンドリーで温かい善人」ではないかもしれないけど、「温順で、紳士的で、物静かな人々」ではあり、あまり神経に障ったり、畏怖感を抱いたりする種類のものではないです。これも、「恐い」って感じではないです。
あと、体格の問題もあります。オーストラリアに慣れてしまうと、知らずに視線が水平からやや上になります。自分よりも背の高い連中がゴロゴロいますし、体格もプロレスラーみたいな奴が普通に歩いてます。「こいつと喧嘩して勝てそうか」という男の子的本能的な発想でいえば、「絶対無理」「3秒で殺されるわ」ってのがワンサといます。かといって恐怖感はないですけど、やっぱり物理的な圧迫感はあります。それに比べると、日本の町を歩いていてまず感じたのが、「視線の位置が低くなった」ということです。肉体的に威圧感を与える人も少ないですし、それだけでもビジュアル的にすごい気楽です。
下の写真は、左はシドニー、右は日本(京都駅前)の街角のスナップです。アングルも違うので単純に比較できませんけど、左の写真のような環境に慣れてから、右の写真の世界にやってきたと想像してもらえたら、”視線の位置が低くなる”という感覚をなんとなくご理解いただけるかと思います。
道行く人々だけではなく、建造物にせよ、なんにせよ言えることですが、一回りシュワンと縮小した感じがあります。全体に小造りという。そうそう、全てではないのですが、階段の一段の段差が日本は小さいですよね。歩道橋とか駅の階段とか。段差が小さいので、歩いていると足がもつれそうになったりして、面倒だから二段飛びで歩いたりして、「ああ、二段づつ登るなんて久しぶりだなあ、昔はいつもやってたな」と思ったものです。
日本人の印象は、前述したように「温順」というのに尽きます。「凶悪」の対極にあるような。こんな羊のように大人しそうな人々相手に対人恐怖を感じてたりするのであれば、世界にいったらどうするんだ?って気もします。わりと意図的に見知らぬ人に簡単に一声かけたりしてたのですが(席を譲ったり、レジで軽い冗談を言ったり、階段でお年寄りの荷物を持ってあげたり)、日本人も全然フレンドリーでした。温厚で善良な人々が多いな、と。それに僕だけではなく、見知らぬ人同士でも声をかけたりしている風景に何度となく出会いました。まあ、もっぱら京都をメインに歩いてたので、東京とかになるとまた違うのかもしれませんが、印象としては全然OKでしたよ。
ただ、同じ「いい人たち」であったとしても、オーストラリア人の陽気なそれとは違って、縁側の陽だまりでニコニコしてるような温厚さです。いい人の方向性や発露の仕方は違いますね。あと、オーストラリア人は、こちらが何もしなくても、つけっぱなしのTVのように向こうから陽気な波動がやってくるのに対して、日本人の場合はこちらからノックして観音開きの扉を開けてあげないとご本尊が拝めないという”手続”の差があるように思います。日本人が温厚だ、いい人だとか僕が言うのも、僕の方から働きかけていっての話です。
昔、日本にずっと居たときは、妙な自意識が邪魔して、そんなに気軽に見知らぬ人とコミュニケーション取れなかったよなーと思い出したのですが、今では気楽に言えちゃったりします。このあたり、前回に述べた、「日本は変らないけど、自分は変った」という点の一つでもあります。よく、日本にいったガイジンさんが、日本の人は皆優しくて親切だったと言ったりして、それを聞くたびに僕は「そうかあ?」って思ってたものですが、そのガイジンさんの気持が多少は分かる気がします。多分そのガイジンさんは、どんどん自分からコミュニケーションを取っていったと思うのですね。ニコッと笑って他人のドアをノックするという。ノックされれば、日本の人も優しい素顔を出してくれるという。
そうは言っても無愛想な人もいます。これも万国共通だから、どこにでも居るとは思うのですが、総じて言うならば、中高年の男性、年の頃なら40-60代くらいに無愛想な人が多かったです。苦虫噛み潰していて、人生楽しくなさそうな人々。実年層の男性というのは、どの社会でも実働的な基幹中枢を占めている場合が多く、彼らがハッピーかどうかというのは、その社会の健康性を示す一つのバロメーターになると思います。「その国を動かしていて楽しいか?」という。長年の理不尽な辛酸が澱のように溜まって、その苦労が発酵して毒素になって、その毒が精気が蒸発して干物のように固く皺々になった体内に一滴一滴蓄積されていく、、ようなことがあってはイカンと思うわけです。
