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今週の1枚(03.11.10)
ESSAY 130/ 階層世界とブーメラン
今日は日本では総選挙の日ですね。こちらの新聞にも日本の選挙の話が載ってました。「お天気次第」というのが笑えたのですが、"not to good, not too bad"と。天気が良すぎると皆行楽地に出かけて選挙に行かず、天気が悪すぎると家にこもって投票にいかないから、「良すぎず、悪すぎず」が一番投票率が高くなる、と。さて、今日の日本の天気はどうなのでしょうか。
こちらオーストラリアでは、先週には国民的行事であるメルボルンカップ(競馬ですね)が行われ、ラグビーのワールドカップが準々決勝、準決勝とたけなわです。どちらも天下泰平って感じですね。
さて、以前にも「キミには消費者という人格以外のパーソナリティはないんか?」ということをエッセイの108回「消費者という単一人格」で書いたのですが、それと関連して常々感じることがあります。それは他人や物事を評価する場合、その良し悪しの判断基準が、全部自分にとって損か得かになっていやしないか?ということです。つまり、自分を得させてくれる人が「いい人」「いいモノ」であり、そうでないものは良くないという判断基準ですね。それの何が悪いのか?というと、だって、その発想って端的に言ってコジキそのものじゃん。何が悪いって、まずもってカッコ悪いです。そのあたりの話をします。
吉田兼好の徒然草に、友とするによき人の3類型の中に「物をくるる人」とか書いてあります。117段だっけな。学校の古文の授業でやったことある人多いと思います。この真意は解釈が難しいのです。なんせユーモラスに洒落のめして書いてあるので、「物をくれる」ってどういう意味なのか、くれれば何でもいいのか、くれなければダメなのか、微妙なところでもあります。
こちらに来て、オーストラリア人っていい人が多いですねってよく言われますが、その場合の「いい人」ってどういうことだろう?例えば、道に迷っていたらあれこれ親切に案内してくれたとか、なにかオマケしてくれたとか、そういった無償の好意をほどこされたことが直接的なキッカケになってはいるでしょう。それは確かに「いい人」ですよね。ただし、それって自分にとって都合が良いから”いい人”なのかどうか。
無償の好意を示す人が”いい人”足りうるのは、その行為の利他主義的なところ、他人に優しく、思いやり深く、そしてその判断に従ってすっと行動できる行動力や魂の素直さという、早い話が人間的にレベルが高いというか、人間としての美徳を豊かに持っていることが、”いい人”たる根拠になると思います。これが本道。
その意味でいえば、そのオーストラリア人が、自分とは何の関係も無い赤の他人に無償の好意を示していたとしても(つまり自分は何の得もしなかったとしても)、同じような「ああ、いい人だなあ」という感動が襲ってこなければ嘘です。例えば、重い荷物をもって階段をヒーコラ昇っているようなときでも、自分の荷物を運んでくれたときも、誰か知らない人の荷物を運んでいる光景を目にしたときでも、そういった人間的な美徳は目の当たりにしてるわけですから、どちらの場合も”いい人”立証は出来ているわけで、同じようにいい人だなあと思うであろうと。
この場合、自分に対して良くしてくれた場合にだけ”いい人”だと思って、赤の他人のケースの場合は何も感じない、注意も留めないというのでは、結局、てめーに都合がいいからいい人だと思ってるだけじゃん、って気もします。違いというのはそこにあります。
ただその差は時として微妙ですよね。赤の他人のケースと、自分自身のケースとでは、自分自身に関連しているだけに印象も記憶も強烈だろうし、その「優しさ」オーラを直接浴びるわけですから、より一層「ああ、いい人だなあ」と思って当然でしょう。また、着いてしばらくは周囲のことに気を廻す余裕もないでしょうし、第一周囲に何が起きているのか英語もろくすっぽわからなかったら理解もしにくいでしょう。だから、自分が直接体験したことだけが全てになってしまいがちで、その意味では、この区別はわかりにくくはなるでしょう。しかし、それでも原則的に大きな区別はあると思います。
