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今週の1枚(03.11.17)
ESSAY 131/ 互換性とスタンダード
写真は、セントラル駅付近にあるDIMA(移民局)。現地で学生ビザをとったり、観光ビザに切り替えたりするときに行く場所がココ
皆さんがこれを読んでおられるときには、僕は日本にいるでしょう。10日間ばかりの一時帰国をしてきます。4年強ぶりの日本になるわけで、オリンピックみたいなものですが、両親といっしょに温泉でもいってくるつもりです。そういうわけで、来週11月24日のエッセイは一回お休みさせてください。帰省中、メールチェックもやるつもりでいますが、レスポンスはいつもよりも遅くなるでしょう。よろしくご了承ください。
しかし、まあ、4年ぶりでも、もう特に大した感慨もありません。最初の2、3回帰国するときは「おお、日本だあ」というそれなりの感慨もあったのですが、今度で何度目かな、5、6回目ともなると、慣れてしまうものはあります。4年ぶりの帰国で随分長いと思われる人もいるでしょうが、こちらには上には上が幾らでもいて、8年ぶりに帰った人もいましたし、すごいのは25年帰ってないって人もいましたね。羽田から飛んできて、成田空港なんてまだ出来てなかった頃の話だそうです。それに比べれば4年なんか大したブランクでもないです。
4年ぶりに帰ると、日本はすごく変わってしまったように感じるかどうかですが、多分感じないでしょう。「大して変わり映えしてないな」と思うでしょう。前回も、前々回もそう思ったし。むしろ、3ヶ月とか半年くらいの短いスパンで帰った方がすごく変わったような気がすると思います。流行ってる歌も違ってるし、知らない建物が完成してたり、連載マンガが終了してしまったとかね。でも、長いスパンになると、そういった変化はもう当たり前になっちゃって別に驚かないです。というか昔どうだったか忘れてます。それに、今何が流行ってるとかいうことって、長いスパンで見ると別にどーでもいいことばっかりですから。この例を出すと納得してくれる人が多いのですが、例えばこの4年の留守の間に、日本では「団子三兄弟」が流行ってたらしいです。僕は一度も見たことも聞いたこともないですが。でも、今の時点になってみれば、そんなものミスってたって別にどってことないでしょ?「え、そんなことも知らないの?」とは思わんでしょ。別に知らなくても構わんでしょ。
このように長期スパンになってしまうと、数ヶ月や半年で廃れる流行やら風俗やらは洗い流されてしまいます。無いのも同じ。30年経過しても尚も語りつづけられる何かが起きたかどうか、それによって日本の将来が変わっていったというエポックメイキングなことがあったかどうか、それだけが問題になります。そういう視点でみると、別にそう大して変わり映えしないんじゃないかなって思いますが、違いますか?
そんなことより、4年も帰らないと手続的にいろいろ面倒です。第一に、帰ろうにもパスポートが切れてしまってました。日頃全然使わないから、「あれー、どこにしまったかなー」みたいなレベルで既に迷ってたりしますが、見つけてみたら「あら、有効期限切れてるわ」と。それも2年以上前に切れてました。つまり僕は、パスポートなしで海外に2年以上住んでたことになります。まあ、パスポートなんか、そんなもんなのですね。入出国しなかったら別にどってことないです。
それに、日本の運転免許証も、これまた3年以上前に切れてしまっていますので、今度帰ったときに復活させる必要があります。ただ、復活させるのか、こっちで取ったオーストラリアの免許証で日本の免許を取るのか、二つの方法があり、おそらく後者でしょう。前者だと、3年以上経過したら学科試験だけ受けなおさないとならないみたいですから。後者の場合、以前に日本の免許を持ってたら、適性検査だけで良いようです。ただし、こちらの免許証の翻訳証明という問題はあります。また、そもそも住民票を抜いているのにどうやって新たに免許証をゲットするかとかそういう面倒くさい問題もあったりします。