日本がロリコン文化で、若さこそに価値があり、二十歳過ぎたらあとは落ちていくだけ、ツライだけの人生が待っている、、、というのが本当ならば、それは社会のありようとして幸福ではない。今考えなければならないのは、二十歳以前の若い人々の教育もさることながら、それ以上に二十歳過ぎた人々への”教育”だと思います。教育といっても学校行って机に座ってということじゃなくて、「あ、カッコいいな、ああなりたいな、頑張らなくっちゃ、勉強しなくちゃ」と自然に思えるモデルや理想であり、20歳から60歳までいかにして右肩上がりに人生がよりカッコよく、華やかに、楽しく、成長していけるかどうかということです。ま、早い話が、おっちゃんおばちゃんが詰まらなかったらその社会は詰まらないのであり、おっちゃんおばちゃんが魅力的ではなかったらその社会は魅力的ではないのだということです。そんなに難しい話じゃなくて、60歳になっても少年のような目の輝きを保っていけるかどうかです。
今の日本の若い世代に希望がないとか言いますが、若かったら若いというだけで希望があるでしょう。自分以外全員が不幸に打ちひしがれていて、絶望を絵に描いたような光景であったとしても、「でも、俺は違うもんね」と思えてしまう傲慢さこそが、若さの特権だと思います。希望を持つ力、”希望樹立力”みたいなものは煎じ詰めれば自信であり、自信は何事にも未経験であるからこそいい気になって自分を過大評価出来る小生意気さであり、それこそが若さの特権だと思うのですね。その傲慢さの無い奴はそもそも「若く」もないのでしょう。だから、若い連中に別に「希望」なんか仕立ててやって提示してやらんでもいいと、僕は思うのですよ。大体これまでの日本の各時代に希望なんかあったのというのか?むしろ希望を与えてやるべき対象は、大人たちではないか。これ、語りだしたら長くなりそうなので、ここでやめておきます。
あと気づいたことといえば、昔感じたほど、皆さん不幸そうな顔をしていたわけではないです。これは日本に戻る度に、「あれ、思ったほど不幸そうじゃないな」と感じるのですが、これ自分が最初に日本から出て行くときが一番そう感じたのですね。結局自分が詰まらないから、周囲の人々もまた詰まらなそうに見えたのかもしれません。自分の心理状態で、物の見え方も違うのでしょうね。もっとも、何の心の準備も無く、いきなりオーストラリアから日本に行ったら、やっぱり不幸そうに見えるでしょうねー。不幸そうというよりも、表情に乏しいのでしょうね。ニコニコして歩いている人って、そんなにいなかったですから。
日本の人々は、身だしなみもきちんとしているし、女性も丁寧にお化粧しているのですが、一点気になったのは、「顔に険があるな」ということです。これは厳しい表情というのとはまた違います。厳しい表情という意味では、オーストラリア人の方が厳しい顔をしている人は多いかもしれないし、戦場あるいは雪山や海のようにハードな自然環境で生きている人々は又厳しい表情をしているものです。でも、「険がある」というのはそういうことではない。
日本の、特に女性にそれを感じました。かといって、綺麗に湾曲し手入れされている眉の付け根に、タテ皺が深々と刻まれているわけではありません。ただ、なにか表情を動かすときに、さっと眉間あたりに険が走る人が多かったです。抑えていても、心の不快さが、一瞬パルスのように表情に走る。その頻度が多いから、顔の筋肉がそのように発達してしまっているのでしょうか。誰しもそういうことはあると思うのですが、その抑えきれなさ、余裕の無さみたいなものを時折感じました。一言でいえば、「神経質」ですね。
さて、最後の付録に「綺麗な写真」をつけておきます。
まずは紅葉系で、加賀温泉は那谷寺(なたでら)の風景。
次は「いかにも京都」という写真を4枚。
超有名な嵐山の渡月橋です。嵯峨野は個人的には、渡月橋などよりも、まずもって山の形が綺麗なので好きです。京都は総じて山の形がきれいで、”雅やか”という表現が似つかわしいと思います。最初に東京からやってきたとき、日本画みたいな曲線をしてるなーと感動したもんです。
右の写真は、山肌のアップです。紅葉もイマイチで、「錦繍!」というのは物足りないものがありますが、それでも十分に綺麗です。あの山のフォルムに、この陰影と色彩じゃあ、そりゃ平安貴族も和歌の一つも詠もうかって気になるでしょう。
京都の西の端である嵐山から望遠ズームを極大にカマして、東の端の比叡山をおさめました。残照の具合が綺麗で、比叡山の「霊的な」感じが撮れたらいいなと思って。
右は、あまりにベタな東寺の五重塔のシルエット。でもやっぱこのカタチは美ですよね。
ちなみに実家はこの近所にありまして、これは単に「ウチの近所の風景」でもあります。こーゆーものが近所にあるとなんとなくうれしいですよね。シドニーにいるときはオペラハウスが”近所”にあって、日本に帰ると五重塔が近所にあるというのは、改めてそう考えると「結構贅沢してるんだなー」って気分になったりもします。ささやかな幸せ。
自然や古典系ばっかじゃ飽きるので、都会系を。薄暮の大阪駅周辺。
日本帰省編、まだ続きます。
文責:田村
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