留学やワーホリでこちらに来ると、生活は一般に苦しいです。ありていにいって普通ビンボーになります。なんせ手持の旅費を数日間で使えばいい観光旅行とは異なり、半年なり1年なりという百倍くらいの長い期間をサバイブしなければならないから、自ずと財布の紐も締まろうというものです。同じ日本民族がパックツアーで一泊350ドルの部屋に泊まっているその横で、同じ日本人ワーホリさんは一泊16ドルとかそのあたりのバックバッカーの大部屋に住んだり、週80ドルのラウンジシェアでしのいでたりするわけですね。同じ国民とは思えないくらい全然経済力が違います。所得格差数十倍。日本の企業で、ヒラ社員と社長の給料の差が精々10倍未満というから、その格差の凄さが分かると思います。
僕も学生時代ビンボーしてました(今もしてるけどさ)。それはもうバンドやったり司法試験やったり、金がかかったり、全精力を注ぎ込む必要がある物事があるから、どうしたってお金は乏しくなります。「あー、肉が食いてー」とか言ってたのを覚えていますな(^_^)。ビンボーしてると、やっぱりお金のありがたみがわかりますし、他人から示される好意がすごく嬉しくも思えます。
でもねー、あんまりビンボーばっかりやってると意地汚くなってくるのですよね。「こっちの方が安い」「こっちの方が得」とか、そればっか言うようになる。勿論、コストパフォーマンスに関する冷静な分析は必要だと思います。それはもうお金のあるなしに関わりなく、仮に資産1兆円持ってたとしても無駄遣いは無駄遣いであると思います。無駄遣いをするのが豊かさの証明であるとは僕は思わない。成金臭くてカッコ悪って思うだけです。また、適度な節制や節約は美徳でもあります。
そういえば、醤油とかソースを、”絶対無駄”というくらいドバドバ小皿にとってる人がいますけど、あれ、僕は勿体無いと思いますよね。ビンボー臭いのかもしれないけど、でもこういうのはビンボー臭いとは言わないだろうと思ってます。 本当にビンボー臭いのは、寿司屋にいって「醤油も料金のうちだ」とかいってドバドバ注いでたり、吉野屋で食べきれないほど生姜を掬ってるのがビンボー臭いのだと思います。僕が勿体無いと思うのは、自分の財産が無駄に費消されるのが惜しいというよりも、地球資源的に勿体無いと思うからです。ワサビなんかでもテンコ盛になってたりすると、「ああ。そんなに要らないのに、、」とか思ってしまいます。
適切な分量の判断というので思い出しちゃのですが、戦国時代の(後)北条氏康だっけな、息子がゴハンに汁を二度かけるを見てて、「ああ、北条家もワシの代で終わりだな」と言ったという有名なエピソードがあります。そのココロは、どれだけの量の汁が必要かどうかも見極められないようでは、いざ戦場になったときにどれだけの兵力を投入すればいいのかそういった見極めも出来ないだろうし、人の心も見積もれないだろうからです。ゴハンと戦場は違うという意見もあるでしょうけど、その人物が持っている精密な観察眼や自律心というのは、そういった日常的な些細なところで露呈するんだという意見もあるでしょう。僕は後者の方がうなづけるのですが。
余談ばかりで申し訳ないのですが、日本人は、現在の若い世代に至るまで、食べ物を粗末にしないです。そりゃ昔の世代に比べれば段々粗末にするようになってきてるのでしょうが、それでもオーストラリア人に比べれば粗末にしない。食べきれないほどよそって後で残してゴミ箱行きという行為をイケナイことだと思う。ソフトクリームを買って、途中で飽きたら、ポイとゴミ箱に捨てたりはしないでしょう?他人にゴハンをご馳走になって食べ残したら、「すみません、残しちゃいました」と言う人が多いです。食べ物を粗末にすることは悪いことだという道義観念が日本人の間にはあるように思います。自分でも気づかないのですが、これって世界的に見ても誇っていいことだと思います。逆にいえば、ホームステイにいったときに、そんなに無理して食べなくてもいいってことは、ちょっと知っておいてもいいかもしれません。
話が逸れました。ビンボーしてると意地汚くなりかねないという話でした。