皆さんの参考のために(って別にこういうことが参考になる人は少ないだろうけど)、オーストラリアで新たに日本のパスポートを取り直す場合の手続を書いておきます。シドニーの場合は、マーティンプレイスにある日本領事館に写真持って申請に行けばいいだけなんですが、新規申請の場合、面倒な点が二つあります。一つは、戸籍謄本原本。もう一つは「オーストラリアの国籍を保有していないことの証明(二重国籍防止のため)」です。
前者の戸籍謄本ですが、領事館に申請すれば代理取得してくれる、、、、なーんて便利なことは無いです。自力で取らねばなりません。その場合どうするか?直系親族(親とか子供とか)が日本にいる場合には、委任状なしに取ってきてもらって送ってもらえばいいです。その他の人の場合は委任状を。郵送でも取れます。そう、オーストラリアからでも郵送でも取れる筈なんですが、手数料を払わねばなりません。この場合、オーストラリアに慣れてしまうと、「そんなの小切手送ったり、クレジットカードの番号を書いて送ったり、電話でプッシュしたらOKじゃん」と思ってしまうのですが、改めて認識したのですが、こっちでは普通にありふれている方法が日本では異様なまでに発達してません。ほんと、「なんで?」というくらい発達してないですね。だから戸籍謄本を郵送で取ろうと思ったら、謄本申請料分400円の”郵便為替”が必要なのですね。オーストラリアでいえばマネーオーダーです。じゃあ、領事館で郵便為替を売ってくれているかというと、売ってません。管轄が違いますから。ああ、これが噂の縦割り行政。
今僕の本籍はたまたま東灘区にありますが(ちょこちょこ本籍を動かすのですね=本籍なんて別に住んで無くてもどこでもいいので)、東灘区役所に電話して聞いてみました。最近は各役所のホームページが充実していて、こういう調べものをするのは便利になってます。申請書もダウンロードして印刷すればいいから楽だし。電話でのお答えは、郵便為替が必要だし、海外では郵便為替は売ってないし、だから「どーしよーもない」というのが基本的な回答でした。ただし、ここからがミソなのですが、僕のようなケースが多いのでしょうね、もう封筒に1000円札一枚、宛名(海外の)を書いた返信用封筒と申請書と一緒に送ってくれたら、それで送りますという、すごいサバけた対応をしてくれてました。おお、なんと荒っぽいと思いましたが、でも、これは英断ですよね。「出来ないです。規則ですから」で終わらせようとしないという。で、ちゃんと送ってくれたし、余った部分は切手同額が同封されていました。ほんと、感謝です。
しかし、これは例外的な措置だと思いますから、全国どこの役所でも同じようにやってくれるかどうかは分かりません。しかしですね、そもそも住基ネットとかやるんだったら、戸籍とか住民票とか自己情報なんだからインターネットで直接ダウンロードさせてくれたらいいのにって思います。プライバシーとか本人確認とか言うけど、そんなの郵送の場合だって全然確認できないんだから同じでしょう。それに比べれば、まだアクセスの証拠がログで残ってたり、アクセスのためのパスワードを発行した方がずっと有意義だと思います。また、何回ダウンロードしたか記録に残りますから、料金のとりっぱぐれもないでしょう。それが無理でも、せめて、クレジットでの支払いなり、銀行送金での支払いを認めてほしいです(これも支払の証拠が残るから、他人の戸籍を詐取することの防止策になるでしょう)。まあ、オーストラリアみたいに、個人用の小切手は日本では発達してないから無いものねだりはしませんし、またいわゆる”B−PAY"と呼ばれる全国の支払先機関を登録し、コード化して、簡単にインターネットバンキングで支払うという方法もまた一般的にはなってないのでしょうね。iモードで支払いもできるとか、そういった”小技”なんかどうでもいいから、もっと基本的なところのインフラをやって貰いたいと思ったりします。そういえば、目的別に違う「印紙」(収入印紙、訴訟用印紙とか)とかいうのも止めて、訴訟でも、登記簿謄本でもクレジット支払を認めてほしいです。
そのあたり、役所では(企業もしかり)ベーシックな部分が発達してないから、末端の係の人が苦肉の策で頑張らないとならないのでしょう。現場の人が可哀想ですよね。だって、日本に戸籍を取ってくれそうな家族や知人がいない人は、ほんと海外で郵便為替を売ってくれるところがない以上、「現金同封」という方法でも認めてくれないと、戸籍が取れないことにもなる。そうなるとパスポートが切れたら再発行できないことになり、パスポートが無いと出国もできないから、要するに日本に永遠に帰国できないことになってしまいます。そんな結論メチャクチャですよね。出国できないままいれば、不法滞在になってしまい最終的には強制送還措置を食らいます。それで帰国はできるかもしれないけど、一回不法滞在歴がつくと今度はオーストラリアに入国できない可能性もでてきてしまいます。法の不備、行政の不備としか言っていいと思います。「パスポート切れるまでほったらかしていた方が悪い」という言い方もできるだろうけど、そういう言い方でクリアできるような話じゃないでしょう。「そんな馬鹿なことがあるか?」と食って掛かられるのは現場の窓口の皆さんです。領事館の方も、「申し訳ないのですが、○○が必要で、、、」とほんとに済まなそうにおっしゃってましたが、肩身狭かろうと思いますし、お気の毒でありました。あなたのせいではないのに。
ちなみにパスポートの再発行手数料200ドルちょいですが、これも現金払いだけです。クレジットも、EFTPOS(デビットカードですね)もダメという。これって、こちらの公的あるいは商業機関としてはかなり珍しい部類に属するでしょう。まるでシェア代を現金で手渡しにするようなものです。
次に、オーストラリアの市民権(国籍)を取得してない証明ですが、これはシドニーの場合、セントラル駅の近くの移民局(DIMA)に行って、発行してもらいます。70ドル。”Certificate of evidence of resident status"という書類(Form 283)を、移民局のホームページからダウンロードしてきて、記入の上、移民局にもっていって、窓口で"urgent"といえば、二階にあがって待つように言われ、その場で交付してくれます。結構1時間くらい待たされますけど。
これは、前述のとおり二重国籍防止のための措置だと思います。
それはそれで分かるのですが、そもそも二重国籍自体、もういい加減認めてくれてもいいじゃないかって思いますよね。この話はしだしたら長くなるので割愛します。
書いていてふと思ったのですが、日本というのは、単一民族の単一文化だと思ってるからこそ、”互換性”というものをそんなに突き詰めて考えていないんじゃないかってことです。こっちから見てると、「ユーザー・インターフェイス悪すぎ」とグチりたくなることも多いです。
卑近な例から言いますが、オーストラリアのテイク・アウェイ(テイクアウト、お持ち帰り)の容器というのは、プラスチックの半透明のタッパーがS、M、Lとサイズ別にあるのですが、これが示し合わせたように何処も同じ容器を使っています。チャイニーズ買っても、サラダ買っても、レストランで余った食事を持ち帰るときも、ほぼ例外はないくらいにいっつも同じ。結構丈夫なので、綺麗に洗えば何度でも使えて、よく弁当箱がわりにしたり、料理用タッパーに使ったりしますが、サイズが同じというのは非常に便利です。なにが便利って、まず収納に便利です。サイズが同じで空き箱はカポッと積み重ねられるようになってるので、幾らでも重ねられて、場所を取りません。
これ、サイズが違ったり、材質が違ったりしてたら面倒で仕方がないですよ。いちいちイッコイッコ場所をとるから収納しきれないです。それに本体は良くてもフタが破損したら取替えがきかないし。リサイクルとか、地球環境とかいうなら、こういう部分での工夫というのはあって良いのではないかと思います。