健全な節約感覚、あるいは資源やモノを大事にする感覚、計画性のある消費生活、、、そういったまっとーな感覚以上に、ビンボーしてるとやたら安いかどうかに目を奪われがちだったりします。
そしてそれが嵩じると、ゴハンを奢ってくれる人は”いい人”で、割り勘になるといい人じゃないみたいな、自分にとっての目先の損得だけで世の中見るようになります。これってかなりヤバイです。あらゆる意味でマズイです。人間的・倫理的のみならず、経済的にも、社会的にも。
よく赤貧ワーホリさんの間で、教会や慈善事業の炊き出しなどに並ぶと無料のゴハンにありつけるとか言ってる人がいますが、みっともないです。あれは恵まれない人やホームレスの人のためにやってるわけで、こちらにいる日本人なんか仮に所持金がゼロであったとしても”恵まれた人”でしょ。なんだかんだ言って好きで海外に出てるのだから。好きではなく仕方なく来た人もいるだろうけど、少なくとも拉致、強制連行、難民でたどり着いたわけではなく、自由意思の介在する余地はあったわけだし、本国日本に帰れば幾らでも生計は立てられるわけでしょ。そういった恵まれた人が慈善事業をボランティアで手伝うならともかく、そのオコボレを漁るのは乞食以下かもしれない。まあ、それぞれに事情はあり、すごく食事が余ってしまって勿体無いから食べてくれって言われた場合もあるでしょうし、一概には言えないけど。なお、バックパッカーなどでお客が残していった食料を捨てるのが勿体無いから無料で他の滞在客に配ってたりするのは問題ないです。だって身分を偽ってるわけでもなんでもないし。
日本人のワーホリさんや留学生さんがいっくらビンボーだとしても、それは暫定的なビンボーであり、幻想的なビンボーです。本物のビンボーではない。だって、そんなに困ってるんなら日本に帰ればいいじゃん。日本に帰れば実家もあるだろうし、仕事もあるだろうし、文句言わなきゃよほどのことが無い限り餓死はしないです。だから、こっちでビンボーしてるのは好きでビンボーしてるだけの話。旅行に行って、調子に乗ってお金使いすぎて財布の中身が乏しくなったというのと何ら変わりないです。本当の貧困というのは、本人がありとあらゆる努力をしても尚もどうしようもない窮乏状態を言うのだ。だからこちらにいる日本人で、「お金がないから」というのは、他人から無償の好意を受けたり、それを「おねだり」するにあたって、何のエクスキューズにもならない。
「貧すれば鈍す」と言いますが、あんまりビンボーでありすぎると、人間としてのプライドを失う(虚栄心は失わないけど)。プライドを失った人間は醜悪でもあり、魅力はない。だから自分を高めてくれる人は去り、しょーもない似たもの同士が周囲に増え、人生のグレードは確実に下がる。他人を見たらタカれるかどうかと考え、卑屈な上目遣いで世間を見るゲスになる。もし、本当に貧困であるなら、痛ましいことではあるけど、ある種仕方ないことでもあるでしょう。ただ、いずれにせよ、ビンボーでもないくせに、ビンボーのフリをしてた方が得だからというセコい打算でビンボーしてて、その結果プライドを失い、ひいては自分の人生も失っていくのなら、このくらい愚かなことはないって思います。
なお、本当に貧困状態にある人の方が実はプライドを失ってないというケースも多々あります。「武士は食わねど高楊枝」というか「渇しても盗泉の水は飲まず」という人が結構いるし、そもそもプライドを貫いた結果世渡りが巧くいかなくなり、結果としてビンボーになってるケースも多いからです。
意地汚くなってると、社会的経済的にもヤバイよというのは、結局、ビジネスでも社会生活でもなんでもそうだけど、人間的魅力があるかどうかが大きな要素になるからです。もし、あなたにルパートマードックやケリーパッカーくらいの資産があるなら話は別ですが、つまり世界のメディア王レベルになって、総資産がいったい何十兆円あるのか、専門の会計士を1ダース以上雇って必死に計算させないとよくわからないというクラスの金持ちだったら、資本の力でなんとかなるでしょう。でも、多くの場合僕らにはそんなにお金がない。ある人でも数億円かそこらが関の山でしょう。その程度だったら一生レベルでモノ考える場合、あまりアテにはならない。