もう一例あげますと、これはオーストラリアで仕事をしていた人が書かれた本で読んでのことですが、積荷を載せるパレット(フォークリフトで運ぶスノコみたいな木の台)が、オーストラリアの場合には全国で規格が統一されているらしいです。その人が書いてましたが、統一されているとすごく便利だそうです。どこから搬送してきた積荷でも、空いたら混ぜこぜにしてパレットを積み上げておけるからです。日本の場合は、会社によって大きさや厚みがマチマチらしく、積み上げようとしても形が不ぞろいなので綺麗に積み上げにくく、危ないと。また、日本の場合だと、A社のパレットとB社のパレットは別だから、A社から入荷して、且つ以前搬入したA社のものを返品しようとすると、入荷したばかりの積荷を別のパレットに移し変え、空いたA社のパレットに返品を積み上げ搬出するということをしなくてはならず、それが面倒くさいし非能率である。その点、オーストラリアの場合、どの会社も同じ規格のパレットを使ってるから、別によその会社のパレットでも平気で流用できるし、結果的に”パレットは天下の廻りもの”状態になってるから、倉庫に返品分と積んであったものをパレットごと搬出できる。
僕が言っている互換性というのは、まずもってこういうことでありますが、話はそこで終わらずに、そこからさらに考えは発展していきます。
パスポートを発行するのも、戸籍謄本を発行するのも、税金を納めるのも、切手を買うのも、電気代を払うのも、「お金の支払」という意味では一緒です。「金銭財貨の移転」というただ一点に着目すれば、出来るだけ汎用性の広い支払方法がどこででも認められるべきでしょう。パスポートは現金で、戸籍は郵便為替で、訴訟を起こすのは訟用印紙を貼付して、不動産登記をするときは登記印紙を貼付して、、、というのは、それなりに理由あってのことなのでしょうが、「なんで?」とため息つきたくなるくらい互換性が無いです。
もっともオーストラリアでも移民局はなぜか現金はダメだったと思いますし、古い話ですがオリンピックの時は協賛しているアメックスだったかVISAだったか忘れましたが特定のクレジットカードで無いと買えなかったとか、くだらない部分は尚もあります。しかし、総じていえば、支払の間口は広いです。例えば、電気代の支払ですが、大きく6つの方法が書かれています。一番目はダイレクト・ディビット、これは自動引き落としですね。次に郵便局でオンラインで払う方法があります。これは郵便局の特定の窓口電話に電話して、クレジットカードの番号を伝えるなどして払う方法。そのために、支払先コードと、カスタマーごとのリファレンス番号が支払明細にかかれています。次に、前述のB−PAY。これも銀行のオンラインバンキングでやります。普通の送金や振込みとどこが違うかと言うと、一括まとめての銀行と支払先の契約ですので、コードやリファレンス番号で識別するからやりやすいのと、一回入力したコードや番号を記憶させられるから楽だということですね。四番目に、電話でクレジットカードの番号を伝えて支払う方法。これは非常にこちらでは普通に行われています。通信販売や、コンサートの前売りなんかはこれが多い。5番目に対人支払ですが、これも支払先の支店のみならず、郵便局でもやってくれます。支払方法は、デビットカードでも、クレジットでも、小切手でも、もちろん現金でもできます。最後に郵送で支払う方法。これも、支払用紙にクレジットカードの番号を書き込んで支払票とともに送る方法もあれば、小切手を送る方法もあります。
気づかれたと思いますが、こちらでは郵便局の活動領域が非常に広いです。この場合は、支払窓口機関として頑張ってるわけですが、その意味では、日本のコンビニに近いものがありますよね。ただ、オーストラリアの郵便局の場合、パスポート申請更新の受け付けもやりますし、引越しで依頼する転送サービスなどの際に関係機関に住所変更を一斉に通知してくたりとか、なかなか便利なサービスをやってたりします。オーストラリアの郵便局のサイトにいくと、「引越しキット」なんてのがダウンロードできます。4週間前から段取りを細かく記したMover's checklist なんてのもあったりして、なかなか面白いですよ。Australian Postのサイトは、http://www.auspost.com.au/にあります。
こういう外国の郵便局の活動内容を見てると、日本で郵政が民営化した場合どうするかというのも、幾らでもヒントが転がってるようにも思います。日本全国津々浦々に支店を持って、あれだけ膨大な輸送網を保有してるわけですから、産業インフラとしてはとんでもないレベルの組織でしょう。マネージメントさえしっかりやれば、ほとんど出来ないことはないというくらいいろんなことが出来るとは思います。今も結構頑張ってると思うし(役所の中ではかなり頑張ってる機関だと思うし)、日本全国の田舎生活のホームステイの斡旋事業でも興して(結構希望者は多いと思うし)、全国や世界に営業に走ってもらいたいと思います(^_^)。
話が逸れました。互換性の話でした。
互換性、それは言葉を変えて言えば、最低限の統一性といってもいいでしょう。最大公約数的なものを拾い出して、そこだけはかっちりフォーマットで固めてしまうということですね。技術的なレベルでは、例えば、日本全国どこ行っても電気のコンセントの幅は同じであるとか、JIS規格があり、世界レベルではISO規格があったりして、そういった面ではどんどん進歩してると思います。それだけに、DVDのリージョンコードみたいな世界の趨勢を乱すアホンダラは消えてほしいですね(って、この話は昔やりましたけど、まだ腹が立っているという)。
このように技術的なレベルでは、具体的に見えやすいし、不都合もわかりやすいから、議論も進むし、作業もはかどるでしょう。しかし、社会的な互換性になると、なかなか分かりにくいでしょうね。
特に日本みたいに、「みんな同じ」という社会では、どこまでが単に皆が同じだから事実上そうなってるだけなのか、そうではなく意図的に互換性を設けたのかの差が曖昧になりやすいです。まあ、単純に、皆同じこと考えて、同じような生活様式で、同じような人生を歩んでいくのでしたら、あえて「互換性」なんて考えなくたっていいわけですよね。一人に合うようにシステムを作っておけば、「みんなだいたい同じ」なんだから万民に適合するという。簡単ですよね。でもその簡単さが落とし穴なのでしょう。
逆に、多民族社会、あるいは民族が同じでも個々人のライフスタイルがバラバラで、そのバラバラであることをもって尊いと考える社会では、どこまでが皆の最大公約数になるかを真剣に考えようとするのでしょう。最大公約数というのは、「大多数がそうだから、そうしよう」ではないです。全然違う。それは公約数ではない。公約数というのは、全ての場合に(理論的には)例外なく適用されうる(抽出される)エレメント(因子)のことを言うのだと思います。数学の因数分解みたいなものですね。10、15、25、35、45、75の各数の公約数は5です。でも、「下一桁が5で終わってる場合が多いから、最後が5で終わるということを基本にしましょう」というのは公約数ではない。
でも、日本の社会システムはこの「下一桁」のケースが多い。「結婚していて、夫は仕事して、妻は家事をして、子供が1−2人いる」というのが一般的だから、それを税金の控除でも、年金でもスタンダードモデルにしましょうとかね。一番多い人をスタンダードにしてシステムを作るのは基本なのかもしれないし、一番簡単なやりかただろうけど、逆に弊害も多い。そこから漏れた人をどう公平に取り扱うかという点では、実は難しい方法なのでしょう。
例えば中東の人で、「妻が四人いる」ような人の場合、どうしたらいいのかわからなくなっちゃいますよね。本国の法律でそれが適法だったら、日本の法律で妻が4人いるのはけしからんとは言えないでしょう。「そんなの言えて当然だろ、ここは日本なんだから」という人に聞きますけど、じゃああなたが韓国に転勤になって配偶者と住みますよね。韓国では同本同姓結婚を認めていないということで(故郷が同じで姓が同じ人は、なんら血縁関係が無くても結婚できない)、あなたがそのケースにたまたま当たったとして、無理やり離婚させられたり、結婚関係を認めてもらえなくなったりしてイイですか?(ちなみに、現在の韓国では97年の最高裁判決を受けて法律が改正され結婚できるそうですが)。あるいは、イトコ同士の結婚を禁止してる国もあります。あるいは、インドの一部のように、なんだっけな母方の兄弟の娘(従兄姉妹)とでないと結婚できないとかいうところもあるやに聞いてます。そういうエリアにいくたびに、自分らの結婚が否定されてしまっていいですか?良くないでしょ。だったら、中東では妻は4人持っていいのだから、それは日本でも認めざるを得ないでしょう。それが公平というものでしょう。