だとしたら他人と関わりあっていくなかで生計を立てていくしかないです。その場合、アプローチ方法は二つ。とにかく「やらずぼったくり」で、他人から収奪することをメインコンセプトに置く方法。もう一つはゼニカネ抜きの良好な人間関係を築き、それが社会生活やビジネスライフのショックアブソーバーになってくれるという方法です。つまり、損得抜きでヘルプしてくれる人が沢山いれば、困ってるときに「これ、少ないけど、使ってや」「いつもお世話になってるし、このくらいさせてよ」とヘルプしてくれたりするもんです。それって結構大きいですよ。特にあなたが起業するんだったら、この種のフレキシブルな弾力性というのは生命線とも言うべき重要性を持ちます。どうしても約束が守れないとき、「だったら契約解消じゃ」と言われるか、「へえ、珍しいこともあるもんだな、いいよ、いつもキッチリやってもらってるし、今回くらい待ちましょう」と言ってくれるかで、会社が潰れるかどうかが決まることも珍しくないからです。
圧倒的にオススメなのは後者です。だって前者は大変ですよ。そんなに他人から収奪しきれるものではないし、一回騙したりタカったりした相手からはそう長くつきあえないし、悪い噂も広がるから、常に新しい”畑”を開墾しなきゃいけないです。それは本当に”蓄積”というものがありえないから、ザルで水すくってるような効率性の悪さがあります。詐欺やりまくってそれで巨万の富を築き、幸福な余生を送ったなんてのは、よほどの天才でもないとありえないです。大体は塀の中で終わりです。それに、上には上がいるし、騙してるつもりで自分が騙されているなんてことも多いです。
一方、後者の方向、自分が人間的に魅力あるようになり、結果として周囲からのサポートを受けられるようになる方法は、しかし速効性も、確実性もありません。鶴の恩返しみたいなもので他人に親切にしたからといって必ずご褒美が返ってくる保証もないし、帰ってきたとしてもすっかり忘れた頃だったりします。だから、若い頃というのはこの因果関係がわかりにくいのでともすれば軽視するのですが、段々経験範囲が長くなり、ロングスパンでモノが見えるようになってくると、馬鹿にできないなという気分になり、さらに「結局、そこに集約されるんだよな」と分かってくるようになるでしょう。
そんなことはちょっと世の中にもまれてみれば誰でもわかることです。ただし、分からない人は分からない。例えば、ずっと自分が消費者だけの立場で、自分でお金を稼いだり、人と交わって何かを生み出すダイナミズムに触れていない人は、こういった社会のインタラクティブなサーキュレーションというものを実感しにくいでしょう。それでもカンのいい人は全然問題ないけど、カンの悪い人は分からない。自分の、例えば経済的立場だけをとっても、それを豊かにする方法は、「値切る」「バーゲンを探す」くらいの貧しい、ほとんど無いも同然というセコい選択肢しか見えない。値切ったり、バーゲンしたりするのも大事なのかもしれないけど、対費用効率で考えれば、能率悪いですよ。死ぬまで鵜の目鷹の目でバーゲン探し回り、値切りまくっても、SAVEするお金なんか知れてるもん。もっとドカンと豊かになるルートなんか沢山あります。「俺が持ってるより、あんたが使った方が金が生きるやろ」といって、ポンと一億円を出資してくれる人が一人いるだけで、そんなイジコイ努力100年分くらい軽く吹き飛んでしまう。そんなことがこの世にありうるのか?って、沢山ありますよ。疑問を持ってるヒマがあったら、他人からそう言われるくらいの人物になりなはれ。
日本が平等社会で一億総中流というのは、ある意味では大嘘で、本当はインドのカーストもびっくりというくらいカーストがあると思います。それを「階級」と呼ぶのは躊躇われるのだけど、「この程度の自分にこの程度の周囲」ということで、何十という水平のレベルがあるのだと思います。その差はもっぱら人間のレベルとでも言うべきものなのだけど、それぞれに属する世界があり、そういった水平世界が、輪切りのように何十とこの社会を覆っているのだと思います。