じゃあ、妻が「適法に」4人いる人が、日本で働いて日本の税金を取られる場合、配偶者が4人いるのだから、4回配偶者控除を受けられるのでしょうか?これは難問ですよね。実質的にいえば、確かに適法な妻である被扶養者が4人いるのだったら、4人分の配偶者控除を認めないと嘘じゃないかという話になりそうです。さてどうしましょう?こういうケースであっても、はたまた夫が30人いるようなケースでも(そんなのないけど)、夫が二人妻が二人ダブルスのような集団婚を認めるケースであっても、シンプルな公式を当てはめて解決していく、その発想法こそが公約数的な発想法であり、どのようなケースにも対応できる互換性だと思います。事柄が配偶者控除であるならば、なぜ配偶者控除が認められるのか、その実質的な理由と価値判断まで遡り、そのエッセンスを抽出し、ものの考え方のシンプルな筋道を明確にし、フォーミュラ(公式)を導き出す、そういうことでしょう。
税金はそんなに詳しくないからいい加減な素人考えで言うと、なんで税金で課税所得とかいうものがあるのかというと(コンパの会費みたいに一人頭一律幾らでもいいじゃないかという考え方もある)、お金をたくさん稼いでいる人はそれだけ生活も豊かなんだから余裕があるでしょ、だからたくさん税金を払ってもいきなり生活が困るってことはないでしょ、だから払ってよ、ということですよね。年収100万の人が10万払うのと、年収1億の人が10万払うのとでは「痛み」が違う。だから痛みを公平にしましょうってのが、担税力の公平
ってことでしょう。じゃあ、配偶者控除というのは何なのかというと、多分こういうことだと思います。
人は一人で生きているわけではなく、多くのケースではすごく親しい人と生活を共にする場合が多い。それが異性間の性的交渉やら出産育児を伴う”結婚”であるか、同性間であるか、親子兄弟の親族であるか、それは人それぞれだろうけど、生活基盤を共にする小集団が居るというのは事実としてある。この場合、構成員全員が等しく働き、収入をあげているケースもあるだろうけど、一方は家庭内業務に専念し、片方が外で仕事をして”外貨”を獲得してくるというケースもありうる。この場合、純粋に個々人の表面的な収入だけでみていって、外に出かけて収入を上げてる人(仮にAさんという)から100万円税金を徴収し、片や家にいて無収入の人(Bさん)には国から50万円の生活扶助を給付するというのも一つの方法ではあるでしょう。ただ、いかにもまどろっこしい。それに実態に反する。なぜならAさんは収入の全てを自分のモノとして使えてはいないわけだし、Bさんはまるで無一文で食うや食わずの生活をしているわけではないからです。要するに小集団で1ユニットみたいなものじゃないか。だったら、小集団単位で税金も考えたらいいじゃないか。その場合、AB両名を納税債務者として連名にして払わせるのもいいでしょうが、普通は名目上、外で稼いでいるAさんから税金を取ろうとします。Aさん名義で追いかけていった方が収入経路を調べる場合便利だからですね。で、Aさんから税金を取る場合、扶養家族の分だけ税金を減らしてあげるという作業が必要になる、それが配偶者控除をはじめとする扶養控除ですよね。この場合、ものの考え方としては、Aさんは国家に代わって相棒であるBさんに生活扶助をしているから、それだけ国に貸しがあり、それを税金のときに相殺するのだという考え方もありえるでしょう。