下の方の水平世界に生きているのと、上の方の世界で生きているのとでは、社会の見え方もまるで違うし、人やモノが動く法則性もかなり違うと思います。セコいタカりばかりやって人生を終わっていく奴もいれば、マザーテレサのような一生を過ごす人もいる。マザーテレサは単独では存在しえず、彼女がそこにいるということは、彼女が”同志””親友”と呼べるだけの人々もまた沢山いたのでしょう。それが彼女の所属している階層です。同じように暴力が強いというだけでも、信長のように大軍団を組織して天下を狙うレベルの連中もいれば、そのへんの農村を襲うくらいしか能がない野武士のような連中もいて、それぞれの法則性で動いています。
昔から「お里が知れる」とか「親の顔がみたい」とか言われるのは、この出身階層・帰属階層のことだと思います。なんだ今はエラそうにしてるけど、根はセコい奴だな、尊敬するに値しないな、dignity(尊厳)がないなと、モノが見える人からは仲間に入れてもらえない。
これは何もオトギ話的に、道徳の教科書みたいな話をしているわけではないです。メチャクチャ実戦的な話をしているのです。もし、あなたにこれがオトギ話とかキレイゴトに映ったとしたら、あなたの所属している階層世界はその程度なんだと知った方がいい。
この話を何の実証的根拠もないよう道徳的な絵空事だと思ってる人に、それらしき根拠を示すと、例えば心理学で言われているらしい対人関係の模倣性があるでしょう。人は、自分がこれまで他人から扱われたように、他人を扱うという心理傾向です。これまで他人から馬鹿にされたり、騙されたりいじめられたりしてきた人は、同じように他人を馬鹿にしたり、騙したりするようになる。力ある奴が力なき者を踏みじるような世界で生きてきたら、「そういうものか」と無意識にインストールされてしまい、自分も知らない間にそれを模倣するようになる。対人関係というのは、一種のパターンであり、パターンの連鎖の法則性であるから、ある特定の種類の法則性を知ってしまえば、どうしてもそれに引きずられることなる。
逆にいえば、あなたの職場に、やたら部下に無理難題を押し付けてエラそうにして、上にはペコペコしてるというマンガのような上司がいたとしたら、彼ないし彼女は、やはりそういう上司を過去に持ったのだろうなと思ったらいいでしょう。その人は、職場の人間関係というのは「そーゆーもんだ」と思ってるのでしょう。初対面の人間に横着な口のききかたをする奴がいたら、やはり横着な口をきく人々の間にいたのだろうな、と。人にツラク当たる人は、人からツラくあたられてきたのでしょう。
だからある階層から上の階層に上がろうと思ったら、これまでには無かった人間関係を修得する必要があります。例えば、巧いことをいって人を騙すような連中に囲まれてたら、上のレベルの人から無償の好意を受けても、にわかにはそれを信じられないし、結局うまくそれを受けることが出来なくなる。他人に無償の好意を施すように見えて、それは煎じ詰めれば虚栄心とか世間態という終局的には自己保身から発してるような世界で育てば、他人の好意もむやみに固持するだけになる。いわゆる「育ちがいい」と言われている人は、情操豊かな人々に囲まれて育ってるから、無償の好意も、そのへんは天真爛漫で「ありがとう」とにっこり笑って素直に受けられる。あまり過度に遠慮しない。
そういえば、「京のぶぶ漬け」というのがありますな。ぶぶ漬けというのはお茶漬けのことで、京都の人の家にいくと、盛んにひきとめて「ぶぶ漬け食うていきなはれ」としつこいくらいに勧められます(と言われている、実際に体験したことないけど)。でも絶対断るのが礼儀。勧められるまま食べたりすると、「あいつ、ぶぶ漬け食いよった」と一生言われるという(言ってるのを聞いたことはないけど)。京都の人の恐さ、”いけず”と呼ばれる底意地の悪さを示す伝説的なお話ですけど、でもね、もしそんなことやってる奴が今でもいたら、「お前ら、大したことないな」と傲慢にも思っちゃいますね。そんな底意地の悪い、世間体第一の無償の好意(だから無償じゃないんだよね)しか施せないような人間的レベルにしか居ないんだなって。だから京都の人はダメなんだよって。都があったっていったって、自分らで作ったわけでもないじゃん。都を作るのはいつも地方から出てきた実力者。入れ替わり立ち代りやってくる強者の前でかしこまって従って、古の王朝絵巻のオコボレにすがって、他の地方人にエラそにしてるだけじゃんって。なーにが、洛中の町衆の伝統だ、セコい人生パターンを千年なぞってどうする?とか思っちゃいますね。まあ、でも、これはイメージの世界の話で、現実の京都市民はまた全然別なんでしょうけど。
同じような話を、鴻上尚史氏(第三舞台の)が古い著書ですが「鴻上の知恵、完結編」(朝日新聞社)の序文で書いてます。この人、文章が上手だから、僕が書くより引用したほうがよいでしょう。同書5ページ以降。
「あなたが持ってるおみやげが面白くなればなるほど、自然とあなたの周りに、面白いおみやげをくれる人が出現します。これは信じていい。人間関係って、じつは、地層のように横の層があるの。見えないけどね。だから、あながたがひとつ水準の高いおみやげ話をもったら、知らないうちにもうひとつ上の地層の人間関係が出現するの。今まで、どうして気づかなかったもというくらい次の関係が出現するの。今までまったく見えなかったのにね。不思議だけど、本当なのよ。実験してみる?毎日、グチと不平だけを言いつづけてみて。そしたら、気がついたら周りはグチと不平を言う人だけになるから。類は友を呼ぶってのはこれなの。」
これは自分の体験を踏まえても真理だと思います。
だからどこに所属するかということが大事だったりするわけです。だからこそ、親は子供に勉強しろとか、いい学校に入れとか、出世しろとかいうわけです。その本当の理由は、世俗的な成功とか虚栄心ではなく、それなりのレベルのところには、それなりの人がいるからです。ただし、「勉強しろ」とハッパをかける人間自身が、そういうことを実体験としてわかっているかわかっていないかという問題はあります。何にも分かってないのに、「子供が名門校に入ると親はいい気分だから」で終わってる、そんなレベルの人間に言われたって何の説得力もないでしょう。それに、この種のレベルというのは、別に世間的に認知されたいわゆる「いい学校」とかいうカテゴリーとは全然違うカテゴリーですので、一概には言えません。名門校だって、くだらない奴は掃いて捨てるほど居る。ただし、本当にレベルの高い奴も居ます。虚栄心と自己顕示欲で必死に他人を蹴落として入ってみたら、そんなことくらい鼻歌まじりにクリアできるバケモノみたいな奴らがゴロゴロいて、さらにその中には自分の能力をいかに他人のために役立てたらいいのか、それを真剣に模索してる天使のような奴もいる。でもって、「あかん、もう、人間のレベルが違うわ」という奴に出会って、ガビーンと打ちのめされるのはいい経験です。「勉強しろ」ということの最終的な意味は、このガビーンとなれるかどうかにかかってると言ってもいいかもしれません。
僕ごときはまだまだ凡俗のレベルだから、日常些細なことでヒーヒーいって見苦しく悩んでたりしますが、これが上のレベルにいけばいくほど楽しいんだろうなあってのは分かります。レベルの上の人、つまりは人間的美徳をより多く持っている人達の世界は、なにやらお釈迦様の浄土世界みたいですけど、いちいち他人を疑うとかいうサモシイことをしないでもいいし、困ってるときは当然のように周囲が助けてくれるし、夢のような高尚なことを言っても誰も笑わないし、それを実現できるだけの知力腕力もあったりするのでしょう。楽なんでしょうねえ、気持いいんでしょうねえ、天国みたいですね。
でも、ほんと、上の世界にいけばいくほど、深く、楽しく、楽になるってのは事実だと思いますよ。他人を見たら泥棒と思えとばかりに人を疑い、自信が持てなくていつも誰かに馬鹿にされてるんじゃないかと疑心暗鬼になって、肩をそびやかして、エラそうに振舞わなければならないのは疲れるでしょう。他人を見たらホトケ様のように見えて、与謝野晶子の歌のように「今宵あふ人みな美しき」とばかりに、道行く人が皆美しく愛らしく見えたら楽でしょう。