だとしたら、生活基盤を共にする小集団それぞれのライフスタイルの形態、経済的実態に即して、「痛み」を実質的に判定しましょうというのが、こういった扶養控除のエッセンスではないかと思われるわけです。ならば、妻が4人いようが、夫が30人いようが、同性同士だろうが、その人達の生活経済構造はどうなっているのか、「痛み」の実質はどの程度なのかから考えていけば、(その実際の認定は難しいでしょうけど)理論的には回答は導けるはずです。この発想は、別に今の税法でも貫かれていると思います。が、それを明示的にシステマティックにやっているか、それとも大多数のスタンダードだけバーンと出して、例外事例はどうしたらいいのかよく分からなくなっているのか、それが互換性があるかどうかの分水嶺だと思います。
ただ、この実質的にモノを考えていく方法というのは、頭を使わないとならないのでメンド臭いです。でも、面倒くさくても、やっていかないとならないことだと思います。そうでないと社会に均質なものばかりが溢れたら、自由な流動性とダイナミズムが生まれないから、金太郎飴状態になってエントロピーの「等温死」のように、衰亡しかねないです。
例えば、義務教育を履修してるかしてないか、高校を卒業してるかしてないかで一定の資格がありますが、その実質というのは何なのか。一定期間学校に行っていたという事実は、その人物の何を証明しているのでしょうか。一定限度の学力?一定限度の忍耐力?「行け」といわれたら疑問も感じずに頑張って行ってしまう自立性の無さと、盲従度ですか?学力だったら試験して測ればいいし、忍耐力もしかり。一定期間、多くの集団の中で社会的な訓練を受けてきた、社会的成熟度という面もあるでしょう。でも、これも別の場面で証明することは可能ですよね。学校にはいかなかったけど、○○というボランティア集団で優れたリーダーシップを発揮していたという証明があれば、社会的成熟度はある程度認められるでしょう。少なくとも内容は問わず「学校に行った」という単純の事実だけで推測される事柄の曖昧さに比べたら、著しく劣るってことはないでしょう。だったら、それさえ立証されていれば、別に学歴やら資格やらどうでもいいじゃないかってことになります。
就職の際に、男性に限る、女性に限る、35歳までとかいう制限も、合理性があるのかどうか、個別に見ていけばわかると思います。例えば年齢制限をするのは、あんまり年上の人間が新入社員で入ると使いにくいという面もあるでしょう。しかし、これもそんなに説得力ある話でもないです。だって、保守本流である日本の官僚システムでは、キャリアエリートが、自分の親ほどの年上のノンキャリの部下を顎で使ってますからね。「実際、やってるじゃん」という。それに、年上が使いにくいというのは、使う側の「使い方」(やたら威張り散らして、位が上だと人格的にも上だと思ってるとか)が間違っているからかもしれないし、雇われる方が「俺は年長だぞ」というプライドをやたら押し出してくる協調性のない性格だからかもしれません。前者はそもそも労働慣行に問題があり、後者は協調性の無さという具体的欠点をもって不適格にすれば足りるでしょう。
ただ、こういった年長であるとか、女であるとか、ガイジンであるとか、「スタンダードじゃない」要素が職場などの日本集団に入るとなにかと大変だという現場の問題もわからないではないです。ただ、それを大変じゃないようにもっていくのが、社会の進歩なのだと思います。だからといって、気心も知れたスタンダードだけでやっていきましょうとかやってると、ほんと膠着してきて良くないってのはあると思います。同じような人間ばっかりだと発想も似通ってくるし、固定観念にとらわれて身動きできなくなるリスクが高まるし。また、悪循環なんだと思いますが、スタンダードとそれ以外という「差別」をやってると、スタンダードでない側には、それなりに不愉快な情念が湧いてくるでしょうし、それが故に益々意固地になったり、肩肘張ったり、拗ねたりという、扱いにくい人間になるリスクもあります。