そんな世間知らずの甘ちゃんだったらボロボロにカモられて終わりじゃないかって思う人もいるでしょうが、レベルの上の人は下の人から絶対にやられないの。なぜって、下の人のセコイ策謀くらいお見通しに見えちゃうし、ダメージを食らっても知れてるから。例えば嘘をついてお金を騙し取ってやったと思っても、上のレベルの人は、全部見透かしていて、「そこまでやらないとならないほど金が欲しいんだったらあげるわ」で可哀想だから騙されたフリをしてたり、あるいは騙されたとあとでわかったしても「騙されてあげてよかった」とか思っちゃうんだわ。そう思っていられる人間のダメージは知れてるけど、他人からそう思われてしまった人間のダメージというのは実は一生消えないトラウマになって骨身に染みるぞ。
レベルが上というのは、単に無邪気で何も知らないから天使のようにいられるのではなく、汚いことも醜いこともイヤというほど知っていながら、それでもなお希望の力の方が強いし、希望を実現できる「力」が強いから上にいられるわけです。それが力量の差というものであり、それがレベルというものでしょう。汚い世界を多少知ってるからといって、それで世間がわかってると思っているレベルの低い人の方が、実は「世間知らず」だったりする場合が多いです。自分よりも低いレベルの世界なんか、誰だってすぐに理解できます。しかし、自分よりも上の世界のことはなかなか想像もできない。
話をもとに戻します。
「貧すれば鈍す」というのは、ビンボーになることによってプライドが崩れ、こういった人間レベルが下に落ちていっちゃうことを意味するのだと思います。ビンボーは悪いことでも恥ずかしいことでもないです。ただ、人間のレベルを上げるためにこちらに来た(そういう明確な意識はないだろうけど、下げに来る人は少ないでしょう)筈なのに、擬似的なビンボーをやってるうちに、貧すれば鈍すで人間レベルが下がっちゃったら、なんのこっちゃという気がします。まあ、多くの場合は、「下がった」というよりは、もともと低い人間性がわかりやすく露呈したというケースの方が多いのかもしれませんけど。
また、だからといって他人の好意をやたら固辞する必要もないです。素直に感謝して受け取っておけばいいでしょう。他人の無償の好意を受けるのは、問答無用で生理的に気持いいです。汚れた血が綺麗になるような気がします。身体全体で浴びたらよろし。ただ、「しめしめ」とかココロのどっかで思ったら、自分で「これ、はしたない」と叱ってやったらいいのでしょう。
それに、なんでもかんでもお返しをせねばと身構える必要もないでしょう。なんせ「無償」なんだから、お返しなんか期待されてないです。ただ、その人相手ではなく、 社会のほかの人に返したらいいです。そうやって無償の好意が、白血球や赤血球のように社会に血管にどれくらい循環しているか、それがその社会の「居心地の良さ」だと思います。もし、日本が前に比べて居心地悪くなったり、不愉快になったとしたら、こういった要素の数が減ったり、低い階層により多くの人が住むようになったのかもしれません。
オーストラリアのスラングで、他人にモノを貸すときに、「これあげたんじゃなくて貸すんだからね、あとで返してね」という意味で、「ブーメラン」というといいます。"It's a boomerang"って。あなたが投げかけた無償の好意は、クルクルと廻りながら、いつかまた戻ってくるでしょう。戻ってくるのを期待して投げろと言ってるのではなく、そんなセコい期待はせんでいいけど、事実、現象としてそうだと言ってるのです。もし、「戻ってこないぞ」という人がいたら、あなたはブーメランが戻ってこない階層にいるのでしょう。
こんなことは僕が力説せんでも誰でも知ってることだと思います。そうえいばアメリカの映画でも”PAY IT FORWARD”という似たようなコンセプトの映画があります。日本だろが、アメリカだろうが、人間が考えることは同じなんでしょうね。いい映画なんで、まだ見てない人はどうぞ。
人生全てを損得で計れるものではないけど、仮に損得という要素でみていくとすれば、いかに得をするかを考えてるくらいだったら、いかに損をするかの方がずっと大事だと思います。いかに、カッコ良く、意味のある損をしていくか。これは難しいですよ。得はその場限りのものだけど、損は一生モノの財産になりうる場合が多いですからね。上手に、スマートに損が出来るようになってきたら、あなたの階層はまた上がると思いますよ。
文責:田村
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