だからやっぱり原点に戻って、採用するのは、「求められる職能スキルを有していて、且つ職場の構成員の精神健康や労働能率を損なうようなことのない社会的成熟性のある人」という公約数で明示的に考えていって方がいいんじゃないかと思います。早い話が、技能的的確性と社会的適格性ですよね。それがカッコの外に括りだした因数分解の因数だと思いますし、それこそが互換性だと思います。世界の誰が来ても通用するという。
ところで、日本における「社会的成熟性」というのは、言うまでもなく日本社会に如何に適応できるかということだと思います。じゃあ、日本社会において、好ましい人間像というのはどういうものかというと、一言で言えば「場の空気を読む力のある人」だということだと思います。日本の社会というのは、エブリワンハッピーを目指して、全員が静的調和をはかろうとするところに特徴があると思います。全体の状況をよく見て、今自分に求められている態度と発言はどういうものか、常に常に考え、実行できる人間が日本では好まれます。これはこれですごく高等なことをやってるのだと思いますし、ある面では世界に冠たる特殊技能だと思ってもいいでしょう。ただ、一歩間違えると、単純に「他人の顔色をうかがって生きていく」だけになります。だから、外に出たら「日本人は自分の意見が無い、会話をしていても詰まらない」と言われてしまったりもします。世界的も珍しい特殊技能なのだと誇りを持つ反面、でも極東のローカルスタンダードなんだという認識も並行してもっておくといいのでしょう。
というわけで、ものすごく世俗的に言ってしまえば、日本である程度幸せになろうと思ったら、まずはスタンダードに乗っかれ、そして他人の顔色を常にチェックして、求められている人間像を演じていけってことになりそうですね。楽といえば楽です。でも、こういう人間ばっかり集まっている社会というのは、まず間違いなく衰亡するでしょうね。
逆にいえば、日本が意外と衰亡してないのは、スタンダードに乗っかるのを良しとせず、他人の顔色も見るけどそれに媚びないという、「普通じゃない人」が実はあちこちに大量にいるってことだと思います。実際、そういうスタンダードじゃない人って、周囲に何人もいるでしょう?あるいはあなた自身がそうかもしれない。そして、こういった異分子的存在というのは、ハマればすごい牽引力や起爆力を組織や集団に与えたりしてませんか?
でも、実際、皆さんよく言いますもんね。「ウチのボスね、ちょっとヘンなんですよ、変わってるんですよ」って。勿論不愉快に「変わってる」人もいるでしょうが、逆に「愉快な変人」も居るでしょう。「ちょっとヘンなんですよね」という言い方も、好感をもっての言い方だし、心なしか誇らしげであったりもします。つまり、なんのことはない、僕ら日本人もスタンダードから外れた変人を理解し、咀嚼することは可能なんだし、可能どころか日々実現している。それが証拠に、あなたは、今、どう考えても日本のスタンダードからは外れている僕の書いてる文章を、「ふーん、へー」とかいってここまで読んでしまったじゃないですか。
スタンダードじゃなくて鬱陶しいはずなんだけど、なんでそんなに認めているのか?というと、結局は、無意識にせよ、公約数的な発想をしてるんだと思うのですよ。「一般的にはダメなんだろうけど、でもこの人は大事なところはきちんとクリアできてるから全然OK」って。だから、その「大事なところはちゃんとクリア」という部分が、公約数的互換性の部分だと思うのですね。キャッチコピー的にいえば、「”普通”ではないかもしれないけど、”普遍”ではある」と。だから、実際に出来てたりするのだから、もっと意識的、明示的に表現していったらいいのにって思います。そうしたら、もう少し可能性も広がっていくと思いますし、そんなにスタンダードにしがみつかなくても良くなると思います。
さて、今日は日曜日の朝。本当はもう一晩寝かせて校正してからUPするのですが、もう発たねばなりませぬ。このまま1日早くUPします。これから荷造りして(まだしてないという)、空港に向かいます。ではでは。
文責:田村
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